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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第111話 月曜日の教室で見つけた小さな変化と、君に伝えたい私の気持ち



 月曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。


 昨日までの休日とは違い、今日は学校へ行く日だ。目覚まし時計の音を止めて布団から起き上がると、暖かな寝具の中に残っていた眠気が、部屋の冷たい空気に触れるにつれて少しずつ薄れていった。


 カーテンを開けると、向かいの家の屋根が朝の光を受けて淡く照らされている。庭の木々は葉を落とし、細い枝の向こうには、まだ白っぽい冬の空が見えていた。


(昨日は本を読み終えて、新しい物語も少し進んだんだよね。それに、悠真君ともいろいろ話せた)


 彩花は窓辺に立ちながら、昨夜交わしたメッセージを思い返した。


 自分の考えを以前より話せるようになったと、姉の凛花から言われたこと。それを悠真に伝えたとき、彼は彩花が何を大切にしているのか聞けることが嬉しいと返してくれた。


 そして彩花自身も、悠真のことをもっと知りたいと伝えた。


 送信する前には少し迷ったものの、今になって後悔はしていない。むしろ、あの言葉をきちんと届けられたことが、静かな自信になっているような気がした。


 彩花は制服へ着替え、鏡の前で髪を整えた。いつもと同じ月曜日のはずなのに、今日は学校で起こる小さな出来事にも、少しだけ目を向けてみたいと思っていた。


 階下へ降りると、台所では母の紗月が朝食を用意していた。


「おはよう、彩花。今日は少し冷えるみたいだから、マフラーを忘れないでね」


「おはよう、お母さん。うん、ちゃんと持っていくよ。昨日も夕方は冷えてきたし、そろそろ手袋も出しておいた方がいいかな」


 彩花がそう答えると、紗月は味噌汁の鍋を火から下ろしながら頷いた。


「そうね。朝と夕方は特に冷えるから、鞄に入れておいてもいいかもしれないわ。学校の中は暖かくても、帰り道は違うでしょう?」


 食卓では父の耕助が新聞を読んでおり、姉の凛花は温かいお茶を飲んでいた。


 彩花が席につくと、凛花が顔を上げた。


「おはよう。今日は文芸部、あるんだっけ?」


「うん、放課後に集まる予定だよ。冬の部誌の表紙について、また少し話すことになってるの」


「この前、試し刷りをしたって言ってたやつ?」


 凛花の問いに、彩花は頷いた。


「そう。表紙の担当の人が、枝先の線と下の小さな文字を調整する案を考えてくれてるんだ。でも、元の雰囲気を変えすぎないようにしたいから、みんなで確認しながら進めることになってるよ」


 凛花は箸を置き、少し考えるような表情を浮かべた。


「なるほどね。完成に近づいてくると、直したいところがいろいろ見えてくるんだろうけど、全部変えたら最初に作りたかったものじゃなくなっちゃうもんね」


「うん。表紙担当の人も、そこをすごく大切にしてるみたい。私も、あの冬の空の余白が好きだから、残ってほしいなって思ってる」


 彩花は自分の言葉を口にしてから、少しだけ微笑んだ。


 以前なら、誰かの作品について意見を求められても、間違ったことを言ってしまわないか気になっていたかもしれない。けれど今は、何を変えるべきかを決める立場ではなくても、自分が好きだと思ったところを言葉にすることには意味があると感じていた。


 耕助は新聞を畳み、娘へ穏やかな視線を向けた。


「意見を出すことと、相手の仕事を尊重することは両立できるからね。彩花が気づいたことも、きっと役に立つと思うよ」


「ありがとう、お父さん。今日もちゃんと話を聞いて、自分が思ったことを伝えてみるね」


 彩花が答えると、耕助は満足そうに頷いた。


 朝食を終えたあと、彩花は鞄の中身を確認した。授業で使う教科書とノート、筆記用具、文芸部で使うメモ帳が入っていることを確かめ、最後にマフラーを手に取る。


 玄関で靴を履いていると、紗月が台所から声をかけた。


「彩花、今日は帰りが遅くなるなら連絡してね。文芸部の話し合いが長くなることもあるでしょう?」


「うん、分かった。終わる時間がいつもより遅くなりそうだったら連絡するね」


 彩花は振り返って笑顔を見せ、玄関の扉を開けた。


 外へ出ると、頬に触れる空気は思っていたよりも冷たかった。マフラーを首元へ寄せながら歩き始めると、通学路には同じ学校へ向かう生徒たちの姿が見え、住宅街の静けさの中へ少しずつ朝の賑わいが戻ってきていた。


     ◇


 青葉高校へ着いた彩花は、教室へ入る前に廊下の窓から校庭を眺めた。


 グラウンドでは早く登校した運動部の生徒たちが片づけをしており、校舎の脇に並ぶ木々は、先週よりもさらに葉が少なくなっている。風が吹くたびに細い枝が揺れ、地面に落ちた葉が舗装された道の端へ集まっていた。


 彩花はその景色を少し眺めてから、教室へ向かった。


 扉を開けると、すでに何人かの生徒が登校しており、週末の出来事や今日の授業について話していた。窓際の席では、田辺大地が鞄から教科書を取り出しているところだった。


「おはよう、水瀬」


 大地が顔を上げて声をかけると、彩花も笑顔で挨拶を返した。


「おはよう、田辺君。今日は朝から冷えるね。学校まで歩いてきたら、手が少し冷たくなっちゃった」


「分かる。俺も家を出たとき、思ったより寒くてびっくりした。妹なんか、朝から『もう雪が降ってもいいのに』って言ってたよ」


 大地は苦笑しながら、鞄を机の横へ掛けた。


 彩花は以前聞いた妹の話を思い出した。雪を見るのは好きなのに、寒いのはあまり得意ではないという、少し不思議で微笑ましい話だった。


「妹さん、まだ雪を楽しみにしてるんだね。今日みたいに寒いと、もうすぐ降るんじゃないかって思うのかな」


「たぶんね。でも、実際に雪が降ったら、今度は寒いって言いながら窓からずっと眺めてると思う。去年もそんな感じだったし」


 大地の言葉に、彩花は思わず笑った。


「なんだか、すごく楽しそう。雪が好きな気持ちと、寒いのが苦手な気持ちは、別なのかもしれないね」


「そうかも。あいつ、窓の外を見るのが好きなんだよ。雨の日も、晴れた日も、何か変わったものがないか探してるみたいでさ」


 彩花はその話を聞きながら、昨日読み終えた小説のことを思い出した。


 日々の小さな出来事を見つけて、離れた相手へ手紙で伝える物語。雪を待つ妹の話も、誰かに伝えれば、その人の朝を少しだけ温かくする出来事になるのかもしれない。


「そういうの、素敵だね。毎日同じ窓から見ていても、きっと違うものが見つかるんだろうな」


 彩花が言うと、大地は少し意外そうに目を瞬かせたあと、穏やかに笑った。


「水瀬って、そういうところに気づくよな。俺なんか、妹がまた雪の話してるって思ってただけだったけど、言われてみると、確かに毎日いろいろ見つけてるのかもしれない」


 彩花は少し照れながら首を横に振った。


「私も最近、そういう小さなことが気になるようになっただけだよ。自分で物語を書いていると、何でもない出来事の中にも、誰かの気持ちがあるんだなって思うことが増えたの」


 大地は納得したように頷き、それから思い出したように話題を変えた。


「そういえば、文芸部の部誌って、まだ準備中なんだよな。妹が前に話を聞いて、ちょっと興味持ってたんだけど」


「うん、まだ準備中だよ。表紙も調整しているところだし、いつどんな形で配るかも、まだ決まってないんだ」


 彩花は現状を正確に伝えた。


 大地の妹が興味を持ってくれていることは嬉しいが、文芸部で決まっていないことまで約束するわけにはいかない。


「そっか。じゃあ、決まったら教えてくれると嬉しい。もちろん、無理にとは言わないけど」


「うん。案内できることが決まったら、ちゃんと伝えるね」


 二人が話していると、教室の後ろから別の生徒たちの笑い声が聞こえてきた。朝の教室は少しずつ賑やかになり、窓から差し込む光も、登校した生徒たちの机を明るく照らし始めていた。


 彩花は自分の席へ向かいながら、先ほどの会話を思い返した。


(田辺君の妹さんの話、なんだかいいな。雪が降るのを楽しみにしているだけでも、その人にとっては大切な一日の出来事なんだよね)


 机へ鞄を置くと、彩花は文芸部のメモ帳を取り出した。


 今すぐ小説を書く時間ではないが、あとで忘れないように、ページの端へ小さく「同じ窓から見つける違う景色」と書き留めた。


     ◇


 午前中の授業は、いつもどおりに進んでいった。


 国語の授業では、文章の中に直接書かれていない登場人物の気持ちを、前後の描写から読み取る課題が出された。


 彩花は教科書を開き、教師の説明を聞きながら、文章の一節へ目を向けた。


 登場人物は、友人から受け取った短い手紙を何度も読み返している。しかし、その場面には「嬉しかった」という言葉が直接書かれていない。


 教師は黒板へいくつかの表現を書き、教室を見渡した。


「では、この人物が手紙を読み返している理由について、文章から分かることを考えてみましょう。感情の名前を当てるだけではなく、どの描写からそう感じたのかを説明してください」


 彩花はノートへ視線を落とした。


 手紙を読み返すという行動には、いくつもの理由が考えられる。


 嬉しいから、何度も確かめたいのかもしれない。相手の言葉の意味を考えているのかもしれないし、書かれていない気持ちまで知ろうとしているのかもしれない。


 けれど、本文に書かれていることと、自分が想像したことは分けて考える必要がある。


 彩花はその違いを意識しながら、ノートへ自分の考えを書き始めた。


 授業の終わりには、隣の席の女子生徒と互いのノートを見せ合う時間が設けられた。以前、一緒に整理しようと話していた内容でもあったため、二人は机を少し寄せて、書いたことを比べてみる。


「水瀬さん、ここのところ、すごく丁寧に書いてるね。私は嬉しいから読み返したんだと思ったけど、どうしてそう思うのか、うまく説明できなくて」


 隣の生徒がそう言うと、彩花は自分のノートへ目を向けた。


「私も最初はそう思ったよ。でも、その前に手紙を受け取ったときの表情が書かれているから、そこを一緒に考えると分かりやすいかもしれない」


 彩花は該当する文章を指で示し、相手が見やすいように教科書を少し傾けた。


 隣の生徒は文章を読み返し、納得したように頷いた。


「あ、本当だ。手紙を受け取ったときは驚いてるけど、そのあと大切そうにしまってるんだね。じゃあ、ただ嬉しいだけじゃなくて、相手の言葉をちゃんと受け止めたい気持ちもあるのかな」


「うん。私はそう読んだけど、ほかの考え方もあると思う。だから、文章に書いてあることを確かめながら考えるのが大事なんだろうね」


 彩花が答えると、隣の生徒は微笑んだ。


「ありがとう。水瀬さんと話すと、自分が見落としてたところに気づけるね」


 その言葉に、彩花は少し驚いた。


 以前の自分なら、そう言われてもどう返していいか分からず、ただ照れてしまっていたかもしれない。けれど今は、自分も相手の考えから気づかされたことがあると、素直に伝えたいと思った。


「私も、一緒に考えられてよかったよ。自分だけだと、一つの読み方に決めちゃうこともあるから」


 二人は互いのノートへ必要なことを書き足し、授業が終わる前に机を元の位置へ戻した。


 彩花は閉じたノートの表紙を見つめながら、胸の奥に小さな満足感が広がるのを感じた。


 自分の考えを話すことは、必ずしも正しい答えを示すことではない。


 相手の考えを聞き、自分が気づいたことを伝え合うことで、同じ文章から見えるものが増えていく。


 その感覚は、土曜日に悠真と歩いた川沿いで感じたことにも、少し似ていた。


     ◇


 昼休み、彩花は弁当を食べ終えてから、文芸部のメモ帳を開いていた。


 午後の活動で確認したいことを、あらかじめ整理しておきたかったのだ。


 試し刷りをした表紙について、これまでに共有されている問題は二つある。


 一つは、枝先の線が紙の上では少し薄く見えること。もう一つは、下部に配置された小さな文字が、印刷したときに読みづらくなることだった。


 背景の濃い灰色についても話題にはなっていたが、今のところ別の修正項目として決まったわけではない。元の表紙が持っている冬の静けさや空の余白を大切にするためにも、必要な部分だけを慎重に見直す方向で話が進んでいる。


 彩花はメモ帳へ、その二つを書き留めた。


 さらに、表紙担当の部員が修正案を用意できているかどうかは、まだ分からない。今日の活動で新しい案が見られるかもしれないし、もう少し時間が必要かもしれない。


 そこまで考えたところで、彩花はペンを止めた。


(私が今日できることは、修正を急がせることじゃなくて、担当の人が何を大切にしているのか、ちゃんと聞くことだよね)


 彩花はメモ帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。


 校庭には昼休みの生徒たちが集まっており、冷たい風の中でも元気に走っている姿が見えた。教室では友人同士の会話が続き、午後の授業へ向けて教科書を準備する生徒もいる。


 彩花はその何気ない景色を眺めながら、少しだけ微笑んだ。


 今日は、何か大きな出来事が起こる日ではないかもしれない。


 けれど、朝から自分の中に残っている小さな気づきは、すでにいくつもあった。


     ◇


 同じ頃、桜華学園高等部では、九条悠真が森川航平と昼食を取っていた。


 教室の窓からは冬へ向かう空が見え、遠くの木々は葉を落としている。昼休みの廊下には生徒たちの話し声が響いていたが、二人が座っている窓際の席には、比較的落ち着いた空気が流れていた。


「九条、土曜日は出かけたんだって?」


 航平が何気なく尋ねると、悠真は弁当の蓋を閉じながら頷いた。


「うん。彩花さんと川沿いを歩いてきたよ。前に風が強くて延期したことがあったから、ようやく行けたんだ」


 航平はその答えを聞き、少しだけ笑った。


「なるほど。だから今日は朝から機嫌がよさそうだったのか」


 悠真は驚いたように顔を上げた。


「そんなに分かりやすかった?」


「分かりやすいっていうか、最近のお前は楽しそうなことがあると、表情に出るようになった気がする。前から穏やかではあったけど、今は何か考えてるときでも、ちょっと嬉しそうなんだよな」


 航平はからかいすぎない口調でそう言い、飲み物へ手を伸ばした。


 悠真は少し照れながら、土曜日の景色を思い出した。


 彩花が葉を落とした木々を見上げていたこと。以前は見えなかった場所に気づいて、嬉しそうに話してくれたこと。


 そして、帰り際にまた一緒に歩けたら嬉しいと伝えてくれたこと。


「……楽しかったのは確かだよ。同じ場所でも、季節が変わるとずいぶん違って見えるんだね。彩花さんと歩いていると、普段なら見落としそうなところにも気づけるんだ」


 悠真がそう答えると、航平は少し考えるような表情を浮かべた。


「それって、彩花さんが特別に景色を見るのが上手いってこともあるんだろうけど、お前自身が一緒に見ようとしてるからじゃないか?」


 悠真はその言葉に、祖父の俊治と交わした会話を思い出した。


 誰かと過ごすことで見える世界が変わるのは、相手が特別なものを見せてくれるからだけではなく、その人が見ているものを知りたいと思うからだと、祖父は話していた。


 航平も、似たようなことを感じているらしい。


「そうかもしれない。彩花さんが何を見つけたのか、俺も知りたいと思うから」


 悠真が答えると、航平は穏やかに頷いた。


「それなら、いい時間だったんだろうな。学校が違うと、会える時間も限られるだろうし」


「うん。だからこそ、無理のない範囲で予定を合わせたいと思ってる。彩花さんも文芸部の準備があるし、俺も生徒会の仕事があるからね」


 航平はその言葉を聞き、少しだけ表情を引き締めた。


「そういえば、生徒会の確認作業、今週もあるんだろ? 前に先生から追加で確認してほしいことがあるって言ってなかったか」


「あるよ。ただ、急いで全部終わらせる必要はないから、担当の人たちと分けて進める予定なんだ。俺一人で抱え込まないようにするつもりだよ」


 悠真が答えると、航平は満足そうに笑った。


「それなら安心だな。お前、頼まれると何でもきっちりやろうとするから、たまには人に任せた方がいいと思ってたんだよ」


 悠真は少し苦笑した。


「最近、いろんな人から似たようなことを言われる気がする」


「それだけ、みんなお前のことを見てるってことだろ」


 航平はそう言い、残っていた飲み物を口にした。


 悠真は窓の外へ視線を向けた。


 彩花と出会う前も、学校生活がつまらなかったわけではない。生徒会の仕事にはやりがいがあり、友人との時間も大切だった。


 けれど今は、その一つ一つの時間を、以前よりも少し違った形で考えられるようになっている。


(彩花さんと過ごす時間を大切にしたいからこそ、学校のことも家族のことも、ちゃんと自分で考えて向き合いたいんだ)


 悠真はその思いを胸に、午後の予定を確認するため手帳を開いた。


     ◇


 放課後、彩花が文芸部の活動場所へ向かうと、部屋の中ではすでに数人の部員が準備を始めていた。


 机の上には原稿の確認用資料や筆記用具が並び、窓際には冬の弱い日差しが差し込んでいる。暖房が入っているため室内は過ごしやすかったが、窓ガラスの向こうに見える木々の様子が、外の寒さを感じさせた。


「お疲れさまです」


 彩花が挨拶すると、佐々木先輩が顔を上げた。


「お疲れさま、水瀬さん。今日は表紙の調整について少し確認する予定だから、こっちの机に座ってもらえる?」


「はい、分かりました」


 彩花は指定された席へ鞄を置き、メモ帳を取り出した。


 表紙を担当している女子部員は、机の上へ資料を並べていた。以前試し刷りした一枚は透明な保護用の袋に入れられ、その横には印刷時の見え方を確認するためのメモが置かれている。


 彩花が近づくと、表紙担当の部員は少しだけ緊張したように笑った。


「水瀬さん、お疲れさま。まだ新しい試し刷りはできてないんだけど、今日は修正する場所をもう一度整理しておきたくて」


「お疲れさま。うん、分かったよ。前に話していた枝先と下の文字のことだよね」


 彩花が確認すると、相手は頷いた。


「そう。元のデータはそのまま残してあるから、別のファイルで少しずつ試してみようと思ってるの。でも、枝先の線をどこまで濃くするかが、まだ難しくて」


 表紙担当の部員は、保護袋に入った試し刷りへ目を向けた。


 表紙には冬の空を思わせる落ち着いた色合いが広がり、端の方へ細い枝が伸びている。余白を大きく取った構図は、初めて見たときと変わらず静かな印象を与えていた。


 ただ、紙に印刷された状態では、枝の先端の一部が背景に溶け込むように薄く見える。画面上では気にならなかった部分が、実際の紙では少し違って見えていた。


 佐々木先輩は資料を見ながら、表紙担当の部員へ穏やかに声をかけた。


「今日は全部を決めなくても大丈夫だよ。どこを直したいのか、どこは残したいのかを整理できれば、それだけでも次の作業が進めやすくなると思う」


「はい。ありがとうございます」


 表紙担当の部員は少し安心したように頷き、手元のメモへ視線を落とした。


 彩花はその様子を見守りながら、すぐに自分の意見を言うのではなく、相手の話を聞こうと思った。


「私、前にこの表紙を見たとき、空が広く感じられるところがすごく好きだったの。だから、枝先を少し見やすくするとしても、そこは残ってほしいなって思ってる」


 彩花がそう伝えると、表紙担当の部員は顔を上げた。


「ありがとう。私も、そこは変えたくないんだ。枝がはっきりしすぎると、空よりも枝の方が目立っちゃう気がして」


「うん。だから、全部の線を濃くするんじゃなくて、見えなくなりそうなところだけ少し調整するのがいいのかもしれないね」


 彩花はそう言いながらも、具体的な修正方法を決めつけないようにした。


 表紙のデザインを考えたのは、目の前の部員だ。彩花が好きだと思った部分を伝えることはできるが、どんな形で残すのがよいかは、担当者自身の考えも大切にしたかった。


 表紙担当の部員は試し刷りを眺め、ゆっくり頷いた。


「うん。私も、その方向で一度やってみたい。下の文字も、大きさや場所は変えずに、色の差を少し調整できるか試してみようと思う」


 佐々木先輩はその言葉を聞き、メモへ書き加えた。


「じゃあ、今日の確認としては、枝先の一部と下部の文字の見え方を、別ファイルで試してみるってことだね。新しい案ができたら、またみんなで見よう」


 周囲の部員たちも頷いた。


 その場で修正案が完成したわけではないし、印刷の予定が決まったわけでもない。それでも、何を大切にして作業を進めるのかが共有されたことで、部屋の空気は少し落ち着いたように感じられた。


 彩花はメモ帳へ今日の確認内容を書き留めた。


 枝先の一部を見やすくすること。下部の文字の色の差を調整すること。そして、元のデザインが持っている静かな冬の空を大切にすること。


 書き終えたところで、表紙担当の部員が小さな声で話しかけてきた。


「水瀬さん、ありがとう。最初に試し刷りを見たときは、思っていたのと違うところばかり気になって、全部やり直した方がいいのかなって思っちゃったんだ」


 彩花は相手へ顔を向けた。


 表紙担当の部員は、少し困ったように笑っていた。


「でも、みんなが好きだって言ってくれたところを聞いていたら、残したいものもちゃんとあるんだって思えて。直すことばかり考えてたけど、何を残すか考えるのも大事なんだね」


 彩花はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。


「うん。私もそう思う。私はあの表紙が好きだから、完成するのを楽しみにしてるよ。でも、急いでほしいって意味じゃないからね」


 彩花がそう伝えると、相手は少し驚いたあと、嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。そう言ってもらえると、落ち着いて考えられそう」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。


     ◇


 活動の後半には、部誌の本文についても簡単な確認が行われた。


 彩花の作品『いつか、ここに』は、すでに掲載順やページ番号の確認が進んでいる。今回、新たに大きな修正が必要になったわけではなかったため、彩花は自分の原稿を見直しながら、ほかの部員たちの作業を手伝った。


 佐々木先輩は机を回り、確認の進み具合を見ていた。


「水瀬さん、こっちの確認も手伝ってくれてありがとう。表紙の話し合いでも、担当の人が考えていることをちゃんと聞いてくれて助かったよ」


 先輩から声をかけられ、彩花は少し照れながら顔を上げた。


「いえ、私は思ったことを話しただけです。でも、表紙担当の人が大切にしているところを、ちゃんと残せたらいいなって思っていて」


 佐々木先輩は穏やかに頷いた。


「それが大事なんだと思う。自分の意見を言うだけじゃなくて、相手が何を作ろうとしているのか聞くことも、みんなで一冊を作るときには必要だからね」


 彩花はその言葉を聞き、朝の国語の授業を思い出した。


 同じ文章を読んでも、人によって気づくところが違う。


 だからこそ、互いの考えを聞き合うことで、見えてくるものがある。


 文芸部の活動も、それと同じなのかもしれない。


「ありがとうございます。私も、今日の話し合いで少し分かった気がします」


 彩花が答えると、佐々木先輩は微笑んだ。


「それならよかった。無理に全部を今日終わらせなくてもいいから、できるところから進めていこう」


 活動が終わる頃には、窓の外の光が少しずつ弱くなっていた。


 部員たちは資料を片づけ、机の上を整え始めた。表紙の試し刷りは再び保護袋へ入れられ、次に確認するときまで傷まないようにしまわれた。


 彩花も自分のメモ帳を鞄へ入れ、椅子を元の位置へ戻した。


 帰り支度を終えたところで、表紙担当の部員が近づいてきた。


「水瀬さん、今日はありがとう。また修正案ができたら見てもらえると嬉しいな」


 彩花は笑顔で頷いた。


「もちろん。楽しみにしてるね。でも、無理しないでね」


 相手は安心したように笑い、ほかの部員たちと一緒に部屋を出ていった。


 彩花は最後にもう一度、机の上が片づいていることを確かめてから、佐々木先輩へ挨拶をした。


 廊下へ出ると、校舎の中には放課後特有の静けさが広がっていた。遠くの教室からはまだ活動を続けている生徒たちの声が聞こえ、階段の窓からは夕方の淡い光が差し込んでいる。


 彩花は鞄の持ち手を握り直し、ゆっくり階段を下り始めた。


(今日は、ちゃんと自分の考えを話せたかな。表紙担当の人が少し安心してくれたなら、嬉しいな)


 その思いと一緒に、昨夜の悠真の言葉が胸の中へ浮かんできた。


 彩花が何を大切にしたいのか聞けることが嬉しい。


 悠真は、そう言ってくれた。


 今日の文芸部で感じたことも、彼に話してみたいと思った。


     ◇


 夕方、彩花が帰宅すると、玄関には温かな明かりが灯っていた。


 靴を脱いで居間へ入ると、紗月が台所で夕食の準備をしている。窓の外はすでに薄暗くなり、室内には煮物の香りが広がっていた。


「ただいま、お母さん」


「おかえり、彩花。今日は文芸部、どうだった?」


 紗月が振り返ると、彩花は鞄を置きながら微笑んだ。


「うん。表紙の修正について、みんなで少し話したよ。まだ新しい試し刷りはできてないけど、どこを直すか、前よりはっきりしたと思う」


「そうなのね。少しずつ進んでいるのね」


 紗月はそう言い、鍋の火加減を確かめた。


 彩花は手を洗ってから台所へ戻り、母の手伝いを始めた。食器を並べながら、今日の表紙担当の部員との会話を思い出す。


「お母さん、今日ね、表紙を作ってくれてる人が、最初は全部やり直した方がいいのかなって思ってたって話してくれたの。でも、みんなが好きだって言ったところを聞いて、残したいものもあるって思えたみたい」


 紗月は手を止め、娘へ顔を向けた。


「そう。きっと、一生懸命作ったものだからこそ、気になるところも多かったんでしょうね」


「うん。私も、自分の小説だったら同じように思うかもしれない。直したいところが見つかると、そこばかり気になっちゃうこともあるし」


 彩花が答えると、紗月は穏やかに微笑んだ。


「でも、誰かがいいと思ってくれたところも、ちゃんと残っているのよね。作った本人には見えなくなってしまうことを、ほかの人が教えてくれる場合もあるんじゃないかしら」


 その言葉に、彩花はゆっくり頷いた。


 自分の作品を読んでもらうことも、きっと同じなのだろう。


 悠真が以前、彩花の文章を読んで、登場人物の言葉にしなかった気持ちが伝わってきたと話してくれたことがある。


 彩花自身は、書いている途中で何度も迷った。けれど、読み手の悠真は、彩花が大切にしたかった部分を受け取ってくれていた。


「……私も、そういうふうに誰かの作品を読めたらいいな」


 彩花が静かに言うと、紗月は少しだけ笑みを深くした。


「もう、少しずつできているんじゃないかしら。今日のお話を聞いていると、そう思うわ」


 彩花は少し照れながら、食器を並べ終えた。


 夕食の準備が進む台所には、家族が帰ってくる気配と温かな料理の香りが重なっていた。


     ◇


 夕食を終えたあと、彩花は自室へ戻った。


 机の上には、昨日読み終えた中央図書館の本と、星模様のノートが並んでいる。


 彩花は椅子へ座り、まず借りた本を手に取った。


 最後まで読み終えた物語だったが、まだ余韻が残っている。離れて暮らす家族が手紙を交わし、それぞれの生活を少しずつ知っていく姿は、自分の新しい物語を書くうえでも考えさせられるものがあった。


 ただ、彩花はその本をもう一度読み返すのではなく、机の端へ丁寧に置いた。


 返却日は確認しておく必要があるが、今日はその前に、自分の物語と向き合いたかった。


 星模様のノートを開くと、昨日書いた少女の手紙が目に入った。


『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』


『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』


 彩花は二つの文章をゆっくり読み返した。


 少女は、祖母へ庭の花について伝えようとしている。


 しかし、彩花が本当に描きたいのは、花が咲くという出来事だけではない。


 祖母がいなくなったあとも、少女が同じ庭を見つめ、少しずつ変化を見つけるようになったこと。その変化を、離れた祖母と分け合いたいと思っていること。


 そして、その気持ちの奥には、まだ言葉にできていない寂しさがある。


(この子は、寂しいって書いたら、おばあちゃんを心配させると思ってるのかな。でも、寂しいって気持ちを全部隠してしまったら、本当に伝えたいことが残らない気もする)


 彩花はペンを持ったまま、しばらく考えた。


 少女にとって、祖母は大切な存在だ。


 だからこそ、元気に過ごしていることを伝えたい。


 けれど、会えなくて寂しいと思っていることも、嘘ではない。


 その二つの気持ちを、どちらか一方だけに決めてしまう必要はないのかもしれない。


 彩花はノートの余白へ、小さくメモを書いた。


『元気でいることと、寂しいことは、同時にあってもいい。』


 書き終えると、彩花は少しだけ息を吐いた。


 その言葉は、少女の物語のために考えたものだった。


 けれど、今日の文芸部で感じたこととも、どこかつながっている気がした。


 作品を直したいと思うことと、今の作品を大切に思うこと。


 相手を心配させたくないと思うことと、自分の気持ちを伝えたいと思うこと。


 どちらかを選ばなければならないわけではない。


 彩花は少女の物語の続きを書き始めた。


『少女は二行目まで書いた手紙を見つめながら、次に何を書けばいいのか考えていた。


 庭の花についてなら、まだいくつも書けることがある。蕾の色が少し濃くなったことや、朝の光が当たる場所が季節によって変わること。祖母と一緒に水をやっていた頃には気づかなかった小さな変化が、今は毎日のように見つかる。


 けれど、それだけを書いて手紙を終えてしまっていいのだろうか。


 少女は窓の外へ目を向けた。庭には祖母の姿がなく、花のそばに置かれたじょうろだけが、いつもの場所に残っている。


 祖母が遠くへ引っ越してから、少女は一人で庭の世話をするようになった。水をやることも、枯れた葉を取り除くことも、今では少しずつ慣れてきている。


 それでも、花の変化に気づいたとき、真っ先に祖母を呼びたくなる気持ちは変わらなかった。


 少女は机へ向き直り、手紙の余白へ視線を落とした。


 寂しいと書けば、祖母は心配するだろうか。


 元気だと書けば、祖母は安心するだろうか。


 どちらも本当の気持ちなのに、どちらか一つしか書けないような気がして、少女はしばらくペンを動かせなかった。』


 彩花はそこで筆を止めた。


 今日書いたのは、少女が手紙の続きを考える場面だった。


 手紙そのものの三行目は、まだ書いていない。


 けれど、少女がなぜ言葉に迷っているのかは、以前よりもはっきりしたように思えた。


 彩花は書いた文章を最初から読み返し、少しだけ頷いた。


(この子が次に書く言葉は、きっと大切になる。だから、今は無理に決めなくてもいいよね)


 ノートを閉じると、彩花は机の上へ手を置いた。


 物語はまだ完成していない。


 それでも、登場人物の気持ちを少しずつ知っていく時間は、彩花にとって大切なものになっていた。


     ◇


 夜、悠真は自室で生徒会の資料を確認していた。


 今日の学校では、担当者ごとに作業を分けて進めることを改めて確認した。すべてを自分で抱え込む必要はなく、必要なところで互いに確認し合えばいい。


 悠真は手帳へ明日の予定を書き込み、机の上に広げていた資料をまとめた。


 窓の外には、九条家の庭を照らす灯りが見えている。昼間は穏やかだった空も、夜になるとすっかり暗くなり、庭の木々は静かな影を落としていた。


 資料を片づけ終えたところで、悠真はスマートフォンを手に取った。


 彩花からメッセージが届いている。


『悠真君、こんばんは。今日は文芸部で、冬の部誌の表紙についてまた少し話したよ。まだ新しい試し刷りはできてないけど、どこを直したいのか、みんなで整理できたと思う』


 悠真はその文章を読み、自然と微笑んだ。


 彩花が文芸部のことを話すときの表情が、頭に浮かんでくる。


 自分の作品だけではなく、ほかの部員たちが作ったものも大切にしたいと考えている彼女。


 その気持ちを、今日も丁寧に伝えようとしていたのだろう。


 悠真はゆっくり返信を打った。


『こんばんは、彩花さん。少しずつ進んでいるんだね。前に話してくれた枝先と下の文字のことかな? 元の表紙の雰囲気を大切にしながら考えているんだね』


 しばらくして、彩花から返事が届いた。


『うん、そうだよ。表紙担当の人が、最初は全部やり直した方がいいのかなって悩んでたみたいなんだけど、今日は残したいところもあるって話してくれたの。それが嬉しかったんだ』


 悠真はその文章を読み、少しだけ考えた。


 作品を作る人にとって、自分の思いどおりにならなかった部分が見つかることは、きっと簡単なことではない。


 けれど、彩花たちは修正するところだけではなく、残したいところも一緒に考えている。


 そのことが、表紙担当の部員にとって支えになっているのかもしれない。


『彩花さんたちが、担当の人の気持ちも大切にしているからだと思うよ。完成を急ぐだけじゃなくて、どんな表紙にしたいのかを一緒に考えているんだね』


 悠真が送ると、彩花から少し間を置いて返事が届いた。


『ありがとう。私も、今日それが大事なんだって思ったよ。自分の考えを話すだけじゃなくて、相手が何を大切にしているのか聞くことも必要なんだね』


 悠真はその言葉を見つめ、昨夜の会話を思い出した。


 彩花は、自分のことをもっと知りたいと言ってくれた。


 そして今夜も、誰かの気持ちを知ることの大切さについて話している。


 悠真は少しだけ微笑み、返信を打った。


『俺もそう思う。彩花さんが今日どんなことを考えたのか聞けて、嬉しいよ。俺も学校で、全部を一人で進めるんじゃなくて、周りの人と確認しながら進めることが大事だって改めて感じたんだ』


 送信したあと、悠真は机の上の手帳へ目を向けた。


 自分の学校での出来事を、こうして彩花へ話すことができる。


 それは、以前なら当たり前のようでいて、あまり意識していなかったことだった。


 彩花が何を大切にしているのか知りたいと思うのと同じように、自分が考えたことも、少しずつ彼女へ伝えていきたい。


 その気持ちが、今は自然に胸の中へ広がっていた。


     ◇


 彩花は悠真からのメッセージを読み、少しだけ頬を緩めた。


 桜華学園での生徒会の仕事について、悠真が自分から話してくれている。


 以前から彼が学校の仕事に真面目に取り組んでいることは知っていたが、どんなことを考えながら進めているのかを聞けるのは嬉しかった。


『悠真君も、今日は学校でいろいろ考えてたんだね。私、悠真君が生徒会のことを話してくれるの、嬉しいよ。学校が違うから、普段どんなふうに過ごしてるのか、知らないことも多いし』


 彩花は送信したあと、少しだけ緊張した。


 けれど、昨夜よりも言葉を送ることへの迷いは少なかった。


 悠真からの返信は、ほどなく届いた。


『そう言ってもらえると嬉しいな。俺も、彩花さんの学校のことを聞くのが好きだよ。同じ日に違う場所で過ごしていても、こうして話すと、お互いの一日を少し知ることができるね』


 彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 昨日読み終えた小説の中で、離れて暮らす家族は手紙を通して互いの生活を知っていた。


 彩花と悠真は、毎日同じ学校へ通っているわけではない。


 それでも、こうして一日の終わりに言葉を交わせば、相手がどんな時間を過ごしていたのかを少しずつ知ることができる。


(私たちも、離れている時間を全部知らないままにするんじゃなくて、少しずつ分け合ってるんだね)


 彩花はその気持ちを、今度は自分の言葉で伝えてみようと思った。


『うん。今日、学校であった小さなことも、悠真君に話すと大切な出来事になる気がするの。だから、これからもいろいろ聞いてもらえたら嬉しいな』


 送信すると、彩花はスマートフォンを胸元へ少し近づけた。


 悠真からの返事を待つ時間は、以前よりも穏やかに感じられた。


 やがて画面が明るくなり、短い通知が表示される。


『もちろんだよ。彩花さんが話したいことなら、俺はいつでも聞きたいと思ってる。俺の話も、また聞いてもらえたら嬉しいな』


 彩花はその言葉を何度か読み返した。


 悠真は、彩花の話を聞きたいと言ってくれた。


 そして、自分の話も聞いてほしいと言ってくれた。


 その二つが同じ文章の中にあることが、彩花には嬉しかった。


 自分だけが話すのでも、相手の話を聞くだけでもない。


 互いのことを少しずつ知っていく関係。


 それが、今の二人にとって大切なものなのだと思えた。


     ◇


 メッセージを終えたあと、彩花は葉模様の日記帳を開いた。


 机の上には、今日使った文芸部のメモ帳と、星模様のノートが並んでいる。


 彩花は日記帳へ今日の出来事を書き始めた。


『今日は月曜日。朝、田辺君から妹さんが雪を楽しみにしている話を聞いた。同じ窓から毎日違う景色を見つけているのかもしれないと思ったら、なんだか素敵だなと感じた。』


 彩花はそこで少しだけペンを止め、国語の授業を思い出した。


 同じ文章を読んでも、人によって気づくところが違う。


 そのことを、隣の席の生徒と話し合いながら感じられた。


 彩花は続きを書いた。


『国語の授業では、登場人物の気持ちを文章から考えた。自分の読み方だけが正しいわけじゃなくて、ほかの人の考えを聞くことで見えるものが増えるんだと思った。文芸部でも、表紙担当の人が大切にしているところを聞けてよかった。』


 書き終えると、彩花は星模様のノートへ目を向けた。


 少女の物語は、今日も少し進んだ。


 手紙の三行目はまだ書けていないが、少女がなぜ迷っているのかは、前よりも分かるようになった気がする。


 彩花はそのことも日記へ書き加えた。


『新しい物語では、少女が寂しさをどう伝えるか迷っている場面を書いた。元気でいることと、寂しいことは、同時にあってもいいのかもしれない。まだ答えは出ていないけれど、この子の気持ちをもう少し考えてみたい。』


 最後に、彩花は悠真とのメッセージを思い返した。


 自分の学校で起きたことを話すと、悠真は丁寧に聞いてくれる。


 そして、悠真自身の学校での出来事も話してくれる。


 学校が違う二人にとって、それは互いの時間を知るための大切な方法になっていた。


 彩花はゆっくりペンを動かした。


『悠真君と、今日あったことを話した。私は文芸部のことを、悠真君は生徒会のことを話してくれた。別々の場所で過ごしていても、一日の終わりに言葉を交わすことで、少しだけ同じ時間を分け合えた気がする。』


 彩花はその文章を見つめ、静かに微笑んだ。


 土曜日には、悠真と同じ景色を見た。


 日曜日には、互いのことをもっと知りたいと伝え合った。


 そして今日は、別々の学校で過ごした一日を、言葉にして分け合うことができた。


 大きな出来事が起こらなくても、二人の関係は少しずつ変わっているのかもしれない。


 彩花は日記帳を閉じ、机の引き出しへしまった。


 その中には、まだ何も書いていないカードがある。


 いつか悠真へ、自分の気持ちを言葉にして残したい。


 けれど、そのために急いで答えを決める必要はない。


 今日の自分が感じたことを大切にしながら、少しずつ言葉を見つけていけばいい。


 彩花は部屋の明かりを落とし、ベッドへ入った。


 窓の外では、青凪市の夜が静かに広がっている。遠くの街灯が住宅街の道を照らし、冷たい風が庭の木々をゆっくり揺らしていた。


 彩花は布団の中で、今日一日の出来事を思い返した。


 朝の教室で聞いた雪の話。


 国語の授業で見つけた新しい読み方。


 文芸部で交わした、表紙を大切にするための会話。


 そして、悠真と分け合った一日の終わりの言葉。


 そのどれもが、今日という日を形作っている。


(明日も、何か小さなことを見つけられたらいいな。そして、それを悠真君に話せたら嬉しい)


 彩花は穏やかな気持ちで目を閉じた。


 明日もまた、それぞれの学校で一日が始まる。


 同じ場所にいなくても、同じ時間を過ごしていなくても、互いの言葉を通して知ることができる景色がある。


 彩花はそのことを胸に、静かな眠りへ落ちていった。


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