第106話 冬の窓に残した余白と、君に聞いてほしい帰り道
水曜日の朝、彩花が目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込む光が、いつもより少し白く感じられた。昨夜のうちに雲が薄くなったらしく、窓の向こうには淡い青空が広がっている。部屋の空気は冷えていたが、布団から手を伸ばしてカーテンを開けると、遠くの屋根が朝日を受けて明るく見えた。
机の上には、昨夜閉じた星模様のノートが置かれていた。祖母へ手紙を書こうとしていた少女が、ようやく最初の一行を書いた物語だ。彩花は制服へ着替える前に、その表紙へそっと手を置いた。
(昨日は、やっと書けたんだよね。でも、あの子にとっては、ここからが本当の手紙なのかもしれない)
最初の一行を書いたあと、少女はどんな気持ちで便箋を見つめるのだろう。書き出す前にはあれほど遠く感じられた祖母が、たった一行の言葉によって、少し近くにいるように思えるかもしれない。
けれど、そこから先を急いで書くつもりはなかった。彩花自身、まだ少女の次の言葉を決められていない。昨日は一行を書けたことが嬉しくて、その先まで考える余裕がなかったのだ。
彩花はノートを開かず、学校へ行く準備を始めた。今日は文芸部で表紙の試し刷りについて、何か新しい話があるかもしれない。昨日見た一枚の紙を思い浮かべると、胸の奥に小さな期待が生まれた。
階下へ降りると、台所から味噌汁の香りが漂ってきた。紗月が朝食を並べており、耕助は食卓で新聞を読んでいる。凛花は先に席へ着き、湯気の立つお茶を両手で包むように持っていた。
「おはよう、彩花。今日は少し冷えるわよ。帰りが遅くなるなら、上着を忘れないでね」
紗月の声に、彩花は頷いた。
「おはよう、お母さん。今日は文芸部があるから、少し遅くなるかもしれない。上着は持っていくね」
「昨日、表紙を印刷したって言ってたわよね。今日はその続きなの?」
「まだ分からないけど、気になったところをどうするか、担当の人が考えてくれることになってるの。私たちも、何か手伝えることがあればいいなって思ってる」
彩花が椅子へ座ると、凛花が箸を置き、少し興味深そうに顔を向けた。
「印刷してから直すところが見つかったって、ちょっと大変そう。でも、最初から全部やり直しってわけじゃないんでしょう?」
「うん。今の表紙の雰囲気はみんな好きだから、見えにくかったところを中心に考えるみたい。作った人が大切にしてる部分は、できるだけ残したいんだ」
凛花はその説明を聞き、納得したように頷いた。
「それなら、直すところを増やしすぎない方がよさそうだね。気になるところを探し始めると、最初は好きだったものまで変えたくなることってあるし」
その言葉に、彩花は少し驚いた。姉は文芸部の活動を詳しく知っているわけではないが、昨日から自分が考えていたことに近い意見だったからだ。
「私も、そう思う。昨日、表紙担当の人と話して、全部を直す必要はないんだなって感じたの」
「じゃあ、その気持ちを忘れなければ大丈夫なんじゃない? 彩花が作った表紙じゃなくても、一緒に大切にしてくれる人がいるって、作った側は嬉しいと思うよ」
凛花はそう言って、温かいお茶を一口飲んだ。彩花は姉の言葉を胸に留めながら、朝食へ手を伸ばした。
食卓の窓から見える庭には、冷たい朝の光が差している。葉を落とした枝の間から空が見え、その景色が昨日の試し刷りと重なった。彩花は、今日も何か新しいことに気づけるかもしれないと思いながら、家族と朝の時間を過ごした。
◇
青葉高校へ向かう道では、冷たい風がときおり制服の裾を揺らした。空は晴れているものの、日陰に入ると空気がひんやりとしている。彩花は鞄の持ち手を握り直し、少しだけ歩く速度を上げた。
校門をくぐると、登校してきた生徒たちが昇降口へ向かっていた。友人と話しながら歩く生徒もいれば、手袋を外しながら急いで靴を履き替える生徒もいる。彩花はその流れに混ざり、教室へ向かった。
教室に入ると、大地が窓際で友人と話していた。彩花の姿に気づくと、軽く手を上げて挨拶してくれた。
「水瀬、おはよう。今日は昨日より寒くないか?」
「おはよう、田辺君。うん、朝は少し冷えるね。でも、空が晴れてるから気持ちいいよ」
「確かに天気はいいな。うちの妹なんか、朝から『冬になったら雪が降るかな』って言ってたよ。まだ早いだろって返したら、すごく残念そうな顔された」
大地は苦笑しながら話した。彩花はその様子を想像し、思わず微笑んだ。
「妹さん、雪が好きなんだね」
「好きみたいだな。去年も少し降っただけで、窓からずっと外を見てたし。寒いのは嫌いなくせに、雪が降ると外へ出たがるんだよ」
「ふふ、楽しそう。雪って、いつもの景色が違って見えるから、わくわくするのかもしれないね」
大地はその言葉に頷き、少しだけ考えるような顔をした。
「そうかもな。俺は雪が降ると道が滑りそうだとか、電車が遅れそうだとか、そっちを先に考えちゃうけど」
「それも大事だと思うよ。妹さんが楽しみにしていることと、田辺君が心配することは、どっちも間違ってないんじゃないかな」
彩花が答えると、大地は少し笑った。
「水瀬にそう言われると、なんか納得するな。まあ、実際に降ったら、一緒に雪だるまくらい作ってやろうかな」
大地はそう言って自分の席へ戻った。彩花も鞄を机の横へ掛け、授業の準備を始めた。
窓の外に見える木々の枝は、朝日を受けて細い影を落としている。昨日の試し刷りで、表紙担当の部員が残したかった余白も、こんな景色を見て生まれたのだろうか。彩花はそんなことを考えたが、本人へ聞いていない以上、勝手に決めつけることはしなかった。
自分が感じたものと、作った人が込めたものは、必ずしも同じではない。けれど、その違いを話し合えることも、誰かと作品を作る楽しさなのかもしれなかった。
◇
午前中の授業が終わり、昼休みになると、彩花は弁当を広げながら文芸部の連絡を確認した。佐々木先輩から、今日は通常どおり集まり、昨日の確認結果を整理する予定だというメッセージが届いていた。表紙担当の部員が修正案を考えているが、まだ完成していないため、今日は印刷を行わないらしい。
彩花は内容を読み、少し安心した。昨日、試し刷りをしたばかりなのだから、すぐに修正して再印刷する必要はない。表紙担当の部員にも、考える時間が必要だろう。
昼食を終えたあと、彩花はノートを取り出し、午前中の授業で書いた内容を見直した。すると、隣の席の生徒が、机の上のノートへ目を向けた。
「水瀬さんって、いつもノートが見やすいよね。大事なところが分かりやすくて、ちょっと羨ましい」
彩花は少し驚き、顔を上げた。
「ありがとう。でも、私も最初からこうだったわけじゃないよ。前は、先生が言ったことを全部書こうとして、あとで読みにくくなっちゃうこともあったの」
「そうなんだ。今はどうやってまとめてるの?」
「授業中は大事そうなところを先に書いて、あとで少し整理するようにしてるよ。全部を同じ大きさで書くと、どこを見ればいいか分からなくなるから」
彩花が説明すると、相手は興味深そうに頷いた。
「なるほど。私、先生の言葉を聞き逃したくなくて、全部書こうとしちゃうんだよね。それで、あとから見ると文字ばっかりになってる」
「私も同じだったよ。だから、まずは自分が後で分かるようにすることを考えたの。もしよかったら、授業が終わったあとに一緒に整理してみる?」
「いいの? ありがとう。次の国語の授業のあと、少しだけお願いしてもいいかな」
「うん。私も復習になるから、一緒にやろう」
彩花は微笑み、ノートを閉じた。
以前の自分なら、誰かに教えることを頼まれると、ちゃんとできるだろうかと不安になっていたかもしれない。今も緊張がなくなったわけではないが、相手と一緒に考えればいいと思えるようになっていた。
文芸部で先輩や部員たちと話し合う時間が増えたことも、その変化につながっているのだろう。自分一人で正解を出す必要はなく、分からないことを確かめながら進めてもいい。彩花はその感覚を、少しずつ日常の中でも持てるようになっていた。
◇
同じ頃、桜華学園高等部では、悠真が昼休みに航平と食堂へ向かっていた。廊下には生徒たちの声が響き、窓から差し込む光が床を明るく照らしている。二人は午前中の授業について話しながら階段を下り、食堂の入り口で少しだけ列に並んだ。
「悠真、今日の午後って生徒会の仕事あるんだっけ?」
航平が尋ねると、悠真は手帳の予定を思い出しながら答えた。
「放課後に、先生へ確認する資料が一つあるよ。でも、長くかかるものではないと思う。ほかの作業は昨日のうちに整理できたからね」
「それなら、今日は早めに帰れそうだな。最近は日が落ちるのも早くなってきたし、暗くなる前に帰れると助かるよ」
航平はそう言い、窓の外へ目を向けた。悠真も頷いた。
「そうだね。冬が近づくと、同じ時間でも夕方の感じ方が変わるよね」
「お、なんか詩人みたいなこと言うじゃん。もしかして、水瀬さんの影響?」
航平は少しだけからかうように笑ったが、悠真は落ち着いた表情のまま答えた。
「影響はあるかもしれないね。彩花さんと話していると、今まで気にしていなかった景色にも目が向くことがあるから」
その返事に、航平は一瞬だけ目を丸くした。
「……お前、そういうことを普通に言えるの、すごいよな」
「そうかな。自分では、思ったことを話しているだけなんだけど」
「だからだよ。俺だったら、ちょっと照れて言えないと思う」
航平は笑いながら肩をすくめた。悠真は友人の反応を見て、少しだけ困ったように微笑んだ。
食事を受け取り、窓際の席へ座ると、航平は話題を変えた。今週末の予定について、先生からまだ新しい連絡がないことを確認し、もし急な作業が入った場合は互いに知らせ合おうという話になった。
悠真はその提案に頷いた。
「ありがとう。俺も、何か分かったら早めに連絡するよ。予定が曖昧なままだと、ほかの人にも迷惑をかけるかもしれないから」
「まあ、そこまで気負わなくてもいいと思うけどな。今のところ大きな予定はないんだし、週末は少し休むことも考えとけよ」
航平はそう言って笑った。悠真も穏やかに頷き、食事へ手を伸ばした。
彩花との川沿いの散歩は、まだ日程が決まっていない。けれど、今週末に予定が合えば、少しだけ歩けるかもしれない。もちろん、文芸部の活動や天候によっては、さらに先になる可能性もある。
悠真はそのどちらでも構わないと思っていた。大切なのは、彩花が無理なく楽しめることだ。寒さが厳しい日なら、川沿いにこだわらず、別の場所で過ごすことも考えられるだろう。
ただ、そのことを今すぐ提案するつもりはなかった。彩花がどんな景色を見たいのか、何を楽しみにしているのか、次に話すときに聞いてみたいと思った。
◇
放課後、彩花が文芸部の活動場所へ向かうと、机の上には昨日の試し刷りが保護用の袋に入れられて置かれていた。表紙担当の部員は、その隣に元のデータを印刷した確認用紙と、小さなメモを並べている。佐々木先輩はほかの部員と資料を整理しながら、彩花へ挨拶した。
「水瀬さん、お疲れさま。今日は昨日の確認結果を整理するよ。表紙担当の人が、少し考えてきてくれたみたい」
「お疲れさまです。分かりました。私も、何かできることがあれば手伝います」
彩花は鞄を置き、机の近くへ向かった。
表紙担当の部員は、昨日より少し落ち着いた表情をしていた。手元のメモには、枝先の線と下部の文字について、それぞれ考えたことが書かれている。
「昨日、家でも少し考えてみたんですけど、枝の先は全部を濃くするんじゃなくて、特に見えにくかった部分だけを少し調整するのがいいかなって思いました」
部員はそう言いながら、確認用紙の一部を指さした。そこには、窓の外へ伸びる細い枝が描かれている。
「ここだけ、印刷すると背景とほとんど同じくらいの濃さになってたんです。でも、ほかの枝はちゃんと見えていたから、全部を変える必要はないと思って」
佐々木先輩は頷き、試し刷りと確認用紙を見比べた。
「確かに、昨日もそこが一番気になったよね。線を少し調整するだけなら、全体の雰囲気も変わりにくいかもしれない」
彩花も紙を見つめた。昨日、表紙担当の部員が大切にしていると話してくれた余白は、枝の周囲に残されている。そこを埋めるのではなく、必要な線だけを少し見えやすくする。そうすれば、最初の意図を保ちながら、印刷上の問題へ対応できるかもしれない。
「私も、その方法がいいと思います。昨日、少し離れて見たときに見えにくかったのは、枝の先の一部だけでしたし。余白の広さは、今のまま残っていた方が好きです」
彩花がそう伝えると、表紙担当の部員はほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう。私も、そこは変えたくないんだ。冬の空って、何も描いていないところにも広さがある気がするから」
その言葉に、彩花は静かに頷いた。
表紙担当の部員が以前話してくれた、冬は何もなくなる季節ではなく、見えるものが変わる季節だという考え。その気持ちが、今の表紙にもつながっているのだろう。
彩花は改めて試し刷りを眺めた。窓枠の向こうに広がる空白は、何もない場所ではなく、冬の空気を感じさせるために残された場所だった。
続いて、下部の文字について話し合った。
小さな文字は、灰色の背景と近い色で印刷されていたため、少し離れると読みにくかった。表紙担当の部員は、文字そのものの大きさを変える方法と、色の濃さを調整する方法の両方を考えてきたらしい。
「文字を大きくすると、下の余白が少し狭くなるんです。だから、まずは色を少し濃くする方法を試してみたいと思ってます」
部員の説明を聞き、佐々木先輩は確認表へ内容を書き込んだ。
「なるほど。文字の位置や大きさは変えずに、読みやすさを調整するんだね。それなら、全体のバランスも保ちやすいかもしれない」
彩花はその言葉に頷いた。
「文字は読めることが大切ですし、色だけで改善できるなら、その方がいいかもしれませんね。でも、実際に印刷してみないと、どのくらい変わるかは分からないですよね」
「うん。だから、先生にも相談して、次に試すときはその二つを中心に確認したいと思ってる」
表紙担当の部員はそう答えた。
その後、部員たちは昨日の試し刷りと今日の修正案を照らし合わせながら、確認事項を整理した。誰かが新しい問題を探そうとして話を広げることはなく、まずは昨日見つかった二つの点をどう扱うかに集中した。
彩花はその進め方に安心した。気になることを挙げれば、いくらでも増やせるかもしれない。けれど、すべてを一度に直そうとすれば、かえって何を大切にしたかったのか分からなくなってしまう。
今の部誌には、すでに多くの人の時間と考えが重なっている。だからこそ、変更する部分を慎重に選ぶ必要があるのだと思った。
◇
活動の途中、顧問の先生が教室へ入ってきた。佐々木先輩は確認表を持って先生のところへ向かい、表紙担当の部員も一緒に説明を始めた。
先生は二人の話を聞きながら、試し刷りをじっくり見つめた。枝先の線と下部の文字について、どの部分をどう調整したいのか確認し、いくつか質問をした。
「枝の方は、全体の濃さを変えるわけではないんですね?」
「はい。昨日の印刷で特に見えにくかった部分だけを調整したいと思っています。余白の雰囲気は残したいので」
「分かりました。文字の方は、位置や大きさはそのままで、色を少し変える案ですね」
「はい。ただ、どのくらい濃くするかは、まだ決めていません」
先生は頷き、確認表へ目を落とした。
「それなら、まずは修正案をデータ上で作ってみましょう。ただし、元のデータは必ず残しておいてください。次に印刷できる時間は、印刷室の担当の方と改めて相談します」
その言葉に、表紙担当の部員は少し安心したように息をついた。
「ありがとうございます。元のデータは別に保存して、修正案を作ります」
「急いで仕上げなくても大丈夫ですよ。今の段階では、きちんと確認できる形にすることが大切ですから」
先生はそう言い、ほかの部員たちへも声をかけた。
「本文の方は、これまで確認した内容を維持してください。表紙の修正が終わるまでに、必要以上の変更を加えると、別の確認が増えてしまいます。気になることがあれば、まず相談してくださいね」
部員たちは頷き、作業へ戻った。
彩花は先生の言葉を聞きながら、今の状態を頭の中で整理した。表紙の修正案は、これから作られる。再び印刷できる日も、まだ決まっていない。本文のページ順や名前の表記は確認済みであり、今はその状態を維持することが大切だ。
何もかもが一度に進むわけではないが、次にするべきことは少しずつ明確になっている。彩花はその積み重ねが、部誌の完成へつながっていくのだと感じた。
◇
活動が終わりに近づいた頃、彩花は表紙担当の部員と一緒に資料を片づけていた。試し刷りを保護用の袋へ戻し、確認表を佐々木先輩へ渡すと、机の上には元の資料だけが残った。
表紙担当の部員は、紙の端をそろえながら小さく笑った。
「昨日は、印刷したものを見たとき、ちょっと焦っちゃったんです。思ってた色と違うところがあって、どうしようって」
彩花は手を止め、相手の顔を見た。
「そうだったんですね。私は、紙になったのが嬉しくて、最初はそこまで考えられませんでした。でも、作った人にとっては、気になるところも多かったですよね」
「うん。自分で何度も見てたから、余計に気になったのかもしれない。でも、みんなが『ここは残したい』って言ってくれたから、少し落ち着いて考えられた気がします」
部員はそう言って、試し刷りの入った袋へ目を向けた。
「全部が失敗したわけじゃないんだって思えたんです。直すところが見つかっただけで、好きだったところまでなくなったわけじゃないんですよね」
彩花はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。
「はい。私も、昨日の表紙が好きでした。だから、次に印刷したときも、その雰囲気が残っていたら嬉しいです」
「ありがとう。そう言ってもらえると、頑張れそうです」
部員は微笑み、最後の資料を鞄へしまった。
彩花はその表情を見ながら、誰かの作品に関わることの責任を改めて感じた。自分の意見が、相手の判断へ影響することもある。だからこそ、ただ思ったことを口にするだけではなく、相手が何を大切にしているのかを知ろうとする姿勢が必要なのだろう。
教室を出る頃には、窓の外が夕方の色へ変わり始めていた。校庭では運動部の生徒たちが片づけを進めており、遠くから掛け声が聞こえてくる。彩花は上着を羽織り、鞄を肩へ掛けた。
佐々木先輩が廊下まで見送りに来て、声をかけた。
「水瀬さん、今日もありがとう。明日以降、修正案ができたらまた確認することになると思うけど、無理のない範囲で参加してね」
「はい。予定が合えば、ぜひ参加したいです」
「うん。それと、今日は表紙担当の人が少し安心したみたいでよかった。水瀬さんが昨日から丁寧に話を聞いてくれてたのも、大きかったと思うよ」
彩花は少し照れながら首を振った。
「私は、表紙が好きだって伝えただけです。でも、少しでも役に立てたなら嬉しいです」
「そういう気持ちが伝わることもあるんだよ。じゃあ、気をつけて帰ってね」
先輩の言葉に頷き、彩花は校舎をあとにした。
◇
帰り道では、朝よりも風が弱くなっていた。空には薄い雲が広がっていたが、西の方にはまだ明るさが残っている。彩花は歩きながら、今日の文芸部で交わした会話を思い返した。
表紙担当の部員が、昨日の試し刷りを見て焦っていたこと。
それでも、みんなと話すことで、どこを直し、どこを残すか考えられるようになったこと。
彩花は、自分が小説を書いているときの気持ちと重ねていた。
文章を書いていると、思っていたように進まないことがある。書き直した方がいいのか、今のまま残した方がいいのか、分からなくなることもある。そんなとき、誰かに話を聞いてもらうだけで、少し違う角度から考えられることがあるのかもしれない。
けれど、今書いている物語については、まだ悠真に読んでもらうつもりはなかった。完成したら最初に読んでもらうという約束を、彩花自身も大切にしているからだ。
(悠真君には、完成したときに読んでほしい。でも、書いている途中で感じたことを話すのは、きっと別のことなんだよね)
彩花はその違いを考えながら、歩道の端に落ちた葉を見つめた。乾いた葉は風に押され、舗装された道の上を小さく転がっている。
以前、悠真と川沿いを歩いたときに見つけた橙色の葉のことが、ふと頭に浮かんだ。あの日の景色は、今も彩花の中に残っている。葉を拾ったときのことや、川の流れる音、悠真と交わした会話を思い出すと、自然と頬が緩んだ。
ただ、悠真がその葉を大切に保管し、栞にする方法を考えていることまでは、彩花は知らない。
彩花にとっては、あの日の思い出そのものが大切だった。
また一緒に歩ける日が来たら、今度はどんな景色が見えるだろう。冬へ近づく川沿いでは、以前よりも葉が少なくなっているかもしれない。修理されたベンチに座って、温かい飲み物を飲みながら話す時間も楽しそうだ。
彩花はその想像を胸に、家へ向かう道を歩き続けた。
◇
帰宅すると、紗月が台所で夕食の準備をしていた。彩花は手を洗い、上着を掛けてから、母のところへ顔を出した。
「ただいま、お母さん」
「おかえり、彩花。今日は少し遅かったわね。文芸部、何か進んだの?」
「うん。昨日の試し刷りで気になったところを、どう直すか相談したの。まだ修正はしてないんだけど、次に何をするか少し決まったよ」
紗月は手を止め、娘の顔を見た。
「そう。みんなで話し合って決められたなら、よかったわね。彩花も何か意見を言ったの?」
「うん。表紙の余白が好きだから、できれば残したいって伝えたの。作った人も同じように考えてたみたいで、少し安心してくれたみたい」
彩花がそう話すと、紗月は穏やかに微笑んだ。
「それは嬉しかったでしょうね。自分が大切にしているところを、誰かがちゃんと見てくれているって分かると、安心するものだから」
その言葉に、彩花は静かに頷いた。
「うん。私も、自分の小説を読んでもらうとき、そういうふうに感じるのかなって思ったよ」
「きっとそうね。でも、読んだ人がみんな同じところを好きになるとは限らないでしょう? 違うところを見つけてもらえるのも、作品を誰かに渡す楽しさかもしれないわ」
彩花は母の言葉を聞き、少し考えた。
自分が大切に書いた部分を、読者が同じように受け取るとは限らない。けれど、そこから新しい感じ方が生まれることもある。文芸部で表紙について話し合う時間は、そのことを教えてくれているようだった。
「そうだね。私も、誰かが読んだときに何を感じるのか、聞いてみたいな」
彩花が答えると、紗月は微笑んだ。
「それなら、今書いているお話も、完成したら楽しみね。もちろん、急いで仕上げなくてもいいのよ」
「うん。ちゃんと最後まで書けるように、少しずつ進めるね」
彩花はそう答え、夕食の準備を手伝い始めた。
◇
夕食までの時間、彩花は自室で星模様のノートを開いた。昨日、少女が祖母へ向けて書いた最初の一行が、ページの中央に残っている。
『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』
彩花はその文章を読み返し、しばらくペンを動かさなかった。
この一行を書いたあと、少女は何を感じるのだろう。嬉しい気持ちだけではないかもしれない。祖母がそばにいないことを、改めて寂しく思うこともあるだろう。
けれど、その寂しさがあるからこそ、手紙を書こうとしているのだ。
彩花は少女の気持ちを考えながら、続きを書き始めた。
『少女は、便箋に書いた一行を何度も読み返した。たった一行なのに、白かった紙の上に自分の言葉が残っていることが不思議だった。祖母がこの文字を読むところを想像すると、胸の奥が少し温かくなる。』
『けれど、その温かさのすぐ隣には、寂しさもあった。祖母が目の前にいれば、花の蕾を一緒に見に行けたはずだった。どのくらい大きくなったのか、何色の花が咲きそうなのか、庭へ出て話せたはずだった。』
『少女は窓の外へ目を向けた。花の蕾は、昨日と同じ場所にある。祖母がいなくなっても、庭の季節は少しずつ進んでいる。』
彩花はそこでペンを止め、文章を読み返した。
少女は、祖母がいない寂しさを消そうとしているわけではない。寂しいままでも、伝えたいことがある。その気持ちを、もう少し丁寧に描きたいと思った。
彩花はノートの端へ、小さくメモを書いた。
『寂しさがなくなるのではなく、寂しさと一緒に言葉を届ける。』
書き終えたあと、彩花は少しだけ肩の力を抜いた。
今の段階では、これ以上続きを書く必要はないかもしれない。少女が次にどんな言葉を書くのか、もう少し考えてから進めたい。無理に文章を増やすより、今書いた部分が自然につながっているか、時間を置いて読み返した方がよさそうだった。
彩花はノートを閉じ、机の上へ置いた。
窓の外では、夕方の光が少しずつ薄くなっている。遠くの家々には灯りがともり始め、道を歩く人の影が長く伸びていた。
彩花はその景色を眺めながら、今日の文芸部で感じたことを思い返した。表紙の余白を残すことと、物語の中で言葉を選ぶこと。違う作業ではあるが、どちらも何を大切にしたいのかを考える時間が必要なのだろう。
◇
九条家では、悠真が夕食後に書斎で手帳を開いていた。今週の生徒会の予定を確認し、先生から新しい連絡がないことを確かめてから、週末の欄へ目を向けた。
今のところ、大きな予定は入っていない。
けれど、彩花の文芸部の活動がどうなるかは、まだ分からない。悠真は手帳を閉じ、机の上に置いたスマートフォンへ目を向けた。
彩花から、今日は何か連絡が来るだろうか。
そう考えたところで、扉の外から控えめなノックが聞こえた。悠真が返事をすると、琴葉が顔をのぞかせた。
「お兄様、少しだけいいですか?」
「もちろん。どうしたの?」
琴葉は部屋へ入り、机の上の手帳を見てから、兄の顔へ目を向けた。
「今週末、何か予定があるのかなと思って。お父様が、日曜日の午後に少しだけお話ししたいことがあるそうなんです」
悠真はその言葉に、少しだけ姿勢を正した。
「父さんが? 何か聞いてる?」
「詳しいことは聞いていません。ただ、急ぎの用事ではないから、都合が悪ければ別の日でもいいって言っていました」
琴葉の説明に、悠真は頷いた。
「分かった。明日、父さんに直接確認してみるよ。日曜日の午後なら、今のところ大きな予定はないと思うけど、時間も含めて聞いておきたいから」
「はい。お伝えしておきますね」
琴葉はそう答え、少しだけ笑った。
「それと、お兄様。練習用の葉は、今日は開かない方がいいですよね?」
「うん。昨日確認したばかりだから、少し時間を置こうと思ってる。何度も触ると、傷んでしまうかもしれないし」
「分かりました。私も気になってたんですけど、我慢します」
琴葉はそう言って笑い、部屋をあとにした。
悠真は扉が閉まるのを見届けてから、手帳へ小さくメモを書き加えた。日曜日の午後に父と話す可能性があること。ただし、時間も内容もまだ確認していないため、予定として確定させることはしなかった。
彩花との散歩についても、同じだった。
今週末に歩けたら嬉しいが、互いの予定を確かめてから決めればいい。悠真は手帳を閉じ、机の端へ置いた。
◇
夜、彩花は悠真へメッセージを送った。
『悠真君、こんばんは。今日は文芸部で、昨日の試し刷りについて少し相談したよ』
しばらくして、悠真から返事が届いた。
『こんばんは、彩花さん。昨日の表紙のことだね。何か新しいことが分かったの?』
彩花は今日の活動を思い返しながら、丁寧に文字を打った。
『うん。枝の先の見えにくいところと、下の小さな文字をどうするか考えたの。まだ修正はしてないけど、表紙の雰囲気を残しながら調整する方向になったよ』
悠真からの返事は、すぐに届いた。
『それはよかったね。作った人が大切にしているところを残せそうなんだね』
彩花はその言葉に微笑んだ。
『うん。表紙担当の人も、昨日は少し焦ってたみたい。でも、みんなで話して、直すところと残したいところを整理できたって言ってたよ』
『そうだったんだ。自分が作ったものだからこそ、気になるところも多かったのかもしれないね。彩花さんたちが一緒に考えてくれて、安心できたんじゃないかな』
彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
悠真は、表紙担当の部員の気持ちを自然に考えてくれる。彩花が今日感じたことを、詳しく説明しなくても受け止めてくれるようだった。
『そうだと嬉しいな。私も、誰かの作品を大切にするって、どういうことなのか少し考えたよ』
『彩花さんがそうやって考えていること自体が、きっと大切なんだと思う。俺も、話を聞いていて勉強になるよ』
彩花は少し照れくさくなり、スマートフォンを持つ手に力が入った。
悠真と話していると、自分が学校で感じたことを、もう一度ゆっくり考えられる。彼は答えを急がず、彩花が何を大切にしたいのかを聞いてくれる。その時間が、彩花には心地よかった。
しばらくして、悠真から別の話題が届いた。
『そういえば、週末の予定について少しだけ確認したいことができたんだ。日曜日の午後に父と話す可能性があるんだけど、まだ時間は決まっていないんだ』
彩花はその文章を読み、すぐに返事を打った。
『そうなんだね。大事なお話かもしれないし、ちゃんと確認してからで大丈夫だよ。私も、文芸部の予定がまだ分からないから』
『ありがとう。明日、父に確認してみるよ。彩花さんも、部誌の準備を優先してね』
彩花はその言葉に、少しだけ考えた。
悠真はいつも、自分の予定を大切にしてくれる。けれど、彩花も悠真の時間を大切にしたい。彼が家族と話す時間も、生徒会の仕事も、無理に削ってほしいとは思わなかった。
『うん。でも、悠真君も無理しないでね。お父さんとのお話も大切だと思うし、散歩は二人の予定が合う日にしよう』
送信すると、少しして返事が届いた。
『そうだね。ありがとう、彩花さん。俺も、二人とも安心して出かけられる日にしたいと思ってる』
彩花はその文章を読み、静かに微笑んだ。
川沿いの散歩は、まだ日程が決まっていない。けれど、約束がなくなったわけではない。むしろ、互いの時間を大切にしながら、楽しみにできることが嬉しかった。
そのあと、二人は今日の学校での出来事を少しだけ話した。彩花は授業のノートを友人と一緒に整理する約束をしたことを伝え、悠真は生徒会の資料確認が少し落ち着いてきたことを話した。
特別な出来事ばかりではない。
けれど、そんな何気ない話を交わせることが、彩花には大切だった。
◇
メッセージを終えたあと、悠真はしばらくスマートフォンを見つめていた。
彩花が文芸部で感じたことを、今日も自分へ伝えてくれた。表紙の試し刷りについて、彼女は完成したかどうかだけではなく、作った人の気持ちや、みんなで考えた時間を大切にしている。
悠真はその姿勢を、以前から素敵だと思っていた。
(彩花さんは、自分の好きなものだけじゃなくて、誰かが大切にしているものも、ちゃんと見ようとするんだな)
彼女と初めて中央図書館で出会ったときから、本を大切にする姿勢は変わっていない。けれど最近は、その気持ちが少しずつ周囲の人たちへも広がっているように感じられた。
悠真は机の引き出しへ目を向けた。
中には、彩花からもらった淡い青色の花柄のカードがしまってある。今日は取り出さなかったが、その存在を思い浮かべるだけで、胸の奥が温かくなった。
彩花が自分へ向けて選んでくれた言葉。
その言葉を受け取ったときの嬉しさは、今も変わらない。
悠真は静かに息をつき、明日の準備を始めた。
日曜日の予定については、父へ確認する必要がある。生徒会の仕事も、まだ完全に終わったわけではない。彩花との散歩を楽しみにする気持ちはあるが、そのためにほかの大切なことを疎かにしたくはなかった。
彩花も、きっと同じように考えてくれている。
そう思えることが、悠真には嬉しかった。
◇
彩花は寝る前に、淡い緑色の葉模様の日記帳を開いた。
今日の出来事を思い返すと、文芸部で表紙担当の部員が話してくれた言葉が浮かんできた。
全部が失敗したわけではない。
直すところが見つかっただけで、好きだったところまでなくなったわけではない。
彩花はその言葉を、自分の中で何度も確かめた。
小説を書いていると、うまく進まない日もある。書いた文章を読み返して、思っていたものと違うと感じることもある。けれど、そのたびにすべてを否定する必要はないのだろう。
彩花は日記帳へ、今日感じたことを書き始めた。
『今日は文芸部で、表紙の修正について話し合った。昨日の試し刷りで見つかったところを、どう直すか考えた。表紙担当の人が、好きだったところまでなくなったわけじゃないと言っていて、私もその言葉が心に残った。』
彩花は一度ペンを止め、机の上の星模様のノートへ目を向けた。
今日、少女の物語も少し進んだ。最初の一行を書いたあと、祖母がそばにいない寂しさを改めて感じる場面だ。
彩花はそのことを、日記へ続けて書いた。
『新しい物語では、少女が手紙を書き始めたあとも、寂しさが残っていることを書いた。言葉を書けたからといって、すべてが解決するわけじゃない。でも、寂しい気持ちがあるからこそ、伝えたいこともあるんだと思う。』
書き終えると、彩花は少しだけ息をついた。
物語の少女が祖母へ手紙を書くことと、自分が悠真へ気持ちを伝えることは、同じではない。けれど、言葉を選ぶ難しさや、大切な相手へ何かを伝えたいと思う気持ちには、どこか通じるものがあるように感じられた。
彩花は引き出しにしまってある、まだ何も書いていないカードのことを思い出した。
いつか、あのカードに自分の言葉を書く日が来るのだろうか。
今はまだ分からない。
けれど、悠真と話す時間を重ねるたびに、伝えたいことが少しずつ増えているのは確かだった。
彩花は日記の最後へ、短い文章を書き足した。
『悠真君と、また川沿いを歩ける日が楽しみ。まだ日程は決まっていないけれど、二人で無理なく出かけられる日を選びたい。今日も、私の話を丁寧に聞いてくれて嬉しかった。』
日記帳を閉じると、彩花は机の上を整え、明日の教科書を鞄へ入れた。
窓の外では、冬へ向かう青凪市の夜が静かに広がっている。遠くの街灯が道を照らし、風に揺れる枝の影が窓ガラスへ淡く映っていた。
彩花はその景色を眺めながら、今日一日を思い返した。
表紙の余白を残すために、必要なところだけを直すこと。
物語の少女が、寂しさを抱えたまま次の言葉を探していること。
そして、悠真と互いの時間を大切にしながら、次に会える日を楽しみにしていること。
どれも、急いで答えを出す必要はない。
けれど、何も進んでいないわけでもなかった。
彩花は部屋の灯りを消し、布団へ入った。今日も少しずつ、何かが前へ進んでいる。その感覚を胸に、ゆっくり目を閉じた。
明日もまた、自分の言葉で、誰かと向き合っていけたらいい。
そう思えることが、今の彩花には嬉しかった。




