第182話 恋人になって最初の土曜日、君と選ぶ午後
木曜日の朝、水瀬彩花は通学鞄の持ち手を握ったところで、机の上に置き忘れた小さな巾着に気づいた。青凪駅前の手作り市で買った紺色の巾着には、付箋と細い消しゴム、それから使い慣れた短い鉛筆が入っている。文芸部で原稿に印をつけるための道具なので、昨夜のうちに鞄へ戻しておくつもりだったのだ。
巾着を内ポケットに収めると、隣の本棚に立てたカードが目に入った。九条悠真が自分で刷った、少し間隔の違う紺色の点の模様は、今朝も昨日と同じ場所にある。変わったのは紙の位置でも色でもなく、それを作った人と、昨日の夜に恋人として付き合う約束を交わしたことだった。
(学校へ行く準備をしてるだけなのに、嬉しくなっちゃう。恋人になったからって毎日が急に変わるわけじゃないって、自分で言ったのに)
彩花は思わず口元を緩め、部屋を出た。階下では凛花が朝食の支度を手伝っていて、彩花の姿を見ると、何も聞かずに食卓の椅子を引いた。昨日の電話の結果はすでに話してあり、姉は祝ってくれたあと、桜華学園の知り合いへ勝手に知らせないと約束してくれている。
「おはよう。今日はずいぶん早いね」
「おはよう、お姉ちゃん。昨日、宿題を終わらせておいたから、少し余裕ができたの」
凛花は朝食の皿を置き、よかったねと微笑んだ。彩花は席についてから、今日も文芸部で短編を読み直す予定だと話した。恋人になったことを家族が知っている安心感はあるが、それを毎朝の会話の中心にされないことも同じくらいありがたかった。
玄関で靴を履く前、彩花はスマートフォンに届いていた悠真のメッセージを開いた。『おはよう。今日は午後に引き継ぎの確認があるけど、終わったら週末の予定を調べてみるね』という、学校の仕事と自分の希望を分けて伝える文章だった。彩花は『私も部活が終わったら予定を確認します。今日も頑張りましょう』と返し、画面を閉じた。
呼び方も、送る言葉も、昨日までと大きく変わらない。それでも、互いに同じ関係を選んだという事実があるだけで、ありふれた挨拶を少し丁寧に受け取れる気がした。
◇
午前の授業を終えた青葉高校の教室では、昼食の準備をする生徒たちが机を動かしていた。彩花は文芸部の友人と隣り合い、冬の部誌について届いた新しい感想の話を聞いた。図書室では貸出用の冊子が返却されるたび次の生徒の手に渡り、顧問からは校内の展示を続けると知らされている。
「そういえば、水瀬さん。水曜日にちゃんと話したい人がいるって言ってたでしょう。話せた?」
友人は箸を置いてから尋ねた。必要以上に声を大きくせず、周囲の生徒へ聞かせるような調子でもなかったため、彩花は少しだけ考えてから頷いた。以前、悠真とはまだ付き合っていないけれど大切な人だと答えた相手であり、返事をしたことを自分から伝えたい気持ちもあった。
「うん。ちゃんと話せたよ。……あのね、悠真君と、昨日から付き合うことになったの」
声にした瞬間、彩花は頬が熱くなった。友人は驚いて目を丸くしたが、すぐににっこり笑い、弁当箱のふたを慌てて閉めかけてから手を止めた。喜んでくれているのだと分かる反応が嬉しく、彩花もつられて笑った。
「おめでとう! ……って、大きな声を出すところだった。ごめん、今はまだ、みんなに言うつもりじゃないよね」
「ありがとう。うん。隠すつもりはないけど、学校で広く知らせるかは、二人で相談してからにしたいの」
彩花は昨日の電話で、互いの家族には本人から知らせ、学校では必要になったときに相談しながら話すと決めたことを説明した。友人は、聞かれたとしても自分から言わないと約束してくれた。誰かに応援してほしいと思うことと、秘密を預ける相手を慎重に選ぶことは、彩花の中で矛盾しなかった。
「それにしても、彩花から返事をしたんだね。前に話したときは、二人とも大切だけどまだ付き合ってないって言ってたから」
「悠真君が先に気持ちを伝えてくれたの。でも、最後は私も自分で選びたいと思って、昨日、付き合いたいって言ったんだ」
友人はしばらく彩花の顔を見つめ、いい返事ができたんだね、と静かに言った。彩花は頷きながら、部屋の隅で別の話をしている生徒たちへ視線を移した。いつもと変わらない教室の中で、自分だけが大切な知らせを一つ持っている。そのことを大げさに扱わず、昼食を食べながら話せたのが心地よかった。
友人はそのあと、週末の原稿の読み合わせに参加できるか尋ねた。彩花は土曜日に悠真と出かける候補があるため、部の活動予定が重ならないか顧問へ確認してから返事をすると答えた。恋人になった喜びがある一方で、文芸部の約束を適当に扱わない自分でいたいという気持ちも変わっていなかった。
◇
同じ日の午後、桜華学園の生徒会室では、悠真が補助担当の生徒と一緒に行事連絡表を見直していた。来年度の連絡調整担当へ正式に選ばれたことはすでに周知され、今は現担当者から仕事の引き継ぎを受けている。前日に欠席者の確認を翌朝へ回した件も本人の記録で完了しており、教室の利用予定には新しい重複がなかった。
補助担当の生徒は、今後の連絡を受ける時間帯について質問した。放課後の定例確認に間に合わない部活動があるため、締切を一律に早めると必要な情報が集まらないという。悠真は指摘を聞き、締切を無理に統一するのではなく、各担当が見込みを先に登録し、確定した内容を翌朝までに更新する形へ改めることを提案した。
「これなら、連絡が遅い人を責める仕組みにならないと思う。ただ、当日の変更は先生の判断が必要だから、そこだけは分けておこう」
「分かった。僕も部活があるから、先に見込みを書けるのは助かるよ。試して問題があったら、また直せばいいしね」
悠真は頷いて資料を閉じた。以前なら自分が連絡の最後まで見届けようとしていたが、今は相手が困る理由を聞くことで、仕事の仕組みそのものを改善できると分かっている。今日も予定した時刻に作業を終えられたため、週末の約束について落ち着いて考える余裕が残った。
廊下へ出ると、琴葉が手に本を抱えて歩いてきた。悠真の顔を見るなり、彼女は少し考えるように立ち止まり、最近何かいいことがあったのかと尋ねた。本人が気づくほど表情に出ているとは思わなかった悠真は、思わず手帳へ目を落とした。
「そんなに分かりやすいかな」
「仕事が早く終わって嬉しいだけの顔には見えないかも。もちろん、話したくないなら聞かないよ」
琴葉は軽く笑い、通路の端へ寄った。悠真は昨日、彩花と話し合って決めた範囲を思い出した。学校全体へ知らせるつもりはないが、自分が信頼する友人に伝えることまで禁止したわけではない。それでも恋人になったばかりのことなので、あとで彩花に『琴葉へ伝えた』と話す際に、彼女が驚くような形にはしたくなかった。
「実は、彩花さんと昨日から付き合うことになったんだ。大切な話だから、今は広く知らせるつもりはないんだけど」
琴葉は数秒間、何も言わなかった。そのあと、驚くほどまっすぐな笑顔になり、おめでとうと声を落として伝えてくれた。以前から二人が親しく話していたことは知っているが、本人の口から聞くまでは関係を決めつけたくなかったらしい。
「そっか。九条君が自分からそんなふうに話すの、初めて聞いた気がする。水瀬さんも喜んでる?」
「うん。互いに好きだって伝えて、昨日、彩花さんからも付き合いたいって言ってもらえたんだ」
悠真は言い終えてから、少し照れくさくなった。琴葉はからかわずに頷き、本人同士で決められたことを喜んでくれた。さらに、今まで以上に生徒会の仕事を抱え込むようなら止めるからね、と冗談めかして付け加えた。
「それは僕も気をつけるよ。ただ、彩花さんに会うために仕事を誰かへ押しつけるつもりもないから、そこはちゃんと両立させたい」
「だったら大丈夫そうね。私からほかの人には話さないから、安心して」
琴葉はそう言って歩き去った。悠真は彼女の背中を見送り、ずっと友人として接してきた人に恋人ができたと報告するのは、不思議な緊張があるものだと思った。彩花に伝えた好きという言葉とは違うが、今度は二人の新しい関係を大切に扱ってくれる人が一人増えたことが嬉しかった。
◇
木曜日の夜、彩花は夕食後に手帳を開き、土曜日の予定を見直した。行きたいと思っていた小さな菓子店は、駅前から歩いて少し離れた通りにあり、凛花と以前店先を通ったとき、窓越しに季節の焼き菓子が並んでいたのを覚えている。定休日や営業時間は店の案内で確認できたが、店内に数席しかないという話だったので、混んでいたら別の場所で休むつもりだった。
悠真からは放課後、週末の予定を確認したという連絡が届いていた。土曜日は午前中に家で終わらせたい用事があるものの、午後一時半なら出かけられるという。彩花も午前中は短編の原稿を整理する予定で、無理に急ぐ必要はなかった。
『午後一時半なら大丈夫です。駅前の時計台の下で待ち合わせませんか。お店はそこから歩いていけます』
『うん。案内ありがとう。僕も楽しみにしてる。……それと、今日、琴葉に付き合い始めたことを話したよ。ほかの人へは広めないって言ってくれた』
彩花はその文章を読み、凛花と琴葉が同じ学校に通っていることを思い出した。すぐに顔を合わせるような間柄かどうかは分からないが、どちらも新しい関係を知った人として、本人たちの気持ちを尊重してくれている。彼が友人へ話したことを自分から教えてくれたので、彩花も昼休みに文芸部の友人一人へ伝えたと知らせた。
『私も、前から相談していた部の友達に話しました。すごく喜んでくれました。学校中へ知らせるつもりはないってことも、分かってもらえました』
『よかった。隠しごとにしたいわけじゃないけど、僕たちより先に誰かが説明し始めるのは困るもんね』
彩花は頷きかけ、文字だけの会話なのを思い出して『そうですね』と打った。交際の話をするとき、以前の写真事件のせいで何でも怖がるのは違うと思っている。しかし、本人の望まない形で広まったときの負担を知っているからこそ、誰へ何を話したか互いに知らせ合えることには意味があった。
予定が決まると、彩花は店への道順を簡単に描いた。凛花と通ったときに目印になった古い文房具店の角と、歩道に植えられた街路樹の位置を記しておけば、駅前で悠真と迷わずに向かえる。細かい買い物の順番を決めるつもりはなく、道を知らない相手に説明するための短いメモだった。
書き終えたころ、凛花が廊下から声をかけてきた。彩花が扉を開けると、姉は洗濯物を持ったまま、土曜日に行く店は前に一緒に通ったところかと尋ねた。彩花がそうだと答えると、凛花はたしか窓の端に、小さな木の看板があったねと懐かしそうに言った。
「お店の名前、覚えてる?」
「『菓子の庭』だったと思う。季節のタルトがあるって書いてあった気がするけど、あのときは入らなかったよね」
「うん。だから、今回は中へ入ってみたいの。悠真君と一緒に」
凛花は少しだけ笑い、帰ってきたらどんなお菓子があったか教えてねと答えた。彩花は頷き、扉を閉めてから、手帳の道順へ『菓子の庭』と書き足した。自分で行きたい場所を提案した約束だからこそ、店へたどり着くまでの時間も、帰ってきて家族へ話すことも楽しみだった。
◇
金曜日の放課後、文芸部では新しい短編の読み合わせを行うことになった。部員たちは自分が希望する箇所だけを持ち寄り、ほかの人が何を感じたかを聞く形式で、完成した原稿を一度に全部読む必要はない。彩花は「鍵と昔の約束」を扱った短編の第三稿から、主人公が鍵を渡せない理由を相手へ説明する場面を選んだ。
これまでは親しい友人に読んでもらうことが多かったため、複数の部員の前で自作の文章を声に出して読むのは少し緊張した。彩花は紙を持つ手を整え、主人公が鍵を握りしめたあと、相手の話を最後まで聞く箇所から読み始めた。部室では椅子を引く音も止み、読み終えたときには、自分の呼吸が少し速くなっていることに気づいた。
最初に感想をくれたのは、普段は詩を中心に書いている部員だった。彼は鍵を単なる秘密の道具ではなく、主人公が昔の約束をどう受け止めているかを示すものとして読んだという。以前から原稿を読んでくれている友人とは違う視点だったので、彩花は驚きつつ、その言葉を手帳へ控えた。
「僕は、鍵そのものより、最後に主人公が『一緒に探すことならできる』って言うところが好きだった。断ったことを取り消してないから、二人とも違う考えのままでいられるんだと思う」
「ありがとうございます。そこ、私がいちばん残したかったところなんです」
彩花がそう返すと、顧問は一つ質問をした。今回の短編を完成作として扱うとしたら、今後どんな読者に届けたいのか、という問いだった。部誌を作ったあとだからといってすぐ外部へ公開する必要はないが、読み合わせだけで終える作品と、次の活動で発表したい作品では準備の仕方も変わるという。
彩花は少し考え、まずは部内で完成稿として読んでもらいたいと答えた。冬の部誌へ後から追加することはできないし、今は新しい冊子を作る予定もない。無理に発表先を探すより、最後まで書き上げた経験と、読者の感想を次の作品へつなげたい気持ちが強かった。
「今の第三稿をもう一度自分で読んで、来週の読み合わせまでに完成にしたいです。そこから先は、そのときに決めたいと思います」
「分かりました。発表するかどうかも、作者が考えていいことです。完成したら、部の作品記録に題名を残しましょう」
顧問はそう答え、ほかの部員の原稿へ話題を移した。彩花は原稿を鞄へ戻し、胸の奥に残っていた緊張が少しずつ落ち着くのを感じた。今日は好きな人に見せるためではなく、自分の作品を部の仲間へ届けたいと思って読み上げた。相手によって伝えたい内容や見せ方を選ぶことが、今は以前より自然にできるようになっている。
部室を出るとき、文芸部の友人が隣へ並んだ。彼女は昼休みに交際を打ち明けたことを思い出したらしく、明日、悠真と会うのかと小声で尋ねた。彩花が駅前の菓子店へ行く予定だと答えると、友人は嬉しそうに頷き、今日は原稿も読めたし、明日は楽しんできてねと手を振ってくれた。
彩花は校門を出る前に、鞄の中の第三稿を確かめた。恋人になったからといって、創作を後回しにしたくない。けれど、悠真と過ごす時間があることを理由に、好きなことを楽しむ自分へ遠慮する必要もなかった。
◇
土曜日の午前、彩花は短編の第三稿を最初から読み直し、修正する箇所を二つだけ見つけた。一つは鍵を手渡された過去の出来事を思い出す場面で、もう一つは結末の直前にある友人の動作だった。どちらも書き足した説明を一文ずつ整える程度で、物語の流れそのものは変える必要がないと判断した。
修正を終えると、彩花は原稿の右上に「完成稿」と書いた。まだ発表の予定は決めていないが、自分で書きたかったことを最後まで通せたと思えたので、これ以上ただ不安だからという理由で直し続けるのはやめた。書いたばかりの題名を見つめ、次の作品ではまた違う人間関係を描いてみたいと考えると、自然と新しい物語の場面が思い浮かんだ。
昼食を終えた彩花は身支度を整え、昨日描いた道順のメモを手帳へ挟んだ。青凪駅前での待ち合わせは午後一時半で、そこから歩いて『菓子の庭』へ向かう予定だ。窓の外には薄い雲が広がっていたが、雨が降る様子はなく、風も先週の手作り市ほど強くなさそうだった。
出かける前、凛花が玄関まで来てマフラーの端を直してくれた。彩花は大丈夫だよと笑いながらも、その手を避けずにいた。昨日の夜、姉はいつもどおりの声で『楽しんできて』と言ってくれたが、今日はそれに加えて、少しだけいたずらっぽい目を向けてきた。
「初めて恋人として会う日だもんね。緊張してる?」
「……少し。でも、悠真君と話すのは今までだって楽しかったし、今日もきっと楽しいと思う」
凛花は満足そうに頷き、寒くなる前に戻るよう声をかけた。彩花は帰宅の目安を伝え、玄関を出た。今までなら本や資料を持っていた鞄には、今日は財布と手帳、必要な小物だけが入っている。その軽さが、何かを持ち寄らなくても会えるようになった二人の関係を、少しだけ実感させてくれた。
◇
午後一時半の少し前、青凪駅前の時計台へ着くと、悠真はすでに近くの案内板を眺めていた。彩花の姿に気づいた彼はすぐに歩いてきて、いつものように穏やかな笑みを向けた。今までなら自然に挨拶できたはずなのに、彩花はその顔を見た途端、昨日までの友人と今日の恋人が同じ人なのだと強く意識してしまった。
「こんにちは、彩花さん。今日は案内してくれてありがとう」
「こんにちは、悠真君。……こちらこそ、来てくれてありがとうございます」
挨拶のあと、二人は少しだけ黙って顔を見合わせた。駅前には人が行き交い、すぐ近くの時計から時報のための短い音が聞こえる。彩花は自分だけが落ち着かないのかと思ったが、悠真もマフラーの位置を直しながら、小さく笑っているのを見て安心した。
「……なんだか、いつもより緊張してますね」
「うん。僕も同じだよ。彩花さんに会うのを楽しみにしてたのは、今までと変わらないんだけど」
悠真は言葉を選び、恋人として初めて会うからと言って何を変えればよいか考えてしまった、と打ち明けた。彩花も同じことを思っていたため、二人は小さく笑い合った。手をつなぐべきなのか、もっと特別な挨拶をするべきなのか、考え始めるときりがないが、まずは店へ向かって歩きながら話したかった。
「今日は私が行きたかったお店へ案内したいです。悠真君、甘いものは何が好きですか?」
「焼き菓子なら、柑橘の香りがあるものが好きかな。彩花さんは?」
「私は果物のタルトが好きです。でも、何があるかは入ってみないと分からないので、一緒に選びましょう」
彩花は手帳を開かずに、昨日覚えた道を歩き始めた。駅前の大きな通りを少し進み、古い文房具店の角で曲がると、歩道の幅が狭くなり、低い建物が並ぶ静かな通りに入る。悠真は後ろからついてくるのではなく、彩花が店の位置を説明すると横へ並び、道沿いの小さな飾りを見つけては話しかけてくれた。
しばらく歩くと、木の看板に『菓子の庭』と書かれた店が見えた。大きな窓の向こうには丸いテーブルが三つ並び、入口の脇には今日の焼き菓子を紹介する小さな黒板が立てられている。彩花は以前、凛花と通ったときよりも店内が明るく見えることに気づき、足を止めてから悠真へ振り返った。
「ここです。……やっと来られました」
「いいお店だね。彩花さんが気になってた理由、入口だけでも少し分かる気がする」
二人が扉を開けると、小さな鈴が鳴り、焼きたてのバターの香りが漂ってきた。店員は空いている席を示し、注文は先にカウンターで受けると説明した。窓際の二人席が一つ空いていたため、彩花たちはそこを使うことにし、荷物を置いてからショーケースの前へ並んだ。
透明な棚には、洋梨のタルトと林檎の焼き菓子、柑橘の皮が入った小さなケーキなどが並んでいた。彩花は洋梨のタルトに目を留めたが、同じものは残り一つしかない。悠真もそれに気づいたらしく、彩花が選ぶのを待っている様子だったので、彼女は少しだけ考えてから先に言葉をかけた。
「悠真君は、何が食べたいですか?」
「僕は柑橘のケーキが気になる。彩花さんは洋梨のタルト?」
「はい。……あ、見てたの、分かりました?」
悠真は笑い、ショーケースを見ている彩花の視線が何度も同じところへ戻っていたから、と答えた。彩花は少し恥ずかしくなったが、彼に先に選ばせようと遠慮していたわけではないと分かり、安心して注文できた。二人は別々の菓子と温かい飲み物を選び、それぞれ自分の分を支払うことにした。
ところが、店員が二人の注文を一つの会計としてまとめようとしたとき、悠真が先に財布を出し、全部払うつもりで一歩進んだ。彩花は驚いたが、手をつかんで止めたりはせず、店員に一緒に注文したけれど会計は分けられるか尋ねた。店員は快く対応してくれたので、彩花は自分の分を支払い、番号札を受け取った。
席へ戻る途中、悠真が少し気まずそうに謝ってきた。彼は家族や学校の関係者と外で食事をするとき、会計をまとめる場面が多かったため、いつもの癖で先に財布を出してしまったらしい。彩花はその説明を聞き、責める気持ちにはならなかったが、自分で選んだものは自分で支払いたかったと率直に伝えた。
「何かのお祝いでごちそうしたいって言ってもらえたら、そのときは相談します。でも、今日は私が誘ったので、私も自分で買いたかったんです」
「うん。彩花さんが自分で払いたいって思ってたこと、聞く前に動いてしまったね。次は先に確かめるよ」
悠真はそう言ったあと、考えすぎてしまったみたいだと小さく笑った。彩花はその笑いにつられ、最初から完璧に恋人らしく振る舞わなくてもいいと思えた。大切なのは、二人とも何をしたかったのか言葉にでき、相手がそれを受け止めてくれることだった。
◇
窓際の席へ菓子が運ばれてくると、彩花は思わず背筋を伸ばした。洋梨のタルトには薄く切った果実が花びらのように重なり、焼き色のついた縁からバターの香りが立ち上っている。悠真の柑橘のケーキには細かな皮が散らされていて、店員の説明によれば、季節によって使う果実を変えているらしい。
「……きれいですね。食べるのがちょっともったいないです」
「彩花さんがそう言うと思った。さっきから、すごく嬉しそうに見てるから」
悠真がそう答えるので、彩花は少しだけ頬を熱くした。しかし、彼女も悠真の目が柑橘のケーキへ何度も向いていることに気づいていた。彩花がそれを伝えると、悠真は照れたように笑い、先に一口食べてみるとフォークを持ち上げた。
ケーキを食べた悠真は、思ったより酸味が強いけれど、あとから香りが残ると話した。彩花も洋梨のタルトを切り、果実の柔らかさと生地の香ばしさを味わった。二人は互いの感想を聞きながら、同じものを注文しなくてよかったねと笑い合った。
「悠真君、こういうときも感想が細かいですね。前に本を読んでもらったときのことを思い出しました」
「彩花さんだって、タルトの生地がさくさくしてるところを、さっきから何度も確かめてるように見えるよ」
「……そんなに分かりやすいですか、私」
彩花が照れ隠しに紅茶へ手を伸ばすと、悠真は穏やかに笑った。彼に見られていることを意識すると緊張するが、何を好きだと感じるかを隠さなくてもいいのは嬉しい。恋人になったからといって好みまで同じにしなくてよいことが、二つの違う皿を並べたテーブルから自然に伝わってきた。
菓子を食べ終えるころ、悠真は窓の外へ目を向け、最近少し考えていることがあると話し始めた。彩花はカップを置き、彼の方へ向き直った。声の調子は重くなかったが、どう言えばよいか確かめながら話しているのが分かった。
「僕、これから彩花さんに何かしてあげなきゃって思いすぎるかもしれない。好きな人と付き合うって、どうすればいいのか、まだよく分からないから」
「……私もです。恋人になったら何をするべきなのか考えると、ちょっと分からなくなります」
悠真は頷き、彼女が喜ぶことを考えたいのに、それが先回りして決めることへ変わってしまうのが少し怖いと打ち明けた。彩花は公園で恋人として向き合うために何を大切にしたいか話したことを思い出した。今日の会計でも、小さなすれ違いはあったが、どちらかが悪いというより、互いの当たり前が少し違っていただけだった。
「私は、悠真君が何をしたいのか聞きたいです。例えば今日のお店だって、私が行ってみたいって言った場所に、一緒に来てもらえたのが嬉しかったんです。全部お任せするより、二人で決めたことの方が覚えていたい気がします」
「うん。僕も、彩花さんが選んだ場所へ来られて嬉しかった。次は僕が行ってみたいところを、ちゃんと考えて誘ってみるよ」
彩花はすぐに頷き、それなら楽しみにしていると答えた。悠真は笑ったが、すぐに次の予定を決めようとはしなかった。今日の店でまだ飲み物が残っているのだから、今は目の前の時間を楽しめばいいのだと、二人とも自然に分かっているようだった。
店内の奥では、年配の夫婦が自分たちの菓子を選び終え、静かに話しながら席へ座っていた。彩花はその姿を見て、恋人同士で過ごす時間には決まった形があるわけではないのだと思った。何か特別なことをする日もあれば、ただ温かい飲み物を前に話す日もある。今は、そのどちらも悠真と過ごしてみたかった。
◇
店を出たのは午後三時を少し回ったころだった。通りにはまだ冬の日差しが残っていたが、建物の影が長く伸び、行きに歩いたときより空気が冷えている。彩花は店員へ礼を言ってから、悠真と並んで駅前へ戻る道を歩き始めた。
途中、古い文房具店の前で彩花が足を止めた。店の窓には小さな便箋や封筒が並び、先日の手作り市で見た紙雑貨とは違う、普段使いの道具が置かれている。彩花は新しい原稿用の紙が少なくなっていたことを思い出し、少し寄ってもいいか尋ねた。
「もちろん。僕も見てみたい。最近は自分で書くことが増えたから、紙の種類が気になるんだ」
二人は店へ入り、彩花は普段から使っている無地の便箋を一冊選んだ。悠真は少し厚みのある小さなカードを手に取ったが、家にはまだ紙が残っていると思い直し、今日は買わないと決めた。店を出るとき、彩花は自分のために買った便箋を鞄へしまい、次に書く物語のことを考えた。
駅前へ向かう歩道には、ところどころ段差があり、建物の間から風が吹き抜けていた。彩花がマフラーの端を押さえていると、悠真は少し歩く速さを落とし、車道側を歩こうとした。彩花はそれに気づいて自分も位置を変えかけ、二人の動きが重なって、思わず笑ってしまった。
「……私たち、さっきから同じ方へ動いてますね」
「そうだね。別にどちらが外側を歩くって決めなくてもいいのに、僕が先に動いてしまった」
悠真は笑い、歩道が広い場所へ出たところで立ち止まった。彩花も足を止め、行き交う人の邪魔にならないよう店の壁から少し離れた場所へ寄った。目の前には駅前へ続く道があり、待ち合わせの時計台はまだ遠くに見えている。
彩花は悠真の手元へ目を向けた。彼は手袋をつけておらず、指先をコートのポケットへしまっている。今日、恋人として会う前には手をつなぐべきなのか考えていたが、いざ隣にいると、決められたことだからではなく、自分がそうしたいと思っているのだと分かった。
(……今、手をつなぎたいって言ったら、悠真君はどう思うかな。嫌だとは思わない気がするけど、ちゃんと聞いてみたい)
彩花は小さく息を吸い、悠真の方を向いた。彼は何か話そうとしていたらしく、彩花と目が合うと、少し驚いた顔で言葉を止めた。彩花はそれを見て余計に緊張したが、目をそらさずに口を開いた。
「悠真君。……手をつないでもいいですか?」
言い終えたあと、心臓が大きく跳ねたように感じた。悠真は一瞬だけ目を見開き、それから、ゆっくりと笑った。
「……もちろん。僕も、彩花さんと手をつなぎたいと思ってた」
彼はポケットから右手を出し、彩花へ差し出した。彩花は自分の左手の手袋を外そうとして、彼も手袋をしていないことに気づいたが、無理に合わせる必要はないと思い直した。そのまま差し出された手に自分の手を重ねると、手袋越しに悠真の指がそっと閉じた。
最初は力の入れ方が分からず、彩花は少しぎこちなく立っていた。悠真も緊張しているのか、歩き始める前に一度だけ彩花の顔を確かめ、痛くないか尋ねてくれた。彩花は首を横に振り、指先を少し動かして握り直した。
「大丈夫です。……なんだか、すごく緊張しますね」
「うん。僕も。でも、彩花さんが言ってくれて嬉しかった」
彩花はその言葉に頬を熱くし、今度は自分から一歩踏み出した。二人は手をつないだまま歩き始め、横断歩道の手前では信号を確かめて立ち止まった。相手の歩幅に合わせようとして少し足の速さが変わるたび、彩花はその小さな調整が、自分たちの今の関係に似ていると感じた。
◇
時計台が近づくころ、彩花は手をつないで歩くことにも少し慣れてきた。最初は隣の人と歩幅を合わせることばかり意識していたのに、今は信号が変わるのを待ちながら、夕方の空が昼より淡い色になっていることにも気づける。悠真は交差点を渡り終えると、彩花が立ち止まりたい場所を見つけたら言ってほしいと声をかけた。
「ありがとうございます。でも、今日はもう十分楽しめました。菓子もおいしかったですし、便箋も買えましたから」
「僕もだよ。……手をつないで歩けたことも、嬉しかった」
悠真は最後の言葉だけ少し声を落とした。彩花は自分の頬が赤くなるのを感じたが、彼の手を握り直し、私も嬉しかったですと答えた。彼は安心したように笑い、二人は時計台の近くまで、少しだけ歩く速さを緩めた。
待ち合わせた場所へ戻ると、帰りに使う交通機関の方向はここから分かれていた。彩花は凛花へ帰ることを知らせ、悠真も自宅へ戻る連絡を済ませた。二人は人の通行を妨げない場所へ移動し、自然に手を離してから向き合った。
「今日は、私の行きたいお店につき合ってくれて、ありがとうございました。初めて入るお店だったから、悠真君と一緒に選べてよかったです」
「こちらこそ。彩花さんが案内してくれたの、嬉しかったよ。次は僕が好きな場所も、ちゃんと紹介したいな」
彩花は頷き、どんな場所なのか少しだけ聞きたくなったが、今ここで決めなくてもいいと気づいた。今日一日を楽しく過ごせたことと、次に会いたいと思えることは、別々に持っていていい。悠真もすぐに次の予定を詰めようとはせず、帰り道で気をつけてと声をかけてくれた。
「……悠真君。恋人として会うって、何か特別なことをしなきゃいけないのかなって思ってました。でも、今日、いつもと変わらず話せたのが嬉しかったです」
「僕もそう思う。今まで大切にしてきたことがなくなるわけじゃないんだね。その上で、彩花さんが手をつなぎたいって言ってくれたのも、新しくて嬉しかった」
彩花は照れながら笑い、今度は自分から会いたいと言うだけでなく、したいことも伝えられそうだと感じた。恋人という関係に何が許されるのか先に決めるのではなく、二人で少しずつ選びながら覚えていけばいい。彼女は最後にもう一度手を振り、帰りのバス停へ歩き出した。
数歩進んだところで振り返ると、悠真はまだ時計台の近くに立っていた。彩花が小さく手を振ると、彼も同じように応えてくれた。夕方の人波の中で顔が見えなくなるまで見送る必要はなかったので、彩花は前を向き、来たときより少し軽く感じる鞄を持ち直した。
◇
帰宅した彩花は、台所にいた凛花へ声をかけ、まず手を洗ってから買ってきた便箋を見せた。姉は紙の手触りを確かめ、前に使っていたものと似ているけれど少し厚いね、と言った。彩花は店で選んだ理由を説明しながら、菓子店の窓際で悠真と過ごした時間を思い返した。
「お店、よかったんだね。何を食べたの?」
「洋梨のタルト。悠真君は柑橘のケーキだったよ。あとね、帰りに一緒に文房具店へ寄ったの」
彩花は笑いながら、悠真が自分のために木の皿を選んだ手作り市のことも思い出した。彼が今日は何を気に入るのか見られたのが嬉しくて、恋人になったからといって全部同じものを選ばない方が楽しいと感じたことを姉へ話した。凛花は頷き、彩花の様子を見ながら、お店でちゃんと話せたようでよかったねと答えた。
少し迷ってから、彩花は手をつないだことも伝えた。凛花は驚いて声を上げる代わりに、彩花が自分から言ったのかと尋ね、返事を聞くと柔らかく笑った。
「……うん。緊張したけど、自分からお願いできたの。悠真君も嬉しいって言ってくれた」
「そっか。彩花、前よりずっと、自分がしたいことを素直に言えるようになったね」
その言葉に、彩花は少し考えた。以前の自分なら、相手に迷惑かもしれないと考え続け、言わないまま帰ってきたかもしれない。今日は自分が望んでいることを伝え、相手が同じ気持ちだと確かめてから手をつなげたのが、何より嬉しかった。
自室へ戻ると、机の上には完成させた短編と、紺色の点のカードが並んでいた。彩花は新しく買った便箋を文房具の引き出しへしまい、先日まで持ち歩いていた小さな原稿のメモを整理した。第三稿を完成稿にした今日の午前と、悠真と菓子店で過ごした午後が、同じ一日の中に自然に収まっている。
少しして、悠真から帰宅したという連絡が届いた。彼も今日の時間が楽しかったと書き、菓子店で選んだ柑橘のケーキの香りがまだ思い出せると付け加えていた。彩花はその言葉に笑い、洋梨のタルトの写真は撮らなかったけれど、今でも形をよく覚えていると返した。
『それと、今日は手をつないでくれてありがとうございました。自分から言うのは緊張したけど、言ってよかったです』
『こちらこそ。僕も嬉しかった。彩花さんが言ってくれなかったら、たぶん僕は今日も考えすぎて言い出せなかったと思う』
彩花は画面を見つめ、手作り市のときに悠真が少し不揃いな点の模様を気に入った場面を思い出した。彼は慎重な人だが、相手からの言葉を聞いて、自分の考えを変えられる人でもある。彩花もまた、彼の慎重さに合わせて待つだけではなく、自分から一歩進んでよいのだと、今日の出来事から知ることができた。
スマートフォンへ最後の返事を打つ前、彩花は完成させた短編の表紙をもう一度見た。鍵を渡すかどうか迷っていた主人公は、相手の事情を聞いたうえで、自分が望む別の形を選んだ。物語を書き始めたときには想像していなかったが、今の自分も、似たように一つずつ言葉を選びながら進んでいるのかもしれない。
『次は、悠真君が行きたい場所にも行ってみたいです。でも、無理のない予定で相談しましょうね』
送信すると、悠真からは短い了承と、ひとつだけ冗談めかした言葉が届いた。
『分かった。今度は候補を二十七個も用意しないようにするよ』
彩花は思わず声を出して笑った。以前、彼が本を紹介するためにいくつもの候補を調べてくれたことを覚えていたからだ。二人が恋人になっても、そんな小さな思い出を冗談にできることが嬉しく、彩花は『三つくらいなら聞きたいです』と返した。
すると、画面には間を置かずに次のメッセージが現れた。
『じゃあ、三つまでにする。選ぶときは一緒に考えよう』
彩花はカードの隣にスマートフォンを置き、明日の予定を手帳で確かめた。新しい物語を考える時間も、家族と過ごす時間も、学校の準備も、明日からまた続いていく。その生活の中で悠真に会いたいと思ったら、今度は今日より少しだけ自然に、自分から誘える気がした。




