第108話 週末の約束と、君と歩きたい冬の道
金曜日の朝、青凪市の空には薄い雲が広がっていた。昨夜の雨が残した湿り気は冷たい空気の中へ溶け込み、住宅街の植え込みには小さな水滴が光っている。水瀬彩花は制服の上から上着を羽織り、玄関の鏡で髪を整えながら、いつもより少しだけ落ち着かない気持ちでいた。
今日は、悠真と週末の予定についてもう一度相談することになっている。
昨日の夜、二人は土曜日に川沿いを歩けるかもしれないと話した。けれど、まだ天気も時間も確かめておらず、待ち合わせ場所も決まっていない。約束として形になるかどうかは、今日の確認次第だった。
(今日、ちゃんと決められたら嬉しいな。でも、また風が強くなるかもしれないし、無理に決めるのは違うよね)
彩花はそう考えながら、鞄の中身を確かめた。教科書と筆箱、昼食の入った袋、それから星模様のノート。今日は文芸部の活動があるため、部誌の確認に必要なメモも忘れずに入れてある。
階下へ降りると、食卓では母の紗月が朝食を並べていた。父の耕助は新聞を読みながら温かいお茶を飲み、姉の凛花は窓の外を眺めている。
「おはよう、彩花。今日は少し寒そうね。昨日の雨で道が濡れているところもあるから、気をつけて行ってね」
「おはよう、お母さん。うん、気をつける。今日は雨は降らなさそうだけど、上着はちゃんと着ていくね」
彩花が椅子へ座ると、凛花が顔を向けた。
「そういえば、週末って何か予定あるの? 昨日、ちょっと嬉しそうにスマホ見てたけど」
彩花は箸を持ちかけた手を止め、思わず姉の顔を見た。凛花はからかうような笑みを浮かべているわけではなく、純粋に気になったことを尋ねているようだった。
「えっと……まだ決まってないんだけど、悠真君と川沿いを歩けたらいいなって話してるの。前に風が強くて延期したから、今度こそ行けたら嬉しいなって」
その言葉に、凛花は少しだけ目を細めた。
「へえ、そうなんだ。じゃあ、今日は予定を決める日なんだね」
「うん。でも、天気とかお互いの予定を確認してからだから、まだ分からないよ」
彩花が少し照れながら答えると、紗月は穏やかに微笑んだ。
「楽しみがあるのはいいことね。ただ、川沿いは街中より風が冷たく感じることもあるから、寒さには気をつけて。無理に長く歩かなくてもいいんだからね」
「うん。温かい飲み物を持っていくのもいいかなって思ってる」
彩花がそう言うと、凛花は楽しそうに頷いた。
「いいじゃん。そういうの、ちょっと特別な感じがするよね。外で飲む温かい飲み物って、家で飲むのと違っておいしく感じるし」
耕助は新聞を畳み、娘へ穏やかな視線を向けた。
「出かけるなら、帰る時間も考えておきなさい。最近は日が落ちるのが早いからな。暗くなる前に帰れるようにしておけば、安心して楽しめるだろう」
「うん、お父さん。まだ時間は決まってないけど、遅くならないようにするね」
彩花が答えると、耕助は頷き、再びお茶へ手を伸ばした。
家族の会話はそれ以上深く踏み込むことなく、朝食の時間へ戻っていった。彩花は味噌汁を飲みながら、胸の奥に小さな温かさを感じていた。
悠真と出かけることを、家族へ自然に話せるようになっている。
以前なら、少し恥ずかしくて曖昧に答えていたかもしれない。けれど今は、楽しみにしていることを隠したいとは思わなかった。
◇
青葉高校へ向かう道では、冷たい風がときおり頬を撫でた。空は雲に覆われていたが、雨が降りそうな気配はない。彩花は歩道の端に残る小さな水たまりを避けながら、いつもの通学路を進んだ。
校門をくぐると、登校してきた生徒たちが昇降口へ向かっていた。友人と週末の予定を話している生徒もいれば、寒さに肩をすくめながら急いで教室へ向かう生徒もいる。彩花はその流れに混ざり、階段を上がった。
教室へ入ると、田辺大地が自分の席で鞄を整理していた。彩花の姿に気づくと、軽く手を上げて挨拶した。
「水瀬、おはよう。今日も寒いな。昨日の雨で少し暖かくなるかと思ったけど、全然そんなことなかった」
「おはよう、田辺君。うん、朝は冷えるね。でも、昨日より風は弱い気がするよ」
彩花が答えると、大地は窓の外へ目を向けた。
「確かに風はそこまで強くないな。週末もこんな感じならいいんだけど。うちの妹が、明日どこかへ出かけたいって言ってるんだよ」
「そうなんだ。どこへ行きたいって言ってるの?」
「まだ決まってないんだけど、図書館か公園がいいらしい。最近は本を読むのが楽しいみたいでさ。前に水瀬が話してた本も、ちょっと気になってるみたいなんだ」
彩花はその言葉に微笑んだ。
「それは嬉しいな。妹さんが楽しめる本が見つかるといいね」
「うん。俺も少し探してみようかなって思ってる。前に教えてもらった本のこと、まだちゃんと見に行けてないし」
大地は少し照れくさそうに笑った。
彩花はその様子を見ながら、以前、大地が妹のために本を探していたことを思い出した。あのときは候補を考えただけで、実際に借りるところまでは進んでいなかったはずだ。
「図書館なら、いろいろ見比べられると思うよ。妹さんが自分で選ぶのも楽しそうだね」
「そうだな。俺が選ぶより、本人が気に入ったものを見つけた方がいいかもしれない」
大地はそう答え、鞄を机の横へ掛けた。
彩花も自分の席へ向かい、授業の準備を始めた。窓の外では、薄い雲の間から少しだけ青空がのぞいている。
明日も、こんな空だったらいい。
そう思ったところで、彩花は少しだけ頬を緩めた。
◇
午前中の授業が終わる頃には、空の雲が少しずつ薄くなっていた。昼休み、彩花は弁当を広げながら、文芸部の連絡を確認した。
佐々木先輩からは、今日の活動では表紙担当の部員が考えている修正案について、進み具合を共有する予定だと連絡が届いていた。まだデータの修正は完了しておらず、再印刷の日程も決まっていないため、今日は確認事項を整理する程度になるらしい。
彩花は内容を読み、少し安心した。
昨日の活動で、表紙担当の部員は焦っている様子を見せていた。けれど、無理に急がせるのではなく、元の雰囲気を大切にしながら考える時間が確保されていることが嬉しかった。
弁当を食べ終えると、彩花は星模様のノートを取り出した。授業の合間に少しだけ書きたいことが浮かんでいたため、忘れないうちにメモしておこうと思ったのだ。
少女が祖母へ手紙を書き始めた物語。
昨日は、最初の一行を書いたあとも寂しさが残っていることを描いた。けれど、少女はその寂しさを理由に手紙を書くのをやめようとはしていない。むしろ、祖母へ伝えたいことがあるからこそ、次の言葉を探している。
彩花はノートの端へ、小さく書き留めた。
『少女は、祖母がいない庭を見て、何を一番伝えたいと思うのか。花が咲くことだけではなく、そこへ至るまでの時間も伝えたいのかもしれない。』
書き終えたあと、彩花は少しだけ考えた。
祖母が遠くへ引っ越してからも、庭の花は変わらず育っている。少女はその変化を一人で見つめているが、手紙に書くことで、祖母と同じ景色を分け合えるかもしれない。
彩花はその感覚を、もう少し丁寧に描きたいと思った。
ただ、今すぐ続きを書くつもりはなかった。昼休みはもうすぐ終わるし、授業へ気持ちを切り替える必要がある。彩花はノートを閉じ、鞄へしまった。
◇
同じ頃、桜華学園高等部では、悠真が昼休みに航平と食堂へ向かっていた。廊下には生徒たちの声が響き、窓から差し込む光が床を明るく照らしている。
「悠真、昨日言ってた週末の予定、どうなった?」
航平が尋ねると、悠真は少しだけ考えてから答えた。
「父との話は、急ぎではないことが分かったよ。来月の家族の予定について相談したかったみたいで、日曜日の午後に必ず集まるわけではなくなったんだ」
「それなら、週末は少し自由に使えそうだな」
「うん。ただ、彩花さんの文芸部の予定もあるし、天気も確認したいから、今日もう一度相談することになってる」
航平はその言葉を聞き、少しだけ笑った。
「お前たち、本当にちゃんと相談するよな。まあ、無理に予定を決めるよりいいと思うけど」
悠真は穏やかに微笑んだ。
「せっかく一緒に出かけるなら、二人とも安心して楽しめる日にしたいからね」
「そういうところ、悠真らしいよな。でも、前にも言ったけど、楽しみにしてるならその気持ちはちゃんと伝えろよ」
航平は少しだけ真面目な表情になった。
「水瀬さんだって、きっとお前が楽しみにしてるって分かった方が嬉しいと思うぞ」
悠真はその言葉に頷いた。
「うん。昨日、彩花さんが川沿いを歩けたら嬉しいって言ってくれたんだ。俺も同じ気持ちだって伝えたよ」
航平は一瞬だけ目を丸くし、それから楽しそうに笑った。
「おお、それはよかったじゃん。じゃあ、あとは天気と時間だな」
「そうだね。今日は少し早めに帰れそうだから、夕方に確認してみようと思ってる」
二人は食堂へ入り、昼食を受け取って窓際の席へ座った。
悠真は食事をしながら、彩花との散歩について考えていた。
前に川沿いを歩いたときは、秋の葉がまだ多く残っていた。今は冬が近づき、景色も少し変わっているだろう。彩花と一緒に、その変化を見られたら嬉しい。
ただ、寒さが厳しいようなら、無理に長く歩く必要はない。温かい飲み物を持っていくことも考えていたが、どこで休むかはまだ決めていなかった。
悠真は、今日の相談で少しずつ決めていけばいいと思った。
◇
放課後、彩花が文芸部の活動場所へ向かうと、教室にはすでに数人の部員が集まっていた。窓の外では雲が薄くなり、夕方の光が机の上へ差し込んでいる。
佐々木先輩は彩花の姿に気づくと、穏やかに声をかけた。
「水瀬さん、お疲れさま。今日は表紙担当の人が修正案の途中経過を見せてくれることになってるよ。ただ、まだ完成したものじゃないから、細かいところを決めるのはもう少し先になると思う」
「お疲れさまです。分かりました。私も、今の段階で気づいたことがあれば伝えます」
彩花は鞄を置き、机の近くへ向かった。
表紙担当の部員は、元のデータと修正途中の画面を見比べながら作業していた。枝先の線については、特に見えにくかった部分を少しだけ調整する方向で考えているらしい。下部の文字についても、色の濃さを変えた場合の見え方を確認しているところだった。
「昨日から少し触ってみたんですけど、画面だと違いが分かりにくいところもあって。やっぱり、実際に印刷してみないと分からないかもしれません」
部員はそう言い、画面の一部を拡大した。
彩花はその説明を聞きながら、昨日の試し刷りを思い出した。画面ではきれいに見えていた部分が、紙になると少し違って見えた。だからこそ、修正案も画面だけで判断するのではなく、次の試し刷りで確かめる必要があるのだろう。
「そうですね。昨日も、画面で見ていたときとは少し印象が違いましたし。今の段階では、どこを変えたいのか整理できていれば十分なのかもしれませんね」
彩花がそう伝えると、表紙担当の部員は頷いた。
「うん。先生にも、元のデータを残して、修正したところが分かるようにしておくといいって言われたんです。だから、今日はその準備を進めてます」
佐々木先輩も画面を見ながら、確認表へ目を落とした。
「それなら、今日は修正候補の確認までにしよう。実際の見え方は、次に印刷できる日が決まってから確かめればいいし」
部員たちはその方針に頷き、作業を続けた。
彩花は表紙担当の部員が少しずつ落ち着いて作業できるようになっていることに安心した。昨日までは、早く直さなければという気持ちが強かったように見えたが、今日は何を確認すべきか考えながら進めている。
その変化を見て、彩花も自分の小説について考えた。
書きたいことがあっても、すぐに文章へできないことがある。けれど、何を大切にしたいのかを整理することで、次の言葉が見つかることもある。
彩花はその感覚を、今の自分の創作にも生かしたいと思った。
◇
活動が終わる頃、佐々木先輩が部員たちへ今後の予定を伝えた。
「表紙の修正案は、もう少し時間をかけて考えることになりました。次の試し刷りの日程も、まだ先生が確認しているところです。だから、明日の土曜日は予定どおり活動なしで大丈夫です」
彩花はその言葉を聞き、少しだけ胸をなで下ろした。
土曜日の文芸部の予定が、ひとまず確認できた。
もちろん、急な変更が絶対にないとは限らないが、今の段階では予定を空けておいても問題なさそうだった。
佐々木先輩は続けて、部員たちへ声をかけた。
「週末はしっかり休んでね。表紙担当の人も、無理に作業を進めなくていいから。月曜日にまた状況を確認しましょう」
部員たちは頷き、片づけを始めた。
彩花も資料をまとめ、鞄へしまった。
教室を出ると、廊下の窓から夕方の光が差し込んでいた。校庭では運動部の生徒たちが片づけを進めており、遠くから掛け声が聞こえてくる。
彩花は上着を羽織り、昇降口へ向かった。
明日、悠真と歩けるかもしれない。
そう思うと、帰り道が少しだけ明るく感じられた。
◇
帰宅すると、紗月が台所で夕食の準備をしていた。彩花は手を洗い、上着を掛けてから母のところへ顔を出した。
「ただいま、お母さん」
「おかえり、彩花。今日は文芸部、どうだった?」
「うん。表紙の修正案を少し見せてもらったよ。まだ完成してないけど、どこを直すか整理できてきたみたい」
彩花がそう答えると、紗月は穏やかに頷いた。
「そう。少しずつ進んでいるのね」
「うん。それから、明日の土曜日は文芸部の活動がないって確認できたの。だから、悠真君と川沿いを歩けるかもしれない」
紗月は娘の表情を見て、少しだけ微笑んだ。
「それはよかったわね。天気と時間が合えば、楽しんでおいで。ただ、寒さには気をつけてね」
「うん。今日、悠真君ともう一度相談することになってるから、決まったら伝えるね」
彩花はそう答え、夕食の準備を手伝い始めた。
母と話しているうちに、彩花は少しだけ緊張が和らいでいくのを感じた。楽しみにしていることを誰かへ話すと、その気持ちが少し現実に近づくような気がする。
けれど、まだ約束は確定していない。
彩花はそのことを忘れずに、夕食の時間を過ごした。
◇
夕食後、彩花は自室へ戻り、スマートフォンで明日の天気を確認した。
予報では、土曜日はおおむね晴れとなっていた。気温は低めだが、強い風が吹く可能性は今のところ高くないらしい。ただし、天気は変わることもあるため、出かける前にもう一度確認した方がよさそうだった。
彩花はその内容を見て、少し安心した。
続いて、文芸部の連絡を確認した。明日は活動なしという連絡が改めて届いており、急な変更があれば知らせると書かれている。
彩花はスマートフォンを置き、少しだけ考えた。
自分の予定は、今のところ問題なさそうだ。
あとは、悠真の予定と、二人がどんな時間に出かけたいかを相談するだけだった。
彩花は深呼吸をしてから、悠真へメッセージを送った。
『悠真君、こんばんは。今日は文芸部で、明日の活動がないことを確認できたよ。天気も今のところ晴れみたいだから、川沿いを歩けそうかなって思ってる』
しばらくして、悠真から返事が届いた。
『こんばんは、彩花さん。連絡ありがとう。俺も明日は生徒会の予定がないことを確認できたよ。天気も見たけど、今のところ大きく崩れる感じではなさそうだね』
彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
悠真も、同じように確認してくれていた。
『うん。前みたいに風が強くなければ、少し歩けたら嬉しいな』
『俺もそう思ってるよ。寒いと思うから、あまり長く歩きすぎないようにしようか。途中で温かい飲み物を飲める時間があるといいね』
彩花はその提案に微笑んだ。
『いいね。私も、温かい飲み物を持っていこうかなって考えてたの』
『そうなんだね。それなら、川沿いを少し歩いて、寒くなったら休憩するのもよさそうだね』
二人はしばらく、歩く時間や場所について相談した。
前に歩いた川沿いの道なら、互いに場所を知っているため、待ち合わせもしやすい。人通りもある場所なので、無理に遠くまで行かなくても景色を楽しめそうだった。
彩花はそのことを考えながら、メッセージを打った。
『じゃあ、前に歩いた川沿いの道の近くで待ち合わせする? あまり遠くまで行かなくても、景色を見ながら話せると思う』
悠真からの返事は、すぐに届いた。
『うん、いいと思う。前に待ち合わせた場所なら分かりやすいし、そこから歩く方向を決めてもいいね』
彩花は頷き、次の文章を打った。
『時間はどうしよう? 午後の方が少し暖かいかな』
『そうだね。午前中は冷えると思うから、午後の早い時間がよさそうかな。たとえば、午後一時半くらいはどう?』
彩花はその提案を読み、少しだけ考えた。
午後一時半なら、昼食を家で済ませてから出かけられる。帰りが遅くなる心配も少なく、寒くなる前に帰宅できそうだった。
『うん、午後一時半なら大丈夫だよ。私もその時間がいいと思う』
『分かった。それじゃあ、明日の午後一時半に、前に待ち合わせた川沿いの場所で会おうか』
彩花はその文章を読み、胸が少しだけ高鳴った。
ついに、約束が形になった。
『うん。楽しみにしてるね、悠真君』
『俺も楽しみにしてるよ、彩花さん。明日の朝、天気をもう一度確認して、もし風が強かったら無理せず相談しよう』
『そうだね。寒さにも気をつけて、二人で楽しめる日にしようね』
二人はそう約束し、メッセージを終えた。
彩花はスマートフォンを持ったまま、しばらく画面を見つめていた。
明日の午後一時半。
前に待ち合わせた川沿いの場所。
悠真と一緒に歩く時間が、ようやく決まった。
彩花はそのことが嬉しくて、自然と笑顔になった。
◇
九条家では、悠真が書斎で手帳を開いていた。
土曜日の欄へ、午後一時半の待ち合わせを書き込む。
昨日までは白かった予定表に、彩花と過ごす時間が加わった。
悠真はその文字を見つめ、少しだけ微笑んだ。
前に川沿いを歩く約束をしたときは、強い風のために見送ることになった。あの日は残念だったが、無理をしなかったからこそ、今度は安心して楽しめる日を選べたのだと思う。
もちろん、明日の天気が必ず予報どおりになるとは限らない。朝になって風が強ければ、また相談する必要があるだろう。
それでも、今は楽しみにしていていい。
悠真はそう思いながら、机の引き出しへ目を向けた。
中には、彩花と以前歩いた日に拾った橙色の葉が、紙に包まれてしまってある。練習用の葉はまだ乾燥の途中で、栞として仕上げる方法も決まっていない。
悠真は引き出しを開けず、そのまま手帳を閉じた。
明日は、贈り物を渡すための日ではない。
彩花と一緒に歩き、話し、冬へ向かう景色を楽しむ日だ。
その時間を大切にしたいと思った。
◇
彩花は寝る前に、淡い緑色の葉模様の日記帳を開いた。
今日の出来事を思い返すと、文芸部で表紙の修正案について話し合ったことや、悠真と週末の予定を決めたことが浮かんできた。
彩花はまず、文芸部のことを書き始めた。
『今日は表紙担当の人が、修正案の途中経過を見せてくれた。まだ完成していないけれど、元の雰囲気を残しながら、見えにくいところを調整する方向で進んでいる。急いで決めるのではなく、ちゃんと考える時間があることが嬉しかった。』
書き終えたあと、彩花は少しだけペンを止めた。
そして、今日一番胸に残っている出来事を思い返した。
悠真と、明日の川沿いの散歩について約束したこと。
午後一時半に、前に待ち合わせた場所で会う。
それだけのことなのに、胸の奥が温かくなる。
彩花は日記帳へ、ゆっくり文字を書き足した。
『悠真君と、明日の午後一時半に川沿いを歩く約束をした。前に風が強くて延期したから、今度こそ一緒に歩けたら嬉しい。天気が変わったら無理せず相談することになっているけれど、今は明日がとても楽しみ。』
彩花はそこまで書き、少しだけ頬を赤くした。
明日、悠真と会ったら、何を話そう。
文芸部のことも、最近読んだ本のことも、書いている物語のことも、話したいことはたくさんある。
けれど、全部を話そうとしなくてもいいのかもしれない。
ただ一緒に歩き、同じ景色を見て、何気ない会話を交わせるだけでも、きっと楽しい。
彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。
窓の外では、冬へ向かう青凪市の夜が静かに広がっている。遠くの街灯が道を照らし、風に揺れる枝の影が窓ガラスへ淡く映っていた。
明日は、悠真と歩く日。
彩花はその小さな約束を胸に、ゆっくり目を閉じた。




