第170話 切り取られた写真の行き先と、私が選んだ三冊の答え
月曜日の朝、水瀬彩花が自室のカーテンを開けると、青凪市の空には薄い灰色の雲が広がっていた。窓ガラスの向こうでは冬の風に街路樹が揺れ、向かいの家の屋根には昨夜の冷え込みで生じたらしい白い霜が残っている。彩花は窓辺から離れて制服に着替えると、机の上に開いたままになっていた手帳へ目を向けた。
手帳には、九条悠真に紹介したい本の候補が五冊並んでいた。昨日の夕方、そのうち一冊に小さな印をつけたところまでは覚えているけれど、残りの四冊についてはまだ迷っている。今日から学校が始まるため、朝のうちに決める必要はなかったものの、書名を眺めているだけで自然と土曜日の図書館を思い出してしまった。
(悠真君は二十七冊から三冊に減らしたんだよね。五冊で迷っている私が言うのも変だけど、あれは本当に大変だったんだろうな)
思わず笑みがこぼれた。悠真が三冊の本を選んだ理由を丁寧に説明してくれたことも、随筆集を気に入ったと伝えたときに嬉しそうな表情を見せてくれたことも、昨日のことのように思い出せる。
実際には一昨日の出来事なのだから、記憶が新しいのは当然だった。けれど、以前なら図書館で借りた本の内容ばかり思い返していたはずなのに、今は一緒に過ごした相手の表情や言葉まで気になるようになっている。
彩花は手帳を閉じ、鞄の内側にしまった。
次に紹介する本については、学校から帰ってからもう一度考えよう。急いで三冊にするより、自分が本当に悠真へ伝えたいことを整理した方が、きっと納得できる選び方になる。
階下へ下りると、姉の凛花が朝食の準備を手伝っていた。私立桜華学園の制服に身を包んだ姉は、彩花の姿に気づくと振り返り、いつものように挨拶してくれた。
「おはよう、彩花。今日は少し寒いね」
「おはよう、お姉ちゃん。窓の外、霜が残ってたよ」
「そうなんだ。じゃあ、帰りも気をつけないとね」
凛花はそう言いながら椅子を引き、彩花が座る場所を空けてくれた。テーブルには温かい朝食が並んでいて、外の寒さを忘れられるような湯気が上がっている。
彩花は席についてから、姉の方を見た。
「お姉ちゃん、昨日話してた植物のこと、何か決まった?」
「まだ迷ってるの。育てたいものを先に決めるか、置ける場所に合うものを探すかで、ちょっと考えてて」
「そっか。昨日見せた本も参考になりそうだったけど、植物によって違うって書いてあったもんね」
「うん。悠真君が紹介してくれた本、今度ちゃんと探してみたいな」
凛花はそう答えてから、ふと彩花の顔を見つめた。
「それより彩花、次に紹介する三冊は決まった?」
「……まだ五冊ある」
彩花が正直に答えると、凛花は小さく笑った。
「昨日と変わってないんだね」
「一冊は決めたんだけど、残りが難しくて。悠真君がどんなところを面白いと思うのか考えると、なかなか選べないの」
凛花は少し考え、朝食の皿を彩花の前へ寄せた。
「だったら、悠真君が好きそうな本だけじゃなくて、彩花自身がどうしても紹介したい本を選んだら?」
「私が紹介したい本?」
「うん。悠真君だって、彩花が何を好きなのか知りたいんじゃないかな。土曜日は悠真君の好きなものを教えてもらったんでしょう?」
彩花は箸を止めた。
確かに、悠真が紹介してくれた三冊は、どれも彼自身の興味や考え方が伝わってくるものだった。自分が喜びそうな内容を選んでくれた部分もあったけれど、最後の随筆集については、悠真が自分自身の好きなものを知ってほしいと思って選んだのだと話してくれた。
(私も、悠真君に合わせることばかり考えなくていいんだ)
相手が気に入りそうな本を選ぶことと、自分が好きな本を紹介することは、必ずしも同じではない。けれど、自分が本当に大切にしている作品だからこそ、そこから生まれる会話もあるのかもしれない。
「……ありがとう、お姉ちゃん。ちょっと選び方が分かった気がする」
「それならよかった。あとは朝ご飯を食べないと、学校に遅れるよ」
凛花に言われて時計を見ると、いつもより少し時間が進んでいた。彩花は慌てて食事を再開し、姉に笑われながらも、無事に普段どおりの時間に家を出ることができた。
◇
県立青葉高校へ着くと、教室では週末の出来事について話す生徒たちの声が響いていた。彩花が自分の席へ向かう途中、何人かがこちらを見たものの、以前のように露骨に会話をやめる様子は少なくなっている。写真の問題が解決したからではなく、時間が経つにつれて別の話題に関心が移っている人もいるのだろうと、彩花は考えた。
席に鞄を置くと、同じ文芸部の女子生徒が声をかけてきた。先週、部誌の原稿について何度も相談していた相手で、今日は手にした小さな封筒を見せながら、少し嬉しそうな表情をしている。
「水瀬さん、おはよう。先生から連絡来た?」
「おはよう。部誌のこと?」
「うん。今日、印刷前の確認用の見本が届くかもしれないんだって」
彩花は思わず顔を上げた。
「本当?」
「まだ確定じゃないみたいだけど、印刷の確認ができる状態になったら、放課後に見せてもらえるらしいよ」
先週の金曜日、文芸部では顧問の指摘した表記の統一を終え、最終版の原稿を提出した。文章の大きな修正は必要ないと聞いていたものの、実際にページが組まれた状態を見るのは、今回が初めてになるはずだった。
「楽しみだね。文章で見ていたときと、印象が違うかもしれないし」
「そうなの。私、自分の作品がどんなふうに並ぶのか、ずっと気になってたんだ」
彼女は少し興奮した様子で話したあと、急に声を落とした。
「……それと、水瀬さん。先週の写真の話なんだけど」
彩花は自然と表情を引き締めた。
「うん。何かあった?」
「今朝、別の子から聞かれたの。部誌の印刷って、本当に予定どおり進むのかって」
彩花は少し考えた。
先週、顧問は部誌の制作費について確認し、噂に書かれていたような外部からの支援は受けていないと説明してくれた。部員たちにも必要な情報が共有されているため、制作そのものを止める理由はないはずだった。
「先生からは、予定どおり進めていいって聞いてるよ。費用のことも確認してもらったし」
「うん。私もそう答えたんだけど、その子が『本当に大丈夫なのかな』って心配してて」
女子生徒は少し困ったように笑った。
「悪いことを言いたかったわけじゃないと思う。でも、あの写真の話って、まだ完全には終わってないんだなって思った」
彩花は頷いた。
学校の記録で事実ではないと確認できた部分があっても、最初に広まった文章を見た人が、全員同じ情報を受け取っているとは限らない。噂を見た人の中には、その後の確認結果を知らないまま、曖昧な印象だけを持ち続けている人もいるのだろう。
「……そうだね。でも、聞かれたら先生に確認してもらえるって伝えればいいと思う。私たちが全部説明しようとすると、かえって話が違って伝わるかもしれないから」
「うん。そうする」
女子生徒は安心したように頷き、自分の席へ戻っていった。
彩花は教科書を取り出しながら、先週までの出来事を思い返した。写真を撮った人物も、文章を書いた人物も、まだ分かっていない。けれど、だからこそ自分たちが知らないことまで決めつけず、確かめられる部分を丁寧に扱う必要があるのだと思った。
(全部の噂をすぐに消すことはできなくても、部誌をちゃんと完成させることはできるんだよね)
そう考えると、今日の放課後がますます楽しみになった。
◇
同じ月曜日の午前中、私立桜華学園では、九条悠真が生徒会執行部の仕事に関する資料を確認していた。
授業の合間に短い時間を利用して整理しているのは、今週中に提出する必要のある書類だった。週末には彩花と図書館で過ごし、久しぶりに自分の好きな本を紹介することができたものの、学校へ戻れば当然ながら日常の仕事が待っている。
悠真は最後の確認欄に印をつけ、書類を閉じた。
そのとき、近くにいた執行部の生徒が、少し遠慮がちな様子で声をかけてきた。
「九条君、写真の件について、ちょっと聞いてもいい?」
悠真は顔を上げた。
「うん。どうしたの?」
「昨日、また画像を見せられたんだ。前に見たものと同じ写真だったんだけど、今度は文章がついてなかった」
悠真の表情が少し変わった。
金曜日の夜、彩花からも同じような話を聞いていた。彼女の学校では、日曜日の夕方に文章のない写真を受け取っていた生徒が見つかり、顧問が受信時刻と画像の内容を確認している。
「その画像を見たのは、いつ?」
「昨日の午後。送ってきた人は別の学校の知り合いからもらったって言ってたけど、詳しいことは知らないみたい」
悠真は頷いた。
青葉高校で確認された画像も、桜華学園で見つかった画像も、文章のない同じ写真が使われている可能性がある。ただし、別々の経路で届いたというだけで、どこが最初の発信元なのかを判断することはできなかった。
「教えてくれてありがとう。ただ、その画像をさらに誰かへ送ったり、最初に流した人を探し回ったりするのは避けてほしい」
「うん。それは分かってる。何か確認できることがあれば、先生に相談した方がいいかなと思って」
「そうしてもらえると助かる。僕も、学校で必要な確認ができるように伝えるよ」
相手は頷き、資料を片づけるために席を離れた。
悠真はしばらく机の上を見つめていた。
文章のない画像が存在すること自体は、すでに彩花の学校でも確認されている。けれど、それが二つの学校で別々に見つかったということは、写真そのものが、最初に考えていたより広い範囲へ渡っている可能性を示していた。
(写真に文章をつけた人が誰なのかも大切だけど、まず本人の知らないところで画像が広がっている状態を止めることを考えないと)
悠真はスマートフォンを取り出しかけて、手を止めた。
彩花は今ごろ授業を受けているはずだった。緊急に知らせなければならない危険が確認されたわけではない以上、今すぐ連絡して心配させる必要はない。
まずは学校側へ確認し、どこまでが事実なのかを整理する。
そのうえで、彩花にも伝える。
先週、二人で決めたことを思い出しながら、悠真は書類を持って席を立った。
◇
昼休み、彩花は文芸部の顧問に呼ばれ、職員室近くの相談スペースへ向かった。
先週の金曜日、文章のついていない写真を受け取っていた生徒が見つかり、その画像を顧問にも確認してもらっている。今日はその後の取り扱いについて説明したいということだった。
顧問は彩花が席につくと、机の上に置いた記録を示した。
「水瀬さん、先週確認した画像について、学校側でも整理しました。今のところ、日曜日の夕方に文章のない写真が届いていたという記録は確認できています」
「はい」
「ただ、その時点で写真がどのくらいの人数に送られていたのか、最初に誰が撮影したのかは、まだ分かっていません。画像を受け取った生徒が協力してくれたことは大切ですが、それだけで発信者を特定できる状態ではありません」
彩花は頷いた。
最初のころは、何か一つ手がかりが見つかれば、すぐに写真の出どころが分かるのではないかと考えたこともあった。けれど、実際には転送された画像だけで判断できることは限られていて、確認には慎重さが必要なのだと理解し始めていた。
「先生、画像を消してもらうことはできるんでしょうか」
彩花が尋ねると、顧問は少し考えてから答えた。
「投稿されている場所や管理者が確認できれば、削除を求める方法はあります。ただし、個人同士のやり取りで送られたものまで、学校側ですべて確認することはできません」
「……そうですよね」
「それでも、今後新しく投稿されることを防ぐために、できることはあります。少なくとも、本人の許可なく撮影した画像をむやみに広めたり、事実ではない文章を添えたりしないよう、学校として注意を促すことはできます」
彩花は顔を上げた。
「それって、私の名前を出さなくてもできるんですか?」
「できます。特定の生徒のことではなく、写真や個人情報の取り扱いについて、一般的な注意として伝える方法がありますから」
顧問はそう説明してから、彩花の表情を確かめた。
「ただし、今後も新しい画像が届いた場合には、保存できる範囲で記録を残して、学校へ知らせてください。無理に自分で調べる必要はありません」
「はい。分かりました」
彩花は少し安心した。
自分が何もできないわけではない。
けれど、すべてを自分で解決しなければならないわけでもない。
そのことを、ようやく素直に受け止められるようになっていた。
「それと、部誌についてですが」
顧問が話題を変えた。
「今日、確認用の見本が届く予定です。印刷された状態での確認になりますが、内容の大きな変更は必要ないと判断しています」
「本当ですか?」
「はい。みなさんが丁寧に修正してくれたので、ここまで順調に進められました」
彩花は思わず笑顔になった。
写真の問題について話していたため、少し緊張していた気持ちが、一気に明るくなる。
「ありがとうございます。みんなも楽しみにしているので」
「そうでしょうね。完成までもう少しですから、最後まで確認していきましょう」
顧問は穏やかに微笑んだ。
彩花は礼を言って相談スペースを出た。
廊下を歩きながら、今日は二つのことが進んだのだと感じた。
一つは、写真の取り扱いについて学校側が具体的な対応を考えてくれていること。
もう一つは、文芸部の部誌が実際に形になり始めていることだった。
(……どっちも、ちゃんと前に進んでるんだ)
そう思うと、午後の授業にも落ち着いて向かうことができた。
◇
放課後の文芸部には、いつもより少し落ち着かない空気が漂っていた。
顧問が印刷前の確認用見本を持ってくると聞いていたため、部員たちはそれぞれの作業をしながらも、ときどき入口の方を気にしている。彩花も次に書く作品の構想メモを開いていたけれど、実際には何度も同じ一行を読み返してしまっていた。
やがて部室の扉が開き、顧問が数冊の薄い冊子を手にして入ってきた。
「お待たせしました。確認用の見本が届きましたよ」
その言葉に、部員たちの視線が一斉に集まった。
顧問が机の上へ置いた冊子は、まだ最終的な完成品ではなかったものの、ページの順番や文字の配置が分かる状態になっていた。彩花が一冊を手に取ると、紙の重みと、印刷された文字の感触が指先に伝わってきた。
「……本当に、一冊になってる」
思わず呟くと、隣にいた部員が笑った。
「当たり前なんだけど、なんか不思議だよね」
「うん。原稿で見てたときと、全然違う感じがする」
彩花は表紙を開き、目次を確認した。
部員それぞれの作品が決められた順番で並び、ページ番号もついている。何度も読み直した自分の文章が、ほかの部員の作品と一緒に収められていることが、少し誇らしく感じられた。
しかし、喜んでばかりはいられなかった。
確認用の見本には、実際に読んで初めて気づく問題が残っている可能性がある。顧問からは、文字の欠けやページの順番、見出しの位置などを中心に確認してほしいと説明された。
彩花たちは机を囲み、担当を分けてページを見ていった。
彩花が確認した部分では、文章そのものに大きな問題は見つからなかった。けれど、短編の最後のページで、次の作品の見出しとの間隔が少し狭くなっていることに気づいた。
「先生、ここだけ確認してもいいですか?」
彩花が冊子を示すと、顧問は該当するページを見て頷いた。
「確かに少し詰まっていますね。見出しの位置を調整できるか確認しましょう」
彩花は確認表に内容を書き込み、修正候補として記録した。
作業はそれほど派手なものではなかったけれど、文章を書いていたときとは違う注意が必要だった。文字の大きさや余白の使い方によって、読むときの印象は変わる。
彩花は改めて、一冊の本を完成させるには、文章以外にもさまざまな工程があるのだと感じた。
「水瀬さん、こっちは大丈夫そう?」
隣の部員が自分の担当ページを見せてきた。
「うん。ここは読みやすいと思う。改行もちゃんと反映されてるね」
「よかった。最後まで何回も直したから、ちゃんと載ってるのを見ると安心する」
部員はそう言って笑った。
その表情を見た彩花も、自然と笑顔になった。
写真の噂が広がっていたとき、部誌のことまで勝手に説明されているのが嫌だった。けれど今、目の前にある冊子には、部員一人ひとりが積み重ねてきた時間が確かに残っている。
誰かの噂ではなく、実際に作ってきたもの。
それが形になったことが、何より嬉しかった。
◇
見本の確認が一段落したころ、同じ文芸部の女子生徒が彩花の隣へ座った。
先週、図書室で悠真との関係について尋ねてきた相手だった。彼女は確認用の冊子を閉じると、少し嬉しそうに彩花の方を向いた。
「水瀬さん、完成したら九条君にも見せるの?」
彩花は少し驚いた。
「……うん。読んでみたいって言ってくれたから、渡せるか確認してみようと思ってる」
「そっか。じゃあ、感想を聞くの楽しみだね」
「うん。でも、ちょっと緊張するかも」
彩花が答えると、彼女は小さく笑った。
「水瀬さんでも緊張するんだ」
「するよ。自分の書いたものを読んでもらうのって、やっぱり恥ずかしいから」
彼女は頷き、手元の冊子を見下ろした。
「分かる。私も家族に見せようと思ってるけど、実際に読まれるところを想像すると、少し落ち着かない」
二人は顔を見合わせて笑った。
しばらくして、彼女が少しだけ声を落とした。
「……あの写真のこと、まだ続いてるんだよね」
彩花は頷いた。
「うん。誰が最初に撮ったのかは分かってない。でも、学校で確認してもらってるよ」
「そっか。私、何か新しいことがあったら教えてほしいと思ってたけど、あんまり聞きすぎるのもよくないかなって」
彩花は少し考えてから答えた。
「心配してくれるのは嬉しいよ。でも、今は先生にも相談してるし、必要なことがあったら私から話すね」
彼女は安心したように頷いた。
「うん。それならよかった」
そのあと、女子生徒は少しだけ迷ってから続けた。
「私ね、先週の写真を見たとき、水瀬さんが大変そうだなって思った。でも今日、普通に部誌の確認をしてるのを見て、少し安心したんだ」
「……そうなの?」
「うん。だって、あの写真のことだけで、今まで頑張ってきたことまで嫌な思い出になったら悲しいでしょう?」
彩花は返事をするまでに少し時間がかかった。
自分が何を大切にしたいのかを考えてきたつもりだったけれど、ほかの部員も同じように部誌のことを気にかけてくれていたのだと分かったからだ。
「……ありがとう。私も、ちゃんと完成させたいと思ってる」
「うん。あと少しだね」
彼女はそう答え、再び確認表へ目を向けた。
彩花も手元の冊子を開き、最後のページまで見直した。
修正が必要な箇所を整理して顧問へ渡すころには、窓の外はすっかり夕方の色に変わっていた。部員たちはそれぞれ帰り支度を始め、確認用の見本は顧問がまとめて保管することになった。
彩花は部室を出る前、机の上に残っていた原稿のメモを鞄へしまった。
(完成したら、悠真君にも読んでほしいな)
自分の書いた物語を、彼がどんなふうに受け止めるのか知りたい。
以前なら、恥ずかしさの方が大きかったかもしれない。けれど今は、感想を聞きたいという気持ちが少しずつ強くなっていた。
◇
帰宅した彩花は、夕食までの時間を利用して、悠真に紹介する本の候補を見直すことにした。
机の上には、昨日までに選んでいた五冊の書名が並んでいる。そのうち一冊は、以前から何度も読み返している小説で、登場人物が自分の居場所を見つけていく過程が丁寧に描かれている作品だった。
彩花はその本を手に取り、最初のページを開いた。
物語の主人公は、慣れ親しんだ町を離れ、新しい場所で生活を始める。最初は周囲になじめず、誰かに合わせることばかり考えていたけれど、少しずつ自分の好きなものや大切にしたいことを見つけていく。
彩花がこの作品を好きになったのは、主人公が急に強くなるわけではないところだった。
失敗したり、迷ったり、ときには誰かの言葉に傷ついたりしながら、それでも自分の意思で一歩を踏み出していく。そんな姿を読んでいると、自分も少しだけ頑張ってみようと思える。
(……この本は、やっぱり紹介したいな)
彩花は手帳の一冊目に、はっきりと印をつけた。
二冊目の候補は短編集だった。
同じ町を舞台にしたいくつかの物語が収められていて、それぞれの主人公は直接知り合いではないものの、同じ場所を違う時間に訪れている。ある話では何気なく登場した店が、別の話では主人公にとって大切な場所になっているような構成が、彩花にはとても面白かった。
悠真は建物の使われ方が変わることや、同じ場所に残る暮らしの痕跡に興味があると話していた。
そのことを思い出すと、この短編集なら二人で違う角度から楽しめるかもしれない。
ただし、それだけが選ぶ理由ではなかった。
彩花自身も、最初に読んだときには気づかなかったつながりを、二度目に読んで見つけた経験がある。読み返すたびに新しい発見がある作品を、悠真にも紹介したかった。
彩花は二冊目にも印をつけた。
残る三冊を見比べたところで、少し迷った。
一冊は文章の書き方について扱った本。
もう一冊は、家族の何気ない日常を描いた小説。
最後の一冊は、彩花が以前から気に入っている随筆集だった。
どれも好きな作品ではあるけれど、今回紹介したい本として考えると、それぞれ違う理由がある。
(悠真君は私が選んだものなら嬉しいって言ってくれたけど、だからこそ、ちゃんと選びたいな)
彩花はしばらく考え、最後の候補を手に取った。
それは、文章を書くことについての考え方をまとめた本だった。物語そのものではなく、作者がどのように言葉を選び、どんなところで迷い、書いたものを読み直しているのかを扱っている。
文芸部に入ってから、彩花は何度も文章を書き直してきた。
自分が伝えたいことをそのまま書くだけでは、読んでくれる人にうまく届かないことがある。けれど、読み手のことばかり考えていると、今度は自分が何を書きたかったのか分からなくなることもあった。
この本を読んだとき、その両方を大切にしていいのだと感じられたことを、彩花は覚えている。
悠真は文芸部の活動について何度も話を聞いてくれた。
けれど、彩花自身がどうして文章を書きたいと思うのか、その理由まではまだ十分に伝えられていない気がした。
(……この本なら、私が書くことを好きな理由も話せるかもしれない)
そう思った瞬間、三冊目が決まった。
彩花は手帳に最後の印をつけ、残りの二冊については次の機会に紹介することにした。
五冊から三冊へ。
数字だけなら大した違いではないけれど、今は選び終えたことに小さな達成感があった。
「……よし」
彩花は声に出してから、思わず笑った。
机の上には三冊の書名が並んでいる。
自分が大切にしている物語。
何度も読み返したくなる短編集。
そして、文章を書くことについて考えるきっかけになった本。
どれも、悠真が好きそうだからという理由だけで選んだものではなかった。
自分が好きで、彼にも知ってもらいたいと思った本だった。
◇
夕食後、彩花は悠真へメッセージを送った。
『悠真君、紹介する本を三冊に絞れました』
送信してから数分後、返事が届いた。
『本当? おめでとう。五冊から減らすの、難しかったでしょう』
彩花は思わず笑った。
『難しかったです。でも、二十七冊よりは少なかったですよ』
『……その数字、まだ覚えてるんだね』
『忘れません』
そう返すと、悠真から少し困ったような顔をした絵文字が届いた。
彩花は笑いながら画面を見つめ、次の文章を打った。
『でも、悠真君が悩んだ理由、少し分かった気がします。相手に紹介したい本を選ぶのって、思っていたより楽しいですね』
今度の返信は、少し時間を置いて届いた。
『うん。僕もそう思った。彩花さんがどんなところを面白いと思ってくれるのか考えていたら、なかなか減らせなかったんだ』
彩花はその文章を読み、先週の図書館でのことを思い出した。
悠真は建物の本について話しているときも、植物の観察記録を見せてくれたときも、随筆集を紹介してくれたときも、とても楽しそうだった。
彼が好きなものを知れたことが嬉しかったし、自分が面白いと思った部分を伝えると、それ以上に喜んでくれた。
『私も、悠真君がどんな感想を持つのか楽しみです。でも、気に入らなかったら正直に言ってくださいね』
彩花が送ると、悠真からすぐに返信が届いた。
『もちろん。でも、彩花さんがどうして選んだのか聞けるだけでも、僕は嬉しいと思う』
彩花は画面を見つめた。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
(……また、そういうことを言う)
悠真はいつも、自分が思っている以上に嬉しい言葉を自然に伝えてくれる。
それが彼にとって当たり前なのか、自分に対してだけ少し違うのかは、まだよく分からない。
けれど、以前よりも少しだけ、彼の言葉を素直に受け取れるようになってきた気がした。
『ありがとうございます。私も、悠真君に紹介できるのが嬉しいです』
彩花はそう返信した。
しばらくして、悠真からもう一つメッセージが届いた。
『そういえば、写真の件で今日少し確認できたことがあるんだけど、今話しても大丈夫?』
彩花は表情を引き締めた。
『はい。大丈夫です』
悠真は、桜華学園でも文章のない画像が確認されたことを説明した。ただし、青葉高校で確認されたものと同じ経路で届いたかどうかは分からず、学校側で必要な確認を進めることにしたという。
彩花は内容を読み、自分の学校で確認できていることと照らし合わせた。
文章のない画像が存在すること。
少なくとも二つの学校で、同じ写真が使われた画像が見つかっていること。
そして、最初の撮影者も、文章を書いた人物も、まだ確認できていないこと。
分かっていることが増えた一方で、決めつけられないことも多かった。
『教えてくれてありがとうございます。私の学校でも、画像の取り扱いについて注意を促す方法を考えてくれているそうです』
『そうなんだ。僕の学校でも相談してみるよ。ただ、彩花さんの名前を必要以上に出さないようにしたい』
『ありがとうございます。でも、悠真君も無理しないでくださいね』
彩花がそう送ると、少ししてから返事が届いた。
『うん。僕も一人で全部やろうとは思ってないから、大丈夫』
その言葉に、彩花は安心した。
以前の悠真なら、自分が何とかしなければならないと考えて、必要以上に動こうとしたかもしれない。
けれど今は、彩花がどうしたいのかを聞き、学校や家族と相談しながら、無理のない方法を選ぼうとしてくれている。
(……悠真君も、少しずつ変わってるんだ)
彩花はそのことが嬉しかった。
自分だけが相手に支えてもらうのではなく、互いに考え方を伝え合いながら、少しずつ違う選択ができるようになっている。
それは、写真の問題が起きなければ気づかなかったことかもしれない。
もちろん、嫌な出来事があってよかったとは思わない。
けれど、その中で大切なことを確かめ合えたのは事実だった。
◇
火曜日の朝、彩花はいつもより少し早く青葉高校へ到着した。
教室にはまだ生徒が少なく、窓際の席では朝の陽射しが机の表面を淡く照らしている。彩花は鞄を置き、昨日決めた三冊について書いた手帳を取り出した。
書名の下には、それぞれ紹介したい理由を短くまとめてある。
一冊目は、自分の居場所を探す主人公の物語。
二冊目は、同じ町を違う視点から描いた短編集。
三冊目は、文章を書くことについて考えるきっかけになった本。
彩花はそのメモを読み返し、少しだけ頬を緩めた。
悠真がどんな反応をするのか、今から楽しみだった。
そのとき、教室の入口から同じ文芸部の女子生徒が入ってきた。
「水瀬さん、おはよう。昨日の見本、よかったね」
「おはよう。うん。実際に一冊になってるのを見ると、嬉しかった」
「私、家に帰ってからもずっと考えてた。完成したら、どんなふうに読んでもらえるのかなって」
女子生徒は自分の席へ鞄を置き、彩花のところへ来た。
「そういえば、水瀬さん。九条君に紹介する本、決まった?」
彩花は少し驚いた。
「……どうして知ってるの?」
「この前、次は自分が選ぶって話してたでしょう。何となく気になって」
彼女は少し照れくさそうに笑った。
彩花も笑顔を返し、昨日三冊に絞れたことを伝えた。
「そうなんだ。じゃあ、次の図書館も楽しみだね」
「うん。まだ日程は決めてないけど」
「そっか」
女子生徒は頷き、少しだけ考えてから言った。
「水瀬さん、最近ちょっと変わった気がする」
彩花は目を丸くした。
「……私が?」
「うん。前より、自分が何をしたいのか話してくれるようになった気がする」
その言葉に、彩花は少し戸惑った。
自分では、それほど大きく変わったつもりはなかった。
けれど、思い返してみると、以前は相手の希望を先に聞くことが多かったように思う。
悠真と図書館へ行くときも、最初のころは彼がどうしたいのかを気にして、自分の希望を伝えることをためらう場面があった。
それが今では、自分から会いたいと伝えたり、紹介したい本を選んだりできるようになっている。
(……確かに、少し変わったのかもしれない)
「そうかな。でも、そう言ってもらえると嬉しい」
彩花が答えると、女子生徒は笑顔になった。
「うん。水瀬さんが楽しそうだと、私も嬉しいから」
その言葉に、彩花は胸の奥が温かくなった。
自分が変わったとしたら、それは悠真と出会ったからだけではない。
文芸部で作品を書き、友人たちと話し、家族に相談する中で、少しずつ自分の考えを言葉にできるようになってきた。
そのことにも気づけた気がした。
◇
昼休み、彩花は学校の図書室へ向かった。
目的は、古い駅前写真についての資料を確認することだった。先週の土曜日、悠真と中央図書館で見つけた郷土資料には、以前の市街地を示す略図が載っていた。
その略図では、現在の駅前広場付近とは違う方向に道路が伸びていた。
ただし、略図の作成年代と写真の撮影年代が一致しているかどうかは分からない。
彩花はその点を確かめるため、学校の図書室で所蔵している地域資料の目録をもう一度調べることにした。
検索端末で青凪市の道路に関する資料を探してみると、市街地の変化をまとめた冊子が見つかった。以前に手に取ったものとは違う資料で、目次には道路整備の経緯についての項目がある。
彩花は請求記号を控え、棚へ向かった。
資料を開くと、青凪市の駅前地区では、ある時期に道路の拡幅と交差点の整備が行われていたことが記されていた。現在の駅前広場につながる道路も、その整備に伴って一部の形が変わったらしい。
彩花は思わずページを見つめた。
(……これ、土曜日に見た略図のことかもしれない)
資料には、整備前後の道路を簡単に比較した図が掲載されていた。
彩花は手帳を開き、土曜日に書き留めた内容と見比べた。
古い略図に描かれていた曲がった道路。
現在の地図で確認できる、比較的まっすぐな道路。
そして、道路整備によって変更された区間。
それぞれの位置関係には共通する部分があり、少なくとも以前の道路が現在とは違う形だったことを裏づける資料が見つかった。
「……やっぱり、変わってたんだ」
彩花は周囲の迷惑にならないよう、小さな声で呟いた。
ただし、それだけで古い写真の撮影地点が分かるわけではない。
写真が道路整備の前に撮影されたのか、それとも後なのかを確認する必要がある。
また、略図と資料の図が示している範囲も完全に一致しているわけではないため、建物の位置を正確に比較するには、さらに詳しい地図が必要だった。
彩花は必要な情報をノートに書き込み、資料名と該当ページも記録した。
以前は、二つの候補地点を見比べても、何を基準に判断すればよいのか曖昧だった。
けれど今は、道路整備の前後という具体的な条件を使って比較できるようになった。
少なくとも、現在の道路だけを前提に考えていた部分は修正できる。
(……これなら、悠真君にもちゃんと説明できる)
彩花はそう思いながら、もう一度資料を読み直した。
昼休みが終わる時間が近づいたため、続きの確認は次の機会に回すことにしたが、今日は必要な情報を一つ見つけられたという実感があった。
資料を元の棚へ戻し、図書室を出るころには、午後の授業が始まる少し前になっていた。
彩花は手帳を鞄へしまい、教室へ向かった。
◇
その日の放課後、悠真は桜華学園の生徒会執行部で、写真の件について学校側から説明を受けていた。
昨日、新しく確認された文章のない画像について、必要な範囲で情報を共有した結果、学校側でも同じ写真が複数の経路から届いている可能性を把握しているという。
ただし、誰が最初に撮影したのか、どこから広まったのかは依然として不明だった。
悠真は説明を聞きながら、確認できた事実と未確認の部分を整理した。
「九条君、今回の件について、学校としても写真の取り扱いに関する注意は続けます。ただし、発信者が分かっていない以上、特定の生徒を疑うようなことは避ける方針です」
「はい。それがいいと思います」
「それと、あなた自身が何か困っていることはありませんか」
悠真は少し考えてから答えた。
「僕自身は大丈夫です。ただ、写真に写っている相手の方が、別の学校で嫌な思いをしている可能性があるので、それが気になっています」
担当の教員は頷いた。
「相手の学校でも対応していると聞いていますが、学校間で正式に情報を共有する必要がある場合には、適切な手続きを取ります。あなたが個人で調べ回る必要はありません」
「分かりました。ありがとうございます」
悠真は頭を下げた。
説明を終えて部屋を出ると、廊下の窓から夕方の中庭が見えた。
写真の問題は、まだ完全には解決していない。
けれど、彩花の学校でも、自分の学校でも、それぞれ必要な対応が進んでいる。
悠真はそのことに少し安心した。
(……僕が全部何とかしなくても、ちゃんと進められるんだ)
以前なら、彩花が嫌な思いをしていると知っただけで、すぐに行動したくなったかもしれない。
けれど今は、自分にできることと、学校や家族に任せるべきことを分けて考えようとしている。
それは、彩花が自分の意思で問題に向き合いたいと伝えてくれたからでもあった。
悠真はスマートフォンを取り出し、彩花とのメッセージ画面を開いた。
昨日の夜、彼女が三冊の本を選べたと教えてくれたことを思い出す。
どんな本なのかは、まだ聞いていない。
けれど、今はそれを楽しみにしている時間そのものが嬉しかった。
(……彩花さんが僕に紹介したいと思ってくれた本なんだ)
そう考えると、自然と笑みがこぼれた。
悠真は歩きながら返信するのを避け、廊下の端で足を止めてから短いメッセージを送った。
『彩花さん、今日もお疲れさま。三冊の本、今から楽しみにしてるよ』
送信してから、少しだけ考えた。
次に会う日程は、まだ決まっていない。
彩花は自分から誘ってもいいかと尋ねてくれたし、悠真も楽しみにしていると答えた。
だからこそ、彼女が予定を考える時間を大切にしたかった。
悠真はスマートフォンをしまい、帰り支度をするために教室へ戻った。
◇
火曜日の夜、彩花は夕食を終えてから自室へ戻った。
机の上には三冊の候補を書いた手帳と、今日学校の図書室で見つけた道路整備についてのメモが並んでいる。どちらも悠真へ話したいことだったけれど、今は少しだけ別のことを考えていた。
次に会う日程を、いつ提案しようかということだった。
先週の日曜日、自分から誘ってもいいかと尋ねたとき、悠真は嬉しいと答えてくれた。
その言葉を思い出すと、胸の奥が温かくなる。
けれど、何となく誘うだけではなく、今度は自分が選んだ三冊をきちんと紹介したいと思っていた。
(……今週末、悠真君の予定はどうなんだろう)
彩花はカレンダーを開き、今週の予定を確認した。
文芸部では印刷前の見本確認が進んでいるけれど、今のところ週末に特別な活動が入る予定はない。家族との用事も、現時点では決まっていなかった。
彩花は少し考えてから、スマートフォンを手に取った。
『悠真君、今週の日曜日、もし予定が空いていたら、また中央図書館で会いませんか?』
そこまで打ってから、少しだけ迷った。
先週の土曜日も、同じ図書館で会ったばかりだった。
続けて誘うと、悠真の負担にならないだろうか。
けれど、そう考えた瞬間、彩花は以前の自分と同じところで迷っていることに気づいた。
相手の都合は、聞かなければ分からない。
自分が会いたいと思っていることまで、先回りして取り消す必要はないはずだった。
(……うん。ちゃんと聞いてみよう)
彩花は文章を続けた。
『私が選んだ三冊を紹介したいです。それと、古い駅前写真についても、今日新しい資料が見つかったので、少しだけ相談できたら嬉しいです』
送信すると、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
自分から誘うことには、以前より慣れてきたつもりだった。
けれど、相手の返事を待つ時間には、まだ少し緊張してしまう。
彩花はスマートフォンを机に置き、随筆集を開いた。
悠真が紹介してくれた本は、まだ読み終えていない。
短い文章がいくつも収められているため、少しずつ読み進めることができるのだが、気に入った部分を見つけるたびに、悠真ならどう感じるのだろうと考えてしまう。
数ページ読んだところで、スマートフォンが震えた。
彩花は本を閉じ、画面を確認した。
『日曜日なら空いてるよ。僕も彩花さんに会いたいと思ってたから、嬉しい』
その文章を読んだ瞬間、彩花の頬が熱くなった。
(……また、そういうことを自然に言うんだから)
悠真は本当に、自分がどれほど嬉しいことを言っているのか分かっているのだろうか。
少しだけ悔しい気持ちになりながらも、彩花は笑顔を抑えられなかった。
『ありがとうございます。じゃあ、日曜日の午前十一時くらいはどうですか? 午後からでも大丈夫ですけど』
返信すると、悠真からすぐに返事が届いた。
『十一時で大丈夫。今度は彩花さんが選んでくれた本を、ゆっくり見たいな』
彩花は頷き、待ち合わせ場所を確認した。
前回と同じ中央図書館の入口付近。
ただし、今回は午前十一時に会うことになった。
午後一時半からだった前回よりも、少し早い時間だ。
その分、図書館で本を選んだあとに、時間があれば古い駅前写真の資料も確認できるかもしれない。
『分かりました。日曜日、楽しみにしています』
彩花が送ると、悠真からも同じ言葉が返ってきた。
画面を閉じたあとも、胸の奥には温かいものが残っていた。
自分から誘って、相手が喜んでくれた。
それだけのことなのに、以前よりもずっと大きな意味を持つように感じられた。
◇
翌朝、彩花はいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外には冬の明るい空が広がり、昨夜までの雲はほとんど見えなくなっている。机の上には三冊の書名を書いた手帳が置かれていて、日曜日の予定を考えると、自然と笑みがこぼれた。
制服に着替えながら、彩花は昨日のメッセージを思い返した。
『僕も彩花さんに会いたいと思ってたから、嬉しい』
その一文が、どうしても頭から離れなかった。
悠真は以前にも、会いたかったと伝えてくれたことがある。
けれど、その言葉を聞くたびに嬉しくなる気持ちは、少しも薄れていなかった。
(……私、悠真君に会えるのが、本当に楽しみなんだな)
そう思うと、胸の奥が温かくなる。
以前なら、こんな気持ちを誰かに知られることが恥ずかしかったかもしれない。
けれど今は、自分が誰かと会うのを楽しみにしていることを、無理に隠さなくてもいいと思えるようになっていた。
階下へ下りると、凛花が朝食を取っていた。
「おはよう、彩花。今日は早いね」
「おはよう、お姉ちゃん。ちょっと早く目が覚めたの」
彩花が席につくと、凛花は少しだけ不思議そうな顔をした。
「何かいいことあった?」
彩花は一瞬だけ迷った。
けれど、今は素直に話してもいいような気がした。
「……日曜日、悠真君とまた図書館に行く約束をしたの」
凛花は目を丸くしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「そうなんだ。今度は彩花が選んだ本を紹介するんだね」
「うん。三冊に決めたよ」
「よかったね。楽しみでしょう?」
彩花は少しだけ頬を赤くした。
「……うん。すごく」
凛花はそれ以上からかわず、優しく頷いた。
その反応が、彩花にはありがたかった。
自分が悠真をどう思っているのか、まだはっきりとした名前をつけられない。
けれど、会いたいと思う気持ちは、もう迷わず認められるようになっていた。
◇
青葉高校へ向かう道を歩きながら、彩花は手帳の中身を思い出していた。
三冊の本。
そのどれにも、自分が好きな理由がある。
悠真がどんなところに興味を持つのかは、実際に一緒に読んでみないと分からない。
けれど、それでいいと思った。
同じ本を読んでも、感じることは人によって違う。
だからこそ、相手の考えを聞くのが楽しい。
それは、悠真と図書館で過ごす時間の中で、少しずつ分かってきたことだった。
そして、古い駅前写真の調査についても、昨日見つけた道路整備の資料を手がかりに、新しい比較ができそうだった。
以前は二つの候補地点を見比べることしかできなかったけれど、今は道路の形が変わった時期という条件を使って、資料を調べる方向が見えている。
すぐに撮影地点が分かるわけではない。
それでも、調べるべきことが具体的になったことには意味があった。
彩花は歩く速さを少し緩め、冬の街並みを眺めた。
同じ道を何度も歩いているのに、今日は少しだけ景色が違って見える。
建物の並び方。
道路の曲がり方。
交差点の向こうに見える古い商店の軒先。
以前なら何気なく通り過ぎていたものにも、自然と目が向くようになっていた。
(……悠真君が紹介してくれた本の影響かな)
そう思うと、少し嬉しかった。
悠真が好きなものを知ったことで、自分の見方まで少し変わっている。
そして今度は、自分が選んだ本を通して、彼に何か新しい発見をしてもらえるかもしれない。
それが楽しみだった。
青葉高校の正門が見えてくると、彩花は鞄の持ち手を握り直した。
写真の問題は、まだ完全には解決していない。
最初の撮影者も、文章を書いた人物も分からないままだし、二つの学校で確認された画像の経路についても、これから調べる必要がある。
けれど、学校側では必要な確認が進み、文芸部の部誌も完成へ向けて動いている。
彩花自身も、ただ不安を抱えて待つだけではなく、自分で考え、相談し、行動できるようになっていた。
そして、悠真との関係についても同じだった。
誰かに決められた距離ではなく、自分たちで話しながら決めていく。
今はまだ、大切な友人。
けれど、その言葉だけでは説明しきれない気持ちが、少しずつ育っていることも感じていた。
(……日曜日、どんな話ができるかな)
彩花は小さく微笑み、正門をくぐった。
次に会う日を楽しみにできること。
相手の好きなものを知りたいと思うこと。
そして、自分が大切にしているものを、相手にも知ってほしいと願うこと。
その一つひとつが、彩花にとっては確かな変化だった。
まだ答えを急ぐ必要はない。
けれど、いつか自分の気持ちに名前をつける日が来たとしても、その答えは誰かに決めてもらうものではないのだろう。
自分自身で見つけたい。
そして、そのときには、悠真の気持ちもちゃんと聞きたい。
彩花はそう考えながら、いつもの教室へ向かった。
鞄の中の手帳には、三冊の書名が並んでいる。
そのページを次に開くとき、彩花はきっと、悠真へ何を伝えたいのかを今よりもう少しはっきりと言葉にできるだろう。
それはまだ、恋という名前をつけるには少し早い気持ちだった。
けれど、誰かを大切に思うことが、こんなにも日常を変えていくのだと、彩花は少しずつ知り始めていた。




