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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第101話 まだ決まらない週末に、君と交わす小さな約束



 金曜日の朝、彩花が目を覚ましたとき、窓の向こうには昨日よりも澄んだ青空が広がっていた。夜の間に風が強く吹いたらしく、庭の隅には落ち葉が寄り集まり、隣家の屋根の輪郭もいつもよりくっきりと見えている。布団から出ると足元に冷たさが伝わってきて、彩花は急いで靴下を履きながら、昨日の文芸部で聞いた言葉を思い出した。


 冬は、何もなくなる季節ではなく、見えるものが変わる季節。


 表紙を担当した部員が口にしたその言葉は、一晩経っても不思議と鮮やかに残っていた。彩花は制服に着替える前に机へ向かい、星模様のノートを開いたが、そこに書き込んだのは新しい物語の文章ではなかった。昨日の出来事を忘れないために、表紙の窓と枝について感じたことを、数行だけ記しておきたかったのだ。


『葉が落ちると、向こう側の景色が見える。何かがなくなることと、新しいものが見えることは、同じ時間の中で起こるのかもしれない。』


 書き終えてから、彩花は少し考えた。祖母が遠くへ引っ越してしまう少女にとっても、別れは何かが失われるだけの出来事ではないはずだった。これまでのように庭で一緒に花へ水をやることはできなくなるけれど、離れた場所で暮らす祖母へ、今までとは違う形で日常を伝えることができるかもしれない。


(でも、この子はまだ、そんなふうに簡単には思えないよね。寂しい気持ちが残っているからこそ、最初の一行で迷っているんだと思う)


 彩花は新しい物語の原稿を手に取り、昨夜書き足した部分を読み返した。少女が祖母の「今日はどんな一日だった?」という言葉を思い出す場面は、以前より自然になっている気がする。しかし、そこから先へ進むには、少女が祖母のいない日常をどう受け止めるのか、もう少し丁寧に考える必要がありそうだった。


 階下から食器の触れ合う音が聞こえ、母の紗月が朝食の支度をしていることが分かった。彩花は原稿を机へ戻し、星模様のノートを鞄にしまう。今日は授業のあとに文芸部へ顔を出すつもりだったが、昨日の時点では先生からの返事待ちになっていたため、長い作業になるかどうかは分からなかった。


 台所へ降りると、紗月が小さな封筒を鞄の横へ置いていた。昨日、古い友人へ返す本に添えるために書いた手紙だと気づき、彩花は自然に足を止める。


「お母さん、その本、今日送るの?」


「ええ。仕事へ行く途中で出してこようと思っているの。昨日は彩花が手紙のことを聞いてくれたから、昔の友達と本の感想を話していた頃を思い出しちゃった」


 紗月は嬉しそうに笑いながら、焼き上がった卵を皿へ移した。彩花が椅子に座ると、母は向かい側へ腰を下ろし、封筒の方へ一度だけ目を向けた。


「その友達とは、最近あまり会えていないの。でも、本を貸したり返したりしていると、何となく話が続いている感じがするのよね。次に会ったときには、きっと別の話もするんでしょうけど」


「昨日書いてた『今度会ったときに続きを話そうね』って、そういうことなんだね」


「そうね。何を話すか決めているわけじゃないけれど、また会いたいと思っていることは伝わるでしょう?」


 彩花はゆっくり頷いた。言葉には、今の気持ちだけでなく、これから先の時間を相手と共有したいという願いも込められるのだろう。そう考えると、悠真と交わしている川沿いの散歩の約束も、少し違った意味を持って感じられた。


 父の耕助が新聞を畳んで食卓へ加わり、今日も夕方は冷えそうだと話した。凛花は彩花の上着を見て、風を通しにくいものを選んだ方がいいと助言する。彩花は家族の言葉に頷きながら朝食を終え、玄関で靴を履くときには、鞄の中に手袋が入っていることも確かめた。


 外へ出ると、青空の下を冷たい風が吹き抜けていた。駅へ向かう道では、歩道脇の木々が細い影を落としており、昨日まで葉に隠れていた向こう側の建物が見えている。彩花は歩きながら、今度悠真と川沿いを訪れたら、どんな景色が広がっているのだろうと想像した。


     ◇


 青葉高校の午前の授業が終わると、彩花は教科書を片づけながら、机の中に入れていた図書室の貸出記録を取り出した。少し前に借りた短編集は日曜日に読み終えていたが、文芸部の作業が続いていたため、まだ返却できていなかった。返却期限には余裕があるものの、今日は昼休みに図書室へ寄ってみようと思っていた。


 その本には、離れて暮らす友人同士が季節の出来事を手紙で伝え合う物語が収められている。読んだときには、何気ない出来事を書き残すことの温かさが心に残った。新しい物語の参考になったからこそ、返す前にもう一度だけ気に入った場面を読み返したい気持ちもあったが、彩花はその誘惑を抑えて本を鞄へしまった。


「水瀬さん、今日は図書室に行くの?」


 隣の席から声をかけてきた田辺大地は、彩花が本をしまう様子を見ていたらしい。彼は机の上に弁当を置きながら、少し気になったように首を傾げた。


「うん。借りてた本を返そうと思って。もう読み終わってるから、今日のうちに返しておこうかなって」


「そうなんだ。俺も図書室には用事があるんだけど、昼休みって混んでるかな」


「日によると思うけど、返却だけならそんなに時間はかからないんじゃないかな。田辺君は何か借りるの?」


 大地は少し気まずそうに笑った。どうやら、妹に頼まれて学校の図書室にある本を探そうとしているらしい。ただし、妹が直接読むために借りるのではなく、どんな本があるかを教えてほしいと言われただけだという。


「最近、妹が短い話を読むのにハマってるんだよ。文芸部の部誌の話をしたら、学校にはどんな本があるのか気になったみたいでさ。俺はあんまり詳しくないから、図書室で見てみようかなって」


「そうだったんだ。妹さん、本当に読むのが好きなんだね」


「うん。最近は俺より本の話をするようになったかもしれない。昨日なんか、買い物メモの裏に読んだ本の感想まで書いてあってさ」


 彩花は思わず笑みをこぼした。昨日、大地が話してくれた妹の買い物メモを思い出したからだ。大地は少し照れくさそうに肩をすくめたが、妹のことを話す声には、どこか嬉しそうな響きがあった。


「じゃあ、一緒に図書室まで行こうか。私は返却だけだけど、短編集がある棚なら分かると思う」


「助かる。水瀬さんに聞けば間違いない気がするけど、無理に付き合わせるつもりはないからな」


「大丈夫だよ。私も少し棚を見ていきたいと思ってたから」


 二人は昼食を済ませたあと、廊下を通って図書室へ向かった。授業が終わったばかりの校舎には生徒たちの話し声が響き、窓際では冷たい空気を避けるように何人かが集まっている。彩花は鞄から本を取り出し、折れや汚れがないことを確かめながら、図書室の扉を開けた。


 室内には紙と木製の書架が混ざった、落ち着いた匂いが漂っていた。窓際の席では数人の生徒が勉強しており、返却カウンターの近くには貸出手続きを待つ列ができている。彩花は大地に先に棚を見てもらうことにして、自分は返却の列へ並んだ。


 順番が来ると、担当の図書委員が本を受け取り、返却処理を進めた。彩花は手続きを終えてから、表紙をもう一度だけ見つめる。読み終えた本を手放すときには少し寂しさもあるが、その本を次に手に取る誰かがいるかもしれないと思うと、別の嬉しさも感じられた。


 短編集の棚へ向かうと、大地が数冊の背表紙を見比べていた。どれも気になるらしいが、妹が好きそうなものを選ぶ基準が分からず、困っている様子だった。


「水瀬さん、こういうのって、どこを見ればいいんだろうな。タイトルだけだと、短い話なのか長い話なのか分からなくて」


「本によって違うけど、目次を見ると、一つのお話がどのくらいの長さなのか分かることがあるよ。あと、裏表紙にどんな内容か書いてある場合もあるし」


 彩花は近くにあった一冊を手に取り、目次の見方を説明した。大地は感心したように頷き、別の本を開いて確かめ始める。妹に合うかどうかは本人が決めることだから、彩花は特定の本を強く勧めることはせず、選ぶための手がかりだけを伝えた。


「なるほど。じゃあ、今日は何冊かタイトルを控えて、妹に聞いてみるよ。学校の本を勝手に持って帰るわけにもいかないしな」


「うん。それがいいと思う。妹さんが読みたい本が見つかるといいね」


 大地は礼を言い、スマートフォンではなく小さなメモ帳へ本の題名を書き留めた。彩花はその姿を見ながら、昨日の買い物メモの話を思い出す。書いた人の気持ちは、長い文章でなくても伝わるのかもしれない。


 図書室を出る頃には、昼休みも残り少なくなっていた。大地は妹に見せるためのメモを鞄へしまい、彩花へ改めて礼を言った。


「ありがとう。何となく来ただけだったけど、ちゃんと探せてよかったよ」


「どういたしまして。私も本を返せたし、ちょうどよかった」


 彩花は微笑みながら教室へ戻った。借りていた短編集は手元から離れたが、そこで読んだ言葉や感じたことまで消えるわけではない。星模様のノートに残したメモを思い出しながら、彩花は午後の授業の準備を始めた。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真が放課後の生徒会室で、森川航平と資料の最終確認を進めていた。今週の作業はおおむね終わっていたが、担当教員へ提出する確認記録の一部に、連絡済みの項目と返答待ちの項目が混在していることが分かった。内容自体に大きな問題はなかったものの、そのまま提出すると、どこまで確認が終わっているのか分かりにくくなる可能性があった。


 航平は資料を机に広げ、該当する欄へ付箋を貼った。


「ここ、昨日の時点では確認中だったんだけど、今朝返事が来たんだよな。俺が記録を直しておけばよかったんだけど、別の書類を先に片づけてて忘れてた」


「返事の内容は残っている?」


「うん。先生に確認してもらった記録もある。だから、内容を変える必要はないんだけど、進行状況の欄だけ更新しないといけないな」


 悠真は付箋の位置を確かめ、航平が持ってきた連絡記録と照らし合わせた。返答を受け取った日付と確認者の名前が記載されているため、修正の根拠は明確だった。二人は作業を分担し、悠真が資料の表記を整え、航平が記録の抜けを確認することにした。


 作業を進めるうちに、航平が少し苦笑した。


「こういうのって、終わったと思ったあとに細かいところが見つかるんだよな。大きな問題じゃないけど、放っておくとあとで面倒になる」


「そうだね。でも、今見つかってよかったと思うよ。提出したあとに気づくより、ずっと直しやすいから」


 悠真はそう答えながら、確認済みの欄に印をつけた。以前なら、こうした細かな修正を自分で引き受けてしまうこともあった。しかし、航平が自分の担当分を責任を持って確認してくれている今は、すべてを抱え込む必要はないと感じていた。


「航平、連絡記録の方をお願いしてもいいかな。俺はこっちの書式を揃えるから」


「もちろん。最初からそのつもりだよ。お前、最近はちゃんと人に任せるようになったよな」


 航平の言葉に、悠真は少しだけ手を止めた。自分では意識していなかった変化を指摘され、どう答えればいいのか迷ったのだ。


「そうかな。前は、任せるより自分でやった方が早いと思うこともあったけど……今は、分担した方が確認もしやすいと感じるようになったよ」


「それ、いいことだと思うぜ。俺だって、任された方がちゃんと考えるしさ」


 航平は笑いながら記録をめくり、必要な日付を確認していった。悠真も作業へ戻り、二人で最終確認を終えた頃には、窓の外が夕方の色へ変わり始めていた。


 担当教員へ資料を提出すると、先生は内容を確かめたうえで、週末に追加の生徒会活動を予定していないことを改めて伝えた。ただし、学校側から急な連絡が入る可能性はあるため、連絡網だけは確認しておくようにとのことだった。


 生徒会室へ戻った航平は、椅子の背もたれに軽く寄りかかり、満足そうに息をついた。


「これで今週は終わりだな。悠真も、週末は少しゆっくりできそうじゃん」


「うん。予定が落ち着いてよかったよ。彩花さんの方も、部誌の確認が進んでいるといいんだけど」


 悠真がそう言うと、航平は少しだけ笑った。


「お前、本当に水瀬さんのことをよく考えてるよな。自分の予定が空いたって話なのに、最初に気にするのが相手の予定なんだから」


 悠真は返事に困り、手元の資料へ視線を落とした。航平はからかうような調子ではなく、むしろ感心したように話している。そのことが分かったからこそ、悠真は誤魔化さずに答えようと思った。


「……彩花さんが楽しみにしてくれていることを、俺も大切にしたいんだ。だから、無理のない日に会えたらいいと思ってる」


「そっか。じゃあ、ちゃんと相談して決めればいいよ。せっかくの散歩なんだから、仕事の予定みたいに詰め込まなくてもいいだろ」


 航平の言葉に、悠真は静かに頷いた。二人で過ごす時間は、予定をこなすためのものではない。彩花と一緒に景色を見たり、話したりすることそのものが楽しみなのだと、改めて感じた。


     ◇


 青葉高校の放課後、彩花が文芸部室へ向かうと、廊下の先で佐々木先輩が数枚の紙を持って立っていた。部室の扉は開いており、中からは部員たちの話し声が聞こえる。彩花が挨拶すると、先輩はいつもより少し明るい表情で振り返った。


「水瀬さん、お疲れさま。ちょうどよかったわ。先生から表紙の件で返事が来たの」


「お疲れさまです。試し刷りのことですか?」


「ええ。確認用に少部数だけ印刷して、色の出方を見ることはできそうなの。ただし、いつ実施できるかはまだ調整中だから、今日すぐに印刷するわけではないのよ」


 彩花はほっと息をついた。昨日まで、試し刷りができるかどうかさえ分からなかった。実施日が決まっていなくても、確認する方法が見えてきたことは確かな前進だった。


 部室へ入ると、表紙を担当した部員が机の上に資料を広げていた。佐々木先輩は全員が集まったところで、先生からの連絡を説明する。確認用の印刷が可能になった場合は、画面上の色と紙に出た色を比較し、必要な修正があるか判断するという方針だった。


「だから、今日は修正案を決めるのではなく、どこを見比べたいかを整理しておきましょう。実際に印刷したものを見てから、先生と相談して最終的に判断することになるわ」


 先輩の説明に、部員たちは頷いた。彩花は昨日気になった枝の細い線を思い出し、確認事項の一つとして挙げた。表紙担当の部員も同じ箇所を気にしていたらしく、二人は画面を見ながら、どの部分が印刷で見えにくくなる可能性があるかを話し合った。


「ここ、背景と線の色が近いんだよね。画面だと見えるけど、紙だとどうなるか分からなくて」


「昨日見たとき、私も少し気になったんです。でも、この細い枝があるから、窓の向こうに奥行きが感じられる気がして……できれば残ってほしいです」


 彩花がそう伝えると、表紙担当の部員は嬉しそうに頷いた。


「ありがとう。私もそこを大事にしたかったから、試し刷りでちゃんと見えたらいいなって思う」


 二人は画面を拡大し、枝の線と背景の境目を確認した。ただし、今の段階で色を変更することはせず、確認したい箇所を資料へ書き込むだけに留めた。


 作業が一段落すると、佐々木先輩は部員たちへ今後の予定について説明した。試し刷りの実施日が決まるまでは、全員で集まって作業する必要はないという。先生からの連絡があれば改めて知らせることになり、少なくとも明日の土曜日に文芸部として集まる予定はないと確認された。


 彩花はその言葉を聞き、少しだけ胸が高鳴った。明日の予定が空いていると分かったからだ。けれど、すぐに悠真との散歩を決めようとは思わなかった。彼の方にも予定があるかもしれないし、天気や帰宅時間も確認した方がいい。


(明日が空いているなら、相談してみてもいいのかな。でも、急に決めるより、二人でちゃんと考えたいな)


 彩花は自分の気持ちを落ち着かせながら、資料を片づけた。部誌の完成はまだ先だが、今日の確認で一つ進んだことが嬉しかった。さらに、週末の予定についても少し見通しが立ったことで、胸の中に小さな期待が生まれていた。


 帰り際、佐々木先輩が彩花へ声をかけた。


「水瀬さん、最近は部誌のことをよく考えてくれているけれど、週末はちゃんと休んでね。原稿を書く時間も必要でしょうし、学校のことばかりにならないように」


「ありがとうございます。新しいお話も少しずつ進めたいと思ってます。でも、まだ書きたいところがたくさんあって、なかなか終わらなくて」


 彩花が少し照れくさそうに答えると、先輩は穏やかに笑った。


「終わらないのは、ちゃんと考えているからかもしれないわね。急いで完成させることより、そのお話に必要な時間を大切にしてあげて」


 彩花はその言葉を胸に留め、部室をあとにした。廊下の窓から見える空はまだ明るく、冬へ向かう季節の中にも、穏やかな午後の光が残っている。鞄の中の星模様のノートが、歩くたびにかすかに揺れていた。


     ◇


 帰宅した彩花は、夕食までの時間を使って新しい物語の原稿を開いた。今日の図書室で大地と話したことや、母が友人へ送った手紙のことを思い返しながら、少女が祖母へ何を伝えたいのかを考える。これまでは、最初の一行をどう書くかばかり気にしていたが、今はその先に続く日常の方が大切なのかもしれないと思うようになっていた。


 彩花は、少女が祖母と庭で花に水をやっていた場面を読み返した。祖母はいつも少女の話を最後まで聞いてくれた。学校であった小さな出来事も、友達と笑ったことも、庭で見つけた虫のことも、どれも楽しそうに受け止めてくれた。


 それなら、祖母が遠くへ引っ越したあとも、少女は同じように話しかけたいと思うはずだった。けれど、手紙という形になると、普段の会話とは違う緊張が生まれる。何を書けばいいのか分からなくなるのは、相手を大切に思っているからこそなのだろう。


 彩花はペンを握り直し、原稿の続きを書き始めた。


『少女は、机の上に置いた古い写真を見つめながら、祖母が遠くへ引っ越したあとの庭を想像した。今まで二人で水をやっていた花は、これからも同じ場所で咲くだろう。けれど、その花を見つけたとき、隣に祖母がいないことを思うと、胸の奥が少し苦しくなった。』


『祖母は、花が咲いたら教えてねと言っていた。少女はその言葉を思い出し、写真を撮って送ればいいのかもしれないと考えたが、写真だけでは伝えられないこともある気がした。花を見つけたときに嬉しかったことや、祖母に見せたいと思ったことも、きっと一緒に伝えたいのだ。』


 彩花はそこで一度ペンを止めた。少女はまだ手紙の最初の一行を書いていないが、祖母へ伝えたいことの輪郭は少しずつ見えてきている。寂しさを消すためではなく、離れていても日常を分け合うために手紙を書く。その気持ちを、少女自身が見つけるところまで描きたいと思った。


(この子は、きっとおばあちゃんに寂しいって言いたいんだよね。でも、それだけじゃなくて、これからも一緒に笑いたいんだと思う)


 彩花は星模様のノートを開き、今日気づいたことを書き留めた。手紙の最初の一行は、物語の中で大きな意味を持つ。だからこそ、作者である自分が先に答えを決めてしまうのではなく、少女の気持ちが自然にそこへ向かうように書いていきたい。


 しばらくして、階下から夕食の支度を知らせる声が聞こえた。彩花は原稿を丁寧に揃え、机の端へ置く。今日も手紙の一行目は書けなかったが、昨日より少女の気持ちに近づけたような気がして、焦りは感じなかった。


     ◇


 九条家では、夕食前のひとときに、悠真が祖父の俊治と書斎で話していた。生徒会の仕事が一段落したことを伝えると、俊治は穏やかに頷き、机の上に置いていた本を閉じた。窓の外では庭木の枝が風に揺れ、夕暮れの光が室内へ細く差し込んでいる。


「今週もよく頑張ったな。学校の仕事は、周りの者と協力して進められたか?」


「はい。今日は航平と資料の最終確認をしました。細かな修正がありましたが、分担したので予定どおり終えることができました」


 悠真が答えると、俊治は満足そうに微笑んだ。


「それはよかった。人に任せるというのは、責任を手放すことではない。相手を信頼し、互いに役割を果たすことでもあるからな」


 その言葉に、悠真は静かに頷いた。航平が自分の担当を丁寧に確認してくれたことを思い出すと、仕事を分担することの意味が以前よりよく分かる気がした。


 話題が一段落したところで、俊治は悠真の様子を見て、少しだけ目を細めた。


「ところで、例の葉の保存はどうなっている?」


「まだ練習中です。押さえている葉は少しずつ状態が変わっていますが、端が丸まっている部分もあって、思ったほど簡単ではありません。元の葉には、まだ何もしていません」


「そうか。大切なものほど、扱いに迷うものだな」


 俊治はそう言って、窓の外へ視線を向けた。庭には落ち葉が散っており、夕方の風が吹くたびに数枚が地面を滑っていく。


「形を残すことも大切だが、なぜ残したいのかを忘れないことだ。方法ばかり考えていると、最初の気持ちが見えなくなることもある」


 悠真はその言葉を聞き、しばらく考えた。彩花と歩いた川沿いで拾った橙色の葉は、ただ珍しい形だったから残したいわけではない。あの日、二人で同じ景色を見て、季節の変化を話した時間が大切だったからこそ、手元に置いているのだ。


「……そうですね。保存することが目的になってしまわないようにしたいです」


「うむ。急がず考えるのもよいが、いつか自分が納得できる形を見つけられるといいな」


 悠真は祖父へ礼を言い、書斎をあとにした。廊下へ出ると、ハクが足元へ近づいてきて、白い尻尾をゆっくり揺らした。悠真はしゃがんで頭を撫でながら、彩花と過ごした時間を思い返した。


 川沿いの道を歩いた日も、二人で見つけたものは特別な景色ばかりではなかった。水面に映る光や、風に揺れる枝、道端に落ちた葉。そうした何気ないものを一緒に見つけられたことが、悠真には嬉しかった。


(次に歩くときも、何か特別なことを用意しなくてもいいのかもしれない。彩花さんと同じ景色を見て、感じたことを話せたら、それだけで十分楽しいはずだから)


 悠真はハクの頭をもう一度撫で、夕食の支度が整うまで自室へ戻ることにした。机の引き出しには、橙色の葉が今も大切にしまわれている。贈り物にする方法はまだ決まっていないが、その葉を残したいと思った理由だけは、以前よりはっきりしていた。


     ◇


 夕食後、彩花が部屋へ戻ると、スマートフォンに悠真からのメッセージが届いていた。画面を開くと、今日の生徒会の作業が無事に終わったことと、週末の予定について少し相談したいという内容が書かれている。


『彩花さん、こんばんは。今日で今週の生徒会の作業は一段落したよ。先生からも、今のところ週末に集まる予定はないと確認できたんだ』


 彩花は椅子へ座り、少しだけ胸を弾ませながら返事を打った。


『こんばんは、悠真君。お疲れさま。私の方も、今日は部誌の表紙のことで少し進展があったよ。確認用の印刷ができそうなんだけど、実施日はまだ調整中なんだって』


 送信すると、すぐに悠真から返事が届いた。


『それはよかったね。実際に紙に印刷して確かめられるなら、表紙を描いた人も安心できそうだね』


『うん。まだ全部決まったわけじゃないけど、少し前に進んだ気がするよ。それでね、明日の土曜日は文芸部で集まる予定がないって確認できたの』


 彩花はそこまで打ってから、少しだけ指を止めた。悠真との散歩のことを自分から話してもいいのだろうか。以前なら、相手に予定を合わせてもらうことを遠慮していたかもしれないが、今は二人で相談して決めたいと思っている。


 彩花は小さく息を整え、続きを送った。


『だから、もし悠真君も都合がよければ、川沿いの散歩の日を相談できたら嬉しいな』


 送信したあと、彩花はスマートフォンを机へ置いた。すぐに返事が来るとは限らないと分かっていても、画面が気になってしまう。窓の外へ目を向けると、夜の庭では枝が風に揺れ、街灯の光が地面へ細い影を落としていた。


 しばらくして、スマートフォンが震えた。


『もちろん。俺も相談したいと思っていたよ。明日は今のところ予定がないけれど、急に決めるより、天気や時間も確認してからの方がいいと思うんだ』


 彩花はその返事を読み、胸の奥が温かくなった。悠真も同じように考えてくれていたことが嬉しい。二人で楽しみにしている約束だからこそ、無理のない形で決めたいと思った。


『うん。私もそう思う。明日は少し風が強いかもしれないってお父さんが言ってたから、天気を見てから決めた方がよさそうだね』


『そうだね。もし明日が難しそうなら、来週末でもいいと思ってるよ。彩花さんの予定もあるだろうし、無理に急がなくて大丈夫だから』


 彩花はその文章を読み、少しだけ考えた。明日会えたら嬉しい気持ちはある。けれど、冬へ向かう季節の川沿いは風が強い日もあり、寒さを我慢して歩くことになっては、せっかくの時間を楽しめないかもしれない。


『ありがとう。私も、悠真君とゆっくり歩ける日がいいな。明日の天気をもう少し確認して、難しそうなら来週末も考えてみようか』


『うん。それがいいと思う。明日の朝に天気を確認してから、また連絡してもいいかな?』


『もちろん。私も確認しておくね』


 二人はそこで、具体的な日にちを決めることを一度保留にした。約束が遠のいたわけではない。むしろ、互いに無理をしないための相談ができたことで、彩花は少し安心していた。


 悠真から最後に届いたメッセージには、短い言葉が添えられていた。


『彩花さんと歩く日を楽しみにしてるよ。どの日になっても、一緒に見たい景色があるから』


 彩花はその文章を読んだ瞬間、胸の奥がきゅっと温かくなるのを感じた。悠真は何気なく書いたのかもしれないが、彩花にとっては大切な言葉だった。特別な場所へ行く約束ではなく、同じ景色を一緒に見ることを楽しみにしてくれている。その気持ちが、まっすぐ伝わってきた。


『私も楽しみにしてるよ。悠真君と一緒なら、前に歩いた道でも新しい発見がありそうだね』


 送信したあと、彩花はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。頬が少し熱くなっていることに気づき、誰も見ていないのに照れくさくなる。けれど、その気持ちを隠そうとは思わなかった。


     ◇


 悠真は彩花からの返事を読み、しばらく画面を見つめていた。前に歩いた道でも、新しい発見がありそうだという言葉が嬉しかった。彩花と一緒にいると、普段なら見過ごしてしまうものにも目が向く。そのことを彼女も感じてくれているのだと思うと、自然に表情が緩んだ。


 机の上には、週末の予定を書き込むための手帳が開かれている。土曜日の欄はまだ空白のままだったが、悠真はそこへ無理に予定を書き込まなかった。明日の天気を確認し、彩花と相談してから決める。それで十分だと思えた。


 ふと、引き出しの中にしまってある淡い青色の花柄のカードが目に入った。彩花からもらったそのカードには、悠真と話す時間が好きだという言葉が書かれている。悠真はカードを取り出し、机の灯りの下で静かに読み返した。


 彩花は、言葉を選ぶときに相手のことをよく考える人だ。だからこそ、あのカードに書かれた言葉も、何気なく選んだものではないのだろう。そう思うと、悠真はその一枚をますます大切に感じた。


(俺も、彩花さんに伝えたいことが増えている。でも、全部を一度に言葉にしなくてもいいのかもしれない。今は、こうして少しずつ話せる時間を大切にしたい)


 悠真はカードを元の場所へ戻し、引き出しを静かに閉めた。橙色の葉も、まだその中にある。いつか彩花へ渡すときには、保存した葉だけでなく、あの日の景色をどう思っていたのかも伝えられたらいい。


 窓の外では、夜の風が庭木を揺らしていた。明日の朝、天気を確認してから彩花へ連絡する。その小さな約束を思い浮かべながら、悠真は手帳を閉じた。


     ◇


 夜も更けた頃、彩花は淡い緑色の葉模様の日記帳を開いていた。今日の出来事を振り返ると、図書室で本を返したこと、文芸部で表紙の試し刷りについて進展があったこと、そして悠真と週末の予定を相談したことが、自然と心に浮かんでくる。


 彩花はまず、文芸部のことを書き留めた。試し刷りはできそうだが、実施日はまだ決まっていないこと。表紙の灰色がどう印刷されるかは、実際に確かめるまで分からないこと。完成を急がず、必要な確認を続けていきたいという気持ちも添えた。


 次に、今日返却した短編集のことを書いた。読み終えた本を手放しても、心に残った言葉は消えない。新しい物語を書くときに、その本から感じた温かさを思い出すこともあるだろう。


 そして最後に、悠真との約束について書き始めた。


『今日は悠真君と、川沿いの散歩の日を相談した。明日の天気を確認してから、もう一度話すことになった。まだ日にちは決まっていないけれど、二人で考えている時間も楽しい。』


 彩花はそこで少しだけペンを止めた。悠真が送ってくれた「一緒に見たい景色がある」という言葉を思い出すと、胸の奥が静かに温かくなる。彼はいつも、自分の好きなものや大切にしていることを、丁寧に受け止めてくれる。


『悠真君は、どの日になっても一緒に見たい景色があるって言ってくれた。私も同じ気持ちだと思う。特別な場所じゃなくても、悠真君と一緒に歩いたら、きっと楽しい。』


 書き終えたあと、彩花は日記帳を閉じずに、しばらくその文字を眺めた。自分の気持ちをこうして書き残すことに、以前ほど戸惑わなくなっている。悠真のことが好きだと認めたあの日から、少しずつ変わってきたことの一つなのかもしれない。


(好きな人と過ごす時間って、会っているときだけじゃないんだね。次に会う日を考えたり、どんな話をしようか思い浮かべたりする時間も、こんなに嬉しいんだ)


 彩花は日記帳を閉じ、引き出しへしまった。机の上には、まだ書きかけの原稿が置かれている。祖母へ手紙を書こうとする少女は、今も最初の一行を決められずにいるが、伝えたいことは少しずつ見えてきていた。


 彩花は原稿の端を揃え、明日また続きを考えようと決めた。物語の少女が言葉を見つけるまでには、まだ時間が必要だろう。それでも、その時間を大切に描いていきたいと思った。


 窓の外では、夜の風が木々を揺らしている。明日の天気がどうなるかは分からないし、川沿いを歩く日もまだ決まっていない。けれど、悠真と同じ景色を見たいという気持ちは、もうはっきりしていた。


 彩花は部屋の灯りを消し、布団へ入った。冷たい夜の空気の向こうに、まだ見ぬ冬の景色が広がっている。その景色をいつか悠真と並んで眺める日を思い浮かべながら、彩花は静かに目を閉じた。

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