第4話 図書館の帰り道
翌週の日曜日、青凪市は朝から薄い雲に覆われていた。
雨が降るほど暗くはないものの、窓から差し込む光は白く柔らかい。水瀬家のリビングではテレビの天気予報が午後からの降水確率を伝えており、画面の端には小さな傘のマークが並んでいた。
「夕方から雨だって」
トーストへ苺ジャムを塗りながら、紗月が言った。
「彩花、今日も図書館行くの?」
「行こうかなって思ってる」
「傘持っていきなさいよ」
「折り畳み入れとく」
「ちゃんと入れなさいよ。『たぶん降らない』って言って濡れて帰ってくるの、去年もやったでしょう」
「あれは天気予報が外れたんだよ」
「降水確率七十パーセントだったわよ」
「……そんなに高かったっけ」
「高かった」
向かいに座る耕助まで頷いたので、彩花はトーストを齧りながら黙った。
隣では凛花が味噌汁を飲んでいる。
今日は剣道部が午後かららしく、まだ制服にもジャージにも着替えていない。肩まで流れる黒髪も家にいるときらしく少し緩くまとめられていた。
「何時頃行くの?」
凛花が尋ねる。
「お昼食べてからかな」
「そう」
「何?」
「別に」
凛花は味噌汁へ視線を戻した。
その「別に」が少しだけ怪しかったが、彩花は深く考えなかった。
「そういえば、先週話してた九条君」
紗月が何気なく名前を出した。
凛花の箸が止まる。
彩花は普通にトーストを食べ続けた。
「うん?」
「先週も会ったんでしょう?」
「会ったよ」
「三週続けて?」
「最初の週と、その次と、先週だから……そうだね」
「よく会うわねえ」
「同じくらいの時間に行ってるからじゃない?」
「今日も会うかしらね」
「どうだろ」
彩花は牛乳へ手を伸ばした。
「九条君が今日も来るか分かんないし」
「来たら?」
「本の話するんじゃない?」
あまりに普通の答えだった。
紗月は「そっか」と笑い、それ以上は何も言わない。
凛花だけが黙っている。
その横顔に気づいた彩花は、少し首を傾げた。
「お姉ちゃん?」
「何?」
「また怖い顔してない?」
「してない」
「九条君の話すると、ちょっと怖くならない?」
「気のせいよ」
「そうかなあ」
凛花は平然とした顔で味噌汁を飲んだ。
内心ではまったく平然としていなかった。
(三週連続)
先週初めて名前を聞いたときは、まだ何も起きていないと判断した。
図書館で偶然会っただけ。
本の話をしただけ。
連絡先すら知らない。
だから口を挟まなかった。
(でも、三週連続)
今日会えば四週目になる。
偶然という言葉をどこまで信じていいのか、そろそろ少し怪しくなってくる。
少なくとも彩花は、本当に偶然だと思っている。
問題があるとすれば、九条悠真の方だった。
「凛花?」
「何、お母さん」
「今日、部活何時から?」
「一時半」
「あら、じゃあ彩花と出る時間近いんじゃない?」
紗月の何気ない一言に、凛花の視線が彩花へ向いた。
「…………」
「何?」
「途中まで一緒に行く?」
「いいけど、お姉ちゃんの学校と図書館、途中から方向違うよ?」
「分かってる」
「じゃあ途中までね」
「ええ」
彩花は何も疑わず頷いた。
(別に監視するわけじゃない)
凛花は自分へ言い聞かせる。
妹と途中まで一緒に出かけるだけだ。
それだけ。
(……九条君がいたとしても、私は学校へ行くんだから関係ないし)
そのはずだった。
午前十一時を少し過ぎた頃、九条家では悠真がリビングのソファに座っていた。
膝の上には一冊の本が開かれている。
先週図書館で借りた作品だった。
数ページ読み進めたところで、白い大きな身体がソファの横へやってくる。
「ハク」
悠真が片手を下ろすと、ハクは当然のように鼻先を押しつけてきた。
その頭を撫でながら本へ視線を戻す。
しばらくすると、向かいのソファから声が飛んできた。
「兄様」
「なんだ?」
「今日は図書館へ行かれるのですか?」
悠真の手が止まりかけた。
止めなかった。
「ああ。そのつもりだ」
「そうですか」
琴葉は紅茶のカップを持ち上げる。
それだけだった。
「…………」
「…………」
「何だ?」
「何がです?」
「いや」
悠真は本へ戻った。
何も聞かれていない。
だから説明もしない。
先週も、その前も図書館へ行った。
今日も行く。
それ自体は何も不自然ではない。
そして。
水瀬彩花に会えれば嬉しい。
そこまでなら、もう自分の中で認めている。
「成長しましたね」
「何の話だ」
「いえ、独り言です」
琴葉が優雅に紅茶を飲む。
悠真は眉を寄せた。
「琴葉」
「はい?」
「お前、最近俺を観察して楽しんでないか?」
「まさか」
「今、一瞬笑っただろ」
「兄様の気のせいです」
「そうか」
「ええ」
琴葉の口元はまだ僅かに緩んでいる。
追及しても意味はないと判断し、悠真は本へ戻った。
そこへ新聞を読んでいた正樹が顔を上げる。
「悠真」
「はい、父様」
「図書館へ行くなら、帰りに書店へ寄るか?」
「書店ですか?」
「頼んでいた本が入ったと連絡があった。私も午後から出るから、一緒に行くなら車を出すが」
「いえ、今日は歩いて行きます」
「そうか」
「帰りに寄れる場所なら受け取ってきますが」
「いや、急がないからいい」
正樹は再び新聞へ目を戻した。
何も気にしていない。
その隣で麗華だけが静かに微笑んでいた。
「歩いて行かれるのね」
「はい」
「お天気、夕方から崩れるそうよ」
「折り畳み傘を持っていきます」
「そう。それなら安心ね」
穏やかな会話だった。
だが、悠真は母の笑顔に何か含まれている気がしてならなかった。
隣を見る。
琴葉も紅茶を飲んでいる。
ハクだけが悠真の膝へ顎を乗せていた。
「……ハク」
「ワフ?」
「お前だけは普通でいてくれ」
「ワン」
「兄様、ハクへ何を求めていらっしゃるのですか?」
「何でもない」
日曜日の午前は、そんなふうに過ぎていった。
午後一時過ぎ。
水瀬家を出た彩花と凛花は、住宅街を並んで歩いていた。
空は朝よりも少し暗くなっている。
湿気を含んだ風が吹き、道路脇の植え込みが小さく揺れていた。
「本当に降りそうだね」
「だから傘を持ちなさいって言われたでしょう」
「持ってきたよ」
彩花は肩に掛けた鞄を軽く叩いた。
「お姉ちゃんは?」
「あるわ」
「さすが」
「何が?」
「お姉ちゃん、忘れ物とかしなさそう」
「するわよ」
「ほんと?」
「人間なんだからするわ」
「でも私より絶対少ない」
彩花は笑った。
凛花はその横顔を見る。
昔からそうだ。
彩花は悪意なく自分を上へ置く。
姉はできる。
姉は失敗しない。
姉は自分よりすごい。
本人にとってはただの事実を口にしているつもりなのだろう。
だからこそ、凛花にはときどき苦しかった。
「彩花」
「ん?」
「私だって、この前英語の単語帳を学校に忘れたわよ」
「それ忘れ物に入る?」
「入るでしょう」
「でも家で困らなかったでしょ?」
「困ったわ。次の日の小テスト範囲だったから」
「えっ」
彩花が驚いた顔をする。
「どうしたの?」
「千尋に写真を送ってもらった」
「……お姉ちゃんもそういうことするんだ」
「するわよ」
凛花は少しだけ呆れた声を出した。
「私を何だと思ってるの」
「何でもできるお姉ちゃん」
「何でもはできないわ」
「でも大体できるじゃん」
「料理」
「…………」
「玉ねぎ」
「…………」
「以前、切ってもらったら大きさが全部違ったわね」
「もう忘れて」
「一番大きいの、四センチくらいあったよ」
「忘れなさい」
凛花の声が少し低くなる。
彩花は耐えきれず笑った。
「ごめん、ごめん」
「全然反省してないでしょう」
「してるよ」
「笑いながら言わないの」
いつもの姉妹の会話だった。
けれど彩花は、少しだけ嬉しかった。
何でもできるように見える姉が、自分から失敗した話をする。
最近、以前よりそういうことが増えた気がする。
なぜなのかまでは考えなかった。
ただ、少しだけ姉との距離が近く感じられた。
やがて大きな交差点へ着く。
ここから凛花は駅方面へ、彩花は市立中央図書館のある公共施設地区へ向かう。
「じゃあ、私こっち」
「ええ」
「部活頑張ってね」
「彩花も気をつけて。雨が降ったらちゃんと傘を使うのよ」
「分かってるって」
「それと」
凛花が一瞬だけ止まる。
「それと?」
「……何でもない」
「何?」
「帰り、遅くならないように」
「はーい」
彩花は手を振り、図書館の方へ歩いていった。
凛花はその背中を数秒見送る。
(何を言おうとしたの、私)
九条君に会ったら。
その先に続ける言葉などない。
気をつけて、と言えば何に気をつけるのか聞かれる。
仲良くしすぎないで、と言う権利もない。
そもそも九条悠真が彩花へ何かしたわけでもない。
「……行こう」
凛花は小さく息を吐き、駅へ向かった。
午後一時五十分。
彩花は青凪市立中央図書館へ入った。
自動ドアが開くと、外より少し冷たい空気が頬へ触れる。
日曜日の午後ということもあり、館内にはそれなりに人がいた。児童書コーナーから小さな子供の声が聞こえ、カウンター前には数人の利用者が並んでいる。
彩花は返却する本を持っていなかったので、そのまま新刊棚へ向かった。
先週借りた本はまだ半分ほど残っている。
今日はそれを館内で読み、気になる本があれば追加で借りるつもりだった。
(九条君、いるかな)
一度だけ思う。
先週、本の感想を話した。
思っていた以上に楽しかった。
だから今日もいれば少し話すかもしれない。
いなければ普通に本を読む。
彩花の中では、それ以上でもそれ以下でもなかった。
新刊棚を一周する。
気になった本を一冊手に取り、裏表紙の紹介文を読む。
「面白そう」
小さく呟いたところで、少し離れた場所から聞き覚えのある声がした。
「水瀬さん?」
顔を上げる。
数メートル先に悠真が立っていた。
片手には二冊の本を持っている。
「あ、九条君」
彩花は自然に笑った。
「こんにちは」
「こんにちは」
悠真も近づいてくる。
「今日も会いましたね」
「ああ」
「四週連続?」
「……そうなるな」
悠真の返事が僅かに遅れた。
四週連続。
彩花に言われて初めて、その数字をはっきり意識した。
「すごいですね」
「何が?」
「偶然って結構続くんだなって」
「…………」
「九条君?」
「いや、そうだな」
悠真は何とか頷いた。
彩花は完全に偶然だと思っている。
間違ってはいない。
待ち合わせはしていない。
ただし、自分が毎週ほぼ同じ時間にここへ来ていることまで含めて偶然と呼んでいいのかは、少し怪しくなってきた。
その疑問は口にしなかった。
「先週借りてた本、読んでる?」
「まだ半分くらいです」
「面白い?」
「面白いですよ。ただ、ちょっと登場人物多くて」
「ああ、分かる」
「九条君、読んだことあるんですか?」
「去年読んだ」
「ほんと?」
彩花の目が明るくなる。
「じゃあ、絶対ネタバレしないでくださいね」
「しない」
「本当に?」
「信用がないな」
「九条君、真面目だから、説明しようとしてうっかり言いそう」
「どういう評価なんだ」
「いい意味ですよ?」
「いい意味に聞こえない」
彩花がくすくす笑う。
悠真も少しだけ表情を緩めた。
最初の頃なら、その笑顔だけで内心が大騒ぎしていた。
今も嬉しいことには変わりない。
ただ、少しずつ彼女と話すことそのものに慣れ始めている。
少なくとも、毎回言葉を失うほどではなくなった。
「九条君は何借りるんですか?」
「まだ決めてない。この二冊で迷ってる」
「見てもいいですか?」
「ああ」
悠真が持っていた二冊を見せる。
彩花は題名と表紙を交互に見た。
「こっちは読んだことあります」
「本当?」
「文芸部の先輩に借りました。結構好きでしたよ」
「どんな感じ?」
「それ聞いちゃっていいんですか?」
「ネタバレなしで」
「さっきの仕返しですか?」
「違う」
彩花は少し考えた。
「派手な話じゃないです。でも、登場人物同士があんまり本音を言わないから、そういうの好きなら面白いと思います」
「水瀬さんが好きそうだな」
「そうなんですよ」
嬉しそうに頷く。
「じゃあ、こっちにする」
「早くないですか?」
「参考にしただけだ」
「私が好きって言ったからじゃなくて?」
「それも参考の一つだ」
悠真は普通に答えた。
彩花も「じゃあ責任重大ですね」と笑うだけだった。
言った本人だけが、一拍遅れて自分の発言を振り返る。
彼女が好きだと言った本だから興味を持った。
それは事実だ。
以前ならそこから余計な分析を始めていたかもしれない。
今はしなかった。
彩花が好きなものを知るのは楽しい。
その程度なら、もう認めている。
「水瀬さんは今日は?」
「この前借りたのを読むつもりです。あと、これがちょっと気になってて」
手にした新刊を見せる。
「知らないな」
「出たばっかりみたいです」
「読んだら面白かったか教えて」
「いいですよ」
ごく自然に交わされた言葉だった。
次に会う日も決めていない。
連絡手段もない。
それでも「読んだら教えて」と言えば、どこかでまた話すことを二人とも前提にしている。
彩花はその変化に気づいていなかった。
悠真は気づいたが、口にはしなかった。
二人はそこで別れた。
一緒に館内を回ることはしない。
彩花は窓際の閲覧席へ向かい、悠真は選んだ本を持って別の棚へ移る。
同じ建物の中にいる。
それだけだった。
けれど、一時間ほど経って彩花が本から顔を上げたとき、少し離れた席で悠真が読書をしているのが見えた。
(九条君、本当に読むの早いのかな)
先週の小説も数日で読み終えていた。
今日選んだ本も、もうかなりページが進んでいるように見える。
そんなことを思ったところで、悠真が顔を上げた。
偶然目が合う。
彩花は軽く会釈した。
悠真も会釈を返す。
それだけ。
すぐに二人とも本へ戻った。
彩花にとっては何でもない出来事だった。
悠真にとっても、以前ほど大事件ではなくなっている。
ただ、同じ場所でそれぞれ別の本を読んでいる時間が、妙に心地よかった。
三時半を過ぎた頃。
窓の外が急に暗くなった。
彩花が顔を上げる。
「……降りそう」
ガラス越しの空は、来たときよりずっと濃い灰色になっていた。
朝の天気予報を思い出す。
(折り畳み持ってきてよかった)
もう少し読んでから帰ろう。
そう考えて再び本へ目を落とした直後だった。
ぽつ、と窓ガラスに水滴がついた。
続いて二つ、三つ。
数十秒もしないうちに、細かな雨粒が窓一面へ広がっていく。
館内のあちこちでも利用者が窓へ目を向け始めた。
「雨だ」
「傘持ってきた?」
「車だから大丈夫」
小さな声が飛び交う。
彩花は鞄の中を確認した。
財布。
スマートフォン。
ハンカチ。
読みかけの本。
折り畳み傘。
「…………」
もう一度探す。
内ポケット。
外側。
底。
「……ない」
朝、紗月に「ちゃんと入れなさい」と言われた。
彩花自身も「入れとく」と答えた。
そして。
(玄関に置いた)
思い出した。
靴を履くとき、下駄箱の上へ置いた。
そこから鞄へ入れた記憶がない。
「…………」
昨年の降水確率七十パーセント事件から、何も成長していなかった。
午後四時前。
雨脚は弱まるどころか、むしろ少し強くなっていた。
彩花は貸出手続きを終えた本を鞄へしまい、図書館の出入口付近に立っていた。
自動ドアの向こうでは、舗装された歩道がすっかり濡れている。
走って帰るには距離がある。
途中のコンビニで傘を買うこともできるが、そこまででも数分は濡れる。
「お母さんに迎え頼もうかな……」
スマートフォンを取り出す。
しかし、今日は耕助と紗月が午後から買い物へ行くと言っていた。
メッセージを確認すると、少し前に紗月から届いている。
『今お父さんとホームセンター。雨大丈夫?』
大丈夫ではない。
正直に返信しようとしたところで、背後から声がした。
「水瀬さん?」
振り返る。
悠真だった。
片手に借りた本が入っているらしい鞄を持ち、もう片方には黒い長傘がある。
「九条君」
「帰らないの?」
「帰りたいんですけど」
彩花は雨を見る。
悠真も同じ方向を見る。
それから彩花の手元へ視線を落とした。
「傘は?」
「…………」
「忘れた?」
「正確には、持ってくる途中までは覚えてたんです」
「途中?」
「玄関までは持ってきました」
「そこから?」
「下駄箱の上です」
悠真が黙った。
「笑っていいですよ」
「笑ってない」
「今、ちょっと笑いそうでしたよね」
「気のせいだ」
「お姉ちゃんと同じこと言う」
彩花は少し頬を膨らませた。
悠真は口元を隠すように一度咳払いする。
「迎えは?」
「両親が出かけてて。頼めば来てくれると思うんですけど、ちょっと遠いところにいるみたいで」
「そうか」
「コンビニで傘買おうかな」
「ここからだと少し濡れるな」
「ですよね」
二人で外を見る。
雨はしっかり降っている。
そこで悠真は、自分の長傘へ目を落とした。
一つの選択肢が浮かぶ。
すぐに口へ出しかけた。
だが、止めた。
以前の自分なら、相手が困っていると分かった瞬間に「送る」と言っていたかもしれない。
けれど彩花には彩花の都合がある。
自宅の場所も知らない相手に、突然家まで送ると言われれば困る可能性もある。
「水瀬さん」
「はい?」
「もし嫌じゃなければ、コンビニまで傘に入る?」
家まで送る、ではない。
歩いて数分のコンビニまで。
そこで彩花が傘を買えば、あとは別々に帰れる。
「え」
彩花は一瞬、悠真と傘を交互に見た。
恋愛的な意味ではなく、単純に距離の近さを想像したのだ。
「でも、九条君濡れません?」
「この傘なら二人でもコンビニくらいまでは大丈夫だと思う」
悠真が持っているのは大きめの長傘だった。
確かに、数分程度なら問題なさそうに見える。
「……じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
彩花が笑った。
悠真は頷く。
内心がまったく平静ではないことは、顔に出さないようにした。
自動ドアが開く。
雨音が一気に大きくなった。
悠真が傘を開く。
黒い傘の下へ入り、彩花もその隣へ立った。
「…………」
「…………」
歩き出す。
近い。
当然だった。
一つの傘へ二人で入っているのだから。
図書館で隣の席へ座ったときよりも近い。
悠真は右手で傘を持ち、彩花はその左側を歩く。
肩と肩の間には僅かな隙間しかない。
(近い)
そこまでは事実なので認める。
問題は、その先を考え始めると確実におかしくなることだった。
悠真は前を見る。
「九条君」
「何?」
「そっち濡れてません?」
「大丈夫」
「傘、こっち寄りすぎですよ」
「そうか?」
「そうですよ」
彩花が傘の柄へ視線を向ける。
「もう少し真ん中でいいです」
「でも水瀬さんが濡れるだろ」
「九条君が濡れたら意味ないじゃないですか」
「コンビニまで数分だから」
「私だって数分ならちょっとくらい平気です」
悠真が傘を少し中央へ戻す。
「これで?」
「はい」
彩花は満足そうに頷いた。
その数秒後、風が吹いた。
「わっ」
雨が斜めに入り込み、彩花が反射的に悠真の方へ寄る。
腕が軽く触れた。
「ご、ごめんなさい」
「いや」
すぐに離れる。
彩花は特に何も気にせず、雨へ眉を寄せた。
「結構強いですね」
「そうだな」
悠真もそれだけ答えた。
耳が少し熱くなったことには触れない。
今ここで自分の内心へ意識を向ければ、たぶんまともに歩けなくなる。
だから雨を見る。
道路を見る。
信号を見る。
安全にコンビニまで行く。
それだけ考えることにした。
「でも、助かりました」
彩花が言う。
「九条君いなかったら、たぶん走ってました」
「それはやめた方がいい」
「ですよね」
「本も濡れる」
「あ、それは絶対嫌です」
「自分より本なのか」
「私は乾かせますけど、本は一回濡れたら戻らないじゃないですか」
「確かに」
「だから鞄だけ抱えて走るかも」
「それだと水瀬さんが全部濡れるだろ」
「家帰ったらお風呂入ればいいし」
「風邪をひく」
「九条君、お母さんみたいなこと言いますね」
「…………」
「ごめんなさい」
彩花が笑う。
「でも、そういうところ優しいですよね」
雨音の中でも、その言葉ははっきり聞こえた。
悠真は前を向いたまま答える。
「普通だと思うけど」
「そういうのを普通にできる人って、いい人だと思いますよ」
「…………ありがとう」
今度は止まらず返せた。
彩花はそれ以上何も言わなかった。
彼女にとっては、親切にしてもらった相手への素直な評価だった。
九条君はいい人。
その位置は、初めて会った日から大きく変わっていない。
一方で悠真は、その言葉を嬉しいと思いながらも、どこか妙な引っかかりを覚えていた。
理由はまだ分からない。
少なくとも今は、それを掘り下げる必要もなかった。
コンビニまでは、本当に数分だった。
自動ドアの前まで来ると、彩花が傘の下から出る。
「ありがとうございました」
「いや」
「傘買ってきます」
「ああ」
「九条君は?」
「俺はこのまま帰る」
「そっか」
彩花は一度店内へ入ろうとした。
そこで振り返る。
「九条君」
「何?」
「本当にありがとう。助かりました」
また笑った。
「じゃあ、また図書館で」
「ああ。また」
彩花は店内へ入っていく。
悠真は数秒その場に立ち、それから傘を持ち直して歩き始めた。
雨はまだ降っている。
肩を見る。
右肩が少し濡れていた。
「…………」
別に構わない。
数分程度だ。
それよりも。
『じゃあ、また図書館で』
先週までは「また」だった。
今日は、その後ろに場所がついた。
次の日曜日とは言っていない。
約束でもない。
それでも、また図書館で会うことを、彩花も自然に想定している。
悠真はそれだけを受け取った。
それ以上の意味を勝手につけることはしなかった。
ただ、口元が少し緩むのまでは止められなかった。
彩花が家へ着いたのは、午後四時半を少し過ぎた頃だった。
「ただいまー」
「おかえり」
リビングから紗月の声がする。
「雨大丈夫だった?」
「大丈夫だった」
「傘あった?」
「…………」
靴を脱ぎながら、彩花は黙った。
紗月が廊下へ顔を出す。
「彩花?」
「玄関に忘れました」
「やっぱり!」
「でも途中で買ったから!」
彩花はコンビニで購入した透明傘を持ち上げた。
「そこまでどうしたの?」
「九条君が傘入れてくれた」
「…………」
紗月の表情が止まる。
「九条君?」
「うん。図書館にいたから」
「今日も?」
「今日も」
「四週連続?」
「そうなるね」
彩花は何も気にせず靴を揃えた。
「コンビニまで一緒に行って、そこで傘買った」
「二人で一つの傘?」
「そうだけど?」
「へえ」
「何?」
「別に?」
「お母さんまでお姉ちゃんみたいな言い方しないでよ」
彩花は不思議そうな顔をしながらリビングへ入った。
買い物袋を片づけていた耕助がこちらを見る。
「おかえり」
「ただいま」
「濡れなかったか?」
「ちょっとだけ。九条君が傘入れてくれたから」
「九条君?」
「図書館でよく会う人」
「男?」
「男の子だよ」
耕助の手が止まった。
紗月が横で笑いを堪えている。
「何歳?」
「同い年」
「学校は?」
「桜華学園」
「家は?」
「知らない」
「連絡先は?」
「知らない」
「付き合ってるのか?」
「なんで!?」
彩花の声が一段大きくなった。
「全然違うよ!」
「そうなのか」
「本の話するだけ!」
「そうか」
「そうだよ!」
耕助は少し安心したように頷いた。
紗月が呆れた顔で夫を見る。
「あなた、分かりやすすぎ」
「何がだ」
「何でもないわ」
そこへ玄関の扉が開く音がした。
「ただいま」
「お姉ちゃん帰ってきた」
彩花が廊下を見る。
凛花がリビングへ入ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
彩花は何気なく言った。
「雨すごかったね」
「ええ。彩花、傘持ってた?」
「忘れた」
「…………」
凛花の目が細くなる。
「朝、持ったでしょう」
「玄関までは」
「その先は?」
「下駄箱の上」
「彩花」
「でも大丈夫だったよ。九条君がコンビニまで傘入れてくれたから」
凛花が止まった。
完全に。
「……誰が?」
「九条君」
「どこまで?」
「図書館からコンビニ」
「一つの傘で?」
「うん」
「…………」
「お姉ちゃん?」
凛花は黙って彩花を見る。
彩花は本当に何も分かっていない顔をしている。
(四週連続)
そして。
(相合傘)
違う。
凛花はすぐに訂正する。
雨が降った。
彩花が傘を忘れた。
九条悠真がコンビニまで入れてくれた。
それだけだ。
普通の親切。
学校で聞いている九条悠真の人柄を考えれば、困っている相手を放っておかなかったとしても不思議ではない。
(でも相合傘)
言葉だけが戻ってくる。
「お姉ちゃん?」
「何?」
「また怖い顔してる」
「してない」
「してるよ」
「してないわ」
「今日はしてると思う」
「彩花」
「はい」
「次から傘はちゃんと鞄に入れなさい」
「……はい」
思ったより強い声が出た。
彩花が素直に頷く。
凛花は小さく息を吐いた。
九条悠真が悪いことをしたわけではない。
むしろ妹を濡らさずに済ませてくれたのだから、礼を言うべき立場だ。
分かっている。
分かっているのだが。
(……九条君)
警戒対象としての名前が、先週より少しだけ大きくなった。
同じ頃。
九条家の玄関では、悠真が濡れた傘を閉じていた。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
使用人へ挨拶を返し、傘を預ける。
廊下を進んだところで、ハクが駆けてきた。
「ワン!」
「ハク」
悠真がしゃがむ。
ハクはいつものように身体を寄せてきたが、すぐに鼻を悠真の右肩へ近づけた。
「何だ?」
鼻先が濡れた部分へ触れる。
「……雨か」
「兄様?」
階段の方から琴葉の声がした。
悠真が顔を上げる。
「おかえりなさいませ」
「ああ。ただいま」
琴葉が階段を下りてくる。
その視線が悠真の肩へ向いた。
「右側だけ濡れていらっしゃいますね」
「少しな」
「傘をお持ちでしたよね?」
「持っていた」
「壊れました?」
「壊れてない」
「では、なぜ右肩だけ?」
「…………」
琴葉が一段下りる。
「兄様」
「何だ」
「もしかして」
「違う」
「まだ何も言っておりません」
「…………」
数日前にも同じことをした。
悠真は目を閉じた。
琴葉の口元がゆっくりと上がる。
「どなたかを傘へ入れて差し上げたのですか?」
「……コンビニまでだ」
「まあ」
「雨が降っていた。相手が傘を忘れていた。それだけだ」
「私はまだ、お相手がどなたかも聞いておりませんけれど」
「…………」
「水瀬彩花さんですか?」
悠真が黙った。
それだけで十分だったらしい。
琴葉は両手を胸元で合わせた。
「まあ」
「その反応をやめろ」
「私、何かおかしな反応をしました?」
「してる」
「ただ驚いただけです」
「楽しんでいるだろ」
「少し」
「認めるのか」
「兄様が最近とても分かりやすいので」
琴葉は涼しい顔で言った。
「それで?」
「それで、とは?」
「コンビニまで歩かれたのでしょう?」
「ああ」
「何かお話しになりました?」
「本の話と、傘を忘れた話くらいだ」
「水瀬さんは?」
「何が」
「楽しそうでした?」
悠真は少し考える。
雨の下で、彩花は何度か笑っていた。
『九条君、お母さんみたいなこと言いますね』
『そういうところ優しいですよね』
『そういうのを普通にできる人って、いい人だと思いますよ』
「……たぶん」
「そうですか」
琴葉が微笑む。
今度はからかう笑いではなかった。
「よかったですね、兄様」
「…………」
悠真は一瞬だけ返答に迷った。
けれど、否定する理由もなかった。
「ああ」
短く答える。
琴葉が少し目を見開いた。
「何だ?」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
「以前なら『何がだ』とおっしゃっていたと思いまして」
「…………」
「進歩ですね」
「琴葉」
「では、私は部屋へ戻ります」
「逃げるな」
「ハク、兄様をお願いしますね」
「ワン!」
琴葉は楽しそうに階段を上がっていった。
悠真は追わなかった。
ハクの頭を撫でながら、先ほどまでの雨を思い出す。
一本の傘。
数分の道。
それだけだった。
けれど図書館の中で話すのとは、少し違った。
彩花がどんなふうに歩くのか。
雨に濡れそうになると少し肩を縮めること。
自分より本が濡れることを気にすること。
家へ帰れば風呂に入ればいい、と簡単に言ってしまうこと。
図書館で本について話しているだけでは知らなかったことを、ほんの少しだけ知った。
「……いい人、か」
悠真が小さく呟く。
嬉しい。
そう思ってもらえていること自体は嬉しい。
なのに、なぜかそれだけでは少し物足りないような気もした。
その理由を考えようとして、やめる。
急ぐ必要はない。
今はまだ。
また会えれば嬉しい。
話せれば楽しい。
それで十分だった。
夜になっても、雨はしばらく窓を叩き続けていた。
彩花は自室の机で、図書館から借りてきた本を開いている。
数ページ読んだところで、右手を止めた。
(九条君、この本読んだことあるんだよね)
読み終えたら、感想を話せるかもしれない。
そのときは、先週とは逆になる。
今度は自分が読んで、悠真がすでに内容を知っている。
(ネタバレされないようにしないと)
少しだけ笑う。
そこで、午後の雨を思い出した。
一つの傘へ二人で入った。
距離は近かった。
腕も一度だけ触れた。
けれど、彩花の中に残っているのは恥ずかしさでも胸の高鳴りでもなかった。
(やっぱり九条君、いい人だな)
困っていたら自然に助けてくれた。
家まで送ると言うのではなく、コンビニまででいいかと聞いてくれた。
断りにくくならない距離を選んでくれたことが、彩花にはありがたかった。
(今度会ったら、もう一回お礼言おう)
そう思って、本へ戻る。
数分後には物語へ夢中になっていた。
一方、九条家では。
「兄様」
「何だ?」
夕食後のリビングで、琴葉が悠真を呼び止めた。
「次の日曜日も図書館へ?」
「行くと思う」
今度は返答に間がなかった。
琴葉が僅かに目を細める。
「そうですか」
「ああ」
「水瀬さんに会えるといいですね」
「そうだな」
「…………」
「何だ?」
「いえ」
琴葉が口元を手で隠す。
「何でもありません」
「絶対に何かあるだろ」
「兄様」
「なんだ」
「気持ち悪いです」
「なぜだ」
「少し前までなら、今のところで五つくらい言い訳が続いていました」
「…………」
「本を返すためだとか、新しい本を探すためだとか、図書館へ行くこと自体は以前から習慣だったとか」
「そこまで言ってない」
「似たようなことはおっしゃっていました」
「…………」
悠真は反論できなかった。
琴葉は楽しそうに笑い、ソファから立ち上がる。
「おやすみなさいませ、兄様」
「ああ。おやすみ」
琴葉が去ったあと、悠真は窓の外へ目を向けた。
雨は少し弱くなっている。
次の日曜日。
彩花が来るかどうかは分からない。
約束はない。
それでも自分は図書館へ行く。
そして、会えれば嬉しい。
もうそこに理由を並べる必要はなかった。
同じ夜、彩花はそんなことを何も知らず、借りてきた本を読みながら欠伸をしていた。
九条悠真は、図書館でよく会う人。
本の話ができる人。
一緒にいると話しやすくて、困ったときには自然に助けてくれる、いい人。
その認識は、今日もまだ変わらない。
ただ一つ。
これまで図書館の中だけにあった二人の時間が、雨の降る帰り道へ、ほんの数分だけ外へ伸びた。
それが何かの始まりだったのかどうかを、彩花はまだ考えもしなかった。




