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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第179話 誰かの言葉で決まらない、私たちの距離


 日曜日の午前、水瀬彩花は机の端に立てかけた小さなカードを手に取り、紺色の点が並んだ模様を窓からの光にかざしていた。昨日、青凪駅前の手作り市で九条悠真が自分で刷り、帰り際に渡してくれた一枚で、点の間隔は少しだけ不揃いだった。きれいにそろわなかったことを本人は最初気にしていたけれど、彩花にはその不揃いなところも、二人で作業台を囲んだ時間を思い出させてくれる大切な部分に見えた。


 悠真に渡した自分のカードには、青緑の葉の模様を刷っている。買ってもらったものでも、記念品として用意されたものでもなく、二人が別々に選んだ模様を、あとから互いに持っていてほしいと思って交換したのだった。彩花はその順番を思い返し、誰かと同じものを持つためではなく、それぞれが好きだと思ったものを相手へ渡せたことが嬉しかったのだと気づいた。


(悠真君の好きなものを、もっと知りたい。私の好きなものも知ってもらいたいけど、それだけじゃないんだよね)


 昨日の帰り道、次は何をするか決まっていなくても会いたいと、二人は互いに伝えている。言ってしまえば短いやり取りだったのに、彩花の中では、それまで本や調べ物を理由に会っていた時間とは少し違う意味を持ち始めていた。彼と過ごしたいという気持ちの方が先にあって、その日に何をするかは、あとから二人で選べるものになったのだ。


 机へカードを戻したとき、扉が軽く叩かれた。凛花が顔をのぞかせ、洗濯物を片づけるついでに昨日買ってきた巾着の使い心地を聞いてきたので、彩花は鞄の内ポケットから紺色の巾着を取り出した。小さな消しゴムや付箋を入れてみたらちょうどよかったと説明すると、姉は内側の縫い目まで丁寧に作られているのを見て、いい買い物をしたねと笑った。


「それで、交換したカードはどこに飾ったの?」


「……どうして交換したって分かるの?」


「昨日、悠真君が作ったものだって話してくれたでしょう。彩花の作った方は、鞄に見当たらなかったから」


 凛花は何でもないことのように答えたが、彩花は少しだけ頬が熱くなった。姉はカードを見せてもらうと、葉の模様ではなく紺色の点を選んだ悠真の好みが分かって面白いと言い、それ以上二人の関係に名前をつけようとはしなかった。彩花も、今日は自分から詳しく説明したい気持ちになれず、カードを元の場所へ戻してから、机に広げていた新しい短編の原稿へ目を向けた。


 冬の部誌に収めた作品とは別に書き始めた短編は、昔の約束に関係する鍵を持つ少女が、友人からの頼みを断る話だった。先週、部員の友人に読んでもらったおかげで、断るまでの迷いと、断ったあとも別の形で相手を助ける行動がつながり、今は最後の言葉を整える段階に入っている。彩花は原稿を一度声に出さずに読み、少女が相手の返事を聞いてから自分の希望を伝える箇所に、ほんの少しだけ言葉を足した。


 書き終えたあと、彩花は紙の右上に小さく日付を入れた。完成した部誌を図書室へ置けたことが嬉しかったからといって、次の作品も急いで人に見せる必要はない。まずは自分が納得できる一編にし、それから読みたいと言ってくれた友人へ渡そうと決めた。


     ◇


 月曜日の青葉高校では、朝の連絡が終わったあと、写真や個人情報の取り扱いに関する注意が改めて伝えられた。彩花の名前が読み上げられることはなく、教員は無断で撮った写真を送らないこと、出所の分からない画像に説明を付けて広めないこと、困った場合は自分で送り主を追いかけずに相談することを簡潔に話した。以前も似た内容の掲示を見たけれど、今日は校内で起きた具体的な問題に対して、学校が対応を続けているのだと彩花には分かった。


 昼休み、文芸部の友人と図書室へ行くと、展示台には冬の部誌がいつもどおり並んでいた。借りた人が返した一冊には貸出用の札が挟み直され、紹介文の下には小さな感想カードの案内が添えられている。彩花が自分の署名を見ても落ち着いていられるようになったのは、校内の展示と学校外の広報で公開範囲を分けることを、自分で決めて伝えられたからだった。


「水瀬さん、昨日の手作り市、どうだった?」


 友人に尋ねられ、彩花は少し迷ってから、紙に模様を刷る体験をしたことを話した。悠真と一緒に出かけたこと自体は隠すつもりがなかったが、彼が渡してくれたカードのことまで、どこまで話すかは自分で決めたかった。店の人が印刷の仕組みを教えてくれたことや、最初の一枚では葉の先が濃くなったことを説明すると、友人は面白そうだと目を輝かせた。


「九条君も一緒だったんだよね。……ねえ、前から聞こうか迷ってたんだけど、二人って、もう付き合ってるの?」


 彩花は手に持っていた本を棚へ戻すところで動きを止めた。質問した友人は冷やかすような表情ではなく、答えに困るなら聞かなかったことにするとすぐ付け加えたが、彩花はその場を曖昧に笑って流したくなかった。噂の写真が広まってから、誰かに関係を勝手に説明されることが何より嫌だったのだから、自分が知っていることだけを言えばいいと思った。


「……付き合ってはいないよ。でも、私にとってすごく大切な人なの。だから、今の関係も私たちで決めたいと思ってる」


 友人は一瞬目を丸くしたあと、柔らかく頷いた。彩花の顔をのぞき込んで続きを聞くこともなく、分かった、勝手に言いふらしたりしないよと答えてくれた。その反応がありがたくて、彩花は本を棚へ戻してから、少し照れたまま礼を言った。


「ごめんね。誰かから言われたから聞いたわけじゃなくて、最近の水瀬さんが楽しそうだから、気になっちゃって」


「ううん。聞いてくれたから、私も自分でちゃんと考えられた気がする。ありがとう」


 図書室を出るころには、彩花の胸に残っていた緊張は少し落ち着いていた。交際していないという事実を言葉にしても、悠真と一緒に過ごした時間が薄くなるわけではない。むしろ、今の自分にとって彼が大切な人だと伝えられたことが、まだ本人に話していない気持ちの輪郭を少しだけはっきりさせた。


     ◇


 同じ月曜日の放課後、私立桜華学園では、悠真が生徒会執行部の引き継ぎ資料を確認していた。教室利用の予定が重なったときの連絡手順は、担当者同士で直接確認できる形式に変わり、先週試したところ大きな混乱なく使えた。正式な来年度の人選は今週中に通知される予定だが、悠真は選ばれた場合も、今の仕組みを一人で抱え込まずに続けることを条件に引き受けたいと伝えてある。


 その日の作業を終えかけたところで、担当教員から別の話があった。青葉高校との連絡を通じ、写真に付けられていた二種類の文章のうち、まだ出所が分かっていない方について、新しい記録が見つかったという。九条家に近づけば誰でも特別扱いされると思っているのか、という趣旨の侮辱的な文が、桜華学園の一部生徒が利用していた非公式の交流掲示板へ投稿されていたことが確認できたのだった。


「書き込みは管理者が保存したうえで非公開にしました。公開されていた時刻と、利用されていたアカウントの表示名までは確認していますが、今の段階で投稿者本人を特定できたわけではありません」


 教員はそこをはっきり区別して説明した。掲示板の投稿日時は、文章のない写真を受け取ったという記録が確認されている日曜日より後だったが、同じ文章がそれ以前に別の場所で使われていなかったと証明できるわけではない。使われたアカウントが誰のものかも、表示名だけで判断せず、管理者や関係する生徒への確認を学校側で進めるという。


 悠真は机の上で指を組み、説明を最後まで聞いた。第一の虚偽の文章については、青葉高校側で作った人物が申し出て訂正が進んでいる。今回見つかったのは別の侮辱的な文の掲載先であり、それを同じ人物が書いたと考える理由はまだなかった。


「掲載していた場所が一つ分かったのは大きいと思います。ただ、その文を見た人へ訂正や注意を届けることはできるんでしょうか。書き込んだ人が分かるまで、そのままにする必要はないですよね」


 教員は頷き、管理者が掲示板の利用者へ、本人の了解なく撮影された画像と根拠のない文章が掲載されたことを知らせ、画像を保存・転送しないよう注意を出すことになったと説明した。学校としても、個人への憶測や侮辱を広めないよう指導するが、掲示板の利用者名簿を無理に集めることや、個人端末を調べることはしない方針だという。


「九条君にもお願いがあります。この情報を聞いて、特定の誰かを疑って声をかけるのは避けてください。必要な確認はこちらで進めます」


「分かりました。僕が知りたいのは相手を言い負かすための名前じゃなくて、同じことが続かないようにできることです」


 教員はその答えを聞き、学校間で共有できる範囲が整理できたら青葉高校へ正式に知らせると約束した。悠真は礼を言って部屋へ戻り、手帳の空いたページに、確認済みの事実と未確認の内容を分けて記した。今は相手を探すよりも、文章が新たに広がる場所を一つ減らせたという成果を大切にしたかった。


     ◇


 火曜日の昼休み、彩花は文芸部の顧問から、写真に関する学校間の確認について説明を受けた。桜華学園側で見つかったのは、九条家への接近を揶揄する文章を含んだ掲示板の投稿で、管理者が記録を保存し、投稿を非公開にしたという。投稿した人物は未確定で、撮影者との関係も分かっていないが、少なくともその場所から新しく画像を見られる状態は止められた。


 彩花は説明を聞き、以前に見た侮辱的な言葉を思い出した。文芸部の費用についての虚偽の説明は訂正が始まっているが、こちらの文章は彩花自身がどんな人間なのかを、勝手に決めつけているものだった。誰かの名前や家柄に近づけば得をすると思っていると書かれたことが、改めて胸の奥に重く残った。


「……その書き込みをした人が分かるまでは、私には何もできないんでしょうか」


 顧問はすぐには否定しなかった。彩花が相手を探す必要はないが、どんな言葉で困り、何を望んでいるかを学校へ伝えることはできると説明した。単に『嫌な噂だった』とまとめるのではなく、具体的な被害や不安が分かれば、学校同士で対応を考えるときにも役立つという。


 彩花は少し考え、放課後までに自分の気持ちを書いた文章を用意したいと申し出た。画像の送り先や投稿者を知ろうとするためではなく、事実ではない説明がどんな影響を与えたかを、ほかの人の推測ではなく本人の言葉で残したかったのだ。


「書いてみてから、どこまで共有するかを相談してもいいですか。私が書いたことが、勝手に別のところへ載るのは避けたいです」


「もちろんです。校内での相談資料と、相手の学校へ伝える内容は分けて確認しましょう。今すぐ全部を出す必要はありません」


 彩花は礼を言い、相談スペースを出た。階段を下りる途中、先週手作り市で店主に写真を撮ってよいか尋ねられた場面が頭に浮かんだ。何を撮るのか説明を受け、自分で条件を伝えたから落ち着いて了承できたのと同じように、今回も何を誰に伝えるかを考えてから決めればいいのだと思えた。


     ◇


 火曜日の放課後、彩花は文芸部の部室で、新しい短編の原稿とは別の紙を広げた。友人たちが次の作品について相談している間、彩花は顧問へ伝える文章の下書きを書き、何度か読み直してから言葉を整えた。誰かを責める強い言葉を並べることより、自分が何に困ったのかを正確に伝えることを優先したかった。


 最初に書いたのは、写真が撮られた場面についてだった。中央図書館へ本を読みに行き、友人と一緒に帰ったというだけの出来事が、本人の了解のないまま画像として広まったこと。次に、文芸部への資金援助という虚偽の説明によって、自分や部員たちの制作活動まで疑われたことを書いた。


 そして最後に、もう一種類の文章について書いた。相手の家柄を利用しようとしているという決めつけを見たとき、好きな本を通じて知り合った相手との時間まで、何かの見返りを求める行動として扱われたようで悲しかった。自分の気持ちを知らない人に説明されるのは嫌だったし、その言葉を見て、会いたい人に会うことをためらいかけたこともあった。


(……これは、ちゃんと残したい。私は誰かから特別扱いしてもらうために、悠真君と会っているわけじゃない)


 彩花はペンを置き、最後の一文を読み返した。けれど、ただ相手の主張を否定するだけの文章にはしたくなかった。相手に何をしてほしいのか、自分にとって何が必要なのかも記しておけば、学校側が対応を考えるときに意思を伝えられるはずだった。


 彩花は、撮影した人物と文章を加えた人物を分けて確認してほしいこと、確認できた事実に基づいて誤った説明を訂正してほしいこと、誰かの私的な関係を本人に断りなく面白半分に扱わないよう指導してほしいことを書き加えた。直接の謝罪を求めるかどうかは現時点では決めず、まずは拡散を止める対応を続けてほしいと結んだ。


 隣の席で作業をしていた友人が、彩花の表情を見て小さく声をかけた。彩花が書いているものの詳しい内容までは話さず、先生へ渡すために自分の考えを整理していると伝えると、友人はそれ以上の説明を求めなかった。


「そっか。書いてから少し落ち着いた?」


「……うん。誰かにどう思われたかばかり考えてたけど、私自身が何を嫌だったと思ったのか、ちゃんと書けた気がする」


「だったらよかった。必要なときは、部誌のことで私たちも困ってたって、先生に伝えられるからね」


 彩花は礼を言い、書いた紙を二つ折りにして手帳へ挟んだ。部員たちへの影響と自分個人への影響を混ぜずに考えられたことが、少しだけ安心につながっていた。


     ◇


 水曜日の朝、彩花は完成した文章を顧問へ渡した。顧問はその場で内容を詳しく聞き出そうとはせず、彩花が希望した共有範囲を確認した。氏名は学校間の必要な連絡では伏せられない場合があるが、掲示板の利用者や一般の生徒へ文章そのものを公開することはしないという取り扱いに、彩花も納得して了承した。


「事実確認の資料として、必要な担当教員の間で共有してください。でも、私の言葉をそのまま相手の人へ転送する前には、もう一度相談してほしいです」


「分かりました。その区別は記録しておきます。学校からの注意や訂正も、本人の文章を無断で引用する形にはしません」


 顧問は内容を保管し、青葉高校で確認している事実と、彩花自身が受けた影響を区別して、必要な範囲を桜華学園へ伝えると説明した。彩花はその言葉を聞いて頷き、教室へ戻った。大きな声で抗議したわけでも、誰かへ直接言い返したわけでもないが、今日の自分は以前より一歩進めたように感じた。


 昼休み、校内図書室へ冬の部誌を見に行くと、司書が新しい感想カードを数枚まとめていた。彩花は自分の作品についての感想があるかもしれないと思ったものの、今は無理に探さず、学校司書が顧問へ共有してくれるのを待つことにした。書くことは彩花にとって大切だが、いつでも誰かの評価を確かめ続ける必要はない。


 図書室の机で新しい短編を開くと、友人が指摘してくれた箇所に小さな印がついていた。主人公が頼みを断ったあと、友人と一緒に別の方法を選び直す場面で、台詞の前に一つだけ動作を加えると、二人の気持ちの変化が前より自然につながった。彩花はその修正を終え、原稿の最後へ小さく「第一稿完了」と書いた。


 すべての推敲が終わったわけではないが、始まりから結末まで一つの物語として通して読める状態になった。帰りには友人へ読んでもらう約束をして、必要な部分だけ直そうと思った。写真の問題に対応しながらでも、自分が書きたいものを最後まで書けたことが、今の彩花には確かな自信になっていた。


     ◇


 同じ水曜日の午後、桜華学園では生徒会執行部の来年度の体制について、担当教員から正式な連絡があった。悠真は事前に希望を伝えていた連絡調整の担当候補として選ばれ、補助の生徒も別に配置されることになった。最終的な引き継ぎは現担当者の確認を受けながら進めるが、来年度の担当として準備を始めることが正式に決まったのだった。


 悠真は教員へ礼を言い、共有表の運用を続けるための引き継ぎ日程を確認した。以前なら、自分が選ばれたことを、期待に応える仕事が増えたという気持ちだけで受け止めていたかもしれない。今は、役割を引き受けたいと思う理由を自分で確かめ、必要な分担について話し合ったうえで選ばれたことが嬉しかった。


 準備会議では、補助の担当者からも意見が出た。行事前の連絡をまとめる日は、試験期間と重ならないようにしてほしいという希望で、悠真はすぐに予定表を開き、定例確認の時刻を調整できるか担当教員へ相談した。誰かが困ったとき、自分だけが頑張るのではなく、仕事の方法そのものを見直せるのが今回の役割の良いところだと感じた。


 会議を終えた悠真は、廊下の窓際で手帳を開いた。彩花に最初に相談したときは、引き受けるかどうかさえ迷っていたが、今は正式な担当として何をすべきかがはっきりしている。その結果を早く伝えたいと思ったが、彼女の授業が終わってからにしようと決め、まずは自分の学校の仕事を済ませた。


     ◇


 木曜日の夕方、彩花は悠真から届いた二つの知らせを読んでいた。一つは、来年度の生徒会執行部で連絡調整の担当が正式に決まったこと。もう一つは、例の掲示板の投稿が非公開になり、利用者へ注意が送られたことを、桜華学園側でも確認できたというものだった。


『担当の仕事は、補助の人と分ける形で始めるよ。前みたいに全部自分で何とかしようとは思ってないから、そこは安心して』


 彩花は思わず微笑んだ。迷っていたことを自分に話してくれた日から、悠真は実際に先生へ確認し、仕事の条件を整理し、納得して引き受けるところまで進んだ。彼が自分で決めた結果を、自分へ伝えたいと思ってくれたことも嬉しかった。


『正式に決まったんですね。おめでとうございます。悠真君が自分で考えて選んだお仕事ですし、私も応援したいです』


 しばらくして返事が届き、悠真は彩花が青葉高校へ伝えた意見について、学校から必要な範囲だけ共有されていることを話した。本人の名前や詳しい文章が掲示板の利用者へ公開されたわけではなく、学校として根拠のない説明で人を傷つける行為を指導するために使われるという。


『彩花さんが嫌だったことを、学校にきちんと伝えられてよかったと思う。僕も自分の側で言えることがあれば、先生に話すよ』


 その言葉に、彩花は少し安心した。悠真は彼女の代わりに誰かを責めようとはせず、自分が知っている範囲で話すという姿勢を保ってくれている。二人が別々の学校に通っているからこそ、確認できることと、本人にしか分からないことを分けて考える必要があった。


 彩花は写真の問題についての話を終えると、完成した短編の第一稿について伝えた。悠真は嬉しそうに祝ってくれたが、すぐに読ませてほしいとは言わなかった。彩花が今は部員の友人に先に読んでもらいたいと説明すると、彼はその順番がいいと思うと答え、どんなところを直すことになったか、あとで聞かせてほしいと返してくれた。


(悠真君は私の書くものを楽しみにしてくれる。でも、いつでも最初に見せなきゃいけないわけじゃないって、ちゃんと分かってくれてるんだ)


 自分が大切にしていることを尊重してもらえる安心感は、会っているときだけでなく、会わない時間にも少しずつ積み重なっている。彩花はそのことを嬉しく思いながら、机の上の紺色のカードへ目を向けた。


     ◇


 金曜日の放課後、文芸部では彩花の新しい短編を読んだ友人が、最後の場面について感想を伝えてくれた。主人公が自分の希望を言い切ったあと、相手が納得するまでに少し時間がかかるところが自然だったという。一方で、鍵についての説明は最後に一度だけ明らかになるため、前半にもう一つ小さな手がかりがあると読みやすいかもしれない、とも言ってくれた。


 彩花は原稿の前半を開き、以前に鍵を大切にしまったときの記憶を、直接説明せずに物の扱い方として見せる場面を加えることにした。主人公が鍵を受け取ったときに包まれていた布を今でも使っているという描写なら、その物が単なる道具ではないことを自然に伝えられる。彩花は友人と相談して該当する段落を書き直し、最後まで読み返してから第二稿としてまとめた。


「……うん。今度は鍵のことが、前より気になりながら読める気がする」


「ありがとう。最初は全部説明した方がいいと思ってたけど、読む人が何を気にするのか聞いて、考え方が変わったよ」


 友人は笑顔で頷き、原稿を丁寧に返してくれた。彩花はすぐに次の書き直しへ進まず、今日はここまでにしようと決めた。伝えたいことが形になった以上、ただ不安だからという理由で何度も直し続けるのではなく、少し時間を置いて読み返してみたかった。


 部室を出ると、廊下の窓から冬の夕日が差し込んでいた。写真に関する確認は続いているが、学校同士の対応が少しずつ進み、虚偽の説明や侮辱的な投稿が広まる場所も減っている。それだけで嫌な気持ちが消えたわけではないものの、自分の生活に必要なことを一つずつ選べるようになっていると、彩花は感じた。


     ◇


 金曜日の夜、悠真から次の週末について連絡が届いた。手作り市で別れたとき、次はどちらから誘うか分からないねと笑ったことを覚えていたらしく、今度は自分から会いたいと言ってもいいか尋ねてきた。彩花はその文章を読み、思わず笑みをこぼした。


『もちろんです。悠真君は、どこか行きたいところがあるんですか?』


 送ると、悠真からは少し考えたような返事が届いた。画面に浮かんだ返事は、候補をいくつも並べるのではなく、彼自身が選んだ一つの場所を示していた。


『市民公園の冬の花壇がきれいだって聞いたんだ。天気がよければ少し歩いて、そのあと温かい飲み物でもどうかな。何か調べたり、買ったりする予定はなくていいと思ってる』


 彩花はカレンダーを確認した。翌週の日曜日の午後には予定がなく、凛花にも相談すれば帰宅の時間を合わせられそうだった。休日の公園へ行くというだけの約束なのに、手作り市のときよりも少し胸が高鳴った。


『行きたいです。日曜日の午後なら空いています。何時くらいがいいですか?』


『午後一時に公園の入口でどうかな。寒かったら無理に長く歩かず、途中で帰ってもいいから』


 彩花は頷き、待ち合わせ場所と帰宅の目安を確認した。人の多いところで会うことについては先週も話し合っていて、心配なことがあればその場で伝えると決めている。今回も同じように、相手の意思を確かめながら過ごせばよいと思った。


 予定が決まったところで、悠真からもう一通届いた。時刻を確かめるための短い確認とは違い、画面には少し長い文章が表示されていた。


『この前、文章にしなかったことも話したいって言ったでしょう。まだうまく言葉にできるか分からないけど、日曜日は少し聞いてほしいと思ってる』


 彩花はスマートフォンを両手で持ち、画面を見つめた。以前、図書館で悠真が見せてくれた短い文章には、本を選べる場所が好きだった少年が、いつの間にか一人の相手に会うことを楽しみにするようになったと書かれていた。その先にある言葉を、悠真はまだ自分の中で探しているのだろう。


(私も、何を言いたいのか全部分かってるわけじゃない。でも、悠真君にちゃんと向き合いたい)


 彩花は少し考え、今の自分が答えられる範囲で返信した。何を聞かされるか決めつけたくなかったので、まずは最後まで耳を傾けることを約束しようと思った。


『はい。私も、悠真君に話したいことがあります。急がなくていいので、お互いに自分の言葉で話せたら嬉しいです』


 悠真からの返事はすぐには届かなかった。彩花は待つ間、机の上の短編を見つめた。主人公が相手の返事を聞いてから自分の希望を伝える場面は、何度も直した末にようやく納得できる形になったところだった。


 しばらくしてスマートフォンが震えた。悠真からは、短いけれど静かな熱のこもった言葉が届いていた。


『ありがとう。日曜日は、僕からちゃんと話すよ。彩花さんに聞いてもらいたいから』


 彩花は文章を読み返し、少しだけ頬を熱くした。彼が何を伝えるつもりなのかは、まだ本人の口から聞いていない。それでも、何か大切なことを話そうとしているのは分かったし、自分もそこから目をそらしたくなかった。


 彩花は手帳を開き、日曜日の約束の横へ、場所や時刻とは別に一行だけ書き加えた。『話を聞いてから、自分の気持ちを話す』という短い言葉だった。相手の答えを先に決めず、自分の答えも誰かの言葉に任せないための、小さな約束にしたかった。


 書き終えると、彩花は机に立てかけた紺色のカードへ目を向けた。少し不揃いな点が並ぶその一枚は、彼が何を好きで、どんなふうに手を動かしたのかを思い出させてくれる。次に会ったとき、彼の言葉を聞いて自分が何を感じるのかはまだ分からないが、今の彩花には、一つだけはっきりしていることがあった。


(私は、悠真君と一緒にいたい。友達という言葉を大切にしてきたけど、その先を考えたいと思ってる)


 彩花はその気持ちを、今度は曖昧に打ち消さなかった。日曜日にどんな話が待っていても、彼の言葉を最後まで聞き、自分が本当に望んでいることを伝えようと決めた。

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