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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第110話 昨日の景色を胸に、君へ届けたい言葉


 日曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、最初に思い浮かんだのは、昨日の川沿いで見た景色だった。


 葉を落とした木々の向こうに広がっていた空。冬の光を受けて静かに輝いていた水面。そして、隣を歩いていた悠真の穏やかな声。


 カーテンを開けると、青凪市の空には薄い雲が広がっていた。昨日ほど日差しは強くないものの、雨が降りそうな気配はなく、住宅街には休日らしい落ち着いた空気が漂っている。


(昨日、本当に楽しかったな。悠真君と歩いていると、いつもの景色なのに、知らなかったものを見つけられる気がする)


 彩花は窓辺に立ったまま、昨日の帰り際に交わした言葉を思い出した。


 また一緒に歩けたら嬉しいと伝えたとき、悠真は自然な笑顔で頷いてくれた。季節が変われば、また違う景色が見られるかもしれない、と。


 その言葉が、今も胸の中に残っている。


 彩花はしばらく窓の外を眺めてから、寝間着を着替えた。今日は文芸部の活動もなく、特別な外出の予定もない。だからこそ、読みかけの本を進めたり、自分の物語に向き合ったりする時間を大切にしたかった。


 階下へ降りると、台所から温かい味噌汁の香りが漂ってきた。


「おはよう、彩花。今日はゆっくり眠れた?」


 母の紗月が振り返ると、彩花は笑顔で頷いた。


「おはよう、お母さん。うん、ぐっすり眠れたよ。昨日は少し歩いたからかな」


「そうかもしれないわね。寒い中を歩くと、自分で思っているより疲れることもあるから。今日はゆっくり過ごすといいわ」


 紗月はそう言いながら、食卓へ小鉢を並べた。


 父の耕助はすでに席についており、新聞を読み終えたところだった。姉の凛花はまだ眠そうな顔でお茶を飲んでいたが、彩花の姿に気づくと、少しだけ表情を明るくした。


「おはよう、彩花。昨日はずいぶん楽しそうに帰ってきたね。川沿い、そんなによかった?」


 彩花は椅子を引きながら、昨日見た景色を思い出した。


「うん。前に行ったときとは、全然違って見えたの。木の葉が少なくなっていて、向こう岸までよく見えたし、同じ道なのに新しい場所を歩いているみたいだった」


「へえ。景色って、そんなに変わるものなんだ」


「私もびっくりしたよ。文芸部の表紙担当の人が、冬は見えるものが変わる季節だって言っていたんだけど、昨日はその言葉を思い出したの」


 彩花が話すと、耕助が新聞を畳んで顔を上げた。


「葉が落ちると、木の形がよく分かるからな。夏には見えなかった建物や道が見えることもある。そういう変化に気づけるのは、いいことだと思うよ」


「うん。それに、悠真君も同じように感じてくれたから、嬉しかった」


 何気なく口にした言葉だったが、凛花が少しだけ笑みを深くした。


「なるほどね。景色がきれいだっただけじゃなくて、一緒に見た人も大事だったわけだ」


「お、お姉ちゃん……」


 彩花が頬を赤くすると、凛花は楽しそうに笑った。


「別にからかってないよ。誰かと同じものを見て、同じようにいいなって思えるのは素敵なことじゃん」


 その言葉に、彩花はすぐには返事をしなかった。


 凛花の言うことは、確かにそのとおりだと思ったからだ。


 昨日の川沿いは、一人で歩いてもきっと美しかっただろう。けれど、悠真と一緒だったからこそ気づけたものがある。


 彼が足を止めた場所。彼が見つけた遠くの景色。自分の言葉を聞いて、同じ方向へ目を向けてくれたこと。


 それらが重なって、昨日という一日を特別なものにしていた。


 彩花は温かい味噌汁を一口飲み、少し照れながら微笑んだ。


「……うん。私も、そう思う」


 紗月は娘の表情を見守りながら、何も言わずに微笑んでいた。


     ◇


 朝食のあと、彩花は自室へ戻り、机の上を片づけた。


 昨日使った鞄からは、空になった飲み物のボトルを取り出してある。代わりに机の端には、星模様のノートと、中央図書館で借りている小説が並んでいた。


 その本は、離れて暮らす家族が季節の便りを交わす物語だった。


 借りてから少しずつ読み進めていたものの、学校や文芸部の活動、自分の執筆に時間を使っていたため、まだ最後まで読み終えていなかった。


 彩花は椅子へ座り、しおりを挟んだページを開いた。


 物語の中では、離れて暮らす家族が、それぞれの生活の中で見つけた小さな出来事を手紙に書いていた。


 特別な事件が起こるわけではない。


 庭に咲いた花のこと。近所の店で見つけたお菓子のこと。朝、窓を開けたときに感じた風のこと。


 けれど、それらの何気ない出来事が手紙に書かれることで、離れて暮らす相手の生活を少しだけ近くに感じられるようになっていた。


 彩花はページをめくる手を止め、文章の余韻を味わった。


(私が書いている少女も、きっと同じなんだ。おばあちゃんに大きな出来事を伝えたいわけじゃなくて、離れていても同じ時間を分け合いたいのかもしれない)


 彩花の物語では、少女は祖母へ手紙を書き始めている。


 最初の一行は、庭の花がもうすぐ咲きそうだという知らせだった。


 その言葉を書けたことで、少女は少しだけ前へ進んだ。けれど、手紙はまだ完成していないし、祖母へ何をどこまで伝えたいのかも、十分には整理できていない。


 彩花は読みかけの本へ視線を戻した。


 小説の登場人物は、ある手紙の返事を待ちながら、相手が自分と同じ景色を見ていないことを寂しく感じていた。


 しかし、返事が届いたとき、そこには相手が暮らす土地の小さな出来事が書かれていた。知らない町の天気や、見たことのない庭の様子が、文章を通して少しずつ身近なものになっていく。


 彩花はその場面をゆっくり読み進めた。


 離れているからこそ、伝えられることがある。


 同じ場所にいないからこそ、相手の言葉を通して知る景色がある。


 その考え方は、昨日、悠真と歩いた川沿いで感じたことにも少し似ていた。


 同じ場所にいても、二人が見つけるものは必ずしも同じではない。だからこそ、見つけたものを言葉にして伝え合うことで、一人では気づけなかった景色が広がっていく。


 彩花はページをめくり、物語の続きを読んだ。


 窓の外では、薄い雲の間から日差しが差し込み始めていた。机の上に落ちる光がゆっくり移動していく中、彩花は時間を忘れるように本へ集中していた。


 やがて最後のページへたどり着いたとき、彩花はすぐに本を閉じなかった。


 物語の結末では、離れて暮らす家族が再び顔を合わせる場面が描かれていた。手紙に書かれていた出来事が、会話の中で自然に思い出され、互いの知らなかった時間を少しずつ埋めていく。


 彩花は最後の文章をもう一度読み返し、それから静かに本を閉じた。


 胸の奥には、温かさと、少しだけ切ない気持ちが残っていた。


(手紙って、会えない時間を全部埋めるものじゃないんだね。でも、離れている間も相手を思っていたことは、ちゃんと伝えられるんだ)


 彩花は本の表紙を撫で、しばらくその余韻に浸っていた。


 読み終えた本をすぐに返す必要はない。借りた本として大切に扱い、返却日までに図書館へ持っていけばいい。


 彩花はしおりを外し、本を机の端へ置いた。


 その隣にある星模様のノートが、今は少し違って見えた。


     ◇


 同じ頃、九条家では悠真が祖父の俊治と居間で話していた。


 窓の外には手入れの行き届いた庭が広がり、冬へ向かう木々が穏やかな日差しを受けている。暖炉の火は静かに燃えており、部屋には落ち着いた暖かさが満ちていた。


 俊治は湯気の立つお茶を手にしながら、孫の顔を見た。


「昨日は、川沿いへ出かけたそうだな」


「はい。彩花さんと、以前歩いた道をもう一度歩いてきました。風もそれほど強くなくて、ゆっくり景色を見ることができました」


 悠真が答えると、俊治は穏やかに頷いた。


「それはよかった。季節が変われば、同じ場所でも違うものが見えるだろう」


「はい。葉が落ちたことで、前には見えなかった向こう岸の景色まで見えるようになっていました。彩花さんも、その変化を楽しんでいました」


 俊治はその言葉を聞き、少しだけ微笑んだ。


「お前は、ずいぶん楽しそうに話すようになったな」


 悠真は一瞬、祖父の顔を見た。


「そうでしょうか」


「ああ。以前のお前は、出かけた先で何を見たかを話すことはあっても、誰とどんな時間を過ごしたかを、そこまで嬉しそうに語ることは少なかった」


 俊治の声には、からかうような響きはなかった。


 悠真は少しだけ視線を落とし、昨日のことを思い返した。


 彩花が冬の木々を見上げていた姿。紅茶を飲みながら笑っていた表情。自分の小説について話すときの、真剣で柔らかな眼差し。


 思い出すだけで、胸の奥が温かくなる。


「……彩花さんと一緒にいると、普段なら通り過ぎてしまうようなことにも気づけるんです。昨日も、同じ道なのに新しい場所を歩いているような気がしました」


 悠真がそう答えると、俊治は静かに頷いた。


「誰かと過ごすことで、見える世界が変わることはある。だが、それは相手が特別なものを見せてくれるからだけではない。お前自身が、相手の見ているものを知りたいと思っているからだろう」


 その言葉に、悠真は少し考え込んだ。


 確かに、彩花といるときは、彼女が何を見て、何を感じているのかを知りたくなる。


 彼女が足を止めれば、自分もその先へ目を向ける。彼女が本について話し始めれば、どんなところが心に残ったのかをもっと聞きたくなる。


 それは、ただ同じ時間を過ごしたいという気持ちだけではなかった。


(彩花さんが大切にしているものを、俺も大切にしたいんだ)


 悠真はそう思いながら、祖父へ顔を向けた。


「そうかもしれません。彩花さんが見つけたものを聞くのが、俺は好きなんです」


 俊治は穏やかに微笑んだ。


「それなら、その気持ちを大事にするといい。相手を知りたいと思うことは、相手を自分の思いどおりにしたいと思うこととは違うからな」


 悠真はその言葉を胸に留め、静かに頷いた。


     ◇


 祖父との話を終えたあと、悠真は自室へ戻った。


 机の上には、琴葉と一緒に確認していた練習用の葉が、吸水紙に挟まれた状態で置かれている。今日は乾燥の進み具合を確かめる予定だった。


 悠真は机の前へ座り、慎重に紙を開いた。


 中の葉は、以前よりも平らになっているように見えた。色は少し茶色がかっており、端の一部にはまだわずかな反りが残っている。


 悠真は葉へ直接強い力を加えないようにしながら、表面の様子を観察した。


 見た目には乾いているようでも、内部まで十分に乾燥しているかどうかは分からない。以前、祖父から教わったように、焦って仕上げるのではなく、状態を確かめながら進める必要があった。


 しばらくすると、扉が軽く叩かれた。


「お兄様、入ってもよろしいですか?」


「うん、琴葉。ちょうど葉の様子を見ていたところだよ」


 悠真が答えると、琴葉が部屋へ入ってきた。


 机の上に広げられた紙を見て、琴葉は興味深そうに近づいた。


「前よりも平らになりましたね。でも、端のところはまだ少し曲がっています」


「そうだね。色も少し変わってきたけど、完全に乾いているかはまだ判断できないから、もう少し様子を見ようと思う」


 琴葉は頷き、葉の形をじっと見つめた。


「こうして比べると、葉っぱって一枚ずつ違うんですね。同じ木から落ちたものでも、形や色が少しずつ違いますし」


「うん。だから、練習用の葉でうまくいった方法が、必ず同じように使えるとは限らないんだと思う」


 悠真はそう答え、記録している紙へ今日の日付と観察した内容を書き加えた。


 琴葉はその様子を見ながら、少しだけ微笑んだ。


「お兄様、ずいぶん丁寧に進めていますね」


「大切なものだからね。失敗しないようにしたい気持ちはあるけど、焦って進めて傷めてしまう方が嫌なんだ」


 悠真の言葉に、琴葉は穏やかに頷いた。


「きっと、その気持ちも贈り物の一部なんだと思います」


 悠真は少し驚いたように妹を見た。


「気持ちも?」


「はい。完成したものだけじゃなくて、どうしてそれを作ろうと思ったのかとか、どんなふうに大切にしていたのかとか。そういうことも、きっと大事なんじゃないでしょうか」


 琴葉はそう言って、少し照れたように笑った。


 悠真は妹の言葉をゆっくり受け止めた。


 彩花へ贈ろうと考えている栞は、まだ形になっていない。


 けれど、その始まりには、二人で歩いた秋の日がある。彩花が大切にしていた景色があり、拾った葉を残しておきたいと思った自分の気持ちがある。


 完成までに時間がかかっても、その記憶が失われるわけではない。


「ありがとう、琴葉。そう考えると、少し気持ちが楽になるよ」


 悠真が微笑むと、琴葉も嬉しそうに頷いた。


 二人は練習用の葉を再び吸水紙へ挟み、無理な力がかからないように整えた。


 引き出しの中には、彩花と拾った橙色の葉が、今も紙に包まれてしまってある。


 悠真はその引き出しへ一度だけ目を向けたが、今日は取り出さなかった。


 まだ、急ぐ必要はない。


     ◇


 昼食を終えた彩花は、星模様のノートを開いていた。


 午前中に読み終えた小説の余韻が、まだ胸の中に残っている。


 ただ、そのまま自分の物語へ取り入れるつもりはなかった。読んだ本と、自分が書いている少女の物語は、似た題材を扱っていても、それぞれ違う時間を描いている。


 彩花が書きたいのは、祖母へ手紙を出すまでの少女の気持ちだった。


 遠くへ引っ越した祖母へ、何を伝えればいいのか分からない。寂しいと言いたい気持ちはあるが、それだけを書いてしまうと、祖母を心配させるのではないかとも思っている。


 だからこそ、少女は庭の花について書き始めた。


 けれど、花のことを書いたあとに何を続ければいいのか、まだ決められずにいる。


 彩花はノートの前でペンを持ち、しばらく考えた。


(少女は、おばあちゃんに何を一番知ってほしいんだろう。花が咲きそうなことだけじゃなくて、自分がちゃんと庭を見ていることも伝えたいのかな)


 彩花は少しだけ視線を上げた。


 窓の外には、家の庭が見えている。冬へ向かう季節のため、花壇の色は少なくなっていたが、土の上には小さな葉が残っていた。


 その景色を見ているうちに、彩花は少女の姿を思い浮かべた。


 祖母が引っ越す前、二人で庭の花へ水をやっていた少女。


 祖母がいなくなったあとも、同じ場所に立っている少女。


 けれど、今は水をやる相手が隣にいない。


 少女はその寂しさを感じながらも、庭の変化を見つけるたびに、祖母へ話しかけたくなる。


 彩花はゆっくりペンを動かした。


『少女は手紙の最初の一行を見つめた。


「おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。」


 書いた文字は、思っていたよりも小さかった。それでも、消してしまいたいとは思わなかった。


 少女は窓の外へ目を向けた。祖母と一緒に水をやった花は、まだ蕾のままだったが、昨日よりも少しだけ先が膨らんでいるように見えた。


 祖母がいた頃なら、きっとすぐに呼びに行っていただろう。


「おばあちゃん、見て。昨日より大きくなってるよ」


 そう言えば、祖母は庭へ出てきて、少女と同じ高さまでしゃがんでくれたはずだった。


 けれど、今はその声を聞くことができない。


 少女は机へ向き直り、もう一度手紙を見つめた。


 そして、少し迷ったあとで、次の一文を書き足した。


「毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。」』


 彩花はそこでペンを止めた。


 新しく書いた一文を、何度か読み返す。


 最初の一行は、花が咲きそうだという知らせだった。


 そして二行目には、少女が毎朝庭を見ていることが書かれている。


 祖母がいない時間を、少女がどのように過ごしているのか。


 その一部が、ようやく手紙の中へ入った気がした。


(この子は、寂しいだけじゃないんだ。おばあちゃんがいなくても、庭の花を見て、変化を見つけている。そのことを、おばあちゃんにも知ってほしいんだね)


 彩花はノートの余白へ、小さくメモを書き加えた。


『少女は、祖母に心配をかけたくないから明るいことを書くのではなく、自分が見つけたものを一緒に喜んでほしいと思っている。』


 書き終えると、彩花は少しだけ息を吐いた。


 これまで、少女が祖母へ何を伝えたいのかを考え続けていた。


 けれど、今日書いた二行目によって、少女の気持ちが少しだけはっきりしたように思えた。


 手紙はまだ完成していない。


 少女が祖母へ寂しさをどう伝えるのかも、まだ決まっていない。


 それでも、今は続きを書けそうな気がした。


 彩花はノートを閉じず、しばらく書いた文章を見つめていた。


     ◇


 午後三時を少し過ぎた頃、彩花は居間へ降りた。


 紗月はソファに座って本を読んでおり、凛花はテーブルで雑誌を眺めていた。窓の外では雲が少し厚くなり、室内の光が朝よりも柔らかくなっている。


「お母さん、少しお茶を飲んでもいい?」


「もちろん。ちょうど私も休憩しようと思っていたところよ」


 紗月は本へしおりを挟み、立ち上がった。


 彩花も台所へ向かい、カップを用意する。湯を沸かす音が静かな家の中へ響き、やがて温かな香りが広がった。


 三人でお茶を飲み始めると、凛花が彩花へ顔を向けた。


「今日はずっと部屋にいたけど、小説を書いてたの?」


「うん。午前中は図書館で借りた本を読み終えて、午後から自分の物語を書いてたよ」


「へえ、進んだ?」


 彩花はカップを両手で包みながら、少し考えてから答えた。


「うん。登場人物が手紙を書いているんだけど、その続きが少し書けたの。前は最初の一行だけだったけど、今日はもう少し、自分が伝えたいことを書けるようになった気がする」


 凛花はその言葉に微笑んだ。


「いいじゃん。書きたいことが少しずつ見つかってるんだね」


「うん。でも、まだ完成までは時間がかかりそう。登場人物がどんな気持ちで手紙を終えるのか、ちゃんと考えたいから」


 彩花がそう言うと、紗月が穏やかに頷いた。


「急がなくてもいいんじゃないかしら。大切な言葉ほど、すぐには見つからないこともあるでしょうし」


 その言葉に、彩花は少しだけ微笑んだ。


 母は物語の詳しい内容を知らない。


 けれど、今の自分が感じていることに、どこか近い言葉をかけてくれたような気がした。


「うん。私も、そう思う。ちゃんと納得できるところまで書いてみたいな」


 紗月は微笑み、温かいお茶を一口飲んだ。


 凛花はしばらく雑誌を眺めていたが、ふと思い出したように顔を上げた。


「そういえば、昨日の散歩の話を聞いて思ったんだけどさ。彩花って、最近、前より自分の考えを話すようになったよね」


 彩花は少し驚き、姉を見た。


「そうかな?」


「うん。前は、何か聞かれても『どうだろう』とか『まだ分からない』って答えることが多かった気がする。でも最近は、自分がどう思ったかをちゃんと話してくれることが増えたと思う」


 凛花はそう言い、少しだけ笑った。


「昨日の川沿いの話もそうだし、文芸部のことも。自分が何を大切にしたいのか、前よりはっきりしてきたんじゃない?」


 彩花はすぐには答えられなかった。


 姉にそう言われるまで、自分の変化をそこまで意識していなかったからだ。


 けれど、思い返してみれば、確かに少しずつ変わっているのかもしれない。


 文芸部で、自分の意見を伝えられるようになったこと。


 表紙担当の部員へ、元の雰囲気を大切にしたいという気持ちを話せたこと。


 悠真へ、一緒に歩きたいと素直に伝えられたこと。


 以前なら、相手の気持ちを気にしすぎて、言葉を飲み込んでいたかもしれない。


(私、少しずつだけど、自分の気持ちを言えるようになってるのかな)


 彩花はカップへ視線を落とし、それから小さく頷いた。


「……そうだったら、嬉しいな。まだ迷うことも多いけど、前よりは、自分がどうしたいのか考えるようになった気がする」


 凛花はその答えを聞き、嬉しそうに微笑んだ。


「それでいいと思うよ。全部すぐに決められる必要はないんだし」


 彩花は姉の言葉を胸に留め、温かいお茶を飲んだ。


 窓の外では、雲の間から少しだけ日差しが戻っていた。


     ◇


 夕方、悠真は父の正樹と短い時間を過ごしていた。


 先日話題になっていた来月の家族の予定について、改めて確認するためだった。


 九条家では、家族の予定を早めに共有しておくことが多い。仕事や学校の都合が重なることもあるため、全員が参加する必要のある予定と、調整できる予定を分けて考えるようにしていた。


 正樹は手元の資料を確認しながら、悠真へ顔を向けた。


「来月の予定については、まだ確定していない部分がある。お前の学校の予定もあるだろうから、決まり次第、改めて相談しよう」


「分かりました。生徒会の予定も確認しておきます」


 悠真が答えると、正樹は頷いた。


「それと、昨日は出かけていたそうだな。麗華から聞いたよ」


「はい。彩花さんと川沿いを歩いてきました」


 正樹はその言葉に、少しだけ表情を和らげた。


「そうか。楽しかったか?」


「はい。とても」


 悠真は迷わず答えた。


 正樹はその様子を見て、穏やかに微笑んだ。


「それならよかった。学校のことも大切だが、自分が大事にしたい時間を持つことも必要だからな」


 悠真は少しだけ驚いた。


 父は普段から、予定や責任について丁寧に考える人だった。だからこそ、自分が彩花と過ごす時間を大切にしていることを、こうして自然に受け止めてくれたのが嬉しかった。


「ありがとうございます。最近、予定を詰め込みすぎないようにすることも、大切なんだと感じています」


 正樹は頷いた。


「時間を空けておくことは、何もしないという意味ではない。必要なときに動ける余裕を持つことでもある。お前が自分で考えて決めているなら、それでいい」


 悠真はその言葉を受け止め、静かに頭を下げた。


 父との話を終えて部屋を出ると、廊下の窓から夕方の光が差し込んでいた。


 悠真は歩きながら、昨日の彩花の笑顔を思い出した。


 彼女と過ごす時間は、学校の予定とは違う意味で、自分にとって大切なものになっている。


 そのことを、今は素直に認められる気がした。


     ◇


 夜、彩花は夕食を終えてから自室へ戻った。


 机の上には、午前中に読み終えた本と、午後に書き進めた星模様のノートが並んでいる。


 彩花は椅子へ座り、スマートフォンを手に取った。


 悠真へ、今日読んだ本のことを少し話したくなったのだ。


 けれど、すぐに文章を打ち始めるのではなく、少しだけ考えた。


 借りた本の結末を詳しく話してしまうと、もし悠真がこれから読むことになったとき、楽しみを奪ってしまうかもしれない。


 それに、自分の新しい物語についても、完成するまでは詳しい内容を伝えないと決めている。


 彩花はその二つを心の中で整理してから、メッセージを送った。


『悠真君、こんばんは。今日は図書館で借りていた本を読み終えたよ。離れて暮らす家族が手紙をやり取りする物語なんだけど、すごく温かい気持ちになったの』


 しばらくして、悠真から返事が届いた。


『こんばんは、彩花さん。読み終えたんだね。前に話してくれた本だよね。どんなところが心に残ったの?』


 彩花は少しだけ考え、ゆっくり文字を打った。


『大きな出来事じゃなくても、日々の小さなことを伝え合うだけで、相手を近くに感じられるところかな。離れていても、相手がどんな景色を見ているのか想像できるのが素敵だと思ったよ』


 返事を送ると、彩花はスマートフォンを両手で持ち、画面を見つめた。


 悠真からの返信は、少し間を置いて届いた。


『それは素敵だね。手紙って、書いた人が見たものや感じたことを、相手へ届けるものでもあるんだね』


 彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分が心に残ったことを、悠真が丁寧に受け止めてくれている。


『うん。読んでいて、私も誰かに小さな出来事を伝えたくなったの』


『それなら、今日の出来事を一つ教えてもらってもいい? 彩花さんが見つけたものを聞いてみたいな』


 彩花は少し驚き、それから自然と微笑んだ。


 今日の出来事。


 特別なことがあったわけではない。


 けれど、思い返してみると、小さな出来事はいくつもあった。


 朝、窓の外の雲がゆっくり動いていたこと。


 読み終えた本の余韻が、しばらく胸に残っていたこと。


 母と姉とお茶を飲みながら、自分の変化について話したこと。


 彩花はその中から、一つ選んだ。


『今日ね、お姉ちゃんに、前より自分の考えを話すようになったって言われたの。自分ではあまり気づいてなかったけど、そうだったら嬉しいなって思ったよ』


 メッセージを送ったあと、彩花は少しだけ緊張した。


 悠真は、どう受け止めるだろう。


 しばらくして届いた返事を、彩花はゆっくり読んだ。


『俺も、彩花さんが自分の気持ちを大切にしているところを、前よりたくさん知るようになった気がするよ。文芸部のことも、小説のことも、彩花さんが何を大事にしたいのか聞けるのが嬉しい』


 彩花はその文章を見つめた。


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 悠真は、彩花が変わったことだけを喜んでいるのではない。


 彩花自身が何を大切にしているのかを、知りたいと思ってくれている。


 そのことが、何より嬉しかった。


『ありがとう、悠真君。私も、悠真君が何を考えているのか、もっと知りたいなって思ってるよ』


 送信したあと、彩花は自分の言葉に少しだけ驚いた。


 けれど、取り消したいとは思わなかった。


 それは、今の自分の素直な気持ちだったからだ。


     ◇


 悠真は自室で、彩花から届いたメッセージを見つめていた。


『私も、悠真君が何を考えているのか、もっと知りたいなって思ってるよ』


 その言葉を読んだとき、胸の奥が静かに高鳴った。


 彩花は、自分の話を聞くだけではなく、自分のことも知りたいと思ってくれている。


 悠真はスマートフォンを持ったまま、少しだけ考えた。


 昨日の川沿いで、彩花は自分の小説について話してくれた。


 彼女が大切にしているものを知るたびに、もっと近くでその変化を見ていたいと思う。


 けれど、彩花もまた、自分の考えや気持ちを知りたいと思ってくれているのなら、自分も少しずつ言葉にしていきたい。


 悠真はゆっくり返信を打った。


『ありがとう、彩花さん。俺も、自分のことをもっと話せたら嬉しいな。昨日みたいに一緒に歩きながらでも、本の話をしながらでも、少しずつ知ってもらえたらいいと思ってる』


 送信すると、悠真は静かに息を吐いた。


 自分の気持ちを言葉にすることは、以前よりも自然になってきた。


 それでも、彩花へ伝えたいことのすべてを、まだ言えているわけではない。


 彼女を大切に思っていること。


 一緒に過ごす時間が、何より楽しみになっていること。


 その気持ちは、今も胸の中で少しずつ大きくなっている。


 悠真は机の引き出しへ目を向けた。


 中には、彩花から贈られた淡い青色の花柄のカードがしまってある。


 以前、彩花が書いてくれた言葉。


『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』


『悠真君と話す時間が、私は好きです。』


 その言葉は、今も悠真の心に残っている。


 悠真は引き出しを開け、カードをそっと取り出した。


 何度も読み返しているはずなのに、文字を目にするたびに胸が温かくなる。


(俺も、彩花さんと話す時間が好きだ。それだけじゃなくて、彩花さん自身のことを、もっと知りたいと思ってる)


 悠真はカードを丁寧にしまい直した。


 いつか、この気持ちをきちんと伝えたい。


 けれど、そのために今の時間を急いで進める必要はない。


 彩花が自分の言葉を大切にしているように、自分も伝える言葉を大切にしたいと思った。


     ◇


 彩花のスマートフォンには、悠真からの返信が届いていた。


 その文章を読んだ彩花は、自然と笑顔になった。


『うん。私もそう思う。これからも、いろんなことを一緒に話せたら嬉しいな』


 送信すると、彩花は少しだけ考え、もう一つメッセージを打った。


『そういえば、前に話してた図書館で一緒に本を選ぶ約束も、いつかできたらいいね。今日、本を読み終えたら、また新しい本を探したくなったの』


 悠真からの返事は、少し間を置いて届いた。


『そうだね。俺も楽しみにしてるよ。お互いの予定が合う日に、中央図書館でゆっくり本を選べたらいいね』


 彩花はその言葉に頷いた。


 昨日、川沿いを一緒に歩けた。


 次は、図書館で本を選ぶ時間も楽しみにできる。


 約束が一つ叶ったあとに、また別の楽しみが残っていることが嬉しかった。


『うん。日程はまた相談しようね。今日はそろそろ休むね。悠真君、おやすみなさい』


『おやすみ、彩花さん。今日も話せて嬉しかったよ。ゆっくり休んでね』


 彩花はスマートフォンを置き、しばらく机の上を眺めていた。


 読み終えた本。


 書き進めた物語。


 そして、悠真との会話。


 今日一日の出来事が、静かに胸の中へ積み重なっていた。


     ◇


 寝る前、彩花は葉模様の日記帳を開いた。


 昨日の川沿いでの出来事は、すでに書き残してある。


 今日は、その続きとして、日曜日のことを書こうと思った。


 彩花はペンを持ち、ゆっくり文字を書き始めた。


『今日は、中央図書館で借りていた本を読み終えた。離れて暮らす家族が手紙を交わす物語で、何気ない出来事を伝えることの大切さを感じた。大きな出来事がなくても、相手が見た景色や感じたことを知るだけで、心が近くなることがあるんだと思う。』


 彩花はそこで一度ペンを止め、星模様のノートへ目を向けた。


 今日、少女は手紙の二行目を書いた。


 庭の花を毎朝見ていると、昨日とは違うところが見つかる。


 それは、少女が祖母へ伝えたい気持ちの一部だった。


 彩花は日記帳へ続きを書いた。


『自分の物語も少し進んだ。手紙を書いている少女が、最初の一行のあとに、もう一つ言葉を続けられた。まだ完成には遠いけれど、この子が何を伝えたいのか、前より少し分かった気がする。』


 書き終えると、彩花は少しだけ微笑んだ。


 そして、今日の最後に残したいことを考えた。


 姉から言われた言葉。


 悠真から届いたメッセージ。


 自分の考えを、前より話せるようになったのかもしれないという気づき。


 彩花はゆっくりペンを動かした。


『お姉ちゃんに、最近は前より自分の考えを話すようになったと言われた。悠真君も、私が何を大切にしたいのか聞けるのが嬉しいと言ってくれた。私も、悠真君のことをもっと知りたいと思っている。その気持ちを、今日はちゃんと言葉にできた。』


 彩花は最後の一文を見つめ、少しだけ頬を赤くした。


 悠真へ送ったメッセージは、特別な告白ではない。


 けれど、自分にとっては大切な言葉だった。


 好きな人のことを、もっと知りたい。


 その気持ちを、隠さずに伝えられたことが嬉しかった。


 彩花は日記帳を閉じ、机の引き出しへしまった。


 引き出しの中には、まだ何も書いていないカードがある。


 以前から、いつか悠真へ何かを伝えるために使いたいと思っているものだった。


 けれど、今日もカードへ文字を書くことはしなかった。


 まだ、どんな言葉を残したいのか決められていない。


 今は、そのことを焦らなくてもいいと思えた。


 彩花は部屋の明かりを落とし、ベッドへ入った。


 窓の外では、青凪市の夜が静かに広がっている。


 昨日は、悠真と同じ景色を見た。


 今日は、離れていても互いの気持ちを言葉にできた。


 彩花はその二つの時間を思い返しながら、ゆっくり目を閉じた。


 明日からは、また学校が始まる。


 文芸部では冬の部誌の準備が続き、自分の物語も少しずつ書き進めていくことになるだろう。


 そして、悠真との時間も、これから先へ続いていく。


 彩花はそのことを楽しみにしながら、静かな眠りへ落ちていった。


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