第1話 同じ一冊に手を伸ばして
日曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、一階から包丁がまな板を叩く音が聞こえていた。
一定の間隔で続く軽い音に混じって、テレビの朝番組が小さく流れている。ときどき父の耕助が何かを言い、母の紗月が呆れたように返す声も聞こえてきて、薄いカーテン越しには五月半ばの柔らかな朝日が差し込んでいた。
「……七時四十分」
枕元のスマートフォンを確認した彩花は、布団の中でゆっくり伸びをした。
学校のある日なら、とっくに制服へ着替えて朝食を食べている時間だ。けれど今日は日曜日で、文芸部の活動もない。午後から青凪市立中央図書館へ行くこと以外には、特別な予定も入っていなかった。
もう少しだけ寝ていてもいい。
そう思って再び枕へ頬をつけかけたところで、階下から聞き慣れた別の声が届いた。
「お母さん、これで大丈夫?」
「大丈夫よ。凛花、朝からそんなに急がなくても間に合うでしょう?」
「集合時間ぎりぎりに着くより、早い方がいいから」
姉の声だ。
(今日も部活か)
一つ年上の姉、水瀬凛花は、私立桜華学園高等部の二年生だった。
今日は剣道部の練習があるらしい。
彩花はもう一度時計を見てから、眠るのを諦めて身体を起こした。寝癖のついた髪を手櫛で適当に整え、部屋着のまま階段を下りていく。
「おはよう」
「おはよう、彩花」
キッチンから最初に振り返った紗月が笑った。
ダイニングテーブルには朝食が並び、耕助はコーヒーを飲みながらスマートフォンでニュースを眺めている。その向かいでは、紺色のジャージを着た凛花がスポーツバッグの中身を確認していた。
「おはよう、彩花」
「おはよう、お姉ちゃん。今日も部活?」
「午前だけね。午後には帰ってくると思うわ」
「日曜日なのに大変だね」
「大会が近いから仕方ないわ」
そう言いながら、凛花は竹刀袋を確認してからバッグのファスナーを閉じた。
肩より少し下まである黒髪は朝からきちんとまとめられていて、寝起きの彩花とは比べるまでもなく整っている。背筋も自然に伸びていて、ただジャージを着て立っているだけなのに、だらしなく見えるところが一つもない。
(お姉ちゃんって、朝からちゃんとしてるんだよね)
彩花は無意識に自分の髪へ触れた。
指先へ、見事に跳ねた毛先が当たる。
「……私、すごい寝癖?」
凛花が彩花の右側を見る。
「右側」
「やっぱり」
「少し待って」
「え?」
凛花が近づいてきた。
彩花の横へ立つと、跳ねている髪を指先でそっと押さえる。
「これくらいなら濡らせばすぐ直るわ」
「ほんと?」
「ええ。でも、そのままでも可愛いけど」
「お姉ちゃん、たまに変なこと言うよね」
「……そう?」
「寝癖だよ?」
「寝癖ね」
凛花は平然としていた。
けれど、その指先はなぜかもう一度彩花の髪を撫でてから離れていった。
彩花は特に気にせず、自分の席へ座る。
姉は昔からこういうところがある。
彩花が風邪を引けば何度も部屋を覗きに来るし、転んで膝を擦りむいただけでも消毒薬を持ってくる。小さい頃は外へ遊びに行くたびに手を繋いでくれて、少しでも彩花が遅れると必ず振り返って待っていた。
そんな姉の後ろをついて歩くのが、彩花は好きだった。
今だって好きだ。
「彩花、今日はどうするの?」
紗月が味噌汁を置きながら尋ねる。
「午後から図書館行ってくる」
「中央図書館?」
「うん。文芸部の先輩に教えてもらった本があるの。昨日検索したら置いてあるみたいだったから」
「また本?」
耕助がスマートフォンから顔を上げた。
「またって何。いいでしょ」
「悪いとは言ってないだろ。よく読むなと思って」
「好きなんだからいいの」
「お父さんなんて説明書すら読まないものね」
紗月がさらりと言う。
「必要になったら読む」
「それで分からなくなって、毎回私に聞くじゃない」
「……必要なところだけ聞いてるんだ」
「それを読んでないって言うのよ」
耕助が黙った。
凛花が小さく笑い、彩花もつられて笑う。
こういう朝が好きだった。
何か特別なことが起きるわけではない。
父と母がどうでもいいことで言い合って、姉が笑って、自分もそこにいる。
彩花は自分の家が好きだ。
父も母も好きで、姉のことも好きだった。
だからこそ、ときどき自分でも扱い方の分からない感情が胸の中へ生まれる。
「そういえば凛花」
耕助が思い出したように口を開いた。
「この前の試験、結果出たんだろ?」
「出たけど」
「どうだった?」
「学年一位」
あまりにも普通の声だった。
「えっ」
彩花の方が先に反応した。
「また一位だったの?」
「今回はたまたまよ」
「一位をたまたまで取らないでよ……」
「数学は一問落としたわ」
「そういう問題じゃないと思う」
彩花が呆れると、凛花は少しだけ困ったように眉を下げた。
耕助は「すごいな」と感心しているし、紗月も「頑張ったのね」と笑っている。
それだけだった。
誰も彩花へ「あなたも頑張りなさい」とは言わない。
父も母も、昔からそうだった。
凛花が何かで一番になれば、凛花を褒める。
彩花が初めて一人で夕飯を作れば、彩花を褒める。
姉妹を並べて、どちらが上でどちらが下なのかを決めるようなことは一度もなかった。
それでも。
『凛花ちゃん、本当に何でもできるわねえ』
ずっと昔に聞いた声が、ふと頭の片隅へ蘇った。
親戚が集まった日のことだったと思う。
『彩花ちゃんも、お姉ちゃんみたいになれるように頑張らないとね』
誰だっただろう。
顔までは、もうはっきり思い出せない。
けれど、優しく笑っていたことだけは覚えている。
怒っていたわけではない。
彩花を馬鹿にしたわけでもない。
むしろ励ますつもりだったのだと思う。
だから彩花も笑った。
『うん。お姉ちゃん、すごいから』
本心だった。
お姉ちゃんはすごい。
自慢だった。
だから自分も頑張ればいいと思った。
それなのに、その日の夜。
一人で布団へ入ってから、なぜだか少しだけ悲しくなった。
『……私も頑張ったんだけどな』
誰にも聞かれない声で、そう呟いた記憶がある。
「彩花?」
「ん?」
顔を上げると、凛花がこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「何が?」
「ぼんやりしていたから」
「ああ……まだちょっと眠いだけ」
「昨日、遅くまで本を読んでいたでしょう」
「十一時半くらいだよ」
「十分遅いわ」
「お姉ちゃん、私のお母さんみたいになってるよ」
「妹の睡眠時間を心配して何が悪いの?」
「凛花」
紗月が時計を指さす。
「そろそろ出ないと、早く着けなくなるんじゃない?」
凛花が壁の時計を見る。
「……行ってきます」
「ほら」
彩花が笑うと、凛花は少しだけ不満そうな顔をした。
それでも玄関へ向かう途中、一度戻ってくる。
「寝癖、直しなさいよ」
「分かってるって」
「図書館から帰るのが遅くなるなら連絡して」
「分かりました、お姉ちゃん」
「それならいいわ」
今度こそ凛花が玄関へ向かう。
少しして扉が閉まる音がした。
彩花は味噌汁を一口飲みながら、姉がいなくなった廊下の方を見る。
(ほんと、何でもできるんだよなあ)
勉強。
運動。
剣道。
人付き合い。
それに、綺麗だ。
私立桜華学園へ高校から入ったことだって、彩花には途方もないことに思える。
昔からずっと、自慢のお姉ちゃんだった。
今も、それは変わらない。
だから――自分が凛花を見て、ときどき胸の奥に小さな棘のようなものを感じることを、彩花は少し嫌っていた。
(私がもっと頑張ればいいだけだもんね)
凛花が悪いわけではない。
父も母も悪くない。
昔あんなことを言った親戚だって、たぶん悪気はなかった。
みんな優しい。
なら、気にしてしまう自分の方がおかしいのかもしれない。
「彩花」
「ん?」
「その卵焼き食べないなら、お父さんがもらうぞ」
耕助の箸が伸びてきた。
「食べる!」
彩花は慌てて皿を遠ざける。
「人の朝ご飯取らないでよ」
「ずっと見てるだけだから、いらないのかと思って」
「いるよ。お父さん、自分の食べたでしょ」
「もう一個くらい」
「駄目」
どうでもいい攻防に、紗月が呆れたように笑った。
彩花も笑う。
胸の奥へ浮かんでいた昔の記憶は、いつの間にかいつもの朝の中へ薄れていった。
昼食を済ませたあと、彩花は薄手のブラウスへ着替えて家を出た。
五月半ばの日差しは朝より強くなっていたが、風にはまだ春の名残がある。住宅街の植え込みでは新しい葉が風に揺れ、どこかの家から昼食の片付けでもしているのか、水を流す音が聞こえてきた。
青凪市立中央図書館までは、家から歩いて二十分ほどだった。
バスを使うこともできる。
けれど天気が悪くない限り、彩花は歩くことが多かった。
誰かと待ち合わせているわけではない。
急ぐ必要もない。
学校へ向かう朝の道とは違って、日曜日のこの時間だけは、途中で足を止めたって誰にも迷惑をかけない。
小さな公園の横を通ると、小学生くらいの子供たちがボールを追いかけていた。ベンチでは親らしい大人たちが話し、その近くを犬を連れた老人がゆっくり歩いている。
交差点を渡れば、少しずつ人通りが増えていく。
青凪市の中心部には大きな商業施設もあるが、中央図書館の周辺は比較的静かだった。市民ホールや公園などの公共施設が集まった一角にあり、休日でも駅前ほど騒がしくない。
彩花はその道を歩くのも好きだった。
「あ」
途中、小さな洋菓子店の前で足が止まる。
店頭に置かれた黒板へ、新作の焼き菓子が描かれていた。
「レモンと蜂蜜……」
小さなパウンドケーキらしい。
写真を眺めながら、彩花の頭の中では自然と材料が組み上がっていく。
(蜂蜜を入れるなら、砂糖は少し減らした方がいいのかな。レモンの皮も入れたら香りよさそう)
しばらく黒板を見てから、スマートフォンへ短いメモを残す。
「今度作ってみよ」
買って食べることより、自分で作る方へ興味が向いた。
料理も、お菓子作りも好きだった。
裁縫もそうだ。
何かを作っている間は、目の前のものだけに集中できる。
少しずつ形になっていくのを見るのが楽しい。
けれど、彩花がいちばん長く続けてきたのは、やっぱり読書だった。
本を読んでいる時間だけは、誰かと自分を比べる必要がない。
主人公が走れば一緒に息を切らし、泣けば胸が痛くなり、幸せになれば嬉しくなる。
ページを開けば、自分とはまるで違う誰かの人生へ入っていける。
そこでは、凛花の妹であることも。
自分が何番なのかも。
何ができて、何ができないのかも関係ない。
ただ続きを知りたいと思ってページをめくればいい。
彩花にとって読書は趣味だった。
同時に、ほんの少しだけ息を抜ける時間でもあった。
青凪市立中央図書館の自動ドアをくぐると、外とは違う静かな空気が肌を撫でた。
冷房が強いわけではない。それでも日差しの下を歩いてきた身体には、館内の空気が少しひんやりと感じられる。
正面には総合案内と貸出カウンターがあり、その向こうに広い閲覧スペースが続いている。高い天井まで届く大きな窓から午後の日差しが入り、床には淡い四角形の光がいくつも落ちていた。
小さな子供が母親に手を引かれて児童書コーナーへ向かっていく。
新聞閲覧席には年配の男性が数人。
奥の学習スペースでは学生たちが参考書やノートを広げている。
椅子を引く控えめな音。
ページをめくる乾いた音。
遠くから聞こえる貸出機の電子音。
誰もが別々のことをしているのに、全員で一つの静けさを守っている。
彩花は、この空気が好きだった。
ここでは、誰も彩花を見ていない。
それは寂しいことではなかった。
むしろ心地いい。
誰かの妹でもなければ、誰かより上でも下でもない。
ただ本を読みたい一人の人間として、本棚の間を好きに歩いていられる。
「……よし」
小さく呟き、彩花はまず新刊棚へ向かった。
気になる題名を見つけて一冊手に取る。
帯の紹介文を読み、最初の数ページを少しだけ覗く。
(面白そう)
ただ、今日は借りたい本が決まっている。
忘れないよう題名をスマートフォンへメモし、本を元の位置へ戻した。
そのあとも何冊か気になるものを眺めてから、窓際の閲覧席へ向かう。
鞄から家から持ってきた文庫本を取り出した。
あと二十ページほどで読み終わる。
目的の本を探す前に、まずこれを最後まで読みたかった。
ページを開く。
数分もすると、周囲の音が遠くなった。
物語の終盤。
主人公が長いあいだ避け続けてきた故郷へ帰り、幼い頃に別れた友人と再会する場面だった。
彩花はページをめくる手を少しだけ遅くする。
(この人、ずっと帰りたかったんだ)
作中では一度も、そんなことを言っていない。
むしろ何度も「戻るつもりはない」と口にしていた。
それでも駅へ降りた瞬間の描写を読めば、なんとなく分かる。
帰りたかった。
でも、帰るのが怖かった。
彩花は、そういう言葉にされない感情が書かれている話が好きだった。
誰かに「この人は悲しいんです」と説明されなくても、指先や視線、たった一つの行動から分かるものがある。
最後の一行まで読み終える。
すぐには本を閉じなかった。
余韻のままページへ視線を落としていると、誰かの咳払いが遠くで聞こえた。窓の外では、若葉をつけた枝が風に揺れている。
「……よかった」
満足して本を閉じる。
時計を見ると、二十分ほど経っていた。
(そろそろ探そう)
文庫本を鞄へしまい、彩花は立ち上がった。
今日探しているのは、少し前に文芸部の先輩から勧められた小説だ。
『派手じゃないんだけど、読み終わったあとに残るんだよ』
先輩はそう言っていた。
古い作品で、最近の書店ではあまり見かけないらしい。
昨日の夜、中央図書館の蔵書検索で確認すると貸出可能になっていた。
文学の棚へ向かい、分類番号を確認する。
「この辺だったはず……」
棚の表示を指先で追いながら進む。
一度通り過ぎてしまって二歩戻り、今度は背表紙を一冊ずつ丁寧に見ていく。
「あ」
見つけた。
「あった」
目的の題名が視界へ入った瞬間、自然と頬が緩む。
しかし、喜んだのも束の間だった。
本は彩花の目線より二段ほど上に収められている。
「……高い」
棚を見上げる。
絶対に届かないというほどではない。
背伸びをすれば、指くらいはかかりそうだ。
周囲を見れば、踏み台は少し離れた棚の向こうにある。
取りに行けば済む。
それだけなのだが、一度見つけた本から離れると、なぜか負けたような気がした。
(……いや、何に負けるの)
自分で考えて、自分で少し可笑しくなる。
彩花は鞄の肩紐を直し、もう一度棚へ向き直った。
「これくらいなら……」
踵を上げる。
右手を伸ばす。
指先が背表紙の下へ触れた。
「ん……」
あと少し。
身体を伸ばし、なんとか指を引っかけようとする。
触れた。
(いける)
そう思った瞬間。
本が少し奥へ押し込まれた。
「あっ」
逆だった。
取るどころか、さっきより遠くなった。
彩花は踵を下ろし、恨めしそうに棚を見上げる。
(……踏み台、取ってこよ)
さすがに諦めた。
踵を返しかけた、そのときだった。
すぐ横から一本の腕が伸びた。
長い指が、目的の本の背へかかる。
今度は何の苦労もなく、本が棚から抜き取られた。
「――これ?」
「え?」
落ち着いた声だった。
彩花が振り向く。
すぐ隣に、一人の男の子が立っていた。
年齢は、おそらく自分と同じくらい。
彩花よりかなり背が高い。整えられた黒髪に、すっきりとした顔立ち。白いシャツへ薄手の濃紺のカーディガンを合わせた休日らしい服装なのに、不思議ときちんとして見える。
派手ではない。
それなのに、少し目を引く人だった。
その手には、彩花がさっきまで必死に取ろうとしていた本がある。
「あ……はい。それです」
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
本を差し出され、彩花は両手で受け取った。
思っていたより少し重い。
ずっと探していた本がようやく手元へ来た嬉しさで、彩花は表紙を確認してから男の子を見上げた。
「助かりました。もうちょっとで届きそうだったんですけど」
「見ていた」
「……見てたんですか?」
彩花の声に、わずかに恥ずかしさが混じった。
男の子の目が少しだけ開く。
「あ」
ほんの短い間。
「ごめん」
即座に謝られた。
あまりに真面目な顔だった。
彩花は目を瞬く。
どうして謝られたのかを理解するまで少しかかって――堪えきれず、ふっと笑った。
「そこ、謝るところじゃないですよ」
大きな声を出せる場所ではない。
だから声を抑えるように口元を少し緩め、目尻を下げる。
それだけだった。
彩花にとっては。
ただ少し可笑しかったから、笑っただけ。
けれど。
目の前の男の子が、動かなくなった。
「……?」
彩花は笑みを残したまま首を傾げる。
「あの?」
「…………」
「どうしました?」
「いや」
返事が一拍遅れた。
男の子はほんの少し視線を外した。
「なんでもない」
「そうですか?」
「ああ」
声は落ち着いている。
表情も、さっきとほとんど変わっていない。
ただ、耳だけが少し赤くなっていた。
(暑かったのかな)
外は初夏らしく暖かかった。
自分だってここまで歩いてきたときには少し暑かったのだから、この人もそうなのだろう。
彩花はそれ以上気にせず、受け取った本へ視線を落とした。
「やっと見つけた……」
表紙を指先で軽く撫でる。
そのまま本を胸元へ抱えようとして――ふと気づいた。
男の子がまだそこにいる。
「……?」
視線が合った。
「どうしました?」
「いや」
また同じ返事だった。
しかし今度は、男の子の視線が彩花ではなく、彩花の抱えている本へ向いている。
数秒。
彩花は本を見る。
男の子を見る。
もう一度、本を見る。
「……もしかして」
本を少し持ち上げた。
「これ、読みたかったんですか?」
「……ああ」
「えっ」
彩花は慌てて表紙を確認した。
もちろん別の本へ変わっているわけがない。
「ご、ごめんなさい!」
「なぜ謝る?」
「だって、これを取ろうとしてたんですよね?」
「そうだけど」
「私、取ってもらったうえに、そのまま自分が借りる気満々で……!」
「図書館の本だから、君のものでも俺のものでもない」
「それはそうなんですけど」
もっともすぎる。
彩花は言葉に詰まった。
男の子の口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がする。
「先に見つけたのは君だ」
「でも、取ってくれたのはあなたです」
「届いていなかったから」
「うっ」
事実だった。
しかも、一度奥へ押し込んだところまで見られている。
「……あと少しだったんです」
「そうだな」
「本当ですよ?」
「疑ってない」
「その言い方、ちょっと疑ってません?」
「疑ってない」
声は真面目だった。
からかっている様子もない。
本当に疑っていないらしい。
「ふふっ」
また笑ってしまった。
今度はさっきより短い。
それでも、男の子の瞬きが一度だけ止まった。
「……?」
「いや」
「まだ何も聞いてないですよ?」
「……そうだな」
少し変な人だ。
彩花はそう思った。
けれど、嫌な意味ではない。
静かな人なのに、なぜか話しにくくなかった。
彩花は手元の本を見る。
ずっと読みたかった。
せっかく来たのだから借りて帰りたい。
でも、目の前の男の子も同じ本を探していた。
「あの」
「うん?」
「先に読みます?」
「え?」
「私、別に今日じゃなくてもいいので」
本を差し出す。
男の子はそれを見たものの、手を伸ばさなかった。
「君が先でいい」
「でも」
「俺も今日でなくていい」
「じゃあ……」
彩花は困った。
自分が譲る。
相手も譲る。
このままでは二人とも読みたかった本を棚へ戻して帰るという、一番意味の分からない結果になってしまう。
数秒の沈黙が落ちた。
すぐ隣の通路を誰かが歩いていく。
向こう側の棚では、本を戻す硬い音がした。
「……じゃあ」
彩花が先に折れた。
「私が借りてもいいですか?」
「ああ」
「なるべく早く読みます」
「急がなくていい」
「でも、あなたも読みたいんですよね?」
「読みたいけど」
男の子はそこで一度言葉を切った。
彩花が持っている本へ視線を落とし、また顔へ戻す。
「君が急いで読む必要はないだろ」
「…………」
今度は彩花が黙った。
別に特別なことを言われたわけではない。
それでも、その言葉は素直に嬉しかった。
(優しい人なんだ)
最初に感じた少し近寄りがたい印象が、そこで薄れた。
「ありがとうございます」
彩花は本を胸元へ抱え直した。
「じゃあ、お言葉に甘えてゆっくり読ませてもらいます」
「ああ」
「ちゃんと返しますから」
「図書館に?」
「……図書館にです」
彩花は一瞬ぽかんとしてから、また笑った。
「あなたに返したら、それはそれで駄目ですよね」
「確かに」
「そこは確かになんですね」
男の子も、今度は分かる程度に口元を緩めた。
笑うと、最初より柔らかい印象になる。
(やっぱり、悪い人じゃなさそう)
彩花が考えたのは、それくらいだった。
「この作家、好きなんですか?」
なんとなく尋ねる。
「いや。これはまだ読んだことがない」
「あ、私もです」
「そうなのか?」
「文芸部の先輩に勧められたんです。すごくいいって」
「文芸部?」
「はい。学校で」
彩花は本を持ち直した。
「本ばっかり読んでる部活みたいに聞こえるかもしれないですけど、ちゃんと書いたりもするんですよ」
「そうは思ってない」
「本当ですか?」
「ああ」
「今、ちょっと間がありました」
「……気のせいだ」
「怪しい」
彩花が笑う。
そのたびに、男の子の返事がほんの僅かに遅れる。
けれど彩花は、そのことを深く考えなかった。
「先輩は、どこがいいと言っていた?」
「読み終わったあとに残るって言ってました」
「残る?」
「私もまだ読んでないから分からないんですけど」
彩花は本の表紙へ視線を落とす。
「派手な話じゃないらしいです。でも、何日か経ってから急に思い出すような話だって」
「それは気になるな」
「ですよね」
同じ本を読みたかった人なのだから、好みも少し似ているのかもしれない。
彩花にとっては、それが嬉しかった。
「じゃあ、やっぱり早く――」
「急がなくていい」
「まだ最後まで言ってません」
「早く読むと言うつもりだっただろ」
「……言おうとしました」
「なら同じだ」
彩花は一瞬黙ってから、吹き出した。
「やっぱり、ちょっと変わってますね」
「あ」
言ってから気づく。
初対面の人へ言うには失礼だったかもしれない。
「ごめんなさい。悪い意味じゃなくて」
「……分かってる」
「よかった」
彩花は安心して笑った。
男の子は、また少しだけ黙った。
その耳がさっきより赤くなったことにも、彩花は気づかなかった。
二人はそこで別れた。
彩花は目的の本を抱えたまま、料理関係の棚へ向かった。
せっかく図書館まで来たのだから、一冊だけで帰るのは少しもったいない。
「作り置き……」
一冊の料理本を手に取り、ページをめくる。
平日の夕食にも使えそうな副菜が載っていた。
(これいいかも)
借りるか迷いながら、いくつかのページを確認する。
その頃には、さっき話した男の子のことはほとんど頭から抜けていた。
欲しかった本を取ってくれた。
少し話した。
変わっているけれど、親切な人だった。
それだけである。
料理本を借りることに決め、さらに別の棚を眺める。
途中、少し離れた通路に先ほどの男の子がいるのが見えた。
(あ、さっきの人)
向こうも本を見ている。
彩花はそれだけ確認すると、自分も目の前の棚へ視線を戻した。
同じ図書館の中にいるのだから、姿が見えることくらいある。
しばらくして別の棚へ移動したところで、またすれ違った。
今度は向こうも彩花へ気づいたらしい。
目が合う。
彩花は会釈した。
相手も同じように返した。
(ちゃんとした人だな)
それくらいの感想を残して、彩花はそのまま通り過ぎた。
借りる本は二冊になった。
先輩に勧められた小説と、作り置き料理の本。
貸出手続きを済ませ、鞄へ入れる。
そのまま帰ろうと入口へ向かいかけたところで、彩花は少しだけ足を止めた。
(そういえば)
さっきの男の子も、あの小説を読みたがっていた。
彩花は鞄へ視線を落とす。
(感想、誰かと話せたら面白そう)
文芸部でもよくやる。
同じ作品を読んでも、好きになる登場人物も場面も人によって違う。
先輩があれほど勧めていた本を、あの人がどう読むのかは少し興味があった。
ただ、名前も知らない。
次に会えるかどうかも分からない。
(まあ、また見かけたらでいいか)
その程度だった。
彩花が再び出口へ向かうと、閲覧スペースの近くで先ほどの男の子を見つけた。
「あ」
ちょうどいい。
数歩近づく。
「あの」
「?」
「この本、読んだら……」
そこまで言って、彩花は少し考えた。
自分が借りたあと、いつこの人が読むのかも分からない。
それでも同じ本を読みたかった人と話す機会があるなら、それはきっと楽しい。
「また会えたら、感想聞かせてください」
男の子が目を見開いた。
「……感想?」
「はい」
彩花は鞄を軽く押さえた。
「私、同じ本を読んだ人と感想を話すの好きなんです。文芸部でもよくやるんですけど、同じところを読んでも全然違うこと考えてたりするから」
「……ああ」
「だから、あなたが読んだらどう思うのかなって」
「…………」
男の子が黙った。
「あれ?」
(変だったかな)
考えてみれば、初対面の相手だ。
同じ本を探していたというだけで、次に会ったときまで話そうと言われても困る人はいるかもしれない。
「あ、嫌だったら全然――」
「嫌じゃない」
思っていたより強い声が返ってきた。
「え?」
彩花が目を瞬く。
男の子自身も、少しだけ驚いたように見えた。
一度小さく息を吸い、今度はいつもの落ち着いた声で言い直す。
「嫌じゃない」
「……はい」
「ぜひ、聞かせてほしい」
「よかった」
安心して、彩花は笑った。
それは今日何度目かの、ごく普通の笑顔だった。
嬉しいから笑った。
ただ、それだけ。
「じゃあ、また会えたら」
「ああ」
「失礼します」
軽く頭を下げ、今度こそ出口へ向かう。
自動ドアを抜けると、午後の日差しが少し眩しかった。
図書館の静けさから日曜日の街へ戻り、彩花は家へ向かって歩き始める。
数分後。
あの洋菓子店の前へ来たところで、足を止めた。
「あ、そうだった」
レモンと蜂蜜のパウンドケーキ。
スマートフォンへ残しておいたメモを確認する。
(レモン、家にあったかな)
なければ帰りにスーパーへ寄ろう。
蜂蜜はあったはずだ。
夕飯の副菜は何にしよう。
明日の作り置きも少し試してみたい。
そんなことを考えながら、彩花は歩いていった。
図書館で会った男の子については、もう考えていなかった。
一方。
青凪市立中央図書館の閲覧スペースには、先ほどの男の子がまだ立っていた。
「…………」
動かない。
手には一冊の本がある。
けれど、開こうともしていない。
彼――九条悠真の頭の中では、先ほどの出来事が何度目か分からないくらい再生されていた。
『よかった』
そして、笑った。
「…………」
悠真はゆっくり瞬きをした。
(……なんだったんだ、今のは)
最初は本当に、それだけだった。
高い棚へ手を伸ばしている女の子がいた。
目的の本は自分も探していたものだったが、明らかに届いていない。
だから取った。
困っている相手を手伝っただけだ。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
ところが。
『……見てたんですか?』
『ごめん』
自分が謝ったあと。
彼女が笑った。
声を抑えるように、ほんの少し口元を緩めて。
目尻が柔らかく下がった。
さっきまで棚の上へ向かって真剣に腕を伸ばしていた顔から力が抜け、頬がわずかに持ち上がった。
派手な笑い方ではなかった。
誰かへ見せるために作ったような笑顔でもない。
ただ、可笑しかったから自然に笑っただけ。
それが分かった。
分かったからこそ。
(……可愛かった)
思考が止まった。
「…………」
悠真の眉が僅かに寄る。
(待て)
今、自分は何を考えた。
(可愛かった)
同じ答えが返ってくる。
(いや、そうではなく)
何が「そうではない」のか、自分でも分からない。
可愛いと思った。
それ自体は別におかしなことではない。
人の容姿や仕草を見て、そう感じることくらいある。
問題は。
(なぜ、まだ覚えている)
表情を。
声を。
笑う直前の少し驚いた顔まで。
妙にはっきりと思い出せる。
(印象に残っただけだ)
そう結論づけようとする。
初対面の相手と図書館で本を譲り合うという、普段あまりない出来事だった。
だから記憶へ残った。
合理的な説明である。
(……なら、なぜ二回目に笑ったときも見ていた)
自分から疑問が出た。
『その言い方、ちょっと疑ってません?』
『疑ってない』
『ふふっ』
また思い出す。
あのときも、見た。
いや。
気づいたら見ていた。
(また笑った)
そう思った。
その次に。
(……もう一回)
「…………」
悠真の顔から表情が消えた。
(待て)
今のは何だ。
(もう一回、何だ)
答えは分かっている。
もう一度笑ってほしい。
あの顔を見たい。
「…………」
悠真は手元の本へ視線を落とした。
(なぜ)
当然、答えは出ない。
今日初めて会った。
名前も知らない。
どこの学校かも知らない。
文芸部に所属しているということしか知らない。
それなのに。
『やっぱり、ちょっと変わってますね』
また笑った顔が浮かぶ。
「…………」
耳が熱くなった。
(俺は何をしているんだ)
悠真はようやく歩き出した。
とにかく本を読もう。
図書館へ来た目的は読書だ。
閲覧席へ腰を下ろし、手にしていた本を開く。
一行読む。
二行。
三行。
(……名前)
止まった。
(聞いていない)
重大な事実に今さら気づいた。
悠真は本からゆっくり顔を上げる。
(なぜ聞かなかった)
本を取ったとき。
譲り合ったとき。
文芸部の話をしたとき。
最後に声をかけられたとき。
機会はいくらでもあった。
(いや、初対面の相手へ突然名前を尋ねるのは警戒される可能性がある。必要以上に踏み込まなかった判断自体は――)
そこまで考えたところで、自分自身から反論が出る。
(普通に自分から名乗ればよかっただけだ)
「…………」
正論だった。
悠真は無言で額へ手を当てた。
どうして、そんな簡単なことを思いつかなかったのか。
私立桜華学園高等部一年。
生徒会執行部。
九条家の長男として、幼い頃から年上の大人と顔を合わせる機会も多かった。
初対面の相手への挨拶で困った記憶など、ほとんどない。
相手が誰であろうと、必要なことを考え、適切な言葉を選ぶ。
それくらいはできる。
少なくとも、今日まではそう思っていた。
(最初に笑われたとき、完全に止まったな)
思い出す。
あの数秒間。
何を返せばいいのか、本当に分からなくなった。
(……可愛かったから?)
またそこへ戻る。
「…………」
悠真は額を押さえる手へ少し力を入れた。
そのとき、背後から小さな足音が近づいてきた。
「ママ」
幼い女の子の声だった。
「このお兄ちゃん、どうしたの?」
「しっ。見ちゃ駄目よ」
母親は小声のつもりなのだろう。
だが、ここは図書館である。
全部聞こえた。
悠真は何事もなかったように額から手を離した。
本へ視線を戻す。
一行。
二行。
(また会えたら)
閉じた。
「…………」
今度は最後の言葉だった。
『また会えたら、感想聞かせてください』
悠真はその文章を頭の中でもう一度再生する。
(また会えたら)
別におかしな言葉ではない。
同じ本を読みたかった。
彼女は文芸部で、同じ作品を読んだ相手と感想を話すのが好きだと言っていた。
だから、自分にも感想を聞きたい。
ただそれだけだ。
(つまり彼女は、俺だから誘ったわけではない)
冷静な分析だった。
なぜか少しだけ気分が沈んだ。
「…………」
そこで悠真は眉を寄せる。
(なぜ残念なんだ)
分からない。
残念に思う理由がない。
(だが、少なくとも)
思考を整理する。
(俺とまた話すこと自体は嫌ではない)
これは事実だ。
嫌なら「また会えたら」などと言わないだろう。
(いや)
すぐに修正する。
(本について話したいだけで、俺と話したいとは限らない)
これも正しい。
(しかし、本について話す相手として俺を選択肢へ入れている)
間違ってはいない。
(つまり、再会した場合に会話をしてもいい程度には――)
そこで悠真は止まった。
「…………」
何を分析しているのだろう。
たった一言で。
(落ち着け)
深く息を吐く。
(また会えるとも限らない)
そうだ。
今日、偶然会っただけだ。
次も同じ時間に来る保証はない。
(今日は日曜日)
頭の中に情報が浮かぶ。
(時間は午後二時前後)
続く。
(彼女がこの図書館を定期的に利用しているなら、同じ曜日、同じ時間帯に――)
「…………」
悠真は目を閉じた。
(待て)
今、自分は何をしようとした。
(再会確率を計算しようとしたのか)
さすがにおかしい。
悠真は本を閉じ、席を立った。
少し歩く。
さっき彼女が立っていた棚の前を通る。
一冊分の隙間が残っている。
彼女が借りた本があった場所だ。
(あの本を返すなら、またここへ来る)
当然である。
図書館の本なのだから返却する。
(返却期限は――)
「……違うだろ」
思わず小さく声が漏れた。
近くで本を選んでいた年配の男性がこちらを見る。
悠真は軽く会釈し、その場を離れた。
(返却期限から来館日を推測してどうする)
自分でも分からない。
ただ。
もう一度会えたら。
名前を知ることができる。
話せる。
そして。
(……また、笑うだろうか)
そこまで考えたところで、悠真は立ち止まった。
「…………」
結局、そこだった。
その日の夕方。
九条家へ戻った悠真を最初に出迎えたのは、廊下の奥から響いてきた軽快な足音だった。
「ワン!」
白い大きな身体が勢いよく現れる。
「ハク」
悠真がしゃがむと、ハクは嬉しそうに尻尾を振りながら身体を寄せてきた。
「ただいま」
大きな頭を撫でる。
柔らかな毛へ指を沈めると、ハクは満足そうに目を細めた。
「ワフ」
「今日は暑かったな」
耳の後ろを掻いてやる。
いつもと同じ帰宅だった。
図書館へ行ったことも珍しくない。
だから何も変わっていない。
はずだった。
「…………」
撫でていた手が止まる。
『そこ、謝るところじゃないですよ』
笑顔が浮かんだ。
「…………」
ハクが顔を上げる。
「ワフ?」
「なんでもない」
もう一度頭を撫でる。
数秒。
『やっぱり、ちょっと変わってますね』
「…………」
手が止まる。
「ワフ?」
「……なんでもない」
ハクが首を傾げた。
悠真も、自分で自分が分からなかった。
(なぜ笑った顔ばかり思い出す)
今日初めて会った相手だ。
名前すら知らない。
それなのに、目を閉じなくても思い出せる。
目尻が柔らかく下がったこと。
口元を少し緩めて、声を抑えるように笑っていたこと。
自分を警戒している様子がなかったこと。
(……嬉しかったのか?)
悠真は考える。
(俺と話して笑ったことが)
「…………」
ハクがじっと見ている。
「違うからな」
「ワン?」
口に出したあと、悠真は黙った。
(何が違う)
犬であるハクへ言い訳をしたところで意味はない。
「忘れてくれ」
「ワン!」
「そうか」
忘れてくれたことにした。
悠真が立ち上がると、ハクも当然のようについてきた。
廊下を進む。
(次に会えたら)
また始まった。
(まず自分から名乗る)
それくらいなら普通だ。
(それから名前を聞く)
これも普通。
(本の感想を話す)
向こうから提案されたことだ。
何もおかしくない。
(……それで、また笑ってくれたら)
足が止まりかける。
「…………」
「ワフ?」
横を歩いていたハクが見上げる。
「なんでもない」
今日だけで何度目か分からない言葉を口にした。
夕食まで少し時間があった。
自室へ戻った悠真は机へ向かい、学校から出されている課題を開いた。
月曜日までに終わらせる必要があるものではない。
それでも、普段なら時間があるうちに進める。
問題文を読む。
解答を書く。
次へ進む。
十分ほどは、いつも通りだった。
そこで。
『私、同じ本を読んだ人と感想を話すの好きなんです』
手が止まった。
「…………」
(文芸部)
彼女が言っていた。
(学校で、とも言っていた)
当然、高校生だろう。
年齢もおそらく自分と大きくは変わらない。
(制服ではなかったから学校は分からない)
日曜日なのだから当然だ。
(青凪市内の高校なら――)
そこで鉛筆が止まった。
「……何を調べる気だ」
声に出してしまった。
悠真は眉間を押さえる。
文芸部がある高校を調べようとした。
さすがに駄目だ。
(それは違う)
何が違うのかは分かる。
自然にまた会えたら話す。
彼女もそう言った。
それでいい。
わざわざ探すようなことではない。
(そうだ)
ようやく納得できる答えへ辿り着く。
(次に会えるかどうかは偶然に任せればいい)
悠真は課題へ戻った。
二問進める。
三問目。
(次の日曜日に図書館へ行くのは偶然に任せることになるのか?)
「…………」
鉛筆が止まった。
行くこと自体は問題ない。
普段から利用している。
(だが、彼女が来ることを期待して行った場合、それは偶然なのか)
哲学のようになってきた。
悠真は椅子の背へ身体を預けた。
(そもそも、なぜ俺は次の日曜日に行く前提で考えている)
理由ならある。
本を借りたい。
(今日借りられなかった本は、彼女が借りている)
別の本を借りればいい。
(読みたい本なら他にもある)
ある。
(なら行っても不自然ではない)
誰に対して不自然ではないと証明しようとしているのか。
自分でも分からなかった。
机の横では、いつの間に部屋へ入ってきたのか、ハクが床へ伏せている。
悠真はその姿を見る。
「…………」
ハクも見る。
「……何も言うな」
「ワフ」
「分かったような顔をするな」
ハクは尻尾を一度だけ床へ打ちつけた。
同じ頃。
「ただいまー」
水瀬家の玄関では、彩花が靴を脱いでいた。
「おかえり」
キッチンから紗月の声が返ってくる。
玄関には凛花の靴もあった。
部活動から帰ってきているらしい。
「借りたかった本、あった?」
「うん。あったよ」
リビングへ入ると、ソファで本を読んでいた凛花が顔を上げた。
「ずいぶん嬉しそうね」
「ずっと探してた本だったから」
彩花は鞄から借りた小説を取り出して見せる。
「これ。文芸部の先輩が教えてくれたの」
「面白そうね」
「読み終わったら貸そうか?」
「図書館の本でしょう」
「あ」
彩花が手元の本を見る。
「そうだった」
「彩花……」
「今ちょっと忘れてただけ」
凛花が小さく笑った。
キッチンから紗月も顔を出す。
「ちゃんと自分で取れた?」
「何、その聞き方」
「高い棚の本を取ろうとして、意地になることあるでしょう」
「今日は……」
彩花は少し考えた。
「取ってくれた人がいた」
テレビを見ていた耕助が顔を上げる。
「取ってくれた?」
「うん。私が届かなくて困ってたら」
「踏み台使えばいいだろ」
「お父さんまで!」
彩花は頬を膨らませた。
「あとちょっとだったんだから」
「届かなかったんでしょう?」
今度は凛花だった。
「お姉ちゃんまで言うの?」
「事実でしょう」
「……取ってくれた人にも似たようなこと言われた」
「へえ」
凛花が本から顔を上げた。
「どんな人?」
「え?」
「本を取ってくれた人」
「男の子。たぶん私と同じくらいかな」
「男?」
凛花の声が、ほんの僅かに低くなった。
彩花は気づかない。
「うん。背が高かったから取ってくれたの」
「それで?」
「それで?」
「……何か話したの?」
「ちょっとだけ。その人も同じ本を読みたかったみたいで」
彩花は小説を持ち上げた。
「だから私が先に借りていいのかなって思ったんだけど、急がなくていいって言ってくれて。いい人だったよ」
「……そう」
凛花は静かに答えた。
「名前は?」
「知らない」
「学校は?」
「知らない」
「どこに住んでるの?」
「知らないよ」
「…………」
「お姉ちゃん?」
「何でもないわ」
凛花は本へ視線を戻した。
少しだけ肩の力が抜けたように見えたが、彩花には理由が分からない。
「あとね、これも借りてきた」
鞄から料理本を取り出す。
「作り置きの本」
「また料理するの?」
「うん。明日、何か作ってみようかな」
「私も手伝うわ」
「…………」
「何、その顔」
「お姉ちゃんは味見係でお願いします」
「なぜ?」
「この前、玉ねぎ切ってもらったら大きさ全部違ったから」
「食べれば同じよ」
「料理で一番言っちゃいけないやつだよ、それ」
紗月が吹き出した。
耕助も笑う。
凛花だけが納得していない。
「切れれば問題ないでしょう」
「火の通り方が変わるの」
「なら長く加熱すればいいわ」
「焦げるよ!」
いつもの家族の会話へ戻る。
図書館で会った男の子の話も、それで終わった。
彩花自身、それ以上話すことがなかった。
親切だった。
少し変わっていた。
本の話ができた。
今日あった出来事の一つである。
夕食後。
彩花は自室の机へ借りてきた小説を置いた。
先に風呂へ入るか、少しだけ読むか。
迷った結果、「最初の一章だけ」という約束を自分と交わして椅子へ座る。
表紙を開く。
数ページ。
十ページ。
気づけば一章を越えていた。
(あ、これ面白い)
文芸部の先輩が勧めた理由が少し分かる気がする。
派手な事件は起こらない。
それでも登場人物の会話の端々に、何かが隠れている。
気になって次のページへ手が伸びる。
「彩花、お風呂空いたわよ」
扉の向こうから凛花の声がして、彩花はようやく時計を見た。
「え、もうこんな時間?」
「何ページ読んだの?」
「……四十くらい」
「一章だけじゃなかったの?」
扉越しに指摘される。
「なんで分かったの!?」
「彩花の『ちょっとだけ読む』は信用してないから」
「行きます!」
本へ栞を挟み、慌てて立ち上がる。
机の上には、先ほど図書館で出会った男の子も読みたがっていた本が残された。
けれど彩花は、そのことを考えなかった。
物語の続きの方が気になっていた。
九条家では。
夕食を終えた悠真が、自室へ戻る途中で足を止めていた。
理由は、廊下の窓から庭が見えたから――ではない。
ポケットの中でスマートフォンが震えたからだった。
生徒会関係の連絡だった。
内容を確認し、必要な返事をする。
そのまま画面を閉じようとして、カレンダーの日付が目に入った。
来週の日曜日。
「…………」
指が止まる。
(何も予定はない)
確認した。
ただそれだけ。
画面を閉じる。
三歩進む。
(図書館)
足が止まった。
「…………」
悠真は無言でスマートフォンをもう一度取り出した。
中央図書館の開館時間を確認しようとして――止まる。
(知っているだろ)
今日行ったばかりだ。
それどころか何度も利用している。
開館時間を調べる必要などない。
画面を消す。
(別に会いに行くわけじゃない)
また言い訳が始まる。
(本を読むために行く。それだけだ)
正しい。
(彼女がいるかどうかは関係ない)
これも正しい。
(……いなかった場合)
「…………」
少し残念だと思った。
悠真はそこで完全に立ち止まった。
(なぜだ)
今日初めて会ったばかりだ。
(もう一度話したいから?)
それは、たぶんそうだ。
(本の話を?)
そうだ。
(本だけか?)
「…………」
答えが出ない。
代わりに、また笑顔が浮かんだ。
『よかった』
あの瞬間。
自分を見て笑った。
ほんの数秒だった。
それなのに、今日見たどんなものより鮮明に残っている。
図書館の大きな窓から差し込んでいた午後の日差しも、何冊も手に取った本の表紙も、帰り道で見かけた人々の顔も、意識しなければもう細部までは思い出せない。けれど、彼女が笑ったときの表情だけは、まるで少し前まで目の前にいたかのように簡単に浮かんできた。
目尻が柔らかく下がっていた。
声を抑えなければならない図書館だったから、声を立てて笑ったわけではない。それでも楽しそうなのが分かる笑い方で、こちらをからかおうとしていたわけでも、愛想よく振る舞おうとしていたわけでもなかった。
ただ、可笑しかったから笑った。
その自然さが、妙に残っている。
(……可愛かった)
また同じところへ戻った。
悠真は廊下の途中で、しばらく動けなくなった。
(いや)
否定する理由を探す。
見た目が整っている人なら、これまでにも何人も見てきた。桜華学園にはそういう生徒が珍しくないし、九条家の関係で出席する場でも、容姿の整った人間と顔を合わせる機会はいくらでもある。
誰かを見て、綺麗だと思ったこともある。
可愛いと思ったことだって、おそらくある。
だから、それ自体は特別なことではない。
(では、なぜ)
今日会ったばかりの彼女だけが、こんなにも頭から離れないのか。
「兄様?」
「…………」
不意に声をかけられ、悠真は顔を上げた。
廊下の先に、妹の琴葉が立っていた。
長い黒髪を背へ流し、薄い色の部屋着を身につけている。片手には読みかけらしい本を持っており、自室へ戻る途中だったのだろう。
「どうかなさいましたか?」
「いや」
「先ほどから、廊下の真ん中で立ち止まっていらっしゃいますけれど」
「少し考え事をしていただけだ」
「そうですか」
「ああ」
琴葉は兄を見た。
悠真も妹を見る。
数秒。
「……何だ?」
「いえ」
琴葉は静かに首を横へ振った。
「兄様が廊下で一人、スマートフォンを見たり閉じたり、三歩ほど歩いてまた止まったりしていらしたので」
「…………」
「何か重大な問題でも起きたのかと思いました」
「何も起きていない」
「そうですか」
「ああ」
「それならよかったです」
琴葉は穏やかに微笑んだ。
そのまま通り過ぎる。
悠真も再び自室へ向かおうとした。
「兄様」
「まだ何かあるのか?」
振り返る。
琴葉は廊下の角へ曲がる手前で足を止めていた。
「眉間に皺が寄っていますよ」
「……そうか」
「はい」
「気をつける」
「では、おやすみなさいませ」
「ああ。おやすみ」
琴葉の姿が見えなくなる。
静かな廊下へ一人残され、悠真は眉間へ触れた。
本当に少し皺が寄っていた。
(……そんなに考えることか?)
自分でもそう思う。
また会えるかどうか。
次の日曜日に図書館へ行くかどうか。
そもそも、名前も知らない相手の笑顔をどうしてこんなに覚えているのか。
どれも今すぐ答えを出さなければならない問題ではない。
むしろ、考える必要すらないことばかりだ。
(次に会えたら、そのとき考えればいい)
ようやく、もっとも単純な結論へ辿り着く。
悠真は自室へ入った。
扉を閉める。
机の上には途中まで進めた課題が残っている。
椅子へ座り、鉛筆を持つ。
今度こそ集中する。
一問。
二問。
三問。
問題なく進んだ。
(次に会えたら、まず名乗る)
四問目で戻った。
「…………」
悠真は鉛筆を置いた。
もう諦めた方が早い気がしてきた。
今日くらいは仕方ない。
普段とは違う出来事があったのだから、少しくらい引きずることもあるだろう。
(そうだ)
そういうことにする。
明日になれば落ち着く。
学校へ行けば授業がある。
生徒会の仕事もある。
日常へ戻れば、今日のことばかり考えている暇はなくなる。
悠真は課題へ戻った。
今度は五問続けて進めることができた。
翌朝。
目を覚ました九条悠真が最初に考えたのは。
(……あと六日)
次の日曜日までの日数だった。
「…………」
天井を見つめる。
数秒。
悠真はゆっくり目を閉じた。
(何を数えている)
朝から自分へ問いかける羽目になった。
昨夜は、学校へ行けば日常へ戻ると思っていた。
確かに今日は月曜日だ。
授業がある。
生徒会もある。
普段通りの日常が始まる。
それなのに、目を覚ました瞬間からこれだった。
(図書館へ行くのは決定なのか)
まだ決めていない。
少なくとも、明確に「行く」と決めた記憶はない。
(予定は空いている)
昨日確認した。
(だから何だ)
自分で自分へ返す。
悠真は布団から身体を起こした。
カーテンを開ける。
朝の光が部屋へ入り、庭の木々が見えた。
いつもと変わらない月曜日の朝だった。
「…………」
それでも。
『また会えたら、感想聞かせてください』
頭の中には、昨日聞いた声が残っていた。
その日の朝。
水瀬家では、彩花がいつも通り食卓についていた。
「彩花、眠そうね」
紗月に言われ、彩花は欠伸を噛み殺した。
「ちょっとだけ」
「昨日、何時まで読んでたの?」
「十一時くらい」
向かいに座っていた凛花が顔を上げる。
「本当?」
「……十一時十五分くらい」
「彩花」
「十五分だけだよ」
「昨日も遅かったでしょう」
「今日はちゃんと早く寝るから」
「毎回そう言っている気がするわ」
「今日は本当」
彩花は味噌汁を飲みながら笑った。
昨夜、図書館で借りてきた本はまだ途中だ。
続きが気になって、つい予定より長く読んでしまった。
(帰ったら続き読もう)
楽しみだった。
主人公が昔暮らしていた町へ戻ったところで、昨夜は読むのをやめている。
ここから何が起こるのか。
文芸部の先輩が言っていた「読み終わったあとに残る」という意味も、まだ分からない。
早く知りたい。
「そんなに面白いの?」
凛花が尋ねる。
「うん。まだ途中だけど」
「昨日借りてきた本?」
「そう」
彩花は頷く。
「派手なことは起きてないんだけど、なんか気になるの。登場人物が言いたいこと全部言わないから、この人本当は何考えてるんだろうって」
「彩花、そういう話が好きよね」
「好き」
即答する。
「全部説明されるより、自分で考えられる方が楽しいんだよね」
「そう」
「先輩が勧めてくれた理由、ちょっと分かったかも」
そこで、ほんの一瞬だけ昨日のことを思い出した。
『先輩は、どこがいいと言っていた?』
『読み終わったあとに残るって言ってました』
あの男の子も、この本を読みたがっていた。
(あの人が読んだら、どう思うんだろ)
同じ本を探していた相手なのだから、感想は少し気になる。
昨日、自分から「また会えたら」と言ったのも、そのためだ。
けれど。
「彩花?」
「ん?」
「またぼんやりしてる」
「本のこと考えてただけ」
「朝から?」
「面白いんだもん」
彩花は笑って答えた。
それ以上、昨日の男の子について考えることはなかった。
学校へ行けば英語の小テストがある。
放課後には文芸部もある。
帰ったら本の続きを読みたいし、昨日借りた料理本も見てみたい。
彩花の日常には、今日やりたいことがたくさんあった。
名前も知らない男の子との出会いは、その中へ小さな出来事として収まっている。
少し変わっていた。
でも、親切だった。
また会えたら、本の話ができればいい。
それくらい。
恋という言葉を持ち出すには、あまりにも何も始まっていなかった。
その頃。
九条家では、制服へ着替えた悠真が玄関に立っていた。
「兄様」
「なんだ?」
琴葉が後ろから声をかける。
悠真が振り返ると、同じ桜華学園の制服を身につけた妹が、どこか不思議そうな顔をしていた。
「今日、一時間目は現代文でしたよね?」
「そうだが」
「では、なぜ数学の教科書をお持ちなのですか?」
「…………」
悠真は手元を見る。
確かに数学だった。
「……間違えた」
「兄様が?」
「俺でも間違えることくらいある」
「もちろん存じておりますけれど」
琴葉は少しだけ間を置く。
「珍しいなと思いまして」
「それだけだ」
「そうですか」
「ああ」
悠真は数学の教科書を鞄へ戻し、現代文の教科書を取り出した。
琴葉は何も言わない。
ただ、兄の横顔を一度見た。
(昨日から、少し変ですね)
何があったのかは知らない。
けれど普段なら、こんな間違いをする兄ではない。
「行くぞ」
「はい」
二人で玄関を出る。
五月の月曜日。
いつも通りの学校へ向かう。
水瀬彩花にとっては、昨日の出来事が少しずつ日常の中へ溶けていく朝。
九条悠真にとっては、昨日の笑顔がまったく溶けてくれない朝だった。
次の日曜日まで、あと六日。
悠真はもう数えないと決めた。
――その決意が、昼まで持つかどうかは分からなかった。




