第169話 三冊の本に隠した本音と、私から差し出した次の約束
金曜日の朝、青凪市の空は久しぶりに雲が少なく、冬の青さが遠くまで広がっていた。水瀬彩花は通学路の途中にある小さな交差点で信号が変わるのを待ちながら、昨日の放課後に九条悠真と交わしたメッセージを思い出していた。明日の土曜日、午後一時半に青凪市立中央図書館の入口付近で待ち合わせをするという約束は、すでに何度も確認したはずなのに、思い浮かべるたびに胸の奥が少し温かくなった。
悠真が紹介する本は、最終的に三冊まで絞られたらしい。最初の候補が二十七冊だったと聞いたときには驚いたけれど、自分と一緒に読む本をそれほど真剣に選んでくれたことが、彩花には何より嬉しかった。どんな本を選んだのかは当日まで秘密だと言われているため、昨日から気になっているものの、無理に聞き出そうとは思わなかった。
(悠真君は、私が喜びそうな本を考えてくれたのかな。でも、それだけじゃなくて、悠真君自身が好きな本だったらもっと嬉しいな)
以前の彩花なら、相手が何を紹介してくれるのかという楽しみだけで十分だったかもしれない。けれど、図書館で何度も会い、互いに気になったものを見せ合ううちに、悠真自身の好みや考え方をもっと知りたいと思うようになっていた。特に、彼が普段はあまり話さないことを自然に話してくれる瞬間には、知らなかった景色を一つ見つけたような嬉しさがある。
信号が青に変わり、彩花はほかの通行人と一緒に横断歩道を渡った。冷たい風が制服の襟元へ入り込み、思わず肩をすくめたけれど、歩いているうちに少しずつ体が温まってくる。青葉高校の校舎が見えてきたころには、今日の授業と放課後の予定について考える余裕も戻っていた。
冬の部誌は、昨日までに部員が担当する大きな修正を終え、顧問による最終確認の段階へ進んでいる。すぐに印刷されるわけではないけれど、少なくとも原稿を何度も書き直す日々には一つの区切りがついた。今日は顧問から追加の指示がなければ、部活動の時間を利用して次の作品の構想を整理するつもりだった。
その一方で、図書館の近くで撮影された写真については、まだ解決していないことが残っていた。同じ写真に二種類の文章が添えられて広まり、文芸部への支援や彩花自身の交友関係について、事実ではない説明がなされている。学校側でも確認を進めてくれているものの、最初の撮影者や文章を書いた人物は分かっていないため、彩花も新しい情報があれば顧問へ伝えることにしていた。
(気になることはあるけど、今日も普通に過ごしたいな。明日は悠真君と図書館に行くんだから、今できることをちゃんと終わらせよう)
彩花はそう考えながら正門を通り、昇降口へ向かった。
◇
朝の教室では、週末の予定について話す声がいくつも聞こえていた。部活動の練習試合へ行く生徒もいれば、家族と買い物に出かける予定の生徒もいて、窓際の席では映画の話題で盛り上がっている。彩花が自分の席へ向かうと、同じ文芸部の女子生徒が先に来ていて、机の上に置いた文庫本を閉じながら挨拶してくれた。
「水瀬さん、おはよう。昨日の原稿、先生から何か連絡あった?」
「おはよう。まだ来てないよ。今日中に確認できるところまでは見てくれるって話だったけど、急ぎじゃないから」
「そっか。私、最後に直したところがちょっと気になってて」
彼女は鞄から小さなメモ帳を取り出し、昨日の部活動で修正した文章について説明し始めた。彩花は机に鞄を置いてから話を聞き、すでに原稿を提出した以上、今の段階では顧問の確認結果を待った方がいいのではないかと伝えた。必要な修正が見つかった場合も、どこを直すのか明確にしてから作業すれば、かえって混乱せずに済むはずだった。
「そうだよね。何回も読んでると、直した方がいいのか、そのままでいいのか分からなくなっちゃう」
「分かる。私も最後の方は、前に書いた文章の方がよかった気がして、何度も見比べちゃった」
「水瀬さんもそうなるんだ。なんか安心した」
二人は顔を見合わせて笑った。原稿の話をしている間、彩花は写真の件を一度も思い出さなかったことに気づき、少しだけ驚いた。
これまでの数日間は、誰かから声をかけられるたびに、また写真について聞かれるのではないかと身構えていた。けれど、目の前の友人はいつもと同じように作品の相談をしてくれているし、彩花自身もその内容を真剣に考えられている。自分の居場所がなくなったわけではないのだと、こうした何気ない時間を通して少しずつ実感できるようになっていた。
一時間目が始まる前、文芸部の友人は自分の席へ戻っていった。彩花は教科書を取り出しながら、明日の図書館で悠真に話したいことを頭の中で整理してみた。
冬の部誌の原稿を提出できたこと。古い駅前写真の調査で、学校の図書室にあった地域資料から新しい書名を見つけたこと。そして、彼が選んでくれた三冊について、どうしてその本を選んだのか聞いてみたいこと。
考えているうちに、自然と楽しみが増えていった。
(……あれ。私、明日話したいことが結構あるんだ)
悠真と会うときには、いつも何か大きな話題を用意しなければならないわけではない。それでも、次に会ったら伝えたいと思える出来事が日常の中に増えていることが、彩花には少し不思議だった。
◇
昼休み、彩花が教室で弁当を片づけていると、文芸部の顧問から短い連絡が届いた。冬の部誌について確認が終わり、数か所の表記をそろえる必要はあるものの、作品の内容に大きな修正は求めないという。
彩花は胸をなで下ろし、放課後に部室で確認することにした。原稿を提出したあとも少し気になっていたけれど、全体の構成をやり直す必要がないと分かっただけで、随分気持ちが軽くなった。
その直後、別のクラスの女子生徒が教室の入口から顔をのぞかせ、彩花を呼んだ。以前、写真の件で画像を見せてくれた生徒の一人で、今日は何か伝えたいことがあるらしい。
「水瀬さん、少しだけいい? 写真のことで、先生に話した方がいいか迷ってることがあるんだけど」
「うん。ここだと人が多いから、廊下で話そうか」
二人は教室から少し離れた場所へ移動した。昼休みの廊下には生徒が行き交っていたけれど、階段脇の広い踊り場まで歩くと、立ち止まって話せる程度の静けさがあった。
女子生徒はスマートフォンを取り出し、保存していた画面を見せた。そこには彩花と悠真が並んで歩く写真が表示されていたが、これまで見た二種類の画像とは違い、下に文章が添えられていなかった。
「これ、日曜日の夕方に友達から届いてたみたいなの。私、昨日になって気づいたんだけど、最初に見たときは文章がついてなかったんだ」
彩花は画面を見つめた。写っている二人の姿や背景は見覚えがあり、少なくとも同じ場面を写したものに見える。
「日曜日の夕方に届いたんだね」
「うん。受信した時間も残ってる。ただ、その友達も別の人から送られたって言ってたから、誰が撮ったのかは分からないみたい」
彩花は慎重に頷いた。文章のない画像が先に届いていたという情報は気になるけれど、それだけで誰が文字を付け加えたのかを判断できるわけではない。
「教えてくれてありがとう。先生には、この画像を見せても大丈夫?」
「うん。私もそれを聞こうと思ってたの。ただ、友達の名前が勝手に広まるのは嫌だから、必要なところだけ確認してもらえたら嬉しい」
「分かった。先生にもそう伝えるね」
女子生徒は少し安心したように笑い、必要な範囲で画像を確認できるよう協力すると言ってくれた。彩花はその場で無理に転送を頼まず、本人から顧問に見せてもらえるよう、一緒に相談することを提案した。
昼休みの残り時間は短かったため、二人は顧問に連絡を入れ、放課後に相談する約束をした。女子生徒が教室へ戻っていくのを見送ったあと、彩花は踊り場の窓から外を眺めた。
(文章がない写真も、先に回っていたんだ。でも、それだけで誰かが悪いって決められるわけじゃないよね)
写真を撮った人と、文章をつけた人が同じとは限らない。さらに、写真を受け取った人が内容を変えずに転送しただけという可能性もある。
ただ、確認できる時刻が一つ増えたことには意味があった。最初の画像がどこから広がったのかを知るための手がかりになるかもしれないし、少なくとも今までより具体的な記録を残すことができる。
彩花は教室へ戻りながら、放課後に聞いた内容を正確に伝えようと考えた。
◇
放課後、彩花は女子生徒と一緒に文芸部の顧問を訪ねた。顧問は二人の説明を聞き、文章のない画像が日曜日の夕方に届いていたことを確認したうえで、受信時刻と画像の内容を記録した。
ただし、転送元の人物をその場で調べるよう求めることはなく、協力してくれた女子生徒の希望も確認していた。必要以上に個人の名前を広めず、本人の同意を得られる範囲で情報を整理するという方針は、彩花にとっても安心できるものだった。
「この画像が日曜日の夕方に届いていたことは、確認できる事実ですね。ただ、写真が撮られた直後のものかどうかは、まだ分かりません」
顧問はそう説明し、画面に残っている受信時刻を指さした。
「また、文章のついていない画像が存在するからといって、そこから誰が文章を加えたのかまでは判断できません。今後、別の情報が出てきた場合も、確認できることと推測は分けておきましょう」
「はい。私も、そう思います」
彩花が答えると、顧問は頷いた。女子生徒にも協力への礼を伝え、今後何か気になることがあっても、自分で転送元を追いかける必要はないと説明していた。
相談を終えたあと、彩花は文芸部の部室へ向かった。今日の活動では部誌の表記をそろえるための確認が予定されていて、原稿を提出した部員たちも集まっている。
部室に入ると、すでに机の上には確認表が並べられていた。顧問から指摘された箇所は主に表記の統一に関するもので、同じ言葉の漢字とひらがなの使い分けや、句読点の位置などが中心だった。
「水瀬さん、ここ、表記をそろえるだけでいいみたい」
近くにいた部員が確認表を見せてくれた。
「本当だ。じゃあ、作品の内容は変えなくて大丈夫なんだね」
「うん。先生も、今回はここまでって言ってた」
彩花は安心して椅子に座り、自分の担当する部分を確認した。修正箇所は多くなかったため、丁寧に見直してもそれほど時間はかからない。
作業を終えてから部員たちと確認表を交換し、最後に変更箇所を照らし合わせた。大きな問題がないことを確かめたあと、顧問へ最終版を渡すことになり、彩花はほかの部員と一緒に原稿をそろえた。
紙の束を持ち上げたとき、その重みがいつもより少し特別に感じられた。何度も書き直し、読み合い、迷いながら完成へ近づけてきた文章が、ようやく一冊の部誌として形になるところまで来たのだ。
「……なんか、ここまで来ると嬉しいね」
彩花が呟くと、隣の部員も頷いた。
「うん。完成したら、最初にみんなで見たいな」
「私も。どんなふうになるんだろう」
二人は笑い合い、原稿を顧問へ渡すために立ち上がった。
部誌に関する誤った噂は、学校の記録と照らし合わせて否定できる状態になっている。写真の件はまだ続いているけれど、部員たちが作ってきた作品の完成を止める理由にはならなかった。
(ちゃんと進んでる。私たちが頑張ってきたことも、少しずつ形になってるんだ)
彩花はそう思いながら、顧問へ原稿を手渡した。
◇
その日の夜、彩花は悠真へ新しく分かったことを伝えた。
文章のない写真が日曜日の夕方に届いていたこと、その画像を保存していた生徒が学校で確認に協力してくれたこと、ただし撮影者や文章を書いた人物はまだ分かっていないことを、順番に説明した。
悠真からの返信は、少し時間を置いて届いた。
『分かった。文章のない写真が届いていたことは新しい情報だね。でも、そこから先はまだ決めつけられないから、僕の学校でも確認できたことと分けて考えるよ』
彩花はその文章を読み、自然と頷いた。悠真も同じように考えてくれていることが嬉しく、学校ごとに把握している情報が違う場合でも、確かなことだけを共有していけばいいのだと思えた。
『はい。私もそうします。それと、今日、部誌の最終原稿を先生に渡せました』
送信すると、今度はすぐに返事が届いた。
『おめでとう。ずっと頑張ってたもんね』
彩花は画面を見つめ、少しだけ頬が緩んだ。
悠真は文芸部の活動を直接見ていたわけではない。それでも、原稿の修正に悩んでいたことや、部誌の確認を何度も重ねてきたことを覚えてくれている。
『ありがとうございます。まだ完成品を見るまでは少し不安ですけど、みんなで頑張ったので楽しみです』
『完成したら、僕も読んでみたいな。もちろん、読ませてもらえるものなら』
彩花は少し考え、部誌が完成したら持っていけるか確認してみると返した。悠真が自分の作品を読むところを想像すると、嬉しい反面、少し恥ずかしい気持ちにもなる。
(悠真君に読んでもらうの、ちょっと緊張するかも。でも、感想は聞いてみたいな)
そのあと、明日の待ち合わせについてもう一度確認した。午後一時半に中央図書館の入口付近で会い、まずは悠真の選んだ本を見る予定になっている。
彩花は少し迷ってから、もう一つだけメッセージを送った。
『明日は、写真のことばかり考えずに本を選びたいです。もちろん必要なことは話しますけど、せっかく会えるので』
送信したあと、少しだけ緊張した。問題から目を背けたいと思われるかもしれないし、悠真が心配してくれていることを軽く扱っているように伝わる可能性もある。
けれど、返ってきた文章は彩花の予想よりずっと優しかった。
『僕も同じ気持ちだよ。明日は彩花さんと本の話をするために行くんだから』
彩花は胸の奥が温かくなるのを感じ、楽しみにしていると返信した。
その夜、眠る前に古い駅前写真の調査ノートを開いた彩花は、土曜日に確認したい資料について短いメモを書いた。二つ残っている撮影地点の候補を見比べるため、当時の道路の形が分かる図を探してみたいという内容だった。
ただし、その調査を必ず進めると決めたわけではない。まずは悠真の選んだ本を一緒に見ることが、明日の一番の楽しみだった。
◇
土曜日の昼過ぎ、青凪市立中央図書館の前には、冬の柔らかな陽射しが落ちていた。休日らしく入口付近には家族連れや学生の姿があり、建物の中から出てくる人々は、手にした本や鞄を抱えながらそれぞれの方向へ歩いていく。
彩花は約束の時間より少し早く到着し、入口の内側にある案内板の近くで足を止めた。コートの袖口を整え、館内の時計を確かめると、午後一時半まではまだ十分ほどある。
以前なら、早く着いたことを気にして落ち着かなくなっていたかもしれない。けれど今日は、少し余裕を持って来られたことを嬉しく思いながら、入口付近に置かれている新着資料の案内を眺めた。
地域の催しを紹介する掲示物の横には、図書館が所蔵する郷土資料についての案内が貼られていた。古い街並みを紹介する資料も一部取り上げられていて、彩花は思わず足を止めた。
(今度、こっちも調べてみたいな。でも今日は、まず悠真君の本だよね)
案内の内容を手帳に書き留めていると、後ろから控えめな声が聞こえた。
「彩花さん」
振り返ると、悠真が少し離れたところに立っていた。濃い色のコートに落ち着いた色合いのマフラーを合わせ、片手には薄い鞄を持っている。
「悠真君。こんにちは」
「こんにちは。早かったね」
「少し早く着いたので、案内を見てました」
彩花が手帳を閉じると、悠真は掲示板へ目を向けた。郷土資料の案内が気になったのだと説明すると、彼も興味を示したものの、すぐに調べ始めようとはしなかった。
「あとで時間があれば見てみようか。今日は、先に本の方がいいよね」
「はい。楽しみにしてました」
彩花が笑顔で答えると、悠真は一瞬だけ言葉を止めた。それから少し照れたように笑い、三冊選んできたことを伝えた。
「本当に三冊に絞れたんですね」
「うん。かなり悩んだけど」
「二十七冊からですもんね」
「……その数字は、しばらく忘れてもらえると嬉しいかな」
悠真が困ったように言うので、彩花は思わず笑った。彼もつられて笑い、二人は入口から少し離れて館内へ進んだ。
土曜日の図書館は平日より利用者が多かったけれど、閲覧席にはまだ空きがあった。彩花たちは会話をするときには周囲の迷惑にならないよう声を落としながら、まずは悠真が選んだ本を確認することにした。
悠真は鞄から小さなメモを取り出した。そこには三冊の書名と分類番号が丁寧に書かれていて、彩花は思わず目を丸くした。
「……ちゃんと調べてきたんですか?」
「うん。棚の場所が分からなくなると困るから」
「すごい。私だったら、書名だけメモして来ちゃうかも」
彩花がそう言うと、悠真は少しだけ照れたように笑った。
「彩花さんに紹介するつもりだったから、途中で迷いたくなかったんだ」
何気ない言葉だったはずなのに、彩花の胸が小さく跳ねた。
(……私のために、そこまで考えてくれたんだ)
彩花はすぐに返事をしようとして、少しだけ迷った。
嬉しいと伝えたい。
けれど、ただ礼を言うだけでは、この気持ちが十分に伝わらないような気がした。
「悠真君、ありがとうございます。でも、今日は私も一緒に探したいです」
彩花がそう言うと、悠真は少し驚いたような顔をした。
「一緒に?」
「はい。せっかく三冊選んでくれたんですから、どんな棚にあるのかも知りたいです。それに、悠真君がどうしてその本を選んだのか、探しながら聞いてみたいので」
悠真はしばらく彩花を見つめ、それからゆっくり頷いた。
「……うん。そうしよう」
二人は案内表示を確認し、最初の棚へ向かった。
◇
一冊目は、街の建物と人々の暮らしを扱った本だった。
古い住宅や商店の外観を紹介するだけでなく、建物の使われ方が時代とともに変わっていく様子を、写真と文章で説明している。彩花は目次を開き、街並みの変化について取り上げた章があることに気づいた。
「これ、悠真君が前から読んでいた本なんですか?」
「うん。全部を一度に読んだわけじゃないけど、気になる章を何度か読み返してる」
「どういうところが好きなんですか?」
彩花が尋ねると、悠真は少し考えてから答えた。
「建物って、形が変わらなくても使う人が変わることがあるでしょう。逆に、建て替えられても同じ場所で似たような暮らしが続いていることもある。そういう変化を見るのが面白いんだ」
彩花は本のページをめくりながら頷いた。写真には、古い商店の軒先や、通りに面した小さな窓、かつて人が集まっていた広場の様子などが載っている。
「確かに。建物だけを見てると気づかないけど、そこにいた人のことまで考えると、違って見えますね」
「うん。彩花さんが古い駅前の写真を調べてるときも、似たようなことを考えてるのかなと思って」
彩花は顔を上げた。
「私の調べ物のことも、考えて選んでくれたんですか?」
「それもある。でも、この本は僕自身が好きだから、紹介したかった」
その答えが、彩花にはとても嬉しかった。
自分に合わせて選んでくれたこともありがたい。けれど、悠真が自分の好きなものを教えてくれることには、それとは少し違う嬉しさがあった。
「……そういう本を教えてもらえるの、嬉しいです」
「本当に?」
「はい。悠真君がどんなものを好きなのか、もっと知りたいので」
彩花が答えると、悠真は少しだけ目を見開いた。それから視線を本へ戻し、表紙の端を指で軽く押さえた。
「……それなら、選んでよかった」
声はいつもより少し小さかった。
彩花はその変化に気づいたけれど、何かを指摘する代わりに、もう一度本のページへ目を向けた。悠真が照れているように見えたことが、なぜか自分まで恥ずかしく感じられたからだ。
二人はしばらく、掲載されている建物の写真を見比べた。
彩花は特に、昔の商店街の道幅について説明されたページに興味を引かれた。現在では広い道路になっている場所でも、以前は建物の間を通る細い道だった例が紹介されていて、道の形が変わると写真から位置を判断することも難しくなるのだと分かった。
「悠真君、これって、私たちが調べてる駅前の写真にも関係あるかもしれませんね」
「どのあたり?」
「前に、撮影地点の候補が二つあるって話したでしょう。今の道路の形で考えると、どうしても合わないところがあったんです。でも、昔は道幅が違った可能性もあるのかなって」
悠真は彩花が示したページを読み、少し考えてから頷いた。
「あり得ると思う。ただ、この本は別の街の事例だから、青凪市でも同じことが起きたとはまだ言えないね」
「はい。だから、当時の地図を確認したいです」
「それなら、前に話してた郷土資料が役に立つかもしれない」
彩花は頷き、調査ノートに確認したい項目を書き足した。写真の撮影地点がすぐに分かったわけではないけれど、何を確かめれば候補を絞れるのかが少し明確になった。
◇
二冊目は、植物の変化を季節ごとに記録した本だった。
春から冬までの写真が並び、同じ植物でも光の当たり方や気温によって姿が変わる様子が丁寧に紹介されている。彩花はページを開くと、思わず姉の凛花が調べていた鉢植えのことを思い出した。
「これ、お姉ちゃんにも教えてあげたいです」
「凛花さん、植物の置き場所を考えてるって言ってたよね」
「はい。まだ決めてないみたいなんですけど、日当たりだけじゃなくて、寒さや風のことも気にしてて」
悠真は頷き、植物を育てる場所について書かれた章を開いた。
そこには、窓際の日差しが十分でも、夜間の冷え込みや風通しによって環境が変わることが説明されていた。ただし、具体的な育て方は植物の種類によって異なるため、同じ場所がすべての植物に適しているわけではないという注意も添えられている。
「お姉ちゃんが気にしてたこと、ちゃんと載ってますね」
「うん。でも、凛花さんが育てたい植物の種類が分からないと、これだけで決めるのは難しいかもしれない」
「そうですね。帰ったら、どんな植物を考えてるのか聞いてみます」
彩花は興味深そうにページを読み進めた。植物の変化を記録した写真は、同じ場所を何度も撮影しているものが多く、季節によって背景の印象まで変わっている。
その様子を眺めていると、彩花はふと悠真がこの本を選んだ理由を聞きたくなった。
「悠真君は、植物も好きなんですか?」
「詳しいわけじゃないけど、観察するのは好きだよ」
「観察、ですか?」
「うん。昨日と今日で大きく変わったようには見えなくても、何日か続けて見ると、小さな違いが分かることがあるでしょう。そういうのが面白いと思う」
彩花はその言葉を聞き、少し考えた。
植物だけではなく、人の気持ちにも似たところがあるのかもしれない。昨日と今日で大きく変わったようには見えなくても、何度も話したり一緒に過ごしたりするうちに、少しずつ違う一面が見えてくる。
(……私が悠真君のことを知っていくのも、ちょっと似てるのかな)
そう思った瞬間、彩花は自分の考えが少し恥ずかしくなった。
悠真は何も知らずに植物の写真を見比べていて、その横顔はいつもと変わらない。けれど彩花には、彼が何かを真剣に見つめている姿そのものが、以前よりずっと気になるようになっていた。
「彩花さん?」
呼ばれて顔を上げると、悠真が少し心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫? 何か気になるところがあった?」
「あ、いえ。ちょっと考え事をしてました」
「そうなんだ。何を?」
彩花は一瞬だけ迷った。
人の気持ちも植物みたいに少しずつ変わるのかもしれないと考えていた、と正直に答えたら、どんな反応をされるだろう。
けれど、今ここで無理に説明する必要はない気がした。
「……悠真君って、いろんなものを丁寧に見てるんだなって思ったんです」
彩花がそう答えると、悠真は少し驚いたような顔をした。
「そうかな」
「はい。私だったら気づかないようなところまで、ちゃんと見てるので」
悠真はしばらく彩花を見つめ、それから柔らかく笑った。
「彩花さんも同じだと思うけど」
「私も?」
「うん。本を読んでるときも、誰かの話を聞いてるときも、すぐに答えを決めないでしょう。ちゃんと考えてから、自分の言葉で話してくれる」
彩花は思わず視線を落とした。
自分では、答えを出すのが遅いだけだと思っていたこともある。けれど悠真は、それを違う形で見てくれていたらしい。
「……ありがとうございます」
彩花が小さく答えると、悠真は何も言わずに微笑んだ。
その表情を見ていると、胸の奥に温かいものが広がった。
◇
三冊目は、短い随筆を集めた本だった。
最初の二冊とは違い、写真や図はほとんどなく、日常の出来事や何気ない景色について書かれた文章が中心になっている。彩花は表紙を眺め、普段は物語を読むことが多い自分にとって、少し新鮮な選択だと思った。
「これ、悠真君が一番紹介したかった本ですか?」
何気なく尋ねると、悠真は少しだけ驚いた表情を見せた。
「どうして分かったの?」
「……やっぱり、そうなんですね」
彩花は笑った。
「最初の二冊もすごく丁寧に説明してくれたんですけど、この本を出すとき、ちょっと嬉しそうだったので」
悠真は一瞬だけ黙り、それから困ったように笑った。
「そんなに顔に出てた?」
「少しだけ」
「……彩花さんには、隠し事が難しいね」
その言葉に、彩花は少しだけ頬を赤くした。
悠真が本当に何かを隠しているという意味ではないと分かっている。けれど、自分だけが彼の小さな変化に気づけたような気がして、妙に嬉しかった。
悠真は随筆集を開き、ある短い文章の冒頭を示した。そこには、いつも通る道で聞こえる音が、季節や時間によって違って感じられるという内容が書かれていた。
「この本、何か大きな事件が起きるわけじゃないんだけど、読んでると普段見過ごしてるものに気づくことがあるんだ」
「……素敵ですね」
「うん。僕はこういう文章が好きなんだと思う」
彩花はページをめくり、最初の数段落を読んでみた。
作者は何気ない日常の一場面を丁寧に描いていて、特別な出来事がなくても、そこに確かな感情があることを感じさせる。彩花は読み進めるうちに、自分が文芸部で書いている物語についても考え始めた。
大きな事件や劇的な展開がなくても、登場人物の気持ちが少し変わるだけで、読者に残る場面がある。自分もそういう文章を書けるようになりたいと、以前から思っていた。
「悠真君、これ、借りて読んでみたいです」
彩花が顔を上げると、悠真は嬉しそうに目を細めた。
「本当?」
「はい。最初は少し難しそうかなと思ったんですけど、読んでみたら続きが気になって」
「よかった。彩花さんに紹介できて嬉しい」
その声には、隠しきれない喜びが混じっていた。
彩花は思わず微笑んだ。
(……こんなに喜んでくれるんだ)
自分が本を気に入ったというだけで、悠真がこれほど嬉しそうにする。
そのことが、彩花には少し不思議で、何より嬉しかった。
「でも、悠真君」
「うん?」
「この本を選んだのって、私が文芸部だからですか?」
悠真は少し考えてから首を横に振った。
「それも理由の一つだけど、一番は僕が好きな本だからかな」
「……そうなんですね」
「彩花さんに、僕が好きなものを知ってもらいたかったんだと思う」
その言葉を聞いた瞬間、彩花の胸が小さく跳ねた。
悠真はいつも、自分が何をしたいのかを優先して聞いてくれる。けれど今日は、彼自身が好きなものを、自分に見せてくれている。
それが、彩花にはとても大切なことに思えた。
「……ありがとうございます。私も、悠真君の好きなものを知れて嬉しいです」
彩花が答えると、悠真は少しだけ目を伏せた。
その横顔がほんのり赤く見えたのは、窓から差し込む陽射しのせいだけではないような気がした。
◇
三冊の本を見終えたあと、彩花たちは閲覧席へ移動した。
館内は休日らしく利用者が多かったけれど、窓際の席に空きがあり、二人は隣同士に座ることができた。彩花は借りるつもりの随筆集を机に置き、ほかの二冊については必要な部分をもう少し確認してから棚へ戻すことにした。
窓の外では、冬の陽射しが建物の間を通って歩道へ落ちていた。図書館の中は暖かく、ページをめくる音や遠くから聞こえる小さな足音が、落ち着いた時間を作っている。
彩花はしばらく随筆集を読み進めたあと、ふと隣に目を向けた。
悠真は建物の本を開き、何かを考えるように写真を見つめていた。先ほどまで彩花に説明してくれていたときとは少し違い、今は自分自身の興味に従ってページを眺めているようだった。
(……こういう時間、好きだな)
同じ本を見て話すのも楽しい。
けれど、隣で別々の本を読み、ときどき気になったところを見せ合う時間も、彩花には心地よかった。
何か話さなければならないと思わなくても、一緒にいられる。
そのことに気づくと、胸の奥が少し温かくなった。
しばらくして、悠真が本を閉じた。
「彩花さん、少しだけいい?」
「はい。どうしました?」
「前に話してた古い駅前の写真なんだけど、ちょっと気になることがあって」
彩花は顔を上げた。
悠真が示したページには、昔の商店街の道路について説明された図が載っていた。建物の正面から見える景色と、地図上の道路の形を比べると、同じ場所でも印象がかなり違っている。
「これ、写真だけだと広い道に見えるんだけど、実際には途中で道が曲がってるんだ。建物の並び方によって、奥行きが違って見えるらしい」
「……本当ですね」
「青凪市の写真でも、似たようなことが起きてる可能性はあると思う。ただ、これは別の場所の例だから、実際に昔の地図を確認しないと分からないけど」
彩花は頷いた。
以前から調べている写真では、撮影地点の候補が二つ残っている。一つは古い商店街の角付近、もう一つは駅前広場に近い場所という推測だった。
どちらも周囲の建物や道路の形から考えた候補だが、現在の街並みと完全には一致していない。もし当時の道路の形が今と違っていたなら、これまでの比較方法を見直す必要があるかもしれなかった。
「……悠真君、あの郷土資料の案内、見に行ってもいいですか?」
「もちろん。何か見つかりそう?」
「分かりません。でも、古い地図が載っている資料があるかもしれないので、調べてみたいです」
悠真は頷き、本を閉じた。
「じゃあ、まず資料の場所を確かめようか」
二人は使っていた本を整理してから席を立ち、入口付近の案内板へ向かった。
◇
郷土資料の案内には、青凪市の歴史を紹介する資料がいくつか掲載されていた。
古い街並みの写真集や、地域の変化をまとめた冊子のほか、かつての道路や公共施設の位置を示した図を含む資料もあるらしい。彩花は案内を読みながら、以前に学校の図書室で見つけた書名と似たものがあることに気づいた。
「悠真君、これ、学校で見つけた資料と同じ系列かもしれません」
彩花が指さすと、悠真も案内を確認した。
「本当だ。発行時期が違うものもあるみたいだね」
「はい。もし道路の形が載っていたら、候補を比べられるかもしれません」
二人は館内の検索端末で所蔵状況を確認した。案内に掲載されていた資料のうち、古い市街地の図を収録した冊子は館内で閲覧できることが分かり、彩花はその請求記号を手帳に書き留めた。
郷土資料の棚へ向かう途中、悠真は彩花に確認した。
「今日は本を選ぶ約束だったけど、少し調べても大丈夫?」
「はい。でも、長くなりすぎないようにしたいです。せっかく悠真君が選んでくれた本もあるので」
「僕も気になってるから、少しだけ見てみよう」
彩花は笑顔で頷いた。
以前の自分なら、調べ物を始めると最後まで終わらせなければならないと思っていたかもしれない。けれど今日は、悠真と過ごす時間そのものを楽しみたいという気持ちがあるため、必要なところだけ確認して次につなげるつもりだった。
郷土資料の棚には、青凪市の歴史や文化についてまとめた本が並んでいた。二人は請求記号を確かめ、目的の冊子を見つけると、近くの閲覧机へ移動した。
冊子には、現在の街並みを紹介する文章とともに、古い市街地の略図が掲載されていた。彩花は駅前付近のページを開き、以前の調査ノートに書いた二つの候補地点と見比べた。
「……あれ?」
思わず声が漏れた。
悠真が顔を上げる。
「どうしたの?」
「この図だと、駅前広場の横にあった道、今より少し違う方向に伸びてます」
彩花は図の一部分を指さした。
現在の地図では駅前広場からまっすぐ伸びているように見える道路が、古い略図では途中で緩やかに曲がり、商店街の角へつながっている。図が正確な測量図とは限らないため、そのまま位置を断定することはできないけれど、少なくとも現在の道路の形だけで昔の写真を比較するのは不十分だと分かった。
「……確かに、違って見えるね」
悠真も図を見比べながら頷いた。
「ただ、この冊子が作られた時期と、写真が撮られた時期が同じとは限らない。道路がいつ変わったのかも確認した方がいいと思う」
「はい。でも、これで調べる順番が分かりました」
彩花は手帳を開き、確認することを書き留めた。
古い略図に描かれた道路の位置。
現在の地図との違い。
そして、その道路がいつ変更されたのかを示す資料の有無。
これまでは二つの候補地点を写真の見た目だけで比べようとしていたけれど、道路の変化を調べれば、どちらの候補が写真の構図と合うのかを考える材料が増えるかもしれない。
「悠真君、これ、前より少し進みましたよね」
彩花が顔を上げると、悠真は嬉しそうに頷いた。
「うん。少なくとも、次に何を確かめればいいかが具体的になった」
「よかった。ずっと同じところで迷ってた気がしたので」
「写真の撮影地点はまだ分からないけど、見方は変わったと思うよ」
彩花はその言葉を聞き、胸の奥に小さな達成感が広がるのを感じた。
すぐに答えが出なくても、調べ方が一つ進むことには意味がある。
そして、その過程を悠真と共有できることが、何より楽しかった。
◇
郷土資料を元の場所へ戻したあと、二人は閲覧席へ戻った。
時計を見ると、午後三時を少し過ぎていた。最初に三冊の本を選んでから、郷土資料を調べるまで、思っていたより時間が経っている。
彩花は随筆集を手に取り、貸出手続きをすることにした。悠真はほかの二冊を棚へ戻し、戻ってきたところで彩花に声をかけた。
「彩花さん、今日はどうだった?」
「すごく楽しかったです」
彩花は迷わず答えた。
「悠真君が選んでくれた本、どれも面白かったです。でも、一番嬉しかったのは、どうしてその本が好きなのか聞けたことかもしれません」
悠真は少し驚いたような顔をした。
「……そうなんだ」
「はい。私、悠真君のこと、まだ知らないことがたくさんあるんだなって思いました」
彩花がそう言うと、悠真はしばらく黙っていた。
その沈黙は、答えに困っているというより、何かを大切に受け止めているように感じられた。
「僕も、彩花さんのことをもっと知りたいと思ってる」
やがて返ってきた声は、普段より少しだけ静かだった。
彩花の胸が小さく跳ねた。
「……そう、なんですか?」
「うん。彩花さんがどんな本を好きなのかは少しずつ分かってきたけど、まだ知らないことも多いから」
悠真はそう言ってから、少しだけ笑った。
「それに、今日みたいに僕が好きな本を紹介して、彩花さんがどう思うのか聞くのも楽しい」
彩花は視線を落とした。
胸の奥が温かくなって、うまく言葉が出てこない。
けれど、この気持ちを何も伝えずに終わらせたくなかった。
「……私も、同じです」
小さな声だったけれど、悠真には聞こえたらしい。
彼は少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
その表情を見た彩花は、思わず笑ってしまった。
理由を説明するのは難しかった。
ただ、同じ気持ちだと伝えられたことが嬉しかった。
◇
貸出手続きを終えて図書館を出るころには、冬の陽射しが少し傾き始めていた。
彩花は借りた随筆集を鞄へしまい、建物の前で立ち止まった。前回と同じように冷たい風が吹いていたけれど、今日はその寒さもあまり気にならなかった。
悠真は周囲を一度見渡し、それから彩花へ目を向けた。
「帰り、大丈夫? 途中まで一緒に歩こうか」
「はい。でも、悠真君の帰る方向と違いませんか?」
「少しだけなら大丈夫だよ」
彩花は少し考え、近くの大きな交差点まで一緒に歩くことにした。以前、写真を撮られた場所を通ることには少し緊張もあったけれど、それだけを理由に道を変えるつもりはなかった。
二人は並んで歩きながら、今日見た本について話した。
建物の本に載っていた昔の商店街のこと。
植物の本で見つけた冬の育て方のこと。
そして、彩花が借りた随筆集の続きについて。
どの話題も大きな事件ではなかったけれど、互いに気になったことを話しているうちに、自然と会話が続いていった。
交差点が近づいたところで、彩花は少しだけ歩く速さを緩めた。
前回の帰り道では、ここで悠真と別れた。
そのあと写真の問題が起き、学校でもいろいろなことがあった。
けれど今日、二人はまた同じ図書館で会い、いつもと変わらず本を選ぶことができた。
(……ちゃんと、また会えたんだ)
そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。
彩花は足を止め、悠真の方を向いた。
「悠真君、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。彩花さんが楽しんでくれてよかった」
「私、また一緒に本を選びたいです」
言い終えてから、彩花は少しだけ緊張した。
以前にも同じようなことを伝えたはずなのに、今日はなぜか特別な言葉を口にしたような気がした。
悠真は一瞬だけ驚いた表情を見せたあと、ゆっくり頷いた。
「……うん。僕も」
彩花はその返事を聞いて、自然と笑顔になった。
「次は、私が本を選んでもいいですか?」
「もちろん。楽しみにしてる」
「でも、二十七冊は選びませんからね」
彩花がそう言うと、悠真は少し困ったように笑った。
「……まだ覚えてたんだ」
「忘れませんよ。すごくびっくりしたので」
「じゃあ、今度は彩花さんが何冊選ぶのか楽しみにしてる」
「三冊くらいにします」
二人は顔を見合わせて笑った。
笑い終えたあと、悠真が少しだけ真剣な表情になった。
「彩花さん」
「はい?」
「今日、誘ってくれてありがとう」
彩花は顔を上げた。
「……こちらこそ、来てくれてありがとうございます」
「うん。でも、僕は彩花さんから誘ってもらえたことが、すごく嬉しかった」
その言葉に、彩花の頬が熱くなった。
悠真は視線をそらさず、静かに続けた。
「写真のことがあって、また会うのをためらうかもしれないと思ってたから。彩花さんが普通に本を選びたいって言ってくれたとき、安心したんだ」
彩花は少し考えてから答えた。
「……心配はありました。でも、会いたい気持ちの方が大きかったので」
口にした瞬間、自分が思っていた以上に素直なことを言ったと気づいた。
悠真も、少し驚いたように目を見開いた。
数秒の沈黙が流れた。
彩花は急に恥ずかしくなったものの、言葉を取り消すことはしなかった。
「だから、私から誘いました」
小さく付け加えると、悠真はゆっくり笑った。
「……そっか」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「僕も、彩花さんに会いたかったよ」
彩花は思わず目を伏せた。
胸の奥が温かくなり、同時に少し落ち着かなくなる。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、その言葉を聞けたことが嬉しくて、しばらく顔を上げられなかった。
◇
交差点の信号が変わり、二人はそこで別れることにした。
悠真は彩花が帰る方向を確認し、無理に送ろうとはしなかった。彩花も、彼が反対方向へ歩き始めるのを見届けてから、自分の帰り道へ向かった。
歩きながら、彩花は今日の出来事を思い返した。
三冊の本を一緒に見たこと。
悠真が自分の好きなものを教えてくれたこと。
古い駅前写真の調査で、新しい資料の手がかりが見つかったこと。
そして、別れ際に互いに会いたかったと伝え合えたこと。
どれも彩花にとって大切な出来事だった。
(……今日は、前より少しだけ悠真君のことを知れた気がする)
悠真が何を大切にしているのか。
どんな本を好きなのか。
どんなときに嬉しそうに笑うのか。
以前なら気づかなかったことが、少しずつ分かるようになっている。
それは、彼と過ごす時間が増えたからだけではないのかもしれなかった。
彩花自身が、悠真のことをもっと知りたいと思うようになったからだ。
そう考えた瞬間、昼休みに文芸部の友人から尋ねられた言葉が思い浮かんだ。
『水瀬さんは、九条君のこと、どう思ってるの?』
あのとき、自分は大切な友達だと答えた。
その気持ちは、今も変わっていない。
けれど、今日の自分なら、もう少し違う言葉を付け加えるかもしれない。
(……もっと、一緒にいたい人)
心の中でそう呟いた瞬間、彩花は少しだけ頬を赤くした。
まだ、その気持ちを何と呼べばいいのかは分からない。
けれど、以前よりも少しだけ、自分の気持ちが見えてきたような気がした。
◇
帰宅すると、凛花が居間で植物の本を読んでいた。
彩花が声をかけると、姉は顔を上げて微笑んだ。
「お帰り、彩花。図書館、楽しかった?」
「うん。すごく楽しかったよ」
彩花はコートを脱ぎ、鞄から借りてきた随筆集を取り出した。
「これ、悠真君が選んでくれた本なの」
凛花は表紙を眺め、少し興味深そうに目を細めた。
「随筆集なんだね。彩花が自分で選ぶ本とは、ちょっと違う感じかな」
「うん。でも、読んでみたら面白くて。普段見過ごしてることを、こんなふうに文章にできるんだって思った」
彩花は本を開き、気に入った部分について簡単に説明した。
凛花は頷きながら聞いていたが、途中で少しだけ笑った。
「……何?」
彩花が尋ねると、凛花は首を横に振った。
「ううん。彩花、すごく楽しそうだなって思って」
「……そんなに?」
「うん。本の話をしてるのに、悠真君のことも嬉しそうに話してるから」
彩花は思わず言葉に詰まった。
確かに、今日の出来事を説明しているうちに、悠真が何を言ったのか、どんな表情をしていたのかまで話してしまっていた。
「……だって、楽しかったんだもん」
小さく答えると、凛花は優しく笑った。
「うん。それならよかった」
彩花は少し照れくさくなり、話題を変えるように鞄からもう一枚のメモを取り出した。
「そうだ、お姉ちゃん。植物の本も紹介してもらったの。置き場所を考えるときに役立ちそうなことが載ってたから、今度一緒に探してみない?」
凛花は目を輝かせた。
「本当? それは助かるかも。私、まだ置く場所を決められてなくて」
「うん。植物の種類によっても違うみたいだから、まず何を育てたいのか決めた方がよさそうだけど」
「そうだね。じゃあ、今度一緒に見に行こうか」
彩花は頷いた。
悠真が紹介してくれた本が、今度は姉との新しい約束につながった。
そのことが、何だか嬉しかった。
◇
同じ土曜日の夜、九条家では、悠真が自室の机に向かっていた。
机の上には、図書館で見た本の書名を記したメモと、古い青凪市の地図について調べるための資料一覧が置かれている。彩花と一緒に見つけた郷土資料の内容を整理しようと思ったものの、書き始めてから何度も手が止まっていた。
理由は、調査が難しいからではなかった。
別れ際に彩花が言ってくれた言葉が、何度も頭に浮かぶからだ。
『会いたい気持ちの方が大きかったので』
悠真はペンを置き、椅子の背に軽く体を預けた。
(……あれは、反則だと思う)
彩花はきっと、深い意味を込めて言ったわけではないのだろう。
写真の問題があっても図書館へ行きたかったという、素直な気持ちを伝えてくれただけなのだと思う。
それでも、悠真にとっては十分すぎるほど嬉しい言葉だった。
自分がどれほど彩花に会いたいと思っていたのか、今日改めて気づかされた気がする。
そして、彼女が自分から次の約束を提案してくれたことも、何より嬉しかった。
(……僕ばかりが会いたいと思ってるわけじゃないんだね)
そう考えると、胸の奥に温かいものが広がった。
けれど、同時に少しだけ落ち着かなくなる。
彩花はまだ、自分との関係について急いで答えを出そうとはしていない。
悠真も、それを大切にしたいと思っている。
だからこそ、嬉しい言葉を聞いたからといって、すぐに何かを変えようとするのは違う。
今は、彩花が安心して一緒に過ごせる時間を積み重ねたい。
そう考えながら、悠真は机の上のメモへ目を戻した。
古い駅前写真の撮影地点については、今日見つけた略図を手がかりに、道路の変化を確かめる必要がある。
次に調べる資料も具体的になった。
けれど、今日一番嬉しかったのは、調査が進んだことではなかった。
彩花が、自分の好きな本を楽しそうに読んでくれたこと。
そして、これからも一緒に本を選びたいと言ってくれたことだった。
悠真は小さく息を吐き、スマートフォンを取り出した。
彩花からは、すでに帰宅したという連絡が届いている。
それに返信したあと、少し考えてから、もう一文付け加えた。
『今日はありがとう。次は彩花さんが選んでくれる本を楽しみにしてる』
送信すると、しばらくして返事が届いた。
『こちらこそ、ありがとうございました。次は私が選びますね。でも、悠真君が好きそうな本を考えるのって、結構難しいです』
悠真は思わず笑った。
『僕のことを考えて選んでくれるなら、どんな本でも嬉しいよ』
返信すると、今度は少しだけ間が空いた。
やがて届いたメッセージには、短い言葉が書かれていた。
『……それなら、頑張って選びます』
悠真はその文章を何度か読み返した。
嬉しくて、すぐに画面を閉じることができなかった。
◇
彩花は自室の机で、悠真からの返信を見つめていた。
『僕のことを考えて選んでくれるなら、どんな本でも嬉しいよ』
その言葉を読んだ瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
悠真はいつも、こういうことを自然に言う。
相手にとって特別な言葉だと分かっているのか、それとも本当に思ったことをそのまま伝えているだけなのか、彩花にはまだよく分からなかった。
(……悠真君って、こういうところが本当にずるいと思う)
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、そんな言葉をもらえることが嬉しくて、つい何度も読み返してしまう。
彩花はスマートフォンを伏せ、机の上の随筆集を開いた。
今日、悠真が紹介してくれた本。
彼自身が好きで、自分にも読んでほしいと思ってくれた本。
そのページをめくっていると、図書館で並んで座っていた時間が自然と思い出された。
同じ本を見て話したこと。
別々の本を読みながら、ときどき気になったところを見せ合ったこと。
そして、帰り道で会いたかったと伝え合えたこと。
どれも、彩花にとって大切な記憶になっていた。
しばらく読んだあと、彩花は本を閉じ、手帳を開いた。
次に悠真へ紹介したい本を選ぶため、思いつく書名をいくつか書き出してみた。
自分が好きな小説。
少し前に読んで印象に残った短編集。
そして、文章の読み方について考えるきっかけになった一冊。
候補を書き終えると、全部で五冊になっていた。
(……あれ。三冊にするつもりだったのに)
彩花は思わず笑った。
悠真が二十七冊まで候補を増やしてしまった気持ちが、少しだけ分かったような気がした。
相手に紹介する本を選ぶときには、単に自分が好きなものを並べるだけではなく、どんな話をしたいのか、どんな反応をしてくれるのかまで考えてしまう。
それが楽しくて、なかなか決められない。
(……悠真君も、こんな気持ちだったのかな)
彩花は五冊の書名を見比べ、すぐには減らさずに手帳を閉じた。
明日、もう一度考えてみよう。
今日はまだ、図書館で過ごした時間の余韻を大切にしていたかった。
◇
日曜日の朝、彩花はいつもより少し遅く目を覚ました。
窓の外には明るい陽射しが広がり、冬の冷たい空気の中にも穏やかな休日の気配がある。机の上には昨日借りてきた随筆集が置かれていて、昨夜読んだところには栞が挟まっていた。
朝食を終えてから自室へ戻った彩花は、手帳を開き、昨日書いた五冊の候補を見直した。
悠真へ紹介したい本。
そう考えるだけで、自然と楽しい気持ちになる。
けれど、どの本を選べばいいのかは、まだ迷っていた。
物語の展開が面白い本もあれば、文章そのものが好きな本もある。自分にとって大切な一冊を選ぶなら、理由をきちんと説明できるものにしたい。
彩花は候補の一冊を手に取り、最初のページを開いた。
以前に読んだときには、登場人物の会話が印象に残っていた作品だった。けれど今読み返してみると、会話の合間に描かれる小さな動作や、登場人物が言葉にしなかった気持ちにも目が向く。
(……悠真君と一緒に読んだら、どんなところを気にするんだろう)
そう考えると、以前とは違う楽しみ方ができそうだった。
彩花は手帳に短いメモを書き足した。
この本を紹介したい理由。
自分が好きな場面。
そして、悠真に聞いてみたいこと。
書き終えると、少しだけ胸の奥が温かくなった。
昨日までの自分なら、好きな本を紹介することは、自分の好きなものを相手に知ってもらうことだと思っていた。
けれど今は、それだけではないような気がする。
同じ本を読んだあと、相手が何を感じたのかを聞くこと。
自分とは違う考え方に出会うこと。
そして、そこからまた新しい話が始まること。
そういう時間を、悠真ともっと重ねていきたいと思っていた。
彩花は窓の外を眺めた。
冬の陽射しが机の上へ落ち、開いた手帳の文字を柔らかく照らしている。
写真の問題は、まだ完全には解決していない。
最初の撮影者も、文章を書いた人物も分からないままだし、今後また別の情報が出てくる可能性もある。
けれど、だからといって、自分の毎日をすべてその問題に支配されたくはなかった。
学校へ行き、文芸部で作品を書き、家族と話し、図書館で本を読む。
そして、悠真と会う。
どれも、自分が大切にしたい時間だった。
(……私、ちゃんと自分で選んでいきたいな)
誰かが勝手につけた言葉ではなく、自分の気持ちで。
周囲の噂に合わせるのではなく、相手と話しながら。
その考えは、以前よりもはっきりしていた。
◇
昼前、彩花は凛花と一緒に、植物の本について話していた。
昨日、悠真が紹介してくれた本の内容を説明すると、凛花は興味深そうに聞き、今度中央図書館へ行くときに同じ棚を見てみたいと言った。二人は育てたい植物の候補について話し合い、部屋の窓際に置く場合には寒さや日差しを確かめてから決めようということになった。
話が一段落したころ、凛花がふと彩花の手帳へ目を向けた。
「彩花、何か本を選んでるの?」
「うん。次は私が悠真君に紹介する番だから」
彩花が答えると、凛花は少しだけ笑った。
「もう考えてるんだね」
「……うん。でも、三冊に絞れなくて」
「何冊あるの?」
「五冊」
凛花は一瞬だけ黙ったあと、楽しそうに笑った。
「悠真君の二十七冊よりは少ないね」
「それはそうだけど……」
彩花は少し恥ずかしくなり、手帳を閉じかけた。
けれど凛花はからかうのをやめ、優しく微笑んだ。
「いいと思うよ。彩花がどの本を選ぶのか、悠真君も楽しみにしてるんでしょう?」
「……うん」
「だったら、急いで決めなくてもいいんじゃないかな。彩花が本当に紹介したいと思うものを選べば」
彩花はその言葉を聞き、少しだけ安心した。
自分の好きな本を選ぶことに、正解があるわけではない。
悠真がどんな本を選んでくれても嬉しいと言ってくれたように、自分も相手に喜んでもらうことだけを考えすぎなくていいのかもしれなかった。
「……ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして」
凛花はそう答えてから、少しだけいたずらっぽく笑った。
「でも、彩花も悠真君のことになると、結構真剣だよね」
彩花は思わず顔を上げた。
「……そんなことないよ」
「そう?」
「……たぶん」
凛花は何も言わずに笑った。
彩花は少しだけ頬を赤くしながら、手帳へ視線を戻した。
否定したかったはずなのに、自分でも完全には否定できないことが、少し恥ずかしかった。
◇
その日の夕方、彩花は机に向かい、古い駅前写真の調査ノートを開いた。
昨日見つけた郷土資料の略図について、確認できたことを書き足していく。以前は二つの撮影地点の候補を現在の街並みと比べることが中心だったが、今は当時の道路の形や、その変化を示す資料を探す必要があると分かっている。
彩花はノートの余白に、次に調べる項目をまとめた。
古い道路の位置。
道路の変更時期。
写真に写る建物の配置との一致。
そして、撮影年代を確認できる資料の有無。
どれも、すぐに答えが見つかるとは限らない。けれど、以前より調べる順番が明確になったことで、少しだけ前へ進めた気がした。
ノートを閉じようとしたとき、机の端に置いたスマートフォンが震えた。
画面には悠真からのメッセージが表示されていた。
『彩花さん、昨日の郷土資料のことなんだけど、次に調べたい資料を少し整理してみたよ。今度会ったときに一緒に確認できると思う』
彩花は思わず笑顔になった。
悠真も、昨日の調査の続きを考えてくれていたらしい。
『ありがとうございます。私も今日、確認したいことをノートにまとめてました』
送信すると、すぐに返事が届いた。
『本当? じゃあ、次はお互いのメモを見比べてみようか』
彩花は少し考えてから、返信を打った。
『はい。でも、その前に私が選んだ本も紹介したいです』
送信すると、悠真から短い返事が届いた。
『もちろん。そっちの方が楽しみかもしれない』
彩花は画面を見つめた。
胸の奥が温かくなり、自然と笑顔になる。
そして、少しだけ迷ってから、もう一文を送った。
『悠真君、次も私から誘っていいですか?』
送信したあと、彩花は自分の心臓が少し速く動いていることに気づいた。
ただ、次の約束を提案するだけ。
そう考えれば、特別なことではないはずだった。
けれど、今はその言葉を送ること自体が、少し勇気のいることに感じられた。
数秒後、返信が届いた。
『もちろん。彩花さんから誘ってもらえるの、すごく嬉しいから』
彩花は思わずスマートフォンを胸元へ引き寄せた。
(……もう、本当に)
どうして悠真は、こんなに自然に嬉しいことを言うのだろう。
自分ばかりが照れているような気がして、少し悔しい。
けれど、そんな気持ちになることさえ、今は嫌ではなかった。
彩花はしばらく画面を見つめ、それからゆっくり返信を打った。
『じゃあ、また予定を考えて連絡しますね。次も楽しみにしています』
送信すると、悠真からも同じような言葉が返ってきた。
彩花はスマートフォンを伏せ、机の上の手帳を開いた。
五冊の候補の中から、どれを選ぶか。
まだ答えは出ていない。
けれど、選ぶ時間そのものが、こんなにも楽しくなるとは思っていなかった。
彩花はペンを持ち、最初の一冊の横に小さな印をつけた。
この本は、悠真に紹介したい。
そう思える理由が、今ならはっきり分かる気がした。
窓の外では、冬の夕方の光が少しずつ薄くなっていた。
彩花はその景色を眺めながら、昨日の帰り道で交わした言葉を思い出した。
『僕も、彩花さんに会いたかったよ』
胸の奥に、また温かいものが広がった。
自分が悠真をどう思っているのか。
その問いに、まだ一つの名前をつけることはできない。
けれど、今の彩花には分かっていることがある。
次に会う日を、自分から決めたいと思うこと。
相手の好きなものを、もっと知りたいと思うこと。
そして、自分が見つけたものを、最初に伝えたい相手として悠真の顔が浮かぶこと。
それらの気持ちは、誰かに決めてもらったものではなかった。
彩花自身が、少しずつ見つけてきたものだった。
手帳の上には、まだ選びきれていない本の名前が五つ並んでいる。
そのどれを選ぶことになるのか、今はまだ分からない。
けれど、次に悠真と会ったとき、どんな話ができるのかを考えるだけで、胸が弾んだ。
彩花は手帳を閉じ、借りてきた随筆集の続きを開いた。
ページをめくる指先は、いつもより少しだけ軽かった。




