第178話 理由を持たない午後に、二人で選んだもの
土曜日の朝、水瀬彩花は机の上に置いた手帳を開き、今日の予定を確かめた。午後一時、青凪駅前の案内所前で九条悠真と待ち合わせ、その近くで開かれる手作り市を一緒に見て回る。書いてあるのはその二行だけで、図書館で探す資料の名前も、紹介する本の順番も、今回はどこにも載っていなかった。
前の晩、何か話題を考えておいた方がいいのだろうかと迷い、手帳に書きかけた言葉を消した。悠真の話を聞くことも、自分のことを話すことも好きだが、会うために毎回理由を用意する必要はないと、二人で話したばかりだったからだ。気になる店があれば立ち止まり、寒くなったら温かい飲み物を買うくらいの余裕を残しておきたかった。
(でも、何も決めていないって、ちょっと緊張するな。いつもなら、次に何をするかは本や資料が教えてくれたのに)
彩花は鞄の中を確かめ、財布と手帳、スマートフォン、それから小さな布の買い物袋だけを入れた。先週までは郷土資料を写し取ったメモや分厚い小説を持ち歩くことが多かったので、荷物が軽いこと自体が新鮮だった。今日は何か買うと決めているわけではないが、店の人が作ったものを持ち帰るなら、できるだけ丁寧に扱いたいと思った。
朝食の席で凛花にそのことを話すと、姉は飲み物の入ったカップを置き、少し不思議そうに笑った。
「彩花、本当に何も調べてないの? いつもなら、行く前にお店の案内を全部読んでそうなのに」
「開催時間と場所は見たよ。でも、どの店に行くかは悠真君と決めようと思って。せっかく一緒に行くんだから」
「いいと思う。もし植物の鉢を売ってる店があっても、私のことは気にしなくていいからね。今日は彩花が楽しんできて」
凛花はそう言ってから、外が冷えるので手袋を持つよう勧めた。彩花は素直に頷き、姉が欲しがっていた植物の鉢を無理に探すつもりはないと伝えた。ただ、見ていて本当に似合いそうなものがあれば教えるかもしれない、と付け加えると、凛花はそれなら話を聞くのを楽しみにしていると答えた。
出かける前、彩花は鏡の前で淡い灰色のコートを羽織り、紺色のマフラーを巻いた。昨日の夜から服装を何度も考えていたわけではないが、鏡を見たとき、今日は少し歩きやすい靴を選んでよかったと思った。駅前の広場には屋外の店が並ぶという案内だったので、足元を気にせず動ける方が楽しめそうだった。
玄関で靴を履きながらスマートフォンを確認すると、悠真から『予定どおり一時に案内所前で。僕も今から向かうよ』という連絡が届いていた。彩花は『私も出ます。今日はよろしくお願いします』と返し、扉を開けた。冷たい風が頬に当たったが、空は明るく、遠くに広がる薄い雲の間から冬の日差しが差し込んでいた。
◇
青凪駅前の広場には、小さな布の旗がいくつも揺れていた。木製の看板を立てた店、色とりどりの布を並べた店、焼き菓子の匂いが漂う店が通路の両側に並び、中央には休憩に使えるベンチが用意されている。彩花は案内所の前へ着くと、混雑を避けて少し端へ寄り、時計を確かめた。
まだ約束まで五分ほどあった。店の並びを遠くから眺めていると、焼き色のついたパンを袋へ詰める人や、小さな陶器を手に取って底を確かめている人の姿が見えた。図書館の中では静かに過ぎていく休日が、ここでは誰かの声や手の動きによって形を変えているようだった。
「彩花さん、こんにちは」
声がした方へ振り返ると、悠真が濃い色のコートにマフラーを合わせて立っていた。いつもと変わらない落ち着いた服装だったが、彼の視線が通りの先の店へ移っては戻る様子に、彩花は少しだけ嬉しくなった。自分だけでなく、悠真もまだ知らないものを見つけるのを楽しみにしているらしい。
「こんにちは、悠真君。今日は本当にいい天気ですね。寒いですけど、歩いてたら温まりそうです」
「うん。思ったより店が多いね。案内を見てきたけど、実際に並んでると印象が違うな」
悠真が広場を見渡したあと、どこから見たいか尋ねてくれた。彩花は入口に近い方から順に歩いて、気になったところで止まろうと提案した。彼はすぐ頷き、二人は人の流れを妨げないよう歩き始めた。
最初に立ち寄ったのは、手織りの小物を並べた店だった。小さな巾着やコースターには似た色の糸が使われているのに、光の当たり方で表情が変わり、彩花は一枚の布を作るのにどれほど手がかかるのだろうと考えた。店の人が、糸の色は同じでも織り方によって模様が違って見えると説明してくれたので、二人は許可をもらって手に取り、表と裏の違いを確かめた。
「きれいですね。私、同じ色でもこんなに違って見えると思いませんでした」
「布って、遠くから見たときと近くで見たときで印象が変わるんだね。実物を触ると、写真だけでは分からないところも多い」
悠真はそう言いながら、青みの強い糸で織られた小さなコースターを選び、いったん棚へ戻した。彩花は彼がすぐ買わなかったことに気づいたが、どうしてかを尋ねるのはやめた。買い物をするためだけに来たのではないし、気に入ったものを見つけても、持ち帰るかどうかは本人が決めればいい。
隣の店では、小さな木の道具が並んでいた。机の上で使うカード立てや鍵置きのほか、木目を生かした浅い皿があり、悠真はその中の一つを長く眺めていた。彩花が気になったのか尋ねると、彼は普段、机の上にペンや紙を広げると細かなものの置き場所がなくなるので、浅い皿なら使えるかもしれないと話してくれた。
「悠真君の机って、いつも整っていそうなのに」
「整えようとはしてるよ。でも、書き直した紙と仕事のメモを同時に広げると、結構散らかるんだ。最近は特に」
彩花は思わず笑った。悠真が文章を書き始めたことで、机に置くものが増えたらしい。彼が学校の仕事だけでなく、自分のための書き物に時間を使っていることが、何気ない会話から伝わってきた。
◇
少し進むと、紙雑貨を並べた天幕の前で彩花の足が止まった。細い紙を重ねた便箋や、植物の形に切り抜かれたカードが並ぶ奥に、小さな手回しの印刷道具が置かれている。店の横には『一枚刷りのカード作り』と書かれた札があり、短い時間で自分の模様を選んで刷れる体験を受け付けていた。
「悠真君、これ、見てもいいですか?」
「もちろん。彩花さん、こういうの好きそうだね」
彩花は少し照れながら頷いたが、近づくと悠真の方が印刷道具を熱心に見ていることに気づいた。店主は二人の視線に気づくと、手作業でインクをつけ、版を紙へ押し当てて一枚ずつ模様を刷る仕組みだと説明してくれた。用意されている版から好きなものを選ぶ形なので、初めてでも難しい作業は必要ないらしい。
「一枚作るのに、どれくらいかかりますか」
彩花が尋ねると、店主は前の参加者が終わったところなので、二人なら二十分ほどでできると答えた。予約は不要で、費用は紙と材料を含んだ一人分ずつの料金になっている。彩花が悠真の方を向くと、彼は少し考えてから、やってみたいと笑った。
「僕も一枚作ってみたい。普段は印刷されたものを見るだけだから、どんなふうにできるか興味があるんだ」
「じゃあ、一緒にやりましょう。私、最初は見るだけのつもりだったんですけど、聞いてたら作りたくなりました」
二人は参加を申し込み、それぞれ自分の分を支払った。悠真がまとめて払おうとしたわけではなく、自然に別々の財布を出したことが、彩花には心地よかった。必要なときは助け合えばいいが、自分で選んだ体験の費用は自分で払いたいと思っていたからだ。
店主は二人へ厚手の紙を一枚ずつ渡し、印刷に使える版の見本を並べた。小さな葉、波線、星、丸い点など、どれも単純な形だが、色や並べ方によって違う雰囲気になる。彩花は迷った末に、細い葉が伸びる模様を選んだ。春の植物のようにも見えるが、冬の枝先にも似ていて、何も描かれていない余白と合わせると少し落ち着いた印象になる。
悠真が選んだのは、丸い点が少しずつ離れて並ぶ版だった。彩花が意外そうに眺めると、彼は手帳で予定を書き分けるとき、点で区切ることが多いから見慣れているのだと説明した。自分の感覚で選んだ小さな模様に、日頃の習慣が現れることが面白かった。
「お二人とも、色を決めたら一枚だけ練習してみましょう。少しずれても、同じものは二度と刷れませんから、それも手作りの面白さですよ」
店主は作業台の使い方を説明し、インクのついた部分へ服の袖を触れさせないよう注意してくれた。彩花は指示された位置に紙を置き、ゆっくりと道具の取っ手を下ろした。力を入れすぎないように意識したつもりだったが、最初の練習では葉の先が少し濃くなり、反対側は淡くかすれてしまった。
「……あ。きれいにできたと思ったのに、こっちは薄いですね」
「押さえる位置を少し変えてみましょう。手で触って直そうとすると汚れるので、次の紙で試せば大丈夫ですよ」
彩花は頷き、濃くなった葉先をもう一度眺めた。失敗したのだと思ったが、紙の上で線の濃淡が変わると、本物の葉の表情に少し近いようにも見える。店主がきちんと印刷できていない部分を説明してくれたおかげで、次はどこを確かめればいいのか分かった。
隣では悠真が点の模様を試していた。彼は最初の一枚で位置を確認し、二枚目には点の間隔を変えようとして紙を置き直したが、端が少し斜めになってしまった。本人は真剣な顔で見つめていたものの、彩花には、その不揃いな並びがかえって温かな印象に見えた。
「悠真君、その並び、私は好きです。全部同じ間隔じゃないところが、歩いてる足跡みたいで」
「そうかな。ずれたから直そうと思ったんだけど……そう言われると、違う模様に見えてきた」
悠真は紙を傾け、もう一度眺めた。何でもきちんとそろえるのが得意な彼が、少し不揃いなものを面白がっている姿は、彩花には新鮮だった。店主は二人のやり取りを聞き、完成品の正しさは一つではないけれど、乾く前に触らないことだけは守ってくださいね、と笑った。
◇
印刷したカードを乾かしている間、店主は展示用の写真を撮ってもよいか尋ねた。店の作例を紹介するためのもので、二人の顔や手元を写さなくても、完成した紙だけを撮ることはできるという。彩花は少しだけ胸が緊張するのを感じたが、すぐに断るのでも黙って頷くのでもなく、何が写るのかを確かめることにした。
「私たちは写さずに、紙だけなら大丈夫です。でも、このカードに私たちの名前を入れる予定はないので、そのままの形でお願いできますか」
「もちろんです。店の作品例として紙の模様だけを使います。嫌なら撮らないので、遠慮なく言ってください」
彩花は少し考え、完成した紙だけを写すことに了承した。悠真も自分の分について同じ条件で構わないと伝えた。店主は二枚のカードを無地の台へ並べ、人物が入らない角度を二人に見せてから写真を撮った。
その一連のやり取りのあと、彩花は不思議なほど気持ちが落ち着いていることに気づいた。写真に撮られることそのものが怖いのではなく、知らないところで勝手に使われ、意味をつけられたことが嫌だった。何を撮るのかを説明され、自分で選び、条件が守られるなら、今はこうして落ち着いて向き合える。
(今までのことがなくなったわけじゃない。でも、私はこれからも自分で決められるんだ)
乾いたカードを受け取ると、彩花の紙には淡い青緑の葉が、悠真の紙には落ち着いた紺色の点が並んでいた。どちらも同じ道具で作ったとは思えないほど雰囲気が違い、彩花は思わず笑顔になった。店主は折れないよう薄い台紙を添え、持ち帰るときは濡らさないようにと教えてくれた。
店を離れるとき、悠真が彩花へ小声で尋ねた。
「さっき、写真を撮るかどうか聞かれたとき、無理してなかった?」
「少しびっくりはしました。でも、何を撮るのか聞けましたし、自分で決められたので大丈夫です。悠真君も、嫌だったら断ってよかったんですよ」
悠真は頷き、店の方を一度振り返った。自分は彩花のことが心配で、店主へ先に断ろうとしかけたが、彼女が自分で確認しているのを見て待つことにしたという。彩花はその話を聞き、黙って見守ってくれたことがありがたかったと伝えた。
「もし私が困ってたら助けてほしいです。でも、私が話せるときは、ちゃんと話してみたいんです」
「うん。分かった。今度も、彩花さんがどうしたいかを先に聞くよ」
その返事に彩花は微笑み、二人は次の店へ向かった。問題が起きないように何も選ばずにいるのではなく、確かめながら選べることが少しずつ増えている。その実感が、今日の時間を前より自由にしてくれていた。
◇
午後二時を過ぎると、広場の一角にある焼き菓子の店から甘い匂いが漂ってきた。彩花は朝食を取ってから時間が経っていたことを思い出し、どこかで休憩したいと伝えた。悠真も温かいものが飲みたいと言い、二人は通路を少し戻ってから、飲み物と菓子を販売している店へ向かった。
彩花は小さな焼き菓子と温かい紅茶を選び、悠真は別の菓子と飲み物を注文した。店の前には数組の客が並んでいたが、注文と受け取りは順調に進み、二人は広場の端にあるベンチへ移動した。手にしたカップの熱が指先へ伝わり、歩いて少し冷えた体にほっとする温かさが広がった。
「彩花さん、さっきのカード、嬉しそうだったね。模様を選んでるとき、すごく真剣だった」
「悠真君だって、点の間隔をずっと考えてましたよ。最後は少しずれたのを気に入ってたみたいでしたけど」
彩花がそう返すと、悠真は少し照れたように笑った。彼は完成したカードを取り出す代わりに、手にした紙袋を見下ろし、普段なら予定どおりにできなかったことを先に気にするけれど、今日は面白いと思えたのだと話した。
「彩花さんが好きだって言ってくれたから、見方が変わったのもあると思う。でも、ああいうふうに作ったものって、一つずつ違うんだね」
「はい。私も葉の先が濃くなって、最初は失敗かなって思いました。でも、乾いたらちょっと好きになりました」
二人は菓子を食べながら、先ほどまで見た店の話をした。木の浅い皿が気になったという悠真に、彩花は買い忘れていないか尋ねたが、彼はもう少しほかの店も見てから決めたいと答えた。彩花も、手織りの巾着がきれいだったことを思い出しつつ、買うことより作った人の話を聞けたことが楽しかったと伝えた。
しばらくして、悠真がカップをベンチの脇へ置いた。何かを切り出そうとしているように見えたので、彩花は菓子の袋を閉じ、彼の方へ体を向けた。
「……今日、誘ってくれてありがとう。僕、こういうふうに会う約束をするの、少し緊張してたんだ」
「悠真君が、ですか?」
「うん。いつもなら本を読むとか、調べ物をするとか、何か目的があったでしょう。そういう理由がなくても会いたいって言ったら、彩花さんに負担をかけるんじゃないかと思ってた」
彩花は彼の横顔を見つめた。先週メッセージで「用事がなくても会っていいかな」と尋ねられたとき、自分も驚いたが、同じくらい嬉しかったことを覚えている。彼がそこまで慎重に考えてくれていたとは知らず、少しだけ胸が温かくなった。
「私は、負担だなんて思ってません。むしろ、何か理由がないと誘えないのかなって、私も少し考えてました」
「……そうだったんだ」
「はい。だから、悠真君から言ってもらえて嬉しかったです。今日も、何を買うか決めてなかったけど、すごく楽しいです」
言い終えると、悠真は少しだけ目を見開き、それから顔を和らげた。彩花も照れくさくなったが、言葉を取り消すつもりはなかった。もう何度も会っているのに、まだ新しいことを知れる相手と一緒に過ごす時間を、これからも大切にしたかったからだ。
「僕も、彩花さんと歩いてるだけで楽しいよ。自分の好きなものを見つけるのも、彩花さんが何に足を止めるのか知るのも」
「……ありがとうございます。私も、悠真君が普段何を選ぶのか見るのが好きです」
彩花はそう答え、彼がさっき選びかけた木の皿を思い出して笑った。相手と一緒にいるからといって、同じものばかり好きになる必要はない。悠真は悠真の好きなものを選び、彩花は自分が気に入ったものを選び、その理由を話せることが嬉しかった。
◇
ベンチを離れる前、悠真は少し真剣な表情になった。彩花は何かを心配させてしまったのかと思ったが、彼が話し始めたのは、九条家の名前が知られていることについてだった。先週までの写真の件が完全に終わったわけではない以上、今日は出かける前に少し考えたことがあったという。
「僕が彩花さんと一緒にいるのを見て、勝手に何か言う人がまた現れるかもしれない。そこまで全部止められるとは言えないけど、だからって、彩花さんに会うことを隠すのは違うと思った」
悠真は言葉を選び、続けた。
「ただ、僕が隠したくないって思ってるからって、彩花さんにも同じようにしてほしいとは思ってない。今日みたいに人の多い場所で会うのが負担になったら、遠慮なく言ってほしい」
彩花はカップに残っていた紅茶を飲み、少し考えた。まだ写真が広まったことを完全に忘れられたわけではないし、突然声をかけられれば戸惑うかもしれない。それでも、悠真と会う時間を周囲の誤解だけで決めたくないという気持ちは、以前よりはっきりしていた。
「私は、普通に会いたいです。でも、何か困ったことがあったら、その場でちゃんと相談したいです。悠真君にも、一人で抱え込んでほしくないので」
「うん。僕もそうする」
悠真の返事を聞き、彩花は安心した。二人が出かけることについて、今ここで誰かへ説明する必要はない。けれど、困ったときにどうするかを先に共有できれば、必要以上に心配せずに目の前の時間を楽しめる。
ベンチから立ち上がると、悠真は飲み終えたカップを指定の場所へ返し、彩花も菓子の包みを捨てた。二人は歩き始め、彩花が最初に気になっていた陶器の店へ向かった。会場をもう一度回る間も、言葉にしなければならない話題を探すことはなかった。
◇
陶器の店には小さな鉢や皿が並び、彩花は一つの青白い小鉢に目を留めた。姉の凛花が植物を育てたいと言っていたことを思い出したが、実際に置く場所や育てたい種類はまだ決まっていない。鉢を先に買ってしまうと使いにくいかもしれないと思い、彩花は店の人へ排水穴の有無や大きさを尋ねた。
「これ、植物を植えるためのものですか? それとも小物入れに使う方がいいんでしょうか」
店の人は底に穴がないことを見せ、直接土を入れるより受け皿や小物入れとして使う方が適していると説明した。彩花は頷き、凛花に贈るならどんなものがいいか、本人の希望を聞いてから決めようと思った。
「お姉ちゃんに似合いそうだったけど、今は買わないことにします。使う場所を決めてからの方がよさそうなので」
「うん。その方がいいかもしれないね。彩花さんがちゃんと考えてるの、凛花さんも嬉しいと思うよ」
悠真はそう答え、自分は前に見た木の皿をもう一度見に行きたいと話した。彩花が賛成すると、二人は少し離れた木工の店へ戻った。そこでは先ほどと同じ皿がまだ並んでおり、悠真は店主へ手入れの方法と、紙を置いた机でも使えるかどうかを尋ねてから、一つ購入した。
「使う場所がちゃんと決まったんですね」
「うん。仕事のメモをまとめるのにもいいし、書いてる途中の小さな紙を入れておけそうだから。家に帰ったら早速使ってみたい」
彩花はその答えを聞き、少し嬉しくなった。悠真が家や学校での役割とは別に、自分の机で過ごす時間のために物を選んでいる。自分と一緒にいるときだけでなく、彼の普段の生活にも好きなことが増えているのが伝わってきた。
買い物を終えたあと、二人は最初の手織りの店へ戻った。彩花は紺色の糸が混じった小さな巾着を手に取り、縫い目や口の閉まり方を確かめた。手帳の小物をまとめるのにちょうどよい大きさだったので、自分のために一つ購入した。
「今日は、お互い自分のものを買いましたね」
「そうだね。でも、一緒に選んだから、使うたび今日のことを思い出しそう」
悠真の言葉に、彩花は小さく頬を赤くした。確かに、巾着を使うたびに店の人の説明や、隣で木の皿を選んでいた悠真の姿を思い出すだろう。誰かに何かを買ってもらったわけではないのに、一緒に過ごした記憶が残るというのは、少し不思議だった。
◇
午後三時半を過ぎると、広場を吹き抜ける風が少し強くなった。店の布の旗が大きく揺れ、紙雑貨の店では展示台の上に置かれた軽いカードが何枚か浮き上がりかけている。店主がすぐに重しを置こうとしたが、その前に一枚のカードが通路へ滑り出た。
彩花は反射的に追いかけようとして、すぐに足を止めた。周囲には小さな子どもを連れた人もいて、急に走れば危ない。カードは近くのベンチの脚に引っかかって止まったため、彩花は人の流れを確かめてからゆっくり近づき、落ちていたカードを拾った。
「これ、そちらのものですか?」
店主は振り返り、助かったと礼を言った。悠真も展示台の端で揺れている札に気づいたが、勝手に触らず、何か手伝えることがあるか尋ねた。店主は大きな札を押さえるのを頼み、もう一人の店員が重しを持ってきて位置を直した。
作業はすぐに終わり、店主は二人へもう一度礼を言った。彩花は大したことをしたわけではないと思ったが、カードを受け取った店主がほっとした表情を見せたので、拾えてよかったと感じた。
「紙は軽いから、急な風には弱いんです。今日は穏やかだと思ってたんですけど、夕方になると変わりますね」
店主はそう話し、展示台の配置を少し変えた。二人は邪魔にならないよう礼を言って離れたが、彩花は風が強くなったことに気づき、帰る時間を確認した。凛花には夕方前に戻ると伝えているし、これ以上長く歩いて体を冷やす必要はない。
「悠真君、そろそろ帰りませんか。今日は十分見られた気がします」
「うん。僕もそう思ってた。最後に案内所の近くまで一緒に歩こうか」
二人は広場の外側を通り、駅前の案内所へ向かった。手作り市の店にはまだ人が集まっていたが、遠くから聞こえる声は歩くにつれて少しずつ小さくなった。彩花は鞄の中の巾着と印刷したカードを確かめ、今日の時間が確かに手元に残っていることを嬉しく思った。
◇
案内所の前まで戻ると、悠真は少しだけ立ち止まり、鞄の中から先ほど印刷したカードを取り出した。紺色の点が並んだ一枚で、乾いたインクが紙の表面にわずかな凹凸を残している。彼はそれを眺めてから、彩花へ目を向けた。
「彩花さん、これ、もしよかったら受け取ってくれる?」
彩花は驚いた。悠真が自分で作ったカードなのだから、当然自分の手元に残すのだと思っていたからだ。彼は少し照れたように笑い、今日の思い出として彩花にも持っていてほしくなったと話した。
「でも、悠真君が自分で作ったものですよね。私がもらっていいんですか?」
「うん。彩花さんと一緒に作ったから、彩花さんに渡したいと思った。もちろん、いらなかったら無理しなくていいよ」
彩花はカードを見つめ、少しだけ考えた。自分の鞄にも、葉の模様を刷った一枚が入っている。悠真の作ったものを受け取ることが嬉しいなら、自分も同じ気持ちを伝えていいのではないかと思った。
「……それなら、私のも受け取ってもらえますか?」
彩花が青緑の葉を刷ったカードを取り出すと、悠真は目を見開いた。彼は少しだけ言葉に詰まったあと、嬉しそうに頷いた。
「……本当に? 彩花さんが作ったものなら、僕も大切にしたい」
互いのカードを交換すると、彩花は紺色の点が並ぶ紙をそっと持ち直した。二人が同じ模様を選んだわけでも、最初から交換しようと決めていたわけでもない。ただ、それぞれ気に入った形を作り、相手にも持っていてほしいと思ったから交換したのだ。
(悠真君が選んだものを、私が持って帰るんだ。私が作ったものも、悠真君のところに残るんだね)
そのことが嬉しくて、彩花はカードをすぐ鞄へ入れられなかった。悠真も同じように青緑の葉を見つめていて、二人は少し照れながら笑い合った。
風が強くなってきたので、彩花はカードを台紙へ戻し、折れないよう買った巾着とは別の内ポケットへしまった。悠真も自分の鞄に入れ、帰宅したら机の上へ置こうと思うと話した。
「彩花さん、今日はありがとう。資料も本もない約束だったけど、僕はすごく楽しかった」
「私もです。何か目的がないと会えないのかなって少し思ってましたけど、そんなことなかったですね」
悠真はその言葉を聞き、静かに頷いた。彩花は次に会う日をすぐ決めるべきか迷ったが、今日の楽しさを急いで別の予定へつなげる必要はないと思い直した。会いたくなったら自分から言えばいいし、相手から誘ってもらえたら、それも嬉しい。
そのとき、悠真が少し真剣な表情になった。
「……彩花さん。今度も、こういうふうに会いたいって言っていいかな。何か見たいものが決まってなくても」
彩花は胸の奥が温かくなった。さっき同じような話をしたばかりなのに、改めて尋ねられると、言葉の重みが少し違って感じられる。彼が気を遣っているからではなく、自分自身がそうしたいと思ってくれているのだと伝わったからだ。
「はい。私も言いたいです。何も決めてなくても、悠真君に会いたくなったら、誘っていいですか?」
「もちろん。……僕は、そう言ってもらえるのが嬉しい」
悠真の返事を聞き、彩花は少しだけ頬を赤くした。何かを約束するたびに胸が高鳴る理由を、今ここで全部説明する必要はない。けれど、次の約束ができるかどうかだけでなく、誘いたいと思ったときに相手へ伝えられることそのものが嬉しかった。
◇
帰宅すると、凛花が居間で植物の置き場所について書いたメモを見ていた。彩花が声をかけると、姉は時計を確かめ、予定どおり帰ってきたことを見て安心したように笑った。彩花はコートを脱ぎ、買ってきた紺色の巾着を見せながら、手作り市で見たものを簡単に話した。
「これ、自分で選んだの。手帳の小物を入れるのにちょうどよさそうだったから」
「いい色だね。彩花らしい感じがする。植物の鉢もあった?」
「うん。でも、お姉ちゃんが育てたいものを決めてからの方がいいと思って、今日は買わなかったよ。写真も撮ってないから、今度一緒に見られたらいいな」
凛花は頷き、今度自分でも行ってみたいと答えた。彩花は少しだけ考えてから、今日いちばん印象に残ったのは、どの店で何を買ったかより、悠真と一緒に歩いている時間だったと話した。
「最初は何も予定を決めてなくて不安だったんだけど、歩いてたら気になるものが見つかって、話も自然にできたの。悠真君が普段どんなものを使ってるのかも知れたし」
凛花は優しく笑い、それならよかったねと答えた。彩花はまだ全部を説明できるわけではなかったが、姉が無理に詳しく聞こうとしなかったので、自分のペースで今日の出来事を思い返せた。
自室へ戻ると、彩花は鞄の内ポケットから紺色の点のカードを取り出した。薄い台紙に挟まれた一枚は、光に当てるとインクの濃淡が少し違って見える。悠真が最初にずれを気にしていたことを思い出すと、彩花は自然と笑みをこぼした。
机の上には冬の部誌と、書きかけの短編の原稿が置かれている。彩花はカードをその隣へ置き、しばらく眺めた。悠真が書いた随筆と同じように、紙には作った人の手の動きや、そのとき考えていたことが少しだけ残るのかもしれない。
(これ、私が見つけたものじゃなくて、悠真君が選んで作ったものなんだ)
それが嬉しかった。彼の気持ちを全部知っているわけではないが、少なくとも自分と一緒に過ごした時間を大切にして、カードを渡そうと思ってくれたことは分かる。彩花も同じように、作ったものを彼に渡したかった。
スマートフォンが震え、悠真から帰宅したという連絡が届いた。彼は木の皿を机に置き、彩花から受け取った葉のカードもその隣へ置いたらしい。写真は送られてこなかったが、文章だけで十分に様子が想像できた。
『今日はありがとうございました。悠真君のカード、私も机に飾りました。見るたび、今日のことを思い出せそうです』
彩花が送ると、悠真から少し間を置いて返事が届いた。
『僕も同じだよ。次は何をするか決まってなくても、また一緒に過ごせたら嬉しい』
彩花は画面を見つめ、小さく息を吸った。自分たちの関係にまだ名前をつけることはできないが、今日の約束は、何かを調べるためでも本を渡すためでもなく、互いに会いたいと思ったから生まれた。その事実を、無理に別の理由へ置き換えたくなかった。
『はい。私も、また会いたいです。次は私から誘うかもしれません』
送信してから、彩花は机の上のカードへもう一度目を向けた。紺色の点は少しだけ不揃いで、同じ形は二つとない。その並びを見つめていると、今日の広場で悠真が笑った顔と、彼の手で紙がゆっくり動いた様子が自然と思い出された。
彩花はカードを本棚の小さな空き場所へ立てかけ、少し離れて眺めた。今までそこには読み終えた本の栞や、気に入った言葉を書いた紙を置いていたが、今日からは誰かが自分のために渡してくれた一枚が加わっている。
彩花は手帳を取り出しかけて、やめた。今日の出来事をすぐ文章にしなくても、悠真が作った一枚を目にするたび、店の人の声や、紙の上に浮かんだ紺色の点を思い出せるだろう。代わりに、買ってきた巾着へ普段使う小さな文房具をしまい、月曜日に持っていく鞄の内側へ収めた。
◇
同じ夜、九条家へ戻った悠真は、自室の机に木製の浅い皿を置いた。店で見たときにはもっと明るい色に感じたが、室内の照明の下では木目が落ち着いて見え、机の端に置いた小さな紙片をまとめるのにちょうどよかった。彩花から受け取った青緑の葉のカードも、折れないように台紙のまま立てかけている。
夕食へ向かおうと部屋を出たところで、廊下の向こうから父が歩いてきた。父は悠真の手元に残っていた店の紙袋を見て、今日の外出先が駅前だったことを思い出したらしく、手作り市はどうだったかと尋ねた。悠真は一瞬だけ言葉を選んだが、隠す理由はないと考えて答えた。
「水瀬さんと行ってきました。店を見て回って、紙に模様を刷る体験もしました。何をするか細かく決めずに出かけたのは初めてでしたけど、楽しかったです」
父はすぐには返事をしなかった。写真の問題が起きたとき、しばらく人目につく外出を控えた方がよいと提案されたことを、悠真は覚えている。それでも今回の外出は彩花自身が選んだもので、互いの不安を話したうえで決めた約束だった。
「写真の問題は、まだすべて終わったわけではないだろう。彼女の方は、外へ出ることを負担に感じていなかったのか」
「そのことも話しました。心配がなくなったとは言えませんが、行きたい場所を諦めるかどうかは本人が決めたいと言っていました。僕も、その気持ちを大切にしたいです」
父は静かに頷いた。九条家の立場から心配することがあるのは変わらないが、本人の意思を確認せずに予定を制限するつもりはないと、以前に話し合ったことを改めて確かめた。悠真はその言葉を聞き、心の中で少し肩の力が抜けるのを感じた。
「それで、何か買ったのか」
「机で使う小さな皿を買いました。それと、互いに作ったカードを交換したんです」
悠真がそう答えると、父はわずかに目を見開いた。以前なら、息子が休日の話をするときは本の題名か学校の仕事が先に出てきたのに、今日は誰かと作った一枚のことを、何より嬉しそうに話している。その様子に気づいたのか、父は口元を少し緩めた。
「そうか。では、次は君からも誘ってみたらどうだ。毎回、相手に決めてもらうわけにもいかないだろう」
悠真は思わず父を見た。外出を控えるよう言われることは想像していたが、次の約束を勧められるとは思っていなかった。けれど、何より驚いたのは、自分がすでに同じことを考えていたと気づいたことだった。
「……はい。今度は、僕から誘いたいと思っています」
父はそれ以上からかわず、夕食の時間だと言って先に歩き始めた。悠真は廊下を進みながら、彩花から届いた最後のメッセージを思い出した。次は自分から誘うかもしれない、と彼女は書いていた。
(じゃあ、次はどちらが先になるか分からないね)
悠真は小さく笑った。先に予定を決めることを競いたいわけではないが、会いたいと思った方が自分から伝えられる関係でいたかった。夕食の部屋へ入る前、彼はスマートフォンを取り出しかけてやめた。次の約束を作る前に、まず今日一緒に歩いた時間を、もう少し自分の中で楽しんでいたかった。




