第6話 放課後の廊下で
月曜日の昼休み、私立桜華学園高等部の中庭には、九月半ばを過ぎてもまだ夏の名残が残っていた。
校舎に囲まれた石畳へ薄い日差しが落ち、植え込みの木々からは蝉ではなく秋の虫の声が聞こえ始めている。窓を開けた教室から生徒たちの話し声が流れ、購買へ向かう集団が渡り廊下を行き交う中、二年生の教室では水瀬凛花が机の上に弁当箱を広げていた。
「それで?」
正面の席を借りて座っている橘千尋が、卵焼きを箸でつまみながら尋ねた。
「何が?」
「朝から三回くらい考え込んでるけど」
「数えてたの?」
「一回目は一時間目の前。二回目は三時間目の休み時間。三回目が今」
「暇なの?」
「親友の様子がおかしかったら気になるでしょう」
「別におかしくないわ」
「じゃあ、今考えてたこと言ってみて」
「どうして?」
「言えないこと?」
凛花は返事をせず、弁当のほうれん草のおひたしへ箸を伸ばした。
千尋とは一年以上の付き合いになる。高校から桜華へ入った凛花に最初に気さくに話しかけ、そのまま現在まで隣にいる友人であり、学校内ではほとんど誰にも知られていない凛花の一面を知る数少ない人間でもあった。
つまり、水瀬凛花が妹の水瀬彩花を異常なほど可愛がっていることも知っている。
「彩花ちゃん?」
凛花の箸が止まった。
「……どうしてそうなるの」
「当たりなんだ」
「質問に答えて」
「水瀬凛花が授業以外で深刻そうに考え込む理由なんて、剣道か彩花ちゃんくらいしか思いつかないから」
「失礼ね。ほかにもあるわよ」
「例えば?」
「進路とか」
「今日?」
「今日考えていてもおかしくないでしょう」
「じゃあ進路のことだった?」
「…………」
千尋が笑った。
「彩花ちゃんね」
「うるさい」
「何かあった?」
からかう調子が少し薄くなった。
凛花はすぐには答えなかった。昼休みの教室には二十人ほどが残っており、少し離れた席では女子生徒たちが文化祭の写真を見ながら笑っている。窓際では男子二人がスマートフォンの画面を覗き込み、廊下からは別のクラスの生徒を呼ぶ声が聞こえてきた。
誰かに聞かれて困るような話ではない。
それでも、妹のことを不用意に他人へ話すのは好きではなかった。
凛花は声を少し落とした。
「最近、図書館でよく会う男の子がいるらしいの」
「彩花ちゃんに?」
「ええ」
「へえ」
千尋の目が少し輝いた。
「どんな子?」
「九条君」
「九条?」
予想以上に早く反応が返ってきた。
「一年の九条悠真?」
「そう」
「……またすごいところ来たね」
「そういう言い方しないで」
「いや、だって九条家でしょう?」
「家は関係ないわ」
凛花の返答は即座だった。
千尋が少しだけ眉を上げる。
「そこじゃないんだ」
「何が?」
「てっきり、御曹司だから警戒してるのかと思った」
「そんな理由で人を判断しないわよ」
凛花は水筒へ手を伸ばし、冷たいお茶を一口飲んだ。
「九条家だろうが何だろうが、彩花に変なことをするなら同じよ」
「なるほど」
「何、その顔」
「いつもの凛花だなって」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
千尋は笑いながら弁当へ戻った。
「で、九条君は彩花ちゃんに変なことしたの?」
「してない」
「じゃあ何を警戒してるの」
「…………」
「何もしてないのに?」
「四週連続で図書館で会ってる」
「それだけ?」
「雨の日に同じ傘でコンビニまで歩いた」
「おお」
「その反応やめて」
「いや、女子高生として正常な反応だと思うけど」
「彩花は何とも思ってないわ」
「本人に聞いた?」
「聞くまでもない」
「姉の勘?」
「見れば分かる」
彩花は隠し事が上手ではない。
恋愛に限らず、嬉しいときは声が少し弾むし、困れば眉尻が下がる。何かを気にしていれば、食事中でもふと考え込むことがある。
九条悠真の話をするときの彩花に、そうした特別な揺れはまだない。
親切だった。
本の話が楽しかった。
傘へ入れてもらって助かった。
クッキーを喜んでもらえた。
それをそのまま話しているだけだ。
「じゃあ九条君のほう?」
千尋が言った。
「それが分からないから気になるの」
「本人に聞けば?」
「どうやって」
「『あなた、私の妹のこと好き?』」
「聞けるわけないでしょう」
「凛花なら聞きそうだけど」
「私を何だと思ってるの」
「重度のシスコン」
「…………」
「否定しないんだ」
「その言葉が嫌いなだけよ」
「中身は?」
「千尋」
「はいはい」
千尋は楽しそうに笑った。
凛花はため息をつき、残っていた卵焼きを口へ運ぶ。
本当は、九条悠真について悪い印象ばかり持っているわけではない。
むしろ学校内で聞く評判はいい。
一年生ながら生徒会役員として仕事が早く、教師からの信頼も厚い。内部進学生にありがちな選民意識も薄く、外部入学者への態度が変わったという話も聞いたことがない。
そして何より、昨日彩花から聞いた言葉が残っている。
『趣味でも、好きで続けて人に渡せるもの作れるなら、得意って言っていいんじゃないかって』
凛花の存在を知った直後だったという。
そこで「お姉さんはすごいね」と話を終わらせなかった。
彩花自身へ目を向けた。
それは凛花にとって、かなり大きかった。
「悪い人ではないと思う」
ぽつりと口にすると、千尋が目を丸くした。
「凛花が?」
「何よ」
「妹に近づく男を褒めた」
「褒めてない。客観的な評価」
「同じようなものでしょ」
「違うわ」
「どこが?」
「全部」
凛花は弁当箱の蓋を閉めた。
「ただ、彩花を誰かと比べるような人ではなさそう。それだけ」
千尋はしばらく凛花を見ていたが、今度はからかわなかった。
「それなら、ちょっと安心?」
「まだ分からない」
「厳しいなあ」
「当たり前でしょう」
「でも、会ったことはあるんだよね。同じ学校なんだから」
「見かけたことはあるわ。直接話したのは……」
凛花は記憶を探った。
校内行事の準備で、生徒会へ提出物を持っていったときに一度か二度、事務的な言葉を交わした程度だ。
お互いの顔と名前は知っているだろう。
ただし、九条悠真が「水瀬凛花=水瀬彩花の姉」と知ったのは、昨日が初めてのはずだ。
「ほとんどないわね」
「じゃあ今度話してみれば?」
「何を」
「普通に」
「普通って何」
「先輩と後輩として?」
「用事もないのに話しかけたら不自然でしょう」
「妹のこと聞きたいくせに」
「…………」
千尋が笑う。
「顔に出てるよ」
「出してない」
「私には分かる」
凛花は否定しかけ、やめた。
千尋にはどうせ通じない。
それより午後の授業が始まるまでに、剣道部の顧問へ提出する遠征関係の書類を確認しておきたかった。
弁当箱を片づけながら、凛花は話を切る。
「別に、わざわざ話しかけるつもりはないわ」
「そう?」
「ええ。学校で接点もないもの」
その時点では、本当にそう思っていた。
同じ日の放課後。
桜華学園の生徒会室では、文化系部活動の予算申請に関する確認作業が続いていた。
窓の外では西日が校舎の壁を橙色に染め、グラウンドから運動部の掛け声が届いている。冷房はまだ動いていたものの、日が傾くにつれて室内の空気も少しずつ穏やかになっていた。
「九条君、この三枚お願いできる?」
「分かりました」
二年生の生徒会役員から渡された書類を、悠真は受け取った。
申請金額。
前年度実績。
添付されている見積書。
順に確認する。
途中、一枚だけ数字が合わない。
「先輩」
「何?」
「写真部の申請なんですが、見積書と申請額が千八百円違います」
「本当?」
「備品の送料が申請書側に入っていないみたいです。確認してから処理した方がいいと思います」
「あ、ほんとだ。ありがとう。危なかった」
先輩が書類を受け取り、付箋を貼る。
「九条君、本当に細かいところ見つけるね」
「たまたまです」
「毎回たまたまなら、それは能力って言うの」
周囲の生徒が小さく笑った。
悠真は返答に困り、次の書類へ手を伸ばす。
学校にいる間は、やるべきことがはっきりしている。
期限を確認し、必要な情報を揃え、間違いがあれば修正する。
図書館で彩花と話しているときとは違う種類の時間だった。
「九条」
隣の机でパソコンを操作していた湊が呼ぶ。
「何だ?」
「これ、部長印ないけど戻していいよな?」
「提出期限が今日だから、先に顧問印があるか確認した方がいい。部長がまだ学校にいるなら今日中に押してもらえる」
「了解」
湊が書類を持って立ち上がる。
生徒会役員ではない彼がここにいるのは、所属委員会の提出物を届けに来たついでに、作業量を見て手伝わされているからだった。
「俺、何で働いてるんだろうな」
「自分から『手伝うことある?』って聞いたからだろ」
「社交辞令って知ってる?」
「ここで言う言葉じゃないな」
「九条、学校だと本当に容赦ないよな」
「仕事だから」
「日曜とは別人だ」
悠真の視線がゆっくり湊へ向いた。
湊は何事もなかったように書類を持ち上げた。
「行ってきます」
「余計なことを言うな」
「何のこと?」
笑いながら生徒会室を出ていく。
近くの先輩が二人のやり取りを聞いていたらしく、少し笑った。
「榊原君と仲いいね」
「長いので」
「九条君があんな言い方するの、榊原君くらいじゃない?」
「そうかもしれません」
悠真は再び書類へ視線を落とした。
日曜日のことを学校で話すつもりはない。
隠したいわけではなく、わざわざ話す必要がないからだ。
昨日もらったクッキーについても同じだった。
四枚すべて食べた。
美味しかった。
それで十分だ。
ただ、昨日の会話の中で一つ、新しく知ったことがある。
水瀬凛花。
彩花の姉。
悠真も名前は以前から知っていた。
高校から入学した外部生でありながら、一年目から学年上位を維持し、剣道部でも結果を残している。学校内では目立つ存在で、悠真も行事の際に何度か見かけていた。
姉妹だと聞いたときは驚いた。
それ以上に印象へ残ったのは、姉について話す彩花の表情だった。
尊敬している。
好きなのだろう。
けれど、自分の話になった瞬間だけ声が少し弱くなった。
そこへ勝手に理由をつけるつもりはない。
次に会ったとき、本人が話したければ聞けばいい。
そう考えたところで、生徒会室の扉が開いた。
「失礼します」
聞き覚えのある女性の声だった。
悠真が顔を上げる。
扉のところに、水瀬凛花が立っていた。
凛花は剣道部の制服姿ではなく、桜華学園の制服をきちんと着ていた。
手には透明なファイルを持っている。
生徒会室へ入ると、室内にいた二年生の役員が彼女へ気づいた。
「あ、水瀬さん。剣道部の?」
「はい。顧問から、遠征届の修正版をこちらへ提出するように言われました」
「ありがとう。ちょっと待ってね」
先輩が席を立つ。
凛花はファイルを差し出しながら、ほんの一瞬だけ室内へ視線を巡らせた。
いた。
窓側の机。
九条悠真。
白いシャツの袖を肘の少し下まで整えて折り、書類の束を前にしている。
図書館で彩花と話している姿を見たことはない。
だから、これが凛花にとって初めて意識して見る「妹と四週連続で会っている九条悠真」だった。
(普通ね)
最初に浮かんだ感想は、それだった。
もちろん容姿は整っている。
姿勢もいい。
周囲の生徒から自然に頼られていることも、数秒見れば分かる。
けれど、御曹司という言葉から想像されるような気取った様子はなかった。
書類を確認し、先輩から聞かれれば答え、後輩が何かを落とせば足元から拾って渡す。
学校で聞いていた評判通りだった。
「水瀬さん、ここだけ確認いい?」
「はい」
生徒会役員から呼ばれ、凛花はそちらへ意識を戻した。
「遠征先の体育館、使用時間が申請書だと十八時までで、添付資料は十七時半までになってるんだけど」
「あ……すみません。体育館側の予定が変更になったので、十七時半が正しいです」
「じゃあこっち訂正お願いしてもいい?」
「もちろんです」
ペンを借りる。
訂正箇所を書き直していると、少し離れた場所から椅子を引く音がした。
「先輩、その資料ならこちらにも変更通知が来ています」
悠真だった。
棚から一枚の書類を取り出し、生徒会役員へ渡す。
「先週、体育館側から変更連絡が来ていました。遠征届だけ修正前の時間が残ったんだと思います」
「あ、本当だ。じゃあこれ添付しておけば大丈夫か」
「はい。顧問の先生の確認印もあります」
「ありがとう」
凛花はペンを置いた。
「助かりました」
形式的な礼だった。
悠真がこちらを見る。
「いえ」
一度そこで会話が終わりかけた。
しかし悠真の表情が僅かに変わった。
昨日聞いた名前と、目の前の人物が完全につながったのだろう。
「……水瀬先輩」
「はい?」
凛花は振り返る。
悠真は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。
「失礼ですが、水瀬彩花さんのお姉さんですか?」
室内の空気が変わった。
ほんの少しだけ。
大げさなざわめきが起きたわけではない。
ただ、近くにいた二年生の女子役員が書類から顔を上げた。
別の男子生徒も、何気なく二人を見る。
凛花はその視線を感じながら、悠真を見た。
「そうです」
「やっぱり」
悠真が小さく頷く。
「昨日、水瀬さんから聞きました」
「……昨日?」
凛花の声が僅かに低くなった。
悠真が気づいたかどうかは分からない。
「図書館で」
「そう」
「はい」
「昨日も会ったのね」
「はい」
そこで凛花は思い出した。
クッキーを渡した日だ。
知っている。
彩花から聞いた。
だから驚く必要はない。
それでも、本人の口から「昨日、水瀬さんから」と聞くと妙に具体性が増した。
「彩花から、九条君のことは聞いています」
「俺のことを?」
「少しだけ」
悠真の表情に、ほんの僅かな緊張が走った。
凛花は見逃さなかった。
(……やっぱり)
学校で教師や上級生を相手にしているときの九条悠真なら、妹の姉から「話を聞いている」と言われた程度で表情を変えるとは思えない。
ほんの少し。
本当に少しだけだ。
けれど彩花が「たまに止まる」と言っていた意味が、初めて分かった気がした。
「どんなことを?」
悠真が尋ねる。
「本の話をするって」
「……はい」
「雨の日に傘へ入れてもらったことも」
「…………はい」
今度は分かりやすかった。
耳が僅かに赤くなった。
凛花の目が細くなる。
近くで聞いていた女子役員が、そっと視線を逸らした。聞いてはいけない話だと思ったらしいが、耳だけはこちらを向いているように見える。
「それと」
凛花は続けかけた。
クッキー。
昨日の手作りクッキーを、ずっと手に持っていたらしい。
そこまで言おうとして、やめた。
彩花が渡したものだ。
姉がわざわざ学校で持ち出すことではない。
「……いえ。それだけです」
「そうですか」
悠真が少しだけ安堵したように見えた。
その反応を見て、凛花の中で警戒と妙な納得が同時に生まれる。
(何かあるわね)
少なくとも、彩花をその他大勢とまったく同じように見ているわけではなさそうだ。
それがどの程度の感情なのかまでは分からない。
今ここで問い詰める気もなかった。
彩花自身がまだ何とも思っていない以上、姉が先回りして話を大きくする方がよほど迷惑だ。
「九条君」
「はい」
「先週はありがとう」
悠真が目を瞬いた。
「傘。彩花、助かったって言ってたから」
「ああ……」
悠真はすぐに姿勢を正した。
「いえ。コンビニまでですし」
「それでも、あの子は放っておいたら本を守って自分が濡れるから」
思わず出た言葉だった。
悠真が少し笑う。
「それ、本人も似たようなことを言ってました」
「でしょうね」
「本は一度濡れたら戻らないから、自分は家で乾けばいいって」
「……本当に言ったの?」
「はい」
「馬鹿なのかしら、あの子」
凛花は額へ手を当てた。
想像できすぎる。
悠真は笑いを堪えるように口元を少し緩めた。
「笑った?」
「すみません」
「別にいいけど」
凛花も小さく息を吐く。
「彩花らしいから」
その言葉を口にしたときだけ、凛花の表情から警戒が薄れた。
悠真はそれに気づいた。
昨日、彩花が姉について話していたときの顔。
今、凛花が妹について話したときの顔。
よく似ているわけではない。
彩花の方が表情は柔らかく、凛花の方が感情を外へ出さない。
それでも、お互いを大切にしていることだけは分かった。
「仲がいいんですね」
悠真が言う。
「普通よ」
凛花は即答した。
内心では違った。
(当たり前でしょう。彩花なんだから)
口には出さない。
「水瀬さんも、お姉さんのことをよく話します」
「……どんなふうに?」
「すごいって」
凛花の表情が僅かに固くなった。
悠真は続けるべきか迷った。
昨日の彩花の声を思い出す。
『お姉ちゃん何でもできるから』
そこにあった小さな陰り。
本人が話していないことを、姉へ勝手に伝えるのは違う。
「尊敬しているんだと思います」
だから、それだけにした。
凛花は悠真を見た。
「……そう」
短い返事だった。
しかし、その声には先ほどまでと違うものが混じった。
「彩花は昔から、そういう子だから」
妹が自分を好きでいてくれることは知っている。
尊敬してくれていることも。
だからこそ、その気持ちの隣に別のものがあることも知っていた。
自分と比べられ続けてきた彩花が、何度「お姉ちゃんはすごい」と笑ったか。
そのたびに凛花は、どう返せば正解なのか分からなかった。
「水瀬先輩?」
「何でもない」
凛花は視線を落とし、修正した遠征届を整えた。
「提出はこれで大丈夫ですか?」
「あ、はい」
先ほどの役員が慌てて受け取る。
「こっちで処理しておくね」
「お願いします」
凛花は頭を下げ、踵を返そうとした。
「水瀬先輩」
また悠真に呼ばれる。
「何?」
「一つだけ」
悠真は言葉を選んだ。
余計なことかもしれない。
それでも、昨日の会話について何も言わないのも不自然な気がした。
「昨日、水瀬さんがクッキーをくれました」
凛花の目が僅かに細くなる。
「知ってる」
「……知ってるんですね」
「家で作ってたから」
「そうですか」
悠真は少し困ったように笑った。
「美味しかったです」
「…………」
「もし覚えていたら、そう伝えてください」
「自分で言えば?」
悠真が黙った。
凛花はその反応を見る。
「また図書館で会うんでしょう?」
「……会えたら」
「毎週行ってるんじゃないの?」
「…………」
「違う?」
「行っています」
正直だった。
凛花は少しだけ驚いた。
ここで「たまたまです」と誤魔化すこともできたはずだ。
「そう」
「でも、約束はしていません」
「連絡先も知らないって聞いた」
「はい」
「それで四週連続?」
「……五週です」
凛花が止まった。
「五週?」
「昨日で」
「…………」
知らなかった。
いや、昨日も会ったのだから数えれば分かる。
最初の週。
名前を知った週。
感想を話した週。
雨の週。
クッキーの週。
五週。
(増えてる)
当たり前なのに、数字にされると妙な圧がある。
「水瀬先輩?」
「何でもない」
「顔が」
「何?」
「……いえ」
「言いなさい」
「少し怖いです」
「そう」
凛花は否定しなかった。
近くの女子役員が俯いたまま肩を震わせた。
「何か?」
「い、いえ!」
慌てて書類へ顔を戻す。
凛花はもう一度悠真へ視線を戻した。
「九条君」
「はい」
「彩花は、たぶん何も考えてないわよ」
「…………」
悠真の表情が止まる。
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味」
「俺も、別に」
「別に?」
「…………」
言葉が続かない。
凛花は黙って待った。
悠真は数秒考えた末、無理に答えを作らなかった。
「俺も、まだ分かりません」
その返答は、凛花が予想していたものとは違った。
「分からない?」
「はい」
「何が?」
「……自分が、どう思っているのか」
生徒会室の中で、書類をめくる音がやけに大きく聞こえた。
悠真は周囲へ聞かせるつもりなどないらしく、声を落としている。
凛花も自然に声量を抑えた。
「それを私に言っていいの?」
「聞かれたので」
「正直ね」
「嘘をつく理由もないので」
「そう」
凛花は腕を組まなかった。
睨みもしなかった。
ただ、目の前の一年生を見た。
妹を好きだと言われれば警戒しただろう。
何とも思っていないと言われても、たぶん信じなかった。
まだ分からない。
その答えは中途半端だ。
けれど今の二人には、妙に合っている気もした。
「なら」
凛花はゆっくり言葉を選ぶ。
「分からないうちは、勝手に決めつけないであげて」
悠真が真剣な顔になる。
「彩花の気持ちも、自分の気持ちも」
「……はい」
「あと、あの子は押されると断れないときがあるから」
そこまで言ってから、凛花は少し迷った。
彩花の弱い部分を、まだよく知らない相手へ教えることになる。
けれど、これは知っておいてほしかった。
「何かするときは、ちゃんと本人に聞いて」
悠真はすぐに答えなかった。
先週の雨の日を思い出した。
家まで送るのではなく、コンビニまで傘へ入るかと尋ねた。
あのとき、無意識ではあったが、自分なりに彩花が選べる形を作った。
「分かりました」
今度ははっきり答える。
「約束します」
「……そこまで重く言わなくていいわよ」
「でも、大事なことだと思うので」
「そう」
凛花はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
この男は真面目すぎる。
彩花が「ちょっと変わっている」と言った理由が、少し分かってきた。
「じゃあ、私は部活に戻るから」
「はい」
「書類、ありがとうございました」
「いえ」
凛花は今度こそ扉へ向かった。
ノブへ手をかけたところで、ふと思い出す。
振り返る。
「九条君」
「はい?」
「クッキー」
「……はい」
「美味しかったなら、自分で言いなさい」
悠真が目を瞬いた。
「次に会えたら」
「はい」
「彩花、そういうの言われると喜ぶから」
それだけ告げ、凛花は生徒会室を出た。
扉が閉まった。
数秒。
生徒会室は不自然なくらい静かだった。
「…………」
悠真は自分の席へ戻ろうとした。
「九条君」
二年生の女子役員から声がかかる。
「はい」
「今の……」
「仕事を続けましょう」
「まだ何も聞いてないよ?」
「もうすぐ五時です」
「そうだけど」
別の男子役員が笑いを堪えている。
「水瀬さんの妹さんと知り合いなんだ?」
「図書館で何度か会っただけです」
「五週って聞こえたけど」
「…………」
「毎週じゃん」
「たまたまです」
言ってから、悠真は自分で違和感を覚えた。
毎週ほぼ同じ時間に行っている。
もう全部を偶然で片づけるのは無理がある。
「……最初は、たまたまでした」
訂正する。
先輩たちの表情が変わった。
「最初は?」
「そこ拾わなくていいです」
「九条君がこんな話するの珍しいね」
「話したくてしているわけではありません」
「ごめん、ごめん」
女子役員は笑いながら書類へ戻った。
そのとき扉が開き、湊が帰ってくる。
「戻った。部長印もらえた――って、何?」
室内の空気を察したらしい。
「九条、何かあった?」
「何もない」
「その返事、絶対あるやつだろ」
「榊原君」
二年生の女子役員が呼ぶ。
「はい?」
「九条君、図書館で女の子と毎週会ってるんだって」
「…………」
湊が悠真を見る。
悠真も湊を見る。
「知ってた?」
「いや、俺は何も」
「湊」
「何も言ってないだろ」
確かにまだ何も言っていない。
だが顔が完全に知っている人間のものだった。
「へえ」
先輩の声が楽しそうになる。
「榊原君は知ってるんだ」
「まあ、少しだけ」
「湊」
「九条、もう無理だって」
「何がだ」
「諦めろ」
「だから何を」
室内に小さな笑いが広がった。
悠真は額へ手を当てたくなったが、どうにか堪えた。
彩花本人がこの場にいない以上、これ以上話を広げるつもりはない。
「先輩」
「はい?」
「写真部の書類、確認が終わっていません」
「あ」
「五時までに終わらせるんですよね?」
「……はい」
女子役員が大人しく書類へ戻る。
「湊も」
「俺も?」
「部長印をもらったなら出せ」
「はいはい」
ようやく仕事が再開した。
窓の外では、グラウンドから部活動終了を知らせる笛の音が聞こえてきた。
一方、凛花は剣道場へ向かう渡り廊下を歩いていた。
夕方の風が開いた窓から入り、火照る前の肌へ触れる。
「凛花」
後ろから追いついてきた千尋が隣へ並んだ。
「書類終わった?」
「ええ」
「じゃあ行こう。先生もう来てるって」
「分かった」
二人で歩く。
数十秒ほどして、千尋が横目で凛花を見る。
「何?」
「何かあった?」
「どうして?」
「生徒会室から出てきてから、ずっと難しい顔してる」
「またそれ?」
「今度は本当に分かりやすいよ」
凛花は前を見る。
剣道場まではまだ少し距離がある。
「九条君と話した」
「えっ」
「声」
「あ、ごめん」
千尋が慌てて声を落とした。
「いたの?」
「生徒会室なんだから、いてもおかしくないでしょう」
「何話したの?」
「彩花のこと」
「凛花から?」
「向こうから、私が彩花の姉か聞かれた」
「へえ」
千尋の顔に興味が浮かぶ。
「それで?」
「昨日、彩花から聞いたらしいわ」
「昨日も会ったんだ」
「五週目だったみたい」
「毎週じゃん」
「そうなのよ」
凛花の声が少し低くなる。
千尋は笑いかけたが、凛花の表情を見てやめた。
「九条君、彩花ちゃんのこと好きなの?」
「分からないって」
「本人が?」
「ええ」
「正直だね」
「私もそう思った」
千尋は少し考える。
「凛花はどう思った?」
「何が?」
「九条君」
「……まだ分からない」
「同じ答えじゃん」
「うるさい」
凛花は小さく息を吐いた。
「でも、少なくとも話は通じる」
「評価高いね」
「どこが」
「凛花の『話は通じる』は結構高いよ」
「普通よ」
「そういうことにしておく」
剣道場が近づく。
中から竹刀が打ち合う乾いた音が聞こえ始めた。
凛花は足を止めずに言う。
「彩花が押されると断れないときがあるから、何かするときは本人に聞いてって言った」
「うん」
「約束しますって」
「真面目だね」
「真面目すぎるくらい」
「悪くない?」
「だから、まだ分からないって」
「はいはい」
千尋が笑う。
凛花は眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。
警戒はしている。
妹へ近づく男なのだから当然だ。
ただ、昼休みまで抱いていた「よく分からない九条家の御曹司」という輪郭は、少しだけ変わった。
少なくとも、彩花について話すときに軽い態度は取らなかった。
姉である自分へ取り入ろうともしなかった。
自分の気持ちが分からないことを、分からないまま認めた。
そして、彩花本人へ確認してほしいという言葉を真面目に受け取った。
(……今のところは)
それ以上の評価はしない。
凛花は剣道場の扉を開けた。
同じ頃。
県立青葉高校では、彩花が文芸部室の窓を閉めていた。
夕方になり、少し風が強くなっている。
「水瀬さん、そっち閉めた?」
「はい」
「ありがとう」
三年生の先輩が机の上の原稿を集める。
今日は部誌に載せる短編の読み合わせをしていた。
彩花の前にも赤ペンの入った原稿が一部残っている。
「水瀬さん、ここの感想もう一回聞いていい?」
「ここですか?」
「うん。主人公が急に告白するところ」
「ああ……」
彩花は原稿を受け取った。
恋愛ものだ。
幼馴染だった男女が、物語の中盤で突然気持ちを伝え合う。
文章自体は読みやすい。
けれど。
「ちょっと早い気がしました」
「やっぱり?」
「それまで主人公が相手のことを好きっていう描写があんまりなかったので、ここで急に『ずっと好きだった』って言われると、読んでる方が置いていかれるというか」
「なるほど」
「もう少し前に、本人も気づいてないけど相手を気にしてる場面とか、ほかの人とは違う反応するとか……そういうのがあったら、ここで告白しても納得できると思います」
先輩が頷きながらメモを取る。
「水瀬さん、恋愛もの詳しいね」
「え?」
「分析細かい」
「本で読むだけですよ」
「自分では?」
「何がですか?」
「恋愛」
「ないです」
あまりにも即答だったので、部室にいた二人の先輩が笑った。
「そんな迷わなくても」
「本当にないので」
「好きな人とかも?」
「いませんよ」
彩花は普通に答えた。
そこに迷いはなかった。
頭に誰かの顔が浮かぶこともない。
九条悠真は、恋愛という質問と結びつく位置にはまだいなかった。
「じゃあ理論派だ」
「やめてください」
「でも今の意見分かる。読者が先に『あれ?』って気づくくらいがいいのかも」
「そうですね」
彩花は原稿を返した。
「本人だけ分かってないくらいが、読んでると楽しいかもしれません」
「水瀬さん、そういうの好き?」
「好きです。じれったいですけど」
「分かる」
先輩と笑う。
自分が今口にした言葉が、少し離れた場所で進み始めている自分自身の状況へ重なるとは、もちろん思ってもいなかった。
文芸部が終わり、彩花が校門を出た頃には、空が薄い紫色へ変わり始めていた。
スマートフォンを見る。
紗月からメッセージが届いている。
『帰りに牛乳お願いできる?』
「牛乳……」
家とは反対方向へ数分歩けばスーパーがある。
『いいよ』
返信し、進路を変える。
そのとき、もう一件通知が来た。
凛花からだった。
『今日、九条君と学校で話した』
彩花の足が止まった。
「え?」
思わず声が出る。
下校中の生徒が横を通り過ぎる。
彩花は道の端へ寄り、画面を見る。
『九条君と?』
すぐ既読がついた。
『生徒会に書類を出しに行ったらいたから』
『何話したの?』
送信。
少し待つ。
『帰ってから話す』
「何それ」
彩花は思わず笑った。
気になる。
自分が図書館で知り合った人と、自分の姉が学校で話した。
ただそれだけなのに、妙な感じがした。
これまで二人は、彩花の中で別々の場所にいた。
凛花は家族であり、昔からずっと自分の隣にいる姉。
悠真は最近図書館で知り合い、本の話をするようになった人。
その二人が、自分のいない場所で話した。
(何話したんだろ)
少し気になる。
恋愛とは違う。
自分の友人を家族が偶然知っていたときのような、二つの生活圏が突然つながった不思議さに近かった。
(……友人?)
そこで、自分が今自然に使いかけた言葉へ引っかかった。
九条君は友達なのだろうか。
連絡先は知らない。
学校も違う。
会うのは図書館だけ。
けれど、もう五回会っている。
本の話をして、一緒に帰り道を少し歩き、クッキーも渡した。
(友達って、どこから友達なんだろ)
考えてみる。
答えは出なかった。
そもそも友達になるときに「今日から友達です」と確認した経験などない。
学校なら、同じクラスで話すようになり、気づけば友達になっている。
悠真とは学校が違うから、その境目が見えにくいだけなのかもしれない。
(まあ、いっか)
無理に決める必要もない。
次に会えば普通に話す。
今はそれで十分だった。
彩花はスマートフォンを鞄へ戻し、スーパーへ向かった。
夕方六時半。
水瀬家の食卓には、鮭のホイル焼きと味噌汁、ほうれん草の胡麻和えが並んでいた。
耕助はまだ仕事から帰っておらず、紗月と彩花、凛花の三人が先に食事を始めている。
「それで?」
味噌汁を一口飲んだあと、彩花が尋ねた。
「何が?」
「九条君」
「ああ」
「帰ったら話すって言ったじゃん」
「そうだったわね」
凛花はホイルを開きながら答えた。
バターと鮭の香りが湯気と一緒に広がる。
「生徒会室に書類を出しに行ったら、九条君がいたの」
「うん」
「向こうから、私があなたの姉か聞かれた」
「九条君、お姉ちゃん分かったんだ」
「昨日あなたが名前を教えたんでしょう?」
「あ、そっか」
「それで少し話しただけ」
「何を?」
「傘のこととか」
「…………」
彩花の箸が止まる。
「それ言ったの?」
「言ったわよ」
「恥ずかしい」
「何が? 私が聞いた話でしょう」
「九条君に、お姉ちゃんへ話したって知られるのが」
「どうして?」
「なんとなく」
彩花は鮭をほぐしながら視線を落とした。
別に隠していたわけではない。
家で図書館の話をすれば、自然に悠真の名前が出ることもある。
それでも本人へ「家族にあなたの話をしています」と知られるのは、少しだけ落ち着かない。
紗月が二人を見比べる。
「九条君、どんな子だった?」
「真面目」
凛花が答える。
「学校では評判通りね。仕事もちゃんとしてるし、先輩への態度も普通。少なくとも、変な人ではなさそう」
「でしょ?」
彩花がすぐに言った。
凛花の眉が僅かに動く。
「何であなたが嬉しそうなの」
「別に嬉しそうじゃないよ」
「今ちょっと嬉しそうだった」
「だって、私がいい人って言ってたのに、お姉ちゃんずっと警戒してたじゃん」
「今もしてるわよ」
「してるんだ」
「当然でしょう」
「何が当然なの?」
「……姉として」
「よく分かんない」
彩花は苦笑しながらご飯を食べる。
紗月は口を挟まず、楽しそうに二人を眺めていた。
「でも」
凛花が続ける。
「あなたが言ってたことは分かった」
「何?」
「ちょっと変わってる」
「でしょ?」
「真面目すぎるのよ」
「ああ」
彩花は納得した。
「それは分かる」
「クッキー、美味しかったって」
「え?」
彩花が顔を上げる。
「九条君が?」
「ええ」
「お姉ちゃんに言ったの?」
「次に会ったら伝えてくれって」
「自分で言えばいいのに」
「私もそう言った」
「ふふ」
彩花が笑った。
「でも、よかった」
「そんなに心配だった?」
「味、大丈夫だったかなとは思ってたから」
「昨日あれだけ喜んでたんでしょう?」
「そうだけど、渡したときってまだ食べてないじゃん」
「確かにね」
彩花は少し嬉しそうに味噌汁へ口をつけた。
自分が作ったものを美味しいと言ってもらえた。
その喜びは、文芸部の先輩や家族に言われたときと同じ種類のものだった。
ただ、本人からではなく姉を経由して届いたことが少しおかしい。
「次会ったら聞いてみよ」
「何を?」
「本当に美味しかった? って」
「疑うの?」
「だって九条君、優しいから」
「お世辞かもしれないって?」
「ちょっとだけ」
凛花は箸を置いた。
「彩花」
「ん?」
「美味しかったわよ」
「……クッキー?」
「ええ」
「昨日も言ってくれたじゃん」
「何回言ってもいいでしょう」
「そうだけど」
「九条君がお世辞を言ったかどうかは知らない。でも、私は美味しかったと思った」
彩花が姉を見る。
凛花はいつもの落ち着いた顔をしていた。
「だから、そこまで疑わなくていいんじゃない?」
「…………」
「何?」
「お姉ちゃんがそういうこと言うの、珍しいなと思って」
「失礼ね」
「だっていつも『もっと自信持ちなさい』って言うじゃん」
「それじゃ伝わってなかったみたいだから」
凛花は胡麻和えへ箸を伸ばした。
彩花はしばらく黙っていた。
「……ありがと」
「どういたしまして」
それ以上は続けなかった。
紗月も何も言わない。
食卓にはしばらく箸と食器の触れる音だけが続いた。
けれど、その沈黙は重くなかった。
同じ頃、九条家では悠真が夕食後に自室へ戻ったところだった。
机の上には図書館から借りた本が置いてある。
制服から部屋着へ着替え、椅子へ座る。
今日は少し疲れた。
生徒会の仕事そのものより、予定外だった凛花との会話が頭に残っている。
『分からないうちは、勝手に決めつけないであげて』
『何かするときは、ちゃんと本人に聞いて』
厳しい言い方ではなかった。
けれど、妹を守ろうとしていることはよく分かった。
悠真は本を開いた。
数行読む。
また閉じる。
考えていることがあるなら、先に整理した方がいい。
彩花とどうなりたいのか。
そこはまだ分からない。
けれど凛花に言われたこととは別に、一つだけ自分の中ではっきりしていることがあった。
彩花が嫌がることはしたくない。
自分が会いたいからといって、彼女にも同じだけ会いたいと思うことを求めたくはない。
図書館へ行くのも自由。
話しかけるのも、彼女が嫌そうでなければ。
何かへ誘うときが来るなら、断れる形で聞く。
それでいい。
「兄様」
扉が軽く叩かれた。
「入っていいぞ」
琴葉が顔を出す。
「母様がお茶を」
「ありがとう」
トレーを受け取る。
琴葉はそのまま帰るかと思ったが、机の横で少し止まった。
「何かありました?」
「何が?」
「今日は少しお疲れのようなので」
「生徒会が忙しかっただけだ」
「そうですか」
「ああ」
琴葉は兄の顔を見た。
以前ならここで追及していたかもしれない。
しかし今日は何も言わなかった。
「では、おやすみなさいませ」
「おやすみ」
扉が閉まる。
悠真は少しだけ笑った。
琴葉にも、追及しない日があるらしい。
カップから湯気が上がっている。
一口飲み、本を開き直した。
今度は内容が頭へ入った。
翌朝。
桜華学園の昇降口で、凛花は上履きへ履き替えていた。
「水瀬さん、おはよう」
「おはよう」
同じクラスの女子へ挨拶を返す。
靴箱を閉め、千尋と一緒に階段へ向かおうとしたところで、正面から数人の一年生が歩いてきた。
その中に悠真がいた。
友人と話していた悠真も、こちらへ気づく。
一瞬だけ目が合う。
以前なら、そのまますれ違っていた。
同じ学校の先輩と後輩。
顔と名前は知っていても、それだけ。
けれど今日は違った。
「おはようございます、水瀬先輩」
悠真が足を止め、自然に頭を下げた。
「おはよう、九条君」
凛花も返す。
それだけだった。
彩花の話はしない。
図書館のことも、クッキーのことも。
周囲から見れば、知り合いの先輩と後輩が挨拶しただけだ。
悠真は友人たちと階段を上がっていく。
凛花も歩き出す。
隣の千尋が、数歩進んだところで小さく言った。
「普通だったね」
「何が?」
「もっと火花散るかと思った」
「何でよ」
「妹を巡る姉と男」
「朝から変なこと言わないで」
「はいはい」
千尋は笑った。
凛花は前を向いたまま、ほんの少しだけ口元を緩める。
まだ認めたわけではない。
信用したわけでもない。
ただ、昨日までよりは九条悠真という人間を知った。
それだけだ。
同じ日の放課後、彩花は図書館ではなく駅前の小さな書店へ寄っていた。
文芸部の先輩から薦められた文庫本を探すためだった。
平台を眺めながら、昨日凛花から聞いた話を思い出す。
九条君とお姉ちゃんが話した。
それだけなら、もう不思議ではなくなっていた。
同じ学校なのだから、これからも顔を合わせることはあるだろう。
むしろ少し面白い。
(学校の九条君、やっぱり真面目なんだ)
凛花が「評判通り」と言っていた。
図書館でたまに止まったり、傘を忘れたことをからかったり、クッキーを一時間も手に持っていたりする姿しか知らない彩花には、学校で生徒会の仕事をしている悠真を少し想像しにくい。
(お姉ちゃんも、学校だと家と全然違うしなあ)
家ではクッキーの生地を欲しがるし、玉ねぎもまともに切れない。
学校では成績優秀で剣道も強く、後輩から憧れられているらしい。
人には場所によっていろいろな顔がある。
九条君にも、まだ自分が知らない顔がたくさんあるのだろう。
そんなことを考えながら、彩花は探していた本を見つけた。
「あった」
手に取る。
表紙を眺め、裏返して紹介文を読む。
面白そうだった。
(九条君、これ読んだことあるかな)
自然に思った。
次に会ったら聞いてみよう。
それだけ考えて、彩花は本を持ってレジへ向かった。
同じ日の夕方。
桜華学園の生徒会室では、悠真が窓を閉めていた。
今日は昨日ほど仕事が多くない。
机の上を片づけ、鞄を持つ。
「九条、帰る?」
湊が廊下から顔を出した。
「ああ」
「駅まで一緒に行こうぜ」
「いいぞ」
二人で生徒会室を出る。
階段を下りながら、湊が言った。
「昨日の水瀬先輩、あの子のお姉さんなんだな」
「ああ」
「似てる?」
悠真は少し考えた。
「どうだろう」
「顔じゃなくて」
「何が?」
「雰囲気とか」
「……妹のことを大事にしてるのは分かった」
「へえ」
湊はそれ以上からかわなかった。
「いい姉ちゃんなんだ」
「たぶん」
「お前、緊張した?」
「少し」
「珍しいな」
「水瀬さんの姉だからな」
「それはどういう意味で?」
「…………」
悠真は階段を一段下り、少し先へ進んだ。
「分からない」
「またそれか」
「今はそれでいい」
湊が一瞬黙る。
それから笑った。
「そっか」
「ああ」
昇降口へ着く。
外には夕方の柔らかな光が残っていた。
昨日まで、彩花と悠真の関係は、青凪市立中央図書館を中心にできていた。
本棚の間。
閲覧席。
雨の日の帰り道。
それぞれの学校へ戻れば、相手の存在は話題として現れるだけだった。
けれど今週、初めてその境界の一つがつながった。
彩花の姉と、悠真。
まだ互いをよく知らない。
凛花は警戒を解いていないし、悠真も彼女に認めてもらおうとは考えていない。
ただ、次に校内ですれ違えば挨拶をする。
それくらいの関係が生まれた。
そして彩花は、自分のいない場所で二人が知り合ったことを、少し不思議で、少し面白いと思っている。
それぞれ別々だった日常が、ほんの少しずつ重なり始めていた。




