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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第102話 風の強い土曜日に、君と選んだ次の楽しみ


 土曜日の朝、彩花が目を覚ましたのは、窓の外から聞こえてきた風の音がきっかけだった。


 昨夜から冷え込みが強くなっていたことは分かっていたが、今朝の風は思っていた以上に勢いがあるらしい。庭の木々が揺れるたびに枝同士の擦れる音が聞こえ、時折、どこかで乾いた落ち葉が地面を滑っていく音も混じっていた。彩花は布団の中でしばらく耳を澄ませてから、枕元の時計を確かめた。


 いつもの登校時間より少し遅い朝だった。今日は文芸部の活動もなく、学校へ行く予定はない。だからこそ、急いで起きる必要はなかったのだが、彩花には確かめたいことがあった。


(昨日、悠真君と天気を見てから相談しようって話したんだよね。今の風だと、川沿いはもっと寒いのかな)


 彩花は起き上がってカーテンを開けた。青空には薄い雲が流れているものの、庭の木々は絶えず揺れており、日差しの明るさと外の寒さが釣り合っていないように見える。窓へ近づくと、ガラス越しにも冷たい空気が伝わってくる気がした。


 机の上には、昨夜読み返した書きかけの原稿が置かれていた。祖母へ手紙を書こうとしている少女の物語は、少しずつ形になってきている。しかし、今朝はその続きを書く前に、悠真との約束について考えたかった。


 彩花はスマートフォンを手に取り、天気予報を確認した。青凪市の今日の予報は晴れ時々曇りで、降水の心配は大きくない。ただし、午前から午後にかけて風が強く、体感温度は実際の気温より低くなりそうだという。


 画面を見つめながら、彩花は以前、悠真と歩いた川沿いの道を思い浮かべた。あの場所は見晴らしがよく、水面を渡ってくる風を遮るものが少ない。季節が進んで木々の葉が落ちた今なら、なおさら冷たい風を感じるかもしれなかった。


 散歩へ行きたい気持ちは確かにある。けれど、せっかく悠真と会えるのなら、寒さを我慢することばかりに気を取られず、景色を見たり、ゆっくり話したりしたかった。


 彩花はスマートフォンを机へ戻し、着替えを済ませてから階下へ向かった。


 台所では、母の紗月が朝食の準備をしていた。窓際に置かれた小さな鉢植えの葉が、暖房の風を受けてかすかに揺れている。父の耕助は新聞を広げ、姉の凛花は湯気の立つ飲み物を両手で包むように持っていた。


「おはよう、彩花。今日はずいぶん風が強いわね」


「おはよう、お母さん。さっき天気を見たら、午後まで強い風が続くみたい」


 彩花が椅子に座ると、紗月は温めたスープを食卓へ運んできた。湯気と一緒に野菜の優しい香りが広がり、外の寒さを忘れさせてくれる。


「川沿いなんかは、もっと風が強そうだな」


 耕助が新聞を畳みながら言った。その何気ない一言に、彩花は少しだけ顔を上げる。


「やっぱり、そう思う?」


「川は周りが開けているからな。日差しがあっても、風が強い日はかなり冷えると思うぞ。今日は無理に長く歩かない方がいいかもしれないな」


 父は彩花が悠真との散歩を考えていることまでは知らない。ただ天気の話をしているだけなのだが、その言葉は彩花が朝から気にしていたことと重なっていた。


 凛花は妹の表情を見て、少しだけ口元を緩めた。


「彩花、今日はどこかへ出かけるつもりだったの?」


「えっと……まだ決めてないんだけど、川沿いを散歩する日を相談してて。今日か、別の週末にするか、天気を見てから決めようって話してたの」


「なるほどね。じゃあ、今日は風が強すぎるかもしれないね」


 凛花はからかうような調子ではなく、窓の外へ目を向けながら答えた。彩花はその落ち着いた反応に少し安心し、スープを一口飲んだ。


「うん。私もそう思ってる。でも、まだ悠真君と相談してないから」


「それなら、ちゃんと話して決めればいいんじゃない? 楽しみにしていることほど、無理に今日やろうとしなくてもいいと思うよ」


 凛花の言葉に、彩花は静かに頷いた。


 予定が延びることは、楽しみがなくなることとは違う。頭では分かっていたはずなのに、誰かに言葉にしてもらうと、少しだけ気持ちが軽くなる。


 朝食を終えた彩花は、自分の食器を片づけてから部屋へ戻った。スマートフォンを手に取ると、ちょうど悠真からメッセージが届いていた。


『彩花さん、おはよう。今朝、天気を確認したよ。雨は降らなさそうだけど、今日は風がかなり強いみたいだね』


 彩花は思わず微笑んだ。


 同じ朝に、同じ天気を確かめていた。その小さな一致が嬉しくて、返事を打つ指先にも自然と力が入る。


『おはよう、悠真君。私もさっき確認したところだよ。家でも、川沿いはもっと風が強そうだねって話してたの』


『俺もそう思ったんだ。前に歩いた道は見晴らしがいい分、風を遮るものが少ないからね。彩花さんはどうしたい?』


 画面に表示された問いかけを見て、彩花はすぐには返事を打たなかった。


 悠真は、自分の考えを先に押しつけず、彩花がどうしたいのかを尋ねてくれている。その気遣いが嬉しい一方で、彼女自身もきちんと気持ちを伝えたいと思った。


(今日は寒そうだからやめよう、って言うだけじゃなくて、どうして別の日がいいと思うのかも伝えたいな)


 彩花は窓の外をもう一度見た。枝の先が大きく揺れ、庭の隅に集まっていた落ち葉が風に巻き上げられている。


『私は、今日は無理しない方がいいかなって思ってるよ。せっかく悠真君と歩くなら、景色を見たり、お話したりする時間をゆっくり楽しみたいから』


 送信したあと、彩花は少しだけ緊張した。


 自分から別の日を提案することは、悠真にとって残念なことかもしれない。それでも、相手を大切に思うからこそ、遠慮して曖昧にするのではなく、きちんと伝えたかった。


 やがて届いた返事は、彩花の心配を穏やかにほどいてくれた。


『俺も同じ気持ちだよ。今日は風が強いから、別の日にしよう。彩花さんと歩く時間を楽しみにしているからこそ、寒さを我慢するような日にしたくないんだ』


 彩花はその文章をゆっくり読み返した。


 残念だと思わないわけではない。今日会えたら嬉しかったし、久しぶりに二人で歩く川沿いを想像していた。けれど、悠真が同じように考えてくれていることが分かると、胸の奥に残っていた小さな寂しさは、別の温かさへ変わっていった。


『ありがとう。じゃあ、来週末の予定をまた相談しようか。文芸部の試し刷りの日程はまだ決まってないから、分かったら伝えるね』


『うん。俺も学校の予定に変更があればすぐに伝えるよ。来週末も天気を見ながら、一緒に考えよう』


 こうして、今日の散歩は見送ることになった。


 来週末に行くことが確定したわけではなく、日時も集合場所も決まっていない。それでも彩花には、約束が以前より少しだけ近づいたように感じられた。


 互いの気持ちを確かめ、無理のない日を選ぶ。


 その過程も、二人で交わしている約束の一部なのだと思えた。


     ◇


 同じ頃、九条家の自室でスマートフォンを置いた悠真は、窓の外を眺めていた。


 庭木は朝から強い風に揺れており、地面に落ちた葉が芝生の上を転がっている。晴れているからといって、散歩に向いているとは限らない。彩花が寒さを気にしながら歩くことにならずに済んだと思うと、今日の判断は間違っていなかったと感じられた。


 けれど、会えないことを残念に思う気持ちも、確かにあった。


(今日は一緒に歩けなかったけど、彩花さんも楽しみにしてくれているんだよな。それが分かっただけでも、嬉しい)


 悠真は机の上に置いた手帳を開いた。土曜日の欄には何も書かれていない。昨夜は散歩の予定が入るかもしれないと思っていたが、今は空白のままにしておくことにした。


 来週末の欄にも、まだ具体的な予定は書き込まない。


 彩花の文芸部では試し刷りの日程を調整している最中であり、学校側の都合によっては活動が入る可能性がある。悠真自身も、生徒会の追加連絡が絶対にないとは言い切れない。


 予定が決まっていないことを、不安に感じる必要はなかった。


 むしろ、互いの都合を確かめながら相談できることが、今の悠真には嬉しかった。


 手帳を閉じようとしたところで、廊下から軽い足音が聞こえた。


「お兄ちゃん、起きてる?」


 扉の向こうから聞こえてきたのは、妹の琴葉の声だった。


「起きてるよ。どうしたの?」


「この前の葉っぱ、そろそろ見てみない? 昨日は時間がなかったし、今日ならゆっくり確認できるかなって思って」


 悠真は少し考えてから、机の引き出しへ目を向けた。


 練習用に集めた葉は、吸水紙に挟んで重しを置いたままになっている。数日前に確認したときには、端がわずかに反っており、乾燥も十分ではなかった。今日はもう少し変化があるかもしれない。


「そうだね。ただ、無理に取り出して傷めないようにしよう。状態を見るだけでもいいと思う」


「うん。私もそのつもり。お兄ちゃんが大事にしてる葉っぱとは別なんだから、まずは練習の方をちゃんと見たいし」


 琴葉の言葉に、悠真は小さく笑った。


 妹は以前から、この葉を誰へ贈ろうとしているのか知っている。けれど、彩花本人にはまだ何も話していないし、琴葉も勝手に伝えようとはしていなかった。


 二人は作業しやすい机へ移動し、練習用の葉を挟んだ紙を慎重に広げた。


 紙の間から現れた葉は、前に見たときよりも少し平らになっていた。全体の色は落ち着いた茶色へ近づき、葉脈の細い線が以前よりはっきり見える部分もある。ただし、端の一部にはまだ反りが残っており、完全に乾いているかどうかは判断できなかった。


「前より平らになった気がするね」


 琴葉が顔を近づけながら言った。


「うん。でも、色も変わってきているね。元の葉も、同じようになるのかな」


「どうだろう。葉っぱによって違うかもしれないし、最初の色も違うもんね」


 悠真は頷いた。


 彩花と拾った橙色の葉は、練習用の葉とは形も厚さも少し違う。練習でうまくいったからといって、同じ方法が必ず合うとは限らなかった。


「もう少し、このまま様子を見ようか。急いで触るより、乾燥が進むのを待った方がよさそうだ」


「そうだね。でも、お兄ちゃん、前よりちゃんと分かってきたんじゃない? 最初は何をしたらいいかも分からなかったんだから」


 琴葉は明るく笑い、紙の端を整えた。


 悠真はその言葉に少し考え込んだ。


 確かに、最初は葉をきれいに残したいという気持ちだけが先にあった。今は、色の変化や乾燥の進み方を観察し、元の葉を傷めないために何を確かめるべきか考えられるようになっている。


 ただし、それがそのまま贈り物の完成へつながるわけではない。


 悠真は練習用の葉を再び紙で挟み、重しを元の位置へ戻した。


「ありがとう、琴葉。今日も一緒に見てくれて助かったよ」


「どういたしまして。私も楽しいし、こういうのって、少しずつ変わっていくのを見るのが面白いよね」


 琴葉はそう言ってから、少しだけ悪戯っぽく笑った。


「それに、お兄ちゃんが誰かのためにこんなに悩んでるの、ちょっと珍しいから」


 悠真は返事に困り、机の上へ視線を落とした。


「……そんなに珍しいかな」


「珍しいよ。だって、いつものお兄ちゃんなら、何かを決めるときにもっと早く答えを出しちゃうもん。でも今回は、すごく慎重だよね」


 琴葉の言葉は、からかい半分ではあったものの、どこか嬉しそうでもあった。


 悠真は否定せず、静かに頷いた。


「大切なものだから、失敗したくないんだと思う。でも、慎重になりすぎて何もできなくなるのも違う気がするから、少しずつ試していきたい」


「うん。それでいいと思う。彩花さん、きっとお兄ちゃんが考えてくれたことを喜んでくれるよ」


 その名前を聞いた瞬間、悠真の表情がわずかに和らいだ。


 琴葉はそれに気づいたが、それ以上は何も言わなかった。代わりに、作業に使った紙を片づけるのを手伝い、二人は机の上を元の状態へ戻した。


 元の橙色の葉は、今日も紙に包まれたまま引き出しの中にある。


 まだ贈り物にはなっていないが、悠真にとっては、その葉をどう扱うか考える時間も少しずつ大切なものになっていた。


     ◇


 午前の家事が一段落した頃、彩花は母の紗月から、本棚の整理を手伝ってほしいと頼まれた。


 居間の隅にある本棚には、家族が読み終えた本や、以前から置いてある雑誌、料理の本などが並んでいる。最近、新しい本が増えてきたため、棚の奥にしまわれているものを確かめ、必要なら並べ替えたいのだという。


「全部出すと大変だから、今日はこの段だけでいいの。彩花の本も少し混ざっていると思うから、一緒に見てもらえると助かるわ」


「うん、分かった。私の本があったら、部屋へ持っていくね」


 彩花は床に柔らかい布を敷き、本棚の一段から本を取り出し始めた。


 棚の奥には、昔読んだ児童書や、家族で出かけた場所の案内本が残っていた。表紙の角が少し擦れているものもあれば、買った当時の栞が挟まれたままのものもある。彩花は一冊ずつ確かめながら、残すものと別の場所へ移すものを分けていった。


 しばらくすると、薄い表紙の写真集が出てきた。


 花や庭を題材にした小さな本で、彩花は以前、母と一緒に眺めたことがあった。ページを開くと、季節ごとに咲く花の写真が並んでおり、その横には短い説明文が添えられている。


「あ、これ……懐かしい」


 彩花が呟くと、紗月が隣から覗き込んだ。


「その本、まだあったのね。彩花が小さい頃、花の名前を覚えたいって言って、一緒に見ていたでしょう」


「そうだったかな。でも、見たことは覚えてるよ。たしか、この花が好きだったんだよね」


 彩花は淡い紫色の花が写ったページを指さした。


 紗月は少し考えてから、懐かしそうに笑った。


「そうそう。道端で似た花を見つけると、何度も名前を聞いてきたのよ。お母さんも全部は覚えられなくて、家に帰ってから一緒に調べたことがあったわね」


 彩花はその話を聞きながら、写真の中の小さな花を見つめた。


 幼い頃の出来事は、すべてを鮮明に覚えているわけではない。けれど、母と並んで本を開き、花の名前を調べた時間があったことは、何となく温かな感覚として残っていた。


「お母さんは、よく覚えてるんだね」


「全部じゃないわよ。でも、彩花が嬉しそうにしていたことは覚えているの。小さい頃のことって、本人より周りの方が覚えている場合もあるでしょう?」


 紗月はそう言って、本棚から取り出した雑誌を重ねた。


 彩花は写真集を閉じかけたが、ふと思い直してもう一度ページを開いた。


 祖母へ手紙を書こうとする少女の物語では、古い写真が重要な役割を持っている。写真は、過去の出来事をそのまま保存しているだけではない。写っている人が覚えていることと、写っていない人が覚えていることが、少しずつ違う場合もある。


(この写真集を見て、お母さんは私が小さかった頃のことを思い出したんだ。私が覚えていないことも、お母さんの中には残っているんだね)


 彩花は写真集を膝の上へ置き、少し考えた。


 物語の少女が持っている古い写真にも、同じことが言えるかもしれない。少女は祖母と一緒に庭にいたことを覚えている。しかし、祖母はそのとき、少女がどんな顔をしていたのか、何を話していたのか、もっと違うことを覚えている可能性がある。


 だからこそ、手紙を書くことは、過去を一方的に思い出すだけではなく、互いの記憶を少しずつ重ねていくことにもつながるのではないだろうか。


 彩花はその考えを忘れないようにしたくなったが、今は母と本棚を整理している途中だった。そこで、写真集の該当するページに細い紙を挟み、あとでノートへ書き留めることにした。


「その本、部屋へ持っていく?」


 紗月に尋ねられ、彩花は頷いた。


「うん。ちょっと見返したいところがあるの。あとで戻すね」


「いいわよ。急いで片づける必要もないし、読みたい本が見つかったなら、それも整理した甲斐があったわね」


 母の言葉に、彩花は笑みを返した。


 二人はそのあとも本棚の整理を続け、読み終えた雑誌をまとめたり、棚の奥に入り込んでいた栞を見つけたりした。途中で凛花が様子を見に来て、昔の旅行案内本を見つけると、家族で出かけた日のことを話し始めた。


 その話は、彩花が覚えているものと少し違っていた。


 彩花は景色の美しさを覚えていたが、凛花は帰り道で買ったお菓子のことをよく覚えていた。紗月は二人が車の中で眠ってしまったことを思い出し、耕助はその日の帰り道が思った以上に混んでいたと笑った。


 同じ一日を過ごしていても、心に残るものは人によって違う。


 彩花は家族の会話を聞きながら、その当たり前のことを新鮮に感じていた。


 誰かと一緒に過ごした時間は、一人だけの記憶ではない。自分が忘れてしまったことを、別の誰かが覚えていることもある。そして、その記憶を言葉にすることで、過去の出来事が新しい形でよみがえることもあるのだ。


     ◇


 昼食後、彩花は写真集と星模様のノートを持って自室へ戻った。


 窓の外では相変わらず風が強く、時折、庭の木々が大きく揺れている。けれど、午前中より日差しが明るくなったため、机の上には柔らかな光が広がっていた。


 彩花は写真集を開き、先ほど挟んだ紙の位置を確かめた。


 淡い紫色の花の写真を眺めながら、母と一緒に花の名前を調べたという話を思い出す。自分では忘れていた出来事が、母の言葉によって少しだけ輪郭を取り戻したような気がした。


 それから、書きかけの原稿を開いた。


 物語の少女は、祖母が遠くへ引っ越したあとの庭を想像している。花が咲いたら写真を送ろうと思っているが、それだけでは伝えられない気持ちがあることにも気づき始めている。


 彩花は、少女が持っている古い写真の場面へ戻った。


 写真には、まだ幼い少女と祖母が庭に並んで立っている姿が写っている。少女はその日のことをすべて覚えているわけではないが、祖母と一緒に花へ水をやったことだけは、はっきり覚えている。


 しかし、写真を見た祖母が何を思うのかは、少女には分からない。


 彩花はその違いを物語の中へ入れたいと思った。


『少女は写真をもう一度見つめた。そこには、今よりずっと幼い自分が、祖母の隣で小さなじょうろを持って立っていた。写真を撮った日のことを思い出そうとしても、空の色や花の名前までははっきりしない。それでも、祖母が自分の手にじょうろを持たせてくれたときの嬉しさだけは、胸の奥に残っていた。』


『祖母は、あの日のことをどのくらい覚えているのだろう。少女が花へ水をやりすぎてしまったことも、祖母が笑いながら手伝ってくれたことも、覚えているかもしれない。もし覚えていなかったとしても、写真を見ながら一緒に話せば、また新しい思い出になるような気がした。』


 彩花は書き終えた文章を読み返した。


 少女が祖母へ手紙を書く理由が、少しずつ変わってきている。最初は、離れてしまう寂しさをどう伝えればいいのか分からず、白い便箋の前で立ち止まっていた。けれど今は、祖母と共有したいことがあるからこそ、手紙を書きたいと思い始めている。


 その変化を、急がず描きたかった。


(この子は、まだ寂しいままでいいんだよね。寂しくなくなったから手紙を書くんじゃなくて、寂しい気持ちがあっても、伝えたいことを見つけていくんだと思う)


 彩花はペンを置き、しばらく窓の外を眺めた。


 風が吹くたびに枝が揺れ、庭の端に残っていた葉が一枚、地面へ落ちていく。葉が落ちたあとには、枝の向こう側にある空が少しだけ広く見えた。


 昨日、文芸部の表紙担当の部員が話してくれた言葉が、再び心に浮かぶ。


 何かがなくなることで、別のものが見えるようになる。


 祖母が遠くへ引っ越すことも、少女にとっては大きな変化だ。今までと同じ時間を過ごすことはできなくなるが、離れているからこそ、言葉にして伝えたいことが生まれるかもしれない。


 彩花はその考えを星模様のノートへ書き留めた。


 そして、原稿の続きを少しだけ進めた。


『少女は白い便箋を机の上へ広げた。祖母へ伝えたいことは、昨日よりも増えている。庭の花が咲いたら写真を送ること、学校であった出来事を話すこと、祖母が引っ越した先でどんな景色を見つけたのか聞いてみたいこと。けれど、最初の一行を前にすると、やはり手が止まってしまった。』


『大切なことを書こうとするほど、どの言葉も少し違うように感じられる。少女はペンを置き、写真の中の祖母へ目を向けた。祖母はいつものように笑っていて、何かを急がせるような表情ではなかった。』


 彩花はそこで筆を止めた。


 まだ手紙の最初の一行は書かれていない。


 けれど、少女がその一行へ近づいていることは、確かに感じられた。


 彩花は原稿を読み返しながら、これから先の展開を考えた。少女が最初に書く言葉は、立派な挨拶でも、特別な表現でもなくていいのかもしれない。祖母が普段の会話で使っていたような、何気ない言葉でも十分なのではないだろうか。


 ただ、その答えを今すぐ決めることはしなかった。


 少女自身が、祖母へ何を伝えたいのかを見つけるまで、もう少し一緒に考えてみたかった。


     ◇


 午後の九条家では、悠真が自室で読みかけの本を開いていた。


 少し前から読み進めているその本は、日常の中で起こる小さな出来事を丁寧に描いた作品だった。登場人物たちは大きな事件に巻き込まれるわけではないが、何気ない会話や行動の積み重ねによって、互いの関係が少しずつ変わっていく。


 悠真はページをめくりながら、以前なら見過ごしていたかもしれない描写に目を留めた。


 登場人物の一人が、相手のために予定を変更する場面だった。


 それは大げさな犠牲ではなく、相手が無理をしないように、自分の都合も含めて相談し直すという、ごく小さな出来事として描かれている。けれど、そのやり取りの中には、互いを尊重する気持ちが自然に表れていた。


 悠真は本を閉じずに、少しだけ考えた。


 今朝、彩花と散歩を見送ることにしたときも、似たような気持ちがあった。


 会いたいからこそ、今日にこだわりすぎない。


 相手のことを大切に思うからこそ、自分の希望だけで決めない。


 その判断が正しかったかどうかを、誰かに証明してもらう必要はなかった。ただ、彩花が安心して返事をしてくれたことが嬉しかった。


(彩花さんは、自分の気持ちをちゃんと伝えてくれた。俺も、同じように伝えられてよかった)


 悠真は再び本へ目を落とした。


 物語の登場人物たちは、まだ互いの気持ちをすべて理解しているわけではない。それでも、言葉を交わすことで少しずつ相手を知っていく。その様子を読みながら、悠真は自分と彩花の関係についても、焦らず大切にしていきたいと思った。


 しばらくして、扉が軽く叩かれた。


「悠真、少しいいかしら」


 母の麗華の声だった。


「はい。どうぞ」


 扉が開くと、麗華が穏やかな表情で顔を覗かせた。


「お茶を淹れたのだけれど、休憩しない? 琴葉も居間にいるわ」


「ありがとうございます。ちょうど一区切りついたところなので、行きます」


 悠真は本に栞を挟み、机へ置いた。


 居間へ向かうと、琴葉がソファに座り、膝の上に小さなノートを広げていた。どうやら学校で使う予定のものらしく、色鉛筆で何かを書き込んでいる。麗華は温かいお茶を用意し、悠真にも席を勧めた。


「今日は外へ出ないの?」


 麗華が尋ねると、悠真は頷いた。


「はい。今日は風が強いので、家で過ごそうと思っています」


「そうね。庭を見ても、かなり冷えそうだもの。無理に出かけるより、家でゆっくりするのもいいわね」


 麗華はそう言って微笑んだ。


 琴葉はノートから顔を上げ、少しだけ首を傾げた。


「お兄ちゃん、今日は本を読んでたの?」


「うん。少し前から読んでいる本の続きをね」


「面白い?」


「面白いよ。大きな出来事が起きるわけじゃないけど、登場人物たちの気持ちが少しずつ変わっていくところが丁寧に書かれているんだ」


 琴葉は興味深そうに頷いた。


「そういうお話って、読んでると自分のことを考えたりするよね。私も、友達が出てくるお話を読むと、学校のことを思い出すことがあるよ」


「そうだね。自分と同じ経験じゃなくても、似た気持ちを見つけることはあると思う」


 悠真が答えると、麗華は二人の会話を聞きながら、静かにお茶を口にした。


 しばらくして、琴葉がノートを閉じた。


「お兄ちゃん、そういえば、今日は散歩に行かなかったんだね」


 悠真は少し驚いて妹を見た。


「どうして分かったの?」


「この前、週末に出かけるかもしれないって言ってたから。今日はずっと家にいるし、風も強いから、予定を変えたのかなって思っただけ」


 琴葉は何でもないことのように答えた。


 麗華も悠真へ目を向けたが、詳しく尋ねる様子はなかった。


「うん。今日は風が強いから、別の日にしようって相談したんだ」


「そっか。じゃあ、また楽しみが残ったんだね」


 琴葉の言葉に、悠真は思わず笑った。


 予定がなくなったのではなく、楽しみが残った。


 その捉え方は、今朝から自分が感じていたこととよく似ていた。


「そうだね。まだ日程は決まっていないけど、楽しみにしているよ」


 麗華は息子の表情を見て、柔らかく微笑んだ。


「楽しみな予定があるのはいいことね。でも、相手の都合もあるでしょうから、焦らず相談して決めなさい」


「はい。そうするつもりです」


 悠真は素直に頷いた。


 家族と過ごす穏やかな午後の中で、彩花との約束は、急いで実現させなければならないものではなくなっていた。大切だからこそ、無理のない形で叶えたい。


 その気持ちが、少しずつ自分の中で確かなものになっていくのを感じていた。


     ◇


 夕方、彩花は書きかけの原稿を机へ置いたまま、居間へ降りてきた。


 窓の外では、午前中ほどではないものの、まだ風が吹いている。凛花はソファで雑誌を読んでおり、紗月は夕食の下ごしらえを進めていた。


「彩花、今日はずっとお話を書いてたの?」


 凛花が顔を上げて尋ねた。


「ううん。午前中はお母さんと本棚を整理してたし、午後に少し書いてたくらいだよ」


「そっか。何か進んだ?」


「うん。まだ完成には遠いけど、登場人物がどうして手紙を書きたいのか、前より分かってきた気がする」


 彩花はそう答えてから、少しだけ照れくさくなった。


 新しい物語の詳しい内容を家族へ話したわけではないが、書いている途中の気持ちを言葉にすることには、以前より抵抗がなくなっていた。


 凛花は雑誌を閉じ、妹へ向き直った。


「それならよかったじゃん。彩花って、書いてるときはすごく考え込むけど、少し進んだときは分かりやすく嬉しそうな顔をするよね」


「えっ、そうかな?」


「するよ。今もそうだし」


 彩花は頬が熱くなるのを感じた。


 自分では意識していなかったが、好きなことについて話すときには、表情に出てしまうのかもしれない。


「でも、まだ悩んでるところもあるんだよ。最初の一行をどう書くかとか、登場人物がどんな気持ちで言葉を選ぶのかとか」


「それって、書く人が決めることなんじゃないの?」


「そうなんだけど……私が先に答えを決めちゃうと、その子が本当にそう思ったのか分からなくなる気がして」


 凛花は少し考えたあと、納得したように頷いた。


「なるほどね。彩花は、その子がちゃんと自分で決めたように書きたいんだ」


「うん。そうなのかもしれない」


 彩花は姉の言葉を聞き、胸の奥にあった曖昧な考えが少し整理された気がした。


 物語の登場人物は、作者が作った存在だ。それでも、書いているうちに、その人物ならどう考えるだろうと悩むことがある。彩花は、その時間を大切にしたかった。


 凛花は妹の表情を見て、少しだけ笑った。


「じゃあ、焦らなくていいんじゃない? その子が言葉を見つけるまで、彩花も一緒に考えてあげればいいと思うよ」


「……うん。ありがとう、お姉ちゃん」


 彩花は静かに頷いた。


 凛花は再び雑誌を開いたが、彩花はしばらくその場に立っていた。


 自分が書いている物語について、誰かと話すことで見えてくるものがある。けれど、すべてを説明しなくても、相手が自分の悩みを受け止めてくれることもある。


 そのことが、嬉しかった。


     ◇


 夕食後、彩花は部屋へ戻り、スマートフォンを手に取った。


 今日は悠真と朝にメッセージを交わしたきりだった。散歩を見送ることは決まっているし、急いで伝えなければならないことがあるわけでもない。それでも、今日一日をどう過ごしたのか、少し話したいと思った。


 彩花は机の上に置いた写真集へ目を向けた。


 母と本棚を整理していたときに見つけた、昔の花の本。


 そこから思い出したことや、書きかけの物語について考えたことを、悠真へ伝えたくなった。


 ただし、新しい物語の詳しい内容は、完成してから最初に読んでもらう約束をしている。だから、今は自分が何を考えたのか、その一部だけを話そうと思った。


『悠真君、こんばんは。今日は家で本棚の整理をしてたんだけど、昔読んだ花の写真集が出てきたんだ』


 送信すると、少しして返事が届いた。


『こんばんは、彩花さん。花の写真集? どんな本だったの?』


『季節ごとに咲く花の写真が載ってる小さな本だよ。小さい頃、お母さんと一緒に見てたみたいなんだけど、私はあまり覚えてなくて。でも、お母さんがその頃の話をしてくれたの』


 彩花は、母が覚えていた幼い頃の自分の話を思い出しながら、続きを打った。


『同じ出来事でも、覚えてることって人によって違うんだなって思ったよ。私は花の写真を見たことは覚えてたけど、お母さんは私がどんなことを話してたかまで覚えてたんだ』


 悠真からの返事は、少し時間を置いて届いた。


『素敵な話だね。自分では忘れていたことを、家族が覚えていてくれるのは嬉しいだろうな。俺も、琴葉が小さい頃のことを話すと、本人が驚くことがあるよ』


 彩花は思わず微笑んだ。


 琴葉のことを話す悠真の言葉には、いつも優しさがある。妹を大切に思っていることが、短い文章からも伝わってくる。


『そうなんだね。琴葉ちゃんも、自分では覚えてないことがあるんだね』


『うん。本人は忘れているけど、家族にとっては大切な思い出になっていることもあるからね。今日も一緒に少し作業をしていたんだけど、そういう時間も、あとから思い出すのかもしれないと思ったよ』


 彩花はその文章を読み、少しだけ首を傾げた。


 悠真が琴葉と何をしていたのかは分からない。けれど、兄妹で一緒に過ごす時間を大切にしていることが伝わってきて、温かな気持ちになった。


『一緒に何かをする時間って、あとから思い出すと嬉しくなることがあるよね。私も今日、お姉ちゃんと話しててそう思ったよ』


 送信したあと、彩花は少し考えた。


 今日の出来事は、どれも大きな事件ではない。本棚を整理したこと、昔の写真集を見つけたこと、姉と物語について話したこと。けれど、そうした小さな出来事を悠真へ伝えたいと思えることが、彩花には不思議なくらい嬉しかった。


 悠真から次のメッセージが届いた。


『彩花さんとこうして今日のことを話せるのも、俺にとっては大切な時間だよ。今日は会えなかったけど、彩花さんがどんな一日を過ごしたのか聞けて嬉しい』


 彩花はその文章を読んだまま、しばらく動けなかった。


 悠真はいつも、何気ないことを大切にしてくれる。


 自分が見つけた本のことも、家族と話したことも、書きかけの物語について考えていることも、決して小さなものとして扱わない。


(悠真君は、私が話したいと思ったことを、ちゃんと聞いてくれるんだよね。だから、もっといろんなことを話したくなるのかな)


 彩花は胸の奥に広がる温かさを感じながら、ゆっくり返事を打った。


『私も嬉しいよ。今日みたいに会えない日でも、悠真君と話せると、一日の終わりが少し特別になる気がする』


 送信したあと、彩花は思わずスマートフォンを伏せた。


 自分で書いた言葉なのに、読み返すと少し恥ずかしい。


 けれど、嘘ではなかった。


 悠真と話せる時間は、彩花にとって確かに特別だった。


     ◇


 九条家の自室で、悠真は彩花から届いたメッセージを読み、静かに息をついた。


『一日の終わりが少し特別になる気がする』


 その言葉は、悠真が感じていたこととよく似ていた。


 彩花と会えない日でも、彼女が何を見て、何を考えたのかを聞くと、同じ時間を少しだけ共有できたような気持ちになる。


 今日は散歩へ行かなかった。


 けれど、何も残らなかった一日ではない。


 彩花は昔の写真集を見つけ、家族との思い出を聞いた。悠真は琴葉と練習用の葉を確かめ、家族と穏やかな午後を過ごした。それぞれ別の場所で過ごしていた時間が、夜のメッセージによって少しずつつながっていく。


 悠真はそのことを、嬉しく感じていた。


(彩花さんと話していると、今日あったことをもう一度大切に思える。何でもない出来事でも、伝えたい相手がいるだけで、少し違って見えるんだな)


 悠真はスマートフォンを持ち直し、返事を打った。


『俺も同じだよ。今日のことを彩花さんに話せてよかった。来週末の予定はまだ決まっていないけど、また一緒に相談していこうね』


 送信すると、彩花からすぐに返事が届いた。


『うん。楽しみにしてるね。明日は少し風が弱くなるみたいだけど、悠真君も暖かくして過ごしてね』


『ありがとう。彩花さんも、体を冷やさないようにね。おやすみなさい』


『おやすみなさい、悠真君』


 やり取りを終えたあと、悠真はスマートフォンを机へ置いた。


 窓の外では、まだ風が吹いている。


 けれど、その音を聞きながらも、今朝のように残念な気持ちになることはなかった。


 彩花と相談して、今日は散歩を見送った。


 それは二人が互いのことを考えて選んだ結果であり、約束を大切にしているからこその判断だった。


 悠真は机の引き出しへ目を向けた。


 そこには、彩花からもらった淡い青色の花柄のカードと、まだ加工していない橙色の葉がしまわれている。


 どちらも、彩花との時間を思い出させてくれる大切なものだった。


 カードには、彩花が自分の言葉で伝えてくれた気持ちが残っている。


 葉には、二人で歩いた川沿いの景色が重なっている。


 そして今日、新しく残ったのは、互いの都合を考えながら次の楽しみを選んだという、小さな約束だった。


 悠真は引き出しを開けることなく、静かに椅子から立ち上がった。


 今夜はもう、何かを確かめる必要はない。


 彩花と交わした言葉を思い返しながら、穏やかな気持ちで一日を終えられそうだった。


     ◇


 彩花は寝る前に、淡い緑色の葉模様の日記帳を開いた。


 今日は学校へ行かなかったため、いつもより静かな一日だった。けれど、書き残したいことは思っていた以上に多かった。


 まず、朝の風のことを書いた。


 川沿いの散歩を見送ることになったが、悠真と相談して決められたことが嬉しかった。予定が決まらなかったことより、互いに無理をしないように考えられたことの方が、今は心に残っている。


 次に、母と整理した本棚のことを書いた。


 昔の花の写真集を見つけたこと。自分では覚えていなかった幼い頃の話を、母が覚えていてくれたこと。同じ出来事でも、人によって心に残るものが違うと気づいたこと。


 そして、新しい物語について考えたことも、短く書き留めた。


『祖母へ手紙を書こうとする少女は、まだ最初の一行を書けていない。でも、伝えたいことは少しずつ増えている。寂しい気持ちを消さなくても、誰かとつながりたいと思うことはできるのかもしれない。』


 彩花はそこまで書いてから、ペンを止めた。


 自分が書いている物語と、今日の出来事が少しだけ重なっている気がした。


 祖母へ手紙を書こうとする少女は、離れていても相手と日常を分け合いたいと思っている。


 彩花もまた、今日は悠真と会えなかったけれど、家で見つけた本のことや家族と話したことを伝えたくなった。


 それは、同じ気持ちなのだろうか。


 もちろん、物語の少女が抱えている寂しさと、彩花が今日感じた気持ちは同じではない。祖母との別れを前にしている少女には、もっと複雑な感情があるはずだった。


 それでも、誰かへ言葉を届けたいと思う気持ちには、共通するものがあるのかもしれない。


 彩花は日記帳の最後に、悠真とのやり取りについて書いた。


『悠真君は、今日のことを話せて嬉しいって言ってくれた。私も同じ気持ちだった。会えない日でも、悠真君と話すと、その日にあった小さな出来事が大切なものに思える。』


 書き終えたあと、彩花は少しだけ頬を緩めた。


 日記帳には、誰にも見せていない気持ちが残っている。


 悠真のことが好きだと、自分で認めたあの日から、その気持ちは少しずつ形を変えながら続いていた。


 会えたら嬉しい。


 話せたら楽しい。


 相手が自分のことを考えてくれていると分かると、胸が温かくなる。


 そして、会えない日にも、伝えたいことが生まれる。


 彩花はその一つ一つを、今は無理にまとめようとは思わなかった。


 日記帳を閉じ、机の引き出しへしまう。


 星模様のノートは、明日も続きを書けるように机の上へ置いたままにした。


 祖母へ手紙を書こうとする少女は、まだ最初の一行を見つけていない。


 けれど、彩花自身は今日、悠真へいくつもの言葉を届けることができた。


 そのことを思うと、少女がいつか自分の言葉を見つける日も、きっと自然に訪れるような気がした。


 窓の外では、風の音が少しだけ弱まっていた。


 彩花はカーテンを閉め、部屋の灯りを消した。


 今日、川沿いを歩くことはできなかった。


 それでも、悠真と一緒に見たい景色は、なくなったわけではない。


 むしろ、次に会う日を楽しみに思う気持ちは、昨日よりも少しだけ大きくなっていた。


 彩花は布団へ入り、目を閉じた。


 冬へ向かう青凪市の夜は静かに更けていく。


 まだ決まらない次の約束を胸に抱きながら、彩花は穏やかな眠りへと落ちていった。

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