第171話 名前を載せる勇気と、消せなかった一枚の行方
水曜日の一時間目が終わると、県立青葉高校の廊下には教室を移動する生徒たちの足音が重なった。水瀬彩花はノートを鞄へしまい、次の授業で使う教科書を取り出したところで、廊下側の席から自分を呼ぶ声に気づいた。顔を上げると、文芸部で一緒に冬の部誌を作っている女子生徒が、折り畳んだ紙を片手に立っていた。
「水瀬さん、今日のお昼、ちょっと時間ある? 先生が図書室の展示について相談したいんだって」
「展示? 部誌のことかな」
「たぶん。完成したら新刊紹介の棚に置いてくれるらしくて、紹介文もあるといいねって話になったみたい」
彩花は思わず表情を明るくした。月曜日に印刷前の見本を確認したばかりで、見出しの間隔など細かな修正は残っているものの、自分たちの作品が一冊として形になるところまで進んでいる。学校の図書室に置いてもらえるなら、文芸部以外の生徒にも読んでもらえる機会が生まれるはずだった。
「私でよければ、行ってみたいな。お昼は大丈夫だよ」
「よかった。じゃあ、食べ終わったら図書室で待ち合わせね」
彼女はほっとしたように笑い、自分の教室へ戻っていった。彩花も教科書を抱えて席を立ったが、廊下へ出る直前、教室の掲示板に貼られた小さな連絡用紙が目に入った。
そこには、学校生活の中で撮影した写真を共有するときは写っている人の了承を確かめること、未確認の情報を事実として広めないこと、困った場合は担任や担当教員へ相談することが記されていた。誰かの名前や今回の写真に直接触れる内容ではなかったが、彩花は自分が顧問にお願いした対応の一つが、実際に動き始めたのだと分かった。
(名前を出さずに、こういう形でも伝えられるんだ)
何かがすべて解決したわけではない。それでも、事情を知らない生徒にまで自分の写真を見せることなく、同じようなことを繰り返さないための注意を届けられたのは大きかった。彩花は紙をしばらく見つめたあと、授業開始の予鈴を聞いて廊下へ向かった。
◇
昼休みの図書室では、窓際の展示台が次の入れ替えに向けて空けられていた。彩花と文芸部の女子生徒が入ると、学校司書がカウンターから出てきて、部誌の見本を見せてもらったことと、ぜひ完成後に紹介したいと考えていることを話してくれた。
「ただ棚に並べるだけだと、何の冊子なのか分からない生徒もいるでしょう。部員のみなさんがどんな気持ちで作ったのか、短い言葉で伝えられたらと思って」
司書は展示台の幅を測った紙を広げ、紹介文を載せるカードの見本を示した。長い説明は必要なく、百五十字程度で構わないという。彩花はそれなら自分にもできるかもしれないと思ったものの、カードの下部に小さく設けられた署名欄を見て手を止めた。
「名前は、必ず書くんですか?」
「いいえ。『文芸部より』でもいいですし、希望があれば担当した人の名前を入れることもできます。ただ、展示する前に顧問の先生と、書いた本人に確認を取ります」
説明は明快だった。それなのに彩花の胸には、写真が広まったあの日と似た、わずかな緊張が走った。自分の名前を人の目に触れる場所へ出せば、また勝手な話につながるのではないかという考えが浮かんだからだ。
隣の部員は彩花が黙ったのに気づいたらしく、司書へ向き直った。
「文章は私たちで相談して作ります。名前のことも、あとで先生に確認してから決めてもいいですか?」
「もちろん。急いで決める必要はありませんよ」
二人は礼を言ってカウンターを離れ、展示台の前で今の説明を振り返った。空いた棚には、次に紹介される本を待つように小さな仕切りだけが残っている。
「水瀬さん、無理して書かなくても大丈夫だからね。私がやってもいいし、みんなで考えてもいいんだし」
「ありがとう。でも、書くこと自体はやってみたいの。ちょっと、名前のことを考えちゃって」
彩花が正直に話すと、彼女はすぐに頷いた。
「そっか。あの写真のことがあったもんね」
「うん。でも、書いたものを展示してもらえるのは嬉しいし、名前を出すことと、勝手に写真を広められることは違うはずなんだよね」
口にしてから、彩花は自分でも少し驚いた。今までは人目につくこと自体を避けた方が安全なのではないかと考えかけていたが、書いた文章を誰かに読んでもらいたいという願いまで手放す必要はない。何を、どこで、誰に見せるのかを自分で決められるなら、それはまったく別の行動だった。
「私は紹介文を書いてみたい。完成したら、みんなにも読んでもらっていいかな」
「もちろん。私も一緒に考えるよ」
部員は笑い、彩花が手帳を取り出す間、展示台に置ける冊子の数を確認していた。誰かが代わりに決めてくれるのを待つのではなく、自分がやりたいことを先に伝えられたのが、彩花には少し嬉しかった。
◇
同じころ、私立桜華学園では九条悠真が、生徒会執行部の仕事を終える前に担当教員から声をかけられていた。先週から二つの学校で確認されている写真について、公開された場所が一つだけ判明したという報告だった。
「画像そのものが最初に投稿された場所かどうかは分かりません。ただ、一般の人にも見られる状態で、写真に事実と違う文章を添えた投稿が一件確認できました」
教員は投稿日時と画面の記録を示した。悠真がすでに見ていた、九条家が青葉高校の文芸部を支援していると書かれた画像と同じ内容だったが、公開投稿の日時は学校で最初にその文章を聞いた日よりも後になっている。
「こちらでは記録を保存したうえで、投稿先の運営窓口に削除を求めています。青葉高校側にも、必要な情報は学校同士で共有する予定です」
「ありがとうございます。ただ、この投稿をした人が、最初に写真を撮った人とは限らないですよね」
「そのとおりです。画像を転送されて載せただけの可能性もあります。分からないことを、分かったように扱わないでください」
悠真は頷いた。正体の分からない相手に腹を立てたところで、彩花が安心して学校へ通えるようになるわけではない。今、実際に公開されている投稿を一つ減らせるなら、それは確かな成果になる。
「僕から相手の方へ何か連絡する必要はありますか」
「必要ありません。個人で接触すると、別の問題になりかねませんから。今後、直接の嫌がらせや新しい投稿があった場合には、記録して学校へ知らせてください」
悠真は礼を言って執行部の部屋へ戻った。机の上には午後の仕事で使う資料が重ねられていたが、普段より少し気持ちが落ち着いているのを感じた。
(彩花さんに伝えるときも、消せたものと、まだ残っているものを分けて話そう)
写真を撮った人物が分かっていないことは変わらないし、個人間で転送された画像を一度に消すこともできない。それでも、公開されていた一件について具体的な対応が進んだことは、憶測ではない進展だった。
しばらくして部屋へやって来た琴葉が、机の上の書類を見て軽く眉を上げた。桜華学園の生徒である彼女には執行部の仕事について用事があったらしく、確認が終わると悠真の表情へ目を向けた。
「何かあったの? 昨日より少し顔が穏やかだけど」
「写真について、学校で動いてもらえたことが一つあってね」
「それならよかった。でも、九条君が自分で全部追いかけているわけじゃないんでしょう?」
悠真は苦笑した。琴葉がどこまで知っているのか分からないため、具体的な投稿の内容には触れなかったが、学校へ任せていると答えると、彼女はそれならいいと頷いた。
「それにしても、写真だけで勝手な話を作る人って、本当にいるんだね。九条君まで変な説明をしなくちゃいけなくなるなんて」
「僕が説明するより、確認できる事実を残すことの方が大事だと思う。彼女のことを、僕の言葉だけで決められたくないから」
琴葉は一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに小さく笑った。
「その『彼女』のこと、ずいぶん大切にしてるのね」
悠真は返事を急がなかった。彩花を大切に思っていることは否定しないが、二人の関係に勝手な名前をつけたくないという気持ちもある。
「うん。大切な友人だよ」
「そう。だったら、本人のやりたいことを聞いてあげなさいね」
琴葉はそれ以上尋ねず、用事の済んだ書類を持って部屋を出ていった。悠真は彼女を見送り、鞄の中に入れていた小さな手帳を取り出した。
日曜日、午前十一時。
中央図書館で彩花が選んだ三冊を紹介してくれる約束が、そこには書いてあった。彼女がどんな理由で本を選んだのかを聞けることが、今は何より楽しみだった。
◇
その日の放課後、彩花は部室の机で、図書室に飾る紹介文の下書きを始めた。冬の部誌は月曜日の見本で見つかった余白と見出しの位置を調整してもらう段階に進んでいて、部員たちが全編をもう一度書き直す必要はない。顧問から最終確認の連絡が来るまでは、少し時間に余裕があった。
最初に書いた文章は、部員みんなで努力したことを説明するだけのものだった。間違ってはいないけれど、読み返してみると、読む側にどんな楽しみがあるのかが伝わってこない。彩花は鉛筆を置き、手元に残していた部誌の目次を眺めた。
同じ冬を題材にしていても、ある作品は賑やかな放課後を描き、別の作品は家族の静かな会話を描いている。短い物語もあれば、日常の一場面を切り取った文章もあり、書いた人によって見えている景色が少しずつ違っていた。
(私たちが頑張ったことも大事だけど、読んでくれる人には、そこにある物語を楽しんでほしいな)
彩花は紙を新しくし、自分が部誌を初めて開いた人だったら何を知りたいか考えてから、もう一度書き始めた。
『同じ学校で過ごしていても、心に残る景色は一人ひとり違います。この部誌には、私たちが見つけた小さな出来事や、言葉にしたかった気持ちを集めました。気になる一編から、自由にページを開いてみてください。』
書き終えて読み返すと、少し硬い部分もあるものの、最初の文章よりずっと自分の考えに近くなっていた。隣に座っていた部員へ見せると、彼女はゆっくりと一度読み、それから目次へ視線を移した。
「いいと思う。『気になる一編から』っていうところ、好きだな。最初から全部読まなきゃって思わなくていいの、読みやすそう」
「ありがとう。自分の作品を読んでもらいたい気持ちはあるけど、みんなの作品もそれぞれ楽しんでもらいたくて」
「うん。これ、ほかの部員にも見てもらおうよ」
二人で相談して読み合わせると、別の部員からは「同じ学校」という言葉より「同じ季節」の方が今回の部誌らしいという意見が出た。彩花はその理由を聞き、冬の季節感が全体に通っていることを考えて書き換えることにした。
原稿がまとまったころ、顧問が部室に入ってきた。彩花たちは紹介文を見せ、学校の図書室から展示を提案されたことを説明した。
「いいですね。図書室に置けるのは、みなさんにとっても励みになるでしょう。ただ、展示の方法については司書の先生と確認しておきましょう」
「先生、名前についても相談したいです」
彩花が言うと、顧問は手を止めてこちらを向いた。
「もちろん。どうしたいと思っていますか」
彩花は少し緊張した。写真の件が続いていることを考えると、名前を伏せておいた方が安全なのではないかという気持ちはまだ残っている。それでも、書いたものを自分の名前で読んでもらいたいという気持ちも、今は確かにあった。
「紹介文には、私の名前を載せてもらってもいいです。ただ、学校の外へ写真つきで紹介されたり、私の顔が分かるものと一緒に載ったりするのは避けたいです」
顧問は頷き、紹介文の展示は校内の図書室だけで行い、写真を使用しないことを確認した。部誌本体の著者名についてはもともとの掲載方針どおりに扱い、新たに外部へ公開する場合には別途確認すると説明してくれた。
「その条件であれば、司書の先生にも伝えられます。紹介文はみなさんで作ったものですから、署名の形についても部内で確認しましょう」
彩花は隣の部員へ目を向けた。彼女は、下書きを主に書いたのは彩花だから名前を出していいと思う、と言ってくれたが、彩花は自分一人で完成させたわけではないことも伝えた。
「じゃあ、最後は『文芸部・紹介文担当 水瀬彩花』にする? みんなで読んだって分かるし」
提案した部員の言葉に、彩花は少し考えてから頷いた。それなら、文章を書いた人として自分の名前を載せながら、部員全員が関わった紹介文であることも伝えられる。
署名についてほかの部員にも異論がないことを確かめると、顧問は展示案を司書へ届けてくれることになった。彩花は完成した文章を見つめ、胸の中に残っていた小さな不安が、少し違う形へ変わった気がした。
(見られること全部が怖いわけじゃない。自分で選べないまま、勝手に決められることが嫌だったんだ)
自分の名前で書いた文章を読んでもらえることは、今も嬉しい。誰かが勝手につけた説明ではなく、自分たちが選んだ言葉を表に出せることが、彩花には大切だった。
◇
木曜日の昼休み、彩花は図書室へ向かう途中で顧問に呼び止められた。学校から出した写真の取り扱いについての注意文を、各クラスでも確認してもらったという報告だった。
「それと、外部で公開されていた投稿のうち、一件が削除されたそうです。もう一方の学校から、学校同士の連絡を通して情報が届きました」
彩花は思わず足を止めた。
「……削除されたんですか?」
「はい。ただし、記録は保存されていますし、転送された画像がすべて消えたわけではありません。誰が撮影したのかも、まだ分かっていません」
顧問は続けて、削除されたのは文芸部への支援について事実と違う文章がついた公開投稿だと説明した。学校側が確認できた範囲では、画像と文章が閲覧できなくなっているが、投稿した人物や削除の詳しい経緯については断定できないという。
「今後、同じ内容を見つけた場合は、再び広めずに知らせてください。今回の削除が、すべての画像の削除を意味するわけではありませんから」
「はい。分かりました」
彩花は礼を言ったあと、しばらく廊下の窓の外を眺めた。
ずっと不安だった問題の一部が、実際に動いた。誰が悪かったのかを決めつけることはできなくても、事実ではない文章を添えた公開投稿が一件なくなったことには意味がある。
(……消えたんだ。少なくとも、あの場所ではもう見られないんだ)
完全に解決したわけではないと分かっている。それでも、小さな成果が積み重なっていることは、今までよりはっきりと感じられた。
図書室へ入ると、昨日空いていた展示台の上に、彩花たちが考えた紹介文を仮に配置したカードが置かれていた。まだ最終的な掲示ではなく、文字の大きさや署名の位置を確かめるための見本だという。
彩花は司書に挨拶し、カードを手に取った。
短い文章の下には、小さく自分の名前が印刷されている。写真も、余計な説明も、そこにはなかった。
自分たちの部誌を紹介するために書いた言葉と、書いた人の名前だけだった。
彩花はしばらく文字を見つめ、やがて顔を上げた。
「この形で、お願いしたいです」
司書は笑顔で頷き、部誌の完成品が届いたら展示を始めると伝えてくれた。彩花は礼を言って図書室を出たが、廊下を歩く間も、自分の名前の入ったカードが心に残っていた。
◇
木曜日の夕方、九条家へ帰った悠真は、自室で彩花からのメッセージを読んでいた。公開されていた画像の一件が削除されたことを学校から聞いたという報告のあとに、文芸部の紹介文を図書室へ展示することになったと書かれている。
『私の名前も載せてもらうことにしました。でも、写真を使わず、学校の図書室だけに展示してもらう約束です』
悠真はその文章を読み返し、自然と頬を緩めた。
彩花は、自分の名前が出ることを避けた方がいいのではないかと迷ったらしい。けれど、作品を紹介したいという気持ちまで消してしまいたくなかったから、自分で条件を考えて先生に伝えたのだという。
悠真は少し考えてから返信した。
『彩花さんが自分で決めたなら、僕も嬉しい。どんな紹介文になったの?』
すぐに文章が送られてきた。短い文章だったが、どの作品からでも読んでほしいという部員たちの気持ちが自然に伝わってきて、悠真は何度も読み返した。
『いい文章だね。「気になる一編から」っていう言葉が好きだな。読んだ人が自分で選べる感じがする』
そう送ると、彩花から少し間を置いて返事が届いた。
『そこ、私も気に入っているんです。でも、最初は違う書き方だったんですよ。部のみんなで相談して直しました』
悠真は、彼女が嬉しそうに説明している姿を想像した。図書館で本の話をするときと同じように、彩花は言葉の細かな違いにも理由を見つけようとする。
『完成した部誌も楽しみだよ。読ませてもらえるようになったら、感想を伝えたい』
悠真が返信すると、今度はすぐに返事が来た。
『……そのときは、良かったところだけじゃなくて、気になったところも教えてもらえますか?』
悠真の指が止まった。
彩花が書いた作品を読むことは、ずっと楽しみにしていた。けれど、彼女に対して気になったところを正直に伝えるというのは、思っていたより難しいことかもしれない。
(彩花さんが一生懸命書いたものに、僕が気になるところを言ってもいいのかな)
そう考えかけて、悠真は自分の迷いに気づいた。彩花はただ褒めてほしいのではなく、作品を読んだ自分の感想を聞きたいと言ってくれている。彼女が何を求めているのかを、勝手に別のものへ置き換えるべきではなかった。
『分かった。僕が読んで感じたことを、きちんと伝えるよ。もちろん、分からないところがあったら先に聞くね』
送信すると、彩花から嬉しそうな返事が届いた。
『ありがとうございます。悠真君ならどんなところを気にするのか、私も知りたいです』
悠真は画面を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。彼女の気持ちを大切にしたいからこそ、何でも先に褒めて終わらせるのではなく、同じ文章を読んだ一人として向き合う必要があるのだろう。
◇
金曜日の放課後、彩花は顧問から冬の部誌の印刷前確認が終了したと伝えられた。月曜日の見本で見つかった見出しの位置も修正され、最終確認では新しい問題が見つからなかったため、予定していた印刷工程へ進めることになったという。
部員たちは思わず顔を見合わせた。何度も修正を重ねてきた原稿が、今度こそ完成品になるための工程へ進んだのだ。
「やっとここまで来たね」
隣の部員が呟くと、彩花は大きく頷いた。
「うん。完成したら、みんなで最初に見たいな」
顧問は印刷後の受け取り予定について説明し、冊子が届いてから図書室の展示を始めることを改めて確認した。彩花の書いた紹介文も、校内で使う形に整えられているという。
部活動が終わったあと、彩花は校門へ向かう途中で、以前写真のことを教えてくれた女子生徒に声をかけられた。彼女は少し緊張した様子で、手にしていたスマートフォンを鞄へしまってから話し始めた。
「水瀬さん、あの写真、私も最初のころ別の子に送っちゃったんだ。文章がついてない方だったけど、何も考えずに『これ知ってる?』って聞いてしまって」
彩花は立ち止まり、相手の顔を見た。
「……そうだったんだ」
「ごめん。自分が撮ったわけじゃないし、文章もつけてないからって、あまり考えなかった。でも、今になってみると、水瀬さんに聞かずに送るべきじゃなかった」
相手は視線を落とした。彩花はすぐに返事をせず、何を伝えるべきか考えた。
謝ってくれたことはありがたかったし、故意に傷つけようとしたわけではないことも伝わってくる。けれど、自分の知らないところで写真を送られて嫌だったという気持ちは、なかったことにはしたくなかった。
「教えてくれてありがとう。正直に言うと、やっぱり嫌だったよ。私が知らないところで写真が回ってたのは、怖かったから」
女子生徒は小さく頷いた。
「うん。本当にごめん」
「でも、今こうして話してくれたのは嬉しい。これからは、写ってる人がどう思うか、先に考えてほしいな」
「分かった。送った相手には、もう広めないでって伝えた。できれば消してほしいともお願いしたけど、相手がその先に送ってないかまでは分からなくて」
彩花は頷いた。すでに起きたことを完全に取り消すことはできないが、本人が自分の行動を振り返り、それ以上広めないように動いたことには意味がある。
「ありがとう。でも、無理にその先まで追いかけなくていいよ。学校でも対応してくれてるから」
女子生徒は安心したように息を吐き、もう一度謝ってから友人の待つ方へ歩いていった。彩花はしばらくその背中を見つめ、自分の胸の内を確かめた。
(嫌だったって、ちゃんと言えた)
以前なら、謝ってもらった瞬間に大丈夫だと答え、相手を安心させることだけを考えていたかもしれない。けれど今日は、相手を責め続けることなく、自分が嫌だったという事実も伝えられた。
その違いは小さいようでいて、彩花には確かな変化だった。
◇
土曜日の午後、彩花は自室の机で、翌日の持ち物を確認していた。三冊の本を紹介するためのメモはすでに完成し、古い駅前写真については道路整備の資料名と、次に確認したい年代を一枚に整理してある。
ただし、明日は調査を終わらせることを目標にはしていない。先週、悠真が自分の好きな本を三冊紹介してくれたように、今度は彩花が選んだ物語や文章について話すことが、いちばん大切な予定だった。
三冊の中で最初に紹介するのは、自分の居場所を探す主人公の小説にしようと決めていた。その作品を読んだときのことを思い出すと、以前は誰かの顔色を気にしてばかりだった自分が、少しずつ変わってきたことにも気づかされる。
短編集では、同じ場所でも人によって見える景色が違うことを話したい。文章を書くことについての本では、文芸部で原稿を何度も直した経験と、書きたいことを自分の言葉で残したいと思っている気持ちを伝えたかった。
(本を紹介するだけなのに、なんだか自分のことも話すみたい)
彩花は手帳を見つめ、少しだけ頬を赤くした。自分が大切にしているものを知ってもらいたいという気持ちは、以前よりもずっと強くなっている。
そこへ凛花が扉をノックし、明日の予定について声をかけた。彩花が午前十一時に中央図書館で会うと説明すると、姉は持ち物の多さを見て少し驚いたように笑った。
「三冊の本と、調査のノートまで持っていくの? 帰りに借りる本が増えたら、鞄がいっぱいになりそう」
「……そうかも。全部持っていく必要はないかな」
「本を紹介するのが一番なら、調査の資料はメモだけでもいいんじゃない?」
彩花は頷き、古い写真についての大きなノートを机へ戻した。必要な資料名は小さな手帳に書いてあるため、明日はそれで十分だろう。
「お姉ちゃん、ありがとう。ちょっと荷物が減った」
「どういたしまして。帰ってきたら、どの本を気に入ってくれたか教えてね」
凛花はそう言って部屋を出ていった。彩花は三冊の本を見つめ、ゆっくりと鞄へ入れた。
日曜日の予定について悠真から連絡が届いたのは、その少しあとだった。
『明日は予定どおり十一時に入口で待ち合わせよう。彩花さんが選んでくれた本、楽しみにしてる』
彩花は画面を見て微笑み、持ち物の準備が終わったことを伝えた。すると、今度は悠真から少し意外な返信が届いた。
『実は、僕も一つだけ話したいことがあるんだ。本とは直接関係ないけど、彩花さんに聞いてほしいと思って』
彩花は指を止めた。悠真から自分の話を聞いてほしいと言われることは、最近少しずつ増えているが、今回は何についてなのか分からなかった。
『もちろんです。どんな話ですか?』
尋ねると、しばらくして返事が届いた。
『明日、会ってから話してもいいかな。大変なことではないから、心配しないで』
彩花はその文章を読み、少し考えたあとで頷いた。今すぐ内容を確かめなくても、悠真が自分に話したいと思ってくれたこと自体が嬉しかった。
『分かりました。明日、聞かせてください。私も悠真君に話したいことがたくさんあります』
送信すると、悠真から短い返事が届いた。
『うん。僕も楽しみにしてる』
彩花はスマートフォンを置き、鞄の持ち手を指先で整えた。
明日は、自分が選んだ三冊を紹介する日だ。けれど、悠真も何かを話そうとしてくれているのなら、一方的に本を見せるだけで終わらせたくない。互いに話し、聞き、知らなかった考えを一つでも知ることができたら、それだけで嬉しいと思う。
(私の話を聞いてもらうだけじゃなくて、悠真君の話もちゃんと聞きたい)
机の上には、完成が近づいた部誌の紹介文の控えが置かれていた。自分の名前で何かを伝えることを選べた一週間の終わりに、彩花はもう一つ、心に決めたことがあった。
明日、悠真が話そうとしていることを、先回りして決めつけない。
彼がどんな言葉を選んでも、最後まで聞いてから、自分の気持ちを伝える。
そう考えていると、早く会いたいという気持ちに、少しだけ別の温かさが加わった。彩花は手帳を鞄の内ポケットへしまい、明日持っていく三冊の表紙が折れていないことを確かめた。
そして最後に、悠真へもう一通だけメッセージを送った。
『悠真君。明日は、私の本の話だけじゃなくて、悠真君自身の話も楽しみにしています』
返事は、すぐには届かなかった。
けれど数分後、画面に表示された短い文章を読んだ彩花は、しばらくそこから目を離せなくなった。
『ありがとう。彩花さんには、ちゃんと聞いてほしいんだ』
いつもなら軽く返せるはずの言葉なのに、今日は胸の奥へまっすぐ届いた。
彩花は少し迷ってから、『はい』とだけ送った。
その返事には、今の自分が伝えられる限りの、確かな気持ちを込めていた。




