第5話 小さなお礼
土曜日の午後、水瀬家のキッチンには甘い匂いが満ちていた。
オーブンの中では、丸く並べられたクッキーが少しずつ焼き色を濃くしている。バターと砂糖の香りに、細かく刻んだチョコレートの甘さが混じり、リビングまで届いているらしい。
「彩花ー」
案の定、廊下の向こうから声がした。
「まだだよ」
「何も言ってないけど」
「お姉ちゃんがキッチンに来る理由なんて一つしかないもん」
「失礼ね」
凛花が姿を現した。
今日は部活が午前中だけだったらしく、帰宅してシャワーを浴びたあと、薄手のシャツと部屋着のパンツに着替えている。普段学校で見せる隙のない姿とは違い、長い黒髪も緩く一つにまとめていた。
彩花はボウルへ残った生地をゴムべらで集めながら、姉を見る。
「あと七分」
「味見は?」
「焼けてから」
「生地」
「駄目」
「少しくらい」
「駄目です」
「昔はくれたのに」
「昔、お腹痛くなったでしょ」
「あれは食べすぎただけよ」
「だから駄目なの」
彩花がきっぱり言うと、凛花は不満そうな顔をした。
外では完璧な優等生として知られている姉が、クッキーの生地を食べさせてもらえず本気で残念そうにしている。
その姿が少しおかしくて、彩花は笑った。
「焼けたら一番にあげるから」
「……なら待つ」
「素直」
「私はいつも素直よ」
「それはどうかなあ」
「彩花?」
「何でもないです」
凛花はキッチンカウンターの向こうへ回り込み、彩花の手元を覗いた。
天板は二枚。
一枚目はチョコチップ。
二枚目にはプレーンの生地が並んでいる。
「ずいぶん多いわね」
「そう?」
「いつもより多くない?」
「ちょっとね」
「部活に持っていくの?」
「月曜日に少し持っていこうかなとは思ってる」
「じゃあ、残りは家?」
「うん。あと……」
彩花の手が止まった。
「あと?」
「…………」
凛花が見る。
彩花は一瞬だけ迷い、結局そのまま答えた。
「九条君にも、もし明日会ったら少しあげようかなって」
キッチンが静かになった。
オーブンのファンが回る音だけが妙に大きく聞こえる。
「……九条君に?」
「うん」
「どうして?」
「この前、傘入れてもらったから」
「…………」
「コンビニまでだったけど、助かったし。ちゃんとお礼したいなって」
彩花は何でもないことのように言い、生地をまとめる作業へ戻った。
凛花はそんな妹の横顔を見つめる。
理由は分かる。
困っているところを助けてもらった。
ならば何かお礼をしたい。
彩花なら自然に考えることだ。
問題は。
「手作り?」
「クッキーだよ?」
「それは見れば分かるわ」
「じゃあ何?」
「……別に」
凛花は口を閉じた。
手作りのお菓子。
同い年の男の子へ。
しかも、四週続けて図書館で会っている九条悠真へ。
(普通)
お礼なのだから普通だ。
(彩花にとっては)
そこが重要だった。
彩花は料理もお菓子作りも好きで、家族にも友人にも普通に作る。文芸部へ差し入れを持っていくこともある。
誰か一人のためだけに特別なものを作っているわけではない。
だから、これを恋愛的な意味で受け取る方がおかしい。
(……問題は九条君よ)
あの男が、彩花の手作りを普通のお礼として受け取れるか。
凛花は知らない。
学校で見る九条悠真は落ち着いている。
何を任されても動じない。
教師や上級生とも自然に話し、女子生徒から声をかけられても態度を変えない。
そんな彼が、妹の前では「話している途中で止まる」らしい。
(大丈夫かしら)
「お姉ちゃん?」
「何?」
「難しい顔してるけど」
「何でもないわ」
「クッキー欲しいなら、もうちょっと待ってね」
「クッキーのことを考えてたんじゃない」
「じゃあ何?」
「…………」
言えるわけがない。
あなたが手作りのお菓子を渡したら、九条君がどうなるか考えていた。
そんなことを言えば、彩花まで妙に意識するかもしれない。
「本当に何でもない」
「そう?」
「ええ」
ちょうどそこで、オーブンが焼き上がりを知らせた。
「あ、できた」
彩花がミトンをはめる。
「お姉ちゃん、ちょっと下がって」
「手伝うわ」
「熱いからいいよ」
「天板を置くくらいできるわ」
「じゃあ、鍋敷き出して」
「分かった」
凛花は素直に棚を開けた。
料理は壊滅的でも、言われたことならできる。
焼き上がったクッキーがキッチンへ出されると、甘い香りがさらに濃くなった。
「いい匂い」
「まだ触っちゃ駄目だよ」
「分かってるわ」
「この前触ろうとしたじゃん」
「あれは一枚だけ」
「一枚でも駄目」
彩花は網の上へクッキーを移していく。
焼きたては柔らかく、少し力を入れれば崩れてしまう。
凛花は横から眺めていたが、やがて一枚だけ形の少し歪なものを見つけた。
「それ、失敗?」
「ちょっと広がりすぎたかな。でも味は同じだよ」
「私、それでいい」
「まだ熱いって」
「冷めたら」
「分かった、分かった」
彩花が笑う。
その表情を見ながら、凛花はふと昔のことを思い出した。
まだ二人とも小学生だった頃。
彩花が初めて一人でクッキーを作った。
丸いはずのものが楕円になり、厚さもばらばらで、何枚かは端が焦げていた。
それでも彩花は嬉しそうに皿へ並べた。
『お姉ちゃん、食べて』
凛花は食べた。
美味しかった。
だから、そのまま言った。
『彩花、すごい。私には絶対作れない』
当時は深く考えずに口にした言葉だった。
けれど、彩花はとても嬉しそうに笑った。
あの笑顔を、凛花は今でも覚えている。
「……お姉ちゃん?」
彩花の声で、凛花は現在へ戻った。
「どうしたの?」
「何でもない」
「今日それ多くない?」
「そう?」
「うん」
彩花は笑いながら、冷め始めたクッキーを眺める。
「でも、これなら大丈夫そう」
「何が?」
「味。九条君に渡しても」
「…………」
また名前が出た。
凛花は何も言わず、クッキーへ視線を落とした。
夕方。
クッキーが完全に冷めると、彩花は保存容器と小さな透明の袋を用意した。
家族用。
月曜日に文芸部へ持っていく分。
そして、もう一つ。
小さな袋へチョコチップクッキーを四枚入れる。
口を細い紐で留める。
それだけ。
メッセージカードもない。
特別な飾りもない。
「……これでいいかな」
自分で作ったものを渡すのだから、相手が甘いものを食べられるかは聞いた方がいい。
もし苦手なら持ち帰ればいい。
(そもそも明日会うか分かんないし)
そこまで考えたところで、彩花は袋を見た。
先週までなら、「会えたら話そう」と思うだけだった。
今日は、会えたら渡すものがある。
だから。
(……いたらいいな)
ほんの少しだけ、そう思った。
すぐに自分でも理由は分かった。
せっかく用意したのだから、直接お礼を言って渡したい。
それだけだ。
「彩花」
「わっ」
背後から声をかけられ、肩が跳ねた。
振り返ると、紗月が立っていた。
「びっくりした」
「ごめん、ごめん。それ、明日の分?」
「うん」
「九条君?」
「……なんで分かったの?」
「文芸部に四枚だけ持っていくとは思えないもの」
「まあ、そうだけど」
紗月は袋を見て、柔らかく笑った。
「いいんじゃない?」
「何が?」
「お礼」
「うん。この前助けてもらったから」
「甘いもの好きだといいわね」
「あ」
「聞いてないの?」
「聞いてない」
彩花は袋を見る。
「……どうしよう」
「聞いてから渡せばいいじゃない」
「そうする」
「もし苦手だったら?」
「お父さんにあげる」
「お父さんが一番喜びそうね」
二人で笑った。
彩花は袋を保存容器へ入れ、明日忘れないよう冷蔵庫の目立つ場所へ置いた。
その夜、寝る前に一度だけ思う。
(九条君、明日来るかな)
しかし、すぐに読みかけの本を開いた。
十分後には、もう物語の中へ入り込んでいた。
同じ土曜日の夜。
九条家のリビングでは、悠真がハクの毛をブラッシングしていた。
大きな白い身体の横へ座り、毛並みに沿ってブラシを動かす。
「今日は多いな」
ブラシへ絡んだ白い毛を取り除く。
ハクは気持ちよさそうに床へ伏せていた。
「兄様」
向かいのソファで本を読んでいた琴葉が顔を上げる。
「何だ?」
「明日は雨ではないそうですよ」
「そうか」
「よかったですね」
「何が?」
「…………」
「何だ、その顔は」
「いえ」
琴葉は本へ視線を戻した。
「少し安心しました」
「だから何の話だ」
「兄様の右肩が濡れずに済むなと思いまして」
「琴葉」
「はい?」
「まだ言うのか」
「先週のことを一度口にしただけです」
「その一度に悪意がある」
「ありません」
絶対にある。
悠真はブラシを動かしながら、ため息をついた。
「明日は普通に図書館へ行く」
「ええ」
「雨も降らない」
「ええ」
「だから何も起きない」
琴葉が本から顔を上げた。
「兄様」
「なんだ?」
「図書館へ行くと、何か起きる前提なのですか?」
「…………」
墓穴だった。
悠真は黙ってハクをブラッシングする。
琴葉が小さく笑った。
「最近の兄様、面白いですね」
「俺は面白くない」
「私は面白いです」
「そうか」
「ええ」
会話を終わらせる。
悠真はハクの背中へブラシを通した。
明日も図書館へ行く。
彩花に会える保証はない。
それでも、先週ほどそのことを考えてはいなかった。
会えれば嬉しい。
会えなければ、本を読めばいい。
その程度の気持ちでいられるようになった。
少なくとも本人は、そう思っていた。
翌日。
昼食を終えた彩花は、自室で鞄の中身を確認していた。
財布。
スマートフォン。
図書館の利用カード。
返却する本。
折り畳み傘。
「よし」
今日は忘れていない。
そして最後に、小さなクッキーの袋を入れる。
そこで一度、手が止まった。
(……これ、鞄の中で割れないかな)
恋愛とはまったく関係のない心配だった。
薄いハンカチで包み、端へ寄せる。
「これなら大丈夫かな」
鞄を持って一階へ下りた。
「行ってきます」
リビングでは耕助がテレビを見ていた。
「図書館か?」
「うん」
「傘は?」
「今日は持った!」
「晴れてるぞ」
「念のため!」
キッチンから紗月が笑う。
「先週忘れたからね」
「もう忘れないよ」
「その台詞、何回目かしら」
「お母さん」
「はいはい。気をつけてね」
「行ってきます」
玄関へ向かう。
靴を履き、扉を開けようとしたところで、二階から凛花が下りてきた。
「彩花」
「ん?」
「図書館?」
「うん」
凛花の視線が鞄へ向いた。
当然、中身は見えない。
「……気をつけて」
「今日は雨降らないよ?」
「雨の話じゃない」
「じゃあ何?」
「普通に、気をつけて行ってきてって意味」
「うん。行ってきます」
彩花は扉を開けた。
「あと」
「ん?」
振り返る。
凛花は少し迷ってから言った。
「クッキー、ちゃんと美味しかったから」
「急にどうしたの?」
「別に。言っておこうと思っただけ」
「ふふ。ありがとう」
彩花が笑う。
そのまま外へ出ていった。
扉が閉じる。
凛花は玄関に残った。
(何言ってるの、私)
自分でもよく分からなかった。
ただ、彩花が誰かへ手作りのものを渡すときに、「大丈夫かな」と少しでも不安になるのが嫌だった。
あのクッキーは美味しい。
彩花が作ったものだから、ではなく、本当に美味しい。
それだけは伝えておきたかった。
午後一時四十七分。
青凪市立中央図書館へ着いた彩花は、自動ドアをくぐった。
外は薄曇りだが、雨の気配はない。
館内はいつもの日曜日と同じように静かだった。
返却カウンターへ本を出す。
「ありがとうございました」
職員へ頭を下げ、その場を離れる。
いつもなら、そのまま新刊棚へ向かう。
今日も足はそちらへ向いた。
けれど。
ほんの少しだけ、歩く速度が遅かった。
(いるかな)
視線が自然に館内を探す。
先週までとは違う。
今日は、悠真に会えたら渡したいものが鞄へ入っている。
だから探す。
それだけのことだった。
文学棚の前。
いない。
窓際の閲覧席。
それらしい姿は見えない。
(まだ来てないのかな)
彩花は新刊棚へ着き、一冊を手に取った。
紹介文を読む。
面白そうだ。
けれど数行読んだところで、入口の方へ一度だけ目を向ける。
「…………」
自分で気づいた。
(私、九条君探してる)
少しおかしくなった。
約束もしていないのに。
それでも今日は理由がある。
お礼を渡したい。
(会えなかったら、また今度でいいんだけど)
そう思って、本へ視線を戻す。
そのときだった。
「水瀬さん」
背後から声がした。
彩花はすぐに振り返った。
「あ」
悠真が立っている。
先週と同じような落ち着いた服装で、片手には一冊の本を持っていた。
彩花の顔が自然に明るくなった。
「九条君」
「ああ。こんにちは」
「こんにちは」
悠真が近づく。
「今日は傘、持ってる?」
一言目がそれだった。
彩花は目を丸くし、そのあと笑った。
「持ってますよ!」
「そうか」
「今日は降らないけど」
「念のため?」
「念のためです」
「それなら安心だな」
「九条君、まだそれ言うんですか」
「先週のことだからな」
「もう忘れてください」
「玄関まで持ってきて、下駄箱の上に置いた話?」
「覚えてるじゃないですか!」
思わず少し声が大きくなる。
二人同時に周囲を見る。
近くにいた利用者は特に気にしていないようだった。
彩花が声を落とす。
「九条君、意外と意地悪ですね」
「そうかもしれない」
「否定しないんだ」
「水瀬さんが面白いから」
「…………」
彩花が一瞬黙った。
悠真も、自分が何を言ったのか一拍遅れて理解した。
「いや、今のは」
「ひどい」
「違う。そういう意味じゃなくて」
「人が傘忘れたのを面白がってる」
「そこじゃない」
「じゃあどこですか?」
彩花は怒ってはいない。
口元が笑っている。
悠真は説明を諦めた。
「……ごめん」
「ふふ。いいですよ」
彩花が笑う。
そこで思い出したように鞄へ手を入れた。
「あ、そうだ」
「何?」
「九条君、甘いものって大丈夫ですか?」
「甘いもの?」
「嫌いじゃない?」
「ああ。普通に食べる」
「よかった」
彩花が鞄から小さな袋を取り出した。
透明な袋。
中には四枚のクッキー。
細い紐で口が留められている。
「これ」
差し出される。
悠真は見る。
クッキーを見る。
彩花を見る。
もう一度クッキーを見る。
「…………」
「九条君?」
「……これは?」
「クッキーです」
「それは分かる」
「この前のお礼」
「お礼?」
「傘」
彩花は何でもないことのように笑った。
「コンビニまで入れてくれたから。大したものじゃないですけど、昨日焼いたので」
悠真は動かなかった。
「…………」
「九条君?」
「……昨日?」
「はい」
「水瀬さんが?」
「そうですけど」
「作った?」
「クッキーだから、そんな大げさなものじゃないですよ」
「…………」
「九条君」
彩花が袋を持ったまま困った顔になる。
「もしかして、いらなかった?」
「違う」
悠真の返事は早かった。
「欲しい」
「よかった」
「……ありがとう」
ようやく手を伸ばす。
袋を受け取る。
軽い。
四枚しか入っていないのだから当然だ。
それなのに、妙に扱いへ困る。
「割れやすいかもしれないので、気をつけてください」
「ああ」
「鞄の下に入れない方がいいです」
「分かった」
「あと、そんなに日持ちしないから、今日か明日くらいに」
「今日食べる」
「早いですね」
「…………」
「そんなに甘いもの好きなんですか?」
「いや」
「じゃあ、明日でも大丈夫ですよ?」
「今日食べる」
彩花が少し笑った。
「分かりました」
悠真は袋を見る。
手作り。
水瀬彩花が作った。
自分へ渡すためだけに焼いたわけではないことくらい分かっている。
お礼。
それ以上の意味はない。
そこまで正しく理解している。
だから、余計な意味をつける必要もない。
ただ。
「……嬉しい」
口から出た。
彩花が目を瞬く。
「え?」
「ありがとう。本当に」
今度はきちんと彼女を見る。
「嬉しい」
「…………」
彩花は少しだけ驚いた顔をした。
そんなに喜ばれるとは思っていなかった。
四枚のクッキー。
家族にも、部活の人にも作ったもの。
特別なものではない。
けれど、悠真は本当に嬉しそうだった。
「……よかったです」
彩花が笑う。
その瞬間。
悠真はまた、最初の日を少しだけ思い出した。
図書館の高い棚。
届かなかった本。
自分を見て笑った顔。
けれど、もうあの日のように立ち尽くしはしなかった。
「ああ」
ちゃんと返す。
それでも手にした袋だけは、妙に大切に持っていた。
二人はそのあと、先週のように長く話すことはしなかった。
彩花は読みかけの本があり、悠真も調べたい本があった。
「じゃあ、またあとで」
彩花が言う。
「ああ」
悠真は頷く。
別々の場所へ向かう。
その自然さは、最初の頃にはなかったものだった。
会えば必ず長く一緒にいるわけではない。
それぞれ自分の時間を過ごす。
けれど同じ館内にいることは知っている。
彩花は窓際の席へ座り、本を開いた。
数ページ読んだところで、ふと先ほどの悠真を思い出す。
『嬉しい』
(あんなに喜ぶと思わなかったな)
少し意外だった。
九条悠真は、何でも持っていそうに見える。
有名な私立校へ通っていて、立ち居振る舞いも綺麗で、凛花によれば学校でも有名らしい。
だから、手作りのクッキー四枚くらいであんなに喜ぶとは思っていなかった。
(甘いもの、結構好きなのかな)
少し違う方向へ結論が出た。
(今度何か作ったら、また――)
そこまで考え、彩花は止まる。
なぜ次も渡す前提なのだろう。
「…………」
数秒考える。
(まあ、たくさん作ったときならいいか)
家族や文芸部へ持っていくのと同じだ。
九条君も甘いものが嫌いではない。
なら余ったときに渡しても問題はないだろう。
答えが出たので、彩花は何事もなかったように読書へ戻った。
その頃、悠真は文学棚の前で本を探していた。
左手にはクッキーの袋。
右手で本を抜き取る。
裏表紙を見る。
棚へ戻す。
次の本を取る。
それでも左手の袋だけは持ったままだった。
「…………」
鞄へ入れればいい。
分かっている。
けれど、割れるかもしれないと言われた。
だから手に持っている。
合理的な理由だった。
「九条?」
不意に横から声がした。
悠真は振り返った。
「……湊?」
榊原湊が立っていた。
私服姿で、片手には参考書らしい本を持っている。
「珍しいな」
「こっちの台詞。お前、日曜もここ来るんだ?」
「ああ」
「勉強?」
「読書」
「へえ」
湊の視線が悠真の左手へ下がる。
「それ何?」
「…………」
「クッキー?」
「ああ」
「図書館で食うの?」
「食べない」
「じゃあ何で持ってるんだ?」
「もらった」
「誰に?」
「…………」
湊の目が細くなる。
「九条」
「何だ」
「この前の考え事の相手?」
「…………」
「当たりか」
「何も言ってない」
「お前、分かりやすくなったなあ」
悠真は無言で鞄を開けた。
袋を入れようとする。
「割れるぞ」
湊が言った。
手が止まる。
「…………」
「何でそんな慎重なんだよ」
「割れやすいらしい」
「へえ」
「何だ」
「手作り?」
「…………」
「へええ」
「声が大きい」
「ごめん」
湊は笑いを堪えながら声を落とした。
「で、誰?」
「言わない」
「同じ学校?」
「言わない」
「何年?」
「言わない」
「名前は?」
「言わない」
「好きな子?」
「分からない」
答えてから、悠真は止まった。
湊も止まった。
「……今」
「忘れろ」
「いやいやいや」
「図書館だ。静かにしろ」
「そうじゃなくて、お前いま『違う』じゃなくて『分からない』って言った?」
「湊」
「進展してるじゃん」
「何がだ」
「知らないけど」
湊は明らかに楽しんでいる。
悠真はため息をついた。
以前なら即座に否定していた。
今は、違うと言い切る方が不自然に感じた。
会いたい。
話したい。
笑っているところを見ると嬉しい。
自分の知らないことを知りたいと思う。
手作りのクッキーをもらって、かなり嬉しい。
それが恋愛なのかと聞かれれば。
まだ分からない。
少なくとも、悠真自身はそこまでだった。
「からかうな」
「悪い」
湊の表情が少しだけ真面目になる。
「でも、なんか安心した」
「何が?」
「お前も普通にそういうことで悩むんだなって」
「悩んではいない」
「そこは否定するんだ」
「事実だからな」
「じゃあ考えてる?」
「……少し」
「十分だよ」
湊が笑った。
「まあ、頑張れ」
「何を」
「それは自分で考えろ」
「適当だな」
「まだ相手の名前も教えてもらってないからな」
湊は参考書を持ち直した。
「俺、二階行くわ」
「ああ」
「クッキー落とすなよ」
「分かってる」
「大事そうだから」
「湊」
「じゃあな」
逃げるように去っていく。
悠真はその背中を見送り、手元の袋へ視線を落とした。
少し考えたあと、結局鞄へは入れなかった。
一時間ほどして、彩花は本を閉じた。
ちょうど区切りのいいところまで読めた。
時計を見ると三時半を過ぎている。
(そろそろ帰ろうかな)
本を鞄へ入れ、席を立つ。
新刊棚を少しだけ見てから帰ろうと歩き出したところで、向こうから悠真が来た。
「あ、九条君」
「帰る?」
「そろそろ」
「俺も」
「今日は雨降ってないですよ」
「知ってる」
「傘も持ってます」
「それも聞いた」
「じゃあ大丈夫ですね」
「ああ」
彩花が笑う。
二人は自然に出口へ向かって歩き始めた。
そこで彩花は、悠真がまだクッキーの袋を手に持っていることに気づいた。
「……九条君」
「何?」
「それ、ずっと持ってたんですか?」
「…………」
「鞄は?」
「ある」
「入れなかったの?」
「割れるかもしれないから」
「そこまで壊れやすくないですよ?」
「でも気をつけてって言っただろ」
「言いましたけど」
彩花は袋と悠真を交互に見る。
思わず笑ってしまった。
「九条君って、変なところ真面目ですね」
「変なところ?」
「だって、一時間以上ずっと持ってたんですよね?」
「……たぶん」
「腕疲れません?」
「このくらいで疲れない」
「そういう問題じゃなくて」
彩花は笑いながら首を振った。
悠真は少しだけ居心地悪そうに視線を逸らす。
それがまた、学校で有名だという「九条悠真」の印象と合わなくて面白かった。
「でも」
彩花が言う。
「そんなに大事にしてくれるなら、作ってよかったです」
悠真がこちらを見る。
「本当に?」
「はい」
「……そうか」
今度は止まらなかった。
ただ、少し嬉しそうに笑った。
彩花はその表情を見て、ほんの少し意外に思った。
(九条君、こういう顔もするんだ)
いつも落ち着いている。
ときどき止まる。
困ったような顔をすることもある。
けれど、今の笑い方は少し違った。
年相応というか。
普通の高校一年生らしいというか。
(学校だとどんな感じなんだろ)
ふと興味が湧いた。
「九条君」
「何?」
「学校でもこんな感じなんですか?」
「こんな感じ?」
「うーん……」
彩花は言葉を探す。
「本の話して、たまに止まって、クッキーをずっと手に持ってる感じ」
「最後は学校と関係ないだろ」
「確かに」
「それに、学校ではそんなに止まってない」
「本当ですか?」
「本当だ」
「お姉ちゃんに聞いてみようかな」
「…………」
「ほら」
「今のは別の理由だ」
「お姉ちゃん、九条君のこと知ってるみたいですよ」
「水瀬さんのお姉さん?」
「はい。同じ桜華学園の二年生です」
悠真は初めて聞く情報に少し驚いた。
「名前は?」
「水瀬凛花」
「……水瀬凛花?」
今度は別の意味で聞き覚えがあった。
「知ってます?」
「ああ。直接話したことはほとんどないけど」
「やっぱりお姉ちゃん有名なんだ」
彩花の声に、いつものような素直な尊敬が混じる。
「成績もいいし、剣道もすごいから」
「そうだな」
「何でもできるんですよ」
その言葉を口にしたとき、彩花の笑顔がほんの僅かに変わった。
悠真は気づいた。
大きな変化ではない。
笑っている。
姉を褒めている。
それなのに、ほんの少しだけ声が軽くなくなった。
「水瀬さんは?」
「え?」
「何が得意?」
突然聞かれ、彩花は目を瞬いた。
「私?」
「ああ」
「……何で?」
「お姉さんの話をしたから」
「でも私、お姉ちゃんみたいにすごくないですよ」
「比べて聞いたわけじゃない」
悠真はそう言った。
あまりにも普通に。
彩花が黙る。
「水瀬さんが得意なこと」
「…………」
すぐには答えが出なかった。
自分の得意なこと。
聞かれると難しい。
「料理……かな」
「今日のクッキーも?」
「お菓子作りも好きです」
「十分すごいと思うけど」
「そんなことないですよ。趣味だし」
「趣味だとすごくないの?」
「え?」
「好きで続けて、誰かに渡せるものを作れるなら、得意って言っていいんじゃない?」
彩花は答えなかった。
自動ドアの向こうには、曇った午後の街が広がっている。
図書館を出る人たちが二人の横を通り過ぎていく。
悠真は特別なことを言ったつもりではなかった。
ただ、今日もらったクッキーを見れば、それが得意なことだと思った。
「……そっか」
彩花が小さく言う。
「うん」
それから、少しだけ笑った。
「じゃあ、料理とお菓子作り」
「あと本も詳しい」
「それは得意じゃなくて好きなだけです」
「かなり読んでるだろ」
「九条君もでしょ」
「じゃあ二人とも得意でいい」
「それは雑じゃないですか?」
「そうか?」
「そうですよ」
いつもの調子へ戻った。
彩花は笑っている。
悠真もそれ以上は踏み込まなかった。
図書館の外へ出る。
今日は雨がない。
傘も必要ない。
二人は建物の前で足を止めた。
「じゃあ、私こっちなので」
「ああ」
「九条君は?」
「反対側」
「そっか」
一瞬だけ間ができる。
彩花が先に手を上げた。
「じゃあ、また図書館で」
「ああ。また」
それぞれ別の方向へ歩き出す。
数歩進んだところで、彩花は振り返らなかった。
悠真も振り返らない。
けれど二人とも、「また」という言葉が以前より自然になっていることには気づいていた。
水瀬家へ帰った彩花は、玄関を開けるなり声を上げた。
「ただいまー」
「おかえり」
リビングへ入る。
凛花がソファで本を読んでいた。
「お姉ちゃん、今日部活ないんだっけ」
「休み」
「珍しいね」
「たまにはあるわよ」
彩花は鞄を置いた。
キッチンから紗月が顔を出す。
「クッキー渡せた?」
「うん」
凛花のページをめくる手が止まる。
「喜んでた?」
「すごい喜んでた」
「そう」
「ずっと手に持ってた」
「…………」
凛花が本から顔を上げた。
「ずっと?」
「うん。一時間以上」
「何で?」
「割れるかもしれないからって」
「…………」
「ちょっと面白いよね」
彩花は笑っている。
凛花は笑えなかった。
(九条君)
予想以上だった。
「あとね」
「まだあるの?」
「何、その言い方」
「何でもないわ」
「帰りにちょっと話してて、お姉ちゃんのこと知ってたよ」
「そう」
「やっぱり有名なんだね」
彩花は自然にそう言った。
「お姉ちゃん何でもできるから」
凛花の胸が少し痛んだ。
いつもの言葉。
悪意はない。
むしろ彩花は本気で自分を尊敬してくれている。
それでも。
「それで九条君に、私の得意なこと聞かれた」
「……何て答えたの?」
「最初分かんなかった」
彩花が苦笑する。
「でも料理とお菓子作りって言った」
「そう」
「九条君が、それでいいんじゃないって」
凛花は黙った。
「趣味でも、好きで続けて人に渡せるもの作れるなら、得意って言っていいんじゃないかって」
「…………」
「なんか、変な感じだった」
「嫌だった?」
「ううん」
彩花は少し考えた。
「ちょっと嬉しかった」
その言葉を聞いた瞬間、凛花の中で何かが僅かに変わった。
九条悠真への警戒が消えたわけではない。
むしろ妹のことをかなり意識している可能性は、さらに高くなった気がする。
ただ。
彩花を自分と比べなかった。
凛花が有名だと知ったあとでも、「姉はすごい」と話を広げるのではなく、彩花自身へ目を向けた。
それは。
(……そこは、ちゃんとしてるのね)
認めたくはないが、悪くなかった。
「お姉ちゃん?」
「何?」
「また難しい顔」
「考え事よ」
「クッキー食べる?」
「食べる」
「即答」
「昨日の残ってる?」
「あるよ」
「二枚」
「一枚」
「二枚」
「夕飯前だから一枚」
「……分かった」
凛花が立ち上がる。
彩花は笑いながらキッチンへ向かった。
九条家では、悠真が自室の机の前へ座っていた。
目の前にクッキーの袋がある。
帰宅してから十五分。
まだ開けていない。
「…………」
食べる。
今日食べると宣言した。
だから食べればいい。
悠真は紐を解いた。
袋を開く。
甘い香りが僅かに広がる。
一枚取る。
丸いクッキー。
チョコレートが入っている。
「…………」
食べた。
さくり、と軽い音がした。
バターの香りと、チョコレートの甘さが広がる。
「……美味しい」
思わず声に出た。
甘すぎない。
市販のものとは少し違う素朴な食感がある。
二口目を食べる。
やはり美味しい。
「兄様」
「っ」
扉の向こうから声がした。
「入っても?」
「……ああ」
扉が開く。
琴葉が入ってきた。
そして机を見る。
クッキー。
開いた袋。
悠真。
「まあ」
「何だ」
「いえ」
琴葉が近づく。
「美味しそうですね」
「ああ」
「どちらのものです?」
「もらった」
「どなたに?」
「…………」
琴葉が微笑む。
「水瀬さん?」
「ああ」
今回は隠さなかった。
琴葉が一瞬だけ目を見開く。
「水瀬さんの手作り?」
「そうだ」
「まあ」
「その『まあ』をやめろ」
「でも兄様」
「何だ」
「顔」
「顔?」
「嬉しそうです」
「…………」
悠真は手元のクッキーを見る。
「嬉しいからな」
琴葉が完全に黙った。
今度は悠真の方が眉を寄せる。
「何だ?」
「……兄様」
「なんだ」
「本当に成長しましたね」
「だから何の話だ」
「以前なら、そこから三分ほど言い訳が始まっていました」
「もうしない」
「そうですか」
「ああ」
琴葉はしばらく兄を見つめた。
それからクッキーへ視線を落とす。
「一枚いただいても?」
「駄目だ」
即答だった。
「…………」
「…………」
「兄様」
「何だ」
「四枚ありますよね?」
「ああ」
「一枚くらい」
「駄目だ」
「母様には?」
「渡さない」
「父様にも?」
「渡さない」
「ハクにはチョコレートなので当然駄目ですが」
「全部俺が食べる」
「…………」
琴葉は数秒黙った。
「気持ち悪いです」
「なぜだ」
「四枚のクッキーへの執着が」
「俺がもらったんだから俺が食べるのは普通だろ」
「普通の人は妹が一枚欲しいと言ったくらいで、そんなに即答しません」
「自分で買え」
「そういう問題ではありません」
「これはもらったものだ」
「分かりました」
琴葉は諦めたように息を吐いた。
「では全部召し上がってください」
「そうする」
「一枚ずつ写真を撮ったりしないでくださいね」
「撮らない」
「袋を保存したり」
「しない」
「本当に?」
「琴葉」
「冗談です」
琴葉は笑いながら部屋を出ていった。
扉が閉じる。
悠真は残った三枚を見る。
「…………」
写真は撮らない。
袋も保存しない。
そこまでおかしくはない。
悠真は二枚目へ手を伸ばした。
そのとき、午後の会話を思い出した。
『でも私、お姉ちゃんみたいにすごくないですよ』
あの言い方。
笑っていた。
けれど少しだけ、いつもの彩花とは違っていた。
姉を嫌っているようには見えなかった。
むしろ、とても好きなのだろう。
だからこそ、自分をその隣へ置いたときだけ、少し小さくなる。
(……何だろうな)
悠真にはまだ分からない。
知り合って一か月にも満たない相手の家庭事情を勝手に想像するつもりもなかった。
ただ。
水瀬彩花が料理や菓子作りを得意だということ。
本が好きだということ。
話しているとよく笑うこと。
傘を忘れること。
自分のことより本が濡れる方を心配すること。
そういう一つ一つを、悠真はもう知っている。
そして、もっと知りたいと思っている。
その気持ちだけは、以前よりはっきりしていた。
月曜日。
県立青葉高校の昼休み。
「水瀬、それ何?」
田辺大地が彩花の机の上に置かれた保存容器を見つけた。
「クッキー」
「見れば分かる」
「じゃあ聞かないでよ」
「俺が聞いてるのは、誰のかってこと」
「私が作った」
「マジで?」
大地の目が輝く。
「食っていい?」
「まだいいって言ってない」
「一枚」
「文芸部に持ってく分なんだけど」
「一枚」
「なんで二回言うの」
「大事だから」
彩花は呆れながら容器を開いた。
「一枚だけね」
「やった」
大地がすぐに一枚取る。
一口食べる。
「うまっ」
「声大きい」
「これ普通に売れるじゃん」
「大げさ」
「いや、マジで」
近くにいた女子生徒も振り返る。
「水瀬さんが作ったの?」
「うん」
「いいなー」
「少し食べる?」
「いいの?」
結局、昼休みのうちに数枚減った。
彩花は困りながらも笑っていた。
「文芸部の分なくなるから、もう終わり!」
「また作って」
大地が言う。
「気が向いたらね」
何でもない学校の日常だった。
昨日、悠真へ渡したものと同じクッキー。
それを大地にも、クラスメイトにも普通に渡す。
彩花にとっては、それが自然だった。
九条悠真だけが特別だったわけではない。
ただ。
昨日の悠真の顔を少しだけ思い出す。
『嬉しい』
(九条君、本当に甘いもの好きなんだな)
やはり、結論はそこだった。
同じ時間。
桜華学園の昼休み。
悠真は教室で弁当を食べ終え、鞄から教科書を出そうとしていた。
そのとき湊が隣へ来る。
「九条」
「何だ?」
「クッキー美味かった?」
「…………」
「昨日の」
「美味しかった」
「即答だな」
「ああ」
「全部食った?」
「食べた」
「へえ」
湊は面白そうに笑った。
「何だ」
「いや。お前、本当にその子のこと好きなんじゃないの?」
悠真の手が止まった。
今度は、すぐに否定しなかった。
昨日と同じ問い。
けれど、自分の中にあるものは少しずつ形を持ち始めている。
会いたい。
話したい。
笑ってくれると嬉しい。
自分の知らない彼女を知りたい。
もらったクッキーが嬉しくて、妹に一枚も渡したくなかった。
それでも。
「……まだ、分からない」
悠真はそう答えた。
湊はからかわなかった。
「そっか」
「ああ」
「じゃあ、分かるまでそのままでいいんじゃない?」
悠真は少し意外に思って友人を見る。
「適当だな」
「恋愛なんてそんなもんだろ。知らんけど」
「最後で全部台無しだ」
「悪い」
湊が笑う。
悠真も小さく息を吐いた。
好きなのか。
まだ答えは出ない。
無理に出す必要もない。
ただ一つ。
次の日曜日にまた図書館へ行くことだけは、もう迷っていなかった。
その日の放課後。
彩花は文芸部室で、残ったクッキーを配っていた。
「水瀬、これ美味しい」
「ほんとですか?」
「うん。前より少しサクサクしてない?」
「焼く温度ちょっと変えたんです」
「やっぱり」
先輩がもう一枚へ手を伸ばす。
「あ、一人二枚までです」
「厳しい」
「昼休みに減っちゃったから」
部室に笑い声が広がる。
彩花も笑う。
好きで作ったものを誰かが美味しいと言ってくれる。
それは昔から嬉しかった。
家族でも、友達でも、先輩でも。
昨日の悠真も。
誰かと比べなくても、自分が作ったものをそのまま喜んでもらえる。
その時間が、彩花は好きだった。
『好きで続けて、誰かに渡せるものを作れるなら、得意って言っていいんじゃない?』
ふと、昨日の言葉を思い出す。
彩花は自分の手を見る。
(……得意、か)
料理。
お菓子作り。
そう言っていいのかもしれない。
ほんの少しだけ。
そんなふうに思えた。
すぐに先輩から「水瀬、紅茶取って」と声をかけられ、彩花は立ち上がる。
「はい」
いつもの放課後が続いていく。
まだ恋ではない。
九条悠真に会いたくて仕方がないわけでもない。
それでも、彼からもらった一つの言葉が、彩花の中へ小さく残った。
そして悠真の方には、四枚のクッキーと、その作り手の笑顔が残っている。
二人の距離は、まだ名前をつけられるほど近くはない。
けれど日曜日に図書館へ行けば、そこに相手がいるかもしれない。
そんな期待だけは、もう悠真一人のものではなくなり始めていた。




