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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第175話 古い街角に残った答えと、二人で選んだ名前



 金曜日の夜、彩花は机に広げた二枚のメモを、書いた日付の順番に並べ直していた。一枚には青凪駅前の古い写真について、これまで候補に挙げてきた二つの撮影地点が記されている。もう一枚には、前日に中央図書館で見つけた『青凪駅前商店街のあゆみ』の書誌情報と、角に建っていた商店の窓や軒先についての特徴が、細かな字で書き込まれていた。


 市立図書館の別館にある古い写真帖は、事前に予約すれば指定された席で閲覧できると分かっている。問題は、所蔵館の案内にある候補日と、彩花と悠真の予定が合うかどうかだった。彩花が来週の土曜日の午前を候補に挙げてから少し経っていたが、悠真は自分の学校の予定を確認して返事をすると伝えてくれている。


(急いで決めなくても大丈夫。私が先に申し込んで、悠真君に無理をしてもらうのは違うもんね)


 そう考えて手帳を閉じかけたところで、机の上のスマートフォンが震えた。悠真からの連絡には、翌週土曜日は生徒会執行部の予定がなく、午前なら一緒に行けると書かれていた。ただし、別館で本当にその時間に閲覧できるかどうかはまだ確認が必要なので、予約が取れなければ別の日を考えようという言葉も添えられている。


『ありがとうございます。それなら、土曜日の午前十時半で問い合わせてみますね。予約できたら、場所と利用方法も確認しておきます』


 彩花が返信すると、悠真から『よろしくお願いします。今度は彩花さんに案内してもらう側だね』と届いた。彩花はその文章に小さく笑い、所蔵館へ伝える内容を手帳にまとめ始めた。いつも本の候補や調査の方法を細かく考えてくれる悠真が、今回は自分の用意した予定へ一緒に来てくれることが嬉しかった。


 ただ、彩花には一つ気になっていることがあった。調べ始めた古い写真は中央図書館で見た郷土資料に掲載されたもので、今手元にあるのは、当時書き留めた建物の特徴や道路の形についてのメモだけだ。別館の写真帖と元の写真を確実に比べるには、先に中央図書館で元の資料をもう一度確認し、見落としていた特徴がないか確かめる必要がある。


 彩花はそのことも悠真へ伝えた。返事には、明日の午後なら自分も中央図書館へ行けると書かれていたが、彩花はすぐに同行を頼む代わりに、土曜日は自分で確認してみたいと答えた。図書館の資料を読み直すだけなら一人でもできるし、次に一緒に調べるときには、自分の確認したことをきちんと説明したかったからだ。


『分かった。じゃあ、僕は前に控えた道路の略図を整理しておくね。お互いに確認したものを持ち寄ろう』


 その返事を読んで、彩花は安心して頷いた。別々の場所で準備をしても、同じ目標へ向かえる。何もかも同時に行動しなくても、一緒に調べているという実感は失われないのだと思えた。


     ◇


 土曜日の午後、中央図書館の郷土資料コーナーには、窓から柔らかな光が差し込んでいた。彩花は受付で利用方法を確認し、前に閲覧した資料をもう一度出してもらうと、静かな机へ運んだ。資料を勝手に撮影せず、確認してよい範囲を守りながら、目的のページを開いた。


 古い写真には、駅前広場から続いているように見える道と、その奥に並ぶ建物が写っている。これまで彩花は道路の向きと屋根の並びを中心に見比べていたが、昨日のメモを手元へ置くと、画面の端にある二階建ての商店へ自然と目が向いた。二階の窓は横に三つ並び、一階の角から伸びる軒の端が、斜めに少しだけ張り出している。


 彩花はその形を写し取ろうとして、鉛筆を持つ手を止めた。窓の数や軒の形はメモに残していたものの、写真の中で商店が道路のどちら側にあるかを、これまで正確に書いていなかったのだ。今見直すと、奥へ曲がっていく道に対して建物は右手にあり、その反対側には低い石積みの縁が続いていた。


(この石積み、前に見た商店街の冊子には書いてなかったような……。でも、別の角にもあったかもしれないし、これだけでは決められないよね)


 彩花は資料のページ番号を控え、石積みの位置と、建物の軒先に見える小さな看板について追加で記した。看板の文字は写真が小さくて読めないが、縦長の板が軒の端に取りつけられていることは分かる。細部まで描いたつもりでも、写真を見返すと自分のメモには抜けがあるのだと実感した。


 そのまま別のページも調べてみると、元の写真には撮影地を明記した説明がないことを改めて確認できた。掲載資料の編集者が複数の古写真を集めて構成したことは分かるものの、個々の写真についてどこまで原資料が残っているのかは、この本だけでは判断できない。


 彩花は閲覧を終え、資料を受付へ戻した。図書館を出る前に所蔵館への予約について問い合わせると、担当の職員から、来週土曜日の午前十時半なら写真帖の閲覧席を用意できると確認が取れた。保存状態に配慮し、冊子は指定の台に置いて職員の説明に従うこと、撮影や複写はせず筆記具を使ったメモで記録すること、閲覧は正午までという条件だった。


 彩花は条件を聞き直し、自分と悠真の二人で訪れることを伝えて予約を確定した。これまで「見られるかもしれない」と考えていた写真帖に、実際に会いに行ける日が決まったのだと思うと、受付を離れるときには自然と足取りが軽くなっていた。


 帰宅途中、彩花は悠真へ予約が取れたことを知らせた。手帳に書き込んだ集合時刻と閲覧条件も短く整理して送ると、ほどなくして『ありがとう。資料を傷めないように、僕も必要なメモだけ持っていく』と返信が届いた。続けて悠真は、道順を調べたところ別館へ向かうバスが利用できそうだと伝え、中央図書館前から一緒に乗るか、それとも別館で待ち合わせるかを尋ねてきた。


 彩花は少し考え、中央図書館の前で落ち合ってから一緒に向かいたいと答えた。写真を見比べる前に、お互いのメモを確認する時間も取れそうだったからだ。悠真から『じゃあ、少し早めに会おう。バスの時刻は前日にもう一度確かめるね』と届き、二人の次の約束が具体的な形になった。


     ◇


 月曜日の放課後、文芸部の部室には、完成した冬の部誌を開く音が静かに重なっていた。学校の図書室に置いた貸出分は、少しずつ生徒の手に渡っているらしい。顧問は校内に寄せられた感想カードをいくつか持ってきたが、そこには作者への質問だけでなく、次にどんな作品を読みたいかという声もあった。


 彩花は一枚ずつ読み、どの感想もすぐに自分の作品へ結びつけないようにした。文芸部にはさまざまな文章が載っているし、読んだ人が何に心を動かされたのかは本人にしか分からない。ただ、作品を読み終えたあとに何かを書き残してもらえたことが、部員全員の励みになっているのは確かだった。


「水瀬さん、これ見て。『次は町の昔の景色みたいな話も読んでみたい』だって」


 隣の部員が示したカードを見て、彩花は思わず笑みをこぼした。ちょうど自分が古い駅前の写真を調べているところだったからだ。けれど、その調査をすぐ小説に使おうとは決めず、まずは一つの出来事として最後まで確かめたいと思った。


「本当にそういう話を書くなら、ちゃんと調べてからにしたいな。写真を見ただけで昔の暮らしを決めつけちゃうのも、違うと思うから」


「彩花らしいね。でも、調べて分かったことが物語になったら、面白そう」


 友人の言葉に頷きながら、彩花は一枚の感想カードを机へ戻した。図書室の展示を始めたことで、今まで知らなかった読者との接点が生まれている。だからこそ、次に書くものも、読んでくれる人の顔を勝手に想像して合わせるのではなく、自分が確かめたいと思ったことを大切にしたかった。


 部活動が終わるころ、顧問からもう一つ連絡があった。学校の案内ページでは冬の部誌の完成が紹介されたが、掲載されたのは学校が作成した短い活動紹介文だけで、部誌の中身や彩花の署名入りカードの写真は使われなかったという。顧問は公開前に掲載内容を確認し、部員たちの希望が守られていることを確かめていた。


 彩花は報告を聞き、ほっと息を吐いた。校内では自分の名前を出し、外部へ向けては作品の完成だけを知らせるという、二つの異なる選択がそのまま実行されたことが嬉しかった。誰かに守ってもらうだけでなく、望む範囲を自分で説明した結果が、こうして形になっていた。


     ◇


 火曜日の夕方、桜華学園では悠真が執行部の仕事を終え、来年度の連絡調整について引き継ぎの手順を整理していた。担当教員と話し合って引き受けたいという意思は伝えたものの、正式な人選はまだ終わっていない。今できるのは、現在の担当者から困っていた点を聞き、無理なく仕事を分けるための案を考えることだった。


 担当者から渡された資料を確認すると、去年は連絡表の更新時刻が人によってばらばらで、変更を見落とすことがあったと分かった。悠真はまず共通の締切と確認欄を設け、誰が最後に内容を確認したか分かるようにする案を作った。すべてを自分で確かめるのではなく、担当ごとに責任を分ける形だ。


「九条君、これだと誰か一人が欠席した日も、別の担当が状況を確認できるね」


 先輩が資料を見てそう言うと、悠真は頷いた。仕事を頼まれたときには、期待に応えなければならないという気持ちが先に立っていたが、今は続けられる仕組みを作ることの方が大切だと感じている。


 その日の帰り、琴葉が廊下で声をかけてきた。彼女は悠真の手元にある資料を見て、また一人で仕事を増やしているのではないかと冗談めかして言ったが、悠真が担当を分ける準備をしていると説明すると、少し安心したように笑った。


「九条君も、前より断るところは断れるようになったんじゃない?」


「断ったというより、最初に確かめるようになったのかもしれない。自分が何をできるかだけじゃなくて、何を引き受けたいかも考えるようにしたんだ」


 琴葉は頷き、それなら来年度も無理なく仕事が進められそうだと話した。悠真は部屋を出る前に手帳を開き、土曜日の予定に目を落とした。別館で古い写真帖を読む約束は、今の自分が忙しさに流されず大切にしたいと思って決めた予定だった。


     ◇


 金曜日の夜、彩花は凛花と一緒に翌日の持ち物を確認した。古い写真帖は閲覧できる時間が決まっており、保存のための取り扱いも細かく指定されている。彩花は余計な荷物を持ち込まず、図書館の利用案内、筆記用の鉛筆、手帳、そして中央図書館で確かめた特徴を整理した紙だけを用意した。


「いよいよ明日なんだね。長く調べてた写真、場所が分かるかもしれないんでしょう?」


 凛花は楽しそうに尋ねたが、彩花は少しだけ考えてから答えた。商店街の角という候補が強くなっているものの、窓の形が似ているだけで同じ建物だと決めてはいけない。別館の写真帖にどの程度詳しい説明が残っているのかも、まだ分からなかった。


「うん。でも、何も分からなかったとしても、ちゃんと見て確かめたいの。今まで二つの場所で迷ってた理由も、整理できると思うから」


「そっか。じゃあ、結果がどうなっても、帰ってきたら聞かせてね」


 彩花は頷き、鞄の口を閉じた。凛花は玄関まで見送りに行く必要はないと笑っていたが、帰宅する時間を知らせるという約束だけは、いつもどおり確認してくれた。


 その夜、悠真から連絡が届き、翌朝は中央図書館前で午前九時五十分に待ち合わせることになった。別館へ向かうバスの時刻は確認済みで、余裕を持って到着できる予定だという。彩花は自分の手帳にも同じ時間を書き込み、最後に、写真帖で何か分からないことがあったらそのまま分からないと書き残そうと小さく付け加えた。


     ◇


 土曜日の午前九時五十分、中央図書館の前で顔を合わせた悠真は、いつもより軽い鞄を持っていた。彩花が理由を尋ねると、写真帖の閲覧に必要なものだけに絞ったのだと答えた。普段は何冊も本を紹介するための準備をしてくれる彼が、今回は必要なメモを一冊だけ持っていることが、彩花には少し新鮮だった。


「今日は二十七冊も持ってきてないんですね」


「……僕、そんなに本を持ち歩いてるイメージなのかな」


 悠真が困ったように笑うので、彩花は首を横に振りながら、自分も今回は荷物を減らしたのだと説明した。二人はバス停へ向かい、時刻表をもう一度確認してから列に並んだ。隣にいる人を必要以上に意識することもなく、同じ予定を楽しみにしている気持ちを言葉にしながら待てることが、彩花には心地よかった。


 バスへ乗ると、二人は空いていた席へ座り、中央図書館で控えたメモを確認した。彩花は商店の二階に横並びの窓が三つあることと、右側の軒から縦長の看板が下がっていることを説明し、悠真は古い道路の略図で建物がどの角に位置するかを書き込んだ。


「石積みの縁の位置も、気になるんです。もし別の写真で見られたら、道路の向きが分かりやすくなると思って」


「じゃあ、建物の形だけじゃなくて、石積みと道路の曲がり方も見るようにしよう。どれか一つだけだと、似た場所を間違えるかもしれないから」


 彩花は頷き、手帳を閉じた。悠真が結論を先に言わず、確認する項目を一緒に考えてくれることが嬉しかった。彼と調べるようになってから、分からないことを隠さずに話せるようになったのだと思う。


 別館の最寄りの停留所で降りると、二人は案内表示に従って建物へ向かった。中央図書館より小さな建物だったが、入口には郷土資料の展示案内があり、古い街並みの写真がいくつか紹介されている。彩花は受付で予約名と二人で訪れたことを伝え、職員から利用上の注意を聞いた。


 古い写真帖は保存の状態を守るため、指定された台の上で閲覧することになっていた。頁は無理に押さえず、必要なら職員へ声をかけること、資料の撮影や複写はできないこと、記録は鉛筆で手帳に取ることが説明された。二人は了承してから案内された席へ座り、職員が運んできた厚い写真帖を前に、自然と顔を見合わせた。


(……本当に、ここまで来たんだ)


 写真の撮影地点を最初に考え始めたころは、手がかりが少なく、二つの候補を並べて眺めることしかできなかった。今は古い道路の図と商店の特徴を整理し、実際に別の資料を確かめられる場所まで来ている。そのことだけでも、彩花にはすでに小さな達成感があった。


     ◇


 職員の説明に従って写真帖を開くと、最初の方には駅前広場の全景が並んでいた。彩花と悠真は撮影年や場所の説明を確かめ、写真の中に道路整備前の景色が含まれていることを確認した。まだ目的の商店は見つからなかったが、現在より狭い通りと、広場の端に並ぶ小さな建物が写っているのを見て、昔の街の形が少しずつ分かってきた。


 ページを進めると、「中央通り東側」と記された区画に、商店街の角を正面から写した写真があった。二階に三つ並んだ窓と、一階の軒から斜めに伸びる縁。彩花はその形を見つけた瞬間、思わず身を乗り出しかけ、慌てて姿勢を戻した。


「悠真君……ここ、見てもらっていいですか」


 声を落として呼ぶと、悠真は彩花が示した写真を確認した。そこには、前に中央図書館で見たものとよく似た商店が写っている。ただし、こちらは角を正面から撮った構図で、店の名前が書かれた看板も読み取れるほど鮮明だった。


「……『宮原時計舗』って書いてあるね」


「はい。前の写真だと文字までは読めなかったんですけど、看板の細長い形が同じです」


 悠真は頷き、すぐに結論を出さず写真の端へ目を向けた。そこには道の角に沿って低い石積みが続き、その向こうに街灯が立っていた。彩花が中央図書館で控えたメモと見比べると、建物の右側にある縦長の看板だけでなく、石積みの位置と街灯の形も一致している。


 さらに、写真の下には短い説明がついていた。「道路改修以前の中央通り東角。宮原時計舗前」と記されており、写真帖の巻末には建物の所在地を示す当時の区画図が収録されているという。彩花はその行を何度も読んだ。


(……場所が書いてある。私たちが探していた、あの角の名前まで)


 悠真は彩花の表情を見て、小さく笑った。


「まずは、巻末の図を確かめよう。写真と同じ名前が載っていれば、位置の根拠がもっと強くなる」


 彩花は頷き、職員に確認してから巻末の区画図を開いた。古い図には「宮原時計舗」と書かれた建物が商店街の東側の角にあり、道の向こうには低い石積みが続いていた。駅前広場から見た場合には建物の正面が隠れる位置関係で、これまで候補の一つだった広場側の地点から同じ構図を撮ることはできない。


 彩花は二つの図を見比べ、手帳に建物と道路の位置を書き込んだ。現代の道路と古い略図の違いが、ここで初めて一つの景色としてつながった。今まで写真の奥に見えていた道を駅前広場へ続く直線だと思い込んでいたが、実際には商店街の角から緩やかに曲がる旧道だったのだ。


「……悠真君。これなら、商店街の角で間違いなさそうです」


「うん。建物の窓、看板、石積み、道の曲がり方が全部合ってる。広場側では位置関係が合わないから、僕もそう思う」


 悠真はそう答えたあと、少しだけ考えてから続けた。


「ただ、最初に見た写真の撮影年は、まだ書かれていなかったよね。場所と年代は別にしておこう」


「はい。撮影場所は商店街の東角。年代は道路改修より前と考えられるけど、正確な年は未確認……ですね」


 彩花は手帳へそう書き込み、長く残っていた二つの候補のうち、駅前広場側に「位置関係不一致」と記した。何度も迷っていた場所に結論を出すのは少し緊張したが、今回は一つの印象だけではなく、独立した資料の複数の特徴が同じ地点を示している。だからこそ、自分でも納得して線を引くことができた。


 確認を終えて写真帖を閉じる前に、彩花はもう一度「宮原時計舗前」と書かれた写真へ目を向けた。昔の人にとっては当たり前だった街角が、今の自分たちには長い調査の答えになっている。その違いを思うと、写真の中の人々の暮らしが少し身近に感じられた。


     ◇


 閲覧を終えた二人は、資料を預かっていた職員へ礼を伝えた。彩花が今までの調査と、今回の写真で位置関係を確かめられたことを簡単に説明すると、職員は興味深そうに頷き、館内で使っている郷土資料の照合記録について話してくれた。


「資料の説明が不足している場合、閲覧した方から確認できた情報を教えていただけると助かることがあります。ただし、こちらでも出典を照合してから記録を修正するので、すぐに公開情報へ反映できるとは限りません」


 彩花は少し驚いた。自分たちが調べたことを、図書館へ伝える方法があるとは考えていなかったからだ。しかし、写真帖の説明だけでは元の写真が同じ建物だと確定できないのではないかという心配も残っている。


「元の写真は中央図書館の資料に載っているので、私たちが見たものをもう一度そちらで確認した方がいいですよね」


「そうですね。今日の写真帖の書誌情報と、元の資料の該当ページを一緒に示していただければ、こちらでも確認しやすくなります。無理のない範囲で構いませんよ」


 彩花は頷き、手帳の余白に必要な情報を書き留めた。位置の推定に自信が持てたからといって、すぐ誰かに「確定した」と知らせるのではなく、資料を扱う人が再確認できる形にすることが大切なのだと分かった。


 悠真も職員に礼を言い、二人は閲覧席から離れた。壁の時計は正午近くを指していて、予約していた時間内で調査を終えられたことにほっとした。受付で返却の手続きを済ませたあと、外へ出ると冬の空気が頬を冷やした。


「……やっと、場所が分かりましたね」


 彩花が言うと、悠真は静かに頷いた。彼は嬉しそうだったが、いつものように先に何かを提案することはせず、彩花が続きを話すのを待っていた。


「私、最初は見つかると思ってなかったんです。二つの候補を何度も比べて、同じところで迷ってる気がして。でも、道路が変わったことを調べて、商店の形を見直して、今日ここでつながりました」


「彩花さんが、気になったところを途中で諦めなかったからだよ。僕も手伝ったけど、最初に古い道路のことを確かめようとしたのは彩花さんだった」


 その言葉に、彩花は少しだけ頬を熱くした。悠真が自分の成果として喜んでくれるのは嬉しいけれど、彼も何度も資料を見比べ、違う角度から考える方法を教えてくれた。どちらか一人が答えを見つけたと考えるより、二人で積み重ねた結果だと思いたかった。


「……でも、私だけじゃなかったです。悠真君が一緒に考えてくれたから、諦めずに続けられました」


「うん。だったら、二人で見つけたってことでいいかな」


「はい。その方が、私は嬉しいです」


 彩花が笑うと、悠真も柔らかく笑った。互いに手柄を譲り合うためではなく、本当にそう思っていることが伝わったのが嬉しかった。


     ◇


 別館での閲覧を終えた二人はバスで青凪駅前へ戻り、旧中央通りの東角があったとされる場所へ歩いて向かった。現在の商店街は道路の幅が広く、古い写真に写っていた時計店の建物も残っていない。案内板と手帳の古い区画図を見比べると、以前の道の角は今の歩道と植え込みの辺りに重なっていると分かった。


 彩花はメモを開き、写真帖で見た配置を思い出しながら、かつて商店があった方向へ目を向けた。そこには新しい建物と植え込みがあり、昔の街角をそのまま想像するのは難しい。それでも、道が緩やかに曲がっていた方向や、広場から見た位置の違いを、実際の空間の中で確かめられたことには意味があった。


「写真だと、ここに時計店の軒先があったんですよね。今は全然違う景色なのに、道の向きだけ少し残ってるように見えます」


「うん。昔の写真がなかったら、僕たちもここが角だったとは思わなかっただろうね」


 悠真は周囲を見回し、歩道を行き交う人々へ視線を向けた。彩花もそれにつられて目を上げたが、ふと先週までの出来事が頭をよぎった。自分たちが無断で撮られた写真も、同じように道の上で生まれた一枚だった。


 けれど、二つの写真は扱われ方が違う。古い写真は誰かが大切に保管し、資料として残し、今日こうして場所を確かめるきっかけになった。一方、自分たちの写真は本人に知らせないまま広まり、事実ではない文章が添えられた。


(写真そのものだけで、全部が決まるわけじゃないんだ。誰が何のために使うかで、人を助けるものにも、傷つけるものにもなる)


 彩花は手帳を閉じ、悠真へ向き直った。


「私たちの写真も、いつかちゃんと終わらせたいですね。今は学校で対応してもらってるけど、まだ全部が消えたわけじゃないから」


 悠真は頷いた。彼の表情には一瞬だけ悔しさが浮かんだように見えたが、すぐに落ち着いた声で答えた。


「うん。公開されていた投稿は一つ削除されたけど、最初に撮った人も、文章を付けた人もまだ分からない。だから、確認できることを一つずつ進めるしかないと思う」


「はい。でも、今日みたいに、ちゃんと確かめれば分かることもあるんですよね」


「そうだね。焦って答えを決めないことも、大事なんだと思う」


 二人はしばらく並んで街並みを眺めた。彩花は、調査が進んだからといって、すべての問題が同じように解決するとは思わなかった。それでも、分からないことを理由に自分の生活まで止める必要はないと、以前よりも強く感じていた。


 悠真が時計を確認し、バス停へ戻ろうかと尋ねた。彩花は頷き、もう一度だけ昔の商店があった場所へ目を向けた。建物の名前は宮原時計舗。撮影地点は旧中央通りの東角。今日確かめた二つの事実が、頭の中ではっきり結びついていた。


     ◇


 駅前の広場から中央図書館方面へ戻るバスに乗ったところで、彩花は悠真から返してもらう予定だった本のことを思い出した。先日の短編集は彼が読み終えていて、今日は返してもらうつもりではなかったが、鞄の中に入れてきたと話してくれた。座席で本を取り出すのは難しいため、中央図書館前で降りてから受け取ることにした。


 到着後、二人は人の流れから離れた場所へ移動した。悠真は本を取り出し、表紙に傷がないことを確かめてから、彩花へ両手で差し出した。


「貸してくれてありがとう。最後まで読んだあと、最初の話に戻ってもう一度読みたくなったよ」


「それ、私も同じでした。どの話が一番好きでしたか?」


 悠真は少し考え、最後の話が一番印象に残ったと答えた。最初は商店の主人が冷たい人に見えたのに、別の人の視点を通して読むと、言葉が少ないだけで周囲のことをよく見ていたのだと分かる。その変化が面白かったという。


「僕、最初はこの人のことをちゃんと読めてなかったんだと思う。知らないところを勝手に埋めて、そういう人なんだって決めてた」


「……私も、最初に読んだときはそうでした。でも、読み直すと別の見え方になりますよね」


 彩花は本を受け取り、表紙をそっとなぞった。何度も読んできた一冊なのに、悠真の感想を聞くと、また違う部分が気になってくる。自分が好きなものを相手へ渡し、相手が見つけたものを受け取ることで、一冊の本が以前より少し広くなったように感じられた。


 悠真はそのまま、先日書いた短い文章についても話し始めた。彩花が指摘した、図書館を好きになった理由が急に変わって見える部分を直してみたという。まだ完成とは言えないが、最初に自分で本を選べた喜びと、そのあと誰かと話せた喜びがつながるように書き直したらしい。


「今度、また読んでもらってもいいかな。彩花さんが言ってくれたことを、ただ書き足すんじゃなくて、自分の言葉で考え直してみたんだ」


 彩花は嬉しくなり、すぐに頷いた。悠真が新しい文章を完成させることも楽しみだが、それ以上に、彼自身が書くことを面白いと思ってくれているのが伝わってくる。


「もちろんです。悠真君の文章、また読めるのを楽しみにしています。でも、無理に直さなくても大丈夫ですからね」


「うん。今は、もう少し書いてみたいと思ってるから」


 その返事を聞いて、彩花は自然と笑顔になった。いつも頼まれた仕事を丁寧にこなす彼が、自分からやってみたいと思ったことを続けている。その姿を見られるのは、彩花にとって嬉しい変化だった。


     ◇


 土曜日の夕方、彩花は帰宅するとすぐに手帳を開き、今日確かめた内容を整理した。写真帖の書名と該当ページ、宮原時計舗の所在地、窓や看板、石積みの特徴を順番に書き、元の写真との一致点と、まだ未確認の点を分けて記録した。


 駅前広場側の候補は、建物の位置と視線の向きが合わないため除外した。商店街東角の候補は、複数の資料によって位置が一致し、撮影地点として採用できる。ただし、写真が撮られた正確な年と、誰が撮影したのかは分からないままなので、そこには未確認の印を残した。


 彩花はその区別をつけ終えると、少しだけ手を止めた。二つの候補を並べていた最初のページには、何度も書き直した跡が残っている。今までの迷いや試行錯誤が無駄だったわけではないのだと思うと、消しゴムで消してしまうのがもったいなく感じられた。


(分からなかったことも、ちゃんと残しておこう。どうしてこの答えにたどり着いたのか、あとから自分でも確かめられるように)


 その夜、彩花は中央図書館の郷土資料担当へ、今回の調査で分かったことを伝えるための文章を下書きした。元の写真が載っている資料と、別館で確認した写真帖の情報を添え、商店街の東角と判断した根拠を簡潔にまとめる。正式な記録として採用されるかどうかは図書館側の確認が必要なので、断定的な訂正依頼ではなく、照合のための情報提供という形にした。


 文章を書き終えたあと、悠真にも読んでもらいたいと思ったが、すぐに送ることはしなかった。まず自分で読み返し、何を知っていて何を推測しているのかを整理する。必要な部分に出典がついていることを確認してから、明日相談しようと決めた。


 机の上には、図書館で借りた本と、完成した冬の部誌が並んでいた。どちらも紙に言葉が残されたものだが、その中身をどう受け取るかは読む人によって違う。だからこそ、自分が伝えたいことを正確に書き、相手が判断できる材料を残すことが大切なのだと思った。


     ◇


 日曜日の午前、彩花は悠真へ調査結果のまとめを見せ、図書館へ情報提供したいと考えていることを伝えた。メッセージには、資料の書誌情報と自分が書いた短い文章を添え、無理に確認を頼むのではなく、気になるところがあれば教えてほしいと書いた。


 少しして返ってきた返事には、建物の名前と所在地の説明は分かりやすいが、元の写真の撮影年について「改修前」と書くなら、その根拠を一行だけ加えた方がよいという提案があった。彩花は確かにそのとおりだと思い、道路整備の記録と写真に写る旧道の形を根拠として追記した。


『ありがとうございます。そこ、私の中では分かっていたので、説明を省いていました』


『僕もこの前の文章で同じことをしたから、気づけたのかもしれない。読んでくれる人は、僕たちが頭の中で考えたことまでは分からないもんね』


 彩花はその言葉に笑った。図書館で悠真の文章を読んだときに伝えたことが、今度は自分の調査メモへ返ってきている。どちらか一方がいつも教える役になるのではなく、互いの気づきを行き来させられることが嬉しかった。


 修正を終えた彩花は、調査結果のまとめを図書館へ送る準備をした。氏名については問い合わせ先として必要な範囲で伝えるものの、公開する際に名前を載せるかどうかは別に確認してほしいと添えることにした。文芸部の紹介文を校内へ展示したときと同じく、どこまで公開するかを自分で考え、決めておきたかったからだ。


 送信前にもう一度全文を読み、元の写真の撮影者について未確認と書かれていること、商店街東角という位置については複数の資料が一致していることを確かめた。彩花は小さく息を吐き、送信ボタンを押した。


 しばらくして自動受付の返信が届き、情報提供が受け付けられたことだけが分かった。採用されたかどうかはまだ決まっていないし、図書館から追加の確認を求められる可能性もある。それでも、自分たちが調べたことを次の人が確かめられる形で残すための一歩は、確かに踏み出せた。


 彩花は画面を閉じ、机の上に戻した短編集を開いた。悠真が最後の話を気に入ったと言ってくれたことを思い出し、同じ場面をもう一度読んでみたくなったからだ。


 ページをめくる途中、スマートフォンが震えた。悠真からのメッセージには、図書館への情報提供を終えたことを聞いて嬉しいという言葉と、もう一つ、彩花が少し驚く一文が添えられていた。


『次に会うとき、写真の話とは別に、彩花さんに見せたいものがあるんだ。前に書いた文章を、少しだけ長くしてみた』


 彩花は思わず本から顔を上げた。あの短い文章は、図書館で出会ったときのことを思い出して書いたものだと、悠真は教えてくれていた。そこからさらに何を書き加えたのか、気にならないはずがなかった。


『楽しみです。今度は私も、読んだあとにちゃんと感想を伝えますね』


 返信を送ると、悠真から『うん。彩花さんに読んでもらいたい』と返ってきた。


 彩花はその画面を見つめ、自分が以前よりずっと自然に笑っていることに気づいた。古い写真の撮影地点を確かめたことで、長く続いた調査に一つの結論が出た。同時に、悠真との間にはまだ知らないこと、これから話したいことがいくつも増えている。


(終わったことが一つあって、次に楽しみにできることもあるんだ)


 彩花は短編集をそっと閉じ、机の上の手帳へ目を向けた。そこには、旧中央通りの東角にあった宮原時計舗という名前が、丁寧な字で記されている。そのすぐ下には、今日送った調査結果の控えと、図書館側の確認待ちを示す小さな印があった。


 昔の街角に残っていた答えを見つけた二人は、今度はそれぞれが書く言葉の続きを楽しみにしている。彩花はそのことが嬉しくて、次に会ったときには悠真の文章を最初から最後まで、ゆっくり読もうと決めた。


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