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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第176話 書き直した一行と、誰にも渡さない私たちの答え


 月曜日の朝、水瀬彩花が県立青葉高校へ向かう道には、週末の冷え込みで落ちた銀杏の葉がまだ残っていた。先週の土曜日に九条悠真と訪れた図書館の別館で、長く調べてきた古い駅前写真の撮影地点を確かめ、翌日には資料の出典を整理して中央図書館へ送っている。自分たちの調査に図書館からどんな返事が来るのか気になっていたが、送ったばかりなのだから確認には時間がかかるだろうと考え、彩花は鞄の持ち手を握り直した。


 古い写真に写っていたのは、道路が広がる前の旧中央通り東角だった。三つ並んだ二階の窓、角から張り出した軒、細長い看板、道路に沿う石積みまで、別館の写真帖と区画図で照らし合わせることができた。宮原時計舗という店の名前を初めて読んだときの嬉しさは、街並みが変わった今でも、そこに確かに人の暮らしがあったのだと教えてくれるようだった。


(場所が分かって終わりじゃないんだよね。資料を残してくれた人がいたから、私たちも確かめられたんだ)


 彩花は信号待ちの間、駅前から図書館へ向かう道の姿を頭に描いた。あの場所へ今すぐ行きたいわけではないし、調査結果をすぐに何か大きな発表にしたいわけでもない。ただ、自分が確かめたことを誰かが後から見直せる形に残せたら、あの写真の役割がもう少し続いていく気がした。


 教室に入ると、文芸部の友人が窓際の席で冬の部誌を開いていた。配布用の冊子を家で読んだらしく、付箋のないページの端を指で押さえながら、彩花に声をかけてきた。


「おはよう、水瀬さん。土曜日は例の古い写真、どうだった?」


「おはよう。撮影した場所は、ほぼ確認できたよ。今の駅前と道の形が違っていて、そこがずっと分からなかった理由みたい」


「へえ、すごい。写真一枚でもそんなに調べられるんだね」


 友人は素直に感心してくれたあと、部誌の最後の方を開き、土曜日に読み返していて気になったところがあると教えてくれた。そこには彩花の書いた短編の終盤があり、主人公が友人へ本音を伝える場面に、小さな鉛筆の印がついていた。


「ここ、好きなんだけどね。私は主人公がどうして今まで黙っていたのかも、もう少し知りたかった。最後に言えるようになったことは分かるんだけど、その直前まで何を怖がっていたのかなって」


 彩花は部誌を受け取り、指された箇所を読み直した。完成した作品だからもう直さないと決めているが、感想を聞くことと修正の必要性を感じることは別だ。自分では主人公の事情を十分書いたつもりでも、読む側には少し飛躍して見えるのかもしれなかった。


「ありがとう。今回はもう印刷しちゃったけど、次に書くときはそこを意識してみたい。言えなかった理由が分かると、言えたときの気持ちも違ってくるもんね」


「うん。もちろん、ここが嫌だったわけじゃないよ。主人公のこと、もっと読みたいと思ったから」


 友人は慌てて付け加え、彩花は首を横に振って笑った。褒めてもらえるのも嬉しいが、作品のどこに立ち止まったのか聞けることも、今は同じくらいありがたい。自分が伝えたつもりのことと、読んだ人が受け取ったことの違いを知るのは、次に書くための手がかりになる。


     ◇


 同じ日の昼休み、桜華学園では悠真が生徒会執行部の連絡表を確認していた。来年度の調整担当を引き受けたいという意思はすでに伝えてあり、正式な人選はまだ終わっていないが、現在の担当者と一緒に引き継ぎ用の手順を整えている。先週作った共有欄を試しに使うと、二つの行事の準備日が同じ教室に重なっていることが分かった。


 以前のやり方なら、悠真が両方の担当へ個別に連絡し、空いている教室を探してから先生に相談しただろう。しかし今回は、予定を登録した生徒が直接確認できるようにするのが、新しい仕組みの目的だった。悠真はまず担当者二人を呼び、重なっている内容と変更できる条件を一緒に確かめた。


「この日に使えるのは一団体だけだから、どちらかの予定をずらす必要がある。でも、僕がどちらを優先するか決める話ではないんだ。準備の内容を見て、先生に判断してもらおう」


「僕らの方は机を運び込むだけだから、前日でもできると思う。担当の先生に確かめてみるよ」


 片方の生徒がそう答え、もう一方も必要な時間を整理して連絡表へ書き込んだ。昼休みの終わりまでに二人の担当教員へ確認が入り、翌日の使用予定を調整する見通しが立った。悠真が自分で全部の電話をかける必要はなく、むしろ誰が確認したのかが記録に残ることで、あとから変更を追いやすくなった。


「九条君、これ、最初から全員が見られるようにしておいて正解だったね」


 現在の担当者にそう言われ、悠真は少しだけ笑った。自分が頑張ればどうにかできることでも、仕組みとして残せば、次に担当する人が同じところで困らずに済む。任された役割を自分の手柄にするより、その方がずっと意味があるように思えた。


 午後の授業へ戻る前、悠真は手帳の別のページを開いた。そこには先週彩花に見せた短い文章について、読み直して直したい箇所が記してある。自分が図書館を好きになった理由を、自由に本を選べることと、ある人と本について話せるようになったことの二つに分けて書き直してみたが、まだ最後の一行を決めかねていた。


(仕事の手順なら、何を確認すればいいか分かる。でも、あの一行は、誰かに決めてもらうものじゃないな)


 悠真は手帳を閉じた。放課後に文章を持ち帰り、今度は彩花が読んでくれることを考えすぎず、自分が本当に書きたかったことから確かめてみようと思った。


     ◇


 火曜日の放課後、彩花は学校の図書室で次に書く短編の資料を探していた。冬の部誌が展示されている棚では、返却された一冊を司書が確認していて、彩花が近づくと、前日に寄せられた感想について短く教えてくれた。読む順番によって印象が変わる作品が面白かったという声と、文章の途中で人物の気持ちがつかみにくかったという声の両方があったらしい。


「どちらも、書いた人にとって参考になる感想だと思いますよ。読者の反応を全部同じにすることはできませんから」


「そうですね。私も今日、友達から自分の作品の感想を聞きました。どこが分かりにくかったのか、教えてもらえて嬉しかったです」


 彩花が答えると、司書は頷いた。図書室では、感想を寄せた生徒の名前を無断で部員へ知らせず、内容だけを顧問を通して共有している。その方法なら、読んだ側も思ったことを書きやすくなるだろうと彩花は感じた。


 席に戻った彩花は、新しい短編の下書きを一ページ開いた。主人公が誰かの頼みを断る場面を考えていたが、今朝の友人の言葉を思い出し、断る直前の行動を少し書き足してみた。断るのが怖いのは、ただ相手に嫌われたくないからではなく、以前に小さな約束を守れなかった経験があるからという設定に変えると、主人公が一度立ち止まる理由が明確になった。


 彩花は書き終えた段落を読み返し、もう一度前の文章へ戻った。人物の事情を一気に説明するより、約束に関係するものを手にした瞬間に迷いが生じるようにすれば、読み手にも自然に伝わるかもしれない。完成した部誌の文章はそのまま大切にしつつ、次の作品では気づいたことを実際に試してみたかった。


 図書室を出る前、彩花は中央図書館からの連絡が来ていないか確かめた。受領の自動返信以外に新しい知らせはなく、提出した出典情報の確認はまだ続いているらしい。急いで答えが出るものではないと分かっているため、彩花はスマートフォンをしまい、部室へ向かった。


     ◇


 水曜日の午後、中央図書館の郷土資料担当から彩花へ連絡が届いた。授業中だったため確認できたのは放課後になってからだったが、画面に表示された差出人を見た瞬間、彩花は校舎の廊下で立ち止まりかけた。人の通行を妨げないよう階段脇へ移動し、落ち着いて本文を開いた。


 連絡には、彩花が送った二つの資料の書誌情報を担当者が照らし合わせ、中央図書館で所蔵している元の写真の掲載箇所も確認したと書かれていた。別館の写真帖にある「宮原時計舗前」の写真、旧中央通り東角の区画図、道路整備前の配置が、元の写真に写る建物と街路の特徴に一致しているという。


 ただし、元の写真の裏書きや撮影者の記録が見つかったわけではない。図書館側は、所蔵資料の検索用説明に「旧中央通り東角、宮原時計舗前とみられる」と補足し、照合に用いた資料名を記録する方針を決めたという。正確な撮影年と撮影者は未詳のままとし、元資料の説明を断定的に書き換えないことも明記されていた。


(……図書館でも、確かめてくれたんだ)


 彩花は文面をゆっくり読み直した。自分たちが調べたことを送っただけで終わらず、職員が別の資料と照合し、次に調べる人のための手がかりとして残してくれる。そのことが分かると、あの日写真帖を開いて商店の名前を見つけたときとは違う嬉しさが湧いてきた。


 さらに、図書館の記録に調査協力者として氏名を載せるかどうかについて、彩花の意向を確認する一文があった。内部の問い合わせ記録に名前を残すことと、検索画面から見える説明に名前を表示することは別の扱いになるため、公開を希望しない場合は資料名だけを掲げると説明されている。


 彩花はすぐに返信を打たず、一度画面を閉じた。先日、冬の部誌の紹介カードには校内限定で名前を載せると決めたが、図書館の検索記録は学校の外からも利用する人がいる。誰かが自分の名前を知ること自体をすべて避けたいわけではないけれど、今回の目的は写真の場所を確かめる手がかりを残すことだった。


(誰が調べたかより、どの資料を見れば同じことを確かめられるかが大事なんだよね)


 彩花は廊下の窓から校庭を眺め、考えを整理した。調査に悠真が関わっていることも、図書館で初めて会ったことも、検索説明へ書く必要はない。二人で見つけた答えを大切にしたい気持ちと、それを公に知らせたいかどうかは、別に決めていいはずだった。


 彩花は担当者へ、丁寧な照合への礼と、公開される説明には個人名を載せず、資料の根拠だけを記してほしいという希望を返信した。内部の連絡記録には必要な情報を残して構わないが、悠真の名前については本人の了承なく公開しないでほしいとも添えた。


 送信すると、少し肩の力が抜けた。自分の名前を出すかどうかについて、以前よりも迷わず判断できたのは、冬の部誌の展示で一度考え抜いたからかもしれない。どちらの場合も、何を読んでもらいたいのか、誰にどこまで伝えるのかを自分で決めることが大切だった。


     ◇


 その日の夜、彩花は悠真へ図書館からの返事を伝えた。検索用説明へ撮影地点の推定と根拠資料が補足されること、撮影年や撮影者は未詳として扱われること、公開される情報に自分たちの氏名は載せないようお願いしたことを順番に説明した。


『すごいね。彩花さんが出典を残してくれたから、図書館でも確認できたんだ。名前の件も、僕はその形がいいと思う』


 悠真の返事を読み、彩花は自然と笑った。自分が勝手に彼の名前を公開しないと決めたことを、彼も受け止めてくれている。今まで一緒に調べた時間を大切に思うことと、その事実を外部へ詳しく説明することは同じではないのだ。


『ありがとうございます。私、もう一度あの写真を見たくなりました。最初は場所が全然分からなかったのに、今はあの角がどこなのか分かるんですよね』


『うん。写真そのものが変わったわけじゃないのに、見え方が変わるのが面白いね』


 彩花はその一文を読んで、写真が広まった事件についても少し考えた。誰かが撮った自分たちの写真は、添えられた言葉によって事実ではない意味を持たされてしまった。古い街角の写真は資料と照らし合わせることで、曖昧だった説明が具体的になった。どちらも写真自体が何かを説明してくれるわけではないが、そこに付け加える言葉には大きな責任がある。


 ただ、今日はそのことを長く話したくはなかった。図書館からの返事を喜ぶことと、まだ解決していない問題を忘れないことは両立できる。彩花は手帳の「旧中央通り東角」という行の横へ、図書館側の照合確認済みという印をつけ、次に古写真について調べるなら年代や撮影者の手がかりを探すことだと小さく記した。


 そのあと悠真から、彼が書き直している文章の話が届いた。前に指摘してもらった箇所は直せたけれど、最後の一行だけまだ迷っているという。彩花は少し考え、答えを急がなくてもよいことと、書きたい気持ちが続いているなら途中の形でも読んでみたいと伝えた。


『じゃあ、土曜日に中央図書館で会わない? 完成したところまで持っていくよ。彩花さんにも、僕がどう書き直したか聞いてほしい』


 彩花はカレンダーを確かめ、土曜日の午後なら学校や家族の予定がないことを確認した。前回までのように資料を調べるためだけでなく、悠真が書いた文章を読むために会う約束は、少し新鮮だった。


『はい。午後二時に中央図書館でどうですか? 私も新しく書き始めたものがあるので、よかったら少しだけ相談したいです』


 返信すると、悠真からすぐに了承が届いた。二人とも書きかけのものを持ち寄ることになる。完璧な完成品でなくても見せ合える関係になったのだと思うと、彩花は少し照れくさくなった。


     ◇


 木曜日の昼休み、彩花は学校の図書室で短編の下書きを書き直していた。主人公が友人から頼まれたことを断る場面に、以前の失敗を思い出す小さな動作を入れたところ、なぜためらったのかが前より自然につながった。最後の台詞はまだ決めていないが、書きたいものが少し具体的になった気がする。


 そこへ文芸部の友人が来て、二人で同じ机を使うことになった。彼女は彩花の原稿を勝手にのぞかず、自分の本を開いてから、先日の部誌について学校で聞いた感想を話した。完成品を読んだ生徒の中には、登場人物の気持ちが全部説明されていないところを面白いと感じた人もいるらしい。


「私、全部分かるように書いた方がいいと思ってたけど、読んだ人が考える余地も必要なのかなって。難しいね」


 友人はそう言ってページをめくった。彩花は、自分も同じことを考えていたと伝えた。分からないことをそのまま残すのと、必要な理由を書き忘れるのとは違う。何を読者に考えてほしいのかが作者の中ではっきりしていれば、その違いも少し見極められるのではないかと思った。


「今、新しい話で試してるところなの。主人公が断る理由を全部言葉にしないで、昔の約束を思い出す動作で見せたいんだけど、ちゃんと伝わるか分からなくて」


「それなら、書けたところまで読ませてよ。私、答えを知らない側で読めるから」


 彩花は一瞬迷った。まだ途中までしか書けていないし、登場人物の名前も仮のままだ。しかし友人が読んでみたいと言ってくれたことが嬉しく、今日の放課後に少しだけ見てもらうことにした。


 この数日間、彩花は書いたものを見せることへの抵抗が少しずつ薄れている。完成した作品ならともかく、途中の文章は恥ずかしいと思っていたが、誰かに読んでもらわなければ分からないこともある。悠真が自分の書きかけの文章を見せてくれたときの勇気を思い出し、彩花は机の上の原稿を閉じた。


     ◇


 木曜日の放課後、文芸部の友人は彩花の新しい短編の冒頭を読み、しばらく考えてから顔を上げた。主人公が頼まれたことを断ろうとして手元の鍵を握る場面が気になったらしく、その鍵にどんな意味があるのか、続きで分かるのかと尋ねてきた。


「うん。前に友達とした約束に関係するものなんだけど、ここではまだ詳しく書いてないの。後ろの場面で少しずつ分かるようにしたくて」


「それなら、続きが読みたいな。私は最初、この鍵を失くしたことがあるのかなって思った。でも、怖がってる理由があるってことは伝わったよ」


 彩花はその感想を聞き、嬉しくなった。主人公が何を怖がっているのかをすぐに説明しなくても、そこに何か大切な事情があることは伝わっている。読者が想像する余地を残しながら、必要な理由を後で明かすという書き方が、少なくとも冒頭では成立しているようだった。


「ありがとう。これなら、もう少し続けてみたい。最後に主人公が何を選ぶのかも、ちゃんと考えたいな」


「楽しみにしてる。完成したら、また読ませてね」


 友人は原稿を返し、部室の片づけへ戻った。彩花は紙を受け取り、鍵の描写について小さなメモを書き足した。今までは自分の文章が誰かにどう見えるか気になっていたが、今日は読んだ人の感想が、次の場面を考える力になっている。


 帰り支度を終えた彩花は、職員室の前で顧問と顔を合わせた。冬の部誌を読んだ生徒からの感想が引き続き届いていることと、学校の外へ公開された活動紹介文について、予定どおり個人名を載せずに運用できていることを聞いた。彩花は礼を言い、部誌については今後も必要な範囲で感想を共有してほしいと伝えた。


 校内で自分の名前を示すことを選んだからといって、どんな場所でも名前を出してよいわけではない。その区別が守られていることが、彩花には落ち着いて次の作品を書ける理由の一つになっていた。


     ◇


 金曜日の午後、桜華学園では来年度の執行部に向けた準備の会議が開かれた。悠真は正式な担当者が決まるまでの引き継ぎ作業として、現在の連絡表を試した結果を報告した。重なっていた教室の利用予定は担当教員同士の確認によって解消され、共有欄を使えば変更の理由があとから追えることも分かった。


 担当教員はその結果を確認し、新しい手順を次年度の準備資料に加えることを決めた。誰か一人の努力を前提にしない仕組みができたことを、悠真は素直に嬉しいと思った。今後の正式な担当の決定はまだ先だが、役割を引き受けたいという自分の意思が、具体的な仕事の形へつながり始めている。


 会議を終えたあと、悠真は机の中から自分の文章を取り出した。彩花に読んでもらったときは短い一枚だったが、今は少し長くなり、紙の枚数も増えている。図書館で本を選ぶ自由と、そこで誰かと話せたことの両方を大切に書こうとした結果、最初の文章よりもゆっくりした流れになった。


 ただ、最後の一行についてはまだ迷いが残っていた。書きたいことがないのではなく、書こうとすると、どうしても誰かに読んでもらうことばかり意識してしまう。彩花に読んでもらいたいと思ったのは確かだが、彼女を喜ばせるためだけに書き直すのは、自分の文章ではなくなってしまう気がした。


(彩花さんに見せるのが楽しみだからこそ、僕の気持ちは僕の言葉で書きたい)


 悠真は紙を丁寧にそろえ、鞄へしまった。土曜日に会う約束は午後二時からで、今日はまだ自分の時間がある。帰宅してから最後の一行をもう一度考え、それでも決まらなければ未完成のまま持っていこうと思った。


     ◇


 土曜日の午後、彩花が中央図書館へ着いたときには、入口付近の窓に冬の光が差し込んでいた。館内は休日の利用者でにぎわっていたが、入口から少し離れた場所には待ち合わせに使える空間があり、彩花は壁際で時計を確かめた。午後二時まであと数分というところで、悠真がこちらへ歩いてくるのが見えた。


「彩花さん、こんにちは。今日は来てくれてありがとう」


「こんにちは。こちらこそ、誘ってくれてありがとうございます。悠真君の文章、楽しみにしてました」


 悠真は少し照れたように笑い、鞄を持ち直した。先週のように郷土資料を何冊も見比べるわけではないため、二人は館内の静かな閲覧席を探し、まずはそれぞれ持ってきた文章を読むことにした。席に着く前に周囲の利用者を確かめ、声を出して話す必要があるときは休憩できる場所へ移動しようと決めた。


 悠真が鞄から出したのは、二枚の紙だった。以前彩花が読んだ文章をもとに書き直したもので、書き出しには図書館の棚の間を歩く少年の姿が描かれている。彩花は両手で受け取り、最初の行からゆっくり読み始めた。


 少年は、学校や家では多くの人に名前を呼ばれ、頼まれたことをこなしている。そんな彼が図書館へ来ると、自分のことを知らない人たちと同じように棚の前へ立ち、興味のある本を選ぶ。その時間が好きだったという気持ちは、最初の原稿にも書かれていた。


 けれど、書き直された文章では、少年が本を選んでいるときに別の利用者から声をかけられる場面へ自然につながっていた。相手は少年の名前より、彼が持っている本のことを先に尋ねる。少年はなぜかそのことが嬉しく、あとになって、自分の答えを急がず聞いてもらえたからだと気づく。


(……前より、ずっと分かりやすい。最初の気持ちと、そのあとに生まれた気持ちが、ちゃんとつながってる)


 彩花はページをめくり、続きを読んだ。少年と相手は特別な約束を交わしたわけではないが、同じ棚の前でまた顔を合わせ、本について話すようになる。少年はそれまで本を一人で読むことが好きだったのに、今では読み終えた本のことを誰かに伝えたいと思うようになっている。


 最後の段落には、少年が図書館を好きな理由は一つではなくなったと書かれていた。自分で本を選べる場所だったことに加え、そこへ行けば、まだ知らない言葉を一緒に探せる人がいるかもしれないという期待が生まれている。そして、その期待を誰かに用意してもらったのではなく、自分の中で見つけたものとして大切にしたいと続いていた。


 彩花は最後の行まで読み、紙を机に置いた。読み終えた瞬間に何か言いたかったけれど、すぐに言葉にすると大切な気持ちを取り落としてしまいそうで、少しだけ余白を見つめた。


 悠真は隣の席で本を閉じ、彩花の様子を待っていた。彼が何かを尋ねる前に、彩花は顔を上げた。


「……好きです。この前より、もっと好きになりました」


 悠真は驚いたように目を瞬かせ、それから小さく息を吐いた。彩花は自分の言葉が少し急だったことに気づき、頬を熱くしながらも、なぜそう感じたのかを続けた。


「最初は、自分で本を選べることが嬉しいんですよね。でも、誰かと話せるようになったからって、その気持ちが消えたわけじゃない。好きなものが増えたっていうところが、すごく素敵だと思いました」


「……ありがとう。そこを分かってもらえたなら、書き直してよかった」


 悠真は紙の端をそっと押さえた。彩花は以前の原稿で気になった箇所をもう一度探し、今度は少年の気持ちがどこで変わったのかを無理なく追えることを伝えた。文章の長さが増えたからではなく、二つの出来事の間に必要な時間と行動が書かれたことで、人物の変化が自然に感じられたのだ。


「でも、ここだけ少し聞いてもいいですか。最後の方で、少年が『また話したい』と思うのは、相手がどんな本を読んでるのか気になるからですか。それとも、その人に会いたいからですか」


 彩花が尋ねると、悠真は紙を見つめたまま黙った。質問が難しすぎたかもしれないと思い、答えを急がなくていいと伝えようとしたところで、彼が顔を上げた。


「……最初は、本の話がしたかったんだと思う。でも、今はそれだけじゃないのかもしれない」


 声は低く穏やかだったが、いつもより言葉の間が長かった。彩花は胸が小さく跳ねるのを感じ、何も言わずに続きを待った。


「何の本を読んでるか知らなくても、会えたら嬉しい人がいる。そういう気持ちを、少年自身がまだうまく説明できないんだと思う」


 彩花は思わず視線を落とした。その言葉は文章の説明として聞いたはずなのに、今ここで向かい合っている自分たちのことを考えてしまう。悠真が何をどこまで意識して書いたのかは分からないが、彼の言葉を聞くうちに、これまで自分が抱えてきた気持ちにも似たところがあると感じられた。


(……私も、悠真君と本の話ができるから嬉しい。でも、最近は本の話をしない日でも、声を聞きたいと思うことがある)


 そのことをまだ名前のついた感情として伝える準備はできていなかった。けれど、何も言わずに話題を変えることもしたくない。彩花はゆっくり顔を上げ、自分が今話せることだけを選んだ。


「……その気持ち、私も少し分かる気がします。好きな本の話をする時間も大切だけど、一緒にいる時間そのものが好きになることって、あると思うので」


 悠真は一瞬だけ目を見開き、それから柔らかく笑った。すぐに何かを問い返してこなかったことに、彩花は安心した。今の言葉を大切に受け止めてもらえたような気がしたからだ。


     ◇


 しばらくして二人は閲覧席を離れ、館内の休憩スペースへ移動した。悠真は自分の文章を鞄へしまい、彩花が書き始めた短編について話を聞いてくれた。彩花は主人公が昔の約束に関係する鍵を握る場面から書き始めたことと、友人に読んでもらって迷う理由が伝わったことを説明した。


「それなら、続きでは鍵の意味が少しずつ分かるようになるんだね。最初に全部説明しないところが、面白そうだと思う」


「はい。でも、いつまでも隠しておくと、ただ分かりにくい話になっちゃうので。主人公が自分で決める場面までには、読んだ人も理由を考えられるようにしたいです」


 悠真は頷き、自分も文章を書いてみて、書き手が知っていることと読み手が知っていることを分ける難しさを感じたと話した。彩花はその言葉を聞き、彼が小説を書くようになったからといって、自分と同じように書く必要はないと思った。今の悠真には、日常の風景や自分の気持ちを丁寧に書く文章が合っているように感じられた。


「悠真君、無理に物語にしなくてもいいと思います。今回みたいに、自分が感じたことから書く文章も、すごく好きです」


「……そう言ってもらえると嬉しい。僕も、もう少しこの書き方を続けてみたいな」


 彩花は笑顔で頷いた。彼が次に何を書くのか楽しみに思う一方で、今の文章がどんな形で完成するのかも気になった。


「じゃあ、この文章は、あと一回だけ読み直してみるよ。今日彩花さんが聞いてくれたところを、僕の中でも確かめたいから」


「はい。でも、私が言ったことに合わせて書き直さなくても大丈夫です。悠真君が書きたい形になったら、それが一番だと思います」


 そう返すと、悠真は少し照れたように笑い、前に自分が彩花の作品へ伝えた言葉を覚えていてくれたんだねと言った。彩花は、そのときはまだ自分がどんな文章を書きたいのか分からなかったが、今は少しずつ考えられるようになったと答えた。


 休憩スペースの窓からは、冬の街並みが見えていた。旧中央通りの角があった場所はここからは見えないが、あの写真の撮影地点を一緒に確かめた日から、それほど時間は経っていない。古い写真を調べるために始まった会話が、今はそれぞれの書いた文章を見せ合う時間へつながっているのが、彩花には不思議だった。


     ◇


 午後四時前、二人は中央図書館の入口で帰り支度を整えた。彩花は凛花へ帰宅予定の連絡を送り、悠真も家へ戻る時刻を確認した。約束していた時間を超えて長く残るつもりはなかったため、出口から少し離れた場所で今日の感想を交わすことにした。


「彩花さん、今日は読んでくれてありがとう。僕、最初に書いたときより、自分の言葉で考えられた気がする」


「こちらこそ、読ませてくれてありがとうございます。私も、悠真君がどんなことを大切にしてるのか、前より知れた気がします」


 悠真はゆっくり頷いたあと、少しだけ視線を落とした。何か言おうとしているのだと分かったが、彩花は先を促さなかった。彼が言葉を見つけるまで、待ってみたいと思ったからだ。


「……あの文章に出てくる相手のこと、彩花さんは僕が誰を思い浮かべて書いたか、分かってるよね」


 彩花は胸の奥が強く鳴るのを感じた。以前も、文章を書くときに自分のことを考えていたと聞いている。けれど、今改めて確かめられると、少しだけ返事に迷ってしまう。


「……はい。前に、私のことを考えて書いたって教えてくれたので」


「うん。だから、もし文章のことを誰かに聞かれても、勝手に彩花さんのことだって分かる形にはしたくないんだ。僕が書いたものでも、彩花さんとの時間が関係してるから」


 その言葉に、彩花は顔を上げた。悠真は自分の文章を大切にしたいと思っているが、だからといって彩花のことを知らない人に説明する材料として使いたいわけではないのだと分かった。


「ありがとうございます。でも、悠真君が書いたものだから、全部私に合わせなくてもいいんですよ。私の名前を出さずに、自分が感じたこととして書くなら、私は嬉しいです」


「……そっか。じゃあ、今は僕の手元で書き直して、もし誰かに読んでもらいたくなったら、そのときは先に相談する」


 彩花は頷いた。自分に関係する部分を勝手に公にされないことと、悠真が自分の文章を書く自由を持つことは、どちらも守れる。二人で話し合いながら線を引けたことが、彩花には嬉しかった。


 別れる前、悠真は土曜日の文章を閉じたまま鞄へ入れ直し、少しだけ笑った。


「次に見せるときは、たぶん今より短くなると思う。書き足した分も、必要じゃないところがあるって気づいたから」


「それ、分かります。私も書き直してると、長くしたあとに削りたくなることがあります」


「彩花さんに教えてもらうこと、まだまだ多そうだね」


 悠真がそう言うので、彩花は首を横に振った。互いに知らないことがあるからこそ、一緒に考える時間が楽しい。片方だけが教える側でいる必要はなかった。


「私も、悠真君からたくさん教えてもらってます。だから、これからも一緒に考えたいです」


 言い終えると、悠真は少し驚いた表情を見せたあと、柔らかく笑った。その返事を聞くまでもなく、彩花は自分が今の言葉を心からそう思って言えたことに気づいていた。


     ◇


 帰宅後、彩花が机の上へ手帳を広げると、中央図書館から新しい連絡が届いていた。先に送った希望を踏まえ、検索用の補足説明には個人名を載せず、照合した資料名と「旧中央通り東角、宮原時計舗前とみられる」という記述を加えたという。館内の検索端末にも順次反映される予定だが、古い写真の撮影年と撮影者は依然として未詳であることも明記されていた。


 彩花は画面を見つめ、先週から続いていた確認が一つ終わったことを実感した。調査した人の名前を残さなくても、誰かが次に写真を探すとき、手がかりとして使える説明が加わる。自分たちが見つけたことは、これからは別の人も確かめられる情報になるのだ。


 そのことを悠真へ伝えると、彼からは短い祝福の言葉が届いた。


『よかったね。僕たちが調べたことが、次に写真を見る人の役に立つなら嬉しい』


 彩花はその返事を読み、机に置いた冬の部誌へ目を向けた。校内で自分の名前を載せた紹介文と、図書館で名前を伏せて残した郷土資料の説明。形は違っても、どちらも自分が何を届けたいのか考え、誰かと相談して決めたことだった。


 窓の外では、冬の夕方の光が家々の屋根を照らしている。彩花は手帳の最後に、「撮影地点の説明追記・図書館確認済み」と書き込み、古い写真の調査欄をいったん閉じた。正確な撮影年や撮影者について新しい資料が見つかればまた調べればいいが、少なくとも場所をめぐる迷いは、ここで一区切りにできる。


 それから、次に書く短編の原稿を取り出した。主人公が鍵を握ったまま断る言葉を探している場面は、まだ途中だった。彩花は今日悠真が見せてくれた文章を思い出し、何を説明するかより、人物がなぜその言葉を選ぶのかを大切にして続きを書き始めた。


 数行進んだところで、スマートフォンが震えた。悠真からのメッセージには、今日の帰り際に言いそびれたことがあると書かれている。彩花が何だろうと思って開くと、そこには短い文章が続いていた。


『僕が文章を書き始めたのは、彩花さんと話した時間を忘れたくなかったからなんだ。書いてみて初めて、それに気づいたよ』


 彩花は指を止めた。悠真の文章は図書館で本を選ぶ少年の話だったけれど、その奥には、彼自身が大切にしたいと思った時間があったのだと分かった。胸が高鳴り、しばらく返事を打てなかったが、やがて彩花は自分の言葉を選び始めた。


『私も、悠真君と話したことを忘れたくないです。だから本の感想も、調べ物のことも、手帳に残してきました。でも最近は、書ききれないくらい思い出したいことが増えてます』


 送信してから、少しだけ頬が熱くなった。これまでなら恥ずかしくて消してしまったかもしれない言葉だったが、今は取り消したくなかった。


 悠真からの返事は、少し間を置いて届いた。


『……それ、僕も同じだよ。今度会ったとき、文章にしなかったこともちゃんと話したい』


 彩花は画面を読み返し、静かに息を吸った。今日の文章では、少年が本の話をしたいのか、その人に会いたいのか、まだ自分でも分からないと書かれていた。けれど、悠真が文章にしなかったことを話したいと思っているのなら、自分も聞く準備をしていたかった。


 机の上の原稿には、主人公が誰かへ本当の希望を伝えようとする場面が開かれている。彩花はその文字を見つめ、今度は自分自身がどんな言葉を選ぶのかを考えた。


(まだ全部の答えを出せるわけじゃない。でも、聞いてみたい。悠真君が、本当は何を伝えたいと思っているのか)


 そう考えたあと、彩花はスマートフォンへ『はい。私も、ちゃんと話したいです』と返した。画面を伏せると、続きを書こうとしていた主人公の台詞が、さっきより少しだけ具体的に思い浮かんだ。彩花はペンを取り直し、物語の中でまだ言えずにいた言葉を、ようやく一行目から書き始めた。

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