第181話 午後七時、私が選んだ返事
月曜日の朝、彩花は目覚まし時計を止め、枕元に置いたスマートフォンを手に取った。画面には昨夜、九条悠真と交わした水曜日の電話の約束が残っている。午前中の授業も、放課後の文芸部も、いつもと変わらず予定が入っているのに、その二日後の午後七時だけが、手帳の中で特別にはっきりした輪郭を持っていた。
昨日の市民公園で、悠真は自分のことを恋愛として好きだと伝えてくれた。彩花も同じ気持ちを返したが、恋人になることへの返事は、自分の言葉で考えてから伝えたいと申し出ている。彼は驚くほど丁寧にそれを受け止め、返事を待つあいだも、これまでどおり話していたいという彩花の希望を聞いてくれた。
(私は、もう答えを知ってる。大事なのは、好きだという気持ちを曖昧にしないで、これからどうしたいのかをちゃんと伝えることなんだ)
彩花は机の引き出しを開き、手作り市で悠真から受け取ったカードを取り出した。紺色の点が少しずつ違う間隔で並び、紙の端には手で刷ったときのわずかな濃淡が残っている。彼が最初は整わなかったことを気にしていたのに、彩花が好きだと言うと自分の目でも模様を見直していた、その表情まで鮮明に思い出せた。
カードを本棚へ戻したあと、彩花は通学鞄に教科書を入れた。そこには冬の部誌の完成品と、文芸部の友人に読んでもらって第二稿まで進んだ短編も入っている。恋人として付き合うことを選んでも、学校で過ごす時間や、自分で書いた文章を直す楽しさまで何か別のものに変わるわけではないと、鞄の重さが教えてくれるようだった。
朝食の準備を手伝っていると、凛花が食器を運びながら彩花の顔を見た。昨日、悠真から告白され、互いに好きだと伝え合ったことは姉に話してある。だからか、凛花はわざとらしく探りを入れる代わりに、今日は学校が終わったら文芸部に行くのかと、普段どおりの調子で尋ねた。
「うん。原稿をもう一度読んでもらう予定なの。水曜日は電話の約束があるから、その前にやることを終わらせておきたいな」
「そうなんだ。学校のことは学校でちゃんとやって、そのうえで話せるならいいね」
凛花は当たり前のことを言っているようだったが、彩花には、その当たり前が少し嬉しかった。姉は悠真との関係が変わるかもしれないからといって、彩花の毎日すべてを恋愛の話に結びつけようとはしない。彩花もまた、好きな人のことを考えながら、いつもどおり朝食を食べ、学校へ向かう自分でいたかった。
◇
青葉高校へ着くと、文芸部の友人が教室の入口で声をかけてきた。先週読んでもらった「鍵と昔の約束」を扱う短編について、帰宅してからもう一度考えたことがあるという。彩花が昼休みに話を聞きたいと答えると、友人は頷き、必要な箇所を書いた小さなメモだけを見せてくれた。
昼休み、二人は図書室の端の机へ並んで座った。友人は第二稿を返しながら、主人公が鍵を渡さず別の手助けを提案する結末は好きだが、頼んだ側の友人が少し早く納得しすぎるように感じたと話した。断る理由は明確になったものの、頼んだ側が最初に困っていた問題は、その返事ひとつで消えるわけではないからだという。
「主人公が勇気を出して断ったのは分かるよ。でも、相手も困ってたから頼んだんだよね。だったら、別の方法を聞いたとき、すぐ『分かった』とは言えないかもしれないって思ったの」
彩花は原稿の最後を開き、友人が指した二つの台詞を読んだ。何度も読み直した箇所なのに、改めて見ると、主人公の気持ちがまとまった瞬間に周囲も都合よく納得してしまう流れになっている。相手が反対したり、考える時間を必要としたりすることまで認めた方が、この物語で自分が書きたかった対等な関係に近づく気がした。
「確かに、ここは早いかもしれない。主人公に断られた友達も、すぐに答えを出せないよね」
「うん。でも、最後に二人で別の方法を探すところは残してほしいな。あそこが好きだから」
友人の声には、作品を良くしたいという気持ちがはっきり表れていた。彩花は礼を言い、結末を丸ごと変えるのではなく、相手が一度自分の困り事を説明し直す場面を加えることにした。主人公は鍵を渡せない理由を繰り返すのではなく、相手の話を聞いてから、必要な資料を探す手伝いを提案する。その順番なら、二人が別々の意思を持つ人物として動ける。
友人と別れたあと、彩花は教室へ戻りながらふと思った。昨日の公園でも、悠真が好きだと言ってくれたからといって、その場で交際の答えまで急いで決める必要はなかった。けれど、相手の言葉を受け取ることと、自分の答えを持つことを、いつまでも先延ばしにしてよいわけでもない。自分にはもう、伝えたい返事がある。
◇
同じ月曜日の放課後、桜華学園の生徒会執行部では、悠真が新しい連絡表の運用結果を担当教員へ報告していた。来年度の連絡調整担当には正式に選ばれており、補助の生徒と仕事を分けることも決まっている。今日は週末に行われる校内行事の資料を整理する作業だったが、担当者の確認欄が埋まっていない部分があり、悠真はその理由だけを確かめた。
確認欄が空いていたのは、担当の一人が欠席していたためだった。以前なら悠真が代わりに全部確認して書き込んだかもしれないが、今の仕組みでは担当者の名前を残すことに意味がある。担当教員へ相談すると、欠席した生徒の作業は翌日の朝に本人が確認し、その間に急ぎの判断が必要なら教員が対応する形でよいと決まった。
「九条君、これなら今夜まで作業を抱えなくても大丈夫ですよ。準備は予定どおり進んでいます」
「分かりました。明日の朝、本人に確認してもらえるよう、何が未了なのかだけ共有しておきます」
悠真は連絡表の欄へ未確認の理由を書き、作業を終えた。生徒会の仕事に責任を持つことは、自分だけが最後まで残ることとは違う。そう考えられるようになったのは、彩花へ迷いを打ち明け、自分がどう働きたいのかを確かめてからだった。
部室の戸締まりを確認して廊下へ出ると、琴葉が反対側から歩いてきた。彼女は資料の束がいつもより少ないのに気づいたらしく、今日は早く帰れるんだね、と気軽に言った。悠真は頷き、担当を分けて進められるようになったことを説明した。
「それならよかった。九条君、最近少し顔つきが変わった気がする。何でも一人で引き受けなくなったからかな」
「そうかもしれない。ほかにも、少し変わったことはあるけどね」
「へえ。何?」
琴葉は好奇心を隠さず尋ねたが、悠真は一瞬だけ言葉を選んだ。昨日、彩花と好きだと伝え合ったことは、まだ二人の間で大切にしている話だ。正式な交際の返事もこれからなのに、本人へ相談せず第三者に話すのは違うと思い、悠真は今はまだ自分の中で整理していることがあると答えた。
「そっか。じゃあ、話したくなったら聞くよ。無理に聞き出したって、いいことないしね」
琴葉はそれ以上追いかけず、教室へ戻っていった。悠真は軽く手を振って見送り、鞄の中の手帳を思い出した。水曜日午後七時。彩花から自分の答えを伝えたいと言われた約束が、あそこには書かれている。
◇
火曜日の午後、彩花は文芸部の部室で短編の結末を書き直した。友人が指摘してくれた通り、頼んだ側の少女にも考える時間を与え、断られたことへの戸惑いを一度口にさせた。主人公は相手の気持ちをすぐに変えようとせず、鍵を渡せない理由を伝えたうえで、一緒に資料を探せる時間を具体的に示す。
書き終えた段落を読み直すと、会話は前より長くなっていた。それでも、必要のない説明が増えたわけではなく、二人が違う気持ちを抱えたまま次の行動を選ぶ流れが自然につながっている。彩花は前の文章と見比べ、今回の書き直しが本当に必要だったと納得できた。
「直してみたんだけど、もう一度だけ読んでもらってもいい?」
「もちろん。今日、少し時間があるよ」
友人は机の向かい側で原稿を読み、しばらくしてから静かに頷いた。今度は頼んだ側の戸惑いも分かるし、最後に一緒に動くことを決めた理由も伝わるという。彩花は礼を言い、原稿の右上に「第三稿」と書き込んだ。
そのとき、顧問が部室へ来て、冬の部誌に寄せられた読者の感想をまとめた紙を部員たちへ配った。作品ごとの感想だけでなく、表紙を見て手に取ったという声や、普段は文芸部の活動を知らなかったけれど面白かったという声もある。彩花は自分が書いた作品への感想を読んで嬉しくなったが、すべてに答えようとはせず、読み手が自由に受け取ってくれたことを大切にした。
顧問は次の作品作りについて、今すぐ新しい部誌を出す予定はないと説明した。しばらくは個人で書いたものを読み合い、納得できるまで直す時間を持つという。彩花は手元の短編を見て、まずは第三稿を一週間ほど置いてから読み直し、それでも自分が好きだと思えたら完成にしようと決めた。
放課後の廊下で友人と別れるとき、彩花はふいに尋ねられた。振り向くと、友人は何かを言い当てようとするのではなく、穏やかに笑っている。
「水瀬さん、最近、楽しみにしてることがあるんでしょう。原稿を直してるときも、なんだか前より嬉しそう」
彩花は驚いたが、すぐに恋愛の話をすべて打ち明けようとは思わなかった。彼女は以前、悠真とはまだ付き合っていないけれど大切な人だと答えた相手でもある。今はその答えが変わるかもしれないところにいるが、まだ本人と約束を結んでいない以上、伝えることは一つだけで十分だった。
「うん。水曜日に、ちゃんと話したい人がいるの。話し終わったら、たぶんもっと落ち着けると思う」
「そっか。じゃあ、いい時間になるといいね」
友人はそれだけ言って手を振った。彩花は自分が少し笑っていることに気づきながら、校門へ向かった。相手の名前を出さなくても、自分が大切な約束を楽しみにしていることは、自然に伝わるものなのかもしれない。
◇
火曜日の夜、悠真から短いメッセージが届いた。明日の電話の時刻は予定どおりでよいかという確認と、学校の引き継ぎが順調に進んでいるという報告だった。彩花は自分も文芸部の原稿を第三稿まで直したと伝え、午後七時には家にいるので大丈夫だと返信した。
『それならよかった。彩花さん、電話のこと、負担になってない?』
画面に表示された問いを見て、彩花は少しだけ考えた。彼が自分を心配してくれることはありがたいが、返事をするたびに無理をしていないか確認されると、自分の希望まで遠慮してしまいそうでもある。その気持ちは責めるものではなく、これから関係を続けるなら伝えた方がいいことだと思った。
『緊張はしています。でも、私から話したいと思ってお願いした電話です。だから心配しすぎなくて大丈夫です。悠真君も、私の返事を待ってる間に気になることがあったら、言ってくださいね』
送信すると、少し間を置いて返事が届いた。彩花は画面を開く前に指を止め、彼も言葉を選んでくれたのだろうと思った。
『ありがとう。僕も、少し緊張してる。彩花さんが考えてくれたことを、ちゃんと聞きたいから』
彩花はその言葉を読んで、胸の奥が温かくなった。自分だけが返事を考えているのではなく、悠真も何を話すか考えているのだ。二人とも同じように緊張し、それでも話したいと思っているなら、明日の電話を必要以上に怖がらなくてもいい気がした。
その夜、彩花は机の引き出しから新しい便箋を一枚取り出した。何かを書いて悠真へ渡すつもりではなく、頭の中を整理するために使いたかったのだ。恋人として一緒にいたいこと、困ったときに相談できること、相手の時間を大切にしたいことを三つだけ書き、最後に「決めてもらうのではなく、私から選ぶ」と添えた。
書いてみると、言葉の順番は自然に決まった。まず好きだという気持ちをもう一度伝え、それから恋人として付き合いたいと答える。条件を並べて許可を求めるのではなく、これから大切にしたいことは一緒に話し合えばいい。彩花はその便箋を折らずに手帳へ挟み、明日はそのまま読まなくても話せるようにしておこうと決めた。
◇
水曜日の朝、彩花は普段どおりの時刻に学校へ向かった。昨日まで何度も確認した午後七時の予定は、もう手帳を見なくても覚えている。今日は授業中にぼんやりしないよう、いつもより少し早めに教室へ入り、提出する課題と教科書をそろえた。
昼休み、文芸部の友人と廊下を歩いていると、別のクラスの女子生徒が彩花に声をかけた。以前、文章のない写真を受け取り、そのあと自分も一人の友人へ転送してしまったと謝ってきた生徒だった。彼女は周囲に聞こえないよう声を落とし、以前お願いした削除について、転送先から返事があったことだけを伝えたいと言った。
「私が送った子は、もう画像を消したって返事をくれたの。ほかへ送っていないとも言ってたけど、それ以上のことまで私には確かめられないから、そこは分かったままにしておきたくて」
彩花は足を止め、相手の説明を聞いた。相手の友人が削除したという申告があったことと、画像がどこにも残っていないという事実は同じではない。けれど、転送した本人が自分の行動を振り返り、できる範囲で訂正しようとしたことは受け止められた。
「知らせてくれてありがとう。私が嫌だったことは変わらないけど、そこで止めるために動いてくれたことは分かったよ」
「……うん。本当にごめんね。先生にも、私が確認できたのはそこまでだって伝えておく」
彩花は頷き、個人的に別の人を探して確認を続けなくていいと伝えた。学校側が必要な情報を集めていることは分かっているし、自分の生活の中で同じ画像の行方を追い続けたくはなかった。相手は礼を言って教室へ戻り、彩花も友人と一緒に階段へ向かった。
友人が何があったのかと尋ねかけたが、彩花は学校へ伝えてある件について、確認できたことだけ知らせてもらったと説明した。相手の個人的なやり取りをほかの人へ広める必要はない。二人はそれ以上話さず、昼食を取る教室へ戻った。
その日の放課後、彩花は部室へ立ち寄り、顧問へ新しい短編の第三稿ができたことを報告した。今すぐ作品を提出する予定はないが、少し時間を置いて自分でも読み直してみると伝えると、顧問は納得した様子で頷いた。部の活動を終えたあと、彩花は帰宅途中に凛花へ予定どおり帰ることを知らせた。
家へ着くころには、空の色が少しずつ暮れ始めていた。彩花は夕食の前に宿題を済ませ、机の上の原稿を片づけた。午後七時に電話するためにほかの予定を無理に変えたわけではなく、今日のやるべきことを終えてから自分の時間を使えるようにしたかった。
◇
午後六時四十分、彩花は居間で凛花に、これから悠真と電話すると伝えた。姉は昨夜からその予定を知っていたため、驚かずに頷き、静かな場所で話せるよう自室へ戻るといいと勧めた。彩花は礼を言い、廊下の先にある自分の部屋へ入った。
机の上には、紺色の点が並んだカードと、昨夜書いた便箋が置かれている。彩花は便箋を一度だけ読み返し、すぐに手帳へしまった。答えを忘れないための支えにはなるが、悠真へ話すときには、紙に書かれた順番よりも自分の気持ちを大切にしたかった。
時刻が午後七時になり、スマートフォンの画面へ悠真からの着信が表示された。彩花は一度だけ息を整え、通話を開始した。
「もしもし、彩花さん。こんばんは。今、話しても大丈夫かな」
「こんばんは、悠真君。はい、大丈夫です。連絡ありがとうございます」
耳元から聞こえてきた声は、いつもと変わらず穏やかだった。少し離れた部屋で話しているはずなのに、公園のベンチで隣に座っていたときのことが思い出され、彩花は小さく頬を熱くした。悠真は学校が終わったあと帰宅していて、今は九条家の自室にいると話してくれた。
二人はまず互いの一日について短く話した。彩花が短編の第三稿を完成させたことを伝えると、悠真は喜び、読ませてもらえる日が楽しみだと言った。悠真も学校の引き継ぎで確認が必要だった仕事が一つ片づいたと報告し、前なら自分で抱え込んでいたかもしれないと少し笑った。
その何気ない会話のあと、ふいに短い沈黙が訪れた。彩花はスマートフォンを持ち直し、机の上に目を落とした。悠真が先に何かを聞こうとした気配があったが、彩花は自分から話すと約束していたことを思い出し、静かに声をかけた。
「悠真君。今日は、私から話してもいいですか」
「……うん。もちろん。聞かせてほしい」
その返事を聞いた瞬間、彩花は少しだけ肩の力が抜けた。悠真は日曜日の公園で、恋人として向き合いたいと伝えてくれた。彩花はその気持ちを受け取ったうえで、今度は自分が選んだ答えを言葉にしようとしている。
「日曜日、悠真君が好きだって言ってくれたの、本当に嬉しかったです。私も好きだって伝えたけど、付き合うかどうかは少し考えたいって言いましたよね」
「うん。彩花さんが自分で考えてから返事をしたいって言ってくれたこと、覚えてるよ」
彩花は頷き、声だけの会話ではその動作が届かないことに気づいて、少し笑った。その小さな笑いを悠真も聞いたらしく、電話の向こうで息を和らげる気配がした。彩花は落ち着きを取り戻し、言葉を続けた。
「考えてみて、私が何を迷っていたのか分かりました。恋人になることが嫌だったんじゃないです。好きだって言ってもらえたのが嬉しくて、その勢いだけで返事をしてしまうことが、少し怖かったんです」
彩花は机の端に置いた手を軽く握った。相手の望む答えを返せば、その場はきっと幸せになる。けれど、これまでは誰かの期待に合わせて自分の希望を曖昧にすることがあったから、今回だけはそうしたくなかった。
「でも、昨日も今日も考えて、答えは変わりませんでした。悠真君に会いたいし、本のこと以外でも話したいし、困ったときは一緒に考えたい。私の好きなことも、悠真君の好きなことも、大切にしながら過ごしていきたいんです」
電話の向こうは静かだった。彩花は言葉を急がず、相手が聞いてくれているのを確かめながら、最後まで話すことにした。
「だから、悠真君。私も、悠真君と恋人として付き合いたいです。……私と、お付き合いしてください」
言い終えた瞬間、胸の奥で大きく音がしたように感じた。どんな返事が戻るのか分かっているつもりでも、自分から頼む形で伝えたのは初めてだった。彩花はスマートフォンを耳に当てたまま、悠真の声を待った。
「……彩花さん」
彼は名前を呼んだあと、すぐには続けなかった。その沈黙が不安へ変わりかけたころ、息を吸う小さな音が聞こえてきた。
「ありがとう。僕も、彩花さんと恋人として付き合いたい。日曜日に伝えた気持ちは、今も同じだよ。……こちらこそ、よろしくお願いします」
彩花は目を閉じた。今まで何度も聞いてきた穏やかな声なのに、その返事だけは、まっすぐ胸へ届いた。曖昧な言葉で察し合ったのではなく、互いに望んでいることを、自分たちの口で確かめられたのだ。
「……はい。よろしくお願いします」
彩花がそう返すと、二人は同じタイミングで小さく笑った。声を聞くだけで、悠真も相当緊張していたらしいことが分かる。公園で好きだと言い合ったときとは違い、今日は互いの返事を自分から差し出して、初めて約束になった。
◇
しばらくして悠真が、改めて一つ聞いてもいいかと尋ねた。彩花は頷いてから口に出して了承し、机の上の小さな時計へ目を向けた。午後七時を少し過ぎていて、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「僕たち、今日から恋人って呼んでいいんだよね」
「……はい。ちゃんと、二人で決めましたから」
悠真は電話の向こうで、ほっとしたように笑った。彩花はその言葉を聞いて、今になってようやく実感が湧いてきた。昨日までは大切な友人として会っていた相手と、今は恋人として話しているのだと考えると、声の出し方まで少し分からなくなりそうだった。
「……何か、急に緊張してきました。さっきまで普通に話せてたのに」
「僕もだよ。彩花さんの声はいつもと同じなのに、恋人って言葉にしたら、急に嬉しくなってしまって」
彩花は思わず笑い、机の上のカードへ手を伸ばした。紺色の点は何も変わっていないし、学校の時間割も、文芸部の原稿も、明日になればいつもどおりそこにある。それなのに、今夜の会話を境に、何か新しいものが二人の間へ加わったのだと思った。
悠真は少し考えてから、今後について気になっていることを一つだけ話した。関係が変わったからといって、彩花のことを周囲へ勝手に説明したり、九条家の人間を通して予定を確認させたりはしたくないという。写真の問題がまだ完全に解決していないこともあるので、どこまで誰に話すかは、互いに相談して決めたいと伝えた。
「私も、同じように考えてました。お姉ちゃんには日曜日のことを話したので、今日ちゃんと返事をしたことも、あとで自分から伝えたいです。でも、学校のみんなへすぐに知らせるつもりはないです」
「うん。僕も家では、父に自分から話そうと思う。彩花さんが何を答えたか、僕の都合でほかの人へ広めたりはしないよ」
彩花はその答えに安心した。恋人になったことを隠したいのではないが、誰に何を伝えるかという選択まで、関係の名前だけで決められたくはなかった。必要なときには自然に答えられるようにしながら、今夜の言葉はまず二人で大切に持っていたかった。
少し話したあと、彩花は自分からもう一つ提案した。悠真が忙しいときに連絡を無理に返してほしくないこと、彩花も文芸部の活動中はすぐに返事ができないことがあると、今のうちに伝えておきたかったのだ。悠真は同意し、返信できないときにはあとで話せることを知らせれば十分だと答えた。
「……でも、何でも決まりごとにしなくてもいいですよね。私、悠真君と話してるのが好きなので、毎回きちんとしようとして疲れちゃうのは嫌です」
「そうだね。僕、少し仕事の連絡表みたいに考え始めてたかもしれない」
悠真の声に照れたような笑いが混じり、彩花も吹き出した。彼が何事も丁寧に考える人だと知っているから、冗談として受け取れる。二人は細かな約束を増やすのをやめ、困ったときにはその都度話そうという、今まで何度も守ってきたやり方を続けることにした。
「それなら、最初に一つだけお願いしてもいいですか」
「うん。何でも聞くよ」
「……何でもじゃなくていいです。無理なことなら、そう言ってほしいんです」
彩花がそう答えると、悠真は短く笑ってから、分かったと返した。彩花は自分が伝えたかったのは、それほど難しいことではないと気づいた。恋人になったからといって、どちらかが相手の願いをすべてかなえる役になる必要はない。ただ、本当に望んでいることを言える関係でいたかった。
◇
電話が終わる少し前、悠真が次に会うときのことを尋ねた。これまでも図書館や市民公園で会ってきたが、恋人として初めて顔を合わせる日を楽しみにしていると、少し照れた声で話してくれた。彩花は胸が温かくなり、自分も同じだと答えた。
「今度は、私から誘いたいです。先週は悠真君が公園を選んでくれたから、次は私の行きたいところを一緒に見てもらえませんか」
「もちろん。どこへ行きたい?」
彩花は少し考え、駅前から少し離れた場所にある小さな菓子店のことを話した。以前、凛花と近くを通ったときに見つけた店で、店内には数席だけ休める場所があり、季節ごとに焼き菓子の種類が変わるという。手作り市では歩きながらいろいろなものを見たので、今度は落ち着いて話せる場所へ行ってみたかった。
「……そこなら、僕も行ってみたい。彩花さんが気になってた場所なんだね」
「はい。でも、お店が混んでたら、別の場所にしましょう。待ち合わせの時間も、今すぐ決めなくていいですし」
悠真は頷き、週末の予定を確かめてから改めて相談することになった。彩花はその返事を聞き、恋人として最初の約束がまだ完成していなくても、十分に嬉しかった。会いたいという気持ちを先に伝え、そのあと現実の予定を合わせればいいのだと思えた。
通話を終える前、悠真が少し声を落とした。彩花はその変化に気づき、スマートフォンを持つ手に少しだけ力を込めた。
「彩花さん。今日は、返事を聞かせてくれてありがとう。考えてくれた時間も、僕にとっては大切だったよ」
「……私も、待ってくれて嬉しかったです。でも、これからは必要なことを待たせたままにしないように、ちゃんと話したいです」
悠真はその言葉を聞いて、穏やかに笑った。彩花は電話越しにその表情を想像しながら、もう一度だけ自分の気持ちを伝えたくなった。
「悠真君。……好きです。今度は、恋人として言えるのが嬉しいです」
「僕も好きだよ、彩花さん。これからもよろしくね」
彩花は返事をして、通話を終えた。画面には通話終了の表示が出て、部屋にはいつもの静けさが戻った。けれど、さっきまでと同じ自室が少しだけ違って感じられるのは、悠真の声がまだ耳に残っているからだった。
◇
彩花はしばらく椅子に座ったまま、机の上の手帳を開かなかった。約束した返事を伝え、悠真が受け取ってくれたことは分かっているのに、その嬉しさをどう扱えばよいか少し迷っていた。何か特別なことをしたくなっても、すぐに言葉へまとめなくていいような気がした。
やがて立ち上がり、居間へ向かうと、凛花がテーブルの上で植物の置き場所についてメモを整理していた。姉は彩花の顔を見ると、電話は終わったの、と普段どおり尋ねた。その声を聞いて、彩花は急に頬が熱くなった。
「……うん。お姉ちゃん、聞いてほしいことがあるの」
凛花はペンを置き、彩花へ向き直った。彩花は一度だけ息を整え、今日の電話で悠真へ恋人として付き合いたいと伝え、彼も同じ気持ちだと返してくれたことを話した。言い終えるころには、胸の奥にたまっていた嬉しさが自然と声へ表れ、最後の方は少し笑いながら説明してしまった。
「……ということで、今日から悠真君と付き合うことになったの」
凛花はしばらく黙ったあと、ゆっくり微笑んだ。その表情を見た瞬間、彩花は自分が予想以上に緊張していたのだと気づいた。姉は大げさに騒ぐこともなく、まず「おめでとう」と言い、それから彩花が自分で答えを伝えられたことを喜んでくれた。
「よかったね、彩花。嬉しそうな顔をしてるから、きっと自分で納得できたんだろうなって思ったよ」
「うん。悠真君に言われたからじゃなくて、私が付き合いたいと思ったから返事をしたの。電話の途中、すごく緊張したけど」
凛花は笑い、そういう話なら緊張するのも当然だと答えた。彩花が学校では今すぐ広く話すつもりはないと伝えると、姉は本人の意思を尊重し、自分から桜華学園の知人へ知らせることもしないと約束した。彩花はほっとして、テーブルの向かい側へ座った。
「……ねえ、お姉ちゃん。恋人になったら、何か急に変えないといけないことってあるのかな」
「そんなに急いで変えること、ないと思うよ。二人が話したいことを話して、会いたいときに相談して、今まで大切にしてきたことも続ければいいんじゃない?」
凛花の答えを聞き、彩花は頷いた。恋人になったという事実は大切だが、それだけで明日から別の性格になる必要はない。学校の授業も、文芸部の原稿も、本を読む時間も続いていく。その中で悠真と一緒に過ごす時間が増えれば、きっと今までとは違う景色も見えてくるのだろう。
凛花はメモの端へ書きかけていた植物の名前を一度見てから、彩花へ笑いかけた。姉が何を言うのだろうと、彩花は手元の食器を一度置いた。
「それにしても、悠真君が最初に図書館で話しかけてきたころのことを思うと、ずいぶん変わったね。彩花から『付き合いたい』って伝えるようになるなんて」
「……私もそう思う。でも、最初からこうなるって決まってたわけじゃないよ。何回も話して、いろんなことがあったから、今そう思えるんだ」
自分で言ってから、彩花はその言葉に頷きたくなった。楽しいことだけでなく、困ったことや、意見が違うことも二人で確かめてきた。だから今、恋人という新しい名前をつけても、これまでの関係が消えてしまうようには感じなかった。
◇
同じ夜、九条家の自室で悠真は、通話を終えたスマートフォンを机へ置いた。青緑の葉のカードと木製の浅い皿が、いつもどおり目の前にある。彩花から「私と、お付き合いしてください」と聞いた瞬間のことを思い出すと、まだ少し胸が高鳴るようだった。
彼はしばらく机の前に座っていたが、やがて立ち上がり、父のいる書斎へ向かった。日曜日に彩花へ気持ちを伝えるつもりだと話したとき、父は相手の答えを先に決めるなと言ってくれている。だからこそ、今夜の結果も自分の言葉で伝えておきたいと思った。
扉を叩くと、室内から返事があった。悠真は書斎へ入り、父が書類を閉じるのを待ってから、彩花との関係について少し話したいと伝えた。父は椅子へ座るよう促し、急かさずに続きを待った。
「日曜日に、彩花さんへ好きだと伝えました。彼女も同じ気持ちだと話してくれたんですが、交際については自分で考えてから返事をしたいと言われていました」
「そうだったのか。それで、今日は返事を聞けたのか」
「はい。さっき電話で、彩花さんから付き合いたいと伝えてくれました。僕も同じ気持ちだと答えて、今日から恋人として付き合うことになりました」
父は少しだけ目を見開き、やがて穏やかに頷いた。悠真が息子らしい照れた顔をしていることに気づいたのか、口元がわずかに和らぐ。しばらくして父は、まずおめでとうと伝え、それから彩花が自分で考えた答えなら大切にしなさいと言った。
「ありがとうございます。ただ、家の方から彩花さんへ連絡したり、何かを用意したりするのは、今はしないでほしいです。学校でも、本人同士で相談してから必要な範囲だけ話すことにしています」
悠真はそのことを最初にはっきり伝えた。父は頷き、相手の家族との正式な挨拶などを今すぐ求めるつもりはないと答えた。二人ともまだ学生なのだから、学業と生活を大切にしながら関係を育てればよいという。
「分かった。九条家の名前で何かを決めることはしない。ただし、困ったことが起きたら家族へ相談するのは構わないから、その点まで一人で抱え込まないように」
「はい。そのときは、まず彩花さんと話して、必要なら相談します」
悠真は礼を言い、書斎を出た。廊下へ戻ってから、父へ伝えることに思った以上に緊張していたと気づき、小さく息を吐いた。けれど、隠さず話したことで、これからも彩花と自分の意思を大切にしていきたいという考えが、少しはっきりした気がした。
自室へ戻ると、スマートフォンに彩花からのメッセージが届いていた。凛花へ交際のことを話し、おめでとうと言ってもらえたという。悠真も父へ伝えたことを返信し、家の側から勝手に動かないことを確認できたと書いた。
『よかったです。お姉ちゃんも、私が自分で決めたことを喜んでくれました』
『僕の父も同じだったよ。彩花さんが考えて返事をしてくれたことを、大事にしなさいって』
そのあと、彩花から少し間を置いて新しいメッセージが届いた。悠真は続きを読みたい気持ちを抑え、まず画面に表示された一行を確かめた。
『悠真君。さっき電話で言えなかったことが一つあります』
悠真は画面を見つめ、何だろうと思いながら返事を打った。しばらくして届いた文章には、今日の電話で決めたことを後悔していないことと、明日学校で何か嬉しいことがあったら、また最初に話したいという気持ちが書かれていた。
『恋人になったから何か特別な報告をするんじゃなくて、今までみたいに、悠真君に聞いてほしいことを話したいです。今日、そう思いました』
悠真はその言葉を読んで、机の上のカードへ目を向けた。青緑の葉の模様を作った彩花は、手作り市で自分の好きな色と形を選び、それを彼に渡してくれた。恋人になった今も、彼女が自分の意思で何かを選び、気持ちを言葉にするところを、大切に見ていたいと思った。
『僕も同じだよ。彩花さんが話したいことを聞きたいし、僕も自分のことを話したい。これからよろしくね』
送信すると、すぐに短い返事が届いた。文字数は少ないのに、彼女が少し照れている様子まで想像できた。
『はい。こちらこそ、よろしくお願いします。……恋人として、ですね』
悠真は思わず笑った。少し前まで「大切な友人」という言葉に何度も気持ちを収めようとしていたのに、今は同じ相手と恋人として話している。机の上のカードも木の皿も、昨日までと変わらずそこにあるが、そのどちらも、これから先に彩花と過ごす日々を思い浮かべるきっかけになりそうだった。
◇
彩花が最後のメッセージを読み終えたころ、凛花が廊下から夕食後の片づけについて声をかけた。彩花はスマートフォンを机へ置き、すぐに手伝うと返事をした。今日はずっと特別な日のように感じていたけれど、家の中には変わらずやることがあり、そのことが妙に嬉しかった。
台所へ向かう前、彩花は本棚のカードを一度だけ見た。悠真が作った紺色の点は、相変わらず一つひとつ違う位置に並んでいる。彼と恋人になったからといって、自分まで同じ形へ変わる必要はないのだと思うと、その不揃いな模様がますます好きになった。
居間へ戻ると、凛花が食器を片づけながら、週末はどうすることになったのか尋ねてきた。彩花はまだ日程を確定していないと答え、行ってみたい菓子店があるので、互いの予定が合えば一緒に行きたいと話した。凛花は頷き、あの店なら夕方前には帰れるね、と以前通った道を思い出しながら言った。
「……彩花。今日のこと、あとで手帳に書くの?」
「ううん。たぶん、少しだけ書くと思う。でも、全部は書かなくても大丈夫かな」
凛花は不思議そうに首を傾げたが、彩花が笑っているのを見ると、それならそれでいいと思うよと答えた。彩花は食器を受け取り、台所の棚へ戻した。自分が選んだ返事は、紙に書かなくても、今夜の悠真の声と一緒に覚えていられる気がした。
片づけが終わると、彩花は自室へ戻り、明日の教科書を鞄へ入れた。文芸部の短編第三稿は机に残し、週末に読み返すための印をつける。明日、学校で友人に会ったら、今日のことをどこまで話したいか改めて考えようと思ったが、今夜のうちに決める必要はなかった。
手帳の水曜日の欄には、午後七時の電話という文字が残っていた。彩花はその下へ小さく「自分から返事をした」と書き加え、ペンを置いた。相手に選んでもらうのを待つのではなく、自分が一緒にいたいと思う人へ、自分の口で伝えた。それができたことを、今は何より大切にしたかった。
鞄のファスナーを閉じると、布が擦れる軽い音がした。明日はまた、教室で授業を受け、友人と話し、文芸部のことを考える一日が始まる。そして、その日の出来事を話したくなったときには、九条悠真という恋人が、自分の言葉を聞いてくれる。
彩花は鞄を机の横へ置き、廊下から聞こえた姉の呼ぶ声へ返事をした。いつもどおりの家の明かりの中へ歩き出す足取りは、昨日までと同じ速さだったが、これから自分で選べることが一つ増えたように、心は静かに弾んでいた。




