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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第177話 消した言葉の責任と、用事のない約束


 日曜日の午前、水瀬彩花は自室の机に向かい、書きかけの短編の最後の場面を読み直していた。窓の向こうでは冷たい風に庭木の枝が揺れていたが、日差しの届く机の上は明るく、原稿の細い文字までよく見えた。昨日、九条悠真が図書館で読ませてくれた文章の余韻が残っていて、彩花は自分の物語でも、登場人物が何を思い、どう行動したのかを曖昧にしたくないと考えていた。


 主人公の少女は、昔交わした約束の証である鍵を握り、友人からの頼みを断ろうとしている。ここまで書いた時点では、断ることが少女にとって正しい選択であるかのように読めてしまうが、彩花はそれだけでは不十分だと感じていた。相手には相手の事情があり、頼まれたこと自体が悪いわけではないのに、主人公だけが勇敢で、友人だけが無理解な人物になるのは違うと思ったからだ。


(断ったあとで、二人がどうするかまで書きたいな。自分の希望を言えたら、それで全部終わりという話にはしたくない)


 彩花は原稿用紙の余白へ、友人が困っている理由と、主人公ができる別の手助けについて書き出した。鍵を渡すことはできないが、なくした資料を一緒に探すことならできる。どちらも相手を大切にするための行動であり、片方を断ったからといって、もう片方まで拒む必要はなかった。


 下書きを直していると、扉が二度ノックされた。姉の凛花が湯気の立つ飲み物を持って立っていて、机を埋める原稿を見ると、少し申し訳なさそうに笑った。


「書いてる途中だった? お茶を入れたんだけど、邪魔ならあとで持ってくるよ」

「ううん、ちょうど考えてたところ。ありがとう、お姉ちゃん」


 彩花が机の端を片づけると、凛花はカップを置き、原稿の内容をのぞかないよう視線を窓へ移した。姉は以前から彩花の書くものを楽しみにしてくれているが、見せる準備ができるまで勝手に読もうとはしない。その何気ない距離の取り方が、最近の彩花には前よりありがたく感じられた。


「昨日は悠真君の文章、読ませてもらえたんでしょう?」

「うん。前に読んだものより少し長くなってて、すごくよかった。悠真君、書きたいことが前より分かってきたみたい」

「そっか。彩花も嬉しそうだね」


 凛花はそう言ってから、何かを確かめるように彩花の顔を見た。彩花はからかわれるのかと思ったが、姉が続けたのは別の話だった。


「最近の彩花、相手のことを話すとき、何をしてもらったかだけじゃなくて、その人が何をしたかったのかをよく話すようになった気がする」

「……そうかな」

「うん。悠真君が迷ってたことも、無理に答えを決めてあげようとしなかったでしょう。大切に思ってるんだなって感じるよ」


 彩花はカップを両手で包み、返事を考えた。悠真と過ごす時間は楽しいが、今は彼が自分の知らないところで何を考え、どんなふうに決めているのかも気になる。会えない日にも相手の生活が続いていることを、前より自然に想像できるようになった。


「私、悠真君が何でもできる人だから好きっていうより、迷ってるときの話も聞きたいんだと思う。昨日も、言葉にしてないことがあるって教えてくれて、ちゃんと聞いてみたいと思ったの」


 口にしてから、彩花は「好き」という言葉を使ったことに気づいた。凛花はすぐに指摘せず、少しだけ笑ってお茶を飲んだため、彩花も慌てて取り消さずに済んだ。何を好きだと言ったのか、自分の中でもまだ整理しきれていないが、今の言葉は嘘ではなかった。


「だったら、次に会ったときも彩花が思ったことを話せばいいんじゃないかな。全部決めてから話す必要はないと思うよ」

「……うん。そうする」


 凛花が部屋を出たあと、彩花は原稿へ戻った。主人公に最後の言葉を言わせる前に、相手の返事を聞く場面を一つ加えた。物語の結末を変えたのは大きな事件ではなく、たった一つの会話だったが、少女が何を選んだのかは前よりずっと明確になった。


     ◇


 月曜日の昼休み、青葉高校の文芸部顧問から彩花へ連絡があった。放課後、写真の件について確認できたことを伝えたいという内容で、都合がよければ職員室近くの相談スペースへ来てほしいと書かれている。彩花は教室で弁当を片づけながらその文面を読み、急いで何かを決めつけないよう、ひとまず予定を確認して返信した。


 先週までに、図書館の外で撮られた彩花と悠真の写真は、文章のないものと、異なる文章が付いたものがそれぞれ見つかっていた。九条家が文芸部の冬の部誌に資金援助したという説明は学校の記録で否定され、同じ内容の公開投稿は一件削除されている。ただ、最初に写真を撮った人も、文章を加えた人も分からないままだった。


(新しいことが分かったのかな。できれば、誰かを疑う話じゃなくて、確認できたことを聞きたい)


 彩花が窓の外へ目を向けると、昼休みの校庭では部活動の準備をしている生徒が見えた。文芸部の冬の部誌は完成し、図書室で読んでもらえるようになっている。今の生活を続けながら問題にも向き合えるのだと考えると、呼び出されたことへの緊張が少しだけ和らいだ。


 放課後、彩花が相談スペースへ行くと、顧問のほかに学年の教員が一人同席していた。二人は彩花に席を勧め、まず写真の取り扱いについて学校側が確認した内容を説明した。話の中心は、文芸部の費用について事実ではない文章を付けた画像だった。


「その文章を画像に加えて送った生徒が、先週の注意を受けて、自分から担任へ申し出ました。こちらでは本人の説明と、本人が任意で示した送信記録を確認しています」


 彩花は思わず手元の鞄を握った。ようやく誰かが分かったのだと思った瞬間、同時に、何をどこまで確認できたのか知る必要があるとも感じた。


「……その人が、写真を撮った人でもあるんですか?」

「いいえ。本人は、文章のない画像をほかの人から受け取ったと説明しています。撮影者については知らないと話しており、そこを裏づける資料もまだありません」


 顧問は記録の一部を示し、日曜日の夕方に文章のない画像を受け取り、月曜日の登校前に文芸部への資金援助という文を付けて、数人の知人へ送ったと説明した。生徒は自分の操作で文章を加えたことを認め、最初に送った相手へも訂正したいと申し出ている。ただし、ほかの経路にある画像や、別の侮辱的な文章については、その生徒が作ったと確認できていなかった。


「どうして、そんな文章を付けたんですか」


 彩花の問いに、顧問は慎重に答えた。本人は、九条家の名前がついた写真なら何か特別な事情があるように見えると思い、実際に確かめないまま文章を作ったという。文芸部の印刷費について聞いたこともなかったが、注目を集めるだろうという軽い考えがあったと話しているらしい。


 彩花はしばらく黙った。資金援助が本当にあったのか誤解したのではなく、確認せずにもっともらしい説明を作ったということだった。自分たちが部誌を完成させるまでに積み重ねた作業を、知らない誰かが面白半分の言葉で塗り替えようとした事実が、胸に重く残った。


「……私は、あの文章を見た人に、ちゃんと違うって知ってほしいです。謝ってもらうだけだと、まだ信じてる人がいるかもしれないので」


 顧問は頷いた。本人には、送った相手へ事実に反する文章だったと明確に訂正すること、画像をこれ以上広めず削除を求めることを指導しているという。さらに学校側でも必要な範囲で文芸部の費用について事実確認済みであることを伝え、被害を受けた生徒が個別に説明し続けなくて済むようにすると話してくれた。


「その生徒から、あなたへ直接謝罪したいという申し出もあります。ただ、会うかどうかは水瀬さんが決めていいです。今すぐ返事をする必要もありません」


 彩花は膝の上で指を組み、少し考えた。相手の顔を見れば何かが変わるのか、それとも傷ついた言葉をもう一度聞くことになるのか、まだ分からなかった。謝罪を受けることと、起きたことを許したと伝えることも、同じではないと思った。


「直接会うかは、少し考えたいです。でも、訂正がどんな形で届いたのかは、確認させてもらえますか」

「もちろんです。本人の私的なやり取りを無理に調べることはできませんが、任意で提出された記録と学校の確認結果は、必要な範囲で伝えます」


 同席した教員は、本人への指導や保護者への連絡については学校の規則に沿って進めると説明した。具体的な指導内容を彩花の前で決めることはせず、事実に反する文章を作って流した行為と、最初に無断で写真を撮った行為を分けて扱う方針だという。彩花はその区別を聞き、ゆっくり頷いた。


 席を立つ前、顧問がもう一度、無理にその相手と会う必要はないと伝えてくれた。彩花は礼を言い、相談スペースを出た。廊下には部活動へ向かう生徒の足音が響いていたが、彩花はすぐに部室へ向かわず、窓辺で一度だけ立ち止まった。


(誰が書いたのか、少し分かった。でも、嬉しいだけじゃない。どうしてそんなことをしたのか聞いたら、やっぱり悲しくなった)


 それでも、これまで写真のせいで部誌の完成まで疑われてきたことに、ようやく責任を持つべき行動が一つ見つかった。彩花は自分にできることを改めて考え、まずは文芸部のみんなへ必要なことだけ共有するため、顧問に相談しようと決めた。


     ◇


 その日の文芸部では、顧問が部員たちへ、資金援助に関する噂が事実ではないことを改めて説明した。画像に虚偽の文章を付けた人物から学校へ申し出があり、訂正と拡散防止の指導が進んでいるというところまで伝えられたが、個人名や細かな送信先には触れなかった。部員たちは驚いた表情を見せたものの、騒いで相手を探そうとする者はいなかった。


「私たちの部誌を、勝手に別の話に使われたのが嫌だったんです。ちゃんと訂正してもらえるなら、それが一番だと思います」


 一人の部員がそう言うと、隣の生徒も頷いた。部誌を作った時間は確かに自分たちのものなのに、外から持ち込まれた噂の説明を何度も求められたことに、みんな少なからず疲れていたのだろう。顧問は、今後も部誌の制作費について問い合わせがあれば学校が対応すると説明し、部員が個人として詳細を話す必要はないと伝えた。


 彩花はその場で、写真を撮った人まで分かったわけではないことを付け加えたかったが、顧問がすでに区別して説明しているのを聞いて口を閉じた。必要な情報が正確に伝わるなら、自分がすべてを話す役目を引き受けなくてもいい。部員たちはしばらく意見を交わしたあと、予定していた新しい作品の読み合わせへ戻った。


 同じ部の友人が、彩花の隣で小さく尋ねてきた。


「水瀬さん、大丈夫? 何か分かったら安心できると思ってたけど、実際に聞くと嫌な気持ちにもなるよね」

「……うん。少し悲しかった。でも、訂正が届けば、少なくとも部誌のことは前よりちゃんと説明できると思う」


 彩花が答えると、友人は何も急かさず頷いた。彩花は鞄から書きかけの短編を取り出し、先日読んでもらった続きの場面を開いた。そこには、頼まれたことを断った主人公が、相手の困り事を一緒に解決する別の方法を提案する場面が加わっている。


「これ、少し書き進めたの。前に言ってもらったことが気になって、主人公の気持ちを整理してみたんだ」

「読んでもいい?」

「うん。まだ最後の方は直すかもしれないけど、どう感じるか聞かせてほしい」


 友人が原稿を読み始めると、彩花は机の上に手を置いて待った。写真の問題に少し進展があった日だからといって、自分が書きたいものまで手放す必要はない。むしろ、書いたことを誰かに読んでもらえる時間が、今の自分を落ち着かせてくれるのだと感じた。


     ◇


 火曜日の午前、桜華学園では悠真が担当教員から呼ばれ、青葉高校との学校間連絡で確認された範囲について説明を受けた。虚偽の資金援助という文章を画像に付けて送った生徒が申し出たこと、その文章の訂正が進められていることが、個人名を伏せた形で伝えられた。学校側は詳細を広めず、必要な対応を継続する方針だという。


 悠真は話を聞きながら、昨夜彩花から届いた短い連絡を思い出した。彼女は、事実ではない文章を作った人物の一人が分かったらしいが、撮影した人まで判明したわけではないと説明していた。嫌な気持ちになったことも、隠さずに書いてくれていた。


(僕が相手の名前を知ったところで、彩花さんが楽になるわけじゃない。今大切なのは、作られた文章が訂正されて、それ以上人を傷つけないことだ)


 悠真は担当教員に、公開されていた投稿の削除状況と、別の文章についての確認が続いているか尋ねた。教員は、既に削除が確認された一件以外にも画像が残っている可能性があり、現在のところすべての経路を確認できたわけではないと答えた。悠真は頷き、桜華学園側で新しい事実が分かった場合も、学校を通して青葉高校へ伝えてほしいとお願いした。


 そのあと執行部の部屋へ戻ると、机の上には来年度の引き継ぎ資料が届いていた。調整担当の正式な人選はまだ終わっていないが、悠真が提案した共有表は試用を続けることになっており、担当者が予定の変更理由を記録する欄も追加されている。悠真は資料を見て、今日の作業をほかの生徒と分担するために声をかけた。


 途中で琴葉が訪ねてきたとき、悠真は必要な確認が終わるまで待ってもらい、仕事の続きを済ませてから話をした。彼女は以前のように気を遣いすぎて自分の仕事を増やしていないか心配していたが、担当を分けていることを聞くと安心した様子だった。


「九条君、最近は『今できること』と『自分がやるべきこと』を分けられてるみたいね」

「……そう見えるならよかった。まだ迷うこともあるけど、全部を僕が動かさなくても進む仕事はあるから」


 琴葉は頷き、必要な確認だけをして部屋を出ていった。悠真は窓の外へ目を向け、彩花へ今すぐ連絡したい気持ちを抑えた。彼女は学校の時間を過ごしているはずだし、昨夜のメッセージには、まず訂正が届いたか確かめたいと書かれていた。新しい情報がないまま心配だけを重ねるより、今は自分の仕事を終え、夜になってから互いに話せることを話そうと思った。


     ◇


 火曜日の放課後、彩花が顧問から見せてもらったのは、訂正のために送られた短い文章だった。本人が最初に画像を送った相手へ、事実と違う説明を自分で付け加えたことを伝え、九条家から文芸部へ資金援助があったという話には根拠がないと明記していた。転送された画像を削除し、さらに送っていた場合は訂正を伝えてほしいとも書かれている。


 顧問は、訂正を送ったことについて本人から任意で示された記録を確認したと説明した。ただし、相手が全員読んだかどうか、その先の転送がすべて止まったかどうかは分からない。学校側ではできる範囲の確認を継続し、事実に反する内容が再び広まれば適切に対応するという。


「水瀬さん、直接の謝罪については、まだ返事をしなくても大丈夫です。相手が謝りたいと思っていることと、あなたが会いたいと思うかどうかは、別ですから」


 顧問の言葉に、彩花は頷いた。昨日は会うべきかどうか迷っていたが、今、訂正の文章を読んだことで、少しだけ自分の考えがはっきりした。謝罪の言葉より、実際に広めた内容を正してもらうことが先だと思っていたのだ。


「……今は直接会わないことにします。謝ってくれたことは聞きました。でも、まだ会って話す準備はできていないので」

「分かりました。その意向は学校側で伝えます。今後考えが変わったとしても、無理に決めなくて構いません」


 彩花は礼を言い、相談スペースを出た。謝罪を断ることが意地悪なのではないかと、ほんの少しだけ思ったが、誰かの気持ちを楽にするために自分が無理をする必要はない。相手には相手の行動を訂正する責任があり、彩花には自分の気持ちを守る権利がある。


(訂正してもらえたのはよかった。でも、まだ嫌だった気持ちは残ってる。それを無理に消さなくてもいいんだよね)


 階段を下りながら、彩花は鞄の中の部誌へ目を向けた。写真につけられた説明とは違い、そこには部員たちが自分の意思で選んだ言葉が並んでいる。今度はその部誌を、悠真に実際に読んでもらいたいと思った。


     ◇


 水曜日の朝、彩花が教室へ入ると、同じ文芸部の友人が自分の席から手を振った。彼女は少し緊張した表情で、昨夜ほかのクラスの知り合いから、文芸部への資金援助についての噂が事実ではなかったと聞いたことを教えてくれた。詳しい画像や誰が文章を書いたかについては聞かなかったが、訂正が少しずつ伝わっていることは分かったらしい。


「私、その子に『部誌はちゃんと学校の確認を受けて作ったんだよ』って言えたの。前は何を話しても噂と比べられそうだったけど、今は少し違う感じがした」


 彩花はほっとした。直接知っている人たちの間だけでなく、少し離れたところにも訂正が届き始めているのかもしれない。ただ、伝聞だけで全員が理解したと考えることはできないため、具体的に確認できたこととしては、訂正を受け取った人が少なくともいるというところまでに留めた。


「教えてくれてありがとう。部誌のことで聞かれるの、みんなにも負担だったと思うから、少しでも減るなら嬉しいな」

「うん。私たちの作品の話をしてるのに、別のことを聞かれるのは嫌だったしね」


 二人は頷き合い、授業の準備へ戻った。彩花は自分の机で、昨夜書いた短編の新しい段落を確認した。主人公は友人の頼みを断ったあと、別の手伝いを提案し、二人で問題を解決する方向へ進んでいる。気持ちを話すことが関係を壊すのではなく、違う形の協力につながる結末を、今は書きたいと思っていた。


 昼休み、彩花は図書室の展示台を見に行った。冬の部誌は何冊か貸し出され、返却された本には次の読者がついているらしい。紹介文のカードはそのまま立てられていて、署名の「水瀬彩花」という文字を見ても、以前のような緊張は湧かなかった。


 司書が近づき、次に書いている作品はあるかと尋ねてきた。彩花は短編の下書きを進めていることを伝え、まだ完成していないが、友人に読んでもらいながら考えていると話した。司書は優しく頷き、完成していない文章を誰かに見せるのも良い経験になるだろうと答えた。


「完成した作品を読んでくれる人がいるのも嬉しいけど、途中で考えを聞いてくれる人がいるのも、ありがたいですよね」

「……はい。今、そのことが少し分かってきました」


 彩花は礼を言い、図書室を出た。週の前半には重く感じた気持ちが、今は少し違っている。自分の望まない形で広まった言葉には訂正が進み、自分が届けたいと選んだ言葉は、ちゃんと読んでくれる人へ届いている。その二つを同じものとして扱わなくていいのだと、ようやく落ち着いて考えられた。


     ◇


 水曜日の夜、彩花は悠真へ今週の出来事を伝えた。虚偽の文章を作って送った人物が自分から学校へ申し出たこと、訂正の送信が確認されたこと、直接会って謝罪を受けるのは今のところ断ったことを、必要な範囲で説明した。相手の名前や細かな送信先については、学校が扱っている情報だから自分から広めないと決めていた。


 悠真からは、少し時間を置いて返事が届いた。


『彩花さんがどうしたいか、ちゃんと決められてよかった。訂正されたことは大事だけど、それで嫌だった気持ちまで消さなきゃいけないわけじゃないと思う』


 彩花はその文章を読み、胸の奥が少し温かくなった。何かをしてほしいと頼まなくても、まず自分の気持ちを受け止めてもらえることが嬉しい。以前の悠真なら、相手を見つけて何とかしようと動いたかもしれないが、今は彩花の希望と学校の対応を尊重してくれている。


『ありがとうございます。悠真君にも心配をかけました。でも、私は今、自分で決めたことを後悔してないです』

『うん。それを聞けて安心した。僕の学校でも必要な対応は続いているから、新しいことが分かったら学校を通して確認するよ』


 しばらくして話題が変わり、悠真が書いた文章についての連絡が届いた。最後の一行を見直した結果、書き足すのではなく、少し削った形で完成させることにしたらしい。彩花は嬉しくなり、どんな結末になったのか尋ねかけたが、会ったときに読ませてもらえたらもっと楽しそうだと思い直した。


『じゃあ、今度会ったときに読ませてください。私も短編の続きを書きました』

『もちろん。彩花さんの話も聞きたいな。ところで、次は本や資料の用事がなくても、会ってもいいかな』


 彩花は画面を見つめ、少しだけ目を丸くした。これまで二人が会うときには、読む本を選んだり、古い写真を調べたり、書いた文章を見せ合ったりと、何かしらの目的があった。けれど、悠真が今尋ねているのは、そういう理由を用意しなくても会いたいということなのだろう。


(……私も、ずっとそう思ってたのかもしれない。何かを一緒にするのが楽しいだけじゃなくて、悠真君と時間を過ごしたいんだ)


 彩花は頬が熱くなるのを感じながら、返信を打った。


『はい。私も会いたいです。今度は、図書館以外のところへ行ってみませんか?』


 送信すると、すぐに悠真から返事が来た。


『嬉しい。どこへ行きたい? 彩花さんの行ってみたい場所があれば、聞きたいな』


 彩花は少し考え、青凪市の駅前で週末に開かれる小さな手作り市を思い出した。通学の途中で案内を見かけたことがあり、文房具や紙雑貨、焼き菓子などの店が並ぶと書かれていた。今まで気になってはいたものの、一人では寄る機会がなかった場所だった。


『駅前の手作り市、行ったことありますか? 今度の土曜日に開かれるそうなので、よかったら一緒に見てみたいです』


 悠真の返事は少し間を置いて届いた。予定を確認していたのだろうか、彼は土曜日の午後なら都合がつくと書き、待ち合わせの場所も相談したいと伝えてきた。


『行ったことはないけど、楽しそうだね。彩花さんと一緒に、気になるものを見て回りたいな』


 彩花は自然と笑顔になった。図書館ではない場所へ二人で出かけるのは久しぶりで、知らないものを一緒に見られることが楽しみだった。ただ、写真の問題が完全に終わっていない以上、人の多い場所での過ごし方については、一度話しておいた方がいいと思った。


『まだ写真のことが全部終わったわけではないので、少しだけ不安もあります。でも、それを理由に行きたいところを諦めたくはないです。無理のない時間で、普通に楽しめたら嬉しいです』


 悠真からの返事は、彩花の言葉を受け止めるように落ち着いたものだった。


『うん。彩花さんが不安になったら、そのときは別の場所へ移ってもいいし、早めに帰ってもいい。僕も人の多い場所で無理をさせたくない。でも、今日は行かない方がいいって最初から決めるつもりはないよ』


 彩花は頷き、土曜日の午後一時に駅前の案内所前で待ち合わせることを提案した。悠真が了承すると、二人は帰宅の目安も決め、家族へ伝えることにした。


     ◇


 木曜日の夕方、九条家の自室で悠真は、週末の予定を手帳に書き込んでいた。彩花と駅前の手作り市へ行く約束は、これまでと少し違う意味を持っている。調べ物も本の貸し借りも目的ではなく、ただ一緒に歩き、気になったものを見るために会うのだ。


 悠真はスマートフォンで会場の案内を確かめ、出店場所と時間を一通り読んだ。菓子や雑貨のほか、地域の人が作った小さな冊子を並べる店もあるらしい。彩花が喜びそうなものを見つけると、つい詳しく調べたくなったが、画面の下に並ぶ店名を見て、いったん手を止めた。


(……また全部予定を決めようとしてる。今日は、彩花さんと一緒に歩いて見つけるのが楽しいんだよね)


 悠真は必要な集合場所と開催時間だけを手帳へ書き、店ごとの順番を決めるのをやめた。どうしても見たい店があるかどうかは、当日彩花に聞けばいい。自分が先回りして用意するより、二人で選ぶ時間を残したかった。


 そこへ家の者から、夕食の時間について知らせがあった。悠真は礼を言い、鞄に入れていた完成した文章を取り出した。短い随筆は、最後の一行を書き足さず、最初に図書館へ足を向けた少年が、次には誰かと会うこと自体を楽しみにするという変化を、日常の動作だけで終える形にした。


 紙を見つめていると、彩花が最初に原稿を読んでくれたときの顔が思い浮かんだ。彼女は言葉を選びながらも、気になったところを正直に聞いてくれた。その問いがなければ、自分が本当に書きたかったことを確かめられなかったかもしれない。


(次に見せるときは、文章にしなかったことも、少しずつ自分の言葉で話したい。でも、彩花さんに答えを急がせたいわけじゃない)


 悠真は紙を丁寧に重ね、机の引き出しへしまった。土曜日は文章を読ませることが目的ではないため、持っていくかどうかはまだ決めない。まずは彩花と一緒に、冬の駅前を歩く時間を楽しもうと思った。


     ◇


 金曜日の放課後、彩花は文芸部の部室で短編の結末を友人に読んでもらっていた。主人公は昔の約束の鍵を渡さないと決めたあと、友人が探している資料を別の方法で見つける手伝いをする。友人は最初こそ戸惑うが、理由を聞いて自分の頼み方を考え直し、二人で次にできることを話し合うという結末だった。


「……いいね。ちゃんと断ってるのに、二人が前より仲良くなった感じがする。最初に鍵を握ったときは、喧嘩になるのかと思ったけど」


 友人の感想に、彩花はほっとした。断ることが目的の場面ではなく、互いの気持ちを知ったうえで関係を続ける場面を書きたかったからだ。主人公が一度迷った理由も、最後に選んだ行動も、今の下書きなら自分の中でつながっている。


「ありがとう。もう一度読み直して、分かりにくいところだけ直そうかな。でも、今度は全部書き換えたりしないつもり」

「うん。これで十分伝わるところもあると思うよ。私、最後の会話が好きだった」


 彩花は原稿を受け取り、手帳の端へ修正する箇所だけ書き込んだ。完成した冬の部誌を読んでもらえた経験が、次の作品へつながっている。自分が書きたいものを誰かに読んでもらい、受け取った感想を確かめながら、必要なところだけ直す。それは以前よりずっと落ち着いた創作の進め方だった。


 片づけを終えて校門へ向かう途中、彩花は凛花へ週末の予定を伝えるため、短いメッセージを送った。姉からはすぐに了承が届き、駅前の手作り市なら冷え込む前に帰ってくるといいよ、と返事が来た。彩花は午後一時に会うことと、夕方になる前に帰宅する予定を伝え、鞄を持ち直した。


 青凪市の駅前へ向かう道には、週末の催しを知らせる小さな旗が取りつけられ始めていた。立ち止まって見上げると、手作りの雑貨や焼き菓子の絵が並び、会場には小さな休憩スペースもあると書かれている。


 彩花はその案内を眺め、悠真と何を見ようか考えた。以前の自分なら、せっかく誘ったのだから楽しませなければと、出店の順番や会話の内容まで考え込んだかもしれない。けれど今回は、歩いていて気になったものを一緒に見られたら、それで十分だと思えた。


(明日は、何かを確かめるためじゃなくて、悠真君と過ごすために行くんだ)


 その気持ちを認めると、少しだけ胸が熱くなった。写真の件はまだ完全には終わっていないし、互いの気持ちにどんな名前をつけるのかも決まっていない。それでも、自分が選んだ約束を楽しみにすることまで、誰かの勝手な言葉に左右されたくなかった。


 スマートフォンが震え、悠真から明日の確認が届いた。


『午後一時、駅前の案内所前で。特に急いで見たいものは決めてないから、彩花さんと一緒に選びたい』


 彩花はその文章を読んで微笑み、同じ気持ちだと返信した。駅前の旗が風に揺れるのを見ながら、彼女はまだ知らない明日の景色を想像した。何を買うかも、どの店に立ち寄るかも、二人で歩いてから決めればいい。そう思えることが、今は何より嬉しかった。

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