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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第107話 まだ白い予定表と、君に会うための小さな相談


 木曜日の朝、青凪市には薄い雲が広がっていた。雨が降りそうなほど空は暗くないものの、日差しは雲の向こうに隠れており、住宅街を通り抜ける風には冬の気配が混じっている。水瀬彩花は玄関先で上着の襟を整えながら、母の紗月が差し出してくれた小さな折り畳み傘を受け取った。


「天気予報では、夕方に少しだけ雨が降るかもしれないんですって。降らない可能性もあるみたいだけど、持っていった方が安心でしょう?」


「ありがとう、お母さん。今日は文芸部の活動があるから、帰る頃には空が暗くなってるかもしれないし、鞄に入れておくね」


 彩花が傘をしまうと、紗月は安心したように頷いた。台所からは朝食の片づけをする音が聞こえ、居間では父の耕助が出勤前の書類を確認している。姉の凛花は少し前に家を出たため、玄関には彩花と母だけがいた。


「それから、昨日話していた部誌のことだけど、無理に全部を引き受けないようにね。彩花は頼まれると頑張りすぎるところがあるから」


 紗月の声は穏やかだったが、娘を気遣う気持ちが含まれていた。彩花は靴を履きながら顔を上げ、少し考えてから答えた。


「うん。今は表紙担当の人が修正案を考えてくれているところだから、私が全部やるわけじゃないよ。みんなで確認することになったら、そのときにできることを手伝うつもり」


「それならいいわ。誰かと一緒に作るものだからこそ、自分の役割と相手の役割を大切にしてね」


 彩花は頷き、玄関の扉を開けた。冷たい空気が頬に触れたが、思っていたほど風は強くない。振り返って母へ挨拶すると、紗月はいつものように微笑んで送り出してくれた。


 家を離れて歩き始めると、彩花は鞄の中に入れた小さな傘の重みを意識した。使わずに帰れるかもしれないが、必要になったときには役に立つ。予定が決まっていないから何も準備しないのではなく、分かっている範囲で備えておくことも大切なのだろう。


(週末のことも、少し似ているのかな。悠真君のお父さんとのお話が何時になるか分からないし、私の文芸部もまだ予定が決まっていない。でも、二人とも楽しみにしていることは変わらないんだよね)


 川沿いの散歩を強風で見送ってから、数日が過ぎていた。残念だった気持ちは少しだけあったものの、あの日に無理をしなかったことを後悔してはいない。次に出かけるときは、寒さや風を気にしすぎず、悠真と景色を楽しめる時間にしたかった。


 彩花は交差点の信号が青になるのを待ち、通学路を進んだ。道路脇の街路樹は葉をほとんど落としており、枝の向こうに見える建物の輪郭が、以前よりもはっきりしている。冬へ向かう街は少し寂しく見えることもあるが、昨日の文芸部で聞いた表紙担当の部員の言葉を思い出すと、その景色にも違う魅力があるように感じられた。


     ◇


 青葉高校の教室では、朝の準備をする生徒たちの声が重なっていた。彩花が自分の席へ向かうと、昨日ノートのまとめ方について話した女子生徒が、少し緊張した様子で声をかけてきた。


「水瀬さん、おはよう。昨日お願いしたノートのことなんだけど、今日の国語の授業が終わったあと、少し時間あるかな?」


「おはよう。うん、大丈夫だよ。次の授業まで少し時間があるし、そのときに一緒に見てみようか」


 彩花が答えると、相手はほっとしたように笑った。手に持っていたノートを胸元へ引き寄せながら、少し照れくさそうに続ける。


「ありがとう。昨日、家でも少し整理してみたんだけど、やっぱりどこを残せばいいのか迷っちゃって。水瀬さんのやり方を、そのまま真似した方がいいのかなって思ったんだ」


 彩花はその言葉を聞き、すぐに頷くことはしなかった。自分のノートは自分にとって読みやすいように作っているが、相手にも同じ方法が合うとは限らない。授業の内容を理解するために必要なことは、人によって少しずつ違うはずだった。


「私のやり方も参考にはなると思うけど、全部同じにしなくてもいいと思うよ。あとで見返したときに、自分が分かりやすいことが一番大切だから」


「そっか。私、きれいにまとめなきゃって思ってたけど、見やすいことと同じじゃないんだね」


「うん。私も前はそう思ってたの。でも、書くことに集中しすぎて先生の説明を聞き逃しちゃったら、もったいないなって気づいて」


 相手は納得したように頷き、授業が終わったら声をかけると約束して自分の席へ戻った。彩花も鞄を置き、教科書を机へ出した。


 誰かに自分のやり方を伝えることは、思っていたより難しい。自分にとって当たり前になっていることほど、どう説明すればいいのか考える必要がある。彩花はそのことを、朝の短い会話だけでも感じていた。


 授業が始まると、教室は少しずつ静かになった。窓の外では雲がゆっくり流れ、校庭の木々が冷たい風に揺れている。彩花は黒板へ視線を向け、先生の説明を聞きながら、必要なところをノートへ書き留めた。


     ◇


 国語の授業が終わると、約束していた女子生徒がノートを持って彩花の席へやってきた。周囲では次の授業の準備をする音が響いていたが、二人は机を少し寄せ、互いのノートを並べて見比べた。


 相手のノートには、先生が黒板へ書いた内容だけでなく、口頭で説明したことまで丁寧に記録されていた。文字は整っており、授業を真面目に聞いていることが伝わってくる。ただ、重要な部分と補足の部分が同じように並んでいるため、後から見返すと少し分かりにくいのかもしれなかった。


「すごく丁寧に書いてるね。先生が話したことも、こんなに覚えてたんだ」


 彩花が素直に感心すると、相手は困ったように笑った。


「でも、書くのに必死で、内容をちゃんと考えられてないこともあるんだよね。家で読み返すと、これって何の説明だったっけって思うところがあって」


「それなら、全部を減らすより、どこが大事なのか分かるようにしてみるのはどうかな。たとえば、先生が最後にまとめたところへ印をつけて、詳しい説明はその下に残すとか」


 彩花は自分のノートを開き、同じ授業の部分を示した。見出しを少し大きく書き、その下へ必要な説明をまとめているが、すべての文章を短くしているわけではない。後で読み返したときに、どの説明が何につながるのか分かるようにしているのだと話した。


 女子生徒は彩花のノートと自分のノートを見比べ、しばらく考えていた。


「私、書いたことを消すのが嫌だったんだけど、消さなくても整理できるんだね。あとから色をつけたり、見出しを足したりしてもいいんだ」


「うん。授業中に全部きれいにしなくても大丈夫だと思う。私も、家で少しだけ直すことがあるよ」


 彩花がそう答えると、相手は安心したように笑った。二人は次の授業の準備をする時間を残してノートを閉じ、また分からないことがあれば相談しようと話した。


 相手が席へ戻ったあと、彩花は自分のノートを見つめた。今日の会話では、自分の方法を教えるつもりだったのに、むしろ自分の考えを整理する機会になった気がする。


(相手に分かりやすく伝えようとすると、私もちゃんと考え直すんだね。文芸部で意見を話すときも、きっと同じなんだと思う)


 彩花はその気づきを大切にしながら、次の授業の教科書を開いた。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真が午前中の授業を終えたあと、生徒会の資料を持って職員室へ向かっていた。廊下には昼休みを待つ生徒たちの声が響き、窓際では数人が週末の予定について話している。悠真は資料の端をそろえながら歩き、職員室の前で一度足を止めた。


 先生へ確認したかったのは、週の後半に予定されている小さな事務作業の進め方だった。昨日までに必要な書類はほぼ整理できており、今日の確認が終われば、少なくとも今週中に追加で集まる必要があるかどうかは見通しが立つ。


 職員室へ入ると、担当の先生は机の上の資料へ目を通し、いくつかの項目を確認した。悠真が説明を終えると、先生は頷きながら書類を返してくれた。


「九条君、ここまで整理できていれば、今週の予定はひとまず問題ないと思います。急な連絡が入る可能性はありますが、現時点で土日に生徒会として集まる予定はありません」


「分かりました。ありがとうございます。もし変更があれば、ほかの役員にも早めに共有します」


「お願いします。ただ、休めるときにはきちんと休んでくださいね。普段から仕事を引き受けてくれているのは助かっていますが、無理をする必要はありませんから」


 先生の言葉に、悠真は穏やかに微笑んだ。


「ありがとうございます。予定を確認しながら、無理のないようにします」


 職員室を出ると、廊下の窓から柔らかな光が差し込んでいた。悠真は資料を鞄へしまい、教室へ戻る途中で航平と顔を合わせた。


「お、悠真。先生への確認、終わったのか?」


「うん。今週の生徒会の仕事は、ひとまず見通しが立ったよ。土日に集まる予定も、今のところはないみたい」


 航平はその言葉を聞き、安心したように肩を下ろした。


「それならよかった。俺も週末は少し休みたいと思ってたんだ。最近、朝が寒くて布団から出るのが大変なんだよな」


 悠真は思わず笑った。


「航平は、寒くなると毎年そう言っている気がするよ」


「毎年寒いんだから仕方ないだろ。それに、お前だって寒い朝は少し寝ていたいと思うことくらいあるだろ?」


「もちろんあるよ。ただ、ハクが朝から元気だから、家にいるとあまりのんびりしていられないこともあるかな」


 悠真が答えると、航平は納得したように笑った。二人は教室へ向かいながら、週末の予定について軽く話した。


 航平は友人と出かけるかもしれないが、まだ決まっていないらしい。悠真も彩花との散歩を考えていることは話したものの、互いの予定が確定していないため、まだ日程を決めていないと伝えた。


「まあ、急いで決めなくてもいいんじゃないか。前みたいに風が強い日だったら、無理して歩く必要もないし」


 航平はそう言い、少しだけ真面目な表情になった。


「でも、楽しみにしてるなら、その気持ちはちゃんと伝えておけよ。遠慮しすぎて、結局どっちも誘えなくなったらもったいないだろ」


 悠真はその言葉を聞き、少し考えた。


 彩花の予定を大切にしたいと思う気持ちは変わらない。けれど、相手へ負担をかけたくないという理由で、自分の希望を何も伝えなければ、彩花もどうしたいのか分からなくなってしまうかもしれない。


「そうだね。俺も、彩花さんと歩けるのを楽しみにしてるから。予定が分かったら、ちゃんと相談してみるよ」


「うん、それがいいと思う。お前たちなら、無理な予定を押しつけ合うこともないだろうしな」


 航平はそう答え、教室の扉を開けた。


 悠真は友人の言葉を胸に留めながら、自分の席へ向かった。


     ◇


 昼休みが終わる頃、悠真のスマートフォンには母の麗華から短い連絡が届いていた。父の正樹が今夜は比較的早く帰宅する予定なので、日曜日の話について夕食後に確認できると思う、という内容だった。


 悠真は授業が始まる前に返信し、スマートフォンをしまった。


 琴葉から聞いた話では、父は日曜日の午後に少し話したいことがあるらしい。ただ、急ぎの用事ではなく、都合が悪ければ別の日でもいいとのことだった。悠真は何の話なのか気になっていたが、詳しい内容を知らないまま勝手に想像することはしなかった。


 父は仕事で忙しいことも多いが、家族との時間を大切にしている。だからこそ、日曜日に話したいことがあるなら、まずは直接聞いてみたいと思った。


 その一方で、彩花との散歩も楽しみにしている。もし日曜日の午後が難しいなら、土曜日や別の日を考えることもできるだろう。彩花の文芸部の予定も確認してから、二人で相談すればいい。


 悠真は手帳の週末の欄を開き、まだ何も書かれていない部分を見つめた。予定が空いていることは、何もすることがないという意味ではない。これから何を大切にして過ごすか、選べる時間が残っているということなのだと思った。


     ◇


 放課後、彩花が文芸部の活動場所へ向かうと、教室にはすでに数人の部員が集まっていた。窓の外では雲が少し厚くなっており、校庭の向こうの空が淡い灰色に変わっている。机の上には昨日までの確認資料が置かれていたが、試し刷りは保護用の袋へ入れられたままだった。


 佐々木先輩は彩花の姿に気づくと、穏やかに声をかけた。


「水瀬さん、お疲れさま。今日は表紙担当の人が修正案を作るための準備をしているところだよ。まだ新しいデータはできていないから、全員で確認する作業は少なめになると思う」


「お疲れさまです。分かりました。私も、できることがあれば手伝います」


 彩花が答えると、先輩は頷き、机の上の資料を示した。


「それなら、昨日の確認表と今の作業予定を一緒に整理してもらえるかな。次に何を確認する必要があるのか、みんなが分かるようにしておきたいんだ」


「はい。やってみます」


 彩花は椅子へ座り、確認表を手元へ引き寄せた。


 表紙の修正候補は、枝先の一部の視認性と、下部の小さな文字の読みやすさの二点に絞られている。元のデータは残し、修正案を別に作ることになっていた。次の試し刷りの日程は、印刷室の担当者との調整が必要であり、まだ決まっていない。


 彩花はそれらを順番に書き出し、確定していることと、これから確認することを分けた。


 その途中で、表紙担当の部員が近づいてきた。


「水瀬さん、昨日はありがとう。修正案なんだけど、まだ少し迷ってるところがあって。今、元のデータと見比べながら考えてるんだ」


 彩花は顔を上げ、相手の表情を見た。昨日よりも落ち着いているように見えるが、手元の資料を握る指には少し力が入っている。


「そうなんですね。急いで決めなくてもいいと思います。先生も、元のデータを残して考えるように言っていましたし」


「うん。分かってるんだけど、みんなを待たせてる気がして、少し焦っちゃって」


 部員は苦笑し、視線を落とした。


 彩花はすぐに励ます言葉を返そうとして、少しだけ考え直した。相手が焦っている理由は、ただ作業が遅れているからではない。自分の担当した表紙が、部誌全体の進行に関わっていることを意識しているのだろう。


「待ってるっていうより、私たちも一緒に完成を楽しみにしてるんだと思います。もちろん、確認することはあるけど、表紙の雰囲気を大切にしたいって気持ちは、みんな同じだと思うので」


 彩花がそう伝えると、相手は少し驚いたように顔を上げた。


「……そう言ってもらえると、少し気が楽になるかも。私、早く直さなきゃってことばかり考えてた」


「私も、自分の小説を書いているとき、早く進めたいって思うことがあります。でも、急いで書いたところをあとで読み返すと、もう少し考えればよかったって思うこともあるので」


 彩花は少し照れながら続けた。


「だから、今はちゃんと考える時間があってもいいんじゃないかなって思います」


 表紙担当の部員はしばらく彩花を見つめ、それから小さく笑った。


「ありがとう。水瀬さんの小説も、そうやって大切に書いてるんだね」


「はい。まだまだ迷うことも多いですけど」


「それなら、私ももう少し考えてみる。元の表紙の好きなところを残せるように」


 部員はそう言って自分の席へ戻った。


 彩花はその背中を見送り、確認表へ目を落とした。相手の不安をすべて取り除けたわけではないが、少しでも落ち着いて考えられるようになったなら嬉しい。自分ができることは、答えを代わりに決めることではなく、一緒に考える姿勢を持ち続けることなのだろう。


     ◇


 活動の後半では、佐々木先輩が今後の作業予定について部員たちへ説明した。表紙の修正案ができるまで、本文のデータは現在の確認済みの状態を維持する。新しい誤字や明らかな問題が見つかった場合は相談するが、今の段階で文章を大きく変更する予定はないという。


「それから、週末の活動についてなんだけど、今のところ土曜日に集まる予定はありません。修正案の進み具合によっては、来週の活動で確認することになると思います」


 佐々木先輩の言葉に、部員たちは頷いた。


 彩花は少しだけ胸をなで下ろした。週末の予定が一つ明確になったことで、悠真との散歩についても相談しやすくなるかもしれない。ただし、表紙の修正案がいつできるかはまだ分からず、先生から新しい連絡が入る可能性もある。今日の説明を、そのまま絶対に変更されない予定だと考えることはしなかった。


 活動が終わると、彩花は確認表を佐々木先輩へ渡した。


「先輩、今日整理したものです。確定していることと、これから確認することを分けて書いてみました」


 佐々木先輩は紙へ目を通し、穏やかに頷いた。


「ありがとう。これなら、次に集まったときも分かりやすいね。水瀬さん、最近はこういう整理も上手になったと思うよ」


 彩花は少し驚き、顔を上げた。


「そうでしょうか。自分では、まだ迷うことも多いんですけど」


「迷うことがあるのは悪いことじゃないよ。前よりも、何を確認すればいいのか考えられるようになってると思う。誰かの意見を聞くときも、ちゃんと理由まで聞こうとしてるし」


 先輩の言葉に、彩花は少しだけ頬を赤くした。


「ありがとうございます。先輩たちがいつも丁寧に教えてくれるからだと思います」


「そう言ってもらえると嬉しいな。でも、彩花さん自身が考えてるからこそ、できるようになったこともあると思うよ」


 佐々木先輩はそう言って微笑んだ。


 彩花はその言葉を胸に留めながら、鞄を持って教室を出た。


 廊下の窓から見える空は、朝よりも暗くなっていた。雨が降り始めた様子はないが、遠くの雲は少し厚く見える。彩花は鞄の中の折り畳み傘を確かめ、上着を羽織って昇降口へ向かった。


     ◇


 帰り道では、冷たい風がときおり頬を撫でた。彩花が学校を出たときには雨は降っていなかったが、住宅街へ入る頃、空から細かな雨粒が落ち始めた。


 彩花は歩道の端で立ち止まり、鞄から折り畳み傘を取り出した。傘を開くと、布の上へ小さな雨音が重なり始める。雨脚は強くなく、道路を濡らすほどでもなかったが、傘の下に入ると少しだけ安心できた。


 以前、悠真と相合傘で歩いた日のことが、ふと頭に浮かんだ。


 あの日は、突然の雨に驚きながらも、隣に悠真がいてくれたことが嬉しかった。傘の下で肩が近づき、普段よりも小さな声で話したことを思い出すと、今でも少し照れくさくなる。


(あのときは、こんなふうに何度も悠真君と話すようになるなんて、思ってなかったな)


 彩花は傘の柄を握り直し、ゆっくり歩き始めた。


 中央図書館で初めて出会ったとき、悠真は本のことを丁寧に話してくれる人だった。最初は少し緊張していたが、何度も顔を合わせるうちに、彼と話す時間が楽しみになっていった。


 今では、学校であったことを伝えたいと思う相手になっている。


 嬉しいことがあったときだけではなく、迷ったことや、まだ答えが出ていないことも話したくなる。彩花はその変化を、少し不思議に感じていた。


 雨はしばらくすると弱まり、傘を打つ音も小さくなった。彩花は空を見上げ、雲の向こうに薄い明るさが残っていることに気づいた。


 今日の雨は、長く続かないのかもしれない。


 けれど、傘を持ってきてよかったと思った。母が朝に声をかけてくれたことも、今はありがたかった。


     ◇


 九条家では、夕食のあと、悠真が父の正樹と向かい合って座っていた。居間には落ち着いた灯りがともり、窓の外には静かな夜の庭が広がっている。母の麗華は少し離れた席でお茶を飲み、琴葉はハクの様子を見に行っていた。


「琴葉から聞いたんだけど、日曜日の午後に少し話したいことがあるんだって?」


 悠真が尋ねると、正樹は頷いた。


「ああ。急ぎの話ではないんだが、来月の家族の予定について少し相談しておきたくてな。仕事の都合で日程が変わる可能性もあるから、今のうちにお前たちの都合を聞いておこうと思ったんだ」


 悠真は父の言葉を聞き、少し安心した。


「そうだったんだ。何か急な用事ができたのかと思ってたけど、そういうことなら、予定を確認しておくよ」


「心配させたなら悪かったな。日曜日の午後に家族で少し時間を取れればと思ったが、難しければ別の日でも構わない。お前にも予定があるだろうからな」


 正樹は穏やかな声で続けた。


「最近は学校の仕事も忙しかったようだし、休日くらいは自分の時間を大切にしてほしい。もちろん、家族で話す時間も必要だが、無理に予定を合わせるつもりはない」


 悠真は父の言葉を受け止め、少し考えてから答えた。


「ありがとう。今週末は、まだ予定が確定していないんだ。友人と出かけるかもしれないけど、時間はこれから相談するところだから」


 正樹はその言葉に、少しだけ目を細めた。


「そうか。なら、こちらも急いで決める必要はないな。日曜日の夕方でもいいし、来週の平日に時間を取ってもいい。麗華とも相談して、改めて決めよう」


 麗華は二人の会話を聞きながら、穏やかに頷いた。


「そうね。家族の予定は、みんなが落ち着いて話せるときに決めた方がいいわ。悠真も、無理に予定を変えなくていいのよ」


 悠真は両親へ微笑んだ。


「うん。ありがとう。俺も、予定が分かったら早めに伝えるよ」


 正樹は頷き、お茶へ手を伸ばした。


 話はそれほど長く続かなかった。来月の家族の予定については、まだ具体的な日程を決める段階ではなく、今日は互いの都合を確認するだけで終わった。


 悠真は居間を出ると、廊下の窓から庭へ目を向けた。外では雨が少し降っていたらしく、石畳が街灯の光を受けて淡く濡れている。


 日曜日の午後は、父との話で必ず埋まるわけではなくなった。


 けれど、だからといってすぐに彩花との予定を決めるつもりはなかった。彼女の文芸部の予定も、天候も、まだ確認することがある。


 悠真は書斎へ戻り、手帳を開いた。


 週末の欄には、まだ何も書かれていない。


 その白い余白を見つめながら、悠真は少しだけ微笑んだ。


(彩花さんと相談できる時間があるなら、嬉しいな。でも、どんな過ごし方にするかは、二人で決めたい)


 悠真は手帳を閉じ、机の上へ置いた。


     ◇


 彩花が夕食を終えた頃、雨はほとんど止んでいた。窓の外では、街灯の光が濡れた道路へ反射している。彩花は食器を片づけたあと、自室へ戻り、星模様のノートを開いた。


 昨日書いた場面を読み返すと、少女が手紙の最初の一行を書いたあと、祖母がそばにいない寂しさを感じるところで止まっていた。


 彩花はその続きを考えながら、しばらくペンを動かさなかった。


 少女は、寂しいから手紙を書くのをやめるだろうか。


 それとも、寂しいからこそ、もっと伝えたいことを探すのだろうか。


 彩花は、後者の方が今の少女らしいと感じた。祖母と離れて暮らすようになってから、少女は何度も手紙を書こうとしてきた。最初の一行を書けたことで、すべての迷いがなくなったわけではないが、少なくとも、言葉を届けたいという気持ちは変わっていない。


 彩花はペンを持ち、ゆっくり続きを書き始めた。


『少女は、便箋に書いた一行を見つめたまま、しばらく動かなかった。庭の花がもうすぐ咲きそうだと書いたことで、祖母がいない寂しさを改めて感じていた。けれど、その一行を消したいとは思わなかった。』


『祖母がこの家にいた頃、少女は毎日のように庭の様子を話していた。花の蕾が大きくなったことや、葉の裏に小さな虫がいたこと、雨のあとに土の匂いが変わったこと。祖母はどんな話でも、最後まで聞いてくれた。』


『少女は、祖母が遠くにいても、その時間がなくなったわけではないのだと思った。今は目の前で話せないけれど、手紙に書けば、今日の庭のことを伝えられるかもしれない。』


 彩花はそこでペンを止め、文章を読み返した。


 少女が手紙を書く理由は、少しずつ明確になってきている。祖母へ立派な文章を届けたいのではなく、今も変わらず、毎日の小さな出来事を話したいのだ。


 彩花はその気持ちを大切にしながら、続きを書いた。


『少女は便箋の下の方へ目を向けた。まだ白い場所がたくさん残っている。そこへ何を書けばいいのか、すぐには分からなかった。』


『けれど、もう何も書けないとは思わなかった。今日の庭のことを思い出せば、きっと次の言葉も見つかる。少女はペンを置き、窓の外の花をもう一度眺めた。』


 彩花はゆっくり息をつき、ノートを閉じた。


 今日のところは、ここまででいいと思った。


 少女は最初の一行を書き、そのあとも手紙を書き続けたいと思っている。次に何を書くのかは、まだ決まっていない。けれど、昨日よりも少しだけ前へ進んでいる。


 彩花はその変化を嬉しく感じながら、机の上のスマートフォンへ目を向けた。


 そろそろ悠真へ連絡してもいい時間だった。


     ◇


『悠真君、こんばんは。今日は文芸部で、今後の作業予定を整理したよ』


 彩花が送信すると、少しして返事が届いた。


『こんばんは、彩花さん。今日もお疲れさま。表紙の修正について、何か進んだの?』


 彩花は今日の活動を思い返しながら、ゆっくり文字を打った。


『まだ修正案は完成してないけど、表紙担当の人が考えてくれてるところだよ。今は急いで直すより、元の雰囲気を大切にしながら考えることになったの』


 悠真からの返事は、穏やかなものだった。


『それなら、少し時間をかけて考えられそうだね。彩花さんたちが大切にしている表紙だから、納得できる形になるといいな』


 彩花はその文章を読み、微笑んだ。


『うん。それからね、今週の土曜日は、今のところ文芸部で集まる予定はないって先輩が言ってたよ。もちろん、何か変更があれば連絡が来ると思うけど』


 送信したあと、彩花は少しだけ緊張した。


 自分から週末の予定について話すことは、悠真との散歩を楽しみにしていると伝えることにもなる。以前なら、そんな気持ちを知られるのが恥ずかしくて、もう少し遠回しな言い方をしていたかもしれない。


 けれど、今は隠したいとは思わなかった。


 悠真と歩きたい。


 その気持ちは、彩花にとって自然なものになっていた。


 しばらくして、悠真から返事が届いた。


『そうなんだね。俺も、今週末は生徒会で集まる予定がないって確認できたよ。それから、父との話も急ぎではなくて、日曜日の午後に必ず集まるわけではなくなったんだ』


 彩花はその文章を読み、少し安心した。


『そうだったんだね。よかった。お父さんとのお話、大事なことだったらどうしようって少し思ってたけど、急ぎじゃないなら安心したよ』


『心配してくれてありがとう。来月の家族の予定について相談したかったみたいなんだ。詳しい日程はまだ決まっていないから、また改めて話すことになったよ』


 彩花は頷きながら、次の文章を打った。


『それなら、週末のことも少し相談できそうだね。天気がよければ、前に話してた川沿いを歩けたら嬉しいな』


 送信した瞬間、彩花の胸が少しだけ高鳴った。


 自分から、会いたいという気持ちに近い言葉を伝えた。


 ただの予定の相談なのに、こんなに緊張するのは、悠真と過ごす時間が特別だからだろう。


 彩花はスマートフォンを持ったまま、返事を待った。


 やがて画面が明るくなり、悠真からのメッセージが表示された。


『俺も、彩花さんと歩きたいと思ってたよ。前は風が強くて見送ったけど、今度は二人でゆっくり景色を見られたら嬉しいな』


 彩花はその文章を読み、自然と笑顔になった。


 悠真も、同じように楽しみにしてくれていた。


 そのことが、何より嬉しかった。


『うん。私も楽しみ。土曜日と日曜日、どっちがいいかな?』


 彩花が尋ねると、悠真は少し考えてから返事をくれた。


『今のところ、どちらも大きな予定はないけど、日曜日は家族の予定が入る可能性もあるから、土曜日の方が相談しやすいかもしれないね。ただ、天気も確認したいから、明日もう一度相談してもいい?』


 彩花はすぐに頷き、返事を打った。


『もちろんだよ。明日、天気と予定を確認してから決めよう。急がなくても大丈夫だからね』


『ありがとう、彩花さん。俺も楽しみにしてるよ』


 彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 土曜日に出かけると決まったわけではない。


 時間も、待ち合わせ場所も、まだ決まっていない。


 けれど、二人で相談しながら少しずつ予定を形にしていくことが、彩花には嬉しかった。


     ◇


 悠真はメッセージを終えたあと、しばらくスマートフォンを見つめていた。


 彩花の方から、川沿いを歩けたら嬉しいと伝えてくれた。その言葉が、思っていた以上に胸へ残っている。


 以前の悠真なら、彩花の予定を気遣うあまり、自分から誘うことをためらっていたかもしれない。彼女が忙しいなら、無理に時間を取ってもらう必要はない。そう考えること自体は間違っていないが、相手も同じように楽しみにしてくれているなら、遠慮だけでは伝わらない気持ちがある。


 航平が昼間に話してくれたことを、悠真は思い出した。


 楽しみにしているなら、その気持ちはちゃんと伝えておいた方がいい。


 悠真はその言葉を胸に留めながら、手帳を開いた。


 土曜日の欄には、まだ何も書かれていない。


 悠真はそこへ予定を確定するような文字を書くことはせず、端に小さく「天候・予定確認」とだけ記した。


 彩花との散歩は、明日もう一度相談する。


 その約束を忘れないようにするためのメモだった。


 悠真は手帳を閉じ、机の引き出しへ目を向けた。


 中には、彩花と川沿いを歩いた日に拾った橙色の葉が、紙に包まれてしまってある。練習用の葉はまだ乾燥の途中で、栞として仕上げる方法も決まっていない。だから、今度の散歩までに何かを完成させようとは考えなかった。


 贈り物を渡すために会うのではない。


 彩花と一緒に歩き、話し、同じ景色を見る時間を楽しみたい。


 悠真はそう思いながら、机の灯りを少し落とした。


     ◇


 彩花は寝る前に、淡い緑色の葉模様の日記帳を開いた。


 今日の出来事を思い返すと、学校でノートのまとめ方を一緒に考えたことや、文芸部で表紙担当の部員と話したことが浮かんできた。


 誰かへ何かを伝えることは、思っていたより難しい。


 けれど、相手が何を知りたいのか、何を大切にしているのかを考えながら話すことで、少しずつ言葉が届くようになるのかもしれない。


 彩花は日記帳へ、今日感じたことを書き始めた。


『今日は学校で、ノートのまとめ方を友達と一緒に考えた。自分では当たり前だと思っていたことも、誰かに説明しようとすると、ちゃんと理由を考える必要があるんだと気づいた。文芸部でも、表紙担当の人が安心して考えられるように、私にできることを少しずつしていきたい。』


 彩花は一度ペンを止め、机の上の星模様のノートへ目を向けた。


 少女の物語は、今日も少しだけ進んだ。


 最初の一行を書いたあと、祖母がそばにいない寂しさを感じながらも、手紙を書き続けたいと思うところまで描けた。


 彩花はそのことを、日記へ続けて書いた。


『新しい物語では、少女が手紙を書き始めたあとも、寂しさが残っていることを書いた。でも、寂しいからこそ、伝えたいことがあるんだと思う。次にどんな言葉を書くのか、もう少し考えてみたい。』


 書き終えると、彩花は少しだけ息をついた。


 そして、今日一番胸に残っている出来事を思い返した。


 悠真と、週末の散歩について相談したこと。


 まだ日程は決まっていないが、二人とも楽しみにしていると伝え合えた。


 彩花はそのことが嬉しかった。


『悠真君と、土曜日に川沿いを歩けるかもしれない。まだ天気も予定も確認中だけど、悠真君も楽しみにしてくれているって分かって、とても嬉しかった。明日、また相談する約束をした。』


 彩花はそこまで書き、少しだけ頬を赤くした。


 自分から「歩けたら嬉しい」と伝えたことを思い出すと、今でも胸が温かくなる。


 以前は、相手にどう思われるかを気にして、自分の希望を言うことにためらいがあった。けれど、悠真はいつも、彩花の言葉を丁寧に受け止めてくれる。


 だからこそ、少しずつ自分の気持ちを伝えられるようになっているのだろう。


 彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。


 窓の外では、雨が止んだあとの静かな夜が広がっている。濡れた道路には街灯の光が淡く反射し、遠くの家々の窓には温かな灯りがともっていた。


 明日、天気と予定を確認して、悠真ともう一度相談する。


 それだけのことなのに、彩花には明日が少し楽しみに感じられた。


 彩花は部屋の灯りを消し、布団へ入った。


 まだ白い予定表に、二人で過ごす時間を書き込める日が来るかもしれない。


 その小さな期待を胸に、彩花はゆっくり目を閉じた。


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