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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第185話 自分のための一冊と、消せないものへの返事


 日曜日の朝、水瀬彩花は本棚の前にしゃがみ込み、一冊の文庫本を抜きかけたところで手を止めた。前の日、青凪市民科学館で九条悠真とプラネタリウムを見た帰り、次は書店で互いに自分のための一冊を選ぼうと約束した。今日はまだ出かける日ではないのに、本棚を眺めるだけで彼がどんな本を選ぶのか気になってしまい、彩花は思わず小さく笑った。


 自分が持っている本には、人から薦められたものも、題名を見て気になったものも、表紙を開いてすぐに買ったものもある。そのうち悠真に紹介したいと思う本を選ぶなら、何冊か候補を並べるところから始めるだろう。しかし今回の約束は、相手が喜びそうな本を探すことではなく、それぞれが今読みたいと思ったものを自分で買うことだった。


(どんな本を選んだら、悠真君に面白いと思ってもらえるかな……って考えたら、約束と逆になっちゃう)


 彩花は抜きかけた文庫本を戻し、棚の前から立ち上がった。読んだあとに感想を話すことは楽しみだが、選ぶ理由まで相手に合わせる必要はない。悠真が思いがけない分野の本を手に取っても、それを面白がれる関係でいたいと思うし、自分もそうしてもらいたかった。


 朝食を終えて居間へ行くと、凛花が窓際の小さな棚を測っていた。育ててみたい植物のために鉢を置く場所を確かめているところで、日当たりだけでなく、窓を開けるときに手が当たらないかも考えているらしい。彩花が隣で測った数字を書き留めると、凛花は助かったと笑い、午後に園芸店へ行く予定を相談してきた。


「今日なら時間あるよ。見たいのは鉢? それとも植物の方?」

「両方かな。でも、今日は買うかどうか決めなくてもいいと思ってるの。お店の人に、ここで育てやすいものを聞いてみたいから」


 凛花は窓の向きと置ける広さを書いた紙を見せた。彩花は姉が自分で調べ、必要なことを聞く準備をしているのを見て、すぐに似合いそうな植物を選ぼうとするのはやめた。手作り市で見かけた青白い鉢を思い出したが、底に排水穴がなかったため、今の段階では候補に入れない方がよさそうだった。


 午後、二人は近所の園芸店へ行き、冬でも室内で管理しやすい植物の種類を店員に尋ねた。店員は置き場所の明るさや水やりの頻度を確認し、最初から大きな鉢を買わず、小さな苗を育てながら様子を見る方法を教えてくれた。凛花は説明を聞いて小さな鉢植えを一つ選び、鉢底から水が抜けることを確かめて、自分の財布で購入した。


 帰宅後、凛花は教わったとおり鉢の下へ受け皿を置き、窓から少し離れた棚へ載せた。彩花が机の方から見て傾いていないか確かめると、姉は満足そうに頷いた。大きな出来事ではないけれど、今日決めたことが、明日からの姉の日課へつながっていくのが面白かった。


     ◇


 月曜日の昼休み、青葉高校の図書室では、先週の読書会に参加した図書委員が、感想をまとめた紙を司書へ渡していた。彩花は本の返却に来たところで声をかけられ、読書会の振り返りに少しだけ参加した。八人の参加者のうち、次も参加してみたいと答えた生徒が何人かいた一方、読む作品をあらかじめ知っておけると話しやすかったかもしれないという意見もあった。


「次の会をすぐに決めるという話ではないんですが、今度は参加者にも本を選んでもらえたら、もっと自分の感想を話せそうですね」

「私も、次は読み手として参加したいです。自分で選んだ作品じゃなくても、知らなかった本に出会えたら嬉しいので」


 彩花が伝えると、図書委員は頷いて記録へ書き加えた。司書は、次回を開くなら今の授業や図書委員会の仕事と無理なく両立できる時期を選びたいと話し、今日のところは参加者の意見を保管することになった。彩花は企画の中心に立ち続ける必要はないと分かり、少し気楽な気持ちで棚の本を眺められた。


 図書室を出る前、彩花は新着本の棚で、一冊の旅行記に目を留めた。知らない土地の市場や食堂を訪ねた記録が短い文章で並び、表紙には賑やかな街角が描かれている。面白そうだと思ったものの、今すぐ借りずに書名だけ控えたのは、週末に書店へ行ったとき、本当に自分が何を読みたいのか確かめたくなったからだった。


 放課後の文芸部では、先週詩を直していた部員が、新しい稿を完成させたと報告した。最後の一行は足音が近づく場面で終わり、扉が開いたかどうかは書かれていない。彩花が前に好きだと言った静けさも残っていて、作者自身がどちらの景色を大切にしたいか考えた結果なのだと分かった。


「彩花さんが読んでくれたとき、僕が書いてないことまで見つけてもらった気がした。でも、結局どっちの終わり方がいいかは、自分で決めたかったんだ」

「うん。私も、その方がいいと思う。私は読んで感じたことを伝えただけだから」


 部員は笑顔で頷き、原稿を作品記録へ収めた。彩花は自分の新しい短編も完成稿としてまとめたあと、何度も書き直した跡を残したまま、最初の草稿を別の封筒へ入れている。完成した文章だけでなく、どこを変えたのかが分かる紙にも、今は自分の選択が残っている気がした。


     ◇


 同じ月曜日の桜華学園では、悠真が来年度の連絡調整の引き継ぎについて、現在の担当者と最後の確認をしていた。教室利用の連絡表には、担当が欠席しても未確認の部分をそのまま記録し、教員の承認が必要な変更は別欄へ分ける仕組みが加わっている。先週の行事案内もこの方法で期限内に配布できたため、担当教員は試用を続けることを認めた。


 補助担当の生徒からは、次に大きな行事が重なった場合、確認者が増えるほど連絡が複雑になるのではないかという意見が出た。悠真はその場で自分が最終確認を引き受けるのではなく、教員の判断を要するものと生徒同士で済ませられるものを色分けした案を示した。実際の運用では不明な点も残るので、次回の試用後に見直すことになった。


「九条君、最初は一人で全部確認するつもりだったって聞いたけど、今はずいぶん違うね」

「僕が一番早く答えられる状態を作るより、誰が見ても次にすることが分かる方がいいと思うようになったんだ」


 悠真はそう答え、資料を補助担当へ渡した。仕事を分けても責任が消えるわけではないが、誰かが困ったときに同じ人だけが遅くまで残る仕組みは変えられる。彩花に会いたいと思う時間も、自分が学校で引き受けた役割も、どちらも無理を重ねずに続けていきたかった。


 帰宅後、悠真は手作り市で買った木の浅い皿に小さな紙片をまとめ、隣に置いた葉の模様のカードを眺めた。週末の書店では彩花に似合う本を探さず、自分が読みたい一冊を選ぶ約束をしている。彩花に薦めるための候補ならいくらでも思いつくのに、自分のために一冊だけとなると何を基準にすればいいのか分からず、悠真は少し苦笑した。


(読んだことのある分野から選べば安心だけど、それが今の僕の一番読みたい本とは限らない。店へ行ってから気になるものを探そう)


 彼は検索画面を閉じ、買う本の候補を書きかけていたメモを裏返した。書店で見つけたものを、自分の目で選びたい。その決め方を彩花が面白がってくれるかもしれないと思うと、今度は調べない時間まで楽しみになってきた。


     ◇


 火曜日の放課後、彩花は学校の相談スペースへ呼ばれ、担任と文芸部顧問から写真の件について説明を受けた。先週、新しく確認された転送記録によって、文章のない写真が日曜日の昼間にはすでに別の生徒の手元へ届いていたことが分かっている。その送り主について学校間で確認を続けた結果、さらに前の段階で写真を送った人物が、自分で撮影したことを申し出たという。


 顧問は最初に、申し出だけで撮影者と断定したのではないと説明した。桜華学園の二年生の生徒が、中央図書館の近くで土曜日の午後に撮影した元の画像を、学校へ任意で見せたのだ。元の画像には彩花と悠真の周囲の建物が広く写り、以前に拡散されたものはその一部を切り取った画像であることが分かった。撮影直後の保存記録と、その日のうちに知人へ送った履歴も、本人の説明と一致していた。


「……その人が、最初に私たちを撮ったんですか」

「今確認できている写真については、本人の説明と元画像、送信記録が一致しています。ただし、画像がそのあとどこまで転送されたかは、まだすべて分かっていません」


 彩花は膝の上で指を組み、説明を聞いた。撮影した生徒は、九条悠真が知らない女子生徒と歩いているところを偶然見かけ、好奇心から二人へ断らずにスマートフォンを向けたという。最初の送信先は桜華学園の知人一人で、そのときには文章を付けず、『九条君を見かけた』という短い言葉だけを添えていた。


 その後、画像を受け取った人々が別の相手へ転送していく中で、文芸部への資金援助という虚偽の説明と、彩花の人格を決めつける侮辱的な言葉が、それぞれ別の人物によって加えられた。二つの文章を書いた人物についてはすでに学校側の確認が終わっているが、最初に撮影した生徒がその二つを作った証拠はない。撮影と転送の責任は別に扱い、事実が確認されていない行動まで一人へ押しつけないという説明だった。


「その人は、私たちが写真を撮られたことに気づいていないって、分かってたんでしょうか」

「本人は、気づかれないよう離れた場所から撮ったと話しています。二人へ声をかけて確認するつもりはなかったそうです」


 彩花は思わず視線を落とした。知らないところで撮られた写真を見たときから、自分たちの時間が勝手に誰かの話題にされてしまったことが嫌だった。好奇心からだったという説明を聞いても、その行動によって不安を感じ、悠真と会うことをためらった日々が消えるわけではない。


「……写真に変な文章を付けた人が別にいたとしても、最初に撮らなかったら、あの画像は広まらなかったんですよね」

「そのとおりです。学校側も、無断で撮影し、本人の了承なく送った行為そのものを問題として扱っています」


 顧問は、撮影した生徒について、桜華学園側が本人と保護者を交えて面談を行い、校内の指導記録へ残すことを決めたと説明した。本人は元の画像と保存していた複製を学校側の立ち会いのもとで削除し、自分が送った相手にも訂正と削除の依頼を送った。ただし、学校がすべての個人端末を調べたわけではなく、本人の説明以外の場所に画像が残っていないと保証できるものではない。


 彩花は内容を一つずつ確認し、元の画像が見つかったことと、全体の拡散が止まったことを混同しないようにした。撮影者が明らかになり、本人が行動の責任を認めたのは大きな進展だ。一方、別の場所へ転送された画像については、引き続き学校側が必要な範囲で対応することになる。


「その人から、直接謝りたいという話は出ているんでしょうか」

「申し出はあります。ただ、会うかどうかは水瀬さんが決められます。こちらで仲介する場合も、まず本人の希望を確認します」


 彩花は少し考え、今は会わないと答えた。言いたいことが全くないわけではないが、知らない相手の顔を見たからといって、撮られたときの嫌な気持ちがすぐ消えるとは思えない。学校が無断撮影と送信の行為を具体的に指導し、その結果を知らせてくれるなら、今はその方法で十分だと考えた。


「……会うことは希望しません。でも、本人が何をしたのか認めて、送った先へ削除を頼んだことは、記録として残してほしいです。それから、どこまで確認できたのかを、また教えてください」

「分かりました。学校間で共有する記録にも、その希望を添えておきます」


 彩花は礼を言い、相談スペースを出た。廊下には部活動へ向かう生徒の声が響いている。これまでずっと分からなかった撮影者が一人の実在する生徒として確認されたのに、気持ちは単純な喜びだけではなかった。安心した部分と、今さら何を考えて撮ったのか聞いてしまった苦しさが、同じ場所に残っていた。


     ◇


 その日の文芸部で、彩花はいつもより少し遅れて部室へ入った。顧問からは相談に時間がかかったことを伝えてあり、部員たちも詳しい理由を聞き出そうとはしなかった。机の上には次の作品の構想を持ち寄るための白い紙が置かれ、各自が一つだけ書きたい場面を考える活動が始まっていた。


 彩花は椅子へ座り、すぐに文章を書こうとして手を止めた。頭には写真のことが残っていて、無理に別の物語へ切り替えようとすると、さっき聞いた説明ばかり浮かんでくる。だからまず手帳の端へ、今日確認できた事実と、まだ不明なことを短く書き分けた。


(撮った人は確認できた。でも、残っている画像の全部は分からない。嫌な気持ちが残るのも、今の私には本当のことだ)


 書き終えると、彩花は深く息を吐いた。気持ちを落ち着かせるために物語を利用したいわけではないが、今の自分が何を考えているのか分けておけば、別のことへ取りかかれる。彩花は白い紙へ向き直り、読書会で出会った八人の違う感想を思い出した。


 次に書きたいのは、誰かが正しい答えを持っている話ではなく、同じ景色を見た人たちが互いの違いに気づく話かもしれない。けれど、前に書いた鍵の物語を形だけ変えて繰り返すのは避けたかったので、主人公の目的を「相手を説得する」ことから離し、自分が知らなかった場所へ出かける小さな旅の場面を一つ書き出した。


 主人公は初めて一人で小さな港町へ行き、町の入口で道を尋ねる。教えてくれた二人の住民は、同じ目的地まで違う道を薦めるが、どちらも嘘をついているわけではない。歩く速さや途中で見たいものが違うため、便利だと思う道も違うという導入なら、登場人物の性格を行動から見せられそうだった。


「彩花さん、何か思いついた?」

「うん。まだ最初の場面だけだけど、知らない町へ一人で行く女の子を書いてみたい。誰かに答えを教えてもらう話じゃなくて、自分で道を選ぶ話にしたいんだ」


 友人は興味を示し、どんな町なのか聞いてきた。彩花は港町の名前も主人公の目的もまだ考えていないと正直に答え、まずはなぜそこへ行くのか決めてから続きを書こうと思うと話した。友人は頷き、決まったら読ませてほしいと言ってくれた。


 部室を片づけるころには、彩花の頭に少しだけ別の景色が生まれていた。写真の件が進展したからといって気持ちが全部片づくわけではないが、それだけで一日を終える必要もない。彩花は新しい構想の紙を鞄へ入れ、いつもの時間に学校を出た。


     ◇


 火曜日の夜、彩花は悠真へ学校から聞いたことを伝えた。相手の氏名や詳しい個人情報は学校が扱うため、自分から話題にしなかったが、元の写真を撮って最初に送った生徒が記録と説明から確認されたことと、撮影者自身が面談と指導を受けることは、二人に関係する重要な事実だった。悠真も桜華学園の担当教員から同じ内容を聞いており、本人が画像を撮ったことを認めたと分かっている。


『僕、最初に聞いたとき、どうして本人に確かめないで撮ったんだろうって腹が立った。彩花が嫌な思いをしたことを考えると、好奇心だったで済ませてほしくない』


 悠真からの言葉を読み、彩花は机の上にスマートフォンを置いた。彼が腹を立てること自体は自然だと思うし、その感情まで抑えてほしいわけではない。ただ、自分たちの生活を今後も続けるために、何ができるかを一緒に考えたかった。


『私も嫌でした。でも、撮った人と文章を付けた人が別々に確認できて、何に責任があるのか分かったのはよかったと思います。直接会って謝ってもらうことは、今は希望しません』

『うん。僕も相手に直接会いに行くつもりはないよ。学校での確認と対応を続けてもらおう』


 彩花は少しだけ息を吐いた。悠真が自分の怒りを、相手を探しに行く行動へすぐ変えずにいてくれることがありがたかった。写真が撮られたとき、自分たちはただ図書館の近くを歩いていた。その時間を、誰かの好奇心で勝手に説明されたくなかったという気持ちは、今でも変わらない。


 やがて悠真が、週末の本屋へ行く約束について話題を変えた。土曜日の午後に桜華学園の仕事は入っておらず、彩花も文芸部の予定がないため、午後一時半に青凪駅前の書店で会おうという提案だった。彩花は予定を確かめて了承し、今日の嫌だった出来事と、これから楽しみにしている約束を、同じ一日の中へ置けることに少し安心した。


『今度は私に薦める本を探さなくてもいいですよ。悠真君が本当に読みたいと思った一冊を選んでくださいね』

『分かった。彩花も、僕に似合う本を探さなくていいからね』


 思わぬ返しに、彩花は笑った。互いに相手の好きなものを考えすぎるところがあるのだと分かると、その癖を責めるのではなく、今日は自分のために選ぶという約束が、少し面白く感じられた。


     ◇


 水曜日の昼休み、悠真は桜華学園の担当教員から、写真の撮影者について学校側の指導記録が作成されたと知らされた。生徒本人と保護者の面談が終わり、本人の端末にあった元画像と複製を削除したこと、最初に送信した相手への訂正と削除依頼が届いたことは確認できたという。ただし、その後の転送先で全員が削除したかは追いきれておらず、学校同士で必要な注意を続ける方針だった。


 悠真は説明を受け、彩花へ確認できた範囲を知らせてもらうよう頼んだ。担当教員はすでに青葉高校へ書面で連絡しており、被害を受けた二人に個人的な謝罪の面会を強制しないことも共有したと答えた。悠真は礼を言い、学校側がそれぞれの責任を具体的に扱っていることを確かめた。


 午後の執行部の仕事では、来年度の連絡表へ新しく担当する生徒の確認日を追加した。補助担当が一部を引き受け、悠真は教員が見るべき内容だけをまとめて渡した。作業が早く終わったのは自分が手を抜いたからではなく、必要な作業が分担され、決めた順番で進んだからだと分かった。


 帰り道、琴葉が悠真の隣へ並び、土曜日は彩花と出かけるのかと尋ねてきた。悠真は頷き、今度はそれぞれ自分が読みたい本を一冊ずつ選ぶために書店へ行くと答えた。琴葉は少し意外そうに首を傾げ、九条君なら彩花のために何冊も選んでしまいそうだねと笑った。


「そこは自分でも気をつけたいと思ってる。僕が今読みたい本って、何だろうって考えると、案外すぐには出てこなくて」

「じゃあ、今日は自分のために選ぶ練習なのね。君の方が難しそう」


 悠真は笑い、そうかもしれないと答えた。これまで誰かの希望に応えることを先に考える癖があったが、彩花と付き合い始めてから、自分が何をしたいのか聞かれる場面が増えている。相手に喜んでもらうことも嬉しいけれど、自分の選択を話せることも、これからは大切にしたかった。


     ◇


 木曜日の放課後、青葉高校の図書室では、司書が冬の部誌の補修を終えた一冊を展示台へ戻していた。表紙の角が整えられ、ページの外れかけていた部分も補強されている。彩花は部誌を手に取り、何度も貸し出されたために残った小さな使用の跡を見つけたが、それが誰かに読まれた証だと思うと少し嬉しくなった。


「これでまた貸し出せますね。ありがとうございます」

「ええ。読んだ方が次の人へ渡せるよう、必要なところだけ直しました。全部新しい状態へ戻すわけではありませんけど、使い続けるには十分ですよ」


 彩花は頷き、部誌を所定の位置へ置いた。自分が書いた短編も、完成したあとでいろいろな人に読まれ、その人たちの生活の中へ少しだけ入っていく。だからこそ次に書くものも、何を残したいか考えながら、焦らず形にしていきたかった。


 部活動では、港町へ行く少女の構想についてもう少し考えた。主人公が初めての町へ行く目的を、遠くで暮らす親戚を訪ねるためと決めると、道に迷うことにも時間の制限が生まれる。ただ風景を眺めるだけではなく、約束した時刻までに自分で選んだ道を歩き、必要なら誰かへ相談する人物として動かせそうだった。


 友人に話してみると、初めての場所で道を間違えるなら、主人公がどの案内を信じたのかも書いてほしいと言われた。彩花はその意見を受け、二人の住民が違う道を示した理由を、距離だけでなく坂道の有無や途中で見える景色の違いとして考え始めた。まだ本文を書く段階ではないが、主人公がどこへ行き、何を選んで、結果どうなるのかが少し具体的になった。


 帰宅後、彩花は書店へ持っていく財布と手帳を鞄へ入れた。今度は本を一冊買う予定だから、手作り市で使った布の買い物袋も折りたたんで入れておく。何を買うかは決めないまま、予算だけは自分の中で決めておいた。


     ◇


 土曜日の午後一時半、青凪駅前の書店前で彩花が待っていると、悠真が少し早足で近づいてきた。冬の空は薄い雲に覆われていたが、雨の気配はなく、駅前には買い物客の声が響いている。彩花が挨拶すると、悠真は笑顔を返したあと、店の入口へ目を向けた。


「こんにちは、彩花。今日は本当に何も決めずに来たよ。本の候補も、棚の場所も調べてない」

「こんにちは、悠真。……それをわざわざ報告してくれるところが、悠真らしいです」


 彩花が笑うと、悠真も少し照れたように笑った。外で呼び捨てにするのはまだ少し緊張するが、周囲へ聞かせるためではなく、二人の間で自然に使いたいという気持ちは変わらない。彩花は店へ入る前に、一冊ずつ自分のために選び、最後にどうして気になったか話そうと提案した。


「どっちかが先に見つけても、相手を急かさないでいいですよね。私は少し棚を見て回りたいです」

「うん。僕もそうしたい。じゃあ、気になる棚があったら別々に見て、あとで店の奥の椅子の近くで落ち合おうか」


 二人は待ち合わせる場所と時刻を決め、別々の通路へ進んだ。彩花は小説の棚から、短編集、随筆、旅の記録を順に眺めた。悠真の好みを思い出す瞬間もあったが、そのたびに一冊を彼へ薦めるために来たのではないと自分へ言い聞かせ、今の自分が続きを読みたいと思うものを探した。


 最初に手に取ったのは、遠くの町を訪ねる人々を描いた短編集だった。短い紹介文には、同じ町へ向かった登場人物がそれぞれ違うものを持ち帰ると書かれていて、彩花が今考えている港町の物語にも少し似ている。ただ、創作の参考になるから買うのか、それとも読みたいから買うのかが分からなくなり、彩花は一度棚へ戻した。


 次に目に入ったのは、架空の小さな町で暮らす人たちの日常を、少しおかしな語り口で描いた小説だった。表紙の絵は地味で、特別な事件が起こりそうには見えない。それでも数行だけ読める紹介文には、いつも同じ道を通る配達員が、ある日自分の知らない店の存在に気づくという、妙に気になる一文があった。


(これ、どうなるんだろう。大きな謎じゃないのに、続きが知りたくなる)


 彩花は店の案内に従い、立ち読みしてよい範囲で冒頭を少し確かめた。文章には軽やかな冗談が混じり、配達員が真面目に道を間違えるたびに、町の人の性格が少しずつ見えてくる。彩花は思わず笑いかけ、周囲を確かめて口元を押さえた。


 自分が書きたい話は登場人物の決断を丁寧に描くものが多いが、今日は少し笑える物語を読みたい気分だった。書くための勉強になるかどうかを先に考える必要はない。彩花はその一冊を持ち、ほかの棚へ戻りたくなる気持ちをいったん止めた。


     ◇


 一方、悠真は専門書の棚へ向かいかけてから、足を緩めていた。建築や歴史の本なら、いつものように気になるものを見つけられるだろう。しかし今回は、学校の仕事でも彩花へ紹介するためでもなく、自分の時間を使って何を読みたいか考えたかった。


 彼は生活実用書の棚を通り、料理の本が並ぶところで立ち止まった。手作り市で買った木の皿は机に置くためのものだったが、あの日から、何かを自分の手で作ることに少し興味が湧いている。店で焼き菓子を選んだときも、完成したものを食べるばかりで、作るためにどんな手順が必要なのかをほとんど知らないと気づいていた。


 料理の棚には専門的な本も多かったが、初心者向けに道具の扱いから説明する薄い本があった。悠真は表紙を眺め、材料の選び方や作業の失敗例まで書かれていることに興味を持った。ただし、今まで自分で台所に立つ機会が少なかったため、どこまで実際にできるのかは分からない。


(彩花に食べてもらうものを作ろう、って最初から考えたら、また相手のための選択になるな。僕はまず、自分で何か作ってみたいんだ)


 悠真は本を開き、最初の章にある簡単な焼き菓子の説明を読んだ。道具を準備すること、材料の量を正確に量ること、焼き加減を確かめることが、写真と短い文章で整理されている。学校の資料と違って、間違えたときには形や味が変わるという結果が目の前に残るのが、かえって面白そうだった。


 家の台所を使えるかどうかは、帰宅してから家族へ相談しなければならない。火を使うことや衛生のことも、自分だけで決めてよいわけではない。それでも、やってみたいと思う気持ちは自分のものだと感じ、悠真は初心者向けの一冊を手に取った。


 奥の椅子の近くへ戻ると、彩花が少し離れた本棚を眺めながら待っていた。彼女の手には小説らしい文庫本が一冊あり、悠真が近づくと、楽しそうに表紙を隠して笑った。


「もう選べたんですか?」

「うん。彩花も一冊見つけたみたいだね。でも、買うまでは秘密にしておこうか」


 悠真の提案に彩花は頷いた。二人はレジへ向かい、別々に自分の本の代金を支払った。店員が紙の袋へ入れてくれると、彩花は買い物袋へ丁寧に収め、書店の外でどんな一冊を選んだか見せ合うことにした。


     ◇


 書店を出ると、駅前の小さな休憩スペースには空いているベンチが一つあった。二人はほかの人の通行を妨げない場所へ座り、まず彩花が買った本を取り出した。表紙には小さな商店が並ぶ町の絵が描かれ、題名は『曲がり角の配達日和』と書かれている。


「私、今日は少し笑えるものが読みたくて。あらすじを読んだら、配達員さんが毎日通ってる道で、知らなかった店を見つける話だったんです。何が起こるのか気になっちゃって」

「面白そうだね。彩花が今書こうとしてる港町の話にも、少し近いところがあるのかな」


 悠真が尋ねると、彩花は少し考えてから首を横に振った。知らない場所へ行くという点は似ているかもしれないが、この本を買った理由は創作の参考にしたかったからではない。配達員が次に何を見つけるのかを純粋に読んでみたくなったのだと話すと、悠真は楽しそうに頷いた。


「そっか。じゃあ、読み終えたら、面白かったところを聞かせてほしい。僕はまだ何も知らない本だから、彩花がどこで笑ったのか気になる」

「はい。でも、結末を話していいかは先に聞きますね。悠真君も読みたくなるかもしれないので」


 二人は小さく笑い、今度は悠真が買った本を取り出した。彩花は表紙を見るなり、思わず目を丸くした。そこには泡立て器と焼き型の絵が並び、題名は『はじめての小さな焼き菓子』と書かれていた。


「……お菓子の本、ですか?」

「うん。自分で何か作ってみたくなったんだ。ずっと食べる側だったけど、手順を知ったら面白そうだなって思って」


 彩花は驚いたあと、自然と笑みをこぼした。悠真なら歴史や建築の本を選ぶのではないかと、勝手に思っていたのかもしれない。彼が新しいことへ興味を持ち、自分のために一冊を買ったことが、何より嬉しかった。


「すごく意外でした。でも、悠真が自分で作ってみたいって思ったなら、楽しそうですね」

「まだ台所を使えるか分からないし、失敗すると思う。だから最初は、家でできる範囲から試したいな」


 悠真はそう答え、慣れないことを始めるのが少し楽しみだと話した。彩花はすぐに自分へ作ってほしいとは言わず、まず彼自身が何を作りたいのか考える時間を大切にしたかった。彼が完成したものを見せたいと思ったら、そのときに話を聞けばよい。


 ベンチで二冊を並べると、小説と料理の本は表紙の色も大きさも全く違っていた。けれど、どちらも今日の自分たちが読みたいと思ったもので、相手が喜びそうだから選んだものではない。彩花はその違いを眺めながら、一緒に出かけても同じ本を選ばなくてよかったと心から思った。


「私、悠真が何を選ぶか少し想像してたんです。でも、全然違いました」

「僕も、彩花が今書いてる話の参考になる本を選ぶのかなって思ってた。お互い、当てられなかったね」


 彩花は笑い、当てられなかったことが嬉しいと伝えた。恋人になったからといって、相手の好みを全部知っているわけではない。知らないところを少しずつ見つけられるから、これからも一緒に話したいのだと思った。


     ◇


 帰り道、二人は書店から駅前の広場へ続く通りを歩いた。彩花の鞄には新しい小説が一冊入り、悠真も料理の本を大切そうに持っている。何か特別な催しに参加したわけではないが、相手の知らなかった好みを一つ知れたことが、今日の時間をいつもより鮮やかにしていた。


 横断歩道の手前で足を止めると、悠真が彩花の方へ右手を差し出した。彩花はその手を見て少しだけ微笑み、自分の左手を重ねた。最初に手をつないだときのように力の入れ方で迷うことはなく、信号が変わるのを待つ間も、自然に隣へ立てた。


「今日は、僕が選んだ本を変だと思わなかった?」

「どうしてですか。悠真が何か作ってみたいと思ったんでしょう。私は、そういう話を聞けるのが嬉しかったです」


 悠真は少し照れたように笑った。彼は自分でも、本屋へ来て料理の本を買うとは予想していなかったらしい。彩花が何を選んだか気にせずに棚を見たから、普段なら通り過ぎるところで足を止められたのだと話してくれた。


「僕、これまで誰かに必要だと言われた本や、仕事で役立つ本を先に考えてた気がする。でも今日は、自分が読みたいって思ったものを選べたよ」

「……それ、私も同じです。書くための参考書じゃなくて、ただ続きが読みたい小説を買えたのが嬉しいです」


 彩花はそう答え、信号が青へ変わるのを見て歩き始めた。二人は手をつないだまま道を渡り、駅前の案内所近くで立ち止まった。帰宅の連絡をそれぞれの家へ送り、今夜は買った本を少し読んでみようと話した。


 別れる前、悠真が少し真面目な顔になった。彩花は何か心配させたのかと思ったが、彼が話したのは、今週学校から聞いた写真の件についてだった。撮影者が分かり、本人の責任が具体的に確認されたことを、ここで一度だけ確かめておきたいという。


「彩花。写真を撮った人が分かったこと、僕は大きな進展だと思ってる。でも、もう全部終わったことにしてほしいとは思ってない。もしまた何か困ったことがあったら、僕にも話してほしい」

「うん。ありがとう。私も、何か確認できたら悠真に話すよ。でも、今日みたいに楽しい時間があったことも、ちゃんと覚えていたい」


 悠真は頷き、二人はそこで話題を終えた。問題をなかったことにするのではなく、いつでも向き合えるようにしておきながら、今は楽しかったことを話せる。彩花はその距離感が心地よく、手を離したあとも自然に笑えた。


「じゃあ、また。買った本を読んだら、どこが面白かったか教えてね」

「はい。悠真も、もしお菓子を作ってみたら、どうだったか聞かせてください。失敗しても、隠さなくていいですから」


 悠真は少し困ったように笑い、分かったと答えた。彩花は手を振り、帰りの道へ歩き始めた。今日の書店で何を選んだかを思い出すと、まだ一ページも読んでいない本の続きが気になり、歩く足が少しだけ軽くなった。


     ◇


 帰宅後、彩花は凛花へ買ってきた本を見せた。姉は表紙を眺め、配達員が知らない店を見つけるというあらすじを面白がった。彩花が今日は自分のための一冊を選ぶ約束だったと説明すると、凛花はそれなら今どんなものが好きなのか、互いに分かるねと笑った。


「悠真君は何を買ったの?」

「……お菓子の作り方の本だったの。私もびっくりしたけど、自分で作ってみたいんだって」


 凛花は目を丸くし、少し考えてから、意外だけどいいねと答えた。悠真が何でもそつなくこなす人に見えるのは、自分たちが学校の仕事をしている姿をよく知っているからかもしれない。初めての料理ではうまくいかないこともあるだろうが、そういう経験も本人が楽しめたらいいと、彩花は思った。


 自室へ戻ると、彩花は新しい本の最初の章を開いた。配達員は町の角でいつもと違う道を選び、行き止まりだと思っていた場所に小さな店を見つける。そこでは店主が妙な看板を出していて、最初の会話からすでに少しおかしい。彩花は思わず笑い、続きを読むために椅子へ深く腰掛けた。


 数ページ進んだところで、スマートフォンが震えた。悠真からの連絡には、帰宅後に家の人へ台所を使う相談をして、週末の空いている時間に簡単な焼き菓子を試してみることになったと書かれていた。最初から一人で作るのではなく、道具の扱いと火を使う部分は家の人に教えてもらう予定だという。


『よかったですね。何を作るか決まったら、教えてください。私も今、買った小説を読み始めました。もう最初のところで笑っちゃいました』

『それは楽しそう。僕も本を開いて、材料の量を間違えるとどうなるか読んでたところだよ。思ったより覚えることが多そうだけど、やってみたい』


 彩花は画面を見つめ、今日二人が選んだ本の違いを思い出した。自分は物語の続きを知りたくて、悠真は自分の手を動かしてみたくて本を買った。今夜の二人は別々の場所で違うページを読んでいるが、それぞれの時間が終わったあとに感想を話せることが嬉しかった。


 彩花は最後に『最初に作ったものがどうなったか、聞けるのを楽しみにしてます』と送り、本を開き直した。画面が消えても、笑いの残る文章が目の前に続いている。次のページで配達員がどんな失敗をするのか、自分の目で確かめたくて、彩花は栞を外して次のページをめくった。



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