第183話 八人の読者と、初めて呼ばれた名前
日曜日の朝、水瀬彩花は通学鞄から紺色の巾着を取り出し、中にしまった付箋の数を確かめていた。昨日、九条悠真と『菓子の庭』で過ごしたあと、帰り道で初めて手をつないだときの感触が、不意に左手へ戻ってきたように感じられる。買ってきた便箋は机の引き出しに収めてあり、完成させた短編の原稿も、次に読み返す日を決めて表紙を付けてあった。
恋人になってから初めて一緒に出かけた昨日は、特別なことを何もかも用意した日ではなかった。違う菓子を選び、会計では一度だけ考えがすれ違い、その場で何を望んでいるか話したうえで、二人とも気持ちよく店を出られた。手をつなぎたいと自分から言えたことも嬉しかったが、言ったあとに何か劇的な変化を求められなかったことが、今は同じくらい大切に思えた。
(好きだから、言えることが増えたんだ。でも、全部を悠真君と一緒にしなくても、好きなことは続けられる)
彩花は机の端に並べた原稿と教科書を見渡し、月曜日の準備を始めた。文芸部では冬の部誌が完成したあと、それぞれの作品を読み合う活動が続いている。自分の新作短編も第三稿から二か所を直して完成稿にしたところなので、次に何を書きたいのか考える時間を持ちたかった。
朝食の席で凛花に昨日の菓子店の話をもう一度聞かれ、彩花は洋梨のタルトの味と、古い文房具店で見つけた便箋の手触りについて説明した。凛花は楽しそうに頷いたが、恋人として何をしたのかを詳しく聞き出そうとはしない。彩花はその距離感がありがたく、次に姉と出かけるときは『菓子の庭』へ一緒に行くのもよさそうだと思った。
「彩花の話を聞いてたら、私も行きたくなってきた。今度は植物の鉢を探す日じゃなくて、お菓子を食べる日にしようかな」
「いいね。お姉ちゃんとなら、違う種類を選んで感想を言い合うのも楽しそう」
凛花は笑い、都合のいい休日を見つけたら相談しようと言った。彩花はその返事を聞いて、悠真との約束が増えても、姉と二人で過ごす時間を減らしたくないという気持ちが自然に残っていることに安心した。
◇
月曜日の昼休み、青葉高校の図書室へ向かった彩花は、入口の展示台に冬の部誌が並んでいるのを見て足を緩めた。最初に展示したころは冊子を手に取ってくれる人がいるだけで胸がいっぱいになったが、今は借りた生徒が返し、また別の生徒が借りるという流れが生まれている。紹介文の横には感想カードの入れ物も置かれ、名前を書かずに意見を残せるようになっていた。
返却する本をカウンターへ置くと、学校司書が彩花へ声をかけた。先週、図書委員会の生徒たちと話し合い、昼休みに短い読書会を試してみることになったという。普段は棚の前で立ち読みして帰るだけの生徒にも、誰かが読んだ文章について話せる場所を作りたいという提案で、まずは金曜日に二十五分ほどの小さな集まりを予定しているらしかった。
「文芸部の人にも、もしよければ一緒に進行してもらえないかという話が出ています。もちろん、授業や部活動を優先して構いませんし、参加するかどうかは顧問の先生にも確認します」
「……読書会、ですか。どんなものを読む予定なんでしょう」
司書は用意した案内用紙を見せ、参加する人が同じ短い文章を読んだあと、気になった場面や感じたことを話す形式だと説明した。誰かの感想に正解をつけることが目的ではなく、違う読み方を聞いて本を開くきっかけになればよいという。読む文章は文芸部員のオリジナル作品から、作者が了承した部分を使えればありがたいと書かれていた。
彩花は案内を受け取り、その場では返事をしなかった。部員が書いた文章を使うなら、誰の作品であっても本人の承諾が必要だし、短い時間で伝わる部分を選ばなければならない。自分の完成させた短編を使うこともできるかもしれないが、長い作品の一場面だけを取り出してよいのかは、もう少し考えたかった。
「顧問の先生と部のみんなに相談してから、お返事してもいいですか。もしやるなら、参加する人が困らない形にしたいです」
「ええ。無理に大きな会にする必要はありません。最初は八人ほどの希望者を集めて、試してみる予定です」
司書は笑って案内を渡した。彩花は昼休みの残り時間を使い、紙に書かれた進行案を読み返した。二十五分で何を話せるのか、考え始めると緊張もあるが、それよりも、自分の書いたものを読んだ人がどんな言葉を選ぶのか聞いてみたい気持ちが強くなった。
◇
月曜日の放課後、文芸部の部室では顧問を交えて読書会の相談をした。司書が用意した案内には、金曜日の昼休みに図書室の奥の閲覧スペースを使い、希望者八人を受け入れる計画が示されている。文芸部からは進行役と作品を読む役をそれぞれ一人ずつ出してほしいという希望で、参加者へ配る文章は学校図書室内で使い、終了後に回収する取り扱いだった。
「私、進行をやってみたいです」
彩花が口にすると、隣の友人が驚いて顔を上げた。自分でも少し意外だったが、彩花は言ってから後悔しなかった。冬の部誌を作ったときには紹介文の署名を出すだけで迷っていたのに、今は誰かの感想を聞くために、直接言葉を交わしてみたいと思っている。
「進行役は、みんなの意見を聞いて、話したい人が話せるようにする役ですよね。上手にできるかは分からないけど、やってみたいです」
「いいと思う。彩花さんが読むのが好きなの、みんな知ってるし」
別の部員が頷き、読み上げる文章には自分の短い詩を使ってもよいと言った。ただ、初めて来る人が話しやすいかを考えたいという意見が出たため、顧問は読む文章を二つまでに絞り、時間配分を決めるよう提案した。彩花は自分の完成稿から、主人公が古い約束の鍵を握り、友人の頼みを断るか迷う場面を候補に挙げた。
顧問はその原稿を読み、作品全体を知らない参加者へどこまで説明する必要があるか考えるよう促した。結末まで載せると、短い時間ではほかの意見を聞く余裕がなくなる可能性がある。一方、主人公が鍵を握って迷う場面で止めれば、参加者はそのあと何を選ぶのかを話し合える。
「じゃあ、私は冒頭から全部を読むのではなく、鍵を渡すよう頼まれる場面を使います。前にどんな約束をしたのかは、必要なところだけ短く説明します」
彩花はそう答え、作品の一部分を読書会用に抜き出すことにした。これは部誌へ作品を追加する作業ではなく、作者本人が選んだ箇所を校内の小さな集まりで読む試みだと、顧問とも確認できた。読み上げ役には、詩を提供した部員が自分の作品を読むことになり、彩花は質問を用意する係を引き受けた。
帰宅後、彩花は手帳に会の流れを書き込んだ。最初に挨拶をしてから詩を読み、そのあと自分の短編の一場面を参加者に黙読してもらい、気になったところについて話す。時間を計ってみると、説明を長くすれば意見を聞く時間がなくなってしまうため、彩花は自分の話す部分を思い切って短くした。
(私が何を考えて書いたか、全部説明する会じゃないんだ。読んだ人が何を見つけたかを、聞いてみたい)
彩花は質問を三つ書き、すぐに一つを消した。『主人公は正しいと思いますか』と尋ねると、正解を決める話になりそうだったからだ。代わりに『主人公は何を怖がっているように見えましたか』と書くと、作品を読んで感じたことを話しやすくなる気がした。
◇
火曜日の午前、桜華学園では九条悠真が担当教員から短い連絡を受けていた。以前、非公式の交流掲示板に掲載された、九条家へ近づけば特別扱いされるという侮辱的な文章について、管理者の記録をもとに学校側の確認が進んだという。掲示板の表示名だけでは本人だと判断せず、関係する生徒へ聞き取りを行った結果、桜華学園の生徒一人が自分のアカウントを使って投稿したことを認めたのだった。
「本人は文章を自分で書き、写真と一緒に掲載したと話しています。ただし、写真を撮ったとは言っていませんし、最初の撮影者についても確認できていません」
担当教員はそこを明確に区別した。投稿した生徒は、別の人から転送された画像を見て、九条家の名前が出るなら特別扱いがあるはずだという先入観で文章を作ったという。文芸部への資金援助という別の虚偽の説明を作った生徒とは、学校間の記録から別人であることも確認されていた。
悠真は話を聞き、口元を引き締めた。誰かが誤解してしまっただけなら事実を説明する余地があったかもしれないが、事情を確かめずに彩花の人格を決めつけ、非公式の掲示板へ掲載した行為には明確な責任がある。被害を受けた彩花の気持ちを思うと、何事もなかったように済ませるべきではないと感じた。
「投稿した人には、どんな対応が決まったんですか」
「本人と保護者を交えた面談を実施し、校内の指導記録へ残します。管理者は当該アカウントの利用を停止し、掲示板の利用者には、画像と文章が本人の了解を得ないものであり、根拠のない決めつけだったことを訂正として通知します」
教員は続けて、投稿者の氏名や指導内容を掲示板でさらすことはしないと説明した。投稿が非公開になった時点で画像を保存した人がいる可能性は残るが、少なくとも管理者の手元にある記録から投稿の事実を確認し、掲載場所で訂正を伝えることはできる。学校は必要な範囲を青葉高校へ知らせ、彩花への直接接触については本人の意向を確かめるまでは認めない方針だった。
「分かりました。僕から相手へ話しかけるつもりはありません。ただ、彩花さんが望まない形で謝罪を求められることがないようにしてほしいです」
悠真が伝えると、教員は頷いた。最後に、無断撮影した人物の特定はまだできておらず、今回分かったのは侮辱的な文章を掲載した人物の責任だと改めて確認した。悠真は礼を言い、生徒会室へ向かった。
廊下を歩きながら、悠真は以前なら自分で投稿者を突き止めようとしたかもしれないと考えた。けれど、今回は学校が記録と本人の説明を照合し、具体的な対応まで進めている。自分の役目は勝手に動くことではなく、確認された事実を受け止め、彩花へ必要な情報が届くようにすることだった。
◇
火曜日の放課後、彩花は文芸部の友人と読書会の質問を見直していた。用意したのは『誰の行動が気になりましたか』『主人公は何を怖がっているように見えましたか』という二つで、どちらも正解を決めるものではない。友人は紙を読んだあと、意見が違った場合にどうするかも考えておくとよいのではないかと言った。
「もし『主人公は断るべきだ』って人と、『頼みを聞いてあげるべきだ』って人がいたら、彩花はどうする?」
「……私は、どっちが正しいか決めようとしてたかもしれない。でも、それを決めるための会じゃないもんね」
彩花は少し考え、二人の意見が違う理由を聞いてみたいと答えた。何を大切にして読んだのかが分かれば、違う答えそのものが話題になる。友人は頷き、それなら意見を聞いたあと、書かれているどの場面からそう思ったか尋ねると話が具体的になると教えてくれた。
さっそく二人で練習すると、彩花は最初の問いのあと、つい自分の解説を長く続けてしまった。友人が読み手の立場で答えようとしても、作者の説明が入ると間違ったことを言ってはいけない気がするという。彩花はその指摘に驚き、説明しすぎないために、質問をしたらすぐ次の言葉を重ねない練習をした。
「私、静かになると何か話さなきゃって思ってた。でも、考えてる時間かもしれないもんね」
「そうそう。いつもすぐ答えが出るとは限らないし、最初は私も黙っちゃうと思う」
彩花は頷き、メモの端に『すぐ埋めない』と書いた。人の言葉を待つことは、何もしないことではない。相手が考えている途中に自分の答えを先に渡してしまわないよう、耳を傾けるための行動なのだと感じた。
その日の帰り、顧問から読書会への参加希望が八人集まったと知らされた。人数が予定に達したため受付は締め切り、希望者には当日の集合場所を図書委員会が案内することになった。彩花は思ったより早く参加者が集まったことに驚いたが、どんな人が来るのかを確かめるより、誰が来ても話しやすい会にする準備を続けようと決めた。
◇
水曜日の昼休み、彩花が図書室のカウンターへ行くと、学校司書と顧問が相談できる状態で待っていた。桜華学園側の非公式掲示板に掲載された侮辱的な文章について、投稿した生徒の責任が確認され、学校と管理者による対応が決まったという連絡が青葉高校にも届いたのだった。彩花は図書室の奥の相談席へ移り、二人の説明を落ち着いて聞いた。
投稿した生徒は自分が文章を書いて画像と一緒に載せたことを認めたが、最初の撮影者については知らないと説明しており、元の画像がどこから生まれたかも分からないという。掲示板側では当該アカウントを利用停止とし、記録を保存したうえで掲載を非公開にしている。さらに、利用者へ事実の訂正と画像を転送しないよう求める通知を送ったことも確認できた。
「訂正はもう送られたんですね」
「はい。管理者から通知を送った記録があります。ただ、受け取った全員が読んだことや、保存済みの画像がすべて消えたことまでは、確認できていません」
顧問はそう説明し、学校側では投稿者と保護者への面談と指導記録の作成を終えたことも伝えた。彩花はその事実を一つずつ受け止めた。自分に向けられた言葉を作って広めた人が、少なくともその行動の責任から逃げず、具体的な指導を受けたのだと分かった。
(……これで全部終わったわけじゃない。でも、あの文章を作った人が誰にも分からないままにはならなかったんだ)
彩花は膝の上に手を置き、深く息を吐いた。今すぐ相手を許したいわけではないし、謝罪のために直接会いたいとも思わなかった。けれど、学校ができることを一つずつ進め、訂正まで届けてくれたことは、確かな小さな勝利だった。
「私は今のところ、相手の人と直接会いたくはありません。訂正と指導が進んだことは、ちゃんと受け取りました。でも、名前を聞いて自分で話をしに行くことは、しないでおきたいです」
顧問は頷き、その意向を学校間で共有すると約束した。必要な情報は本人へ伝えるが、学校が調べている範囲を超えて彩花自身が相手を追う必要はない。最初に写真を撮った人物や、その後の転送経路については引き続き未確認だが、今回の投稿者がそれらすべてに関わったと考えないことも確認した。
相談が終わると、彩花は図書室の展示台へ向かった。冬の部誌は数冊が貸し出され、返却待ちの札が一枚残っている。学校の中で本人の希望に沿って置かれた文章と、本人の知らないところで広まった写真の違いを、今は無理に説明し続けなくてもよかった。目の前の部誌が読まれ続けているという事実だけを、今日は素直に喜びたかった。
◇
水曜日の夜、彩花は悠真と短い電話をした。交際を始めたときのように大切な返事を用意した電話ではなく、互いの学校で起きたことを話すため、夕食後に都合を合わせたものだった。最初は彩花が金曜日の読書会について説明し、進行役を引き受けたことと、参加希望が八人集まったことを伝えた。
「八人も来てくれるんだね。彩花さん、楽しみ?」
「はい。緊張もしますけど、普段は話さない人が同じ文章を読んで、何を感じるのか聞いてみたいです」
悠真は嬉しそうに答え、何を読むのか尋ねてくれた。彩花は完成させた短編から、主人公が鍵を渡すよう頼まれる場面を選んだことを説明し、結末を教える会ではなく、どう読んだかを話す会にしたいと伝えた。悠真は以前その作品の書き始めについて聞いたことを思い出し、完成した文章が今度は読書会につながるのは面白いねと言った。
続いて二人は、学校を通して届いた掲示板の訂正について話した。悠真が聞いた内容と彩花へ伝えられた内容は大筋で一致しており、どちらも投稿者が文章を書いたことと、元の写真の撮影者までは不明という点を分けて理解している。彩花は相手へ直接会うつもりはないと話し、悠真もその意思を尊重すると答えた。
「……今日は、嬉しいことと嫌だったことを両方聞いた日でした。でも、読書会の準備をしてるときは、ちゃんと楽しかったんです」
「うん。どちらかをなかったことにしなくてもいいと思う。僕も今日は学校の仕事が順調で嬉しかったし、投稿の話を聞いたときは腹が立ったよ」
悠真が珍しくはっきり腹が立ったと言ったので、彩花は少し驚いた。彼は相手へ何かをしようとはしていないが、嫌な気持ちまで隠す必要はないのだろう。彩花は声を落とし、自分も同じ気持ちだったと伝えた。
そのあと、悠真が金曜日の読書会には行けないのが残念だと少しだけ笑った。青葉高校の図書室で行う校内の集まりなので、桜華学園に通う悠真が参加者として入る予定はない。彩花はその区別を自然に受け止め、会が終わったらどんなことを聞けたか話したいと答えた。
「……恋人だからって、全部の場面に一緒にいなくてもいいんですよね。悠真君が学校の仕事をしてるとき、私も読書会を頑張ります」
「うん。終わったら、お互いに何があったか話せるのを楽しみにしてる」
電話の最後に、悠真が金曜日は仕事が早く終わる予定なので、帰りに中央図書館で少しだけ会えるか尋ねた。彩花は部活動が終わる時刻を確認してから返事をしたいと伝え、その場で無理に約束を決めなかった。翌日、顧問へ予定を確かめたうえで、会えるなら自分から知らせることにした。
◇
木曜日の放課後、青葉高校の図書室では読書会の短いリハーサルを行った。司書と図書委員一人、文芸部から彩花と詩を読む部員が集まり、椅子の配置と文章を渡す順番を確かめた。参加者八人が座る場所と、話す人が見えやすい位置を決めてから、詩の朗読と短編の黙読にかかる時間を測った。
実際に進めてみると、彩花の挨拶は予定より長かった。文章を書いた理由を詳しく話してしまい、質問に使える時間が短くなっていたのだ。司書は内容自体は分かりやすいと伝えたうえで、最初の説明は作品の背景を知るために必要な一文だけに絞ってもよいのではないかと提案した。
「読む人が考える前に、作者の解説を全部聞く形になってしまいますからね。作品について話すのは、感想が出たあとでも十分ですよ」
彩花は頷き、用意していた挨拶の半分ほどを削った。主人公が昔の約束に関係する鍵を持っていることと、友人からそれを貸してほしいと頼まれる場面だという説明だけを残す。誰に共感してほしいかという希望は口にせず、参加者が文章を読み始められるようにした。
椅子を片づけながら、図書委員の生徒が彩花へ、なぜ自分から進行役をやりたいと思ったのか尋ねた。彩花は少し考え、誰かの感想を聞くと、書いたときには気づかなかったものが見えることがあるからだと答えた。部誌に寄せられた感想も嬉しかったが、今回は違う考えが生まれた理由を、その場で聞いてみたかった。
「それなら、きっと面白い会になると思います。私も最初は本を読むだけでいいと思ってたんですけど、ほかの人の話を聞くと、違うページを開きたくなることがあるから」
図書委員は笑顔で頷き、翌日の準備について確認してから帰っていった。彩花は部室へ戻り、顧問から金曜日の活動終了予定を聞いた。読書会の片づけが終わればいつもより早く帰れるため、悠真と中央図書館で少し会う時間を取れそうだった。
帰宅後、彩花は悠真へ、金曜日の午後五時ごろなら中央図書館で会えると知らせた。悠真からも同じ時間に行けると返事が届き、二人は閉館時刻を確認してから、長くなりすぎないようにしようと決めた。読書会を終えた自分の話を、直接聞いてもらえる予定ができたことが嬉しかった。
◇
金曜日の昼休み、青葉高校の図書室の奥には椅子が八脚並び、司書と図書委員が受付を準備していた。彩花は予定より少し早く到着し、文芸部の仲間と一緒に文章の用紙を確認した。短編から抜き出した場面は一枚に収まり、詩の用紙とは分けて並べてある。
最初の参加者が来たとき、彩花は胸が少しだけ高鳴った。やがて八人がそろい、図書委員が受付を終えると、閲覧スペースは普段の昼休みとは少し違う静けさに包まれた。何かを発表する会ではあるが、席にいるのは知らない相手の言葉を聞いてみたいと思って集まった人たちなのだと考えると、彩花は用意した挨拶を自然に言えた。
「今日は来てくれてありがとうございます。文芸部の作品を二つ読んで、そのあと気になったことを少しお話しできたらと思います。感じ方に正解を決める会ではないので、話したいと思ったことを、それぞれの言葉で聞かせてもらえたら嬉しいです」
詩を担当した部員が立ち上がり、ゆっくりと読み始めた。冬の朝に校舎の窓へ映る光を題材にした短い詩で、読み終えたあとには椅子に座る参加者たちが少しずつ顔を上げた。図書委員が感想を求めると、窓の光を温かいと感じた生徒と、静かな寂しさがあると感じた生徒がそれぞれ言葉を選んで話した。
彩花はその違いを聞き、同じ言葉から別の景色を思い浮かべることが、実際に起こっているのだと思った。詩を書いた部員は少し照れながら、どちらの感想も嬉しいと答えた。司書が予定の時間を知らせると、彩花は次の文章へ移るため、用紙を参加者へ渡してもらった。
「次は短編の一場面です。主人公は、昔の約束に関係する鍵を持っています。その鍵を友人から貸してほしいと頼まれたところを読んでください」
彩花は説明をそこで止め、席にいる人たちが紙を開くのを待った。静かな時間が続くと何か言いたくなったが、昨日の練習を思い出し、用意した質問へすぐ移らずにいた。参加者が文章を読み終え、紙を机へ置く音が少しずつ重なってから、彩花は顔を上げた。
「読んでみて、主人公は何を怖がっているように見えましたか。すぐに答えが出なくても大丈夫です」
最初に手を挙げたのは、二年生の女子生徒だった。彼女は主人公が友人に嫌われることを怖がっているように見えたと答え、その理由として、断る前に相手の表情を何度も確かめている描写を挙げた。彩花は頷き、どの行からそう感じたかをもう一度尋ねた。
次に発言した一年生の男子生徒は、少し違う意見だった。主人公は嫌われることだけでなく、昔の約束を守れなくなることの方を怖がっているように思えたという。彼は鍵を包んでいた布について触れた行を示し、何か大切な記憶があるのではないかと考えたと説明した。
彩花は二人の話を聞き、すぐに自分の意図を答えたくなった。しかし、どちらの感想にも本文から拾える理由があり、ここで正解を言ってしまうと、ほかの人が考える余地がなくなる気がした。彩花は紙を持ち直し、別の問いを口にした。
「二人とも、気になった場面が違うんですね。もし自分がこの友人の立場だったら、鍵を貸してほしいと頼んだあと、どんな返事を聞きたいと思いますか」
その質問を聞いて、今度は別の参加者が手を挙げた。主人公が嫌なら最初から断ればいいのに、何度も迷っているのは少しずるいと感じたという。彩花は意外に思ったが、言い返す代わりに、そう感じた理由を聞いてみた。
「頼まれた側にも事情はあると思うけど、頼んだ人は返事を待ってるでしょう。ずっと曖昧にされたら、相手も困るんじゃないかと思いました」
彩花はその言葉を受け止めた。自分が書いたのは、迷いながらも最後に意思を伝える主人公だった。けれど、迷っている間に待たされる側の気持ちもあるという指摘は、書いているときには十分に考えきれていなかったかもしれない。
別の参加者は、主人公がすぐに断れないのは、頼んできた友人を大切にしているからではないかと話した。同じ行動を見て、相手を困らせていると感じる人と、相手を傷つけたくないと感じる人がいる。彩花は二つの意見を並べて聞き、そのどちらも作品を読むための大切な視点だと思った。
「……ありがとうございます。私はこの場面を書いたとき、主人公の方ばかり考えていたかもしれません。頼んだ側がどう待っているかまで聞けたのが、すごく新鮮でした」
彩花がそう言うと、最初に発言した二年生の女子生徒が小さく笑った。自分の意見が作者の考えと違っていてもいいのだと分かったのか、ほかの参加者も短い感想を口にし始めた。誰も長く話す必要はなく、言葉に詰まった人には図書委員が無理に発言を求めず、頷くだけでも参加できるようにしていた。
時間が残り少なくなったころ、司書がまとめの声をかけた。彩花は作品の続きをここで明かす代わりに、今の場面で気になったことがあれば、後日文芸部へ感想として届けてもらってもよいと伝えた。完成稿そのものをまだ図書室で公開する予定はないため、勝手に配布できるとは言わず、今後どうするかは部内で相談すると付け加えた。
参加者たちは用紙を図書委員へ返し、椅子を元の場所へ戻すのを手伝ってくれた。退室する前、一人の女子生徒が彩花へ近づき、少し緊張した声で話しかけてきた。
「私、普段は本の感想を人に言わないんです。でも、今日は同じところで迷った人がほかにもいて、話してみてよかったと思いました」
彩花は驚き、それから嬉しくなって頷いた。今までの自分なら、誰かの前で感想を言うことに同じようにためらったかもしれない。初めての読書会で、誰かが自分の言葉を一つ出せたという結果を聞けたことが、準備した時間への何よりの返事だった。
「……ありがとうございます。来てくれて、すごく嬉しかったです」
女子生徒は少し笑って頭を下げ、図書室を出ていった。彩花はその背中を見送ってから、机の上の残った資料を片づけ始めた。八人全員が長く話したわけではないが、誰かの意見に耳を傾け、考える時間を持てたことは確かだった。
◇
読書会のあと、司書と図書委員、文芸部の担当者で短い振り返りを行った。予定していた二十五分はほぼ守れたが、作品について話す時間は少し足りなかったという意見が出た。司書は次に同じような会を開くなら、一つの作品に絞った方が参加者の言葉を丁寧に聞けるかもしれないと提案した。
「私は、最初の挨拶を短くできたのがよかったと思います。でも、最後に感想を聞く時間はもう少し欲しかったです」
「そうですね。次にやるなら、読みたい作品を先に募る方法も考えましょう。ただ、今日の会が終わったばかりですから、すぐ予定を決めなくて大丈夫ですよ」
彩花は頷き、参加者が自分とは違う見方をしてくれたことが印象に残ったと話した。作者として答えを用意するのではなく、読み手がどんな理由でそう感じたのかを聞けたことが大きかった。図書委員も同じように、普段あまり話さない生徒が自分から意見を言ってくれたのが嬉しかったと振り返った。
片づけが終わると、顧問は今回の参加人数と使用した作品について、部の活動記録へ残しておくと伝えた。彩花は作品の全文を無断で配布しないことも確認できていたため、安心して礼を言った。初めて進行を引き受けた小さな集まりは、予定どおり終わり、参加者の言葉が次の企画を考える材料として残った。
放課後の文芸部では、彩花が会の様子を簡単に伝えた。詩を読んだ部員は、寂しいという感想を聞いたときには意外だったが、自分では気づかなかった読み方があると分かって面白かったと話した。ほかの部員も興味を示し、次は自分の作品を持ち寄る形にしてもよいかもしれないという声が上がった。
彩花はその提案を聞き、すぐに主催を引き受けるとは言わなかった。今日の会を準備するだけでも何人もの協力が必要だったし、次に行うなら図書委員や司書の予定も確かめなければならない。けれど、参加したいと思う人がいること自体は嬉しく、今日の記録を残したうえで改めて相談しようと答えた。
◇
午後五時少し前、彩花は青凪市立中央図書館へ着き、入口近くの待ち合わせ場所で悠真を見つけた。彼は手元の小さな本を閉じて立ち上がり、彩花が近づくと穏やかに笑った。金曜日の学校帰りに会うのは久しぶりだったが、特別な予定を詰め込まず、互いの一日を話すために会えることが嬉しかった。
「彩花さん、お疲れさま。読書会、どうだった?」
「無事に終わりました。八人来てくれて、思っていたよりいろいろな意見が出たんです」
二人は館内の休憩できる場所へ移動し、ほかの利用者の邪魔にならない声で話した。彩花は主人公が鍵を渡すか迷う場面を読んでもらったことと、参加者から『迷っている間に頼んだ側も困るのではないか』という意見が出たことを話した。悠真は興味深そうに聞き、以前自分が彩花の短編の構想を聞いたときには、主人公の側の気持ちを中心に考えていたと答えた。
「その意見、僕も聞いてみたかったな。主人公を大切にしたいからこそ、相手の立場から読む人もいるんだね」
「はい。作者だからって、読む人より先に全部の答えを持ってるわけじゃないんだって思いました」
彩花はそう言ってから、小さく笑った。書いたときには主人公を動かす理由を考え抜いたつもりでも、読者が見つけるものは必ずしも同じではない。悠真が以前、自分で書いた随筆を読んでもらったときに同じようなことを感じたと言うので、二人は短い間、書き手と読み手の違いについて話した。
そのあと悠真は、桜華学園の掲示板の件について、学校で確認された対応が一段進んだことを伝えた。彩花も青葉高校から同じ内容を聞いているので、二人は知っていることをすり合わせるだけに留めた。嫌な文章を書いた人が具体的な指導を受け、訂正が通知されたことには意味があるが、それを理由に今夜の時間すべてを事件の話に使う必要はなかった。
「……今日は、嬉しい話をたくさん聞いてもらえてよかったです。読書会が終わったら、すぐ悠真君に話したいと思ったので」
「僕も、彩花さんから聞けて嬉しい。僕が行ってない場所で何を見つけたのか、こうして教えてもらえるのが好きなんだ」
彩花はその言葉を聞き、頬が少し熱くなった。恋人になったあとも、互いに別の場所で過ごす時間があり、その出来事を話し合えることが嬉しい。何でも一緒に経験しなければならないのではなく、知らなかった相手の一日を言葉で知る楽しさがあるのだと思った。
◇
図書館を出るころには、外の空気が少し冷たくなっていた。二人は入口脇の屋根の下で帰りの方向を確認し、彩花は手袋をつけ直した。前の土曜日に初めて手をつないだことを思い出したが、今はここで無理に同じことをする必要はないと思った。
悠真は時計を見てから、彩花へ向き直った。何か言いたいことがあるようだったが、少しだけ口を閉じて考えている。彩花は言葉を急かさず、彼が顔を上げるのを待った。
「……彩花さん。ひとつ、聞いてもいいかな」
「はい。何ですか?」
悠真は少し照れたように笑った。いつも彩花のことを『彩花さん』と呼んでいるが、恋人になった今、二人きりのときには『彩花』と呼んでみたいと思ったという。ただ、急に変えると驚かせるかもしれないので、先に聞いておきたかったらしい。
彩花は思わず目を見開いた。彼の声で名前を呼ばれるのは今までも嬉しかったが、そこから『さん』がなくなることを想像すると、胸が急に熱くなる。自分も彼を『悠真君』と呼んでいることに変わりはないし、呼び方をそろえる必要があるわけでもなかった。
「……二人きりのときなら、呼んでもらえたら嬉しいです。でも、私、すぐには慣れないかもしれません」
「うん。僕もたぶん緊張すると思う。嫌だったら、いつでも言ってね」
彩花は頷き、少しだけ息を整えた。悠真は一度目を伏せたあと、いつもより柔らかな声で呼んだ。
「……彩花」
たった二文字なのに、彩花は返事をするまで少し時間がかかった。普段から聞き慣れている自分の名前が、彼の口からその形で届くと、今までとは少し違うものに感じられる。胸が高鳴ったまま、彩花は小さく笑って顔を上げた。
「……はい、悠真君」
悠真も照れくさそうに笑い、二人はそれ以上呼び方を練習しなかった。学校やほかの人がいる場所では今までどおりの呼び方を使ってもいいし、今すぐ全部変える必要もない。けれど、二人の間にだけ新しく生まれた短い呼び方が、今日の読書会と同じくらい印象に残った。
帰りの道へ歩き出す前、彩花は少しだけ振り返った。中央図書館の窓には、夕方の光が映っている。あの場所で出会ったころには、彼から名前を呼ばれるだけでこんなに嬉しくなる日が来るとは思っていなかった。
「……次に会うとき、私も何か新しいことを話したいです。読書会で、次は作者じゃなくて読者として参加してみたいって思ったので」
「それ、いいね。彩花がどんな本を選ぶのか、聞けるのを楽しみにしてる」
彩花は再び頬が熱くなるのを感じたが、今度は顔を隠さず笑った。読書会の参加者には、どんな意見にも理由があると教えてもらったばかりだ。次に自分が読者になるときも、相手の選んだ言葉を、まずはそのまま受け取ってみたかった。
「そのときは、悠真君も感想を言ってくださいね。でも、私の好きな場面を当てようとしなくていいですから」
「……それは少し難しいな。彩花がどこを好きになったのか、きっと気になってしまうから」
悠真が困ったように笑うので、彩花も声を立てて笑った。相手の答えを当てなくても、聞いてみればいい。二人はそれをもう知っているはずなのに、好きな人のことになると、まだ少しだけ遠回りしてしまうらしかった。




