第2話 七日後の午後
月曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、最初に聞こえてきたのは一階から響く食器の音だった。
カーテンの隙間から入り込む五月の朝日は昨日より少し白く、枕元のスマートフォンには平日用のアラームが表示されている。日曜日とは違い、いつまでも布団の中にいるわけにはいかない。
「……眠い」
小さく呟きながら身体を起こし、彩花は乱れた髪を手櫛で整えた。
昨夜は図書館から借りてきた本を予定より長く読んでしまった。「一章だけ」と決めていたはずなのに、気づけば四十ページほど進んでいたのだから、自業自得と言えばその通りだった。
制服へ着替えて一階へ下りると、ダイニングにはいつもの朝が待っていた。紗月がキッチンと食卓を行き来し、耕助はニュースを眺めながらコーヒーを飲み、凛花はすでに身支度を終えて朝食を食べている。
「おはよう」
「おはよう、彩花。今日はちゃんと起きたわね」
「ちゃんとって何?」
「昨日、あれだけ本を読んでいたから」
凛花に言われ、彩花は自分の席へ座りながら頬を膨らませた。
「十一時十五分にはやめたよ」
「『には』という言い方が気になるわね」
「ちゃんと寝たから大丈夫」
「今、眠そうだけど」
「月曜日の朝なんだから普通だよ」
味噌汁を受け取りながら返すと、耕助がスマートフォンから顔を上げた。
「彩花、なんか機嫌いいな」
「え?」
「眠そうなのに、機嫌はよさそうだ」
「そう?」
言われてみても、自分ではよく分からない。
ただ、昨日借りてきた小説の続きを学校から帰ったら読めると思うと少し楽しみではあった。
(あの続き、どうなるんだろ)
昨夜は主人公が故郷へ戻ったところまで読んだ。
そこで読むのをやめたから、今朝になっても続きが気になっている。文芸部の先輩が勧めてくれた理由も、最後まで読めば分かるのかもしれない。
そう考えたところで、昨日図書館で交わした会話がふと蘇った。
『読み終わったあとに残るって言ってました』
『それは気になるな』
同じ本を読みたがっていた、名前も知らない男の子。
(あの人も読んだら、同じところ気になるのかな)
もしまた図書館で会うことがあれば、そのときに聞いてみたい。
そう思って、彩花は卵焼きを口へ運んだ。
「……彩花?」
「ん?」
耕助に呼ばれ、顔を上げる。
「今ちょっと笑ってなかったか?」
「え?」
「お父さん」
紗月が呆れた声を出した。
「朝から娘の顔を観察しないの」
「いや、目の前にいるから見えただけだ」
「本のこと考えてただけだよ」
彩花は深く気にすることもなく答えた。
「昨日借りたやつ。帰ったら続き読もうと思って」
「勉強もしてからね」
凛花がすぐに口を挟む。
「分かってます」
「本当に?」
「お姉ちゃん、昨日からそればっかり」
そんなやり取りをしているうちに朝食は終わり、彩花は鞄を持って家を出た。
昨日と同じ五月の空でも、日曜日と月曜日では見え方が違う。住宅街には制服姿の学生や通勤する人の姿が増え、交差点では自転車が何台も行き交っていた。
彩花も、その流れの一人になる。
県立青葉高校へ通う、どこにでもいる一年生。
教室へ入れば友人と挨拶をして、授業が始まればノートを取り、休み時間になれば次の授業の準備をする。英語の小テストで一問迷い、昼休みには友人と購買の新作パンの話をした。
昨日の図書館とはまるで違う、賑やかな時間が過ぎていく。
それでも五時間目の前、窓際で次の教科書を出していたときだった。
何気なく黒板の上のカレンダーが目に入り、彩花の手が少し止まった。
(日曜日まで、六日か)
考えてから、自分で首を傾げる。
(……なんで日曜日まで数えたんだろ)
別に予定があるわけではない。
図書館へ行くと決めているわけでもないし、誰かと待ち合わせをしているわけでもない。ただ昨日が日曜日だったから、次の日曜日までの日数が自然に頭へ浮かんだだけだろう。
そう納得すると、彩花はすぐに教科書へ視線を戻した。
教師が教室へ入ってきた頃には、もうそのことを考えていなかった。
同じ月曜日。
私立桜華学園高等部では、九条悠真が朝から普段通りに振る舞っていた。
広い敷地の中に整然と並ぶ校舎は、まだ新緑の季節らしい明るさに包まれている。登校してくる生徒たちの制服はきちんと整えられ、昇降口から教室へ向かう廊下には、落ち着いた話し声が絶えず流れていた。
「おはよう、九条」
「ああ。おはよう」
声をかけてくる同級生へ挨拶を返し、悠真は自分の席へ着く。
鞄を置き、一時間目の準備をする。
昨日の朝、自宅で数学の教科書を手にして琴葉から指摘されたことを思い出し、今日はきちんと現代文の教科書を机へ置いた。
(問題ない)
当然である。
教科書を正しく出せた程度で安心する必要はない。
それでも悠真は一度だけ表紙を確認した。
「九条」
「なんだ?」
前の席から振り返った男子生徒が、怪訝そうな顔をしていた。
榊原湊。
小等部から桜華学園へ通っている悠真とは付き合いが長く、必要以上に九条家を意識しない数少ない友人の一人だった。
「いや、なんか今日、教科書すごい確認してるなと思って」
「確認していただけだ」
「それは見れば分かるけど」
「なら問題ないだろ」
「問題があるとは言ってない」
湊はそう言って笑い、自分の机へ身体を戻しかけた。
「そういや昨日、何してた?」
「昨日?」
「日曜。俺、駅前で一条たち見かけたんだけど、お前はいなかったから」
「図書館へ行っていた」
答えるまでに、ごく僅かな間があった。
悠真自身は気づいた。
湊も気づいたらしい。
「……図書館?」
「ああ」
「なんで今、ちょっと考えた?」
「考えていない」
「いや、考えてたろ」
「昨日何をしていたか思い出しただけだ」
「昨日のことを?」
「…………」
正論で返そうとして、悠真は言葉を止めた。
昨日の行動を思い出すのに時間がかかったわけではない。むしろ図書館という単語が出た瞬間、別のものまで一緒に思い浮かんでしまった。
高い棚へ手を伸ばしていた姿。
困ったように本を見上げていた顔。
そして。
『そこ、謝るところじゃないですよ』
柔らかく下がった目尻と、声を抑えながら笑った表情。
(……まただ)
昨日から何度思い出したか分からない。
「九条?」
「なんでもない」
「俺、まだ何も聞いてないけど」
「…………」
昨日も似たようなことを言われた。
その事実に気づいた瞬間、今度は別の笑顔まで思い出した。
『まだ何も聞いてないですよ?』
(……同じことを言われている)
しかも、昨日はそのあと彼女が笑った。
「お前、本当にどうした?」
「何もない」
「そう?」
「ああ」
湊は納得していない顔をしていたが、ちょうど教師が入ってきたため前へ向き直った。
悠真も教科書を開く。
一時間目は現代文。
問題ない。
教師の説明を聞き、必要なところへ線を引き、問いかけられれば答える。普段と何も変わらなかった。
ただ、授業開始から二十分ほど経ったところで、ノートの日付へ目を落とした瞬間に考えた。
(あと六日)
悠真の手が止まった。
(……数えるな)
朝にも同じことを考えた。
次の日曜日まで六日。
それ自体は単純な事実だが、わざわざ授業中に確認する必要はない。
(そもそも、日曜日に会えるとは限らない)
彼女が来る保証はない。
自分だって行くと正式に決めたわけではない。
(ただ、予定は空いている)
昨日確認済みだった。
(だから何だ)
自分で自分へ突っ込む。
教師の声が耳へ入り、悠真は意識を授業へ戻した。
今は現代文だ。
図書館でも、日曜日でもない。
そう考えて黒板へ視線を上げたところで、教師がこちらを見た。
「九条。この部分についてどう考える?」
「はい」
悠真は立ち上がり、本文の前後を確認して答えた。
教師が頷く。
周囲から特別な反応はない。
いつもの九条悠真だった。
少なくとも、外から見れば。
放課後。
青葉高校の文芸部室には、西日が差し込んでいた。
窓際に積まれた冊子の背が橙色の光を受け、机の上には部員たちが持ち寄った本や原稿用紙、筆記用具が散らばっている。運動部の掛け声が遠くから聞こえてくる一方で、部室の中は比較的静かだった。
「水瀬、昨日言ってた本あった?」
先輩に声をかけられ、彩花は鞄から小説を取り出した。
「ありました。まだ途中ですけど、面白いです」
「でしょ?」
「先輩が言ってた意味、ちょっと分かってきた気がします。登場人物が全然素直じゃないですよね」
「そこがいいんだよ」
「でも、まだ最後まで読んでないので、評価は保留です」
「厳しいなあ」
先輩が笑う。
彩花も笑いながら本を開いた。
「今日、帰ったら続き読みます」
「明日には読み終わってたりして」
「さすがにそこまでは……」
言いかけて、少し自信がなくなる。
面白ければ読み続けてしまう自覚はある。
「たぶん」
「今、弱くなった」
「ちゃんと寝ます」
そんな会話をしてから、彩花は本を鞄へ戻した。
そのとき、昨日の男の子の顔がほんの少しだけ浮かんだ。
あの人も読みたがっていた。
自分が読み終わったあとに返却し、彼が借りることができれば、そのうち感想を聞けるかもしれない。
(でも、いつ会えるか分からないし)
そこまで考えて、彩花は別の話題へ意識を移した。
文芸部には目の前に同じ本を読んだ先輩がいる。感想を話したい相手なら、まずはこちらだ。
昨日会った男の子は、また会えたら話してみたい人。
それ以上ではなかった。
火曜日から水曜日にかけて、彩花の日常に大きな変化はなかった。
朝になれば学校へ行き、授業を受け、放課後には文芸部へ顔を出す。家へ帰れば夕食を手伝い、風呂へ入り、課題を済ませてから少しずつ本を読み進めた。
木曜日の夜、彩花はようやく最後のページまで辿り着いた。
自室の窓は少しだけ開けてあり、夜の涼しい風がカーテンを揺らしている。机の上には学校の教科書とノートが端へ寄せられ、その中央で、図書館から借りた小説が開かれていた。
「…………」
最後の一文を読む。
彩花はすぐには本を閉じなかった。
物語の終盤、主人公は長い旅を終えて故郷へ戻った。しかし、ずっと会いたがっていた相手が待つ駅へは行かなかった。
帰ってきたのに、会わない。
けれど彩花には、それが逃げたようには思えなかった。
(会えないんじゃなくて、今は会わないって決めたんだ)
いつか会えるかもしれない。
もう会えないかもしれない。
それでも今の自分では会わない。
そんな不器用な選択が、最後の数ページに静かに残っていた。
「……先輩の言ってた通りだ」
読み終わった直後より、少し時間が経ってから思い返したくなる物語なのかもしれない。
本を閉じ、表紙へ手を置く。
(あの人は、最後どう思うかな)
自然に浮かんだ。
図書館で同じ本を探していた男の子。
名前は知らない。
それでも、あの人がこの結末をどう受け取るのかは少し気になった。
(私は好きだったけど、納得できないって人もいそう)
文芸部の先輩にも明日聞いてみよう。
そして、もしまたあの男の子と会えたなら、そのときにも聞いてみたい。
彩花はそこまで考えて、本を机の端へ置いた。
「返すの、土曜日でもいいかな」
返却期限にはまだ余裕がある。
土曜日でも日曜日でも問題はない。
少し考えた末、彩花はスマートフォンの予定を確認した。
土曜日は午前中に家の買い物を手伝う予定がある。
「じゃあ、日曜日でいいか」
それだけの理由だった。
彩花はスマートフォンを置き、翌日の授業の準備を始めた。
同じ木曜日の放課後。
桜華学園の生徒会室では、悠真が数枚の資料を机へ並べていた。
「ここの数字、去年の資料と合ってない」
悠真が指先で示すと、向かいに座っていた上級生が資料を覗き込んだ。
「あ、本当だ。去年の参加人数そのまま入れてる」
「今年の申請人数へ直した方がいいと思います。あと、こちらの教室使用時間と体育館側の予定が十五分重なっています」
「九条、よく見つけたね」
「確認しただけです」
「その確認で毎回助かってるんだけどなあ」
先輩が苦笑しながら資料を受け取る。
悠真は次の書類へ手を伸ばした。
生徒会の仕事をしている間は、余計なことを考える暇がない。
誰が何を担当するか。
期限はいつか。
どこに不備があるか。
必要な情報を整理し、一つずつ処理していけばいい。
こういう時間は得意だった。
答えがある。
少なくとも、何を考えるべきかは明確だ。
「九条、これも見てもらえる?」
「はい」
別の資料を受け取る。
目を通す。
日付。
時間。
日曜日。
「…………」
ほんの一瞬、視線が止まった。
「九条?」
「いえ。問題ありません」
すぐに資料を返す。
危なかった。
(あと三日)
また数えた。
月曜日に六日。
火曜日に五日。
水曜日に四日。
そして今日が三日。
(毎日数えているじゃないか)
認めたくない事実だった。
悠真は机の上の資料を整えながら、小さく息を吐いた。
次の日曜日に図書館へ行く。
ここまで来れば、もうそのつもりでいることくらいは認めた方がいい。
(問題は理由だ)
本を借りたい。
静かな場所で読みたい。
中央図書館は普段から利用している。
理由はいくらでもある。
(彼女が来るかもしれない)
それも理由の一つであることは、もう否定できなかった。
では、会えたら何をするのか。
(まず名乗る)
これは決めている。
昨日から何度も考えた。
(九条悠真です)
少し硬い。
(俺は九条悠真)
初対面に近い相手へ言うには唐突かもしれない。
(そういえば、まだ名乗ってなかった。九条悠真)
これなら自然か。
「九条?」
「はい」
先輩の声で我に返る。
「さっきから、その資料もう確認済みだけど」
「…………」
手元を見る。
確かに先ほど確認した資料だった。
「すみません」
「珍しいね。疲れてる?」
「少し考え事をしていました」
「九条でもそんなことあるんだ」
「あります」
悠真は資料を正しい束へ戻した。
表情は崩さない。
しかし内心では、自分へ呆れていた。
(生徒会の仕事中に名乗り方を考えるな)
しかも、まだ会えると決まったわけでもない。
もし彼女が来なければ、この数日間考えていたことは全部無意味になる。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな落胆が生まれた。
(……来なかったら、残念なのか)
考えるまでもなかった。
たぶん、残念だ。
(なぜ)
もう一度話したいから。
(何を)
本の感想を。
(それだけか)
そこで思考が止まる。
笑った顔が浮かびそうになり、悠真は資料へ意識を戻した。
(仕事をしろ)
今はそれでいい。
答えの出ないことを考えるより、目の前の仕事を終わらせる方が先だった。
生徒会活動を終えて教室へ戻ると、帰り支度をしていた湊が悠真に気づいた。
「お疲れ」
「ああ」
「日曜、暇?」
悠真の手が止まった。
「何かあるのか?」
「駅前行こうと思ってるんだけど。新しい店できたらしいから、何人かで行かないかって話」
「日曜日は予定がある」
答えは即座に出た。
湊が瞬きをする。
悠真も瞬きをした。
「……予定?」
「ああ」
「何?」
「図書館」
「…………」
「…………」
数秒、二人の間に沈黙が落ちた。
先に口を開いたのは湊だった。
「図書館って予定に入るんだな」
「入るだろ」
「いや、入るけどさ。お前、いつもなら『午前中なら空いてる』とか調整するだろ」
「今回はいい」
「へえ」
湊の目が少し細くなった。
「何だ?」
「別に」
「何か言いたそうだな」
「いやあ、九条が日曜日の図書館をそんなに優先するの珍しいなと思って」
「読みたい本がある」
「先週も図書館行ってなかった?」
「行った」
「その本、先週借りなかったの?」
「借りられなかった」
「貸出中?」
悠真は一瞬止まった。
「……そうだ」
嘘ではない。
現在は貸出中である。
貸し出されている相手を知っているだけだ。
「なら仕方ないか」
湊はあっさり納得した。
「じゃ、また今度誘うわ」
「ああ」
湊が教室を出ていく。
一人残った悠真は、鞄へ教科書を入れながら先ほどの会話を思い返した。
(日曜日は予定がある)
自分で言った。
しかも迷わず。
つまり、いつの間にか自分の中では、日曜日に図書館へ行くことが予定として確定していたらしい。
「…………」
悠真は鞄を閉じた。
(会えるとは限らない)
分かっている。
それでも行く。
(もし会えたら、名乗る)
そこまで考え、少し間を置く。
(……笑ってくれるだろうか)
結局、最後にはそこへ戻った。
日曜日。
水瀬家では、昼食を終えた彩花が自室で鞄の中身を確認していた。
返却する小説。
財布。
スマートフォン。
ハンカチ。
それから、念のため文庫本を一冊。
「これでいいかな」
図書館へ本を返し、そのまま少し読書をして帰るつもりだった。
凛花は今日は朝から剣道部の練習へ出ている。
階下へ下りると、紗月が洗濯物を畳んでいた。
「図書館行ってくるね」
「この前借りた本、もう読み終わったの?」
「うん」
「早かったわね」
「面白かったから」
耕助がソファから振り返る。
「また高い棚の本取るのか?」
「今日は返すだけ!」
「踏み台使えよ」
「もう!」
彩花が頬を膨らませると、紗月が笑った。
「気をつけてね」
「うん。行ってきます」
玄関を出る。
五月の終わりへ近づいた日差しは、一週間前より僅かに強く感じられた。
図書館までの道は同じだ。
住宅街を抜け、公園の横を通り、少し人通りの増える通りへ出る。
途中、先週見つけた洋菓子店の前を通った。
レモンと蜂蜜のパウンドケーキはまだ店頭の黒板に描かれている。
(昨日作ったの、ちょっと蜂蜜多かったかな)
実際に試してみたのだ。
味は悪くなかったが、もう少しレモンを強くしてもいい気がした。
次は皮を増やしてみよう。
そんなことを考えながら歩く。
図書館が近づいたところで、鞄の中の本を思い出した。
(返したら、あの人も借りられるかな)
もし今日来ていれば。
そこまで考えて、彩花は少しだけ歩調を緩めた。
(……来るかな)
先週、また会えたら感想を話そうと言った。
だから会えればいいとは思う。
けれど、約束したわけではない。
来なければ、それで終わりだ。
(まあ、そのときはまたいつか会えたらでいいか)
彩花はそれ以上考えず、中央図書館の自動ドアをくぐった。
同じ頃。
九条家の玄関では、悠真が靴を履いていた。
「お出かけ?」
背後から麗華の声がする。
悠真が振り返ると、母が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「ああ」
「どちらへ?」
「中央図書館」
「そう」
麗華はそれ以上何も聞かなかった。
悠真は少しだけ拍子抜けしながら立ち上がる。
「夕方には戻る」
「分かったわ。気をつけて」
「ああ」
玄関の扉へ手をかける。
そのとき、廊下の奥から白い大きな身体が走ってきた。
「ワン!」
「ハク」
ハクが悠真の足元へ寄り、尻尾を勢いよく振る。
「今日は連れていけない」
「ワフ?」
「図書館だからな」
頭を撫でる。
ハクは少し不満そうに見上げてきた。
「帰ったら散歩へ行く」
「ワン!」
「分かったのか?」
ハクの頭をもう一度撫で、悠真は外へ出た。
扉が閉まる。
玄関には麗華とハクが残された。
「…………」
麗華は閉じた扉を見つめる。
「先週も、日曜日だったわよね」
「ワフ」
「そうよね」
もちろんハクが答えたわけではない。
麗華は少しだけ口元を緩めたが、それ以上追及する者はいなかった。
青凪市立中央図書館へ到着した悠真は、入口近くの時計を確認した。
午後一時四十六分。
先週より十四分ほど早い。
「…………」
悠真は時計から視線を外した。
(たまたまだ)
家を出る時間が少し早かっただけである。
別に二時前後を狙ったわけではない。
(……いや)
嘘だった。
狙った。
先週彼女と会ったのが午後二時前後だったから、それより少し早く来た。
自分にまで嘘をつく意味はない。
(来ているだろうか)
館内へ入る。
先週と同じ静かな空気。
貸出カウンター。
新聞閲覧席。
学習スペース。
悠真の視線は、ごく自然な動作を装いながら館内を巡った。
いない。
文学の棚へ向かう。
先週二人が会った場所を通る。
いない。
「…………」
胸の奥が僅かに沈んだ。
(まだ二時前だ)
自分でも驚くほど早く、言い訳が出てきた。
別に待ち合わせをしているわけではない。
そもそも今日来るとも限らない。
それなのに、いないことへ落胆している自分がいる。
(本を見よう)
そう決めて棚へ視線を向けた。
一冊手に取る。
表紙を見る。
戻す。
別の本を取る。
今度は数ページ開く。
内容が頭へ入ってこない。
(落ち着け)
悠真は本を閉じた。
そのとき。
少し離れた返却カウンターの方から、聞き覚えのある声がした。
「お願いします」
身体が先に反応した。
振り返る。
返却カウンターの前に、一人の少女が立っている。
肩に鞄を掛け、司書へ本を差し出していた。
先週と同じ本。
「…………」
いた。
ただ、それだけの事実に胸の奥が軽くなる。
(来た)
次に。
(本当に来た)
そして、その次には。
(どうする)
この一週間、何度も考えた。
会えたら自分から名乗る。
名前を聞く。
本の感想を話す。
それだけでいい。
簡単だ。
普段なら何も迷わない。
しかし、いざ本人を前にすると足が動かない。
(自然に声をかければいい)
そう考えたところで、返却を終えた彩花が振り返った。
目が合った。
「あ」
彩花の表情が変わった。
驚いたあと、すぐに柔らかく笑う。
「また会えた」
「…………」
悠真の思考が止まった。
(また会えた)
言葉が頭の中で反響する。
(『また会えた』)
先週は「また会えたら」だった。
今日は「また会えた」。
(つまり、再会を認識したうえで、それを肯定的な出来事として――)
「こんにちは」
彩花の声で現実へ戻された。
「あ、ああ。こんにちは」
危なかった。
数秒で勝手な分析を始めるところだった。
「本、読み終わりました」
彩花は返却カウンターを振り返る。
「さっき返したので、もう借りられると思います」
「そうか」
「面白かったですよ」
「……感想を聞いても?」
「もちろん」
彩花は嬉しそうに頷いた。
「そのために、また会えたらって言ったんですから」
「…………」
「九条君?」
まだ名前を教えていない。
当然、そう呼ばれるはずはない。
悠真は一瞬、自分の頭の中で未来を先走らせたことに気づき、表情を引き締めた。
「いや。聞きたい」
「じゃあ、どこから話そうかな」
二人は棚の前から少し離れ、通行の邪魔にならない場所へ移動した。
彩花はすぐに物語の終盤について話し始めた。
「私、最後に主人公が駅へ行かなかったところ、最初はちょっとびっくりしたんです」
「会うと思った?」
「思いました。あれだけ前半からずっと会いたそうだったから。でも、読み返したら、あれでよかったのかなって」
「どうして?」
「会いたくないんじゃなくて、今の自分では会わないって決めたのかなって思ったんです」
彩花は言葉を探すように少しだけ視線を上へ向けた。
「うまく言えないんですけど、逃げたというより、自分で選んだ感じがして。だから私は、あの終わり方好きでした」
悠真は黙って聞いていた。
話しているときの彩花は、先週より表情がよく動く。
本の内容を思い返すたびに眉が少し寄り、好きな場面を説明するときには声が僅かに弾む。言葉がうまく出てこないときには指先が鞄の紐を軽く撫で、それから「なんて言えばいいんだろ」と小さく笑う。
(……本当に本が好きなんだな)
それが伝わってきた。
そして、やっぱり。
笑う。
先週と同じように、何かを取り繕うためではなく、自然に。
(…………)
悠真は一瞬だけ言葉を失いかけた。
しかし今度は耐えた。
「俺はまだ読んでいないから、結末については何とも言えないけど」
「あ」
彩花が固まる。
「……私、結末言っちゃった」
「少し」
「ご、ごめんなさい!」
「大丈夫だ」
「全然大丈夫じゃないですよね!?」
「俺が聞いたから」
「でも、最後に駅へ行かないって言っちゃいました!」
「そこへ至るまでの過程は知らない」
「そういう問題かな……」
本気で落ち込んだような顔をする。
悠真は少し考えてから口を開いた。
「むしろ、そこまで気に入った理由が分かった状態で読むのも面白いと思う」
「……本当に?」
「ああ」
「気を遣ってません?」
「遣ってない」
「本当に?」
「本当に」
彩花は数秒、悠真の顔を見た。
やがて、少し安心したように息を吐く。
「よかった……。私、話し始めるとたまに止まらなくなるんです」
「分かった」
「そこは『そんなことない』って言うところじゃないですか?」
「実際、止まってなかったから」
「ひどい」
そう言いながら、彩花は笑っていた。
悠真も口元を緩める。
先週より会話が自然に続いている。
そのことが、思っていた以上に心地よかった。
「あの」
彩花が少しだけ姿勢を正した。
「そういえば、先週聞こうと思って忘れてたんですけど」
「何を?」
「名前です」
「…………」
来た。
この一週間、何度も考えた場面が、向こうから来た。
「私たち、お互い名前知らないですよね」
「ああ」
「文芸部の話までしたのに」
「そうだな」
「今さらなんですけど……」
「九条悠真」
彩花が目を瞬いた。
少し早かったかもしれない。
しかし、ここでまた機会を逃すわけにはいかない。
「九条悠真。桜華学園の一年」
「桜華学園?」
最初に反応したのは名字ではなく学校名だった。
「はい」
「すごい学校ですよね。私の姉も通ってるんです」
「そうなのか?」
「はい。高校から入ったんですけど」
悠真は少し驚いた。
桜華学園の高等部からの外部入学者は多くない。しかも入学にはかなり高い基準がある。
「お姉さん、優秀なんだな」
「すごく優秀です」
彩花は迷わず答えた。
その声には、姉への誇らしさがあった。
けれど、ほんの僅かに別の何かが混ざったようにも聞こえた。
悠真には、それが何なのかまだ分からない。
「私は水瀬彩花です。県立青葉高校の一年です」
「水瀬……」
悠真は名字を繰り返す。
続けて、頭の中でもう一度。
(水瀬彩花)
名前を知った。
先週から何度も思い出していた相手に、ようやく名前がついた。
(水瀬、彩花)
もう一度。
(彩花)
そこで悠真は止まった。
(……待て)
いきなり下の名前だけで反芻するのはどうなのか。
本人をそう呼んだわけではない。
頭の中だ。
誰にも聞かれていない。
それでも、なぜか妙に気恥ずかしい。
「……あの?」
彩花が首を傾げた。
「どうしました?」
「いや」
「また止まりましたよ」
「…………」
「先週も何回かありましたよね」
「そうだったか?」
「ありました」
彩花は少し楽しそうに笑った。
「考え事すると止まるんですね、九条君」
「…………」
今度こそ、本当に止まった。
(九条君)
名前を呼ばれた。
正確には名字だ。
学校では毎日何度も呼ばれる。
珍しくも何ともない。
(だが、水瀬さんが)
そこまで考えて、自分で修正する。
(水瀬が)
いや、これも何か違う気がする。
本人へどう呼びかけるかをまだ決めていない。
「ほら」
彩花が笑う。
「また止まった」
「……そうだな」
「次から教えますね」
「何を?」
「九条君が止まったら」
「…………」
「今です」
「……頼む」
彩花は声を抑えて笑った。
悠真はその笑顔を見ながら、この一週間ずっと考えていたことが一つだけ叶ったことに気づいた。
また笑ってくれた。
それだけで、日曜日までの日数を毎日数えていたことが、ほんの少しだけ報われたような気がした。
「九条君は、今日はあの本を借りるんですよね?」
「ああ。そのつもりだ」
「じゃあ、場所まで行きます?」
「水瀬さんは?」
初めて口にした。
水瀬さん。
彩花は特に気にした様子もなく頷いた。
「私も本見てから帰ろうかなって思ってました」
「なら、一緒に見る?」
「はい」
返事は自然だった。
そこに特別な意味はない。
ただ、同じ本をきっかけに二度会った相手と、少しだけ一緒に棚を見る。
彩花にとってはそれくらいのことだった。
「今度は同じ本に手を伸ばさないようにしないとですね」
「その場合は水瀬さんが先でいい」
「また譲るんですか?」
「先に見つけた方が借りればいい」
「じゃあ九条君が先に見つけたら、ちゃんと九条君が借りてくださいね」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「先週も私に譲ったから怪しいです」
二人はそんな話をしながら文学の棚へ向かった。
一週間前には、名前すら知らなかった。
今日は互いの名字と名前を知っている。
ただ、それだけの違いだった。
棚の間を歩きながら、彩花は何冊かの背表紙へ目を向ける。
「あ、この人の短編集も面白かったですよ」
「短編も読む?」
「読みます。でも、どっちかというと長い話の方が好きです」
「俺も同じだ」
「本当ですか?」
「ああ。短編も読むけど、長く人物を追える方が好きだ」
「分かります」
彩花が足を止め、一冊の本を抜き取った。
「これ、短編集なんですけど、一つ一つの話が少し繋がってるんです。だから最後まで読むと長編みたいに感じるんですよ」
「読んだことないな」
「面白かったですよ」
悠真は差し出された本を受け取った。
表紙を見る。
題名を覚える。
作者名も覚える。
「借りる?」
「今日は先週の本を読む」
「ですよね」
「でも、覚えておく」
「そんな真面目に覚えなくても」
「勧めてもらったから」
「…………」
今度は彩花が少しだけ黙った。
悠真が顔を上げる。
「どうした?」
「いえ」
彩花は小さく笑った。
「九条君って、ちゃんと人の話聞くんだなって」
「普通だろ」
「そうなんですけど、なんていうか……ちゃんと覚えようとしてくれるんだなって思って」
それは彩花にとって、純粋な感想だった。
昨日まで名前も知らなかった相手なのに、話していると不思議と落ち着く。
親切で、少し変わっていて、思っていたより話しやすい。
そこから先へ考える理由は、まだなかった。
「じゃあ、次に会ったとき覚えてるか確認しますね」
彩花が冗談めかして言った。
悠真の思考が止まりかける。
(次に会ったとき)
また次がある前提の言葉だった。
もちろん深い意味はない。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥が少しだけ騒がしくなる。
「……覚えておく」
「本当に真面目ですね」
彩花は笑い、本を棚へ戻した。
その隣で悠真は、題名も作者名もすでに完全に覚えていた。
二人はそのあともしばらく棚を見て回った。
どちらかが一冊手に取れば、もう片方が「それ読んだことある?」と尋ねる。知らない作品なら紹介文を一緒に読み、片方が読んだことのある作品なら、結末には触れない程度に感想を話した。
特別なことは何もしていない。
図書館で、本について話しているだけ。
けれど先週より会話は長く続いた。
彩花にとっては、同じ本を好きになれそうな相手が一人増えたような感覚だった。
一方の悠真は、会話が一つ増えるたびに、水瀬彩花について知っていることが増えていくのを意識していた。
長編小説の方が好き。
登場人物の気持ちが全部説明されない作品が好き。
結末が綺麗にまとまりすぎていなくても平気。
本を勧めるときには少し楽しそうに話す。
好きな作品のことになると、普段より言葉が増える。
そして、よく笑う。
(…………)
最後の情報だけ、必要以上に強く残った。
「九条君?」
「なんだ?」
「また考えてました?」
「……少し」
「今日は認めた」
「毎回否定しても仕方ないからな」
「進歩ですね」
「何の?」
「分かりません」
彩花が笑う。
悠真も、今度は止まらなかった。
ただし内心では、しっかりとその笑顔を記憶へ残していた。
やがて彩花が時計を確認した。
「私、そろそろ帰ります」
「そうか」
「夕飯の手伝いするので」
「料理するのか?」
「しますよ。好きなので」
悠真にとっては初めて知る情報だった。
「料理が?」
「はい。お菓子も作ります」
「そうなのか」
「昨日もパウンドケーキ作りました」
「……パウンドケーキ」
「なんでそこだけ繰り返したんですか?」
「いや」
悠真は一瞬だけ、自分でも分からない未来の映像を想像しかけた。
水瀬彩花が作った菓子。
それを食べる自分。
(待て)
早すぎる。
何がどうなればそうなる。
「また止まってますよ」
「……分かってる」
「今、何考えてたんですか?」
「言わない」
「気になる」
「大したことじゃない」
「怪しい」
彩花は少し笑ってから、鞄を肩へ掛け直した。
「じゃあ、また」
言ってから、ほんの少しだけ続ける。
「図書館で会えたら」
「ああ」
悠真は頷いた。
「また」
約束ではない。
連絡先も知らない。
来週の日曜日に会うと決めたわけでもない。
それでも、一週間前より「また」という言葉が自然になっていた。
彩花が出口へ向かって歩いていく。
悠真はその後ろ姿を見送ってから、先ほど返却された本を借りるためにカウンターへ向かった。
手続きが終わり、受け取った本を見る。
先週、二人が同時に読みたがった一冊。
今度は悠真の手元にある。
(読むか)
もちろん読む。
もともと読みたかった本だ。
ただ、先週とは少しだけ理由が増えていた。
水瀬彩花がどこを好きだったのか。
なぜあの結末を「自分で選んだ感じがする」と言ったのか。
自分が読み終えたとき、同じように感じるのか。
そして。
(次に会えたら)
感想を話せる。
そこまで考えた悠真は、一週間前の自分ならまた「会えるとは限らない」と何度も修正していただろうと思った。
今も会える保証はない。
けれど、今日は本当に会えた。
名前も知った。
少し長く話した。
それなら次も、ほんの少しくらい期待していいのかもしれない。
悠真は借りた本を鞄へ入れた。
その頃には、彩花はもう図書館を出ていた。
帰り道、洋菓子店の前を通りながら、次に作るパウンドケーキの配合を考えている。
(レモン、もう少し増やそうかな)
頭の中にあるのは、ほとんどそれだった。
九条悠真という名前は覚えた。
桜華学園の一年生。
本が好きで、親切で、少し変わったところがある人。
今日話してみて、先週より少しだけ知っている人になった。
それだけだった。
一方、図書館に残った悠真は、借りた本を開く前に、今日知った名前をもう一度頭の中で反芻していた。
(水瀬彩花)
一度で十分覚えたはずなのに、もう一度。
(水瀬彩花)
そして三度目を繰り返しかけて、ようやく自分で気づく。
(……名前を知ったら知ったで、余計に酷くなっていないか)
否定できなかった。
一週間前まで、彼女は「図書館で会った名前も知らない女の子」だった。
今は違う。
水瀬彩花。
県立青葉高校一年生。
文芸部。
本が好きで、料理もお菓子作りもする。
よく笑う。
そして、自分のことを「九条君」と呼ぶ。
(…………)
悠真は本を開いた。
最初の一行を読む。
もう一度読む。
(九条君)
頭の中で声が再生された。
「…………」
悠真は静かに本を閉じた。
名前を知らなかったときより、明らかに面倒なことになっていた。
本人はまだ、そのことを認めていなかった。




