第105話 紙の上に残った冬と、伝えたい最初の言葉
火曜日の朝、彩花が教室へ入ると、窓際の席に座っていた田辺大地が、机の上に広げたプリントを見つめながら首を傾げていた。廊下からは登校してくる生徒たちの足音が聞こえ、教室の後ろでは、昨日の宿題について話している声が重なっている。窓の外は薄曇りで、校庭の端に並ぶ木々の枝が、冷たい空を背景に細く伸びていた。
「おはよう、田辺君。何か難しいところがあったの?」
彩花が声をかけると、大地は顔を上げ、困ったように笑った。
「おはよう、水瀬。難しいっていうより、提出するプリントを昨日のうちに鞄へ入れたつもりだったんだけど、違うやつを持ってきたみたいでさ。家に置いてきた方に名前を書いたかどうかも怪しいんだよな」
彼の手元には、同じ授業で配られた別の日のプリントがあった。彩花は自分の鞄を確かめながら、今日提出するものの表題を伝えた。大地は「ああ、やっぱり違ったか」と肩を落としたが、彩花が代わりの紙を差し出そうとすると、すぐに首を振った。
「ありがとう。でも、先生に正直に言ってくるよ。昨日ちゃんと確認しなかった俺のミスだし、水瀬の分まで困らせたくないから」
「うん。もし内容を確認したいなら、私のプリントを見ても大丈夫だよ。写すんじゃなくて、どの課題だったか思い出すだけなら」
「助かる。あとで少しだけ見せてもらうかもしれない。今度から前の日に表題まで確かめるわ」
大地はそう言って笑い、間違えて持ってきたプリントを丁寧に鞄へ戻した。彩花は自分の席に着き、提出用の紙を机へ出した。書き終えたつもりでも、最後に確かめなければ気づけないことがある。その小さな出来事が、昨日の文芸部で聞いた試し刷りの話と、どこか重なって感じられた。
画面で確認した表紙と、実際に紙へ印刷された表紙は同じとは限らない。何度も見ているから大丈夫だと思っていた部分ほど、改めて確かめる必要があるのかもしれない。彩花は机の上のプリントを一枚ずつそろえ、提出するものだけを別に置いた。
朝の連絡が始まる少し前、スマートフォンに文芸部の連絡が届いた。授業中に見ないよう通知だけを確認すると、佐々木先輩からのメッセージだった。内容は短く、放課後に先生から印刷室について説明があるので、参加できる部員は普段どおり集まってほしい、というものだった。
(昨日はまだ日程が決まっていなかったけど、何か分かったのかな。ちゃんと聞いてから、悠真君にも話そう)
彩花は画面を閉じ、鞄へしまった。期待はあったが、試し刷りが今日できると決まったわけではない。何を確認することになったのか、まずは先輩たちの説明を聞くつもりだった。
◇
午前中の授業では、国語の時間に短い随筆を読み、書き手が省いた情報について意見を交わした。文章に書かれていないことを、読者が勝手に決めつけてはいけない一方、書かれている言葉や情景から想像できる余地もある。先生は黒板に二つの短い文章を並べ、どちらが読み手に景色を伝えやすいか、理由も含めて考えるよう促した。
彩花はノートへ自分の考えを書きながら、昨日、表紙担当の部員が話してくれた余白のことを思い出した。窓の向こうの空を広く感じさせるために、枝を描きすぎない。文章でも、何も書かないことと、読者が受け取れるように残すことは違うのだろう。
ただ、その考えをそのまま今の物語へ当てはめることには慎重でいたかった。祖母へ手紙を書こうとする少女が立ち止まる理由は、読者に隠すための仕掛けではない。少女自身がまだ自分の言葉を選べずにいるのだから、その迷いを丁寧に描く必要がある。
授業の終わりに先生が数人の意見を紹介すると、彩花の隣の席の生徒が、小さな声で「同じ景色でも、言い方でこんなに違うんだね」とつぶやいた。彩花は頷き、ノートの端へ「省くことと、伝わらないことは違う」と書き添えた。その一文は、今日の授業の記録であると同時に、自分がこれから書く文章への注意にもなった。
昼休みには、大地が朝のプリントの件を報告してくれた。先生へ事情を話したところ、次の授業までに家で完成したものを持ってくるよう言われたという。大地はほっとした顔をしていたが、彩花が「よかったね」と答えると、苦笑して首を振った。
「いや、よくはないけど、ちゃんと説明してよかったよ。忘れたって言うのが嫌で、朝はちょっと焦ってたんだ」
「そうだったんだ。言いにくいことでも、ちゃんと話せたならよかったと思うよ」
「水瀬って、そういうところをちゃんと見てるよな。結果だけじゃなくて、どうしたかも大事っていうか」
大地の言葉に、彩花は返事を探した。以前なら、そんなふうに言われると、褒められる理由が分からず困っていたかもしれない。けれど今日は、少し照れながらも素直に受け取ることができた。
「ありがとう。私も、最近そう思うことが増えたの。文芸部で確認することが多いからかもしれないけど」
「部誌の準備、忙しそうだもんな。あ、妹にはまだ新しいことは言ってないから安心して。決まってからでいいって話してある」
大地は付け加え、弁当箱の蓋を閉じた。彩花は、その配慮をありがたく感じた。誰かが楽しみにしているからといって、決まっていないことを急いで約束に変えなくてもいい。文芸部の活動で学んでいるのは、印刷のことだけではないのだと思った。
◇
放課後、文芸部の活動場所へ向かうと、いつもより机の配置が少し違っていた。中央に大きな作業机が作られ、その上に表紙案の印刷資料と、確認事項を書いた紙が置かれている。佐々木先輩は部員が集まるのを待ちながら、顧問の先生と小声で話していた。
彩花が挨拶すると、先輩は穏やかに頷いた。
「お疲れさま、水瀬さん。今日は印刷室の担当の方と時間が合ったから、表紙を一枚だけ試せることになったよ。ただし、今すぐ全員で印刷室へ行くわけじゃなくて、先生と表紙担当の人が印刷して持ってきてくれる予定なの」
「そうなんですね。今日、実物を見られるかもしれないんですね」
「うん。印刷機の設定を確認してからになるから、少し待つと思う。もし時間内にできなかったら、明日以降に持ち越しになるかもしれないけど」
彩花は頷き、鞄を椅子の横へ置いた。昨日まで日程が決まっていなかった試し刷りが、ようやく具体的な作業へ進む。嬉しさはあったが、先生たちが調整してくれたことを考えると、軽々しく「今日で決まる」とは思えなかった。
部員が揃うと、顧問の先生が改めて説明した。今日は表紙の確認用として一枚を出力するだけで、本文を含めた冊子全体を印刷するわけではない。使用する紙や機械の設定によって見え方が変わるため、今日の結果を最終的な仕上がりと断定することもできないが、少なくとも今のデータの問題点を見つける手がかりにはなるという。
「気になるところがあったら、ただ『薄い』『暗い』と言うだけでなく、どの部分が、どう見えにくいのかを伝えてください。直すかどうかは、表紙を作った本人とも相談して決めましょう」
先生の言葉に、部員たちは頷いた。表紙担当の生徒は少し緊張した面持ちだったが、佐々木先輩が隣から「一緒に確認しよう」と声をかけると、安心したように小さく笑った。
先生と表紙担当の部員が印刷室へ向かっている間、残った部員たちは確認用の資料を整理した。彩花は本文のページ順と目次の対応を改めて眺め、以前修正された箇所が現在の一覧にも反映されていることを確かめた。自分が何度も見てきた部分ではあるが、今の資料と古い資料を混ぜないよう、机の端へ置く位置にも気をつけた。
佐々木先輩は、彩花の作業を見て声をかけた。
「水瀬さん、そこは前に確認してもらった部分だよね。ありがとう。今日は表紙が中心だから、全部を最初から見直さなくても大丈夫だよ」
「はい。前の資料と混ざっていないかだけ、確認していました。修正前のものが残っていると、間違えて見てしまうかもしれないので」
「なるほど。それなら、古い方には確認済みって分かるように印をつけて、別にしておこうか。新しい資料と一緒に広げると、確かに紛らわしいね」
二人で資料を分けていると、近くにいた部員も手伝ってくれた。誰か一人が気を張り続けるのではなく、気づいたことを共有しながら進めていく。彩花はその雰囲気が、以前よりも自然になってきたことを感じていた。
◇
しばらくして廊下から足音が近づき、顧問の先生と表紙担当の部員が戻ってきた。先生の手には、白い紙が一枚載った薄い台紙がある。部員たちの視線が集まると、先生は紙を机の中央へ置き、全員が見られるように少し位置を調整した。
「これが、今のデータをそのまま使った試し刷りです。印刷室の担当の方にも見てもらいましたが、細い線と灰色の濃淡については、実際に皆さんの目で確認した方がよさそうです」
彩花は椅子から立ち、机の周囲へ集まる部員たちの後ろに回った。前にいた生徒が少し横へずれてくれたため、彩花も無理なく表紙を見られた。
紙に印刷された灰色は、画面で見ていたものよりも落ち着いた色合いになっていた。窓枠ははっきり見えるが、外へ伸びる枝の先は一部が淡く、近づいて見なければ分かりにくい。反対に、窓の内側に置かれた濃い灰色の部分は、画面より少し重たく感じられた。
誰かがすぐに「直した方がいい」と言うことはなかった。表紙担当の部員が紙へ顔を近づけ、指先を少し浮かせながら、枝の先を示した。
「ここ、やっぱり薄くなってますね。消えてはいないけど、少し離れると見えにくいかもしれません」
佐々木先輩は紙から一歩離れ、今度は少し距離を置いて眺めた。
「確かに。近くで見ると細い枝が分かるけど、机の向こう側からだと空と重なって見えるね。窓枠の方は問題なさそうかな」
彩花も位置を変えてみた。近くで見ると枝の繊細さがきれいに感じられるが、少し離れると、枝の先が余白へ溶け込むように薄くなる。ただ、それによって表紙全体の静かな雰囲気が損なわれているとは思わなかった。
(薄くなっているのは確かだけど、全部を濃くしたら、今の柔らかさが変わってしまうかもしれない。どこを残したいのか、ちゃんと相談したいな)
彩花は表紙担当の部員へ目を向け、言葉を選んだ。
「私は、この余白の雰囲気が好きです。枝が少し薄くなっているのは気になりますけど、全体を濃くするより、見えにくい先の部分だけを確認した方がいいのかなって思いました」
表紙担当の部員は、紙を見つめたまま頷いた。
「うん、私もそう思う。窓の中を暗くしたいわけじゃないし、枝も全部同じ濃さにしたいわけじゃないんだ。ただ、ここだけは、もう少し見えてほしかったな」
その言葉を聞き、佐々木先輩は確認用の紙へ「枝先の視認性」と書き留めた。先生も頷き、修正するなら範囲を限定して考えた方がよいと話した。
続いて、表紙に入る文字の読みやすさを確認した。題名は十分に読めるが、下部の小さな文字は灰色の背景と近く、光の当たり方によって少し見づらくなる。部員たちは紙を窓際へ移動させることはせず、教室の照明の下で角度を変えながら確かめた。
「この文字は、もう少しはっきりした方がいいかもしれないね。読む人が近づかないと分からないのは困るし」
佐々木先輩が言うと、表紙担当の部員は頷いた。
「そこは調整したいです。図案の雰囲気とは別に、文字は読めた方がいいと思うので」
先生は、今の紙へ直接書き込まず、別の確認表へ修正候補を記録するよう勧めた。試し刷りは一枚しかなく、後から元の状態と比べる必要があるからだ。部員たちは順番に紙を見て、意見を確認表へ集めていった。
彩花はその様子を見ながら、胸の奥に小さな感動が広がるのを感じた。画面で見ていた図案が、初めて実際の紙になっている。まだ完成ではなく、直した方がよい部分も見つかった。それでも、手に取れる形へ近づいたことが嬉しかった。
◇
確認が一区切りついたあと、先生は試し刷りを透明な保護用の袋へ入れ、折れないように机の上へ置いた。修正候補は二つに絞られた。枝の先の一部が見えにくいことと、表紙下部の小さな文字の読みやすさである。
ただし、どちらもその場で変更するとは決めなかった。表紙担当の部員が元のデータと照らし合わせ、どの程度の調整なら意図した雰囲気を保てるか考えることになった。修正案ができたら、先生へ確認してから次の印刷について相談する。
「今日の一枚で、すべてを決める必要はありません。見つかったことを持ち帰って、次の作業を考えましょう」
先生の言葉に、部員たちは頷いた。
佐々木先輩は確認表をまとめ、改めて全員へ説明した。
「今日は試し刷りができたことと、修正を検討する場所が分かったことが進展だね。部誌全体の印刷日や部数、配布方法はまだ決まっていないから、その点は今までどおり、決まってから案内するようにしよう」
彩花はその言葉を聞き、朝に大地と交わした会話を思い出した。妹さんが楽しみにしてくれていることは嬉しいが、今日の試し刷りができたからといって、すぐに配布できるわけではない。期待と事実を分けて伝えることが、今は大切だった。
活動の終わりが近づくと、表紙担当の部員が彩花の席へやってきた。手には確認表の写しを持っている。
「水瀬さん、さっきはありがとう。枝のこと、ちゃんと見てくれて嬉しかった。私、薄いって言われたら全部濃くしなきゃいけないのかなって、少し心配してたんだ」
彩花は顔を上げ、相手の言葉をゆっくり受け止めた。
「私も、どこまで変えた方がいいのかは分からないです。でも、最初に見たときから、窓の向こうの空気が感じられるところが好きだったので、その雰囲気は残ってほしいなって思って」
「うん。私もそうしたい。線を少し調整するだけで済むかもしれないし、まずは元のデータを見ながら考えてみるね」
表紙担当の部員はそう言って微笑んだ。彩花も頷き、机の上の資料を片づけ始めた。
誰かの作品を大切にするということは、ただ褒めることでも、気になる点をすべて直すことでもない。相手が守りたいものを知り、そのうえで必要な確認を一緒に考えることなのかもしれない。彩花は今日の活動を通して、そのことを前よりも実感していた。
◇
桜華学園高等部では、悠真が放課後の生徒会室で航平と予定表を確認していた。週明けに追加された作業は思っていたより少なく、二人は必要な連絡を済ませると、週の後半に確認する資料をまとめていた。
「今週のうちに終わらせるものは、これで見通しが立ったかな」
悠真が予定表を閉じると、航平は椅子の背にもたれ、窓の外を眺めた。
「そうだな。先生から急に何か来なければ、週末はそこまで忙しくならなさそうだ。悠真も少しは休めるんじゃないか?」
「うん。今のところは大丈夫そう。ただ、予定が確定するまでは、少し余裕を持っておこうと思う」
悠真が答えると、航平は意味ありげに笑った。
「なるほどね。川沿いの散歩のためにも、予定を空けておきたいわけだ」
悠真は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに穏やかな表情へ戻った。
「それもあるよ。でも、彩花さんの方も文芸部の予定がまだ決まっていないから、急いで決めるつもりはないんだ」
「分かってるって。別に急かしてるわけじゃないよ。前に風で見送ったって聞いたから、次は天気がいいといいなと思っただけ」
航平はそう言って、少しだけ声を柔らかくした。
「お前、最近は前より予定の組み方が変わったよな。前は空いてる時間があれば何か入れようとしてたけど、今はちゃんと残しておくことも考えてる」
悠真はその言葉に、すぐには返事をしなかった。自分では大きく変わったつもりはないが、確かに以前は、時間を有効に使うことばかり考えていたかもしれない。何も決まっていない時間を、ただ空白として見ていたこともあった。
「そうかもしれないね。今は、予定を詰めることより、その時間をどう過ごしたいかを考えることが増えた気がする」
「いいことじゃん。生徒会の仕事も大事だけど、全部それで埋めなくたっていいんだし」
航平はそう答え、机の上の資料を揃えた。悠真は友人の言葉を受け止めながら、手帳を鞄へしまった。
彩花と歩く川沿いの道を思い浮かべると、修理されたベンチや、葉を落とした木々の姿が浮かぶ。寒さが厳しくなる前に歩けたら嬉しいが、予定が合わなければ別の日でもいい。大切なのは、二人とも無理なく楽しめる時間を選ぶことだった。
◇
帰宅した彩花は、夕食までの時間に星模様のノートを開いた。今日の文芸部で見た試し刷りの紙が、まだ目の奥に残っている。画面で見ていたときには分からなかった線の薄さや、文字の見えにくさが、紙になったことで初めてはっきりした。
自分の物語にも、書いてみなければ分からないことがあるのかもしれない。少女が最初の一行を書けずにいる場面を、彩花は何度も考えてきた。けれど、頭の中でどんな言葉がいいか選び続けるだけでは、少女が書いたときに何を感じるのか、まだ分からない。
(私も、ずっと考えてるだけになってたのかな。でも、無理に書かせるのは違う気がする。あの子が今なら言えそうなことを、もう一度考えてみよう)
彩花はこれまでの文章を読み返した。少女は祖母と一緒に育てた花の蕾を見つめ、咲いた日だけでなく、そこへ至るまでの毎日も伝えたいと思っている。祖母が目の前にいたなら、きっと何気ない話から始めていただろうというところまで、気持ちは進んでいた。
その先で、少女はどんな行動を取るだろう。彩花はしばらくペンを動かさず、机の上の白い紙を眺めた。そこに書かれる言葉が立派である必要はないと、少女自身が気づき始めているなら、まずは手紙を書く前に、祖母へ話しかけるつもりで言葉を口にしてみるかもしれない。
彩花はノートへ続きを書いた。
『少女は便箋を前にしたまま、窓の外の小さな蕾を眺めた。祖母がまだこの家にいた頃なら、朝の水やりを終えたあと、台所へ駆け込んで「昨日より大きくなったよ」と話していただろう。祖母はいつも、そんな報告にも顔を上げてくれた。』
『今は台所へ走っても、祖母はいない。けれど、話したいことがなくなったわけではなかった。少女は机の上の写真へ目を向け、そこに写る祖母へ向かって、小さな声で今日の庭の様子を話してみた。』
『「おばあちゃん、あの花ね、もうすぐ咲きそうだよ」』
彩花はそこでペンを止めた。少女が初めて口にした言葉は、驚くほど簡単なものだった。けれど、声にしてみたことで、少女の胸の中にあった迷いが少しだけ形を変えたように思えた。
彩花は続けて書いた。
『言葉にしてみると、祖母がいつものように頷いてくれる姿が浮かんだ。少女は便箋へ視線を戻し、ペン先を紙の上に置いた。最初の一行には、今日の花のことを書こうと思った。』
そこまで書いたところで、彩花は一度ノートを閉じかけた。しかし、少女が何を書こうと決めたのかまで描いておきながら、また筆を止めるのは不自然な気がした。今の少女なら、たとえ少し不格好でも、実際に一行を書けるのではないだろうか。
彩花は深く息を吸い、もう一度ペンを持った。
『少女は、便箋の一番上へゆっくり文字を書いた。』
『「おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。」』
『書き終えたあと、少女はしばらくその一行を見つめていた。もっときれいな言葉があったかもしれないし、先に元気かどうか尋ねた方がよかったのかもしれない。それでも、その一行を消したいとは思わなかった。今、祖母へ一番に伝えたかったことが、ちゃんとそこに書かれていたからだ。』
彩花はゆっくりとペンを置いた。
少女は、ようやく最初の一行を書いた。
何か大きな事件が起きたわけではない。誰かが正解を教えてくれたわけでもない。ただ、祖母へ話しかけるつもりで、今日の庭のことを言葉にしただけだった。
けれど、彩花にはその一行が、とても大切なものに思えた。
(書けたんだ。やっと、この子の言葉で始められたんだね)
彩花はノートの文字を何度も読み返した。自分が考えていたよりも素朴な書き出しだったが、少女らしい言葉だと感じられた。大切な相手へ何を伝えたいのか悩み続けた時間があったからこそ、その素朴さが自然に思えた。
ただ、これで物語が完成したわけではない。少女はまだ一行を書いただけで、祖母へ手紙を送り終えたわけでもない。書いた言葉を読み返したとき、どんな気持ちになるのか。次に何を書き、どこで手を止めるのか。これから考えることは、まだたくさん残っている。
彩花は続きを急いで書くことをやめ、今日のところは最初の一行が生まれたところでノートを閉じた。書けなかった時間も、書き始められた瞬間も、どちらも大切に残しておきたかった。
◇
夕食の席では、紗月が彩花の様子を見て、少し嬉しそうに声をかけた。彩花が食卓へ来たときから、どこか表情が明るく見えたらしい。父の耕助は湯気の立つ味噌汁をよそいながら、二人の会話へ耳を傾けていた。
「彩花、今日は学校で何かいいことがあったの?」
「うん。文芸部で、冬の部誌の表紙を一枚だけ試し刷りできたの。まだ修正するところはあるんだけど、初めて紙になったものを見られて、嬉しかった」
紗月は目を細めた。
「それはよかったわね。画面で見ているのと、実際に紙になったものを見るのでは、きっと感じ方も違うでしょう」
「うん。思っていたより濃く見えるところもあったし、反対に薄くなった線もあったよ。みんなで見ながら、どこを確認した方がいいか話したの」
彩花が説明すると、耕助も頷いた。
「印刷して初めて分かることもあるんだな。直すところが見つかったなら、試した意味があったということだろう」
「そうだね。まだ完成じゃないけど、少し進んだ気がする」
彩花は笑顔で答えた。
その横で、凛花が箸を置き、妹の顔を見た。
「でも、今日は部誌だけじゃなさそうな顔してるよ。何か書いてたんじゃない?」
彩花は驚いて姉を見た。
「どうして分かるの?」
「だって、さっき部屋から出てきたとき、何か嬉しそうだったから。前にも、書きたいところがうまく書けた日は似た顔してたよ」
凛花はからかうというより、面白そうに微笑んでいた。彩花は少し照れながらも、今日書いた場面のことを話すことにした。ただし、まだ完成していない物語の詳しい内容までは説明しなかった。
「今書いてるお話で、ずっと書けなかったところがあったんだけど、今日は少し進められたの。まだ完成までは遠いけど、やっと登場人物が自分の言葉を見つけられた気がして」
「それはよかったじゃん。書けなかったところが動くと、嬉しいよね」
凛花は自然に頷いた。
紗月も微笑み、彩花へ言った。
「彩花がずっと考えていたことなら、きっと大切な場面なんでしょうね。急がず、続きを書いていけばいいと思うわ」
「うん。そうする」
彩花はそう答え、温かい味噌汁を口に運んだ。家族は詳しい内容を知らないが、彩花が何かを大切に書いていることは受け止めてくれている。その安心感が、胸の奥へゆっくり広がっていった。
◇
九条家では、悠真が夕食後に琴葉と一緒に練習用の葉を確かめていた。机の上には、以前集めた葉を挟んである紙が置かれている。二人は手を洗ってから作業を始め、葉を傷めないように慎重に紙を開いた。
葉は以前より乾いているように見えたが、端の一部にはまだ反りが残っていた。色も採ったときとは少し違い、落ち着いた茶色へ近づいているものがある。悠真はその変化を見つめ、手帳へ日付と状態を書き留めた。
「お兄様、こっちの葉は前より平らになっていますね。でも、色は少し変わった気がします」
琴葉が指さした葉を、悠真も慎重に見た。
「そうだね。乾燥が進むと、形だけじゃなくて色も変わるんだと思う。元の葉で試さなくてよかったよ。もう少し様子を見て、どんな方法がいいか考えたい」
「彩花さんへ渡す葉は、まだしまってあるんですよね?」
「うん。紙に包んだまま、引き出しに入れてあるよ。練習がうまくいくまでは、触らないつもりなんだ」
琴葉は頷き、机の上の葉を眺めた。彼女は兄が誰のために栞を作りたいのか知っているが、そのことを面白がって急かすことはなかった。
「私、少しだけ分かる気がします。大切なものって、失敗したくないから、すぐに触れないことがありますよね」
悠真は妹の言葉に、柔らかく微笑んだ。
「そうだね。でも、何もしないままでは分からないこともあるから、こうして別の葉で試せるのは助かってるよ。琴葉が一緒に見てくれるのも心強い」
琴葉は少し嬉しそうに笑った。
「それなら、また一緒に確認しましょう。今度は、前と同じ場所に置いたままの方がいいのか、紙の状態も見てみたいです」
「うん。ただ、今日はここまでにしよう。何度も開くと葉を傷めるかもしれないしね」
二人は練習用の葉を元どおりに戻し、紙の位置を整えた。扉の向こうではハクの足音が聞こえ、琴葉が「待っててね」と声をかけると、少しして静かになった。
悠真は机を片づけながら、祖父の俊治が日曜日に話してくれたことを思い出した。大切なものを残す方法は一つではない。元の葉をそのままにしていることにも意味があるが、練習を重ねる時間にもまた、別の意味があるのだと思った。
◇
夜、彩花は悠真へメッセージを送った。今日は伝えたいことが二つあったが、まずは文芸部での出来事から話すことにした。
『悠真君、こんばんは。今日は冬の部誌の表紙を一枚だけ試し刷りできたよ。まだ完成じゃないけど、実際に紙になったものを見られて嬉しかったの』
少しして、悠真から返事が届いた。
『こんばんは、彩花さん。それはよかったね。前に話してくれた灰色の表紙、紙になったらどんなふうに見えた?』
彩花は表紙を思い浮かべながら、ゆっくり文字を打った。
『画面で見るより濃く感じるところがあったよ。でも、枝の先は少し薄くなっていて、近くで見ないと分かりにくかったの。文字も一部見えにくかったから、どこを調整するか相談することになったよ』
『なるほど。実際に試したからこそ、直した方がいいところが分かったんだね。表紙を作った人の大切にしている雰囲気も、残せるといいね』
彩花はその返事を読み、思わず微笑んだ。悠真は以前に話した余白のことを覚えていてくれた。表紙の線が薄いという事実だけでなく、作った人の気持ちも大切に考えてくれている。
『うん。私もそう思う。今日は表紙担当の人とも話せて、どこを残したいのか少し分かった気がするよ』
送信したあと、彩花はしばらく画面を見つめた。もう一つの出来事を、どう伝えようか考えていた。
新しい物語の少女が、初めて手紙の一行を書いたこと。
悠真には、完成したら最初に読んでもらう約束をしている。だから、今の段階で内容を詳しく伝えるつもりはない。けれど、ずっと悩んでいた場面が少し進んだことは、話してもいいのではないかと思った。
彩花は言葉を選び、短いメッセージを送った。
『それからね、今書いているお話も、今日は少し進んだの。ずっと迷っていたところで、登場人物がやっと自分の言葉を見つけられた気がしたよ』
返事を待つ間、彩花はスマートフォンを両手で持った。自分の書いている物語について、こんなふうに途中の気持ちを伝えるのは、少し照れくさい。けれど、悠真なら完成を急かさずに聞いてくれると分かっていた。
『それは嬉しいね。彩花さんが大切に考えていたところなんだろうな。詳しい内容は完成してからのお楽しみにしておくけど、少し進められたって聞けて、俺も嬉しいよ』
彩花は胸の奥が温かくなるのを感じた。
悠真は、どんな場面を書いたのか尋ねなかった。約束を覚えていて、今は彩花が書き終えるのを待ってくれている。その距離感が、とてもありがたかった。
『ありがとう。まだ先は長そうだけど、ちゃんと最後まで書きたいなって思ってる。完成したら、約束どおり悠真君に最初に読んでもらいたいな』
『うん。楽しみに待ってるよ。急がなくていいから、彩花さんが納得できる形まで書いてね』
彩花はその文章を何度も読み返した。完成を楽しみにしてくれる人がいることは、嬉しい。けれど、期待に応えるためだけに急いで書こうとは思わなかった。悠真が楽しみにしているのは、早く出来上がった作品ではなく、彩花が大切に書いた物語なのだと感じられたからだ。
そのあと、二人は週末の予定について少しだけ話した。悠真の生徒会は今のところ大きな予定が入っていないが、正式には週の後半まで確認が必要だという。彩花の文芸部も、試し刷りの修正案をいつ確認するかまだ決まっていないため、川沿いの散歩の日程は引き続き保留になった。
『予定が分かったら、また相談しようね。今日みたいに寒い日は、温かい飲み物があると嬉しいかもしれないね』
彩花がそう送ると、悠真から穏やかな返事が届いた。
『そうだね。無理なく歩ける日に、ゆっくり景色を見たいな。彩花さんと話したいことも、少しずつ増えてるから』
彩花はその言葉に、少しだけ頬を熱くした。
(私も、悠真君に話したいことが増えてる。会えない日にも、こんなことを伝えたいなって思うことがあるんだよね)
彩花は胸の奥に広がる気持ちを大切にしながら、返事を打った。
『私もだよ。次に一緒に歩ける日を楽しみにしてるね』
互いに明日の学校があるため、やり取りは長く続けすぎずに終えた。最後に「おやすみなさい」と送り合ってから、彩花はスマートフォンを机へ置いた。
◇
悠真はメッセージを終えたあと、机の引き出しを開けた。中には、彩花からもらった淡い青色の花柄のカードと、紙に包んだ橙色の葉がしまってある。葉には触れず、今日はカードだけを取り出した。
そこには、彩花が丁寧に選んだ言葉が残っている。自分の好きなものを大切にしてくれてありがとう、悠真と話す時間が好きだという、まっすぐな気持ち。悠真はその文字を見つめ、今日の彩花の報告を思い返した。
表紙が初めて紙になったこと。書きかけの物語で、登場人物が自分の言葉を見つけたこと。どちらも、彩花にとって大切な出来事だったのだろう。彼女がそれを自分へ伝えてくれたことが、悠真には嬉しかった。
(俺も、彩花さんへ伝えたいことが増えている。でも、言葉にするなら、ちゃんと自分の気持ちを確かめてからにしたい)
悠真はカードを元の場所へ戻し、引き出しを閉じた。いつか、今よりもはっきりした言葉で気持ちを伝える日が来るのかもしれない。けれど、今はその日を無理に決める必要はないと思っていた。
彼女が大切にしているものを知り、自分の大切なものも少しずつ伝える。そうした時間を重ねることが、今の二人には自然だった。
悠真は机の灯りを少し落とし、明日の準備を始めた。窓の外では風が弱く、庭の木々は静かに夜の空へ枝を伸ばしていた。
◇
彩花は寝る前に、淡い緑色の葉模様の日記帳を開いた。今日の出来事を書こうとして、最初に浮かんだのは、文芸部で見た一枚の紙だった。
灰色の窓と、葉を落とした枝。画面で見ていたときとは少し違う姿になっていたが、それでも表紙に込められた冬の空気は残っていた。直した方がいいところが見つかったことも、失敗というより、完成へ近づくための大切な確認だったと思う。
『今日は冬の部誌の表紙を試し刷りした。紙になった表紙を見たとき、まだ完成していないのに、とても嬉しかった。枝の先と小さな文字に確認するところが見つかったけれど、みんなで相談しながら直していけたらいいと思う。』
彩花はそこまで書き、次の行へペンを進めた。
『新しい物語では、少女が初めて手紙の一行を書いた。ずっと迷っていたけれど、立派な言葉ではなく、今日の庭のことから始めることにした。書いてみたら、その子らしい言葉になった気がして嬉しかった。』
日記帳の上で、ペン先が少し止まった。
今日、少女が書いたのは、祖母へ向けた最初の一行だった。けれど、彩花自身にも、まだ言葉にしていない気持ちがある。悠真と過ごす時間が好きだということは伝えているが、その気持ちが今どれほど大きくなっているかまでは、まだ話していない。
彩花は机の引き出しにしまってある、まだ何も書いていないカードのことを思い出した。いつか使いたいと思って用意したものだが、今のところ、何を書くかは決めていない。書く日も、渡す日も、決まっていなかった。
(あのカードにも、いつか私の言葉を書けるのかな。今はまだ分からないけど、急がずに考えたいな)
彩花はその気持ちを胸に、日記の最後へ一文を書き足した。
『悠真君は、私が大切にしていることを、いつも丁寧に聞いてくれる。今日も、物語が少し進んだことを一緒に喜んでくれた。私も、悠真君が大切にしているものを、もっと知っていきたい。』
書き終えると、彩花は日記帳を閉じた。机の上には星模様のノートがあり、その中では少女がようやく祖母へ向けて一行を書き始めている。続きを書くのは明日でもいいし、もう少し時間をかけてもいい。
窓の外には、雲の切れ間から淡い月の光が差していた。彩花は部屋の灯りを消し、布団へ入った。今日の一枚の試し刷りも、少女の最初の一行も、まだ完成ではない。けれど、どちらも昨日とは少し違う場所まで進んでいた。
彩花はその変化を嬉しく思いながら、ゆっくり目を閉じた。明日もまた、何かを確かめ、何かを見つけられるかもしれない。その小さな期待が、静かな夜の中で温かく残っていた。




