↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
180/185

第180話 言葉にした好きと、まだ急がない約束


 日曜日の朝、水瀬彩花は窓の外を確かめてから、机に置いた手帳を閉じた。青凪市の空はよく晴れていたが、家の前の道には夜の冷え込みが残り、向かいの生垣が風を受けて細かく揺れている。午後一時に市民公園の入口で九条悠真と会う約束をしているため、彩花は厚手のコートと歩きやすい靴を用意し、帰りが遅くならないよう家族にも予定を伝えてあった。


 手帳には待ち合わせの時刻と場所のほかに、昨日の夜、何度か書き直した一行が残っていた。「悠真君の話を聞いて、私の気持ちも私の言葉で話す」。書いたときには当然のことのように思えたのに、今朝もう一度読むと、その短い文章が思った以上に難しい約束だったと分かる。


(私の気持ちは、前よりずっとはっきりしてる。でも、悠真君の話を聞く前に、全部決めたつもりにはなりたくない)


 彩花は引き出しから、先日の手作り市で悠真にもらったカードを取り出した。紺色の点は少しずつ間隔が違い、印刷を終えた彼が最初はずれを気にしていたことまで思い出せる。彩花はその一枚を鞄へ入れようとして、やめた。大切だからこそ今日持ち歩く必要はなく、自分の本棚に置いておけば帰ったときにまた見られる。


 朝食を取っていると、凛花が向かいの席から今日の予定を尋ねた。彩花が公園の冬の花壇を見に行くと答えると、姉は先日調べていた植物の本を思い出したらしく、今の季節でも外で咲いている花があるんだね、と関心を示した。春になったら自分も何か育てたいと考えているものの、置く場所や日当たりを先に確かめようとしているらしい。


「帰ってきたら、どんな花があったか教えるね。名前が分からなかったら、案内の札を読んでくるよ」

「ありがとう。でも、今日は悠真君と出かける日なんだから、私の調べ物にしなくていいからね」


 凛花は笑いながらそう言った。彩花は姉の気遣いに頷いたが、すぐに飲み物へ手を伸ばせず、食卓の木目を見つめた。公園で何を見るかよりも、悠真が自分に伝えたいことがあると言っていたのを思い出したからだった。


「……お姉ちゃん。今日ね、悠真君が大事な話をしてくれるみたいなの。何かは聞いてないけど、私も自分の気持ちを話したいと思ってる」

「そうなんだ。じゃあ、緊張してる?」

「うん。でも、嫌な緊張じゃないよ。ちゃんと聞きたいから、少し落ち着かなくて」


 凛花はしばらく彩花を見つめてから、まず二人で楽しい時間を過ごせばいいと答えた。何を言うか前もって決めてしまうより、その場で相手の言葉を聞いた方が分かることもあるという。彩花はお礼を言い、食事を終えてから台所の片づけを手伝った。


 玄関を出るころには、午前の光が庭の端まで届いていた。彩花は手袋を鞄へしまい、首元のマフラーを整えてから歩き始めた。今日は本を貸す予定も、調査資料を比べる予定もない。それなのに、今までどの約束よりも大切なものを持って出かけるような気持ちがした。


     ◇


 同じ午前、悠真は自室でコートのポケットを確かめ、机の端に置いた木の浅い皿へ鍵を一度戻した。手作り市で自分のために買った皿には、学校の仕事で使う小さなメモと、書き直した文章の切れ端が分けて置かれている。彩花からもらった青緑の葉のカードは、その隣に台紙ごと立てかけてあり、窓から入る光を受けていた。


 彼は先日完成させた短い随筆を鞄に入れかけたが、今日は持っていかないことにした。図書館で読んでもらうための文章ではなく、これから自分の口で伝えようとしていることがある。紙に書いた言葉の陰へ隠れるような話し方はしたくなかった。


(彩花さんは、僕の言葉を最後まで聞きたいって言ってくれた。だからこそ、曖昧な言い方で察してもらおうとするのは違う)


 朝、悠真は家の者から移動の手配が必要か尋ねられ、今日は自分で公共交通機関を使って公園へ向かうと答えていた。九条家の都合で動く日とは違い、二人が相談して決めた待ち合わせ場所に、約束した時刻へ着けば十分だった。帰宅時刻については家へ伝え、問題が起きた場合の連絡先もいつもどおり確認してある。


 廊下へ出ると、父が書類を手にして歩いてきた。先日の手作り市について、楽しそうに話していたのを覚えていたらしく、今日も外出かと穏やかに尋ねられた。悠真は市民公園へ彩花と出かけること、帰宅は夕方の予定だと伝えた。


「写真の件はまだ完全に終わっていない。相手の学校の対応は進んでいるそうだが、そのことは忘れないようにな」

「はい。でも、心配だから出かけないと一方的に決めるつもりはありません。何かあれば本人と相談して、その場で判断します」


 父は短く頷き、しばらく息子の顔を見た。悠真がもう一つ何かを話しかけているのに気づいたのかもしれないが、先を急かすことはしなかった。以前なら家の側から予定や相手への対応を提案したかもしれない人が、今は本人の言葉を待っている。その変化を悠真も感じていた。


「……今日、彩花さんに僕の気持ちを話そうと思っています。返事を求めて困らせたいわけじゃなくて、ちゃんと伝えたいことがあるので」

「そうか。なら、相手の答えを先に決めるな。君がどうしたいかと同じくらい、彼女がどうしたいかも大切だろう」


 父の答えは短かったが、悠真には十分だった。彼は礼を言い、玄関へ向かった。彩花の名前が九条家の外でも知られていることは、彼が望んだことではない。それでも、そのせいで大切な話まで家の誰かに代わって決められることは、今後も望まなかった。


     ◇


 彩花が市民公園の入口へ着いたのは、午後一時の少し前だった。冬の公園には、犬の散歩をする人や、家族で歩く人の姿があり、広い園路の両側には落葉した木々が並んでいる。案内板に描かれた花壇の位置を確かめていると、背後から聞き慣れた声がした。


「彩花さん、こんにちは。寒くなかった?」

「こんにちは、悠真君。大丈夫です。歩いてきたら、むしろ少し温かくなりました」


 振り返った彩花は、悠真がいつもより少し柔らかな色のマフラーを巻いていることに気づいた。彼の方も彩花の手袋へ目を向け、風が強くなったら使った方がいいと話してくれる。二人は入口の地図を見ながら、池の周囲を回って冬の花壇へ向かう道と、短い遊歩道を通る道のどちらにするか相談した。


「花壇を先に見たいです。日が傾くと寒くなりそうなので、歩くなら今のうちの方がよさそうです」

「うん。じゃあ、あっちの道から行こう。途中で疲れたら休める場所もあるみたいだね」


 彩花は頷き、園路を歩き始めた。昨夜は何を話せばよいか考え込んでいたのに、こうして顔を合わせると、最初に交わす言葉はいつもどおりのものだった。そのことに安心しながらも、彼が言葉を探しているように見えるたび、今日は大切な話が待っているのだと思い出した。


 花壇の手前には低い生垣があり、その向こうに紫や黄色の小さな花が並んでいた。彩花は足を止め、種類ごとに植えられた札を読んだ。パンジーやビオラの花は冬の光の下でも鮮やかで、隣には葉牡丹の丸い葉が淡い色の重なりを作っている。


「本で見たことはあったけど、こんなにたくさん並んでると印象が違いますね。葉牡丹って、花じゃなくて葉の色を楽しむんだ」

「うん。僕も、遠くから見ると花みたいに見えると思った。近くで見ると重なり方が全然違うね」


 悠真は案内札を見てから、花の列へ目を移した。彩花は彼がいつものように植物の名前を覚えようとしているのかと思ったが、彼は別のことを気にしていた。花壇の端にある小さな区画では、同じ種類の花でも高さがそろっておらず、低い株の周りには新しい土が足されている。


「ここだけ植え替えたのかな。ほかの列とは土の色が違う」

「本当ですね。何か理由があるのかもしれないです」


 二人が話していると、近くで花壇の手入れをしていた公園の管理員が声をかけてきた。冬のあいだに傷んだ苗を一部植え直したところで、同じ種類でも育ち方には違いがあるのだという。彩花は興味を覚えたが、作業の邪魔にならないよう花壇の外側から話を聞き、管理員が水やりの道具を持って移動する際には園路を空けた。


「見た目がそろわないからって、全部植え替えるわけじゃないんですね」

「ええ。ちゃんと根づいているものは、そのまま育てた方がいい場合もあります。ここでは歩く人に楽しんでもらえるよう、花の状態を見ながら手入れしていますよ」


 管理員は笑い、また作業へ戻っていった。彩花は小さく礼を言い、花壇の端でしゃがまずに花を眺めた。きれいに見える場所にも、毎日少しずつ手を入れる人がいる。自分が好きな図書館の本棚も、誰かが並べ直し、手入れをしてくれるから使いやすいのだろうと思った。


     ◇


 花壇を離れると、園路は池の方へ緩やかに続いていた。冬の水面には低い日差しが反射し、風が通るたび細かな波紋が広がっている。木の枝にはまだ葉が少なく、夏なら見通せなかった場所まで向こう岸が見えた。


 彩花は歩きながら、先ほど聞いた話を凛花にも伝えたいと思った。けれど、スマートフォンを取り出してすぐに連絡するのではなく、帰宅してから自分の言葉で説明することにした。今日は目の前の景色を悠真と一緒に見たかったからだ。


「お姉ちゃん、植物を育てたいって言ってるんです。でも、置く場所を考えてから選ぶつもりみたいで。今日の話を聞いたら、きっと面白がると思います」

「凛花さんらしいね。まず置ける場所を考えてから選ぶ方が、長く育てられそうだ」


 悠真はそう答え、池の近くの案内板へ目を向けた。園路の先には水辺を眺められる小さな休憩所があり、風の当たりにくい側にベンチが置かれている。彩花はまだそれほど疲れていなかったが、歩き続けるより一度腰を下ろして話せた方がよいと思い、休憩所に寄りたいと伝えた。


 途中、広場の方から小さな男の子が母親と一緒に歩いてきた。男の子は画用紙のようなものを持ち、先ほど見た花の色について一生懸命説明している。母親は歩く速さを合わせ、どの花を描いたのか尋ねていた。彩花は二人とすれ違ったあと、何となく自分の手帳のことを思い出した。


「私も、小さいころは見たものをすぐ絵にしたかった気がします。今は、絵より文章で残す方が多いですけど」

「彩花さんの手帳には、図書館で見つけたことも、読んだ本の感想も書いてあるよね。ああいうふうに残しておけるの、僕はいいと思う」


 彩花は少し照れながら頷いた。悠真が自分の手帳を全部読んだわけではないが、必要なときに見せたメモを丁寧に扱ってくれたことは覚えている。古い駅前写真の調査でも、彼は自分が書いたことを勝手に結論へ変えず、何を確認したのか一緒に確かめてくれた。


「悠真君の文章も、同じだと思います。図書館で感じたことを、忘れたくないから書いたんですよね」

「うん。最初は書いたら落ち着くと思ってたけど、書いてみたら、まだ自分でも分かってないことがあるって気づいたんだ」


 彼の言葉を聞いて、彩花は休憩所の屋根へ目を向けた。悠真が今日話したいと言っていたことは、おそらくその先につながっている。けれど、今すぐ答えを聞き出そうとせず、まずはベンチへ向かうことにした。


     ◇


 休憩所には二つのベンチがあり、池に近い方はすでに年配の夫婦が使っていた。彩花たちは反対側の空いているベンチへ並んで座り、手袋を外さずに持っていた小さな水筒で温かい飲み物を飲んだ。風は園路より弱かったが、遠くの木の枝が揺れる音は聞こえていた。


 悠真は水筒のふたを閉め、池へ目を向けたまま少し黙っていた。彩花も急かさず、向こう岸を歩く人の姿を眺めた。今日話したいことがあると聞いていたからといって、言葉を出す速さまで決めたくなかった。


「……彩花さん。今日は、ちゃんと話すって約束してたよね」

「はい。聞きたいと思ってました」


 悠真が顔を向けた。いつもの穏やかな表情だったが、言葉を探しているのか、口元にはわずかな緊張があった。彩花も胸が高鳴るのを感じたが、視線をそらさずに待った。


「僕、最初は図書館で本を選んでいる時間が好きだったんだ。何を読もうか考えるときは、家のことも学校の仕事も、少しだけ頭の外へ置いておけたから」


 悠真は落ち着いた声で話し始めた。図書館で彩花と会うようになり、同じ本を読んでも自分とは違うところを面白いと感じる人がいることが嬉しくなった。そこから会う約束が増え、今では新しい本を読んでいない日にも、彼女と話したいことが思い浮かぶという。


「学校でうまくいかなかったことがあったときも、彩花さんならどう聞いてくれるだろうって考えるようになった。でも、何でも答えてもらいたいわけじゃなくて、自分で決めたことを聞いてほしいと思ったんだ」


 彩花はゆっくり頷いた。来年度の執行部の仕事について悠真が相談してくれた日を思い出す。彼は自分で選びたいと話し、実際に先生へ条件を確かめたうえで、正式な担当を引き受けている。


「……あの日、私に話してくれて嬉しかったです。悠真君が迷ってることも、ちゃんと聞けたから」

「うん。僕も、話してよかったと思ってる」


 悠真は一度視線を落としたあと、彩花の方へ向き直った。何かを飾るような言葉ではなく、普段から彼が使っている静かな声だった。


「彩花さん。僕は、彩花さんのことが好きだよ」


 彩花は息を吸うことを忘れかけた。言葉自体は短かったのに、その先を続ける前に悠真が自分の反応を待ってくれたことで、何を伝えようとしているのかがはっきり分かった。


「本の話ができる友達としてだけじゃない。彩花さんと会いたいし、楽しいことだけじゃなくて、困ったことも一緒に考えていきたい。僕は、彩花さんと恋人として向き合っていきたいと思ってる」


 悠真はそこまで話すと、少しだけ肩の力を抜いた。彩花は胸の奥が強く鳴るのを感じながら、言われた内容を一つずつ受け止めようとした。彼が自分へ向けてくれていた気持ちは、今までの言葉や行動から感じていた。それでも本人の口から聞くと、想像していたよりずっと大きな喜びが込み上げてきた。


(……悠真君が、私を好きだって。友達としてじゃなくて、恋人として向き合いたいって)


 彩花はすぐに答えたかったが、声が思うように出なかった。悠真の視線から逃げたいわけではなく、今の言葉を急いで返して薄くしたくなかったからだ。膝の上に置いていた手をゆっくり握り直し、彩花は自分の中にある気持ちを探した。


「……ありがとうございます。私、すごく嬉しいです」


 声は少し震えたが、言葉を続けるにつれて落ち着いてきた。彩花は悠真が何も言わずに待っているのを確かめ、自分がどんなときに彼を思い出すのか話し始めた。本を読んでいるとき、文章を書くとき、学校で嫌なことがあったときだけでなく、手作り市のように特別な目的もなく歩いているときにも、一緒にいたいと思うようになったことを。


「最初は、本の話ができる人に会えて嬉しかったんです。でも、今は本の話をしなくても悠真君と会いたいですし、会えない日にも何をしているのかなって考えます。悠真君が何かを決めたとき、私にも聞かせてくれるのが嬉しいです」


 彩花はそこで一度言葉を切った。自分が話しているのは、誰かに言われたから考えた気持ちではなく、日々の中で少しずつ確かめてきたものだった。友人に恋人なのかと尋ねられたときも、まだそうではないと答えながら、彼が大切な人だとはっきり伝えられた。


「……私も、悠真君が好きです。友達だから大切っていうだけじゃなくて、悠真君だから一緒にいたいんだと思います」


 言い終えた瞬間、彩花の頬が熱くなった。悠真は驚いたように目を見開き、それからしばらく何も言わなかった。彩花は不安になりかけたが、彼の表情が少しずつ和らぎ、嬉しさを隠しきれないような笑みへ変わるのを見て、胸が温かくなった。


「……ありがとう、彩花さん。そう言ってもらえるなんて、すごく嬉しい」


 二人はしばらく視線を合わせ、やがて同じように照れて笑った。池の向こうで子どもたちが何かを見つけたらしく声を上げていたが、彩花にはその音が少し遠く感じられた。何かが突然変わったというより、ずっと形にならなかった気持ちが、ようやく二人の間で同じ言葉になったのだと思った。


     ◇


 悠真はしばらくしてから、彩花の返事を聞けて本当に安心したと話した。けれど、その言葉のあとですぐに二人の今後を決めようとはせず、彩花が何を考えているのか聞きたいと続けた。彼女が好きだと伝えてくれたことは嬉しいが、恋人として付き合うかどうかは、別に本人の意思を確かめたいという。


 彩花はその区別を聞き、自分の中で迷っていたことが少し分かった気がした。悠真を好きだという気持ちは今ここではっきり伝えられた。しかし、恋人という関係になればどんなことが変わり、逆に何を変えずにいたいのかについては、まだ二人で具体的に話していない。


「……私、悠真君と、もっと一緒にいたいです。それは今も変わりません。でも、付き合うっていう言葉だけを先に決めて、そこから何をしてもいいみたいになるのは、ちょっと違うと思ってて」


 彩花は言葉を選びながら続けた。学校が違うことも、家族のことも、写真が広まった問題がまだ完全に終わっていないこともある。そうした事情があるから付き合いたくないのではなく、相手の予定や生活を大切にしたまま関係を変えていきたいのだと伝えた。


「例えば、悠真君が執行部の仕事で忙しいときに、私が会いたいからって無理をさせたくないです。私も文芸部で書きたいものがあるし、お姉ちゃんと過ごす時間も大切にしたい。でも、だからって会うのを我慢するんじゃなくて、ちゃんと相談して決めたいんです」


 悠真はゆっくり頷いた。彼自身も九条家の立場を理由に彩花の予定を制限したくないし、彩花に自分の予定を合わせてほしいとも思わないと答えた。互いに会いたいと思ったときは自分から言い、都合が合わなければ無理のない別の日を選べばいい。その考えは、手作り市で話したことと同じだった。


「僕も、彩花さんの学校や書く時間を大切にしたい。何か困ったことがあっても、最初から僕が決めてしまうんじゃなくて、一緒に考えるって約束したい」

「はい。それなら、私も安心できます」


 彩花は答えたあと、少しだけ考え込んだ。好きだという返事を伝えた今、このまま恋人として付き合うことに頷いても、自分の気持ちに嘘はないだろう。けれど、それを今すぐ結論にしてしまうと、今日聞いた言葉の重みや、自分が大切にしたい条件を落ち着いて確かめる時間がなくなる気もした。


(……好きなのに、返事を待ってもらうのは変なのかな。でも、私はただ嬉しかったから頷くんじゃなくて、自分の意思で次の約束をしたい)


 彩花は悠真へ向き直った。彼は少し不安そうに見えたが、何も言わずに待ってくれている。彩花はその表情を見て、自分の答えを曖昧にしないよう、できるだけはっきり話そうと決めた。


「悠真君。私が好きだって言ったことは、取り消したくないです。友達のままでいたいから迷っているわけでもありません。でも、恋人として付き合うっていう返事は、今日すぐに決めたことにせず、少しだけ時間をもらってもいいですか」


 言い終えてから、彩花は手袋の上で指を組んだ。相手を長く待たせたいわけではないし、返事を先延ばしにすることが誠実だとも限らない。だからこそ、自分が何に迷っているのかも続けて伝えた。


「私、これまで誰かの期待に合わせて返事をしてしまうことがありました。悠真君には、そういうふうに決めたくないんです。ちゃんと考えたうえで、私からもう一度、言葉にしたいです」


 悠真は少しだけ目を伏せたが、すぐに頷いた。彩花は彼が落ち込んだのかもしれないと心配になったものの、彼は慌てて大丈夫だと言うのではなく、今の気持ちをゆっくり話してくれた。


「正直に言えば、今日すぐに答えを聞けたら嬉しいと思ってた。でも、彩花さんが自分で考えて返事をしたいって言ってくれたのも、嬉しいんだ。僕が好きになったのは、そういう彩花さんだから」


 彩花は胸の奥が熱くなるのを感じた。好きだと言われたこととは別に、自分が迷う理由まで大切に受け止めてもらえたのが嬉しかった。悠真は返事の期限を求めず、二人の関係を誰かへ説明することも、今はしないでおこうと提案した。


「ただ、僕の気持ちは変わらないよ。急いでほしいわけじゃないけど、なかったことにもしたくない。彩花さんが話したいと思ったときに、ちゃんと聞かせてほしい」

「……はい。そんなに長く待たせるつもりはありません。今日のことを自分の中で整理したら、私から話します」


 悠真は穏やかに微笑み、分かったと答えた。その瞬間、彩花の胸にあった緊張が、ゆっくりと落ち着いていくのを感じた。二人の気持ちは言葉になったが、交際を始める約束はまだしていない。その違いを二人とも理解したうえで、今日の時間を大切にできることが嬉しかった。


     ◇


 休憩所を出ると、園路には午後の光が斜めに差し込んでいた。彩花たちは歩きながら、さっきの話を無理に続けるのではなく、公園の奥にある小さな橋へ向かった。池の近くには水鳥が数羽浮かんでいて、人が通っても慌てずに水面を進んでいる。


 会話が途切れるたび、彩花は悠真の横顔を見た。彼はいつもどおり足元を確かめ、歩く速さを合わせてくれるが、さっき好きだと伝えてくれた人なのだと思うと、普段の何気ない動作まで少し違って見える。けれど、気を遣いすぎて話せなくなるのは嫌だったので、彩花は自分から花壇の色の話を始めた。


「さっきの黄色い花、近くで見ると真ん中だけ色が違ってましたね。私、遠くからだと気づきませんでした」

「うん。紫の方も、一つずつ形が違ったね。凛花さんに話したら、きっと興味を持ちそうだ」


 悠真は自然に答えたが、途中で少しだけ照れたように笑った。彩花も同じ気持ちだったため、二人は顔を見合わせて小さく笑った。さっきまでの会話をなかったことにはできないが、これまでの時間までぎこちなく変える必要はないのだと分かった。


 橋の近くでは、小さな女の子が落ちていた木の実を拾おうとしていた。近くの大人が手を伸ばし、園路の外へ出ないよう声をかけている。彩花は人の流れを妨げない場所へ寄り、親子が通り過ぎるのを待った。二人がまた歩き始めると、悠真が少しだけ声を落とした。


「彩花さん、さっきの話で一つだけ確認してもいい?」

「はい。何ですか?」

「僕、これからも普通に連絡していいかな。返事を待つ間、距離を置いた方がいいならそうするけど、勝手に決めたくなくて」


 彩花はすぐに首を横に振った。考える時間がほしいと言ったのは悠真と話したくないからではないし、好きだと伝え合ったあとに、会話をやめたいわけでもない。


「いつもどおり連絡してほしいです。私も、本を読んで面白かったこととか、文芸部のこととか、話したいです。返事を考えてるからって、悠真君と話さなくなるのは嫌です」


 悠真は安心したように頷いた。彩花はその表情を見て、彼が自分の気持ちだけでなく、相手が何を望むのかも確かめながら行動しようとしていることを改めて感じた。今の言葉を聞いてもらえたことで、次に返事を伝えるまでの日々を、余計な遠慮で埋めずに過ごせそうだった。


     ◇


 午後三時半を過ぎるころ、池の周りの風が少し冷たくなり始めた。彩花は手袋の中で指先が冷えてきたのを感じ、そろそろ帰りたいと伝えた。悠真は時計を確かめ、無理のない時間だねと頷き、入口まで一緒に戻ることにした。


 帰り道では、花壇の手入れをしていた管理員が道具を片づけていた。彩花は午前に話を聞かせてもらったお礼を伝えるため、邪魔にならない場所から軽く頭を下げた。管理員は二人に気づくと笑顔で会釈し、来月も少しずつ花の様子が変わるので、また見に来てくださいと声をかけてくれた。


「来月も、同じ花が咲いてるんですか?」

「株によって違いますけど、今より花が増えるところもありますよ。寒いあいだも少しずつ育ってますから」


 彩花はその説明を聞いて頷いた。次に来たとき、今日と同じ景色が見られるとは限らない。だからこそ、そのときに何が変わったのか確かめるのも楽しそうだと思った。


 公園の入口に戻ると、案内板の近くには何組かの家族が待ち合わせをしていた。彩花は鞄からスマートフォンを取り出し、凛花へ帰ることを伝える短い連絡を送った。悠真も家へ向かう時刻を確認し、二人は人の通行を妨げない少し離れた場所で立ち止まった。


「今日は、誘ってくれてありがとうございました。花もきれいでしたし、あの管理員さんの話も面白かったです」

「うん。僕も楽しかった。それに、話を聞いてくれてありがとう」


 悠真の声には、休憩所での会話を思い出しているような静かな緊張が残っていた。彩花は彼の目を見て、今日伝えたことをもう一度確かめたくなった。好きだと言えたことは、返事を先に延ばしたからといって変わらない。彼に伝える言葉を、最後まで自分で選んだのだ。


「悠真君。今日、好きだって言ってくれて、本当に嬉しかったです。私も好きです。そこは、ちゃんと覚えていてほしいです」


 悠真は驚いたように目を瞬かせ、ゆっくり笑った。彩花は頬が熱くなったが、今度は視線をそらさなかった。


「……うん。忘れないよ。僕も、ちゃんと覚えていてほしい」


 彩花は頷いた。手をつなぐことも、急に特別な呼び方へ変えることも、今日はしなかった。交際の返事をまだ決めていない以上、相手が望んでいるか確かめずに距離を縮めるのは違うと思ったからだ。けれど、離れて歩き始める前に笑い合えたことが、今は何より嬉しかった。


 別れ際、悠真が少しだけ足を止めた。


「彩花さん。次に話すときは、僕も恋人として何を大切にしたいか、もう少し考えておくよ。今日、好きだって伝えられたから終わりにしたくないから」

「……はい。私も考えます。でも、考えるだけじゃなくて、私からちゃんと伝えに行きます」


 その返事に、悠真は柔らかく笑った。二人はそれぞれ帰る方向へ歩き始め、彩花は数歩進んだところで振り返った。悠真も同じタイミングでこちらを見ていたため、思わず二人とも笑ってしまった。


     ◇


 帰宅すると、居間では凛花が植物の本を開いていた。彩花が公園で見た葉牡丹やパンジーのことを話すと、姉は興味深そうに聞き、冬のあいだにも少しずつ姿が変わるという管理員の説明に頷いた。彩花は途中までいつもどおり話せたが、休憩所で悠真と交わした言葉を思い出すと、声が少しだけ止まってしまった。


 凛花はその変化に気づいたらしく、本を閉じて彩花の方を向いた。


「彩花。何かあった?」

「……うん。お姉ちゃん、少し話してもいい?」


 彩花が頷いてもらうと、向かいの席へ座った。悠真が自分を友達としてだけでなく好きだと伝えてくれたこと、恋人として付き合いたいと思っていると話してくれたことを、できるだけ落ち着いて説明した。凛花は驚いたように目を見開いたが、途中で茶化すことはせず、最後まで耳を傾けてくれた。


「……それで、彩花はどう答えたの?」

「私も好きだって言った。でも、付き合うかどうかは少し考えてから、もう一度私の言葉で返事をしたいってお願いしたの」


 凛花はゆっくり頷いた。嬉しいことなのに迷っているのかと尋ねられるかもしれないと、彩花は少しだけ不安だった。けれど、姉が最初に聞いたのは、何が怖いのかではなく、どんなふうに付き合っていきたいと思っているのかだった。


「私は、悠真君と会いたいし、これからも一緒に過ごしたい。でも、恋人になったからって、私が自分のやりたいことを全部変えたり、悠真君に何でも決めてもらったりするのは違うと思う」


 彩花は自分の考えを言葉にしながら、学校のこと、文芸部のこと、互いの家族のことを話した。悠真は自分を守ろうとしてくれるが、写真が広まったときのように、本人の意思を確かめずに何かを決められるのは嫌だと伝えてきた。そのことを彼も理解し、最近は必要なときに聞いてくれるようになっている。


「だから、恋人になってもそこは変えたくないの。私は私でいたいし、悠真君にも自分のことを大切にしてほしい。でも、好きだから、今よりもっと近くで話したい」


 凛花は少し考えたあと、彩花の手元へ温かいお茶を寄せた。


「だったら、そのまま伝えればいいんじゃないかな。恋人になるって、急に別の人になることじゃないでしょう。何を変えたいのか、何を変えたくないのか、二人で話せばいいと思う」


 彩花はその言葉を聞き、少しだけ肩の力が抜けた。恋人という言葉の意味を、誰かが決めた形へ合わせなければならないと思っていたのかもしれない。けれど、これまでも二人は、写真の取り扱いや会う時間を、自分たちで相談して決めてきた。


「……お姉ちゃん、ありがとう。私、もう少しちゃんと考えて、次は自分から話したい」

「うん。彩花が自分で選んだ答えなら、私は応援するよ」


 凛花は優しく笑い、それ以上詳しく聞こうとはしなかった。彩花はその距離感に安心し、話を聞いてもらえたことへの礼を伝えて自室へ戻った。


     ◇


 自室の机には、手作り市で交換した紺色のカードが置かれていた。彩花はコートを脱いでからそれを手に取り、悠真が少し不揃いな点の模様を見ていたときの顔を思い出した。彼は自分の好きなものを選ぶときにも、きれいに仕上げようと考え込むことがある。けれど、誰かが違う見方を伝えると、すぐ否定せずに聞いてくれる人でもあった。


 彩花は手帳を開き、今日聞いた言葉を書き留めようとしたが、途中でペンを止めた。悠真が言ってくれた「好きだ」という言葉を、誰かに見せるための記録にしたいわけではない。忘れないように残しておきたい気持ちと、今は自分の中で大切に持っていたい気持ちの両方があった。


(今日は、全部を書かなくてもいいかな。忘れたくないけど、書いて残す以外の大切にし方もあるもんね)


 彩花は代わりに、自分が考えていることを短く書き出した。相手に会いたいと伝えること、予定が合わないときは無理をしないこと、困ったことがあれば本人へ相談すること、家族や学校のことを大切にすること。そして、好きだという気持ちを理由に、どちらかが一方的に我慢する関係にはしたくないということだった。


 書き終えると、胸の中にあった迷いが少し整理できた気がした。自分は悠真と恋人になりたくないのではない。むしろ、恋人として向き合いたいからこそ、ただ名前だけを変えるのではなく、どう過ごしていきたいのかを二人で確かめたかった。


 彩花はスマートフォンを取り出し、悠真とのメッセージ画面を開いた。今日の礼はすでに伝え合っているが、次にいつ話すかまでは決めていない。返事を考える時間をもらったからといって、何日も一人で抱え込む必要はないと思った。


『悠真君、今日はありがとうございました。少しだけ考えが整理できたので、今週、学校が終わったあとに電話で話せる日がありますか?』


 送信すると、数分後に返事が届いた。悠真は水曜日の夕方なら生徒会の予定がないと説明し、彩花の都合がよければその時間に話したいと書いてくれた。彩花は自分の文芸部の予定を確かめ、帰宅して落ち着いてからなら大丈夫だと答えた。


『分かった。水曜日の午後七時ごろにしよう。彩花さんの話を、ちゃんと聞きたい』


 彩花はその文章を読み、小さく息を吸った。今すぐ返事を伝えようと思えば、メッセージでもできるかもしれない。それでも、自分の声で話し、悠真の返事も声で聞きたいという気持ちがあった。


『はい。私から話したいことがあります。そのとき、聞いてください』


 送信してから手帳へ水曜日の予定を書き込み、机の端に置いたカードをもう一度見た。紺色の点は相変わらず不揃いで、一つとして同じ形ではない。今日、悠真が伝えてくれた気持ちも、自分が話した気持ちも、誰かと同じ形へそろえる必要はないのだと思えた。


     ◇


 同じ夜、悠真は九条家の自室で、彩花から届いた最後のメッセージを読み返していた。自分の気持ちを伝え、彼女からも好きだと聞けたことは、まだ少し信じられないほど嬉しかった。一方で、恋人として付き合うかどうかの返事は、彩花が自分で考えてから伝えたいと言っている。その違いを大切にしようと決めていた。


 悠真は机の上の青緑の葉のカードへ目を向けた。彩花が手作り市で作り、彼に持っていてほしいと言って渡してくれた一枚だ。好きだと言われる前から、それを大切に感じていたことを思うと、自分が彼女の返事を急ぎたいのは、相手を大事にしたいからなのか、それとも自分の不安を早くなくしたいからなのか、少し考える必要があると分かった。


(彩花さんが好きだって言ってくれた。それだけで十分嬉しい。次の答えは、僕が欲しい形に合わせてもらうものじゃない)


 彼は手帳を開き、水曜日の予定を記した。桜華学園の執行部の仕事は正式な担当が決まり、引き継ぎも今のところ予定どおり進んでいる。彩花と話すために何かを無理に後回しにする必要はなく、自分の時間として約束を入れられることが嬉しかった。


 机の引き出しには、完成させた短い随筆がある。図書館で本を選ぶ少年が、誰かと会うことを楽しみにするようになる話だった。悠真はそれを取り出し、結末を読み直したが、今日はもう書き換えようとは思わなかった。文章にできなかった気持ちは、今日、自分の声で彩花へ伝えられたからだ。


 彼は紙を静かにしまい、窓の外の街明かりへ目を向けた。水曜日、彩花がどんな答えを伝えてくれるのかは、まだ分からない。けれど、あの公園で彼女が自分の意思を確かめながら話してくれたことを思い出すと、次の言葉もきっと大切に受け取れる気がした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。