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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第173話 引き受ける条件と、私の名前が並ぶ本棚


 月曜日の朝、水瀬彩花は通学鞄の内ポケットに挟んでいた小さな貸し借りのメモを見つけ、玄関で靴を履く手を止めた。そこには昨日、青凪市立中央図書館で九条悠真に貸した短編集の書名があり、受け取った日付の隣に返却日は「次に会えるとき」とだけ書いてある。返してもらう日を急いで決めなかったことを思い出し、彩花はメモを奥へ戻してから家を出た。


 冬の朝の通学路は、まだ日陰に冷たさが残っていた。昨日の図書館では、自分が選んだ三冊について悠真に話し、彼が書いた短い文章まで読ませてもらった。学校へ向かう足取りがいつもより軽いのは、楽しかった時間の余韻だけではなく、悠真が自分の迷いを打ち明けてくれたことも理由だった。


(今日は先生に、来年度の仕事について聞いてみるって言ってたよね。どんな答えになっても、悠真君が自分で選べるといいな)


 彼なら任された仕事をきちんとこなすだろうと、彩花も以前は疑わずに思っていた。けれど、何かができることと、それを引き受けたいことは必ずしも同じではない。彼が何を大切にしているのか聞かせてもらった以上、その答えを自分の希望で変えさせたくはなかった。


 青葉高校の正門へ着くころ、彩花の頭は今日の授業と文芸部の予定へ切り替わっていた。冬の部誌は先週の金曜日に印刷前の最終確認が終わり、完成した冊子が届くのを待っている段階にある。図書室へ展示する紹介文にも、校内限定で自分の名前を載せることが決まり、あとは実際に棚へ並ぶ日を迎えるだけだった。


 昇降口で上履きに替えていると、同じ部の女子生徒が声をかけてきた。彼女は嬉しそうにスマートフォンの連絡画面を示し、部誌の印刷を担当するところから予定どおり作業が進んでいると顧問から知らせがあった、と小声で教えてくれた。


「水瀬さん、明日か明後日には学校へ届くかもしれないって。届いたら全員で冊数を確認するみたい」


「本当? だったら図書室にも、もうすぐ置いてもらえるね」


「うん。私、家で話したら親がすごく楽しみにしてて、完成するまでずっと聞かれそう」


 彩花は彼女と笑い合い、教室へ向かった。写真をめぐる嫌な出来事はまだ消えていないが、部誌の完成まで止まってしまったわけではない。今朝の自分は、廊下ですれ違う誰かの視線より、完成した本のページを開く瞬間の方をずっと楽しみにしていた。


     ◇


 同じ日の昼休み、私立桜華学園の生徒会執行部では、悠真が担当教員と向かい合っていた。昨日、彩花に話したとおり、来年度の仕事について具体的な担当範囲を確かめるため、自分から時間を取ってもらったのだ。机の上には次年度の行事予定案と、現在の執行部で使われている連絡表が並んでいる。


「九条君には、来年度の行事に関する連絡調整を中心に見てもらえないかと考えています。今までの仕事ぶりを見て、引き継ぎをまとめる役割にも向いていると思ったので」


 担当教員は期待している理由を説明し、学内の委員会や各行事担当から届く連絡を整理し、会議に必要な資料をそろえる仕事だと続けた。ただ、配られた紙には連絡先の一覧ばかりがあり、実際に誰が判断して誰が最終確認をするのかまでは書かれていない。


 悠真は資料の空欄へ指を置いた。仕事の量が多いか少ないか以前に、責任の境目が曖昧なことが気になったからだ。


「一つ確認したいんですが、予定が重なったときの最終判断は誰がするんでしょうか。各担当へ連絡するのは僕でも、変更を決めるのは先生方ですよね」


「もちろん、学校としての判断は教員が行います。ただ、これまで調整担当が間に入って、候補の日程をまとめてもらうことが多かったんです」


「その作業を一人で持つ形だと、何かあったときに僕が連絡を止めてしまう可能性があります。担当者をもう一人置くことや、共有できる手順を作ることはできますか」


 教員は少し意外そうに悠真を見た。これまでの悠真なら、まず任されたものを受け取り、あとから自分で効率を考えていたかもしれない。けれど、今回は最初に不明な部分を確かめたいと思っていた。


「補助をつけることは考えています。ただ、具体的な人選はまだで、最初は君に全体を見てもらえればと」


「分かりました。でしたら、引き受けるかどうかを決める前に、定例の作業時間と、急な連絡が入ったときの扱いも知りたいです」


 悠真は持参した手帳を開き、授業と既存の執行部の仕事に加え、試験期間は学業を優先する必要があると説明した。休日の個人端末へ連絡が続く形にはしたくないこと、急ぎの学校判断を生徒だけに任せないことも、落ち着いた声で伝えた。


 教員は腕を組んで考え、去年の担当者が忙しい時期に資料を抱え込んでしまった話をした。引き継ぎが十分でなく、ほかの生徒には作業の進み具合が見えにくかったという。悠真はその言葉を聞き、自分が気にしていたことが単なる心配ではなかったのだと分かった。


「では、最初に手順と担当者を決めましょう。今週中に具体的な案を作ります。九条君には、それを見たうえで判断してもらう形でどうですか」


「ありがとうございます。僕も、必要な作業をどこまで分けられるか整理してみます。ただ、それを作ったからといって必ず引き受けると約束するわけではないことは、確認させてください」


「ええ。それで構いません。責任を持って続けられるか確かめることも大切ですから」


 話し合いを終えて部屋を出た悠真は、廊下で小さく息を吐いた。断るための理由を探していたわけではないし、何でも引き受けるつもりでもなかった。今の段階で決まったのは、仕事内容を明確にした案を受け取ってから返事をするということだけだが、それは曖昧なまま頷いていた自分から見れば確かな前進だった。


(彩花さんに話したとき、自分がどうしたいのか考えていいんだって思えた。今は、誰かを困らせないために返事をするんじゃなくて、続けられる形を選びたい)


 悠真は手帳へ確認事項を書き込み、午後の授業へ戻った。自分の予定を大切にすることは、ほかの仕事を軽く扱うことではない。むしろ、約束した役割をきちんと果たすために必要なことなのだと、今は思えた。


     ◇


 青葉高校では、月曜日の放課後に図書室の展示カードの最終確認が行われた。彩花と紹介文を一緒に考えた部員は、学校司書から渡された見本を机の上に広げ、文字の大きさと署名の位置を見比べた。紹介文は二人が相談し、ほかの部員からも意見をもらった文章で、最後には「文芸部・紹介文担当 水瀬彩花」と記されている。


「この形なら、冊子を置いたときにも読めそうですね。名前のところも、ほかの文字と同じくらいの大きさですし」


 彩花がそう伝えると、司書は頷き、校内の図書室だけに展示し、写真を添えないという取り決めをもう一度確認してくれた。彩花はその説明に礼を言い、署名を見ても先週ほど緊張しなくなっていることに気づいた。


 ところが、机の反対側で別の展示物を眺めていた生徒が、彩花の名前を見て話しかけてきた。同じ学年だが特に親しくはない相手で、文芸部の部誌がもうすぐ出ると聞いて見に来たらしい。


「水瀬さんって、あの写真の子だよね。今度は自分の名前を出して宣伝するんだ」


 声は大きくなかったが、彩花にははっきり聞こえた。司書も顔を上げたものの、彩花は少しだけ考えてから、自分の言葉で答えることにした。


「このカードは、部誌の紹介文を書いた人として署名しているの。写真の件とは関係ないよ」


「でも、名前を出したらまた話題になるかもしれないじゃない。前は勝手に写真を載せられて嫌だったんでしょう?」


 相手は不思議そうに首を傾げた。彩花はその問いに、すぐ怒りを返したいとは思わなかったが、嫌だったことを理由に自分が何も発表できなくなるのは違うと感じた。


「うん。知らないところで写真を広められたのは嫌だった。でも、自分で書いた文章に名前を載せるのは、私が決めたことだから。校内だけで展示することも、写真を使わないことも先生たちと確認してるよ」


 生徒は一瞬言葉を失った。彩花の隣にいた部員が、展示カードは文芸部みんなで内容を確認したもので、部誌自体も予定どおり作っていると付け加える。司書はそれを受けて、掲示物を校外へ転用する場合は改めて確認が必要になると説明した。


「……そうなんだ。写真の件があったから、もう名前を出したくないんだと思ってた」


「心配してくれたならありがとう。でも、私がどうしたいかは私が決めたいな」


 彩花がそう言うと、相手は少し気まずそうに頷き、それ以上は何も言わずに棚の方へ戻っていった。彩花は呼吸を整え、隣の部員と一緒に展示カードを司書へ返した。


「……大丈夫だった?」


 部員が控えめに尋ねたので、彩花は少し考えてから答えた。


「ちょっと驚いたけど、大丈夫。言いたいことは言えたから」


 少し前なら、同じような言葉を聞いただけで、展示を取りやめた方がよいのではないかと迷ったかもしれない。けれど、本人の許可なく撮られた写真と、自分たちが考えて公開する文章は同じではない。そこを言葉にできたことが、彩花には嬉しかった。


     ◇


 その夜、悠真から届いたメッセージには、今日の学校での話し合いについて書かれていた。仕事内容や必要な時間がまだ曖昧だったので、そのまま返事をせず、担当を分ける案を作ってもらうことになったという。


『最初は、頼まれたらすぐに引き受けるのが正しいと思ってた。でも、続けるための条件を聞くのも責任の一つなんだって、今日少し分かったよ』


 彩花は机に置いたスマートフォンを読み返した。自分が代わりに答えを出せる話ではないが、悠真が考えていることを伝えてくれるのは嬉しい。


『ちゃんと聞けてよかったですね。悠真君がどんな仕事をしたいかだけじゃなくて、どうやって続けたいかも大切だと思います』


 返信すると、少しして悠真から、もう一つ報告が届いた。彼が借りた短編集は最初の二編まで読み進めていて、同じ商店の描き方が変わるところに気づいたらしい。


『彩花さんが描いてくれた関係図は、まだ全部は見ないようにしてる。先に自分で気づいてから見比べたくて』


 その言葉に、彩花は思わず笑った。悠真は自分の作った図を大切にしてくれているのに、最初から答えとして使おうとはしていない。二人で同じ本を読んでも、それぞれ違う順番で面白さに気づけることが嬉しかった。


『それ、いいですね。私も最初は気づかなかったところがありますし、悠真君の感想を聞くのが楽しみです』


 しばらく本の話をしたあと、彩花は図書室での出来事を簡単に伝えた。自分の名前を載せることについて別の生徒から質問されたが、写真の件とは違うと説明できたという内容だった。


 悠真の返信は、普段より少し時間がかかって届いた。


『彩花さんが選んだことだって、相手に伝えられてよかった。僕が何か言うより、彩花さん自身の言葉の方がずっと大切だね』


 彩花は画面を見つめ、胸の中が温かくなるのを感じた。悠真が困ったときに支えてくれるのは嬉しいが、何でも代わりに答えてほしいわけではない。自分の判断をそのまま受け取ってもらえたことに、安心できた。


     ◇


 火曜日の午後、桜華学園では悠真のところへ担当教員から追加の資料が届いた。昨日の話し合いを受け、来年度の連絡調整について仕事を三つに分け、行事の情報を集める担当、資料の形式を整える担当、教員と最終確認する担当が協力する案になっている。従来のように一人がすべての連絡を抱えるのではなく、週に一度の短い確認時間を設け、急な変更は教員が責任を持って判断する形だった。


 悠真は資料を読み、授業や試験の予定と重なる部分がないか確認した。すべての問題が解消されたわけではないが、担当範囲と連絡の仕方が具体的になったことで、引き受けたあとに何をすべきか想像できるようになっている。


 放課後、担当教員のところを訪ねた悠真は、補助の担当者が決まったときには共有の手順を一緒に作れるか尋ねた。教員は了承し、連絡表の形式も現在のものを見直してよいと答えた。


「九条君、これなら引き受けられそうですか」


「はい。ただ、最初の数週間は新しい手順で問題がないか確かめたいです。必要な仕事が一人に偏るようなら、その場で見直すことを約束していただけますか」


「もちろんです。役割を任せることと、君だけに全部背負わせることは違いますから」


 悠真は一度深く息を吸った。引き受ければ忙しい時期もあるだろうし、慣れない作業で失敗する可能性もある。それでも、仕事そのものにやってみたいことがあるのは確かだった。


「でしたら、来年度の連絡調整の役割を引き受けたいです。今の執行部の仕事をおろそかにしないよう、引き継ぎの準備から始めさせてください」


 教員は穏やかに頷き、正式な担当の決定は次年度の執行部の体制を整えた段階で行うが、悠真の受諾の意思を前提に準備を進めると伝えた。悠真はその違いを確認し、まだ決まっていない人選については勝手に話を進めないようにした。


 部屋を出たあと、悠真は廊下の窓際で足を止めた。何でもできると思われたいから引き受けたのではなく、続けられる条件を確かめたうえで、今の自分が取り組みたいと思ったから選んだ。その理由を、誰かに説明するときにもきちんと言える気がした。


(彩花さんに、ちゃんと話そう。役割が増えることより、僕がどう考えて決めたのかを)


 ただし、今は学校側の正式な人選まで終わったわけではない。そこを曖昧にせず伝えようと決め、悠真は鞄から手帳を取り出して今日の確認結果を書き留めた。


     ◇


 青葉高校では、火曜日の放課後に冬の部誌の完成品が届いた。顧問が部室へ運んできた箱を開けると、同じ表紙の冊子がきれいに重なっていて、部員たちは思わず声を上げた。印刷前の見本を見たときにも嬉しかったが、必要な修正がすべて反映された完成品を目にすると、その喜びは少し違っていた。


 彩花は顧問の指示に従い、箱の中の冊数をほかの部員と一緒に確認した。配布用と図書室へ置く分を分け、折れや文字の欠けがないかを数冊ずつ確かめていく。大きな印刷不良は見つからず、部誌は予定していた形で完成した。


「……本当にできたんだね」


 隣の部員が一冊を手に取り、表紙をなぞった。


「うん。何回も直したところも、ちゃんと載ってる」


 彩花も自分の作品のページを開き、最後の段落までゆっくり目を通した。原稿を作っている間には気づかなかった余白の心地よさや、ほかの作品と並ぶことで生まれる流れがあり、一冊の部誌を完成させる仕事には文章を書くこととは別の面白さがあると感じた。


 配布の準備が一段落したところで、顧問が図書室へ置く分を確認した。司書との連絡はすでに済んでいるため、翌日の開室前に展示台へ並べ、紹介カードと一緒に見てもらう予定だという。


「水瀬さん、カードの最終確認も済んでいます。明日の朝、図書室に寄る時間はありますか」


「はい。いつもより少し早く来れば大丈夫です」


「それなら、展示を始める前に一度見てもらいましょう。自分で書いたものが、どんなふうに置かれるか確かめてください」


 彩花は頷き、手元の冊子を閉じた。


 今日の帰りには、持ち帰り用の一冊を鞄へ入れられる。凛花にも読んでもらいたいし、悠真にも完成したことを伝えたい。誰かに見せたいと思えるものが、ようやく手の中にある。


 片づけの途中、部員の一人が彩花の名前が書かれた紹介カードを見たいと言った。彩花が顧問の確認を受けたうえで見本を示すと、彼は何度か読み返し、最後に笑った。


「これ、いいな。『気になる一編から』って、本当にそうだと思う。自分の作品から読んでほしい気持ちもあるけど、最初の一冊を開いてもらえたら嬉しいし」


 彩花は嬉しくなり、自然と笑顔になった。


「ありがとう。そう言ってもらえると、書いてよかったと思う」


 目立つことを避けるために名前を隠すのではなく、読んでもらうために自分で書いた文章を置く。その選択が間違っていなかったと思えたのは、誰かが褒めてくれたからだけではない。自分が伝えたかったことが、同じ部の仲間にも伝わっていると分かったからだった。


     ◇


 その夜、彩花は夕食後の居間で、完成した部誌を凛花に見せた。姉は表紙を眺めてから慎重にページをめくり、目次に彩花の名前を見つけると、嬉しそうに顔を上げた。


「すごいね。ちゃんと一冊になってる。彩花、頑張ったんだね」


「うん。みんなで何回も読み直したから、最後までできてよかった」


 凛花はその場ですべて読むのではなく、最初の数ページを確かめてから、あとでゆっくり読むと約束した。彩花は自分の作品が載っている場所を教えたものの、どんな感想を持つかは読み終わってから聞かせてほしいと伝えた。


 凛花が部誌を持って自室へ戻ったあと、彩花は悠真から届いていた連絡を開いた。彼は来年度の役割について担当範囲が明確になり、自分の意思で引き受けたいと伝えたことを報告していた。ただし、正式な人選はまだ先で、今は引き継ぎの準備を進める段階だとも書かれている。


『おめでとうございます。ちゃんと納得して決められたんですね。引き受けたあとも、一人で抱え込まないでくださいね』


 彩花が送ると、悠真から返事が届いた。


『ありがとう。そこは先生とも約束したよ。何かあったら見直せるように、仕事を分けるところから始めるつもり』


 彩花は画面を読み、安心した。役割が増えることそのものより、悠真が迷いを話し、確認し、自分の意思で決断したことが嬉しかった。


『それと、私からも報告があります。冬の部誌、今日完成しました』


 写真ではなく文章だけで知らせると、悠真からすぐに祝福の返事が届いた。表紙を見せてもらえるか尋ねられたため、彩花は部員たちの了承が取れた範囲で、校内配布用の表紙だけを後日見せると伝えた。写真を撮って送ること自体が悪いのではないが、ほかの部員が関わる制作物については確認してから扱いたかった。


『もちろん。それなら、実物を見られる日を楽しみにしてる』


 悠真の返信に、彩花は少し頬を緩めた。彼は早く見たいと言いながらも、勝手に送ってほしいとは頼まなかった。相手の確認が必要なことを自然に待ってくれる、その距離感が嬉しかった。


 しばらくして、悠真から別のメッセージが届いた。


『そういえば、借りた短編集、三つ目の話まで読んだよ。二つ目の話で冷たい人だと思った店主が、三つ目では全然違って見えて驚いた』


 彩花は思わず笑い、手帳を開いた。同じ店主について、自分も最初は似た感想を持っていた。けれど、別の人物の目を通して読むと、その人が何を考えていたのか少しずつ分かるようになる。


『私もそこが好きです。でも、まだ先にも気になるところがあるので、続きの感想を聞くのを楽しみにしています』


 メッセージを送ったあと、彩花は机の上に置いた部誌の見本を見つめた。人の気持ちを勝手に決めつけないことを、最近はいろいろな場面で考えるようになっている。


 写真に添えられた文章も、文芸部の作品も、悠真が書いた短い文章も、読む人の受け取り方によって印象が変わる。けれど、だからこそ事実と感想を分けて、自分の言葉で向き合うことが必要なのだろう。


     ◇


 水曜日の朝、彩花は少し早めに学校へ到着した。昇降口にはまだ人が少なく、廊下には掃除を終えたばかりの床の匂いが残っている。彩花は鞄を教室へ置いてから図書室へ向かい、開室前の準備をしていた司書に声をかけた。


 展示台には、冬の部誌が数冊並べられていた。隣には彩花たちが考えた紹介文のカードが立てられ、文字の大きさも見本で確認したとおりになっている。冊子の表紙は図書室に差し込む朝の光を受け、原稿を広げていた部室とは違う表情を見せていた。


「水瀬さん、最後に確認してもらえますか。何か気になるところがあれば、今なら直せますよ」


 司書に促され、彩花は一歩近づいた。カードの本文を読み、冊子の位置を確認し、最後に署名へ目を向ける。


『文芸部・紹介文担当 水瀬彩花』


 名前を見ても、昨日までのような不安はほとんど湧いてこなかった。自分たちの作品を紹介するために、何をどこまで見せるかを考え、先生や部員と確認して決めたものだったからだ。


「……はい。このままでお願いします」


 彩花が答えると、司書は穏やかに頷いた。


「分かりました。では、今日から紹介しますね」


 その言葉を聞いた瞬間、彩花は胸の奥が熱くなるのを感じた。書き直しを重ねてきた原稿が完成し、図書室の棚へ並び、誰かが手に取れるようになったのだ。


 少しして開室の時間になると、数人の生徒が入ってきた。新しい本を探していたらしい一人の生徒が展示台の前で足を止め、紹介カードを読んでから部誌を手に取った。


 彩花は少し離れた場所で、気づかれないようにその様子を見守った。その生徒は目次を開き、しばらくページをめくったあと、一つの作品のところで指を止めた。


「……これ、面白そう」


 小さな呟きだったが、彩花にははっきり聞こえた。


 生徒はそのままページを読み始め、司書へ持ち帰りの扱いを尋ねた。展示用とは別に貸出可能な分が用意されていると分かると、一冊を選び、カウンターへ向かった。


 彩花はその光景を見つめながら、思わず笑みをこぼした。


(……読んでもらえた)


 どの作品が選ばれたのか、最後まで気に入ってもらえるのかは、まだ分からない。それでも、誰かが紹介文を読み、実際に一冊を開いてくれたという事実が、今は何より嬉しかった。


 司書は彩花の表情に気づき、静かに微笑んだ。


「よかったですね。紹介文を見て足を止めてくれたようですよ」


「……はい。ありがとうございます」


 彩花は深く頭を下げた。


 写真が出回ったとき、自分の名前を知らない人に見られることが怖くなった。けれど、今日ここにある名前は、誰かが勝手につけたものではない。自分で考え、周囲と相談し、納得したうえで載せたものだった。


 その違いを、今ならはっきり感じられる。


     ◇


 午前の授業が始まる前、彩花は教室へ戻った。窓際の席に鞄を置くと、文芸部の友人が駆け寄ってきて、展示が始まったのかと尋ねた。


「うん。今朝から置いてもらえたよ。もう一冊、借りてくれた人もいたの」


 そう伝えると、友人は目を丸くした。


「本当? すごいじゃない」


「うん。私もびっくりした。紹介文を読んでくれたみたいで、嬉しかった」


 二人は小さく笑い合い、あとでほかの部員にも伝えようと話した。教室には授業前のざわめきが戻り、生徒たちはそれぞれ教科書を開き始めている。


 彩花は席につき、窓の外を眺めた。


 写真の問題は、まだ完全には解決していない。撮影した人物も、最初に文章を書いた人物も分からず、個人間で転送された画像がすべて消えたわけではない。


 それでも、公開された虚偽の文章を含む投稿は一件削除され、学校でも写真の取り扱いについて注意が伝えられた。文芸部の費用に関する誤解は記録で否定され、部誌は予定どおり完成した。


 そして今日、自分の名前が書かれた紹介カードの前で、誰かが本を開いてくれた。


 彩花は手元のノートへ、今日の日付を書き込んだ。いつか読み返したときに、この日のことを忘れたくないと思ったからだ。


(私の名前で、ちゃんと届けられたんだ)


 その気持ちは、これまでの不安とは違う温かさを持っていた。


 昼休みに悠真へ知らせたら、きっと喜んでくれるだろう。けれど、彼に知らせる前に、まず自分自身がこの嬉しさをしっかり覚えておきたかった。


 彩花は教科書を開き、授業の準備を整えた。


 そのとき、鞄の内ポケットに入れていた貸し借りのメモが少しだけ顔を出しているのに気づいた。悠真が今読んでいる短編集の名前が、そこに小さく書かれている。


 自分の大切な本を預けた相手が、その物語を楽しんでくれている。そして自分の書いた文章も、学校の誰かが選んで読んでくれるようになった。


 別々の場所で始まった二つの出来事が、彩花にはどこかつながっているように感じられた。


 誰かに選ばれるのを待つだけではなく、自分が何を届けたいのかを決めること。その先で誰かがどう受け取るかは、相手の自由として大切にすること。


 昨日まで迷っていたことの一つに、今は自分なりの答えがあった。


 授業開始のチャイムが鳴り、彩花は顔を上げた。


 窓の外には、冬の晴れ間が広がっていた。

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