第104話 印刷室に残る一枚と、まだ名前のない約束
月曜日の朝、彩花が鞄の中身を確かめていると、昨日、中央図書館で借りた本の背表紙が机の上に見えた。
遠く離れて暮らす家族が、季節ごとに手紙を交わす物語。昨夜は寝る前に少しだけ続きを読んだが、まだ最後まではたどり着いていない。彩花は本を手に取ってから、今日は学校へ持っていくのをやめようと思い直した。
学校の図書室で借りた短編集を返す予定があるし、放課後には文芸部の活動もある。中央図書館の本まで持っていくと、鞄が少し重くなってしまう。
彩花は借りた本を机の端へ戻し、代わりに学校の短編集を鞄へ入れた。先週読み終えた本には、手紙や季節を題材にした短い物語が収められていた。借りてから何度もページを開き、気に入った文章を読み返したため、返すのが少し惜しい気持ちもある。
(でも、返さないと次の人が読めないもんね。それに、また読みたくなったら借りればいいんだし)
彩花はそう考え、鞄の口を閉じた。
机には、星模様のノートも置かれている。
祖母へ手紙を書こうとする少女の物語は、昨日も少しだけ進んだ。少女が伝えたいことは増えているが、便箋の最初の一行はまだ書かれていない。
彩花自身も、その一行をどうするか決めていなかった。
けれど、昨日の図書館で考えたことが、今も心に残っている。
手紙は、特別な出来事だけを書くものではない。
今日の小さな出来事を伝えることも、離れた相手と時間を分け合う方法になる。
その考えを、これからの物語へどうつなげていくか。
彩花はノートの表紙へそっと触れてから、学校へ向かう準備を終えた。
◇
青葉高校へ向かう道は、週末より少しだけ賑やかだった。
制服姿の生徒たちが駅から学校へ歩いていき、道沿いの店では開店準備が進んでいる。空には薄い雲が広がっているものの、雨が降りそうな様子はない。彩花は上着の前を整えながら、校門へ向かった。
教室へ入ると、すでに何人かの生徒が登校していた。
窓際では、田辺大地が友人と話している。彩花が席へ向かうと、大地は会話を切り上げ、軽く手を上げた。
「水瀬、おはよう。昨日は休みだったけど、ゆっくりできた?」
「おはよう、田辺君。うん。昨日は中央図書館へ行ってきたよ」
「へえ、図書館か。水瀬らしい休日だな」
大地は笑いながら答えた。
彩花は少し照れくさくなったが、否定する気持ちにはならなかった。自分が本を好きだということを、クラスメイトが自然に受け止めてくれているのは嬉しい。
「田辺君は、何かしてたの?」
「俺は家で妹の宿題を少し見てた。途中から、俺より妹の方がよく分かってる問題が出てきて、ちょっと悔しかったけど」
大地は苦笑しながら肩をすくめた。
彩花は思わず笑った。
「でも、妹さんは嬉しかったんじゃない? 一緒に考えてくれる人がいると、安心することもあると思うよ」
「そうだといいんだけどな。最後は『お兄ちゃん、もう大丈夫』って言われたから、俺の出番は終わったらしい」
大地はそう言って笑い、少しだけ表情を和らげた。
「そういえば、妹がまた冬の部誌のことを聞いてきたんだ。前に話したの、覚えてたみたいでさ」
彩花はその言葉に、少しだけ姿勢を正した。
冬の部誌については、まだ試し刷りの日程が決まっていない。表紙の印刷条件も確認中であり、配布方法や部数についても正式な決定は出ていない。
「覚えてくれてたんだね。嬉しいな。でも、まだ印刷の予定が決まってなくて、いつ完成するかは分からないんだ」
「うん、それは前にも聞いたから大丈夫。妹にも、まだ決まってないって伝えてあるよ。ただ、楽しみにしてるみたいだから、何か分かったら教えてくれたら嬉しい」
大地は無理に答えを求める様子もなく、穏やかに言った。
彩花はその気遣いに安心した。
「ありがとう。配布のことも含めて、正式に決まったら伝えられる範囲で話すね」
「それで十分だよ。妹も、すぐに欲しいっていうより、どんな作品が載るのか気になってるみたいだから」
大地はそう答え、机の上に置いていた教科書を鞄へしまった。
彩花は自分の席へ座りながら、少しだけ考えた。
部誌を楽しみにしてくれる人がいる。
それは嬉しいことだ。
けれど、期待してくれる人がいるからこそ、曖昧な情報を伝えないようにしたい。
彩花はその気持ちを胸に、朝の授業の準備を始めた。
◇
午前の授業が終わり、昼休みになると、彩花は鞄から学校の図書室で借りた短編集を取り出した。
今日は返却するつもりで持ってきた本だ。
昼食を済ませたあと、彩花は図書室へ向かった。
廊下には昼休みらしい賑わいがあり、教室からは友人同士の笑い声が聞こえてくる。階段を上がると、窓から差し込む光が床に細長い影を落としていた。
図書室へ入ると、静かな空気が広がっていた。
棚の間では数人の生徒が本を探しており、窓際の席では一人の生徒がノートを広げている。彩花は返却カウンターへ向かい、借りていた短編集を差し出した。
「返却をお願いします」
図書委員の生徒は本を受け取り、貸出記録を確認してから頷いた。
「はい、返却ですね。ありがとうございました」
彩花は軽く頭を下げ、少しだけ棚を眺めてから教室へ戻ろうと思った。
昨日、中央図書館で手紙の物語を借りたばかりだが、学校の図書室にも気になる本があるかもしれない。
彩花は小説の棚へ向かい、背表紙をゆっくり眺めた。
しばらくすると、以前から気になっていた短編集が目に入った。
日常の中で起こる小さな出来事を題材にした作品で、表紙には古い商店街の風景が描かれている。
彩花は本を手に取り、紹介文を読んだ。
そこには、普段は気にも留めないような出来事が、誰かにとって大切な思い出になることがある、と書かれていた。
彩花はその言葉を見つめた。
昨日、母と話した幼い頃の思い出。
中央図書館で読んだ手紙の物語。
悠真と交わした何気ないメッセージ。
最近、自分が大切だと感じているものと、どこか通じる部分がある気がした。
(こういうお話も読んでみたいな。でも、今は中央図書館で借りた本があるし、先にそっちを読み終えてからでもいいかもしれない)
彩花は少し迷ったあと、本を元の棚へ戻した。
読みたい本を見つけたからといって、すぐに借りなければならないわけではない。
今読んでいる物語を大切にしながら、次に読む楽しみとして残しておくのもいい。
彩花はその本の題名を小さなメモ帳へ書き留め、図書室をあとにした。
◇
午後の授業が終わる頃、青葉高校の空は少しずつ曇り始めていた。
窓から見える校庭には、部活動へ向かう生徒たちの姿がある。彩花は教科書を鞄へしまい、文芸部の活動場所へ向かった。
教室へ入ると、すでに何人かの部員が集まっていた。
机の上には、冬の部誌の確認用資料が並んでいる。表紙の案を印刷した紙や、本文のページ順をまとめた一覧もあり、部員たちはそれぞれの担当箇所を見直しているようだった。
佐々木先輩は、彩花の姿を見ると軽く手を上げた。
「水瀬さん、お疲れさま。今日は先生から印刷について少し連絡があったから、みんなが集まったら説明するね」
「お疲れさまです。分かりました」
彩花は頷き、空いている席へ座った。
しばらくして部員が揃うと、佐々木先輩は机の上に置いていた資料を手に取った。
「冬の部誌の表紙について、先生が印刷室の担当の方に確認してくれたそうです。今のデータでも印刷できる可能性はあるんだけど、灰色の濃淡が思ったように出るかは、実際に試してみないと分からない部分があるみたい」
部員たちは静かに耳を傾けた。
佐々木先輩は続けた。
「だから、まずは表紙だけ一枚、試し刷りをして確認する方向になりました。ただ、印刷室を使える時間の調整が必要だから、まだ日程は決まっていません」
彩花はその説明を聞きながら、机の上に置かれた表紙案へ目を向けた。
灰色を基調にした表紙には、窓と葉を落とした枝の図案が描かれている。
彩花はこの表紙が好きだった。
冬らしい静けさがありながら、どこか温かさも感じられる。
けれど、画面で見た色と紙に印刷された色が、必ず同じになるとは限らない。
そのことは、以前から話題になっていた。
「試し刷りをしたら、みんなで確認するんですか?」
彩花が尋ねると、佐々木先輩は頷いた。
「うん。できれば表紙担当の人だけじゃなくて、何人かで見たいと思ってる。印刷されたときに、文字が読みにくくなっていないかとか、窓の線が薄くなりすぎていないかとか、確認したいところがあるから」
彩花はその言葉に納得した。
表紙の美しさだけではなく、読者が見やすいかどうかも大切だ。
特に灰色の濃淡を使った図案では、細い線や淡い部分が印刷によって見えにくくなる可能性がある。
「もし、試し刷りで気になるところが見つかったら、そのときに修正を相談するんですね」
「そう。今の段階では、まだデータを変更しないでおこうと思ってる。実物を見ないと、どこを直すべきか分からないから」
佐々木先輩は落ち着いた声で答えた。
彩花は頷いた。
以前なら、気になる点があると、すぐに直した方がいいのではないかと考えていたかもしれない。
けれど今は、何が問題なのかを確かめてから動くことの大切さを理解できるようになっていた。
部員の一人が、表紙案を手に取りながら言った。
「窓の線、画面だときれいに見えるんですけど、印刷すると少し薄いかもしれませんね」
「そうだね。だからこそ、一枚だけでも試してみる意味があると思う」
佐々木先輩は頷き、資料を机へ戻した。
「それと、本文の方は今のところ大きな変更はありません。前に確認した目次とページの対応も、そのままで大丈夫です。名前の表記についても、本人の希望どおりになっていることを確認済みだから、そこは触らないでください」
彩花はその説明を聞き、少しだけ安心した。
自分たちが確認してきたことが、きちんと現在の資料へ反映されている。
その積み重ねが、部誌の完成へつながっているのだと思えた。
◇
説明が終わると、部員たちはそれぞれの作業へ戻った。
彩花は表紙案の確認用紙を手に取り、窓の図案をじっと見つめた。
灰色の線で描かれた窓枠の向こうには、葉を落とした枝が伸びている。
冬の静けさを感じさせる図案だが、よく見ると、枝の先に少しだけ余白が残されていた。
彩花はその余白が気になり、表紙担当の部員へ声をかけた。
「この枝の先のところ、少し空いているのが素敵ですね。冬の空が見えるみたいで」
表紙担当の部員は、少し驚いたように顔を上げた。
「ありがとう。そこ、実は少し迷ったところなんだ。最初は枝をもっと広げようと思ってたんだけど、そうすると画面が詰まって見える気がして」
彩花は興味深く耳を傾けた。
「そうだったんですね。私は、この余白があるから、窓の外の広さが感じられる気がします」
「そう言ってもらえると嬉しいな。でも、印刷したらどう見えるかはまだ分からないんだよね。灰色が薄すぎると、枝が消えちゃうかもしれないし」
部員は少し心配そうに笑った。
彩花はその表情を見て、すぐに大丈夫だと言うのは違う気がした。
実際に印刷していない以上、問題がないとは言い切れない。
けれど、今の図案に込められた意図を知ることはできた。
「試し刷りで確認できるといいですね。もし線が薄くなっても、今の雰囲気を残せる方法が見つかるといいなって思います」
彩花がそう言うと、部員は少しだけ表情を和らげた。
「うん。私もそう思う。ありがとう、水瀬さん」
彩花は小さく微笑んだ。
誰かが作ったものを確認するときには、間違いを探すだけではなく、その人が何を大切にしているのかを知ることも必要なのだと思った。
表紙担当の部員は、窓の向こうに広がる余白を大切にしている。
その意図を知らずに、線が薄いからといって単純に濃くしてしまえば、元の雰囲気が変わってしまうかもしれない。
彩花はそのことを心に留めながら、確認用紙を机へ戻した。
◇
同じ頃、桜華学園高等部では、悠真が生徒会室で航平と資料を確認していた。
週明けの月曜日は、細かな連絡が重なりやすい。
先生から追加の確認事項が届くこともあり、二人は先週から残っていた資料を一つずつ見直していた。
「悠真、こっちの確認は終わったぞ。先生から返事が来てた分も、ちゃんと反映されてる」
航平が資料を差し出すと、悠真は内容を確かめてから頷いた。
「ありがとう。これで、今日中に確認する必要があるものはだいぶ減ったね」
「だな。先週よりは落ち着いてきた気がする。まあ、また何か増える可能性はあるけど」
航平は苦笑しながら椅子へ座った。
悠真は資料をまとめ、机の端へ置いた。
「そうだね。でも、今の段階でできることは進めておこう。後回しにすると、別の確認が入ったときに重なってしまうから」
「相変わらず真面目だなあ。でも、そういうところは助かってるよ」
航平は笑いながら答えた。
悠真も小さく笑い、残っている資料へ目を向けた。
生徒会の仕事は、以前ほど忙しくはない。
けれど、確認が必要なものはまだ残っている。
それを一つずつ終わらせることで、週末の予定も立てやすくなるだろう。
悠真はそんなことを考えながら、最後の資料を確認した。
しばらくして作業が一区切りつくと、航平が椅子の背にもたれた。
「そういえば、週末はどうだった? 土曜日、風がすごかっただろ」
「うん。外へ出る予定も考えていたけど、風が強かったから見送ったよ」
「やっぱりな。川沿いなんか、かなり寒かったんじゃないか?」
航平の言葉に、悠真は頷いた。
「そう思う。だから、別の日にしようって相談したんだ」
「それならよかった。無理して出かけても、寒さばっかり気になりそうだしな」
航平はそう言ってから、少しだけ笑った。
「でも、楽しみが先に延びたってことか。悪くないじゃん」
悠真はその言葉に、自然と微笑んだ。
「うん。俺もそう思ってる」
航平は悠真の表情を見て、何かを言いかけたが、結局それ以上はからかわなかった。
代わりに、机の上の資料をまとめながら言った。
「じゃあ、次に出かけるときは天気がいいといいな」
「そうだね。ありがとう」
悠真は素直に答えた。
彩花との散歩は、まだ日程が決まっていない。
けれど、楽しみにしていることは確かだった。
◇
文芸部の活動が終わる頃、彩花は佐々木先輩から声をかけられた。
「水瀬さん、今日もありがとう。表紙のこと、いろいろ考えてくれて助かったよ」
「いえ、私はまだ何もできていないです。試し刷りもこれからですし」
彩花がそう答えると、佐々木先輩は少しだけ首を振った。
「そんなことないよ。確認する前に、どこを大切にしたいのか考えておくのも大事だから。表紙担当の人も、水瀬さんに話せて少し安心したみたいだったよ」
彩花はその言葉に驚いた。
自分は、ただ気になったことを伝えただけだった。
けれど、それが誰かの安心につながっていたのなら、嬉しい。
「そうだったんですね。私も、表紙のことを前より知ることができてよかったです」
「うん。試し刷りの日程が決まったら、また連絡するね。水瀬さんも、無理のない範囲で参加してくれたら嬉しい」
「はい。予定を確認して、参加できそうなら行きたいです」
彩花は頷いた。
まだ日程は決まっていない。
けれど、表紙の試し刷りという具体的な次の作業が見えてきたことで、部誌の完成が少し近づいたように感じられた。
彩花は鞄を持ち、部室をあとにした。
廊下には夕方の光が差し込んでいる。
窓の外では、校庭の端にある木々が静かに揺れていた。
彩花は歩きながら、今日の活動を思い返した。
表紙担当の部員が大切にしている余白。
試し刷りで確認する必要がある灰色の濃淡。
そして、まだ決まっていない印刷の日程。
すべてが一度に解決したわけではない。
けれど、何を確かめればいいのかが少しずつ分かってきている。
それは、今書いている物語にも似ている気がした。
少女はまだ手紙を書けない。
けれど、何を伝えたいのかは少しずつ見えてきている。
彩花はその共通点を感じながら、帰り道へ向かった。
◇
帰宅した彩花は、夕食までの時間を使って星模様のノートを開いた。
今日の文芸部では、表紙の余白について話した。
窓の向こうに広がる空を感じさせるために、あえて枝を描きすぎない。
その考えが、彩花の中に残っていた。
物語の文章にも、同じようなことが言えるのかもしれない。
すべてを説明しなくても、読者が感じ取れるものがある。
登場人物がまだ言葉にできない気持ちを、無理に説明しすぎない方がいい場合もある。
彩花はそのことを考えながら、昨日の続きを読み返した。
少女は、祖母へ伝えたいことが多すぎて、最初の一行を選べずにいる。
庭の花のこと。
学校であった出来事。
祖母が引っ越した先で見つける景色。
そして、これからも自分の話を聞いてほしいという願い。
彩花は、少女がそのすべてを一度に伝えようとしているから、書き始められないのかもしれないと思った。
(最初の一行に、全部を入れなくてもいいんだよね。最初は、ほんの小さなことだけでもいいのかもしれない)
彩花はペンを持ち、続きを書き始めた。
『少女は便箋の上へペン先を近づけた。祖母へ伝えたいことは、まだたくさんある。けれど、そのすべてを最初の一行に書こうとしなくてもいいのかもしれない。』
『祖母が目の前にいたなら、きっと何気ない言葉から話し始めていただろう。今日の天気のことでも、庭の花のことでも、学校で見つけた小さな出来事でもいい。祖母はいつも、少女の話を最後まで聞いてくれた。』
『少女は写真の中の祖母を見つめ、少しだけ肩の力を抜いた。立派な言葉を探すより、自分が本当に話したいことから始めてみよう。そう思うと、白い便箋が昨日より少しだけ近く感じられた。』
彩花はそこで筆を止めた。
少女はまだ最初の一文字を書いていない。
けれど、書き始めるための気持ちは、少しずつ整ってきている。
彩花はその変化を大切にしたかった。
無理に一行目を書かせるのではなく、少女自身が自然に言葉を見つけるまで待ちたい。
そう思いながら、ノートを閉じた。
◇
夜、彩花は悠真へメッセージを送った。
『悠真君、こんばんは。今日は文芸部で、冬の部誌の表紙について少し進展があったよ』
送信すると、少しして返事が届いた。
『こんばんは、彩花さん。進展があったんだね。どんなことが決まったの?』
彩花は今日の活動を思い返しながら、丁寧に説明した。
『表紙の灰色が、実際に印刷するとどう見えるか確認するために、一枚だけ試し刷りをする方向になったの。まだ日程は決まってないんだけど、確認することが少しはっきりしたよ』
悠真からの返事は、すぐに届いた。
『なるほど。実際に印刷してみないと分からないこともあるんだね。彩花さんたちが丁寧に確認しているのが伝わってくるよ』
彩花はその言葉に、少しだけ嬉しくなった。
今日の活動は、何かが完成したわけではない。
けれど、悠真はその途中の時間も大切に受け止めてくれる。
『うん。表紙担当の人が、窓の向こうの余白を大切にしてるって話してくれたの。だから、印刷するときも、その雰囲気が残るといいなって思ったよ』
『素敵だね。作った人が何を大切にしているのかを知ると、見る側の感じ方も変わりそうだ』
彩花はその返事を読み、静かに頷いた。
まさに、今日自分が感じたことだった。
『そうなの。私も、話を聞く前より表紙が好きになった気がするよ』
しばらくして、悠真から新しいメッセージが届いた。
『試し刷りの日程が決まったら、また教えてね。川沿いの散歩も、その予定が分かってから相談しよう』
彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなった。
悠真は、彩花の文芸部の活動を大切にしてくれている。
自分との予定を優先してほしいと急かすこともなく、彩花が納得して活動できるように考えてくれている。
『ありがとう。日程が分かったら伝えるね。私も、悠真君と散歩するのを楽しみにしてるよ』
送信したあと、彩花は少しだけ頬を緩めた。
約束は、まだ具体的な日時を持っていない。
けれど、互いに楽しみにしていることは確かだった。
そして、その約束を大切にするために、今はそれぞれの予定を確認している。
彩花はそのことを、嬉しく感じていた。
◇
悠真は彩花からのメッセージを読み、静かに微笑んだ。
冬の部誌の表紙について、彩花が楽しそうに話している様子が文章から伝わってくる。
以前の彩花は、自分が何かを話すとき、相手の反応を気にして言葉を選ぶことが多かった。
けれど最近は、好きなことや気になったことを、自分から伝えてくれるようになっている。
悠真はその変化を、嬉しく思っていた。
(彩花さんは、少しずつ自分の考えを言葉にできるようになってるんだな。俺も、そういう話を聞けるのが楽しい)
悠真は机の上に置いた手帳へ目を向けた。
来週末の予定は、まだ空白のままだ。
彩花の文芸部の試し刷りの日程が決まれば、散歩の予定も相談しやすくなるだろう。
けれど、急ぐ必要はない。
彩花が大切にしていることを、自分も大切にしたい。
その気持ちは、以前よりもはっきりしていた。
悠真はスマートフォンを持ち直し、短く返事を送った。
『うん。俺も楽しみにしてるよ。今日は文芸部の活動、お疲れさま。ゆっくり休んでね』
少しして、彩花から返事が届いた。
『ありがとう。悠真君も、生徒会のお仕事お疲れさま。おやすみなさい』
『おやすみなさい、彩花さん』
やり取りを終えたあと、悠真はスマートフォンを机へ置いた。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
今日も、彩花と直接会うことはなかった。
けれど、彼女が学校で何を考え、どんなことを大切にしていたのかを知ることができた。
それだけで、今日という一日が少し特別なものになった気がした。
◇
彩花は寝る前に、淡い緑色の葉模様の日記帳を開いた。
今日の出来事を思い返すと、文芸部で聞いた表紙担当の部員の言葉が、真っ先に浮かんできた。
窓の向こうに広がる余白を残したかった。
そのために、枝を描きすぎないようにした。
彩花はそのことを日記へ書き留めた。
『今日は、冬の部誌の表紙について少し進展があった。試し刷りをする方向になったけれど、まだ日程は決まっていない。表紙担当の人が大切にしている余白のことを聞いて、私も前より表紙が好きになった。』
彩花はそこまで書いてから、少しだけ考えた。
物語を書くときも、同じように、すべてを言葉で埋めなくてもいいのかもしれない。
登場人物がまだ言葉にできない気持ちを、無理に説明しすぎない。
その余白があるからこそ、読者が感じ取れるものもある。
彩花は続きを書いた。
『新しい物語の少女は、まだ手紙の最初の一行を書けていない。でも、書けない時間にも意味がある気がする。急いで答えを出すより、少女が自分の言葉を見つけるまで、もう少し一緒に考えてみたい。』
書き終えたあと、彩花はペンを置いた。
今日も、物語は完成しなかった。
けれど、少しずつ進んでいる。
冬の部誌も、同じだった。
まだ試し刷りは終わっていないし、完成した冊子を手に取れる日も決まっていない。
それでも、部員たちは一つずつ確認を重ねている。
そして、悠真との散歩も、まだ日程が決まっていない。
けれど、二人で楽しみにしている気持ちは変わらない。
彩花はその三つのことを思い浮かべながら、静かに微笑んだ。
どれも、今すぐ完成させる必要はない。
大切にしたいからこそ、時間をかけて向き合っている。
彩花は日記帳を閉じ、机の引き出しへしまった。
星模様のノートは、明日も続きを書けるように机の上へ置いたままにした。
窓の外では、冬へ向かう青凪市の夜が静かに更けていく。
彩花は部屋の灯りを消し、布団へ入った。
まだ書けない一行。
まだ印刷されていない表紙。
そして、まだ日付の決まらない約束。
そのどれもが、これから先へ続いていくものだった。
彩花は胸の奥に残る温かな気持ちを感じながら、ゆっくり目を閉じた。
明日もまた、少しずつ進んでいけばいい。
そう思えることが、今の彩花には嬉しかった。




