第100話 言葉になる前の約束を、君と
木曜日の朝、彩花が台所へ降りると、母の紗月が食卓の端で一枚の封筒を裏返していた。窓の外では細い枝が風に揺れ、湯気の立つ味噌汁の香りが、まだ眠気の残る部屋をゆっくり満たしている。いつもと変わらない朝のはずなのに、母が封筒の宛名を確かめる仕草が気になって、彩花は椅子を引く前に足を止めた。
「お母さん、それ、手紙?」
「そうよ。昔からの友達に、借りていた本を返すの。送る前に短いお礼を書こうと思ったんだけど、便箋が見当たらなくてね」
紗月は封筒を彩花に見せてから、少し困ったように笑った。中に入れる本はすでに薄い紙で包まれており、添える言葉をまだ用意できていないらしい。彩花は、祖母へ宛てた手紙の一行目を決められない少女のことを思い出した。
「メッセージだけなら、電話でも伝えられるのにね。でも、その友達、昔から本を貸してくれるときに一言添えてくれるの。だから私も、何か書いて返したいなと思って」
「……その一言って、どんなことが書いてあるの?」
「大げさなことじゃないわよ。『最後の方が好きだった』とか、『寒いから温かくしてね』とか。ときには『返すのは急がなくていいよ』だけのこともあるわ」
彩花は椅子に座りながら、その言葉を胸の中で繰り返した。手紙には、立派な文章を書かなければいけないわけではない。相手の顔を思い浮かべながら、いま伝えたいことを一つ選ぶだけでも、受け取る側には嬉しいものなのかもしれない。
紗月は棚から小さな便箋の束を見つけ、ほっとしたように一枚抜き取った。彩花が朝食を食べ始める横で、母はしばらく考えたあと、迷いのない手つきでペンを動かした。何を書いたのか尋ねるつもりはなかったが、書き終えた母の表情が柔らかくなったのを見て、彩花まで嬉しくなった。
「書き始めたら、早いんだね」
「書く前は何を言おうか迷ったけれど、友達の顔を思い出したら決まったの。『本、面白かったよ。今度会ったときに続きを話そうね』って、それだけ」
彩花は箸を止めた。借りた本の感想と、次に会う約束。その二つが並んでいるだけなのに、封筒を開いた友達が微笑むところまで想像できる気がした。
(次に会ったときに話そう、か。離れていても、その先があるって分かる言葉なんだ)
自分の物語の少女にも、まだ書けない理由がある。けれど、書き出すために必要なのは、寂しさを全部整理することではなく、祖母と次に何を話したいかを見つけることなのかもしれない。彩花はその考えを忘れないよう、食後に星模様のノートへ短く書き留めることにした。
父の耕助が食卓へやって来ると、紗月は便箋を封筒にしまい、朝食を並べ直した。少し遅れて凛花も顔を出し、今日は一段と寒いと肩をすくめながら椅子へ座る。家族の会話はいつもどおり学校や仕事の予定へ移っていったが、彩花の頭の片隅には、母が書いた短い一文が残っていた。
家を出る直前、凛花が彩花の上着の襟を軽く整えてくれた。
「今日も部誌の作業? 帰り、暗くなる前に連絡してね」
「うん。表紙のことで先生から返事が来るかもしれないから、部室には寄るつもり。でも、遅くならないようにするね」
「よし。あと、外で誰かと歩く約束が決まったら、寒さ対策はちゃんと考えること。楽しみなときほど、薄着で出かけちゃう人がいるから」
凛花はそれ以上何も言わずに笑った。彩花は頬が熱くなるのを感じながらも、姉の言葉を否定しなかった。悠真と川沿いを歩く日を楽しみにしているのは、紛れもなく本当だった。
◇
青葉高校の午前の授業が終わる頃、彩花の机には国語の授業で配られた短い文章のプリントが置かれていた。今日扱ったのは、語り手が離れて暮らす相手へ日々の出来事を知らせる随筆の一節で、教師は文章の主題だけでなく、書かれていないことにも注目するよう促していた。
彩花は授業中、登場人物が大切な相手の近況を想像する場面で、思わずペンを止めていた。会えない相手のことを思うとき、知りたいのは特別な出来事だけではない。今日は何を食べたのか、外は寒くなかったか、元気に笑っているか。そんな小さなことが分からないからこそ、手紙が届く意味がある。
昼休みになっても、彩花はプリントを鞄にしまえずにいた。星模様のノートを開き、朝の母との会話と授業で感じたことを、混ざらないように二つの欄へ書き分ける。物語の答えが突然見つかったわけではないが、少女の迷いを描くための手がかりが、少しずつ増えている気がした。
「水瀬さん、今日はお弁当食べながらでも書くの?」
声に顔を上げると、田辺大地が自分の弁当を手に立っていた。彩花は慌ててノートを閉じ、席を少し空ける。大地は気軽に椅子を寄せたが、ノートの中身を覗こうとはしなかった。
「ごめんね。朝、ちょっと気になることがあったから、忘れないうちに書いてたの」
「謝ることないって。新しい小説の方、少し進んだのか?」
「うん。昨日は手紙の最初の言葉をどうしようか考えてたんだけど、今日は、手紙をもらう人がどんな気持ちになるかも考えてみようと思って」
大地は弁当の蓋を開けながら、しばらく考え込んだ。昨日は自分なら「元気ですか」と書くと言っていた彼が、今日は受け取る側の話に興味を持ったらしい。
「俺さ、妹からたまにメモ渡されるんだよ。買い物頼むときとか、帰りに何か買ってきてほしいときとか。用件だけの紙なんだけど、字がでかくてさ、何となく捨てづらいんだよな」
「田辺君、妹さんのメモを取ってあるの?」
「全部じゃないけどな。冷蔵庫に貼ったままになってるやつもある。字を見ると、あいつが急いで書いたんだろうなって分かるから、ちょっと面白いんだ」
彩花は思わず笑った。用件だけの紙でも、書いた人らしさが残る。そんな当たり前のことが、今は物語の大切な部分につながっているように思えた。
「ありがとう、田辺君。今の話、すごく参考になったよ」
「え、俺の妹の買い物メモが? 役に立つならいいけど、あいつには内緒にしてくれよ。勝手に小説の資料にされたって怒られそうだから」
「うん。内容をそのまま使ったりはしないよ。ただ、手紙って書いた人のことも伝わるんだなって思ったの」
大地は納得したように頷き、それから冬の部誌について尋ねた。妹が完成を楽しみにしているらしいが、学校の外で読めるかどうかはまだ分からないと彩花が説明すると、彼は「決まってからで大丈夫」とあっさり受け入れた。
彩花は少し安心した。楽しみにしてくれる人がいるからこそ、まだ決まっていないことを決まったように伝えたくない。待ってもらうことも、作品を大切にするために必要なのだと思った。
◇
同じ頃、桜華学園高等部の教室では、悠真が昼食を終えたあと、森川航平と窓際で話していた。午前中に担当教員から受け取った連絡によれば、生徒会の資料はおおむね問題なく、今週中に追加で確認すべき項目も限られているという。週末に急な作業が入る可能性は低くなったが、悠真はまだ手帳の予定を確定させていなかった。
「これで、お前の方は少し余裕ができそうだな」
航平がそう言うと、悠真は頷いた。
「うん。先生からも、今のところ週末に集まる予定はないと聞いたよ。ただ、何か変更があれば連絡が来るから、そこは確認しておくつもりだ」
「なるほど。川沿いの散歩のこともあるし、予定が見えたのはよかったじゃん」
悠真は微笑んだが、すぐに答えなかった。彩花の文芸部では、冬の部誌の表紙について確認が続いている。自分の予定が空いているからといって、相手も同じとは限らない。
「彩花さんの方は、まだ先生の返事を待っているところなんだ。だから、今週中に日にちを決められなくてもいいと思ってるよ」
「そういうの、お前はちゃんと待てるんだな」
「待つのが苦手じゃないわけではないよ。楽しみだから、早く決めたい気持ちもある。でも、彩花さんが大切にしていることを、急がせたくはないんだ」
航平はその返事に、少し意外そうな顔をした。悠真は普段、必要なことを早めに整理し、予定を見通せる状態にするのが得意だ。そんな彼が、自分から決定を先延ばしにしているのは珍しかった。
「じゃあ、今は決まってない時間も含めて楽しんでるってことか」
「……そうかもしれないね。彩花さんと、どんな景色を見たいか話すだけでも楽しいから」
航平は笑ったが、からかうようなことは言わなかった。代わりに、放課後の生徒会室で確認する書類の順番を提案し、悠真もそれに応じた。友人との会話が普段の仕事へ自然に戻ったことに、悠真は少しほっとしていた。
昼休みの終わり際、悠真は校庭を見下ろした。植え込みの奥にある木の葉はほとんど落ち、枝の間から以前は見えなかった校舎の壁が覗いている。彩花なら、この変化をどんな言葉で表すだろう。そう考えた瞬間、彼女の感想を早く聞きたいという気持ちが、胸の内で静かに膨らんだ。
◇
放課後の文芸部室には、紙の擦れる音と小さな相談の声が満ちていた。佐々木先輩が机に広げていたのは、灰色の表紙の確認用データと、担当教員から受け取った連絡をまとめた一枚の紙だった。彩花が挨拶して席につくと、先輩は集まった部員たちを見渡してから、今日分かったことを説明し始めた。
「先生から、印刷の相談先に確認していただいた内容が届きました。表紙の灰色は、画面で見ているより少し濃く出る可能性があるそうです。ただ、実際にどの程度違って見えるかは、試しに印刷してみないと判断できないみたい」
彩花は表紙の絵へ目を向けた。窓枠の向こうに葉の落ちた枝が伸びる、静かな冬の景色。灰色の濃さが変われば、枝の細い線が背景に埋もれてしまうかもしれない。
「じゃあ、表紙の色をすぐに変えるんじゃなくて、まず確認用の印刷をするんでしょうか」
「そうね。先生も、いきなりデータを修正するより、試し刷りができるかを先に確認したいとおっしゃっていたわ。まだ実施できるかどうかの返事待ちだから、今日の時点で決まったのは、色の出方に注意が必要だということだけよ」
先輩の説明に、部員たちはそれぞれ頷いた。彩花は確認事項の欄へ、試し刷りの可否が未定であることを書き込んだ。できるかもしれない作業と、正式に決まった作業を混同しないようにするためだった。
部員の一人が、もし色が濃く出るなら、画面上の灰色をあらかじめ薄くしておいた方がいいのではないかと提案した。佐々木先輩はすぐに否定せず、そういう方法も考えられると受け止めたうえで、今は元のデータを変えない方が安全だと説明した。
「私たちの予想だけで直してしまうと、かえって印刷したときに薄くなりすぎるかもしれないでしょう。まずは、どこが気になるのかを整理して、先生に相談できる状態にしておきたいの」
彩花はその言葉を聞き、昨日までの確認作業が少し違って見えた。作業が進まないように感じる時間にも、意味がある。間違いを避けるために立ち止まることは、何もしていないこととは違うのだ。
確認が一段落したあと、佐々木先輩は表紙を担当している部員に、窓枠と枝の境目で気になる箇所がないか尋ねた。その部員は画面を拡大し、枝の一部が背景と近い濃さになっていることを示したが、実際に印刷したときに見えにくくなるかどうかは分からないと付け加えた。
彩花は横から画面を覗き込み、以前見たときには気づかなかった細い線を確かめた。窓の向こうの枝は、冬の静けさを表す大切な部分だ。そこが消えてしまえば、表紙全体の印象も変わってしまうだろう。
「この枝、私は好きです。葉が落ちたあとでも、外に景色が続いている感じがするから。だから、できれば印刷したときにも見える形で残ってほしいです」
彩花がそう伝えると、表紙を担当した部員は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「ありがとう。私も、そこを見てほしくて描いたんだ。冬って、何もなくなる季節じゃなくて、見えるものが変わる季節だと思ったから」
その言葉に、彩花は思わず顔を上げた。悠真と話していた川沿いの景色と、目の前の表紙が、思いがけないところで重なったのだ。葉が落ちたあとに見える景色を、ほかの誰かも大切に考えている。
「……すごく素敵だと思います。私も最近、同じ場所でも季節が変わると違うものが見えるんだなって考えていたので」
部員は照れくさそうに笑い、彩花も微笑み返した。自分が感じていたことを、別の誰かが絵にしている。そうした発見ができるのも、みんなで部誌を作る面白さなのかもしれない。
作業の最後に、佐々木先輩は今日の進行をまとめた。作者名の表記については本人の希望であることを確認済み、本文のページ番号と目次のずれも修正済み。一方で、表紙の印刷条件は引き続き確認中で、印刷部数や配布方法もまだ決まっていない。
「今日できることは、ここまでね。試し刷りのことは先生からの連絡を待ちましょう。明日、返事が来ていなければ無理に集まって作業する必要はないから、各自の予定も大切にしてね」
その言葉に、部室の空気が少し和らいだ。彩花は資料を元の順番に戻し、確認済みの欄と未定の欄がはっきり分かれていることを確かめた。完成はまだ先でも、今どこにいるのかは昨日より見通しやすくなっている。
帰り支度をしていると、佐々木先輩が彩花へ声をかけた。
「水瀬さん、今日は表紙の感想を言ってくれてありがとう。作った人にとって、どこを見てもらえたか分かるのは嬉しいことだと思うわ」
「私も、あの枝にそんな思いが込められていたんだって知れて嬉しかったです。自分の短編が載ることばかり考えていたけど、表紙にも誰かの物語があるんですね」
「そうね。だからこそ、一冊になったときに、どんなふうに見えるのか楽しみだわ」
彩花は深く頷き、先輩に挨拶して部室を出た。廊下の窓から見える校庭では、夕方の風が落ち葉を隅へ寄せている。冬へ向かう景色を眺めながら、彩花は今日聞いた「見えるものが変わる季節」という言葉を、星模様のノートへ書き留めたいと思った。
◇
九条家へ帰宅した悠真は、制服から着替えたあと、琴葉と一緒に練習用の葉の状態を確かめることにした。生徒会の仕事は予定どおり終わり、夕食まで少し時間があった。廊下で出会ったハクが二人のあとをついて来ようとしたが、琴葉が優しく声をかけ、葉を広げる間は部屋の外で待ってもらうことにした。
机の上には、数日前に集めた練習用の葉が、状態を分けて保管してある。悠真は手を洗ってから、押さえておいた方の葉を慎重に確認した。昨日より表面が落ち着いているように見えたものの、まだ十分に乾いたとは判断できず、触れると傷みそうな部分も残っていた。
「お兄様、端のところが少し丸まっていますね。最初はもっと平らだった気がします」
「うん。形を保つのも、思ったより難しいね。無理に伸ばすと破れてしまいそうだから、このまま様子を見よう」
悠真は状態をメモし、集めた日と確認した日を並べて記録した。もう一方の葉はまだ別の方法を試していないため、比較できる結果は出ていない。試す前に、借りてきた本の説明をもう一度読んでおくことにした。
琴葉はその様子をしばらく眺めてから、少し首を傾げた。
「お兄様、もし練習がうまくいかなかったら、どうなさるんですか?」
悠真はすぐには答えなかった。大切な橙色の葉は、今も紙に包んで引き出しにしまってある。いつか彩花へ渡したいと思っているが、保存の方法も、贈り物の形も決められていない。
「別の方法を探すと思うよ。でも、どうしても難しいなら、葉そのものを無理に加工しない選択もあるかもしれない。傷めてしまうより、今の形で大切にしておきたいから」
「そうですね。彩花さんなら、お兄様がその葉を大切にしていることも、きっと嬉しいと思います」
琴葉は自然に彩花の名前を口にした。悠真は少しだけ頬が熱くなるのを感じたが、妹の言葉を否定しなかった。贈りたい相手が誰なのか、琴葉はもう知っている。それでも、彼女は面白がって急かすようなことを一度も言わなかった。
「ありがとう、琴葉。まだ渡す日も決めていないけど、俺なりに考えてみるよ」
「はい。私も練習のお手伝いは続けたいです。でも、お兄様が一人で考えたいことは、無理に聞きません」
その返事が嬉しくて、悠真は妹へ穏やかに微笑んだ。二人は葉を元の場所へ戻し、机の上を片づけた。外で待っていたハクが扉の開く音に気づき、尻尾を揺らして近づいてくると、琴葉はしゃがんで白い毛並みを撫でた。
悠真もハクの頭へ手を伸ばしながら、ふと考えた。大切な思い出を残す方法は、一つではない。形として残せるものもあれば、誰かと話すことで、以前より鮮やかになる記憶もある。
彩花と拾った葉のことを、彼女へまだ話していない。贈り物にするかどうかを含め、その気持ちをいつ伝えるのかも決めていない。それでも、あの日のことを大切に思う気持ちだけは、少しも変わっていなかった。
◇
夕食後、彩花は自室の机で原稿を広げた。今日の文芸部で聞いた表紙の話を星模様のノートへ書き留めてから、朝の母の手紙へ考えを戻す。誰かの顔を思い浮かべると、言葉が決まることがある。少女が祖母へ手紙を書く場面にも、その感覚を少し取り入れてみたいと思った。
彩花はこれまでの原稿を読み返した。机の古い写真には、庭で笑う祖母と幼い少女が写っている。少女はその写真を見ながら、花に水をやった日のことや、祖母が自分の話を最後まで聞いてくれたことを思い出す。
そこまでは、もう書いてある。
けれど、祖母へ伝えたいことが多すぎて、最初の一行を書けずにいる場面で、文章は止まっていた。
彩花はペンを握り直し、少女が便箋を見つめる時間を少しだけ書き足した。
『少女は、祖母に何を書けば喜んでもらえるのかを考えた。学校であった面白いこと、庭に咲いた花のこと、近所で見つけた小さな変化。どれも話したいことだったけれど、一番大切なことを選ぼうとするほど、言葉は遠くなっていった。』
『そのとき、祖母がいつも「今日はどんな一日だった?」と尋ねてくれたことを思い出した。少女は少しだけ笑って、机の上の写真を見つめ直した。』
彩花はそこで手を止めた。少女の中に、手紙を書き始めるための小さなきっかけが生まれた気がした。けれど、ここで一気に手紙を書き上げさせると、今まで丁寧に描いてきた迷いが、簡単に消えてしまうようにも思える。
(最初の一行を決める前に、この子自身が何を伝えたいのか、もう少し確かめたい)
彩花は原稿の余白へ、今後考えたいことを書き留めた。祖母が遠くへ引っ越したあと、少女は何を見つけたら知らせたいと思うのか。庭の花が咲いた日だけでなく、学校で笑ったことや、少し困ったことまで話せる相手なのか。その答えが見つかれば、最初の一行も自然に決まる気がした。
ペンを置いたところで、スマートフォンが震えた。画面には悠真からのメッセージが表示されている。
『彩花さん、こんばんは。今日は部誌の確認、何か進んだかな。無理のない時間に返事をくれたら嬉しいよ』
彩花は思わず微笑んだ。いつもなら、今日の作業がどうだったかをすぐに伝えるところだが、今回は少しだけ違う話もしたかった。部誌の表紙に描かれた枝のことを、悠真ならどう感じるだろう。
『こんばんは、悠真君。今日は先生から、表紙の灰色が印刷すると少し濃くなるかもしれないって連絡があったよ。まだ試し刷りができるか確認中だから、データは変えてないんだけどね』
『そうだったんだ。画面と紙では印象が違うこともあるんだね。実際に確かめられるといいね』
『うん。それでね、表紙を描いた部員の子が、葉の落ちた枝には、冬になって見える景色が変わるっていう気持ちを込めたんだって教えてくれたの』
送信すると、彩花は少しだけ胸が弾むのを感じた。自分が大切にしたいと思った言葉を、悠真にも伝えられる。そのこと自体が嬉しかった。
返事が届くまでの間、彩花は窓の外を眺めた。庭の木はほとんど葉を落とし、向こう側の家の明かりが枝の間から見えている。今まで隠れていたものが見えるようになる季節なのだと、改めて感じた。
『素敵な考え方だね。俺も今日、学校の木を見ていて、葉が落ちたからこそ見えるものがあるんだと思ったところだったんだ。彩花さんがその話を聞いたとき、嬉しかっただろうな』
彩花はその文章を何度も読み返した。悠真は、部誌の説明を聞いただけではなく、自分がどう感じたのかまで想像してくれている。胸の奥が温かくなり、返事を打つ指が少しだけゆっくりになった。
『うん、嬉しかった。悠真君と川沿いの話をしてたから、余計にそう思ったのかもしれない。違う場所で同じようなことを考えてる人がいるんだって、なんだか不思議だったよ』
『俺も嬉しいよ。今度一緒に歩いたとき、その表紙のことも聞かせてほしいな。実際の景色を見ながら話したら、また違うことに気づけそうだから』
彩花は頬を緩めた。部誌が完成したら、悠真に読んでもらいたいと思っている。ただし、学校の外へ渡せるかどうかはまだ決まっていないため、その約束はできない。けれど、表紙について感じたことなら、今からでも話せる。
『もちろん。部誌そのものを見てもらえるかはまだ分からないけど、表紙の話はちゃんと覚えておくね』
『ありがとう。楽しみにしてるよ』
そのあと、二人は学校での出来事を少しずつ伝え合った。悠真の方は生徒会の作業が落ち着き、現時点では週末の追加予定もないらしい。彩花の文芸部は先生からの返事待ちが続いているため、今すぐ散歩の日を決めることはできなかった。
それでも、悠真は急がなかった。
『俺の予定は今のところ大丈夫そうだけど、彩花さんの方が分かってから相談しよう。寒くなってきたから、天気も見ながら決めたいね』
『うん。ありがとう。私も予定が分かったら伝えるね。今日、学校の帰りに川の方から風が吹いてきて、前に歩いた日のことを思い出したんだ』
『そうだったんだ。俺も、またあの道を歩けるのが楽しみだよ』
彩花はその言葉を読み、しばらく画面を見つめた。会う日が決まっていなくても、同じ時間を楽しみにしていると分かるだけで、心が落ち着く。急いで約束を完成させなくても、今はこのやり取りが嬉しかった。
◇
悠真はメッセージを終えたあと、机の上の手帳を開いた。今週の生徒会の予定はおおむね整理できており、来週の週末にも大きな予定は入っていない。ただし、彩花の方は文芸部の確認が続いているため、まだ具体的な日にちは書き込まないことにした。
手帳を閉じると、机の引き出しへ視線が向いた。中には、紙に包まれた橙色の葉と、以前彩花からもらった淡い青色の花柄のカードがしまってある。カードには、彩花が自分の好きなものを大切にしてくれることへの感謝と、悠真と話す時間が好きだという言葉が書かれていた。
悠真はカードを取り出し、静かに読み返した。何度読んでも、彩花がその言葉を選んでくれたことが嬉しい。自分も何かを返したいと思うが、ただ同じような言葉を書けばいいわけではない気がしていた。
(彩花さんが好きなものを、大切にしたい。それだけじゃなくて、俺が彩花さんと過ごした時間をどう思っているかも、いつかちゃんと伝えたい)
悠真はカードを元の場所へ戻し、橙色の葉の包みには触れなかった。贈り物の形を決めることと、自分の気持ちを言葉にすることは、似ているようで少し違う。どちらも大切だからこそ、相手がどう受け取るかを考えたい。
そのとき、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。返事をすると、琴葉が顔を覗かせる。
「お兄様、明日の朝は少し冷え込むそうです。ハクのお散歩に行かれるなら、手袋を忘れないでくださいね」
「ありがとう、琴葉。気をつけるよ。琴葉も、朝は暖かくして出かけてね」
琴葉は嬉しそうに頷いたが、すぐには立ち去らなかった。少し迷うように指先を重ねてから、悠真の机へ視線を向ける。
「葉のこと、今日も考えていらしたんですか?」
「うん。でも、まだ答えは出ていないよ。練習用の葉も、もう少し様子を見ないといけないからね」
「そうですか。……お兄様、私、急いで完成させなくてもいいと思います。お兄様がその葉を大切にしている時間も、きっと意味があると思うので」
悠真は妹の言葉に、少し驚いた。琴葉はいつも明るく、思いついたことを素直に口にするが、今日は相手の気持ちを確かめるようにゆっくり話している。
「ありがとう。琴葉にそう言ってもらえると、少し安心するよ」
「よかったです。私も、練習の続きが楽しみですから」
琴葉は微笑み、扉を静かに閉めた。悠真はその背中を見送りながら、胸の内が温かくなるのを感じた。大切なものを大切にするために、時間をかけることを認めてくれる人がいる。それは思っていた以上に心強かった。
◇
夜、彩花は淡い緑色の葉模様の日記帳を開いた。今日の出来事を思い返すと、部誌の表紙を描いた部員の言葉と、母が友人へ書いた短い手紙が、別々の出来事なのにどこかでつながっているように思えた。
彩花はまず、文芸部で分かったことを書いた。表紙の色が印刷で濃くなる可能性があり、試し刷りができるかどうかはまだ確認中であること。作者名やページ番号の確認は済んでいるが、印刷部数や配布方法は決まっていないこと。完成へ向けて進んでいる部分と、まだ待つ必要のある部分を、混同しないように書き分けた。
次に、今日心に残った言葉を書いた。
『冬は何もなくなる季節じゃなくて、見えるものが変わる季節。表紙を描いた部員の子がそう言っていて、すごく素敵だと思った。悠真君と歩く川沿いも、前とは違う景色になっているんだろうな。』
ペンを動かしながら、彩花は悠真とのメッセージを思い出した。悠真は、自分が嬉しかったことを想像してくれた。そして、今度一緒に歩いたときに、表紙の話を聞きたいと言ってくれた。
その言葉を思い出すだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
『悠真君は、私が何を見て嬉しくなったのかまで考えてくれる。だから私も、悠真君が見つけた景色や、感じたことをもっと知りたい。』
彩花はそこで少しだけ手を止めた。自分の気持ちをこうして書けるようになったのは、いつからだろう。悠真のことを好きだと認めたあとも、何かが急に変わったわけではない。それでも、以前より素直に、嬉しいことを嬉しいと思えるようになっている。
(好きって、きっと、会いたいだけじゃないんだね。その人が見ているものを知りたいって思うことも、そうなのかもしれない)
彩花は日記帳を閉じ、机の上の原稿へ目を向けた。祖母へ手紙を書こうとする少女は、まだ最初の一行を書けていない。けれど、今日の彩花には、その時間が決して無駄ではないと思えた。
相手のことを思い浮かべ、何を伝えたいかを考える。言葉になるまでの時間にも、確かな気持ちがある。彩花は原稿を丁寧に揃え、明日また続きを考えようと決めた。
窓の外では、冷たい風が枝を揺らしていた。葉が落ちた向こうには、今まで見えなかった小さな明かりがある。彩花はその光を眺めながら、いつか悠真と並んで同じ景色を見たとき、自分は何を伝えたいと思うのだろうと考えた。
答えはまだ分からない。
それでも、言葉を探す時間が楽しみだった。




