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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第103話 まだ書けない一行と、日曜日の図書館



 日曜日の朝、彩花がカーテンを開けると、昨日とは違う穏やかな空が広がっていた。


 庭の木々はほとんど揺れておらず、枝の間から差し込む朝日が、地面に細長い影を落としている。昨日は強い風に巻き上げられていた落ち葉も、今朝は庭の隅に静かに集まっていた。彩花は窓へ近づき、ガラス越しに外の様子を確かめながら、小さく息をついた。


(今日は、昨日よりずっと歩きやすそう。川沿いも、きっと昨日ほど寒くないんだろうな)


 そう思ったあとで、彩花は少しだけ笑った。


 昨日、悠真と相談して散歩を見送ったことに後悔はない。朝から風が強く、川沿いをゆっくり歩くには向いていない一日だったし、二人とも無理をしてまで出かけたいとは思っていなかった。


 それでも、今日のように穏やかな空を見ると、悠真と一緒に歩く景色を想像してしまう。


 以前、二人で歩いた川沿いの道。修理されたベンチのある場所。水面に映る空や、季節が進むにつれて色を変えていく木々。


 次に訪れるときには、きっと前とは違う景色になっているだろう。


 彩花はそのことを楽しみに思いながら、机の上に置いた星模様のノートへ目を向けた。


 昨日は、祖母へ手紙を書こうとする少女の気持ちを少しだけ深く考えることができた。古い写真を見ながら、祖母が覚えているかもしれない出来事を想像する場面も書き足したが、少女はまだ便箋の最初の一行を書けずにいる。


 彩花自身も、その一行をどうするか決めていなかった。


 ただ、以前のように、書けないことそのものへ焦りを感じる時間は減っていた。


(この子が何を伝えたいのか、もう少し分かってからでもいいよね。急いで書かせたら、きっと大切なところを見落としちゃう)


 彩花はノートを開き、昨日書いた部分を読み返した。


 少女が写真の中の祖母を見つめ、何を覚えているのだろうと考える場面で、文章は一度区切られている。そこから先へ進めることもできそうだったが、今朝は無理に続きを書くより、少し違うものを読んでみたい気持ちがあった。


 ふと、青凪市立中央図書館のことが頭に浮かんだ。


 最近は学校の図書室や文芸部で本に触れる機会が多く、中央図書館へはしばらく足を運んでいない。学校の図書室で借りている短編集も、次の登校日に返すつもりで鞄に入れてある。


 中央図書館には、学校とはまた違う種類の本が並んでいる。


 昔読んだ児童文学や、手紙を題材にした物語、季節の写真集。何か特定の本を探すというより、棚をゆっくり眺めながら、今の自分が読みたいものを見つけてみたかった。


 彩花はノートを閉じ、階下へ向かった。


     ◇


 台所では、母の紗月が朝食の準備をしていた。


 父の耕助は食卓で新聞を読み、姉の凛花はまだ眠そうな顔で温かい飲み物を飲んでいる。休日らしいゆっくりとした空気が流れる中、彩花が挨拶すると、紗月は笑顔で振り返った。


「おはよう、彩花。今日は昨日より風が弱くなったみたいね」


「おはよう。うん、窓から見たら、木もほとんど揺れてなかったよ」


「それなら、洗濯物も外に干せそうね。昨日は風が強すぎて、飛ばされないか心配だったもの」


 紗月はそう言いながら、焼き上がったパンを皿へ移した。彩花は食卓につき、温かいスープを受け取る。


 しばらく家族で朝食を食べていると、凛花が思い出したように顔を上げた。


「彩花、今日は何か予定あるの? 昨日はずっと家にいたし、今日は少し出かけるのかなって思ったんだけど」


「まだ決めてないけど、中央図書館へ行こうかなって考えてるの。久しぶりに、ゆっくり本を見たいなって」


 その言葉に、凛花は少し意外そうな顔をした。


「へえ。最近は学校の図書室で本を借りてたんじゃなかった?」


「うん。でも、中央図書館には学校にない本もあるし、何か読みたいものが見つかるかもしれないから」


 彩花はパンを小さくちぎりながら答えた。


 中央図書館へ行きたい理由は、それだけではなかった。


 あの場所は、彩花にとって特別な場所だ。


 初めて悠真と出会い、本について言葉を交わした場所。何度も顔を合わせるうちに、少しずつ互いのことを知っていった場所。


 けれど、今日は悠真と会う約束をしているわけではない。


 ただ一人で本を探し、静かな時間を過ごしたいと思った。


 凛花は妹の表情を見て、何かを察したように微笑んだが、からかうことはしなかった。


「いいんじゃない? 今日は天気もよさそうだし、帰りが遅くならないなら、気分転換にもなると思うよ」


「うん。お昼を食べてから行こうかな」


 彩花が答えると、耕助が新聞から顔を上げた。


「帰りは暗くなる前にした方がいいな。冬に近づいて、日が落ちるのも早くなってきたから」


「分かってるよ。夕方になる前には帰ってくるつもり」


 父の言葉に頷きながら、彩花は今日の予定を少しずつ考え始めた。


 午前中は家で過ごし、昼食後に中央図書館へ行く。


 借りたい本が見つかれば借りてもいいし、見つからなければ館内で少し読んで帰ってもいい。


 特別な目的を決めずに図書館へ行くのは、久しぶりだった。


     ◇


 朝食を終えたあと、彩花は部屋へ戻り、外出の準備をする前に文芸部の連絡を確認した。


 部員同士の連絡には、昨日の夕方、佐々木先輩から短い報告が届いていた。


 冬の部誌について、表紙の印刷条件を先生が確認していること。試し刷りの日程はまだ正式に決まっていないこと。追加の連絡が入るまでは、各自で原稿や確認済みの箇所を勝手に変更しないこと。


 彩花はその内容をもう一度読み返した。


 冬の部誌は、完成へ向かって少しずつ進んでいる。


 目次と本文のページ表示にずれがあった箇所は修正され、名前の表記についても、本人が意図して選んだものであることが確認できた。けれど、表紙の印刷条件や試し刷りの予定など、まだ決まっていないことも残っている。


 彩花は、自分が担当して確認した箇所を思い浮かべた。


 最初は、間違いを見つけることばかりに意識が向いていた。けれど、最近は、違って見えるものが必ずしも間違いとは限らないことも学んでいる。


 書き手が選んだ表現には、その人なりの理由がある。


 確認する側ができるのは、気になる点を丁寧に確かめ、必要な場合に相談することだ。


(部誌も、いろんな人が大切にしているものを集めて作ってるんだよね。だから、急いで完成させるより、一つずつ確認することが大事なんだと思う)


 彩花は連絡画面を閉じ、机の上に置いていた原稿へ目を向けた。


 冬の部誌に掲載される『いつか、ここに』は、すでに完成している作品だ。


 今書いている少女の物語とは違い、何度も読み返し、悩みながらも最後まで書き終えたものだった。


 完成した作品と、まだ途中の作品。


 どちらも自分が書いたものなのに、向き合うときの気持ちは少し違う。


 完成した作品には、もう変えずに大切にしたい部分がある。


 一方、書きかけの作品には、これから見つけていく言葉が残っている。


 彩花はその違いを考えながら、星模様のノートを閉じた。


 今日は、新しい言葉を探しに行こう。


 そう思うと、中央図書館へ行くのが少し楽しみになった。


     ◇


 一方、九条家では、悠真が祖父の俊治と話をしていた。


 日曜日の午前、俊治は居間の窓際にある椅子へ腰を下ろし、庭を眺めながらお茶を飲んでいた。悠真が挨拶をすると、祖父は穏やかな笑みを浮かべて隣の席を勧めた。


「昨日は風が強かったが、今日はずいぶん静かになったな」


「そうですね。朝から庭の木もあまり揺れていません」


「こういう日は、外へ出るにも気持ちがいいだろう。もっとも、日差しがあっても油断すると冷える季節だがな」


 俊治はそう言って、湯呑みを置いた。


 悠真は祖父の向かいへ座り、庭の様子を眺めた。


 芝生の上には、昨日の風で落ちた葉がいくつか残っている。庭師が手入れをしているため、普段はきれいに整えられているが、季節の変わり目にはどうしても葉が落ちる。


 悠真はその光景を見ながら、机の引き出しにしまってある橙色の葉を思い出した。


 彩花と川沿いを歩いた日に拾った、大切な一枚。


 まだ加工しておらず、紙に包んだまま保管している。


 練習用の葉は少しずつ乾燥が進んでいるものの、色の変化や反りがあり、思っていたほど簡単にはいかない。


「悠真、何か考え事か?」


 俊治に尋ねられ、悠真は少しだけ姿勢を正した。


「以前、お話しした葉のことです。練習用に集めた葉を乾燥させているのですが、なかなか思ったようにはいかなくて」


 俊治はすぐに思い当たったようだった。


「ああ、あの葉か。まだ大切にしまってあるのだな」


「はい。元の葉はそのままにして、別の葉で試しています。少し平らにはなってきましたが、色が変わったり、端が反ったりしていて」


 悠真が説明すると、俊治は急いで答えを出そうとはせず、しばらく考えた。


「自然のものを残そうとするのは、なかなか難しいものだ。形も色も、時間とともに変わっていくからな」


「そうですね。最初は、きれいな状態をそのまま残せると思っていたのですが、実際に試してみると、そう簡単ではありませんでした」


 悠真は正直に答えた。


 俊治はその言葉を聞き、静かに頷いた。


「だが、変わってしまうから価値がなくなるというものでもないだろう。もちろん、贈り物にするなら、できるだけよい状態にしたい気持ちは分かる。しかし、何を大切にしたいのかを忘れなければ、方法は一つではないはずだ」


 悠真は祖父の言葉をゆっくり受け止めた。


 自分が残したいのは、葉の色や形だけではない。


 彩花と一緒に歩いた時間。


 あの日、川沿いで見た景色。


 そして、彼女へ何かを贈りたいと思った気持ち。


 そのすべてを、葉一枚へ閉じ込められるわけではない。


(俺は、あの葉をきれいに残したいと思っている。でも、それだけが目的じゃないんだよな)


 悠真は少しだけ視線を落とした。


 透明な窓のある栞を見つけたとき、葉を入れられたらいいと思った。けれど、その栞はまだ買っていないし、元の葉をどう加工するかも決めていない。


 今は、完成した形を急いで想像するより、練習で分かったことを一つずつ確かめていく方がよさそうだった。


「ありがとうございます、お祖父様。もう少し練習してみます。元の葉は、納得できる方法が見つかるまで、そのままにしておこうと思います」


「うむ。それでいいだろう。大切なものほど、急がず向き合う時間も必要だからな」


 俊治は穏やかに微笑んだ。


 悠真はその表情を見ながら、祖父が自分の考えを否定せず、見守ってくれていることをありがたく感じた。


 何かを贈るという行為は、品物を用意することだけではない。


 相手が受け取ったときにどう感じるだろうかと考え、そのために自分が何をできるか探していく時間も含まれているのかもしれない。


 悠真はそんなことを考えながら、祖父との会話を続けた。


     ◇


 昼食を終えた彩花は、少し厚手の上着を羽織り、中央図書館へ向かう準備をした。


 鞄には財布とスマートフォン、ハンカチ、それから小さなメモ帳を入れた。何か気になる本や言葉を見つけたときに、あとで思い出せるようにするためだった。


 玄関で靴を履いていると、紗月が声をかけた。


「彩花、今日は何か借りてくる予定なの?」


「まだ決めてないよ。読みたい本が見つかったら借りようかなって思ってるけど、今日は棚を見て回るだけでもいいかな」


「そう。じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい。帰りが遅くなりそうなら連絡してね」


「うん。行ってきます」


 彩花は家を出て、駅の方へ向かう道を歩き始めた。


 昨日の強い風が嘘のように、今日は空気が穏やかだった。日差しは明るいものの、頬に触れる空気には冬の気配が混じっている。道沿いの木々は葉を落とし始めており、足元には茶色や黄色の葉が重なっていた。


 彩花は歩きながら、以前、悠真と交わした会話を思い出した。


 図書館で出会った頃は、彼とこんなふうに日常の出来事を話すようになるとは思っていなかった。


 本の話をするだけでも緊張していた時期がある。


 何を話せばいいのか分からず、相手の言葉を待ってしまうことも多かった。


 けれど今は、何かを見つけたときに悠真へ伝えたいと思う。


 昨日、母と見つけた花の写真集のことも、そうだった。


 自分の中で大切だと感じた出来事を、悠真にも知ってほしかった。


(今日も、何か面白い本が見つかったら話したいな。でも、まずは自分でゆっくり読んでみよう)


 彩花はそう考え、歩く速度を少しだけ緩めた。


 休日の青凪市は、平日とは違う賑わいがある。


 駅へ向かう人、買い物袋を持って歩く人、家族連れで店へ入っていく人。道の向こうからは、小さな子どもの笑い声が聞こえてきた。


 彩花は人の流れを避けながら歩き、やがて中央図書館へ到着した。


 建物の前に立つと、胸の奥に懐かしいような温かさが広がった。


 ここで悠真と出会った。


 最初は、同じ本を手に取ろうとしたことがきっかけだった。


 あのときは、相手が九条家の御曹司だということも、これから何度も言葉を交わすことになるということも、何も知らなかった。


 ただ、本が好きな同年代の男の子と出会った。


 それだけだったはずなのに、今ではその出会いが、自分にとって大切なものになっている。


 彩花は小さく息を整え、図書館の中へ入った。


     ◇


 館内には、いつもの静かな空気が流れていた。


 入口近くでは、返却された本を整理する職員が作業をしている。新聞を読む人や、調べ物をする学生の姿もあり、休日らしく利用者はそれなりに多かった。


 彩花は入口で館内の案内を確認してから、一般書の棚へ向かった。


 目的の本を決めていないため、まずは小説の並ぶ一角をゆっくり歩いてみる。


 棚には、最近出版された作品から、長く読み継がれている物語まで、さまざまな本が並んでいた。背表紙の色や題名を眺めているだけでも、まだ知らない物語がたくさんあることを感じられる。


 彩花は気になった本を一冊取り出し、裏表紙の紹介文を読んだ。


 それは、遠く離れて暮らす家族が、季節ごとに手紙を交わす物語だった。


 今書いている作品と少し似た題材だったため、彩花は思わず手を止めた。


(手紙のお話……。でも、私が書いているものとは、きっと違うんだろうな)


 彩花は本を開き、冒頭の数ページを読んでみた。


 登場人物たちは、離れて暮らすことになってから、以前より頻繁に手紙を書くようになっている。けれど、その内容は特別な出来事ばかりではない。


 庭に咲いた花のこと。


 近所で見かけた猫のこと。


 雨が続いて洗濯物が乾かないこと。


 そうした何気ない出来事が、手紙の中に丁寧に綴られていた。


 彩花は読み進めながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。


 手紙を書く理由は、必ずしも大切な出来事を伝えるためだけではない。


 離れている相手へ、自分が今日もここで暮らしていることを知らせる。


 相手の日常を知り、自分の日常を届ける。


 その積み重ねが、離れている時間を少しだけ近く感じさせてくれるのかもしれない。


 彩花は本を閉じ、しばらく表紙を見つめた。


 今書いている少女の物語にも、似た気持ちがある。


 祖母へ伝えたいことが多すぎて、最初の一行を選べない少女。


 けれど、少女が本当に望んでいるのは、立派な手紙を書くことではなく、祖母とこれからもつながっていたいということなのではないだろうか。


 彩花はその考えをメモ帳へ書き留めた。


『手紙は、特別なことだけを書くものではない。今日の出来事を伝えることも、相手と時間を分け合う方法になる。』


 書き終えたあと、彩花はもう一度本を開いた。


 今の自分にとって、考えるきっかけになりそうな作品だった。


 ただ、内容をそのまま自分の物語へ取り入れるつもりはない。


 同じ題材でも、登場人物が違えば、言葉の選び方も、伝えたい気持ちも変わる。


 彩花はその違いを大切にしたかった。


     ◇


 しばらく本を読んだあと、彩花は閲覧席へ移動した。


 窓際の席にはすでに利用者がいたため、少し離れた場所にある空いた席へ座る。周囲では静かにページをめくる音が聞こえ、遠くの方からは職員が本を運ぶ台車の小さな音が届いていた。


 彩花は借りるかどうか迷っている本を机へ置き、メモ帳を開いた。


 そこには、先ほど書いた一文が残っている。


 手紙は、特別なことだけを書くものではない。


 その言葉を見つめているうちに、昨日の悠真とのやり取りが思い出された。


 彩花は、昔の花の写真集を見つけたことを悠真へ伝えた。


 悠真は、妹の琴葉と一緒に作業をしたことを話してくれた。


 どちらも大きな出来事ではない。


 それでも、互いの一日を知ることで、会えなかった時間が少しだけ近づいたように感じられた。


(私たちはメッセージで話してるけど、物語の少女は手紙を書こうとしてるんだよね。形は違っても、伝えたい気持ちは似ているのかもしれない)


 彩花はペンを持ち、メモ帳の余白へ言葉を書き足した。


『少女が最初に伝えたいのは、祖母がいなくなって寂しいという気持ちだけではない。これからも、今までのように自分の話を聞いてほしいという願い。』


 書き終えたあと、彩花はしばらくその文章を見つめた。


 少女は、祖母が引っ越した先でも元気でいてほしいと思っている。


 新しい場所でどんな景色を見るのか、どんな花が咲いているのか、知りたいと思っている。


 そして、自分の方でも、庭の花が咲いたら写真を送りたい。


 それは、別れをなかったことにするためではない。


 離れていても、これから先の時間を一緒に重ねていきたいからだ。


 彩花はその考えに、少しだけ胸が高鳴った。


 物語の中心にある気持ちが、以前よりはっきりしてきたように思えた。


 けれど、まだ最初の一行は決まらない。


 彩花はそのことを不思議に感じながらも、焦ることはなかった。


 むしろ、今なら少女が書けない理由を、以前より深く理解できる気がした。


 大切な相手へ言葉を届けたいと思うほど、最初の一行を選ぶことは難しくなる。


 どんな言葉も間違いではないのに、どれも少しだけ足りないように感じられる。


 だからこそ、少女は便箋の前で立ち止まっているのだろう。


 彩花はメモ帳を閉じ、静かに息をついた。


 物語の続きを書くのは、家へ帰ってからにしよう。


 今はもう少し、この図書館の空気を感じていたかった。


     ◇


 その頃、悠真は自室で学校の資料を整理していた。


 生徒会の仕事は以前より落ち着いてきているが、細かな確認事項はまだ残っている。今日は新しい作業を進めるというより、週明けに確認する必要があるものを整理しておこうと思っていた。


 机の上には、学校で受け取った資料と手帳が並んでいる。


 悠真は確認済みのものをまとめ、まだ返事を待っている項目には小さな印をつけた。


 その途中で、スマートフォンが震えた。


 画面を見ると、航平からメッセージが届いていた。


『悠真、週明けに確認する資料って、昨日話してた分だけでよかったよな? 念のため見直してたら、少し気になってさ』


 悠真は資料を確かめ、必要な範囲を確認してから返事を送った。


『うん。今のところはその分で大丈夫だと思う。ただ、先生から追加の連絡が来る可能性はあるから、月曜日にもう一度確認しよう』


 少しして、航平から返事が届いた。


『了解。休日に悪いな。これで安心して休めるわ』


 悠真は小さく笑った。


 航平は普段、気さくな態度で周囲を和ませてくれるが、必要なところではきちんと確認を怠らない。だからこそ、一緒に生徒会の仕事を進めていても安心できる。


 悠真は資料を片づけ、手帳を閉じた。


 来週末の予定は、まだ空白のままだ。


 彩花の文芸部の活動日程が分かってから、改めて相談することになっている。


 そのことを思い出すと、悠真は少しだけ口元を緩めた。


 昨日、散歩を見送ることになったとき、彩花は自分の気持ちをきちんと伝えてくれた。


 せっかく一緒に歩くなら、景色を見たり、話したりする時間をゆっくり楽しみたい。


 その言葉が、悠真の中に残っていた。


(彩花さんと歩くなら、俺もそうしたい。予定を合わせることだけが大事なんじゃなくて、一緒に過ごす時間を大切にしたいんだ)


 悠真は窓の外へ目を向けた。


 昨日とは違い、今日は風が弱い。


 けれど、今日になったからといって、急に散歩の約束を持ち出そうとは思わなかった。


 彩花には彩花の予定がある。


 自分にも、家で過ごしたい時間がある。


 互いの生活を大切にしながら、その中で一緒に過ごせる日を選ぶ。


 悠真はその関係を、これからも大切にしていきたかった。


     ◇


 中央図書館での時間は、彩花が思っていたよりも早く過ぎていった。


 気になった本を読み、別の棚を眺め、また新しい本を手に取る。


 そうしているうちに、窓から差し込む光の角度が少しずつ変わっていた。


 彩花は時計を確かめ、そろそろ帰る準備をしようと思った。


 今日は、手紙を題材にした物語を一冊借りることにした。すべてを読み終えたわけではないが、続きが気になっていたし、家でもう少しゆっくり読みたかった。


 貸出手続きを済ませたあと、彩花は出口へ向かう途中で足を止めた。


 少し離れた場所に、以前、悠真と並んで本を眺めた棚が見えた。


 初めて出会った日のことを、鮮明に思い出せる。


 あのときは、こんなふうに相手のことを考えるようになるとは思っていなかった。


 悠真がどんな本を読むのか。


 どんなことを大切にしているのか。


 家族とどんなふうに過ごしているのか。


 少しずつ知っていくうちに、彼の存在は彩花の日常の中で大きくなっていった。


 けれど、最初からそうだったわけではない。


 本の話をするだけでも緊張していた時間があり、何度も会話を重ねるうちに、少しずつ安心して話せるようになった。


 彩花はその変化を思い返しながら、棚の前へ近づいた。


 そこには、今日もたくさんの本が並んでいる。


 誰かが借りていった本もあれば、新しく棚へ加わった本もある。


 図書館は同じ場所にあり続けているのに、そこに並ぶ本や訪れる人は少しずつ変わっていく。


 彩花はそのことを、今まであまり意識していなかった。


(ここは、いつ来ても同じ場所だけど、私の気持ちは前と少し違うんだね)


 彩花は胸の奥に広がる温かな感覚を確かめるように、ゆっくり息をついた。


 今日は悠真と会わなかった。


 それでも、彼と出会った場所へ一人で来ることができたのは、何となく嬉しかった。


 図書館は、悠真と出会ったから特別になった場所であると同時に、彩花が昔から本を好きでいられる場所でもある。


 その両方を大切にしていきたいと思った。


     ◇


 図書館を出ると、外の空気は午前中より少し冷たくなっていた。


 日差しはまだ残っているが、建物の影が長く伸び始めている。彩花は上着の前を整え、鞄の中に借りた本が入っていることを確かめてから歩き出した。


 帰り道、駅前の通りを歩いていると、小さな花屋の店先が目に入った。


 店の前には季節の花が並び、淡い色の花束や鉢植えが、通りを歩く人の目を楽しませている。彩花は足を止め、しばらく花を眺めた。


 昨日、母と見つけた写真集。


 今日、図書館で読んだ手紙の物語。


 そして、今書いている少女の物語。


 そのすべてに、花が関わっている。


 彩花は店先に並ぶ小さな鉢植えを見つめながら、物語の少女が祖母へ送りたいと思っている写真のことを考えた。


 庭に咲いた花を写真に撮り、遠くにいる祖母へ送る。


 それは、ただ花の姿を見せるためだけではない。


 祖母と一緒に育てた花が、今も元気に咲いていることを伝えるためでもある。


 そして、祖母がいなくなったあとも、少女がその庭を大切にしていることを知らせるためでもある。


(写真を送るだけじゃなくて、花が咲くまでのことも話したいのかもしれない。今日は蕾ができたよ、とか、昨日より少し大きくなったよ、とか)


 彩花はその考えを忘れないように、鞄からメモ帳を取り出した。


 通行の邪魔にならない場所へ移動し、短く言葉を書き留める。


『花が咲いた日だけではなく、咲くまでの日々も伝えたい。祖母と一緒に育てた時間が、これからも続いていくことを知らせたい。』


 書き終えたあと、彩花はメモ帳を閉じた。


 少女が手紙を書きたい理由が、また一つ増えた気がした。


 けれど、それは物語を複雑にするためのものではない。


 少女の気持ちを、より自然に理解するための小さな手がかりだった。


 彩花は花屋の店先へ軽く目を向けてから、再び歩き始めた。


     ◇


 帰宅した彩花を、紗月が居間で迎えた。


「おかえり、彩花。図書館はどうだった?」


「ただいま。楽しかったよ。手紙のお話を一冊借りてきたの」


 彩花は鞄から本を取り出し、母へ表紙を見せた。


 紗月は題名を眺め、興味深そうに頷いた。


「手紙の物語なのね。最近、彩花もそういうお話を書いているんでしょう?」


「うん。まだ途中だけど、ちょうど考えていることと少し似てるところがあって。でも、読んでみたら、私が書きたいものとはまた違うんだなって思ったよ」


 彩花が答えると、紗月は柔らかく微笑んだ。


「同じ題材でも、書く人によって違うものになるものね。彩花がどんなお話を書くのか、お母さんも楽しみだわ」


「ありがとう。でも、もう少し時間がかかりそう」


「いいのよ。急いで完成させなくても、彩花が納得できるものになればいいと思うわ」


 紗月の言葉に、彩花は静かに頷いた。


 母はいつも、彩花が書くことを大切にしてくれる。


 完成を急かすこともなく、どんな内容なのか無理に聞き出そうともしない。


 その距離感が、今の彩花にはありがたかった。


 彩花は借りてきた本を自室へ置き、夕食までの時間を少しだけ原稿に使うことにした。


 机へ向かい、星模様のノートを開く。


 今日、図書館で考えたこと。


 花屋の前で思いついたこと。


 その二つを、今の物語へどうつなげるか考えた。


 少女はまだ便箋の前で立ち止まっている。


 けれど、伝えたいことは少しずつはっきりしてきている。


 彩花はペンを持ち、昨日の続きへ文章を書き足した。


『少女は窓の外へ目を向けた。祖母と一緒に育てた花は、今はまだ小さな蕾をつけているだけだった。けれど、毎日少しずつ変わっていくその姿を見ていると、祖母へ話したいことが増えていくような気がした。』


『花が咲いたら写真を送ろうと思っていた。でも、咲くまでのことも伝えていいのかもしれない。昨日より蕾が少し膨らんだことも、水をやるときに祖母の言葉を思い出したことも、きっと話したいことの一つなのだ。』


 彩花は書き終えた文章を読み返した。


 少女が祖母へ伝えたいことは、特別な出来事ばかりではない。


 これから先も続いていく、日常の小さな変化。


 その一つ一つを共有したいという気持ちが、少女の中にある。


 彩花はそのことを大切にしながら、次の文章を考えた。


『少女は白い便箋へ視線を戻した。何を書けばいいのか分からなかったはずなのに、今は書きたいことが多すぎて、どこから始めればいいのか迷っている。祖母が目の前にいたなら、きっと思いついたことから話していただろう。けれど、手紙にしようとすると、最初の言葉だけがどうしても見つからなかった。』


 そこまで書いて、彩花はペンを止めた。


 少女は、まだ一行目を書いていない。


 けれど、その理由は以前とは少し違っている。


 何も言葉が見つからないのではなく、伝えたいことが増えたからこそ、選べなくなっている。


 彩花はその変化を感じながら、ノートを閉じた。


 今日のところは、ここまでにしよう。


 続きはまた、少女の気持ちを考えながら書いていけばいい。


     ◇


 夕食後、彩花は悠真へメッセージを送った。


 今日は中央図書館へ行ったことを伝えたかった。


『悠真君、こんばんは。今日は久しぶりに中央図書館へ行ってきたよ』


 送信すると、少しして返事が届いた。


『こんばんは、彩花さん。中央図書館に行ったんだね。何か面白い本は見つかった?』


 彩花は嬉しくなり、借りてきた本のことを説明した。


『うん。手紙を題材にした物語を一冊借りてきたよ。離れて暮らす家族が、季節ごとに手紙を交わすお話なの。まだ途中までしか読んでないけど、日常の小さな出来事を伝え合うところが素敵だなって思ったよ』


 悠真からの返事は、少し間を置いて届いた。


『いいね。手紙って、特別なことを書くものだと思いがちだけど、普段の出来事を伝えるのも素敵だと思う。彩花さんが気に入ったなら、俺も読んでみたくなるな』


 彩花はその文章を読み、少しだけ頬を緩めた。


 悠真は、彩花が好きだと思ったものへ自然に興味を持ってくれる。


 それが嬉しくて、つい詳しく話したくなる。


『読み終わったら、また感想を話すね。今日、図書館の中を歩いてたら、悠真君と初めて会った日のことも思い出したよ』


 送信したあと、彩花は少しだけ緊張した。


 あの日のことを、自分から話題にするのは久しぶりだった。


 悠真がどう受け取るだろうかと考えながら画面を見つめていると、返事が届いた。


『俺も、あの日のことはよく覚えているよ。彩花さんと同じ本に手を伸ばしたことも、そのあと本の話をしたことも。あのとき、声をかけてよかったと思ってる』


 彩花はその文章をゆっくり読み返した。


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 悠真も、あの日のことを覚えていてくれた。


 しかも、声をかけてよかったと思ってくれている。


 彩花はスマートフォンを両手で持ち、しばらく考えてから返事を打った。


『私も、あの日に悠真君とお話できてよかったと思ってるよ。最初はすごく緊張してたけど、本の話をするのが楽しかったのは覚えてる』


 送信すると、すぐに返事が届いた。


『俺も楽しかったよ。あのときは、こんなふうに毎日のことを話すようになるとは思っていなかったけど、今は彩花さんと話せる時間が楽しみになってる』


 彩花は思わず目を伏せた。


 悠真の言葉は、いつもまっすぐだった。


 特別に飾った表現ではないのに、読んでいると胸の奥へゆっくり届いてくる。


(悠真君も、同じように思ってくれてるんだ。私だけが、毎日のやり取りを楽しみにしてるわけじゃないんだね)


 彩花はそのことを嬉しく感じながら、返事を打った。


『私もだよ。今日みたいに図書館へ行くと、また悠真君と本の話をしたくなるの』


 少しして、悠真から新しいメッセージが届いた。


『じゃあ、今度はまた中央図書館で一緒に本を探すのもいいね。川沿いの散歩とは別に、いつかそんな時間も作れたら嬉しいな』


 彩花はその文章を読んで、自然と笑顔になった。


 川沿いの散歩は、まだ日程が決まっていない。


 けれど、それとは別に、中央図書館で一緒に本を探すという楽しみが生まれた。


 今すぐ予定を決める必要はない。


 ただ、いつか一緒に過ごしたい時間が、また一つ増えたことが嬉しかった。


『うん、私も嬉しい。今度は、お互いにおすすめの本を探してみるのも楽しそうだね』


『それ、いいね。彩花さんがどんな本を選ぶのか、楽しみにしてるよ』


 二人はそのあとも、今日読んだ本のことや、最近気になっている作品について少し話した。


 やがて夜も更けてきたため、互いに明日の学校へ備えて休むことにした。


『明日からまた学校だね。彩花さん、無理しすぎないようにね』


『ありがとう。悠真君も、生徒会のお仕事があると思うけど、頑張りすぎないでね』


『うん。ありがとう。おやすみなさい』


『おやすみなさい、悠真君』


 彩花はやり取りを終え、スマートフォンを机へ置いた。


 中央図書館で過ごした時間が、今夜の会話によってさらに大切なものになった気がした。


     ◇


 同じ頃、悠真は自室でスマートフォンを置き、窓の外を眺めていた。


 今日は彩花と会わなかった。


 けれど、彼女が中央図書館へ行ったことを聞き、初めて出会った日のことを思い出した。


 あのとき、彩花は少し緊張した様子だった。


 それでも、本の話になると表情が柔らかくなり、好きな作品について丁寧に言葉を選んでいた。


 悠真は、その姿が印象に残っている。


 今では、彩花がどんなことに興味を持ち、どんなふうに考えるのか、以前より少しずつ分かるようになってきた。


 けれど、まだ知らないこともたくさんある。


 彩花が新しい物語を書いていることは知っているが、その詳しい内容は完成してから読ませてもらう約束になっている。


 彼女がどんな言葉を選び、どんな結末へたどり着くのか。


 それを楽しみに待つ時間も、悠真にとって大切なものだった。


(彩花さんは、今日も何か新しいことを見つけたんだろうな。図書館へ行った話をしているとき、きっと嬉しそうな顔をしていたんだと思う)


 悠真はそんなことを考えながら、机の上に置いた読みかけの本へ目を向けた。


 自分も、彩花と話したくなるような本を見つけたい。


 ただ相手に合わせるのではなく、自分が面白いと思ったものを伝え合いたい。


 それが、二人で本の話をする楽しさなのだと思う。


 悠真は本を手に取り、栞を挟んでいたページを開いた。


 今夜はもう少しだけ読み進めてから休もう。


 そう決めると、窓の外の静かな夜を感じながら、ゆっくりとページをめくり始めた。


     ◇


 彩花は寝る前に、淡い緑色の葉模様の日記帳を開いた。


 今日の出来事を思い返すと、書き残したいことがいくつも浮かんでくる。


 中央図書館へ行ったこと。


 手紙を題材にした物語を借りたこと。


 花屋の前で、書きかけの物語について新しい考えが浮かんだこと。


 そして、悠真と初めて出会った日のことを話したこと。


 彩花は一つずつ、丁寧に書き留めた。


『今日は久しぶりに中央図書館へ行った。あの場所へ行くと、悠真君と初めて会った日のことを思い出す。あのときは、こんなふうに毎日お話するようになるなんて思っていなかった。でも、今は悠真君と本の話をする時間が、私にとって大切なものになっている。』


 彩花はそこまで書いてから、少しだけペンを止めた。


 日記帳には、誰にも見せていない気持ちが残っている。


 悠真のことが好きだと、自分で認めたあの日から、その気持ちは少しずつ深まっている。


 けれど、急いで何かを変えたいとは思っていなかった。


 今の関係が大切だからこそ、一つ一つの時間を丁寧に重ねていきたい。


 彩花はその思いを胸に、続きを書いた。


『今度、悠真君と一緒に中央図書館で本を探せたら嬉しい。川沿いの散歩も楽しみだけど、図書館で過ごす時間も、きっと楽しいと思う。まだどちらも日程は決まっていないけれど、楽しみに待っていたい。』


 書き終えたあと、彩花は日記帳を閉じた。


 机の上には、今日借りてきた本と、星模様のノートが並んでいる。


 手紙を題材にした物語は、まだ読み終えていない。


 少女の物語も、まだ完成していない。


 そして、悠真との次の約束も、まだ具体的には決まっていない。


 けれど、そのどれもが、これから先へ続いていくものだった。


 彩花は机の灯りを消し、布団へ入った。


 窓の外では、昨日のような強い風は吹いていない。


 静かな夜の中で、彩花は今日の図書館の景色を思い出した。


 本棚の間を歩いた時間。


 ページをめくる音。


 窓から差し込んでいた午後の光。


 そして、悠真と初めて出会った場所に、今も変わらず本が並んでいること。


 あの場所へ、また二人で行けたらいい。


 そう思いながら、彩花はゆっくり目を閉じた。


 祖母へ手紙を書こうとする少女は、まだ最初の一行を見つけていない。


 けれど、彩花自身は今日も、誰かへ届けたい言葉を一つずつ見つけていた。


 その小さな積み重ねが、いつか少女の手紙にもつながっていくのかもしれない。


 青凪市の日曜日は、穏やかに終わろうとしていた。

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