第3話 読み終えたあとに
月曜日の放課後、私立桜華学園高等部の生徒会室には、窓から差し込む西日が長く伸びていた。
五月も半ばを過ぎ、日は少しずつ長くなっている。開けられた窓から入り込む風が薄いカーテンを揺らし、その向こうから運動部の掛け声やホイッスルの音が遠く聞こえてくる。
室内では十数人の生徒が、それぞれの机で資料を広げていた。
「九条、こっちの確認終わった?」
「はい。二ページ目の備品数だけ申請書と一致していません。去年の数字がそのまま残っているようです」
「あ、本当だ」
三年生の男子生徒が資料を覗き込み、赤ペンで数字へ印をつけた。
「危なかった。これ、そのまま先生に出したら戻されてたな」
「申請前に気づいたので問題ありません。修正後、念のため元の台帳とも照合しておいた方がいいと思います」
「了解。そこまでやっとく」
男子生徒は頷き、別の資料を手に取る。その横で作業していた二年生が「一年なのに頼りになるなあ」と笑ったが、悠真は軽く頭を下げるだけで、すぐに自分の仕事へ戻った。
生徒会の仕事は嫌いではなかった。
確認すべき項目があり、期限があり、問題があれば原因を探して修正する。必要な情報を整理し、一つずつ処理していけば、少なくとも何をすればいいのか分からなくなることはない。
悠真は次の資料を取り、記載された数字を確認する。
一枚目。
二枚目。
三枚目まで目を通したところで、隣から声が飛んできた。
「九条」
「なんだ?」
「それ、さっき確認してなかった?」
悠真は顔を上げた。
声をかけてきたのは、同じ一年生の榊原湊だった。
内部進学組で、中等部の頃から悠真とは付き合いがある。明るく人当たりのいい性格で、生徒会の仕事でも周囲との調整役を自然に引き受けることが多い。
「これか?」
「それ」
悠真は手元の資料へ視線を落とした。
確かに見覚えがある。
先ほど確認を終え、左側の処理済みの束へ置いたはずだった。
「誰か戻したのか?」
「いや」
湊が口元を緩める。
「お前が自分で取った」
「…………」
「しかも、二回目」
悠真は数秒、資料を見つめた。
それから何事もなかったように処理済みの束へ戻す。
「なら問題ない」
「いや、問題は資料じゃなくてお前なんだけど」
「俺?」
「九条悠真が同じ資料を二回確認してる」
「確認は多い方がいい」
「ものは言いようだな」
湊が椅子の背へ身体を預けた。
「疲れてる?」
「疲れてはいない」
「寝不足?」
「昨日も普段と同じ時間に寝た」
「じゃあ考え事?」
そこで悠真の返答が少しだけ遅れた。
否定することはできた。
実際、生徒会の仕事に支障が出るほど何かへ悩んでいるわけではない。
ただ、昨日まで知らなかった一人の名前が、思っていた以上にはっきりと頭へ残っている。
『私は水瀬彩花です』
図書館で知った名前。
水瀬彩花。
県立青葉高校の一年生で、文芸部。
それまで「先週図書館で会った女の子」でしかなかった相手へ名前がついた。それだけのことなのに、昨日から思い出すときには自然とその三文字が浮かぶようになっている。
「……少しな」
悠真が答えると、湊の眉が上がった。
「認めるんだ」
「考え事くらいする」
「するだろうけど、お前が仕事中に引きずるのは珍しいから」
湊は机へ頬杖をつき、悠真の顔を眺める。
「何考えてんの?」
「お前に話すようなことじゃない」
「ふうん」
妙に楽しそうな声だった。
悠真が嫌な予感を覚えた直後、湊はあっさりと言った。
「じゃあ、女か」
「なぜそうなる」
返事が早すぎた。
言った瞬間、悠真自身が気づいた。
もちろん湊も気づいた。
「へえ」
「何だ」
「いや?」
「その顔をやめろ」
「どの顔だよ」
「今の顔だ」
「俺、普通にしてるけど」
していない。
完全に面白がっている。
悠真が睨むと、湊は笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
「分かった。もう聞かない」
「最初から聞くな」
「ただ、相談したくなったら言えよ。恋愛経験豊富とは言わないけど、お前よりはたぶん役に立つから」
「恋愛の話だとは言っていない」
「うん」
「…………」
「九条」
「なんだ」
「今の否定、さっきより弱いぞ」
「仕事をしろ」
「はいはい」
湊は笑いながら自分の資料へ戻った。
悠真も息を一つ吐き、今度こそ目の前の仕事へ集中する。
恋愛。
その言葉について考える必要はない。
今の時点で、自分でも何なのか分かっていないものへ名前をつける必要もなかった。
ただ一つ、昨日よりはっきりしたことがある。
次に彼女を見かけたときは、もう「名前も知らない相手」ではない。
「水瀬さん」
小さく頭の中で呼んでみる。
その瞬間、『九条君』と自分を呼んだ声まで思い出したので、悠真は何も考えなかったことにして次の資料を取った。
同じ頃、県立青葉高校の文芸部室では、彩花が二年生の先輩の原稿を読んでいた。
桜華学園の整った生徒会室とは違い、青葉高校の文芸部室は少し狭い。
壁際には古い本棚が並び、過去の部誌や寄贈された小説が隙間なく収められている。窓辺には誰が置いたのか分からない小さな観葉植物があり、長机の端には部員が持ち込んだ菓子の袋まで置かれていた。
彩花は、そんな少し雑然とした部室が好きだった。
「うーん……」
「どう?」
向かいに座る先輩が不安そうに尋ねる。
彩花は原稿から顔を上げ、少し迷ってから中央付近を指さした。
「面白いです。ただ、ここだけちょっと気になって」
「主人公が怒るところ?」
「はい。それまでずっと我慢してたから、怒ること自体は分かるんです。でも、ここで急に爆発するより、その直前にもう一つ何かあったら、もっと『とうとう我慢できなくなった』って感じがするかなって」
「もう一押し欲しいってこと?」
「そんな感じです。でも、私がそういうの好きなだけかもしれないので、絶対じゃないですよ」
「いや、分かる。ちょっと直してみる」
先輩が原稿へ書き込みを始める。
彩花は自分の椅子へ座り直し、窓の外へ目を向けた。
放課後の校庭では運動部の生徒たちが走っている。開いた窓から吹き込んだ風が机の上の原稿を揺らしたので、彩花は慌てて手で押さえた。
「危な」
「窓閉める?」
「大丈夫です。涼しいから、このままがいいです」
原稿の端へ文鎮代わりの本を置く。
こうして誰かの文章を読み、感想を伝える時間も文芸部の楽しみの一つだった。
同じ文章を読んでも、気になるところは人によって違う。
彩花が好きだった場面を別の部員はそれほど気に留めず、自分が何気なく読み流した一文を「ここが一番好き」と言われることもある。
だから面白い。
日曜日に悠真へ「同じ本を読んだ人と感想を話すのが好き」と言ったのも、本心だった。
(九条君、もう読み始めたかな)
そこで昨日のことを思い出した。
自分が返却した小説は、そのあと悠真が借りている。
読む速度までは聞いていないから、すぐに読み終えるとは限らない。
それでも。
(どこが好きだったかは聞いてみたいな)
主人公が最後に選んだ行動。
途中で何度も登場する古い切符。
何気ない会話の中に隠されていた昔の後悔。
同じ作品を読んで、悠真がどこへ目を向けるのかには興味があった。
「水瀬?」
「え?」
「今度は水瀬が止まってる」
「あ、ごめんなさい」
彩花は慌てて先輩へ向き直った。
「ちょっと本のこと考えてました」
「また何か読みたいの見つけた?」
「そんな感じです」
「本当に本好きだよね」
「好きですから」
彩花は笑い、再び原稿へ視線を落とした。
九条悠真。
親切で、少し変わっていて、本の話をすると楽しい男の子。
次に図書館で会ったら、読んだかどうか聞いてみよう。
そう思ったものの、その日がいつになるのかまでは考えなかった。
その日の夜。
九条家の自室で、悠真は例の小説を開いていた。
窓の外には夜の庭が広がり、遠くに庭園灯の淡い光が見える。机の上には学校の課題と生徒会関係の資料が綺麗に片づけられ、その中央へ図書館から借りた一冊だけが置かれていた。
物語の冒頭は静かだった。
主人公が列車の窓から流れる景色を眺めているところから始まり、どこへ向かっているのかも、なぜ一人なのかも、すぐには説明されない。
十ページほど進んだところで、同じ車両の乗客から故郷について尋ねられる。
『戻るつもりはない』
主人公はそれだけ答え、窓の外へ目を向ける。
悠真はそこでページをめくる手を止めた。
悲しいとも、帰りたいとも書かれていない。
それでも、直前の場面をもう一度読み返すと、主人公が窓の外にある小さな駅を長く見ていたことに気づく。
(なるほど)
日曜日に聞いた彩花の言葉が、そこで初めて腑に落ちた。
彼女が好きだと言っていたのは、こういうことなのだろう。
書かれている台詞だけを追うのではなく、視線や行動から、その奥にあるものを考える。
悠真は最初の数ページへ戻り、今度は少しゆっくり読み直した。
すると、一度目には気に留めなかった描写がいくつも目に入る。
面白い。
それからは彩花のことを考えるより、物語そのものへ意識が向いた。
主人公が列車を降りる。
知らない町へ滞在する。
昔の知人から届いた手紙を何度も開いては閉じる。
読み進めるうちに時間の感覚が薄れ、気づけば三十分以上が経っていた。
扉が軽く二度叩かれたのは、その頃だった。
「兄様、よろしいですか?」
「琴葉か。入っていい」
「失礼します」
妹の琴葉がトレイを持って入ってきた。
腰まで届く黒髪を揺らしながら机のそばまで来ると、湯気の立つカップを端へ置く。
「母様がお茶を淹れてくださいましたので」
「ありがとう」
「ずいぶん熱心ですね」
琴葉の視線が開かれた本へ向いた。
「昨日借りていらした本ですか?」
「ああ」
「先週は借りられなかったとおっしゃっていた?」
「なぜ知っている」
「昨日、父様と母様がお話しになっていました」
「……そうか」
悠真は嫌な予感を覚えた。
「何を話していた?」
「兄様が二週続けて同じ時間帯に図書館へ行かれたことを」
「…………」
「父様は特に気にしていらっしゃいませんでした」
「父様は、ということは?」
「母様は少し笑っていらっしゃいました」
やはり。
悠真は眉間へ指を当てた。
「琴葉」
「はい?」
「何もないからな」
「私は何も尋ねておりませんけれど」
「…………」
琴葉の表情は穏やかだった。
だからこそ腹立たしい。
「それでは、お邪魔しました」
「待て」
「おやすみなさいませ、兄様」
止める間もなく琴葉が部屋を出ていく。
閉じた扉を見つめ、悠真はしばらく黙っていた。
それからカップを手に取り、一口飲む。
「……誰も何も聞いていないのに、なぜ俺は否定したんだ」
答えを出すのはやめた。
少なくとも、今は本の方が面白かった。
木曜日の夕方。
水瀬家のキッチンには、生姜焼きの香ばしい匂いが広がっていた。
制服から部屋着へ着替えた彩花は、紗月と並んで夕食を作っている。フライパンから肉の焼ける音が響き、換気扇の下には醤油と生姜の匂いが立ち上っていた。
「彩花、ドレッシングどうする?」
「作るよ。醤油とお酢とごま油でいい?」
「お願い」
彩花はキャベツを千切りにし、トマトときゅうりを食べやすい大きさへ切る。冷蔵庫に残っていたコーンも足し、ボウルの中で軽く混ぜた。
「そういえば」
豚肉を裏返しながら、紗月が口を開いた。
「この前、図書館で本を取ってくれた男の子、また会った?」
「ああ、会ったよ」
「そうなの?」
「うん。日曜日に」
彩花は調味料を量りながら答える。
「今度は名前も聞いたよ。九条悠真君っていうの」
「九条君」
「お姉ちゃんと同じ桜華学園の一年生だって」
「あら」
紗月が少し意外そうな顔をした。
「凛花と同じ学校なのね」
「うん。学年違うから、知らないかもしれないけど」
「何を話したの?」
「ほとんど本の話だよ。好みがちょっと似てるみたいで、話しやすかった」
「楽しそうね」
「楽しかったよ」
彩花は何の迷いもなく答えた。
好きな本について話すのは楽しい。
文芸部でも、同じ作品を読んだ部員と話していると時間を忘れることがある。それと大きく違う感覚ではなかった。
「いいお友達になれるといいわね」
「友達?」
彩花の手が止まった。
小さな器の中で、混ぜかけのドレッシングが揺れる。
「まだ友達っていうほどじゃないと思う」
「あら、そうなの?」
「二回しか会ってないし、連絡先も知らないし」
「じゃあ知り合い?」
「それもなんか固いなあ」
「難しいわね」
紗月が笑う。
彩花も少し考えたあと、最もしっくりくる言葉を見つけた。
「図書館で会う人、かな」
「そのままね」
「今はそれでいいんじゃない?」
完成したドレッシングをサラダへかけ、食卓まで運ぶ。
図書館で会う人。
本の話ができる人。
少し変わっているけれど、親切で話しやすい人。
今の彩花にとって悠真は、そのくらいの場所にいた。
その夜、剣道部から帰宅した凛花は、夕食の席でその名前を知ることになった。
「そういえば、彩花」
紗月が味噌汁をよそいながら何気なく口にする。
「この前の図書館の子と、また会ったんですって?」
「うん」
彩花が答えた瞬間、凛花の箸が僅かに止まった。
「……また?」
「先週の日曜日に」
「偶然?」
「たぶん。約束してたわけじゃないし」
「そう」
凛花はそれだけ答えた。
しかし紗月が次に口にした言葉で、今度ははっきりと動きを止める。
「九条君っていうんでしょう?」
「九条?」
「九条悠真君」
「…………」
凛花が彩花を見る。
「お姉ちゃん?」
「九条悠真?」
「知ってるの?」
「……名前は」
直接親しいわけではない。
学年も違う。
それでも、桜華学園に通っていて九条悠真の名前を知らない生徒の方が少ないだろう。
九条家の長男。
高等部一年生。
初等部から桜華学園へ通う内部進学組で、入学直後から生徒会執行部に入っている。
成績も優秀。
教師からの信頼も厚い。
容姿も整っているため、女子生徒からかなり注目されていることも知っていた。
凛花自身、廊下や校内行事で何度か見たことがある。
誰に対しても礼儀正しく、必要なことはきちんとこなす。少なくとも、悪い噂を聞いたことはない。
「やっぱり有名なんだ?」
「まあ、それなりには」
「へえ」
彩花は生姜焼きを一口食べた。
反応はそれだけだった。
九条という家名を聞いて驚くわけでもない。
学校で有名な男子だと聞いて目を輝かせるわけでもない。
「学校でもあんな感じなのかな」
「どんな感じ?」
「真面目で、ちょっと変わってる」
「変わってる?」
「なんか、ときどき急に止まるんだよね」
「止まる?」
「うん。話してる途中で」
「…………」
凛花の眉が僅かに動いた。
「何を話しているとき?」
「本の話とか」
「他には?」
「他?」
「……何でもない」
危なかった。
凛花は味噌汁へ視線を落とす。
(彩花は何とも思ってない)
それは見れば分かる。
好きな男子について話している顔ではない。
そもそも彩花自身、「友達というほどでもない」と紗月へ話していたらしい。
なら、今すぐ心配する必要はない。
問題があるとすれば。
(九条君の方は?)
凛花は学校で見かけた悠真を思い出す。
女子生徒から話しかけられても、必要以上に距離を縮めることはない。
冷たいわけではなく、誰にでも同じように丁寧なのだ。
そんな人間が、彩花と話している途中で何度も「止まる」。
(…………)
もちろん、それだけで何かを決めつけることはできない。
できないが。
(彩花は可愛いし)
凛花の中では、そこだけは一切の疑問が存在しなかった。
幼い頃からずっと可愛い。
今も可愛い。
寝癖があっても可愛いし、料理をしていても、本を読んでいても、何かに夢中になっているときも可愛い。
そんな彩花が楽しそうに本の話をして、あの笑顔を向けたら。
(……止まるくらいは、あり得る)
むしろ当然ではないだろうか。
「お姉ちゃん?」
「何?」
「怖い顔してるよ」
「してないわ」
「してる」
「気のせいよ」
「そうかなあ」
彩花は首を傾げたが、それ以上追及しなかった。
すぐに紗月へ「このタレ美味しいね」と話しかけ、食事の話へ戻っていく。
凛花も箸を動かした。
まだ何も起きていない。
妹が楽しそうに本の話をしている相手へ、姉が勝手に口を挟む理由もない。
だから何もしない。
ただし。
(九条悠真)
その名前だけは、しっかり覚えた。
金曜日の夜、悠真は小説を最後まで読み終えた。
主人公は故郷へ戻った。
けれど、幼い頃に別れた友人が待っているかもしれない駅には行かなかった。
昔住んでいた家の近くまで歩き、夜が明けるまで一人で町を眺める。
最後の一文を読み終えても、悠真はすぐには本を閉じなかった。
窓の外では風が庭木を揺らし、ときおり葉の擦れる音が聞こえてくる。机の時計は午後十一時を少し回り、広い家の中も昼間とは違う静けさに包まれていた。
会えなかったのではない。
会わなかった。
過去へ戻るためではなく、これから進むために故郷へ帰ったのなら、昔の関係へそのまま戻らなかったことにも意味がある。
「……俺も、この終わり方は好きだな」
静かな部屋へ、声が小さく落ちる。
彩花が気に入ったと言っていた結末を、自分も好きだと思った。
それが少し嬉しかった。
けれど、読み終えたあとに最も強く残ったのは、別の感覚だった。
この物語について話したい。
主人公が古い切符を最後まで捨てなかった理由。
途中で一度だけ故郷へ電話をかけようとして、番号を最後まで押さなかった場面。
最後に駅へ向かわなかった選択。
自分がどう読んだのかを話して、相手の考えも聞いてみたい。
そして、その相手はもう決まっていた。
(……水瀬さんと話したい)
悠真は閉じた本の表紙へ手を置いた。
以前なら、そこで「本の感想を話したいだけだ」と理由をつけていたかもしれない。
だが、今はそこまで否定する必要も感じなかった。
彩花と話したい。
彼女の考えを聞きたい。
少なくとも、それは事実だった。
ただし、次にいつ会えるのかは分からない。
連絡先は知らない。
約束もしていない。
だから日曜日に図書館へ行ったとしても、会える保証はどこにもなかった。
机の端に置いたスマートフォンへ目を向ける。
日曜日の予定は確認するまでもなく空いている。
(図書館には行こう)
その結論だけで十分だった。
本を返し、別の本を探す。
そして、もし彩花がいたら話す。
悠真はそれ以上考えず、読み終えた本を机の端へ置いた。
日曜日の午後一時四十二分。
悠真は青凪市立中央図書館の自動ドアをくぐった。
外はよく晴れていた。
日差しの下を歩いてきた身体へ、館内の少しひんやりした空気が触れる。入口付近では小さな子供が絵本を抱えて走りかけ、母親に「図書館では歩こうね」と小声で止められていた。
悠真は返却カウンターへ向かい、読み終えた小説を返す。
「ありがとうございました」
職員へ軽く頭を下げ、そのまま文学の棚へ向かった。
棚の間に彩花の姿はない。
それでも足を止めず、以前から気になっていた本を一冊抜き取る。
今日は読書をする。
会えたら話す。
会えなければ、それだけだ。
窓際の閲覧席へ腰を下ろし、本を開いた。
最初のうちは、内容もきちんと頭へ入った。
主人公が勤め先を辞めるところから始まる話で、淡々とした文章の中に時折挟まれる乾いた冗談が面白い。
二十ページほど進んだ頃、一度顔を上げた。
壁の時計は二時を少し過ぎている。
悠真はまた本へ戻った。
さらに読み進める。
二時二十分を過ぎた頃には、ページをめくる速度が少しだけ落ちていた。
今日は来ないのかもしれない。
そう思った。
約束はしていない。
毎週日曜日に来るとも聞いていない。
最初から分かっていたことだった。
それでも実際に会えない可能性が高くなってくると、胸の内に小さな落胆が残った。
(……俺は、思っていたより会いたかったんだな)
今度は、その気持ちを否定しなかった。
理由を分析することもしない。
会いたかった。
それだけだった。
同じ頃。
水瀬家の二階では、彩花がベッドへ寝転がって本を読んでいた。
窓は少しだけ開けてあり、レースのカーテンが風に揺れている。階下からはテレビの音と、ときどき耕助が笑う声が聞こえていた。
「彩花ー」
一階から紗月の声が届く。
「なにー?」
「今日、図書館行くんじゃなかったの?」
「……あ」
彩花は本から顔を上げた。
机の時計を見る。
二時十三分。
読み始めたときは、一時を少し過ぎたくらいだったはずだ。
「まだ決めてないー」
「そうなの?」
「今考えるー」
返事をして、本へ栞を挟む。
家でこのまま続きを読んでもいい。
外は晴れているから、図書館まで散歩するのも悪くない。
先週、新刊棚で気になった本もあった。
(どうしようかな)
そこでふと、先週の会話を思い出した。
(九条君、もう読み終わったかな)
もし会って、読み終えていたら感想を聞ける。
それは少し楽しそうだ。
けれど、悠真が今日も図書館へ来るとは聞いていない。
彩花は数秒だけ考えたあと、ベッドから立ち上がった。
「お母さん、やっぱり行ってくる!」
「はーい。気をつけてね」
「夕方までには帰る!」
鞄へ財布とスマートフォン、読みかけの本を入れる。
図書館へ行く理由は、今日も本だった。
九条悠真に会うためではない。
ただ、もし会えたなら。
本の感想を聞けたら、きっと楽しい。
そのくらいの小さな期待だけを持って、彩花は家を出た。
午後二時三十八分。
悠真は読みかけの本から顔を上げた。
今日は来ない。
そろそろ、そう考えてもよさそうだった。
残念ではある。
だが、約束していない相手をいつまでも待つのも違う。
そもそも今日は待ち合わせをしに来たわけではないのだ。
悠真は栞を挟み、立ち上がった。
借りて帰るかどうか少し迷ったものの、今日は別の作品を探すことにして、本を元の棚へ戻す。
そのまま隣の通路へ移ろうとした。
棚の向こう側から、一人の少女が歩いてくる。
肩へ鞄を掛け、並んだ背表紙へ視線を向けていた。
見間違えることはなかった。
水瀬彩花だった。
悠真の足が自然に止まる。
先ほどまで胸の内にあった落胆が、驚くほど簡単に消えていった。
自分でも呆れるほど分かりやすい。
けれど、それを分析する必要はもうなかった。
嬉しい。
ただ、それだけだ。
声をかけようとしたところで、彩花が顔を上げた。
目が合う。
「あ」
彩花の表情が明るくなる。
「九条君」
「……水瀬さん」
「今日もいたんですね」
「ああ」
悠真はなるべく普段通りに答えた。
彩花が近づいてくる。
先週よりも、互いの間にある空気が少しだけ自然になっていた。
「本、読み終わりました?」
「ああ。金曜日に」
「本当ですか?」
彩花の目が分かりやすく輝いた。
「どうでした?」
「俺も、最後は好きだった」
「ほんと?」
「ああ」
「よかった」
彩花が笑った。
最初の日に見たものと同じ、声を抑えた柔らかな笑い方だった。
悠真の返事が一瞬遅れる。
「九条君?」
「……なんでもない」
「また止まってますよ」
「分かってる」
「今日は自分で分かるんですね」
「毎回止まっているように言わないでくれ」
「でも、会うたびに一回は止まってません?」
「…………」
「ほら」
「今のは違う」
「何が違うんですか?」
「今のは、どう答えるべきか考えていただけだ」
「それを止まってたって言うんじゃないですか?」
正論だった。
悠真が言葉を失うと、彩花は楽しそうに笑った。
やはり、会えてよかった。
今度はその感情を自分の中で否定することもなかった。
「水瀬さん」
「はい?」
「少し、話せる?」
「本のことですか?」
「ああ」
「もちろんです。私も聞きたいです」
彩花はすぐに頷いた。
二人は並んで閲覧スペースへ向かった。
窓際の二人掛けの席が空いていたので、向かい合わせではなく、少し間を空けて隣へ座る。
窓の外では若葉が風に揺れている。
館内にはページをめくる音が流れ、少し離れた席では年配の男性が新聞を読んでいた。
彩花は鞄を膝の上へ置き、悠真を見る。
「じゃあ、九条君から」
「俺から?」
「はい。先に聞いちゃうと、自分の感想が引っ張られるかもしれないから」
「水瀬さんはもう読んでいるだろ」
「そうですけど、人の感想を聞くと『あ、それも分かる』ってなるじゃないですか」
「なるほど」
「だから先に聞きたいです」
彩花は少し楽しそうだった。
本の話をするとき、彼女は表情がよく動く。
悠真はそれに気づいたが、今は余計なことを考えず、読んだ内容へ意識を向けた。
「最後に駅へ行かなかったところが一番印象に残った」
「やっぱりそこですか?」
「水瀬さんも?」
「私も好きです」
彩花が嬉しそうに頷く。
「最初は、会いに行けばいいのにって思ったんです。でも、読み返したら違うのかなって」
「俺もそう思った。あれは会うために戻ったわけじゃないんだろうな」
「ですよね」
彩花が身を少しだけこちらへ向けた。
「私、あの人はずっと『昔に戻りたい』んだと思ってたんです。でも最後まで読んだら、戻りたいんじゃなくて、ちゃんと終わらせたかったのかなって」
「終わらせる?」
「はい。ずっと故郷のことを避けてたじゃないですか。でも、嫌いだから避けてたわけじゃなくて、好きだったから怖かったのかなって」
悠真は少し考える。
「だから一度帰る必要はあった」
「でも、昔と同じには戻らない」
「ああ」
二人の声が重なる。
一瞬、互いに顔を見る。
彩花が先に笑った。
「そこ同じですね」
「そうだな」
悠真も口元を緩めた。
「でも、切符のところは分からなかったです」
「俺は、あれが一番分かりやすいと思った」
「え?」
彩花が目を丸くする。
「本当ですか?」
「ああ。最初から捨てようと思えば捨てられたのに、最後まで持っていただろ」
「そうですけど……」
「捨てられなかったこと自体が、故郷を完全に切り離せなかった証拠なんじゃないかと思った」
「…………」
今度は彩花が黙った。
悠真は少し不安になる。
「違うと思う?」
「ううん」
彩花が首を振った。
「今、すごく納得してました」
「そうか」
「私、切符は最後に使うのかなってずっと思ってたんです。でも使わなかったから、何だったんだろうって」
「使わないことに意味があったのかもしれない」
「……ああ」
彩花は膝の上の鞄へ視線を落とし、何度か小さく頷いた。
「それ、好きです」
「え?」
「九条君の読み方」
あまりにも自然に言われた。
悠真は黙った。
「…………」
「九条君?」
「いや」
「また?」
「今回は違う」
「本当ですか?」
「ああ」
何が違うのか説明する気はなかった。
作品の解釈を褒められただけだ。
ただ、それでも嬉しかった。
「やっぱり感想聞いてよかった」
彩花はそう言いながら、窓の外へ視線を向ける。
「先輩とも話したんですけど、全然違うところ見てたから」
「先輩は何て?」
「主人公が最後まで手紙へ返事を書かなかったことを気にしてました。私はそっち、あんまり考えてなくて」
「俺も気になった」
「本当?」
「ああ。書けなかったというより、書かなかったんじゃないかと思った」
「……それも聞きたいです」
彩花の身体が少しだけ悠真の方へ向く。
それから二人は、思っていたより長く話した。
どの場面が好きだったか。
どの登場人物の言葉が残ったか。
主人公は本当に故郷を許したのか。
友人は最後まで主人公を待っていたのか。
答えのないことばかりだった。
だからこそ、話が尽きなかった。
「でも、あの友人はちょっとずるいと思います」
「なぜ?」
「だって、あんな手紙送られたら気になるじゃないですか」
「『元気ならそれでいい』のところ?」
「そうです。それ言われたら、逆に元気だって伝えたくなりません?」
「俺なら返事をするかもしれない」
「ですよね」
「水瀬さんも?」
「私は……」
彩花が少し考える。
「たぶん、すぐには書けないです」
「どうして?」
「ちゃんとした返事を書こうとして、考えすぎるから」
「…………」
「九条君?」
「いや」
悠真は僅かに口元を緩めた。
「それは少し分かる気がする」
「え?」
「水瀬さん、話すときも結構考えてるから」
「私、そんなに分かりやすいですか?」
「少し」
「九条君に言われたくないなあ」
「なぜ?」
「私より止まるからです」
「…………」
「ほら」
また言われた。
悠真は反論しかけたが、彩花が楽しそうに笑っているのを見てやめた。
少し離れた席で新聞を読んでいた男性が一度こちらへ目を向ける。
二人とも同時に気づいた。
「あ」
彩花が慌てて口元へ手を当てる。
「ちょっと声大きかったですね」
「そうだな」
「ごめんなさい」
「俺もだ」
二人で少し声を落とす。
それでも会話は終わらなかった。
気づけば、窓から差し込む光の角度が先ほどとは変わっている。
彩花がスマートフォンを確認した。
「……え」
「どうした?」
「もう三時半です」
悠真も時計を見る。
二人が座ったのは三時前だった。
「結構話してたんですね」
「ああ」
「全然気づかなかった」
彩花は驚いたように言いながらも、どこか満足そうだった。
「やっぱり、同じ本読んだ人と話すの楽しいですね」
「俺も楽しかった」
悠真が答える。
彩花は少しだけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「よかった」
また、その言葉だった。
けれど悠真は今度こそ止まらなかった。
「ああ」
きちんと返す。
それだけで十分だった。
「私、次の本探してきます」
「何か決めてる?」
「先週、新刊棚で気になったのがあって。まだあったら借りようかなって」
「そうか」
彩花が立ち上がる。
悠真も席を立った。
ここで一緒についていけば、二人で本を選ぶことになる。
一瞬そう考えたものの、悠真は動かなかった。
彩花は自分の本を探しに来た。
自分も自分の本を探せばいい。
「じゃあ、また」
彩花が言う。
「ああ。また」
今度は、その言葉だけで十分だった。
次の日曜日に会う約束はしていない。
連絡先も知らない。
それでも、三度目の「また」は、最初の頃ほど頼りなくは聞こえなかった。
彩花は新刊棚へ向かっていく。
悠真も反対側の文学棚へ歩き出した。
二人で同じ棚を回ることはしない。
けれど少しして、彩花が一冊の本を抱えて貸出カウンターへ向かう姿を見かけたとき、悠真は自然とその題名へ目を向けた。
覚えようとしてから、やめる。
次に会ったとき、本人へ聞けばいい。
そう思えたことが、先週までとは少し違っていた。
図書館を出た彩花は、夕方へ近づいた街を家へ向かって歩いていた。
鞄の中には、新しく借りた一冊が入っている。
歩きながら、先ほどの感想を少しだけ思い返した。
(切符かあ)
自分では気づかなかった読み方だった。
先輩と話したときとも違う。
(やっぱり面白かったな)
本の話ができる人が一人増えた。
それが嬉しかった。
九条君は自分より考え込むことが多いし、ときどき急に止まる。
けれど、話しにくくはない。
むしろ本の話をしていると、思っていた以上に時間が経つのが早かった。
(また会ったら、今度借りた本の話もできるかな)
そこまで考えたところで、商店街の八百屋の前に置かれた値札が目に入る。
「あ、キャベツ安い」
思考が切り替わった。
母へ連絡しようか。
昨日少なくなっていたはずだ。
彩花はスマートフォンを取り出し、紗月へメッセージを送る。
数秒後には、頭の中は夕食と新しく借りた本のことでいっぱいになっていた。
九条家へ戻った悠真は、玄関ホールで靴を脱いだ直後、廊下の奥から響く足音を聞いた。
「ワン!」
「ハク」
白い大きな身体が勢いよく近づいてくる。
悠真が腰を落とすと、ハクは当然のように身体を寄せてきた。
「ただいま」
「ワフ」
頭を撫でる。
柔らかな毛へ指を沈めながら、悠真は少しだけ笑った。
「今日は会えた」
言ってから手が止まる。
ハクが顔を上げた。
「…………」
「ワフ?」
「いや」
悠真は少し考え、今度は言い直さなかった。
「会えてよかった」
ハクの尻尾が床を叩く。
「感想も話せた。思っていたより長くなったけど」
「ワン」
「水瀬さんは、俺と違うところをかなり見ていた」
そこまで話してから、悠真は自分が犬へ読書感想会の報告をしていることに気づいた。
以前なら、ここで「忘れろ」と言っていたかもしれない。
今日はそれもやめた。
「……まあ、いいか」
ハクの頭をもう一度撫でる。
図書館で会った。
話した。
楽しかった。
また会いたいと思っている。
それだけなら、もう否定するほどのことではない。
ただし。
その気持ちに何という名前がつくのかまでは、まだ考えなくていい。
「次に会ったら、今日借りてた本を聞いてみるか」
「ワフ」
「覚えていればだけどな」
そう言いながら、悠真は少し笑った。
その夜。
彩花はベッドの上で新しく借りた本を開いていた。
最初の数ページを読み、文章の雰囲気を確かめる。
(これも面白そう)
もう少しだけ。
そう思って次のページへ手を伸ばす。
今日、悠真と話したことは楽しかった。
自分では気づかなかった読み方を知れたことも面白かった。
だから、また図書館で会えれば話すだろう。
けれど、次の日曜日に悠真が来るかどうかを考えることはなかった。
連絡先を交換したいとも、約束をしたいとも、まだ思わない。
彩花にとって九条悠真は、本の話ができる、少し変わった親切な男の子だった。
一方、同じ夜。
悠真は自室の机へ向かい、次に読む本を開いていた。
もう日曜日までの日数を数えてはいない。
会えるかどうかを延々と考えることもやめた。
それでも、今日の会話の中で一つだけ妙に残っている言葉があった。
『それ、好きです』
自分の読み方について言われただけだ。
意味も分かっている。
だから余計な解釈はしない。
ただ。
嬉しかったことまで否定する必要はない。
悠真は一度だけ口元を緩め、そのままページをめくった。
三度目の日曜日が終わる。
彩花にとっては、図書館で本の話をできる相手が一人増えた。
悠真にとっては、会えれば嬉しく、話せれば楽しい相手が一人できた。
まだ友達と呼ぶには少し曖昧で、恋と呼ぶには二人の温度があまりにも違う。
それでも二人の間には少しずつ、「偶然会っただけ」では終わらない時間が積み重なり始めていた。




