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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第109話 冬の川辺で、君と見つけた新しい景色


 土曜日の朝、水瀬彩花はいつもより少し早く目を覚ました。


 カーテンの隙間から差し込む光は柔らかく、部屋の中には冬へ向かう季節特有の静けさが漂っている。窓の外へ目を向けると、青凪市の空には薄い雲が浮かんでいたものの、その向こうには澄んだ青色が広がっていた。


 昨夜まで気になっていた風も、今朝はそれほど強くないらしい。庭の木々はときおり枝先を揺らす程度で、以前、川沿いの散歩を見送った日のような強い風は吹いていなかった。


(よかった。今日は、悠真君と歩けそう)


 彩花は布団の中で小さく微笑み、それからゆっくり起き上がった。


 今日は午後一時半に、悠真と川沿いで待ち合わせることになっている。昨日の夜、二人で天気や時間を確認しながら決めた約束だった。


 まだ出かけるまでには時間がある。それでも、楽しみにしていた予定がある朝は、普段よりも少しだけ時間の流れが違って感じられた。


 彩花は洗面所で顔を洗い、髪を整えてから階下へ向かった。


 台所では母の紗月が朝食の準備をしており、食卓には父の耕助と姉の凛花が座っていた。焼いたパンの香りが部屋に広がり、窓から差し込む朝の光が湯気の立つカップを照らしている。


「おはよう、彩花。今日は早いのね」


 紗月が声をかけると、彩花は少し照れながら頷いた。


「おはよう、お母さん。なんだか自然に目が覚めちゃった。今日は悠真君と出かける予定だから、楽しみだったのかもしれない」


 その言葉に、凛花が顔を上げた。


「へえ、昨日ちゃんと決まったんだ。何時から?」


「午後一時半だよ。前に待ち合わせた川沿いの場所で会うことになったの」


「いいじゃん。天気も悪くなさそうだし、楽しんでおいで」


 凛花はそう言って笑った。


 耕助はカップを置き、娘へ穏やかな視線を向けた。


「川沿いは日陰になる場所もあるだろうから、寒くなったら無理せず休みなさい。帰る時間も、暗くなる前を目安にするといい」


「うん、お父さん。悠真君とも、あまり長く歩きすぎないようにしようって話してるよ」


 彩花が答えると、耕助は安心したように頷いた。


 紗月は朝食を並べながら、娘の表情を見て微笑んだ。


「温かい飲み物を持っていくなら、出かける前に用意してあげるわよ」


「ありがとう。でも、自分で準備してみたいな。昨日、凛花お姉ちゃんとも少し話したし」


 彩花がそう言うと、凛花は楽しそうに笑った。


「お、いいね。じゃあ、保温できるボトルを使うといいよ。外で飲むなら、熱すぎない方が飲みやすいと思う」


 彩花は頷き、朝食の席へ座った。


 家族との何気ない会話が、今日の楽しみを少しずつ現実のものにしていく。彩花は温かな飲み物を口にしながら、午後の待ち合わせを思い浮かべた。


     ◇


 九条家でも、土曜日の朝は穏やかに始まっていた。


 悠真は朝食を終えたあと、庭へ出てハクと少し遊んでいた。白い毛並みのサモエドは冷たい空気を気にする様子もなく、芝生の上を楽しそうに歩き回っている。


 悠真がしゃがんで声をかけると、ハクは嬉しそうに近づき、鼻先を彼の手へ押しつけた。


「ハク、今日は元気だね。朝からそんなに走って、疲れないの?」


 悠真が笑いながら頭を撫でると、ハクは尻尾を大きく振った。


 庭の向こうでは、冬へ向かう木々が静かに枝を伸ばしている。落ち葉はほとんど片づけられていたが、植え込みの奥にはまだ少しだけ色づいた葉が残っていた。


 悠真はその景色を眺めながら、以前、彩花と川沿いを歩いた日のことを思い出した。


 あの日、二人で拾った橙色の葉。


 今も紙に包み、机の引き出しへしまってある。練習用の葉はまだ乾燥の途中で、栞として仕上げる方法も決まっていない。


 悠真はそのことを思い出しながらも、今日は贈り物について考えすぎないようにしようと思った。


 今日は彩花と一緒に歩く日だ。


 その時間を、素直に楽しみたい。


 庭から戻ると、居間では妹の琴葉が本を読んでいた。悠真の姿に気づくと、顔を上げて微笑んだ。


「お兄様、今日は彩花さんとお出かけなんですよね?」


「うん。午後から川沿いを少し歩く予定だよ」


「いいですね。今日は風もあまり強くないみたいですし、きっと楽しいと思います」


 琴葉はそう言い、本を閉じた。


「でも、寒さには気をつけてくださいね。お兄様は彩花さんとお話ししていると、時間を忘れてしまいそうですから」


 悠真は少し驚き、それから苦笑した。


「そんなに時間を忘れているかな?」


「少なくとも、楽しそうにお話ししているときは、時計を見る回数が少ない気がします」


 琴葉は穏やかな笑みを浮かべた。


 悠真は少し照れながら頷いた。


「そうかもしれないね。でも、今日はちゃんと時間を確認するよ。彩花さんにも寒い思いをさせたくないし」


「それなら安心です。楽しんできてくださいね」


 琴葉の言葉に、悠真は微笑んだ。


     ◇


 昼食を終えたあと、彩花は自室で出かける準備を始めた。


 机の上には、昨日の夜に確認した天気予報のメモが置かれている。朝にももう一度確認したところ、午後は晴れ間が多く、風も比較的穏やかな予報だった。


 彩花はスマートフォンを手に取り、悠真へ短いメッセージを送った。


『悠真君、おはよう。今日の天気を確認したけど、今のところ大丈夫そうだね。予定どおり、午後一時半に会えそうかな?』


 しばらくして、返事が届いた。


『おはよう、彩花さん。俺も確認したよ。風も強くなさそうだから、予定どおりで大丈夫だと思う。午後一時半に、前に待ち合わせた場所で会おう』


 彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


『うん。楽しみにしてるね。気をつけて来てね』


『ありがとう。彩花さんも気をつけて。あとで会えるのを楽しみにしてるよ』


 メッセージを終えると、彩花はスマートフォンを鞄へしまった。


 服装は、暖かさを優先しながらも、少しだけ自分らしいものを選びたかった。落ち着いた色のニットに、動きやすいスカートと厚手のタイツを合わせ、上から柔らかな色合いのコートを羽織る。


 鏡の前に立つと、いつもの制服姿とは違う自分が映っていた。


(変じゃないかな。悠真君、どう思うだろう)


 彩花は少しだけ頬を赤くした。


 悠真にどう見られるかを気にしている自分に気づくと、胸の奥がくすぐったくなる。けれど、その気持ちを嫌だとは思わなかった。


 好きな人と会う日だから、少しだけおしゃれをしたい。


 それは、彩花にとって自然な気持ちだった。


 準備を終えると、彩花は台所で温かい紅茶をボトルへ入れた。紗月に教えてもらいながら温度を確かめ、外でも飲みやすいようにしておく。


「これなら大丈夫そうね。帰ってきたら、どんな景色だったか教えてね」


 紗月が微笑むと、彩花も笑顔で頷いた。


「うん。行ってきます」


     ◇


 午後一時を少し過ぎた頃、悠真は九条家を出発した。


 空には薄い雲が浮かんでいたが、日差しは穏やかで、風も強くない。コートの襟を整えながら歩くと、冷たい空気の中にも少しだけ柔らかな暖かさが感じられた。


 待ち合わせ場所へ向かう道では、買い物帰りの人や散歩を楽しむ人の姿が見えた。冬へ向かう季節の午後は、秋とは違う静けさをまとっている。


 悠真は歩きながら、彩花と何を話そうか考えていた。


 文芸部のこと。


 最近読んだ本のこと。


 彼女が書いている新しい物語のこと。


 話したいことはいくつもあるが、すべてを用意しておく必要はないのかもしれない。彩花と一緒に景色を見れば、その場で自然に話したくなることもあるだろう。


 そう考えると、悠真の足取りは少し軽くなった。


     ◇


 彩花が待ち合わせ場所へ着いたのは、約束の時間より少し前だった。


 川沿いの遊歩道には、冬の気配が漂っていた。水面は午後の日差しを受けて淡く光り、岸辺の草は少し色を失っている。以前は葉が多く残っていた木々も、今は枝の形がはっきり見えるようになっていた。


 彩花は川の流れを眺めながら、悠真を待った。


 遠くでは小さな子どもが家族と歩いており、犬を連れた人がゆっくり通り過ぎていく。人通りは多すぎず、静かに散歩を楽しむにはちょうどよさそうだった。


 彩花はスマートフォンで時間を確認し、少しだけ深呼吸をした。


 もうすぐ悠真が来る。


 そう思っただけで、胸が少し高鳴った。


 やがて、遊歩道の向こうから見慣れた姿が近づいてきた。


 落ち着いた色のコートを着た悠真は、彩花に気づくと穏やかに微笑み、歩く速度を少し上げた。


「彩花さん、お待たせ。寒くなかった?」


 悠真が声をかけると、彩花は笑顔で首を横に振った。


「ううん。私も少し前に着いたところだよ。今日は風があまり強くないから、思ってたより寒くないね」


「そうだね。前に予定していた日は風が強かったけど、今日は歩きやすそうでよかった」


 悠真はそう答え、彩花の服装へ目を向けた。


 柔らかな色合いのコートと、落ち着いた雰囲気の服装がよく似合っている。いつもの制服姿とは違う彩花を見て、悠真は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。


「今日の服、すごく似合ってるね。彩花さんらしくて、素敵だと思う」


 彩花はその言葉に、思わず頬を赤くした。


「えっ……ありがとう。寒くないようにしようと思って選んだんだけど、そう言ってもらえると嬉しいな」


 彩花は少し照れながら微笑んだ。


 悠真もその表情を見て、穏やかに笑った。


「それじゃあ、少し歩こうか。寒くなったら、途中で休憩しよう」


「うん。今日はゆっくり景色を見たいな」


 二人は並んで、川沿いの遊歩道を歩き始めた。


     ◇


 川の流れは穏やかで、水面には冬の空が淡く映っていた。


 遊歩道の脇には、葉を落とした木々が並んでいる。枝の間から見える空は広く、秋には気づかなかった遠くの建物まで見渡せるようになっていた。


 彩花はその景色を眺めながら、ゆっくり歩いた。


「前に来たときと、ずいぶん雰囲気が違うね。葉っぱが少なくなったから、向こうまでよく見える」


 悠真は頷き、川の向こう岸へ目を向けた。


「本当だね。前は木の葉に隠れていたところも見えるようになってる。季節が変わると、同じ場所でも違う景色になるんだね」


 彩花はその言葉に微笑んだ。


「うん。文芸部の表紙担当の人が、冬は何もなくなる季節じゃなくて、見えるものが変わる季節だって話してたの。今日ここへ来て、その言葉が少し分かった気がする」


 悠真は彩花の話を聞き、穏やかに頷いた。


「素敵な考え方だね。葉が落ちたからこそ見える景色もあるし、冬には冬のよさがあるんだと思う」


 彩花はその言葉を聞き、少しだけ嬉しくなった。


 自分が大切だと思った言葉を、悠真も同じように受け止めてくれる。


 それが、彩花には心地よかった。


 二人はしばらく、川の流れを眺めながら歩いた。


 遠くでは鳥が水面近くを飛び、岸辺の草が風に揺れている。冬の空気は冷たいが、日差しの当たる場所では少しだけ暖かさを感じられた。


     ◇


 しばらく歩いたところで、彩花は鞄から小さなボトルを取り出した。


「悠真君、少し休憩しない? 温かい紅茶を持ってきたの」


 悠真はその言葉に微笑んだ。


「いいね。俺もちょうど少し休もうかと思ってたところだよ」


 二人は遊歩道の脇にあるベンチへ向かった。


 ベンチの周囲には落ち葉が少し残っていたが、座る場所は乾いていた。彩花はボトルの蓋を開け、温かい紅茶を少しだけ注いだ。


 湯気が冷たい空気の中へ立ち上り、紅茶の香りがふわりと広がる。


「外で飲むと、いつもより温かく感じるね」


 彩花がそう言うと、悠真は穏やかに笑った。


「そうだね。寒いところで飲む温かいものって、少し特別な感じがする」


 悠真も持ってきた飲み物を取り出し、二人は並んでベンチへ座った。


 川の向こうでは、ゆっくり歩く人たちの姿が見える。水面を渡る風は冷たいが、日差しがあるため、長く座っていなければ寒すぎることはなさそうだった。


 彩花は紅茶を一口飲み、ほっと息をついた。


「今日、来られてよかったね」


 その言葉に、悠真は頷いた。


「うん。前に延期したときは少し残念だったけど、今日みたいに穏やかな日に歩けてよかったと思う」


 彩花はその言葉を聞き、微笑んだ。


「私も。無理にあの日出かけなくてよかったね」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。


 そのあと、彩花は文芸部のことを少し話した。


 表紙の修正案がまだ完成していないこと。


 枝先の線と下部の文字を調整する方向で考えていること。


 元の表紙の雰囲気を大切にしたいという気持ちが、部員たちの間で共有されていること。


 悠真はその話を丁寧に聞き、時折頷いた。


「彩花さんたち、みんなで一つのものを作ってるんだね。大変なこともあると思うけど、完成したときはきっと嬉しいだろうな」


 彩花は少しだけ照れながら笑った。


「うん。私も楽しみ。自分の小説が載ることも嬉しいけど、みんなの作品が一冊になるのが、すごく楽しみなんだ」


 悠真はその言葉に微笑んだ。


「完成したら、ぜひ読ませてほしいな」


「もちろんだよ。悠真君には、ちゃんと読んでもらいたいと思ってる」


 彩花はそう答え、少しだけ頬を赤くした。


 悠真はその表情を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。


     ◇


 休憩を終えたあと、二人は再び川沿いを歩き始めた。


 遊歩道の先には、小さな橋が見えていた。橋の周囲には低い木々が並び、川の流れが少しだけ緩やかになっている。


 彩花はその景色を眺めながら、ふと立ち止まった。


「悠真君、あそこ、前に来たときはあまり見えなかった気がする」


 彩花が指さしたのは、木々の向こうにある小さな階段だった。川辺へ降りるためのものらしいが、今は立ち入りを控えるよう案内が出ている。


 悠真はその方向へ目を向け、頷いた。


「本当だね。前は葉が多くて、あそこまで見えなかったのかもしれない」


 彩花は少しだけ考え、それから微笑んだ。


「なんだか、本を読み返したときに、前は気づかなかったところが見つかるのと似てるね」


 悠真はその言葉に、少し驚いたように彩花を見た。


「確かにそうかもしれない。同じ本でも、読む時期や気持ちが違うと、印象に残るところが変わることがあるよね」


「うん。私、最近それをよく感じるの。前は物語の大きな出来事ばかり気にしてたけど、今は何気ない会話とか、小さな仕草が気になることもあって」


 彩花はそう言い、少しだけ照れたように笑った。


「自分で小説を書くようになったからかもしれないけど、誰かが何かを言うまでの時間とか、言葉にしなかった気持ちも大切なんだなって思うようになったんだ」


 悠真はその話を聞き、穏やかに頷いた。


「彩花さんの書く物語にも、そういうところが表れているんだろうね」


 彩花は少し驚き、悠真を見た。


「そうかな?」


「うん。前に読ませてもらった文章でも、登場人物が何を考えているのか、言葉にしていないところから伝わってくることがあったから」


 彩花はその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 悠真は、ただ褒めてくれているのではない。


 自分の文章を読んで、どこが心に残ったのかを覚えてくれている。


 それが、彩花には何より嬉しかった。


「ありがとう、悠真君。そう言ってもらえると、もっと丁寧に書きたいって思えるよ」


 悠真は微笑んだ。


「俺も、彩花さんの新しい物語を読むのを楽しみにしてるよ。完成したら、最初に読ませてくれるんだよね」


 彩花は頷いた。


「うん。まだ途中だけど、完成したら悠真君に一番に読んでもらいたい」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。


     ◇


 川沿いを歩いているうちに、日差しが少しずつ傾き始めた。


 空の色はまだ明るいが、冬へ向かう季節の午後は、時間が進むにつれて冷え込みが増していく。彩花はコートの襟を少し整え、手を袖の中へ引き寄せた。


 その仕草に気づいた悠真が、穏やかに声をかけた。


「彩花さん、少し寒くなってきた?」


「うん、ちょっとだけ。でも、まだ大丈夫だよ」


 彩花はそう答えたが、悠真は空の様子を見てから、少し考えた。


「そろそろ戻る方向へ歩こうか。帰る頃に暗くなるといけないし、今日は無理せずこのくらいにしておこう」


 彩花は頷いた。


「そうだね。私も、今日はこれくらいがちょうどいいと思う」


 二人は来た道をゆっくり戻り始めた。


 帰り道では、さっきまで見ていた景色が少し違って見えた。太陽の位置が変わったことで、水面の光も柔らかくなり、木々の影が遊歩道へ長く伸びている。


 彩花はその変化を眺めながら、少しだけ微笑んだ。


「同じ道を歩いてるのに、帰りはまた違う景色に見えるね」


 悠真は頷いた。


「そうだね。さっきは気づかなかったところもあるし、光の当たり方で印象が変わるんだね」


 彩花はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 今日、悠真と一緒に歩けてよかった。


 同じ景色を見て、同じように変化を感じて、言葉を交わせたことが嬉しかった。


     ◇


 待ち合わせ場所の近くへ戻ると、二人は少しだけ足を止めた。


 川沿いの遊歩道には、午後の穏やかな光が残っている。遠くでは子どもたちの笑い声が聞こえ、犬を連れた人がゆっくり通り過ぎていった。


 彩花は悠真へ顔を向けた。


「今日はありがとう、悠真君。すごく楽しかった」


 悠真は穏やかに微笑んだ。


「こちらこそ、ありがとう。彩花さんと一緒に歩けて、俺も楽しかったよ」


 彩花はその言葉を聞き、少しだけ頬を赤くした。


「また、こうして一緒に歩けたら嬉しいな」


 悠真は頷いた。


「うん。季節が変わったら、また違う景色が見られるかもしれないしね」


 二人はしばらく、川の流れを眺めていた。


 特別な出来事があったわけではない。


 けれど、彩花にとっては、今日の時間そのものが特別だった。


 悠真と一緒に歩き、話し、同じ景色を見た。


 その記憶が、胸の奥へ静かに残っていく。


「それじゃあ、気をつけて帰ってね、悠真君」


「彩花さんも。家に着いたら、ゆっくり休んでね」


 二人は微笑み合い、それぞれ帰り道へ向かった。


     ◇


 帰宅した彩花を、紗月が玄関で迎えた。


「おかえり、彩花。どうだった?」


 彩花は上着を脱ぎながら、自然と笑顔になった。


「ただいま、お母さん。すごく楽しかったよ。前に行ったときより葉っぱが少なくなってて、川の向こうまでよく見えたの」


 紗月はその表情を見て、穏やかに微笑んだ。


「それはよかったわね。寒くなかった?」


「少し寒かったけど、温かい紅茶を持っていったから大丈夫だったよ。途中で休憩もしたし、暗くなる前に帰ってきたから」


 彩花が答えると、紗月は安心したように頷いた。


 彩花は自室へ戻り、鞄を置いた。


 机の上には、星模様のノートが置かれている。


 今日の景色を思い出すと、少女の物語にも少しだけ書きたいことが浮かんできた。


 彩花はノートを開き、昨日までの文章を読み返した。


 祖母へ手紙を書き始めた少女。


 寂しさを感じながらも、言葉を届けたいと思っている少女。


 彩花はペンを持ち、続きを書き始めた。


『少女は窓の外の庭を見つめた。祖母がいた頃と同じ場所に、同じ花が咲こうとしている。けれど、今の庭は少し違って見えた。祖母がいないからではなく、少女自身が、前よりも小さな変化に気づくようになったからかもしれなかった。』


『蕾の先が少しだけ開いていること。雨のあとに土の色が濃くなること。風が吹くと、細い枝がゆっくり揺れること。少女は、そんな小さな出来事を祖母へ伝えたいと思った。』


 彩花はそこでペンを止めた。


 今日、悠真と歩いた川沿いの景色が、文章の中へ少しだけ重なっている気がした。


 同じ場所でも、季節や時間によって見えるものが変わる。


 そのことを、少女にも感じてほしかった。


 彩花はノートを閉じ、少しだけ微笑んだ。


     ◇


 夜、彩花は悠真へメッセージを送った。


『悠真君、今日はありがとう。すごく楽しかったよ。帰り道も、川の景色がきれいだったね』


 少しして、返事が届いた。


『こちらこそ、ありがとう。彩花さんと一緒に歩けて、俺も楽しかったよ。同じ場所でも、季節が変わると見えるものが違うんだね』


 彩花はその文章を読み、微笑んだ。


『うん。今日の景色を見て、新しい物語にも少し書きたいことが浮かんだの』


『そうなんだね。それは嬉しいな。彩花さんの物語が、少しずつ形になっていくのを楽しみにしてるよ』


 彩花はその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。


『ありがとう。完成したら、約束どおり一番に読んでもらいたいな』


『うん。楽しみに待ってるよ』


 二人はそのあと、少しだけ今日の出来事を振り返り、互いにおやすみを伝えた。


 彩花はスマートフォンを置き、葉模様の日記帳を開いた。


 今日のことを、忘れないうちに書いておきたかった。


『今日は悠真君と川沿いを歩いた。前に風が強くて延期したけれど、今日は穏やかな天気で、ゆっくり景色を見ることができた。葉っぱが少なくなった木々の向こうに、前は見えなかった景色が広がっていた。』


 彩花は少しだけペンを止め、今日の悠真の言葉を思い出した。


 服が似合っていると言ってくれたこと。


 自分の小説を楽しみにしてくれていること。


 また一緒に歩こうと話してくれたこと。


 その一つ一つが、胸の奥へ静かに残っている。


『悠真君と一緒にいると、何気ない景色も特別に感じる。今日も、同じものを見て、同じようにきれいだと思えたことが嬉しかった。また、こんな時間を過ごせたらいいな。』


 彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。


 窓の外では、青凪市の夜が静かに広がっている。遠くの街灯が道を照らし、冬へ向かう風が木々の枝を揺らしていた。


 今日、悠真と歩いた川沿いの景色。


 その記憶を胸に、彩花はゆっくり目を閉じた。


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