第172話 三冊の本を開いた先で、君にだけ話したかったこと
日曜日の朝、彩花は目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。窓の外では冬の雲がゆっくりと流れ、家々の屋根に当たる光はまだ白く淡い。今日は午前十一時に青凪市立中央図書館で九条悠真と会う約束をしていて、机の横には昨夜のうちに用意した鞄が置かれていた。
中には自分が選んだ三冊の本と、紹介したい場面を書き留めた手帳が入っている。古い駅前写真を調べるための分厚いノートは家に置き、前に確認した資料名だけを小さなメモへ移した。今回は悠真のために選んだ本について話すのが一番の目的なのだから、荷物も時間の使い方も、それに合わせようと決めていた。
(悠真君、どんな感想を言ってくれるんだろう。気に入ってもらえたら嬉しいけど、違う見方を聞けるのも楽しみだな)
彩花は制服ではなく、落ち着いた色のニットに冬物のスカートを合わせた。何度も鏡を見るほど服装に迷ったわけではないけれど、最後にマフラーを巻いたとき、自分がいつもより丁寧に身支度をしていると気づいた。以前ならその理由を考えて恥ずかしくなったかもしれないが、今日は会いたい相手がいるのだから当然だと受け止められた。
朝食の席で凛花に待ち合わせの時刻を伝えると、姉は鞄を持ち上げようとして、その重さに少し驚いた。彩花が三冊の本を入れてあると説明すると、凛花は昨日の準備を思い出したらしく、分厚い調査ノートを置いていくことにしたのは正解だったね、と笑った。
「それで、今日の本は全部彩花の持ってるものなんだね。帰りにまた借りてきたら、重くならない?」
「うん。だから、悠真君に見せたら二冊くらいは帰りにそのまま持って帰るつもり。もし借りたい本が見つかっても、持てる分にするよ」
「そうだね。帰りは暗くなる前に連絡して。楽しんできていいから、何かあったら無理せず相談すること」
凛花の声には、先週の写真の件を心配している気持ちも少し混じっていた。けれど、会うこと自体を止めようとはせず、彩花が決めた予定として受け止めてくれている。彩花は笑顔で頷き、帰るときには知らせると約束した。
家を出る前、スマートフォンに悠真から短いメッセージが届いた。中央図書館の入口で十一時に会うこと、道中は寒いから気をつけてという、いつもどおりの気遣いだった。彩花は予定を確認したと返信し、鞄の持ち手を握って玄関を出た。
◇
青凪市立中央図書館へ着いたのは、約束の十分ほど前だった。休日の午前中らしく、新聞を読むために訪れた人や、小さな子どもと一緒に本を返しに来た家族が入口を通っていく。彩花は建物の外で時間をつぶす代わりに、自動扉を抜けたところの待ち合わせに使える広い場所で時計を確かめた。
先週、ここで悠真を待っていたときには、彼が選んでくれた三冊を思い浮かべていた。今日は立場が逆で、自分の鞄に入れた本が気になって仕方がない。三冊とも何度か読んだ作品なのに、実際に誰かへ紹介するとなると、いつものようには扱えないような気がする。
(説明しすぎたら読む楽しみをなくしちゃうし、何も話さなかったら選んだ理由が伝わらないよね)
彩花が手帳を開こうとしたところで、入口の方から聞き慣れた声がした。
「彩花さん、おはよう。もう来てたんだね」
振り返ると、悠真が濃い色のコートを着て立っていた。いつもの落ち着いた表情だったが、彩花と目が合うと少しだけ口元を緩め、そのまま歩み寄ってきた。彩花は手帳を鞄へ戻し、朝から楽しみにしていた相手を前にして、自然と笑顔になった。
「おはようございます。私も今着いたところです。悠真君も早いですね」
「うん。今日は彩花さんに紹介してもらう側だから、遅れたくなくて」
「私だって、先週は悠真君を待たせたくなかったですよ」
「それなら、同じことを考えてたんだね」
何気ないやり取りに、彩花の緊張が少しほぐれた。二人はまず館内の案内を確認し、入口から離れた一般書の閲覧席に空きがあることを確かめた。静かな場所で長く話すのは迷惑になるため、紹介する本を選ぶときは棚の近くで小声にとどめ、詳しい感想は休憩できる場所へ移ってから話すことにした。
「じゃあ、最初の一冊から見せてもらってもいい?」
悠真に尋ねられ、彩花は鞄の中から一冊目の小説を取り出した。表紙は何度も触れたせいで端が少し柔らかくなっているが、破れてはいない。主人公が知らない町で自分の居場所を探す物語で、彩花が中学生のころから繰り返し読んできた作品だった。
「この本、私がいちばん長く手元に置いてる小説なんです。主人公が急に立派になるわけじゃなくて、失敗しながら、少しずつ自分の言葉を持てるようになるところが好きで」
悠真は表紙を受け取り、彩花が示した最初の数ページを慎重に開いた。彼女は筋書きを最後まで説明する代わりに、主人公が新しい生活の中で初めて自分の希望を口にする場面を紹介した。何を言ったのかより、言うまでにどんな迷いがあったのかが大切だと思ったからだ。
「ここで主人公は相手を怒らせるかもしれないって分かってるんです。でも、黙っていたら自分が嫌になるから、ちゃんと断るんですよ」
「……なるほど。彩花さんは、この人が断れたところを大切に読んでるんだね」
「はい。前は私も、相手が困らない方を選ぶことが多かったので。少しだけ、主人公の気持ちが分かるんです」
悠真はページを見つめ、すぐには答えなかった。彩花は自分の説明が長すぎたのかと心配になりかけたが、彼はしばらくして別の箇所を指さした。
「僕は、断ったあとに主人公がもう一度相手の話を聞こうとしたところが気になった。断ったら関係が終わると思ってたのに、そこで会話をやめなかったんだね」
彩花は目を瞬かせた。その場面は何度も読んでいたのに、断ったこと自体が印象に残りすぎていて、そのあと主人公がどう向き合ったのかを深く考えたことがなかった。
「……本当ですね。私、そこはあまり意識してませんでした」
「たぶん、彩花さんが好きな理由ともつながってるんじゃないかな。自分の意思を言うことと、相手を大切にすることは、別々じゃないのかもしれない」
悠真の言葉を聞き、彩花は土曜日に写真を転送したことを謝ってきた女子生徒との会話を思い出した。嫌だったという気持ちを伝えても、その人と話すことをやめなくてよかったのだと、今ならはっきり思える。彩花は本を閉じず、悠真が指さした段落をもう一度読み、同じ物語にまだ知らなかった部分が残っていたことを嬉しく感じた。
◇
二冊目は、同じ町を舞台にした連作短編集だった。小さな商店や駅前の道が複数の物語に登場するが、主人公が変わると同じ場所の印象まで違って見える。彩花は最初に読んだとき、そのつながりに途中まで気づかなかったことを話し、ページの端に挟んでいた小さな紙を取り出した。
その紙には、どの話にどの場所が登場するのかを簡単に整理した図が描かれていた。彩花が家で読み返したときに作ったもので、店の名前を結ぶ線や気づいた順番の番号が、細かな字で書き込まれている。
「……これ、彩花さんが作ったの?」
「はい。最初は偶然同じ場所が出てきたのかと思ってたんですけど、何度も読み返したらちゃんとつながってると分かって。それが楽しくて、つい」
悠真は小さな紙を見つめ、彩花が思っていたより長く黙っていた。やがて顔を上げると、心から感心したように言った。
「これ、すごく分かりやすいね。僕なら最初から表を作ろうとして、逆に複雑にしてしまいそうだ」
「悠真君なら、全部きれいに整理しちゃいそうです。前に本を二十七冊まで候補にしたときみたいに」
「……その話は、まだしばらく続くんだね」
悠真が苦笑したので、彩花も声を抑えて笑った。ただ、彼が続けて紙を丁寧に持ち直したのを見て、自分の好きな本の楽しみ方まで大切に扱ってくれているように感じ、笑いのあとに温かな気持ちが残った。
「ここ、同じ広場なのに、片方の主人公は寂しい場所だと思ってるんです。でも別の話では、毎日誰かに会えるから落ち着く場所だって書かれていて」
「同じ場所を見ていても、そこで何があったかによって違うんだね。どちらかが間違っているわけじゃない」
「そうなんです。私はそれが好きで。みんな同じ景色を見ていても、心に残るものは一緒じゃないんだなって」
悠真は頷き、短編集の冒頭を少しだけ読み進めた。彩花は彼が真剣に文章を追っている間、無理に説明を続けず、自分も隣のページを眺めた。二人の間に短い沈黙が流れたが、言葉を探すための時間だと思えば不安はなかった。
やがて悠真は本を閉じ、彩花に返した。
「最初の話だけ読んでも面白いね。ほかの話で同じ場所がどう見えるのか、ちゃんと読みたくなった」
「それなら、持っていきますか? 私の本なので、急いで返さなくても大丈夫です」
「いいの? 彩花さんが大切にしてる本でしょう」
「だから、読んでほしいんです。でも、傷めないようにしてもらえたら嬉しいです」
悠真は少しだけ考え、持ち帰るときの扱いや返す時期について確認した。彩花は次に会うときで構わないと答えたが、彼は手帳に借りた日と返却の予定を書き込み、表紙に傷がつかないよう自分の鞄へ入れた。
「……まるで図書館の貸出手続きみたいですね」
「彩花さんの本だから、図書館より慎重になるかもしれない」
真面目な顔で答えられ、彩花は一瞬返事に迷ったあと、思わず笑ってしまった。悠真のこういうところは少し大げさだと思うのに、嫌だとは思わない。むしろ、自分が大切にしてきた本を彼に預けることが、思っていた以上に嬉しかった。
◇
三冊目を出す前に時計を見ると、正午を少し過ぎていた。図書館の閲覧席では静かな読書を続ける人が増えていて、二人は少し長く話せる場所へ移ることにした。彩花が近くで簡単に食事を取れそうなところを知っていると伝えると、悠真はそちらへ行こうと頷いた。
図書館を出ると、冬の風が頬へ当たり、館内の暖かさに慣れていた体が一瞬だけ縮こまった。二人は横断歩道を渡り、通り沿いにある小さな喫茶店へ入った。昼の混雑が落ち着き始めた店内には二人掛けの席が空いていて、彩花たちは入口から離れた窓際の席を選んだ。
彩花は温かい飲み物と軽い食事を、悠真も同じように昼食を注文した。以前なら、店を選ぶときも相手が気に入るかどうかばかり考えていたかもしれない。今日は自分が知っている場所を提案できたし、悠真が自然に受け入れてくれたことにも、少し安心していた。
「こういうところ、彩花さんが知ってるんだね」
「はい。前にお姉ちゃんと来たことがあるんです。ここなら図書館から遠くないし、落ち着いて話せるかなと思って」
「ありがとう。僕は、この辺りだと図書館へ来ることが多くて、食事をする場所はあまり詳しくないんだ」
彩花は少し驚いた。いつも何でも調べているように見える悠真にも、知らないことは当然ある。そのことを本人の口から聞くと、どこか嬉しく感じるのは不思議だった。
「じゃあ、今日は私が案内する番ですね」
「うん。頼りにしてる」
何気なく返された言葉に、彩花は一瞬だけ頬を熱くした。彼は人に頼ることをためらう場面もあるのに、今日は自分へ自然にそう言ってくれた。その変化を特別なことのように扱いすぎず、彩花は店のおすすめについて説明しながら、届いた昼食を一緒に楽しんだ。
食事の途中、悠真が窓の外へ目を向けた。歩道を行く人々の中に、似たような色のコートを着た学生が何人か見える。写真の件を気にしているのかと彩花は一瞬思ったが、悠真の表情は緊張しているのではなく、何か話す言葉を考えているようだった。
「……悠真君。昨日、私に話したいことがあるって言ってましたよね」
彩花が尋ねると、悠真は驚いたように視線を戻した。それからテーブルの上の水の入ったグラスへ目を落とし、小さく頷いた。
「覚えててくれたんだね」
「もちろんです。私も聞きたいと思ってました。でも、急がなくて大丈夫ですよ」
「うん。今、話してもいいかな」
彩花が頷くと、悠真は少しだけ背筋を伸ばした。いつも人前では落ち着いて話している彼が、今は言葉の始まりを探しているように見える。彩花は先を促さず、彼が自分で話し始めるのを待った。
◇
「僕ね、桜華学園では、来年度の執行部の仕事について少し相談を受けてるんだ」
悠真がそう切り出したので、彩花は静かに耳を傾けた。今も生徒会執行部の一員として仕事をしていることは知っていたけれど、来年度の担当について具体的な相談が始まっていることは、初めて聞いた。
「今より人と調整する仕事が増える役割を任せたいって言われていて、周りからは僕なら大丈夫だろうって思われてるみたいなんだ。でも、僕自身はまだ返事を決められてない」
「……そうなんですね。忙しくなりそうだから、迷ってるんですか?」
「それもある。でも、一番は、僕が引き受けたいと思ってるのかどうか、うまく分からなくなったことかな」
悠真は苦笑し、グラスへ指先を添えた。普段なら頼まれたことをきちんとこなすのが当たり前で、それを嫌だと思っていたわけではないという。ただ、誰かに任せたいと言われるたびに、できるから引き受けるという判断だけでよいのだろうかと考えることが増えていた。
「九条家の名前があるから期待されることもあるけど、学校で実際に一緒に働いてくれてる人のことは大事にしたい。だから、役割そのものを嫌だと思ってるわけじゃないんだ」
「はい」
「でも、引き受けたあとに自分の時間がなくなって、それを誰かのせいにするのは違うと思う。僕が何を大切にしてるのか、ちゃんと分かったうえで返事をしたくて」
彩花はすぐに励ましの言葉を返すことができなかった。悠真が頼られていることは知っていたし、彼ならどんな仕事でも上手にこなせそうだと思ったこともある。けれど、それと本人が引き受けたいと思うかどうかは、別の話なのだろう。
(私も、悠真君なら大丈夫って、簡単に思ってたかもしれない)
自分が同じことを相談されたら、どう答えてほしいだろう。能力があるから引き受けた方がいいと勧められるより、何をしたいのか聞いてもらえた方が嬉しいはずだった。
「悠真君は、その役割でやってみたいことがあるんですか?」
彩花が尋ねると、悠真は少し考え、首を傾けた。
「あるにはあるんだ。今まで担当してきた仕事で、不便だと思ったところを直したい。でも、役割を増やさなくても提案はできるかもしれないとも思ってる」
「それなら、どっちを選んでもいい理由があるんですね」
「……そういうことになるのかな」
悠真が少し驚いたように言ったので、彩花は自分も考えを整理しながら続けた。
「引き受けないと何もできないわけじゃないし、引き受けたら絶対に嫌なことばかりになるわけでもないですよね。だから、誰かに言われたからじゃなくて、悠真君がどんな毎日を過ごしたいのかで決めてもいいと思います」
悠真はしばらく彩花を見つめ、それからゆっくり笑った。
「……彩花さんに話してよかった」
「私、何も答えを出せてませんよ」
「うん。でも、答えを決めてもらいたかったわけじゃないから。僕がまだ迷ってるってことを、彩花さんに知っておいてほしかったんだと思う」
彩花は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。悠真は自分の迷いを隠さずに話してくれたし、彩花が決断を代わりに下すことも求めなかった。二人とも相手の話を聞きながら、自分の考えを持ったままでいられることが嬉しかった。
「その話、ほかの人にも相談したんですか?」
「執行部の担当の先生には、返事をする前に仕事内容と必要な時間をもう少し確認したいって伝えてる。でも、僕が迷ってる理由までは、まだうまく話せてなかった」
悠真は少しだけ笑い、続けた。
「今日、彩花さんに話してみて、自分が確かめたいことが分かった気がする。明日、先生に具体的な担当範囲を聞いてみるよ。今の仕事も、これから自分が使いたい時間も、どちらも考えて決めたいから」
「……はい。悠真君が決めたことなら、私は応援したいです。でも、忙しくてつらくなったときは、ちゃんと話してくださいね」
その言葉に、悠真は目を細めた。
「ありがとう。彩花さんにも、僕が何かを勝手に決めて困らせるようなことはしたくないから、予定が変わるときはちゃんと伝える」
彩花は頷いた。図書館で会う時間を大切にしたい気持ちはあるが、悠真が自分の活動を狭めてまで時間を空けてくれることを望んでいるわけではない。互いに予定が合わなければ別の日にすればよいし、会えない時間にもそれぞれ大切にしたい生活がある。
話し終えた悠真は、少しだけ肩の力が抜けたようだった。彩花も食事の続きを口にしながら、彼が大きな秘密や劇的な告白を用意していたわけではないことに、かえって安心していた。大切な相手に迷いを話せること自体が、二人にとって新しい関係の形なのだと思った。
◇
昼食を終えて図書館へ戻ると、午後の利用者が増えていた。彩花たちは静かな閲覧席に二つ空きを見つけ、持参した三冊目を開いた。文章を書くときの迷いや、書いたものを読み返すことについて考えた本で、彩花が文芸部の活動を始めてから何度も手に取ってきた一冊だった。
「これを選んだのは、私がどうして文章を書くのが好きなのか、悠真君にも知ってほしかったからなんです」
彩花は冒頭の章を示し、うまく書けない日にも机に向かう理由を考えさせられたと話した。作品を書くとき、頭の中では分かっているつもりの気持ちが、文章にすると急に曖昧になることがある。自分にとって大切な場面ほど説明しすぎてしまい、読み直すと本当に書きたかったことから遠ざかっていると気づくこともあった。
「でも、何回も直して、やっとこれだと思える一文ができると嬉しいんです。冬の部誌も大変だったけど、最後に見本を読んだとき、ちゃんと形になったんだって思えました」
悠真は本を読みながら頷き、彩花が大切にしている箇所を指で追った。しばらくして、彼はページを閉じずに静かに尋ねた。
「彩花さん、書いたものを見せるのって、やっぱり怖いこともある?」
「ありますよ。自分が好きな文章を、ほかの人も好きだとは限らないですから。でも、読んでもらわないと分からないこともあると思います」
「……そうなんだ」
悠真の返事には、先ほどまでと違う迷いが混じっていた。彩花は彼の顔を見て、何か言いたいことがあるのだろうかと考えたが、先を急かさず待った。
「実はね、土曜日の夜に、僕も短い文章を書いてみたんだ」
「悠真君が?」
「うん。彩花さんに随筆集を紹介して、自分が好きなものを言葉にするのって思ってたより難しいんだなって気づいて。それで、少しだけ書いてみたくなった」
悠真は鞄から折り目のついていない紙を一枚取り出した。何度か書き直した跡があるのか、余白には小さな修正が加えられている。彩花はその紙を見つめたまま、すぐには手を伸ばさなかった。
「……読んでもいいんですか?」
「できれば、読んでほしい。上手かどうかは分からないけど、彩花さんにどう感じたか聞いてみたいんだ」
その言葉は、さっき彩花が自分の書いた部誌について話したこととよく似ていた。読んでほしい気持ちと、相手にどう受け止められるか分からない不安が同時にあるのだとしたら、それは悠真も同じなのかもしれない。
彩花は両手で紙を受け取り、読み始めた。そこには、ある少年が慣れた場所から少し離れ、知らない人と同じ本棚の前に立つ時間について書かれていた。家や学校で与えられる役割とは違い、何を手に取るかを自分で決められることが嬉しかったという、短い文章だった。
文章の途中には、同じ棚の前で誰かと話したとき、相手が自分の名前や立場より先に、本を選んだ理由を聞いてくれたことへの驚きも記されている。特定の人物の名前は書かれていなかったが、彩花はそこで指を止めた。
(……もしかして、私のこと?)
そう思った瞬間、胸が小さく跳ねた。けれど、書かれた文章がそのまま事実の記録とは限らないし、悠真が誰を思い浮かべて書いたのかは本人にしか分からない。彩花は先を急がず、最後の行まで読んだ。
結びには、特別な出来事が起きたわけではない一日について、また同じ場所へ行きたいと思えたことが書かれていた。大げさな言葉はなく、読んだ人がそれぞれの記憶を重ねられるような、柔らかな終わり方だった。
彩花は紙を机に置き、悠真を見た。彼はいつもより少し緊張しているようで、彩花が口を開くのを待っていた。
「……好きです、この文章」
彩花が言うと、悠真は目を見開いた。
「本当に?」
「はい。自分で選べることが嬉しかったっていうところ、私も分かる気がします。それに、最後の『また来たい』って気持ちが、無理に説明されていないのも好きです」
悠真は安心したように息を吐いた。彩花はその反応を見て、ただ褒めて終わらせるのではなく、読んで気づいたことも伝えたいと思った。
「でも、一つだけ聞いてもいいですか。途中で、少年がどうしてその場所を好きになったのか、少し分からなくなるところがあって」
「……どこ?」
彩花は該当する段落を指さした。最初は自分で本を選べることが嬉しいと書いてあるのに、次の段落では誰かと出会ったことだけが理由のように読めるため、二つの気持ちがどのようにつながったのか知りたいと伝えた。
悠真は紙を見つめ、しばらく黙っていた。彩花は言いすぎたのではないかと心配になったが、やがて彼は小さく頷いた。
「……確かに、そこが抜けてるね。僕の中ではつながってたから、書かなくても分かると思ってた」
「私も、よくそうなります。自分が知ってることって、文章に書き忘れちゃうんですよね」
「じゃあ、そこだけもう少し書き直してみる。彩花さんが読んでくれたから、分かったことがある」
悠真は嬉しそうに笑い、指摘した箇所へ小さく印をつけた。彩花は彼が自分の言葉を真剣に受け止めてくれたことに、少し驚いた。これまでは悠真に教えてもらうことも多かったけれど、今日は自分の経験が彼の役に立ったのだと感じられた。
◇
悠真が紙を鞄へしまったあと、彩花は一つだけ確かめたいことがあると伝えた。先ほどの短い文章に書かれていた、名前より先に本の話をした相手が誰なのかということだった。
「……あの文章に出てきた人って、もしかして私ですか?」
悠真は少しだけ視線をそらした。いつもなら返事を考えるときにも落ち着いているのに、今日は珍しく言葉を選んでいるようだった。
「……うん。彩花さんのことを考えて書いた。ただ、最初からそのつもりだったわけじゃなくて、書いてたら自然に思い出して」
彩花は胸が熱くなるのを感じた。図書館で初めて会ったころ、自分が悠真の家のことを詳しく知らなかったのは確かだった。彼が何を読むのか気になったのも、最初はただ本の話がしたかったからだ。
「私、悠真君がどんな家の人なのか、最初はよく知らなかったです。でも、本の話をしてると楽しかったから、また会いたいと思いました」
「……そうなんだね」
「はい。今は九条家のことも少しずつ知ってますけど、それで悠真君と本の話がしたい気持ちが変わったわけじゃないです」
言い終えたあと、彩花は自分が少しだけ勇気のいることを話したと気づいた。けれど、言葉を取り消したいとは思わなかった。
悠真は長い間、何も言わなかった。彩花が不安になりかけたころ、彼はようやく口を開いた。
「……ありがとう。僕、そういうふうに言ってもらえるのが、すごく嬉しい」
声は静かだったが、目元には隠しきれない喜びがあった。彩花は彼の表情を見て、自分まで笑顔になってしまった。
しばらくして悠真が、少し困ったように付け加えた。
「ただ、あの文章を直すの、思っていたより難しくなりそうだね。彩花さんが読んでくれたと思うと、一行ずつ気になってきた」
「それ、私も部誌で何度も経験しました。でも、全部一度に直そうとしなくていいんですよ」
「……うん。まずは、さっき教えてくれたところからにする」
二人は顔を見合わせ、周囲の迷惑にならないよう小さく笑った。悠真が文章を書くことまで完璧にこなそうとする姿を想像すると、彩花には少しおかしかった。けれど、今は彼が新しく始めたことを、無理なく楽しんでほしいと思った。
◇
午後三時を過ぎたころ、彩花たちは閲覧席を片づけ、持ってきた本と筆記具を鞄へしまった。一冊目の小説と三冊目の文章についての本は彩花が持ち帰り、二冊目の短編集だけは悠真へ貸すことになっている。彩花が忘れ物を確かめると、悠真は自分の手帳に借りた本のことをもう一度書き込んでいた。
「返すとき、もし感想が長くなったらどうしよう」
悠真が真顔で言うので、彩花は思わず首を傾げた。
「長くても大丈夫ですよ。悠真君の感想、聞きたいですから」
「じゃあ、安心して読むよ。……でも、僕が書くとつい細かくなりそうだから、最初にどの話が好きだったかから伝える」
「それ、楽しみです。私が気づかなかったところも、きっと見つけてくれそうですし」
彩花が答えると、悠真は嬉しそうに笑った。二人は図書館の出口へ向かいながら、今日話したことを振り返った。三冊の本についてはそれぞれ違う感想が生まれ、悠真の仕事の悩みも、自分自身で考えるための言葉を見つけられたようだった。
入口を出ると、冬の風は午前中より少し弱くなっていた。彩花はマフラーを整え、図書館の前で立ち止まった。
「悠真君、今日は聞いてくれてありがとうございました。本のことも、私が書くのを好きな理由も、ちゃんと話せた気がします」
「こちらこそ。彩花さんの好きなものを知れて嬉しかった。それに、僕の話まで聞いてくれてありがとう」
悠真は少しだけ照れたように笑った。彩花はその表情を見て、先ほどの文章についてもう一度考えた。彼は何でも落ち着いてこなせる人だと思っていたけれど、実際には迷うこともあるし、自分の言葉がうまく伝わるか不安になることもある。
(悠真君のこと、また少し知れたんだ)
それが嬉しくて、彩花は自分から言葉を続けた。
「来年度のお仕事のこと、すぐに決めなくても大丈夫だと思います。先生に聞いてみて、それでも迷ったら、また話してくださいね」
「うん。明日、必要なことを確認してから考える。引き受けるにしても断るにしても、僕自身が決めたって言えるようにしたい」
「はい。私は、どっちでも悠真君の話を聞きたいです」
悠真は一瞬だけ目を見開いた。それから少し考え、普段よりゆっくりと頷いた。
「……じゃあ、決まったら最初に伝えてもいい?」
「もちろんです」
彩花が答えると、悠真は穏やかに微笑んだ。大切な話を最初に聞きたいと思ってもらえることは、思っていた以上に嬉しかった。
二人は帰る方向を確かめ、近くの交差点まで一緒に歩くことにした。先週の写真が撮られた道へ自然と足が向いたが、彩花は特別に立ち止まろうとは思わなかった。周囲の人に気をつけながら、いつもどおりの速さで悠真と並んで歩いた。
横断歩道の前で信号を待っていると、彩花はふと、先ほど悠真が見せてくれた文章を思い出した。
「悠真君。あの文章、直したあとも読ませてもらえますか?」
「うん。よかったら、また感想を聞かせてほしい」
「はい。でも、私の意見だけが正解じゃないですからね。悠真君が書きたいことを、一番大切にしてください」
悠真は少し驚いたように笑った。
「それ、彩花さんがいつも僕に言ってくれることと似てるね」
「……そうかもしれません」
二人は信号が青に変わるのを待ってから、並んで横断歩道を渡った。交差点の向こうで立ち止まると、悠真は彩花へ向き直り、今日の礼をもう一度伝えた。
「また、僕の書いたものを読んでもらってもいいかな」
「はい。私も、悠真君に部誌を読んでもらうのを楽しみにしています」
「……それなら、僕もちゃんと感想を考えないとね」
彩花は首を横に振り、少し笑った。
「考えすぎなくていいです。悠真君が読んで感じたことを聞けるのが、いちばん嬉しいですから」
そう言うと、悠真はしばらく彩花を見つめた。何かを言いかけたようだったが、やがて柔らかく笑い、また連絡すると約束した。
◇
帰宅した彩花は、玄関で靴を脱いでから、凛花に帰ったことを伝えた。居間へ入ると、姉は植物の本を開いていたが、彩花の顔を見るとすぐに微笑み、図書館はどうだったかと尋ねてきた。
「すごく楽しかったよ。三冊とも紹介できたし、そのうち一冊は悠真君に貸したの」
「そうなんだ。じゃあ、今度は感想を聞くのが楽しみだね」
「うん。それに、悠真君も自分で短い文章を書いてみたんだって。今日、読ませてもらったの」
凛花は少し驚いたように顔を上げた。
「悠真君が? 何を書いてたの?」
「図書館で過ごす時間のこと。どんな人にとっても本を選べる場所があるっていうのが、嬉しかったんだって」
彩花はそう説明してから、文章の具体的な内容をどこまで話していいのか考えた。悠真が自分に読ませてくれたものを、本人に断らずすべて人へ伝えるのは違う気がしたため、詳しい部分は控えることにした。
「まだ直してる途中だから、完成したらまた読ませてもらう約束をしたんだ」
「それなら楽しみだね。彩花、今日は本を紹介しただけじゃなくて、悠真君の新しいところも知れたんだ」
「……うん。そうなの」
彩花は小さく頷いた。悠真が書いた文章のことも、執行部の仕事について迷っていることも、今日初めて知ったものだった。誰かに頼りにされている彼が、自分の意思を確かめようとしていることを聞けたのは、彩花にとって大切な経験だった。
凛花はそれ以上詳しく聞かず、温かい飲み物を用意してくれた。彩花はカップを受け取り、借りてきた本を整理するために自室へ戻った。
机の上に二冊を置くと、鞄の中が少し軽くなっていることに気づいた。三冊のうち一冊を悠真に貸したからだが、その空いた場所が、ただの荷物の減り方とは違う意味を持っているように感じられた。
(私が大切にしてきた本が、今は悠真君のところにあるんだ)
返してもらうことを急ぐ必要はない。彼がどこを面白いと思い、どんなふうに読んでくれるのかを、次に会ったとき聞ければ十分だった。
彩花は机の引き出しから文芸部の部誌の紹介文の控えを取り出した。自分の名前を載せることを決めたあの文章も、もうすぐ図書室の展示台に並ぶ予定になっている。
自分の好きな本を紹介することも、自分が書いた文章を誰かに読んでもらうことも、以前より自然に考えられるようになった。そのきっかけは悠真だけではなく、文芸部の仲間や凛花との時間にもあるのだろう。
彩花は手帳の新しいページを開き、今日の出来事を短く書き留めた。悠真が借りた本の名前、彼が一冊目の小説で気づいた場面、そして執行部の仕事について自分で決めたいと話してくれたこと。細かな感情を全部説明しようとはせず、忘れたくないことだけを残した。
最後に、これまでとは少し違う言葉を書いた。
『次に会ったときは、悠真君が何を決めたのか聞きたい。答えがまだ出ていなくても、ちゃんと聞きたい。』
彩花はその一文を読み返し、静かに手帳を閉じた。相手の答えを急かさず、自分の願いも隠さずにいられることが、今日の何より大きな収穫だった。
◇
同じ日曜日の夕方、悠真は自室の机に、彩花から借りた短編集を置いていた。表紙の端を指でそっと押さえ、彼女が描いた小さな関係図を思い出す。どの町のどの場所に誰が立っているのかを、楽しそうに説明する彩花の姿が、まだ鮮明に浮かんできた。
その隣には、自分で書いた一枚の文章がある。彩花に指摘してもらった箇所には小さな印がついていて、二つの気持ちのつながりを書き足すための余白が残っていた。
悠真はペンを持ち、すぐには書き始めなかった。
学校で新しい役割を任されるかどうかを決めることと、図書館で知り合った大切な友人に自分の文章を読んでもらうことは、一見すると関係がないように思える。けれど、どちらも自分が何を大切にしたいのかを、自分の言葉で確かめることにつながっていた。
(彩花さんに聞いてもらえたから、明日はちゃんと自分の希望を話せそうだ)
誰かに期待されることが嫌なのではない。その期待に応えたい自分も確かにいるけれど、自分の時間や気持ちを置き去りにしてよいわけではないのだと、今日ようやく考えられた。
悠真は短編集の最初のページを開き、一つ目の物語を読み始めた。彩花が最初に気づいた場所のつながりをすぐ探すのではなく、まず自分が何を感じるのかを大切にして読んでみようと思った。
数ページ進んだところで、文章の中に小さな商店が登場した。彩花が描いた関係図では二つ目の物語にも出てくる場所だったが、今読んでいる主人公にとっては、雨宿りをするだけの何でもない店らしい。
悠真はそこで少し笑った。別の人物にとって同じ店がどんな意味を持つのか、今はまだ知らない。けれど、その違いを知るために次の話も読んでみたいと思う。
その感覚は、今日彩花が教えてくれたこととよく似ていた。
悠真はページをめくり、物語の続きを読み進めた。明日、担当教員に具体的な仕事内容を確認したら、自分が引き受けたいと思う理由と、迷っている理由を両方伝えるつもりだった。
そして、その結果を彩花に話すときには、誰かの期待に合わせた答えではなく、自分で選んだ言葉で伝えたい。
机の端には、次のページを開くための栞が置かれていた。悠真はそれを手に取り、彩花から借りた本の途中へ静かに挟んだ。




