第168話 「大切な友人」のその先と、私からの図書館の約束
水曜日の朝、青凪市の空には薄い雲が広がっていた。冬の冷たい風が住宅街を抜け、通学路の街路樹から残り少ない葉を揺らしている。水瀬彩花はマフラーを巻き直しながら、昨日の夜、九条悠真と交わしたメッセージを思い出していた。
悠真は家族と写真の件について話し合い、少なくとも現時点では、九条家から彩花の学校や家族へ直接連絡する予定はないと伝えてくれた。自分たちの交友関係についても、写真が出回ったという理由だけで一方的に制限されることはなかったらしい。すべてが解決したわけではないけれど、話し合いの結果を聞けたことで、彩花は少し安心していた。
(悠真君、ちゃんと自分の気持ちを伝えたんだよね。私も、いつまでも心配してるだけじゃなくて、自分にできることをしないと)
学校で広まっている写真については、まだ分からないことが多かった。最初に誰が撮影したのか、なぜ文芸部の費用について事実と違う文章が添えられたのか、そして誰が別の文章をつけて広めたのかも確認できていない。けれど、分からないことばかりを考えて足を止めるより、確かめられることを一つずつ整理した方がいいと、昨日までの経験から感じていた。
青葉高校の正門が見えてくると、彩花は自然と歩く速さを緩めた。月曜日に初めて写真を見せられたときの戸惑いが、まだ胸の奥に残っている。教室に入れば再び誰かに見られるかもしれないし、昨日とは違う文章が回っている可能性もあった。
それでも、今日は学校へ行くこと自体を怖がりたくなかった。文芸部では冬の部誌の確認が進んでいるし、授業で分からなかった部分も友人に聞いておきたい。自分の生活には、誰かが勝手に広めた写真とは関係なく、大切にしたいことがいくつもある。
彩花は正門を通り、昇降口へ向かった。上履きに履き替えていると、同じクラスの女子生徒が後ろから声をかけてきた。
「水瀬さん、おはよう」
「おはよう。今日は寒いね」
「ね。教室、暖房ついてるといいんだけど」
相手はいつもと変わらない調子で話しかけてくれた。彩花が昨日の授業で出された課題について尋ねると、女子生徒は鞄からノートを取り出し、途中で迷った問題があると教えてくれた。
そのまま二人で教室へ向かう間、写真の話題は一度も出なかった。彩花はそれをありがたく思いながらも、相手が気を遣って話さないようにしている可能性もあると考えた。けれど、今はそれを確かめる必要もない。
(何でも写真のことにつなげて考えなくていいんだよね。普通に学校の話をして、笑って、それでいいんだ)
教室に入ると、窓際の席では数人の生徒が次の授業について話していた。彩花の方を見た生徒もいたけれど、以前のように急に会話が途切れることはなかった。自分の席に鞄を置いた彩花は、机から教科書を取り出し、朝の準備を始めた。
そのとき、スマートフォンに短い通知が届いた。画面には悠真からのメッセージが表示されている。
『おはよう、彩花さん。今日は昨日より冷えるみたいだから、帰りも気をつけてね』
彩花は思わず微笑んだ。今朝、自分がマフラーを巻き直したことを知っているはずもないのに、ちょうど同じようなことを考えていたらしい。
『おはようございます。悠真君も暖かくしてくださいね。今日も頑張りましょう』
返信を送ってから、彩花はスマートフォンを鞄へしまった。たった数行のやり取りだったけれど、朝から胸の奥にあった緊張が少し和らいだ。
◇
一時間目の授業が終わったあと、彩花は文芸部の顧問に呼ばれ、昼休みに少し時間を取れるか尋ねられた。昨日までに相談した写真の件について、学校側で確認できたことを伝えたいという。
彩花が了承すると、顧問は詳しい内容をその場で話すことはせず、昼休みに職員室近くの相談スペースへ来るよう伝えた。周囲にはほかの生徒もいたため、本人の知らないところで話を広げないよう配慮してくれているのだと分かり、彩花は小さく頭を下げた。
昼休みになり、指定された場所へ向かうと、顧問はすでに資料を用意して待っていた。机の上には、彩花が保存した二種類の画像について整理したメモと、文芸部の活動費に関する確認結果が置かれている。
「水瀬さん、昨日までに教えてもらった内容について、学校でも確認しました。まず、部誌の費用については、こちらが把握している記録と照らし合わせても、噂に書かれているような支援の事実はありません」
「はい。ありがとうございます」
「それから、写真の方ですが、同じ写真に別の文章が添えられていることまでは確認できています。ただ、最初の撮影者や文章を書いた人については、まだ分かっていません」
彩花は頷いた。昨日も似た説明を聞いていたけれど、学校側が改めて記録を整理したことで、確認できたことと未確認のことが、より明確になった。
「先生、写真を見せてくれた子たちは、何か聞かれたりするんでしょうか」
「必要な確認をお願いすることはあるかもしれません。ただし、無理に誰かの名前を出させたり、個人の端末を勝手に調べたりすることはありません。協力してもらえる範囲で、いつ、どのような内容を見たのかを整理していきます」
顧問はそう説明してから、彩花の表情を確かめるように少し間を置いた。
「それと、画像の削除についても相談を進めています。すべての転送先が分かるわけではありませんが、投稿元が確認できた場合には、適切な窓口を通して対応を求めることができます」
「……消してもらえる可能性があるんですね」
「必ず消せるとは約束できません。ただ、本人の知らないところで写真が利用されていることは、学校としても軽く扱えない問題です」
彩花は机の上に置かれたメモへ目を向けた。写真が広まってしまった以上、もう何もできないのではないかと思ったこともあったけれど、実際には確認や相談の方法が残されている。
それは彩花にとって、思っていた以上に大きな安心につながった。
「先生、私からもお願いしていいですか?」
「もちろんです」
「文芸部のみんなには、部誌の費用について間違った話があることを、必要な範囲で説明してもらえますか。私のことを全部話す必要はないと思うんですけど、部の活動まで疑われたままになるのは嫌なので」
顧問はすぐに頷いた。
「それは学校側から説明できます。あなた個人の交友関係を詳しく話さなくても、部誌の制作について確認できた事実を伝えることはできますから」
彩花はほっと息を吐いた。自分の私生活を明かさずに、部誌についての誤解を正す方法があるのだと分かったからだ。
顧問はさらに、部員が外部から質問された場合には、個人で説明し続けるのではなく、顧問へ相談するよう伝えるつもりだと話した。部員同士で噂の出どころを探し回ることも避け、活動に必要な作業を続けられるようにしたいという。
「水瀬さん自身も、誰かに説明を求められたからといって、全部答える必要はありません。昨日も話しましたが、そのことは忘れないでくださいね」
「はい。自分で考えて、話すことを決めます」
彩花が答えると、顧問は穏やかに微笑んだ。相談を終えて立ち上がったとき、彩花は月曜日の自分より少しだけ落ち着いていることに気づいた。
問題がなくなったわけではない。けれど、分からないことを勝手に想像して怖がるだけではなく、自分の希望を伝え、必要な対応をお願いできるようになっていた。
◇
昼休みの残り時間、彩花は教室へ戻る前に、文芸部で使っている資料を確認しようと図書室へ立ち寄った。冬の部誌に掲載する作品の最終確認は進んでいて、今日は原稿を顧問に渡す前に、変更箇所をもう一度見直す予定だった。文章を直した部分に不自然なつながりがないか、授業の合間に確かめておきたいと思っていた。
図書室へ入ると、窓際の長机に見覚えのある女子生徒が座っていた。同じ文芸部の一年生で、何度か互いの原稿を読み合ったことがある相手だった。彩花に気づくと、彼女は手を上げてから隣の椅子を示した。
「水瀬さん、ちょうどよかった。昨日の原稿のことで、少し聞いてもいい?」
「うん。私も確認したいところがあったから」
二人は机の上に原稿を広げ、前回の活動で修正した部分を見比べた。彼女の作品は、主人公が幼なじみとすれ違う場面を扱った短編で、最後の会話の言葉選びについて何度も考え直していた。
彩花は変更前と変更後の文章を読み比べ、相手の気持ちを説明しすぎない方が、かえって余韻が残るのではないかと伝えた。彼女は少し考えてから頷き、主人公が答えを急がない形に修正したいと言った。
「ありがとう。水瀬さんに読んでもらうと、自分では気づかなかったところが分かるんだよね」
「そんなことないよ。私も読んでもらうと、いつも新しい発見があるから」
彩花が笑うと、彼女も笑顔を返した。二人はさらに数分ほど原稿について話し、最後の確認箇所に印をつけた。
原稿を片づけようとしたとき、彼女が少しだけ言いにくそうな顔をした。
「……水瀬さん、もう一つ聞いてもいい?」
「うん。何?」
「原稿とは関係ないんだけど」
その言葉に、彩花は自然と手を止めた。彼女が何を聞こうとしているのか、まだ分からなかったけれど、表情を見る限り、軽い冗談を言おうとしているわけではなさそうだった。
「答えにくかったら、言わなくてもいいからね」
「うん。とりあえず聞いてから考えるね」
彩花がそう答えると、彼女は一度だけ深呼吸をした。
「水瀬さんは、九条君のこと、どう思ってるの?」
その問いを聞いた瞬間、彩花の指が止まった。
図書室の中では、遠くの棚で本を探す生徒の足音が聞こえていた。窓から差し込む冬の陽射しが机の上に細長い影を落とし、開いたままの原稿用紙の端を明るく照らしている。
彩花はすぐに答えられなかった。嫌な質問だと思ったわけではないけれど、これまで自分の中で曖昧にしていた気持ちを、突然言葉にするよう求められた気がしたからだ。
(悠真君のことを、どう思ってるのか……)
大切な友人。
昨日、悠真が家族にそう説明したと聞いたとき、彩花は安心した。まだ正式に交際しているわけではないし、互いに無理をして関係を進めるつもりもない。
けれど、その言葉だけですべてを説明できるのかと聞かれたら、少し迷ってしまう。
図書館で会う約束をすると、何日も前から楽しみになる。悠真が嬉しそうに笑うと、自分まで嬉しくなるし、彼が困っていると聞けば、何かできることがないか考えてしまう。
土曜日に一緒に本を選んでいたときも、帰り道で悠真が自分の気持ちを話してくれたときも、彩花はその時間がずっと続けばいいと思っていた。
それが友情なのか、それとも別の名前をつけるべき気持ちなのか。
彩花はまだ、自分の中ではっきりと決められていなかった。
「……ごめんね。変なこと聞いちゃった?」
相手が申し訳なさそうに言ったので、彩花は慌てて首を横に振った。
「ううん。嫌だったわけじゃないの。ただ、ちゃんと考えたことがなかったから」
「そっか」
「どうして聞こうと思ったの?」
彩花が尋ねると、彼女は少し困ったように笑った。
「昨日、別の子から写真のことを聞かれたんだ。九条君と水瀬さんって、どういう関係なのって」
彩花は黙って続きを待った。
「私、分からないって答えたんだけど、その子が勝手にいろいろ言い始めちゃって。付き合ってるんじゃないかとか、家の事情があるんじゃないかとか」
「……うん」
「でも、そういう話って本人がどう思ってるか分からないのに、周りが決めることじゃないでしょう? だから、私も勝手なことを言いたくなかったの」
彼女はそこまで話してから、少し視線を落とした。
「それで、気になって聞いちゃった。でも考えてみたら、私が知る必要もないことだよね。ごめん」
彩花はその言葉を聞き、胸の奥にあった緊張が少しほどけるのを感じた。
相手は自分の気持ちを面白がって聞いているわけではなかった。知らないまま誰かに説明することを避けたくて、どうしたらいいのか迷っていたのだろう。
「謝らなくていいよ。聞いてくれて、ありがとう」
「……水瀬さん?」
「私も、ちゃんと考えるきっかけになったから」
彩花は机の上の原稿を見つめた。少し前まで二人で話していた物語の主人公も、自分の気持ちをうまく言葉にできずにいた。
物語の中なら、どこかで答えを出す場面が必要になるのかもしれない。けれど現実では、まだ答えが見つからないまま大切にしている関係があっても、いいのではないだろうか。
「悠真君はね、私にとって、とても大切な友達だよ」
彩花はゆっくりと言葉を選んだ。
「一緒に本を読んだり、調べ物をしたりするのが楽しいの。それに、私が何かを話すと、ちゃんと聞いてくれる。私が気づかなかったことを教えてくれることもあるし、逆に私の考えを聞きたいって言ってくれることもあるんだ」
彼女は何も言わずに聞いていた。
「だから、これからも会いたいと思ってる。でも、それ以上のことを聞かれたら、今はまだ、うまく答えられないかもしれない」
言い終えると、彩花は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。誰かに悠真との関係についてこんなに詳しく話したのは、初めてかもしれなかった。
彼女はしばらく考えてから、穏やかに微笑んだ。
「……そっか。じゃあ、大切な人なんだね」
「うん」
「それだけ分かれば十分だと思う。ほかの子に何か聞かれても、私から勝手に説明しないようにするね」
彩花は安心して頷いた。
「ありがとう。私も、まだ自分の気持ちを考えてる途中だから」
「うん。それでいいと思うよ」
彼女はそう答えてから、机の上の原稿を手に取った。
「なんか、私の小説の主人公みたいだね。相手のことが大切なのは分かってるのに、その気持ちを何て呼べばいいか分からないところ」
「……そう言われると、ちょっと恥ずかしいかも」
二人は顔を見合わせて小さく笑った。
図書室の静けさを壊さない程度の笑い声だったけれど、彩花にはその時間がとても心地よく感じられた。
答えを急かされなかったことが嬉しかった。
そして何より、自分の気持ちを誰かに説明するために、無理に名前をつけなくてもいいのだと思えたことが、少しだけ新鮮だった。
◇
午後の授業が始まってからも、彩花は昼休みの会話をときどき思い出していた。
教科書を読み、ノートを取り、先生の説明を聞いている間は授業に集中できていたけれど、問題を解き終えて少し時間が空くと、悠真の顔が自然と思い浮かんだ。
(大切な友達、か……)
その言葉は間違っていない。
けれど、友達というだけなら、どうして悠真からメッセージが届くと、こんなに嬉しくなるのだろう。
ほかの友人と話す時間も楽しいし、文芸部の仲間と原稿を読み合うことも好きだった。凛花と一緒に図書館へ行くときにも、前日から楽しみにすることはある。
それでも、悠真と会う約束をしたときには、少し違う気持ちが生まれることがあった。
どんな服を着ていこうかと考えたり、前に話した本を覚えてくれているか気になったり、相手がどんな表情で笑うのかを思い出したりする。
そんな自分に気づくと、彩花は少しだけ落ち着かなくなった。
(……これって、どういうことなんだろう)
答えを考えかけて、彩花は手元のノートに目を戻した。
今すぐ決める必要はない。
昼休みに自分でそう話したばかりなのだから、焦って結論を出そうとするのは違う気がした。
それに、悠真が自分のことをどう思っているのかも、まだすべて知っているわけではない。
大切な友人だと言ってくれたことは嬉しかったし、いつも自分を気遣ってくれることも伝わっている。けれど、相手の優しさを自分に都合のよい意味だけで受け取ってしまうのは、避けたいと思った。
(悠真君の気持ちは、悠真君のものだもんね。私が勝手に決めることじゃない)
その考えにたどり着くと、少し安心した。
自分の気持ちを大切にすることと、相手の気持ちを決めつけないことは、きっと両立できる。
今はまだ分からないことがあっても、一緒に過ごす時間の中で少しずつ知っていけばいいのだろう。
◇
放課後の文芸部では、冬の部誌の最終確認が行われていた。
机の上には原稿が順番に並べられ、部員たちは自分の担当する作品を読み直している。以前に修正した部分がきちんと反映されているか、誤字や改行の位置に問題がないかを確かめ、気になるところには付箋を貼っていた。
彩花も自分の原稿を広げ、最後のページから順に確認した。文章の意味を変えるような大きな修正はすでに終わっていたけれど、細かな表現の違いによって印象が変わる部分は残っている。
特に気になったのは、主人公が自分の気持ちを誰かに伝える場面だった。
以前は説明を重ねていた部分を、会話と短い描写に置き換えていたのだが、今読み返してみると、少しだけ言葉が足りないようにも感じられる。
彩花は鉛筆を持ち、余白に小さくメモを書いた。
(全部説明する必要はないけど、読んでくれる人が何も分からないままになるのも違うよね)
昼休みに自分が答えた言葉を思い出しながら、彩花は文章を読み直した。
現実の自分はまだ答えを出せていない。けれど、物語の主人公には、その場面でどうしてその言葉を選んだのかという理由がある。
彩花は二つの文章を比較し、主人公が迷っていることを無理に隠すのではなく、迷いながらも相手と向き合おうとしている気持ちが伝わるように、表現を調整した。
「水瀬さん、そこ直すの?」
隣の部員が尋ねた。
「うん。ちょっとだけ。主人公の気持ちが分かりにくいかなと思って」
「どれどれ……ああ、確かに。こっちの方が、何を言おうとしてるのか伝わるかも」
彩花は頷き、修正箇所を確認表に記入した。
その後も部員同士で原稿を見比べ、必要な修正を一つずつ終わらせていった。途中で顧問が部室に入り、全員に向けて連絡を始めた。
「みなさん、少しだけ手を止めてください。部誌のことで、確認しておきたいことがあります」
部員たちは顔を上げた。
顧問はまず、冬の部誌の制作費について、学校が把握している記録を確認したことを説明した。外部の特定の家庭から支援を受けているという噂には根拠がなく、部誌の制作はこれまで確認してきた計画に沿って進めてよいという。
続いて、部員個人の交友関係について、必要以上に噂を広めたり、本人に説明を求め続けたりしないよう伝えた。何か質問を受けた場合には、部員それぞれが判断して答えるのではなく、顧問へ相談してほしいという内容だった。
彩花は黙って聞いていた。
自分の名前を大きく出すことなく、必要な事実だけを説明してくれたことがありがたかった。
顧問の話が終わると、一人の部員が手を上げた。
「先生、じゃあ、部誌の内容を変えたりする必要はないんですか?」
「今のところ、今回の件を理由に作品の内容を変更する必要はありません。みなさんが書いた文章は、それぞれの作品として確認していきます」
「分かりました」
部員は安心したように頷いた。
彩花も胸の奥が軽くなるのを感じた。自分に関する噂が原因で部誌の内容まで変わることになったらどうしようと、少し心配していたからだ。
原稿の確認が再開されると、部員たちは再び机に向かった。
誰かが噂について話し始めることもなく、部室には紙をめくる音や、文章の読み方について相談する声が戻ってきた。
その光景を見ながら、彩花は改めて思った。
(ここにあるのは、みんなが一生懸命書いた作品なんだ。勝手な噂で、変えていいものじゃない)
自分の原稿を守ることだけではなく、部員全員の努力がきちんと形になることも大切だった。
そして、そのためにできることが、今日一つ進んだのだと感じた。
◇
最終確認の作業が進み、部誌の原稿は顧問へ渡すための状態まで整えられた。
まだ学校側で確認する工程は残っているものの、部員たちが担当する大きな修正は一通り終わった。彩花は確認表に必要な印をつけ、原稿の束を順番にそろえてから、部員たちと一緒に顧問へ提出した。
「お疲れさまでした。ここまでよく頑張りましたね」
顧問の言葉に、部員たちはそれぞれ安堵したような表情を見せた。
彩花も小さく息を吐いた。何度も文章を読み直し、互いに意見を出し合いながら修正してきた時間が、ようやく一つの区切りを迎えたのだと思うと、胸の奥に達成感が広がった。
部室に戻って片づけを始めると、昼休みに図書室で話した女子生徒が近づいてきた。
「水瀬さん、さっきのところ、最後まで見てくれてありがとう」
「ううん。私も読んでもらって助かったよ」
「……それと、昼休みのことなんだけど」
彩花が顔を上げると、彼女は少し照れくさそうに笑った。
「聞いてよかったと思ってる。水瀬さんがちゃんと自分の気持ちを考えてるって分かったから」
「……うん」
「でも、答えを急がせるつもりはないからね。私も、自分の小説の主人公にすぐ答えを出させすぎないようにしようと思った」
彩花はその言葉に笑った。
「それ、私も考えた。物語でも現実でも、気持ちって簡単に決められないことがあるよね」
「うん。だから、少しずつ進めばいいんじゃないかな」
彼女はそう言って原稿の入った鞄を持ち直した。
「それじゃ、また明日」
「うん。またね」
彩花は手を振って見送り、最後に自分の机の上を確認した。
部室の窓から見える空は、少しずつ夕方の色に変わり始めていた。冬の日は短く、放課後の活動を終えるころには、校舎の影が中庭の端まで伸びている。
帰り支度を終えた彩花は、部室の扉を閉めて廊下へ出た。
今日は、昨日までとは違う形で一日が進んだ気がした。
学校では写真についての確認が進み、部誌の原稿も次の工程へ進められた。昼休みには、自分が悠真をどう思っているのかという問いに向き合い、まだ答えを急がなくてもいいのだと思えた。
そして、そのすべてを振り返るうちに、彩花は一つのことに気づいた。
(……私、悠真君と会いたいんだ)
写真の問題を相談するためでも、学校で何が起きたのかを報告するためでもない。
ただ、一緒に本を選びたい。
悠真がどんな本を紹介してくれるのか知りたいし、自分も最近読んだ作品について話したい。図書館の棚を並んで歩き、互いに気になった本を手に取る時間を、もう一度過ごしたいと思っていた。
それは、誰かに決めてもらうことではなかった。
自分の気持ちとして、はっきり分かったことだった。
◇
同じ日の放課後、私立桜華学園の生徒会執行部では、悠真が書類の確認を終えていた。
予定していた作業は順調に進み、今日のうちに確認が必要だった資料も整理できている。普段なら、そのまま次の予定について考えるところだったが、悠真は机の上のスマートフォンに目を向けた。
彩花からの連絡はまだ届いていない。
もちろん、学校で部活動があることは知っていたし、返信を待つような約束をしていたわけでもなかった。それでも、昨日から続いている写真の問題が気になり、学校では何か新しいことがあったのだろうかと考えてしまう。
「九条君、さっきから何度も携帯見てない?」
近くで資料を片づけていた生徒が、少し不思議そうに尋ねた。
「……そうかな」
「うん。誰かから連絡待ってる?」
悠真は少し考えてから、曖昧に笑った。
「連絡が来たら嬉しい人はいるけど、待ってるってほどじゃないよ」
相手は一瞬だけ黙ったあと、何かに気づいたように目を丸くした。
「……それ、結構すごいこと言ってない?」
「何が?」
「いや、九条君がそんなこと言うの、あんまり聞かないから」
悠真は首を傾げた。自分では特別なことを言ったつもりはなかったけれど、相手は少し面白がっているようだった。
「相手って、もしかして写真の……」
「その話なら、本人のことを勝手に広めるのはやめてほしい」
悠真は穏やかな声で言った。
相手は驚いたように口を閉じた。
悠真はすぐに表情を和らげ、責めるつもりはないと伝えたうえで、写真が出回っていることについては学校でも確認を進めていると説明した。
「僕とその人が知り合いなのは事実だけど、そこから先のことを、誰かが勝手に決める必要はないと思うんだ」
「……そっか。ごめん」
「ううん。聞いてくれたこと自体は構わないよ。ただ、本人がいないところで話が大きくなるのは避けたいから」
相手は頷き、資料を抱えて部屋を出ていった。
悠真はその背中を見送り、少しだけ息を吐いた。
以前なら、相手が悪気なく尋ねてきたことに対して、そこまで明確に線を引かなかったかもしれない。けれど今回は、曖昧な返事をしたことが別の噂につながる可能性もある。
彩花のことを守りたいという気持ちはある。
しかし、それ以上に、本人の知らないところで彼女の気持ちを説明したくないと思っていた。
(彩花さんは、自分の言葉で話せる人だから)
昨日の電話で、彩花は自分も問題に向き合いたいと言ってくれた。
その言葉を思い出すと、悠真は自分が何をすべきなのか、少しずつ分かってきた気がした。
何でも先に解決してしまうことではない。
必要なときに手を差し伸べられるようにしておきながら、相手が自分で考えて進むことを信じる。
簡単なようで、悠真にとってはまだ慣れない考え方だった。
けれど、彩花とこれからも一緒に過ごしたいなら、きっと大切なことなのだろう。
◇
青葉高校を出た彩花は、帰り道の途中で一度立ち止まった。
駅へ向かう人の流れから少し離れた歩道には、冬の夕方らしい冷たい風が吹いている。彩花はマフラーを整えながらスマートフォンを取り出し、悠真とのメッセージ画面を開いた。
昨日の夜には、次に紹介する本を三冊まで絞るという話をしていた。
けれど、いつ会うのかはまだ決まっていない。
彩花は少しだけ迷った。
写真の問題が続いているのに、自分から図書館へ誘ってもいいのだろうか。悠真は家族と話し合ったばかりだし、学校でも気を遣うことがあるかもしれない。
それでも、昨日までの自分なら、相手の負担を考えて誘うことをためらっていたような気がした。
(でも、悠真君がどう思うかは、聞いてみないと分からないよね)
自分が会いたいと思っていることは事実だ。
その気持ちを伝えたうえで、悠真の都合や考えを聞けばいい。
彩花は画面に文字を打ち始めた。
『悠真君、今週の土曜日、もし予定が空いていたら、また中央図書館へ行きませんか?』
そこまで書いてから、一度指を止めた。
何となく、まだ伝えたいことが残っているように思えたからだ。
彩花は少し考え、文章を付け加えた。
『写真のことを相談するためじゃなくて、普通に一緒に本を選びたいです。悠真君が選んでくれる三冊も気になっているので』
送信ボタンを押すと、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
自分から誘うことは、これまでにもあった。
けれど今日は、なぜかいつもより緊張していた。
相手の予定が空いているかどうかを確かめるだけなのに、返事を待つ間、何度も画面を見てしまいそうになる。
彩花はスマートフォンを鞄にしまい、歩き始めた。
(返事は、悠真君の都合がいいときでいいんだから)
そう考えているうちに、先ほどまでの緊張が少しずつ薄れていった。
自分から誘えたことだけでも、今日は一つ前に進めたような気がした。
◇
そのころ、桜華学園から帰る途中だった悠真のスマートフォンが震えた。
画面に彩花の名前が表示された瞬間、悠真は自然と足を止めた。安全に立ち止まれる場所を確かめてからメッセージを開くと、そこには今週の土曜日に図書館へ行きたいという誘いが書かれていた。
悠真はしばらく画面を見つめた。
写真の問題がまだ解決していないことは、彩花も分かっている。
それでも、普通に本を選ぶために会いたいと言ってくれた。
(……彩花さんから、誘ってくれたんだ)
悠真の胸の奥に、温かいものが広がった。
もちろん、これまでも彩花から何かを提案してくれることはあった。けれど、今回のような状況で、それでも一緒に過ごしたいと言ってもらえることは、悠真にとって想像以上に嬉しいことだった。
すぐに返事を打とうとして、悠真は一度手を止めた。
土曜日の予定を確認する必要がある。
家族との話し合いで交友関係を一律に制限しないことは確認できたけれど、だからといって、自分の予定も確かめずに約束するのは違う。
悠真は予定を確認し、今週の土曜日の午後に大きな用事が入っていないことを確かめた。
それから、改めてメッセージを開いた。
『もちろん。僕も彩花さんと本を選びたいと思ってた。土曜日の午後なら空いてるよ』
送信してから、悠真は少し考え、もう一文付け加えた。
『ただ、写真のこともあるから、何か不安があれば遠慮なく言ってね。会う場所や時間は一緒に考えよう』
今度はすぐに返事が届いた。
『ありがとうございます。私も少し心配はありますけど、それだけで会うのをやめたくないです。中央図書館で、午後一時半くらいはどうですか?』
悠真は思わず笑みを浮かべた。
以前と同じ場所で、同じくらいの時間に会う約束。
何か特別なところへ行くわけでもない。
けれど、その普通の約束が、今はとても大切に思えた。
『一時半で大丈夫。入口付近で待ち合わせよう』
悠真がそう送ると、彩花から楽しみにしているという返事が届いた。
その文章を読んだ悠真は、しばらく画面を閉じられなかった。
(……三冊、ちゃんと選ばないと)
昨日の夜、候補を二十七冊から三冊まで減らすと話したものの、実際にはまだ最終決定できていない。
彩花が普段あまり読まない本でありながら、彼女の興味を引きそうなものを選びたい。説明しやすい内容かどうかも大切だし、一緒にページをめくりながら話せる部分があると、もっといい。
そこまで考えてから、悠真は自分がまた考えすぎていることに気づいた。
(……三冊選ぶだけなのに、何でこんなに難しいんだろう)
けれど、その難しさを嫌だとは思わなかった。
むしろ、彩花が楽しんでくれる本を考える時間そのものが、嬉しかった。
◇
夕食後、彩花は自室の机に座り、古い駅前写真についての調査ノートを開いた。
最近は学校での噂の問題に気を取られていたけれど、中央図書館で調べていた古い写真のことも忘れてはいなかった。撮影地点の候補はまだ二つ残っていて、それぞれの根拠を確認するための資料も十分にはそろっていない。
彩花は以前に書いたメモを読み返しながら、今週末に調べたいことを整理した。
一つは、当時の駅前広場の形が分かる資料を探すこと。
もう一つは、写真に写っている建物の位置について、古い地図や案内資料と照らし合わせることだった。
ただし、土曜日に必ずその調査を進めると決めているわけではない。今回は悠真の選んだ本を一緒に見ることが主な目的で、写真の調査は時間に余裕があれば相談する程度にしておきたかった。
(本を選ぶのも、写真を調べるのも楽しいけど、全部一度にやらなくてもいいよね)
彩花はノートの余白に、次に確認したい資料を書き足した。
そのとき、机の端に置いていた別のメモが目に入った。
月曜日から続いている写真の問題について、確認できたことを整理したものだった。
そこには、図書館の近くで撮影された自分と悠真の写真が出回っていること、同じ写真に二種類の文章が添えられていること、文芸部の費用に関する噂は学校の記録と一致しないことが書かれている。
一方で、写真の撮影者や文章を書いた人物については、どちらも未確認のままだった。
彩花は二つのノートを見比べた。
古い駅前写真も、今広まっている写真も、写っているものだけですべてを判断できるわけではない。
昔の写真では、建物の位置や撮影された年代を確かめる必要がある。今の写真では、そこに添えられた言葉が本当に事実なのかを考えなければならない。
同じ一枚の写真でも、見る人が勝手に意味をつければ、まったく違う話になってしまうことがある。
(写真に写ってることと、誰かがそう思ったことは、別なんだよね)
彩花はその考えをノートに書き留めた。
以前から資料を調べるときには、分かっていることと推測を分けようとしてきた。けれど今回の出来事を経験したことで、その大切さを以前よりも強く感じていた。
分からないことがあるからといって、誰かの想像をそのまま答えにしてはいけない。
そして、自分自身の気持ちについても、周囲が勝手につけた名前を受け入れる必要はないのだと思った。
◇
ノートを閉じたころ、部屋の扉が控えめにノックされた。
「彩花、ちょっといい?」
凛花の声だった。
「うん。どうぞ」
扉が開き、凛花が温かい飲み物を持って入ってきた。彩花が机に広げたノートを見て、また調べ物をしていたのかと尋ねる。
「古い写真のこと、少し整理してたの。まだ分からないところがあるから」
「そっか。土曜日も調べる予定?」
彩花は少しだけ頬を赤くした。
「……うん。でも、今回は悠真君が選んでくれる本を一緒に見る予定なの」
凛花は目を丸くした。
「もう次の約束したんだ?」
「うん。今週の土曜日、午後一時半に中央図書館で」
「そうなんだ。よかったね」
凛花は嬉しそうに微笑み、飲み物を机の端に置いた。
彩花はカップを受け取りながら、少しだけ迷ってから口を開いた。
「お姉ちゃん、今日ね、文芸部の子に聞かれたことがあるの」
「何を?」
「……悠真君のこと、どう思ってるのって」
凛花は一瞬だけ動きを止めた。
けれど、すぐに何かを察したように微笑み、彩花の隣に腰を下ろした。
「それで、何て答えたの?」
「大切な友達だって。あと、一緒にいるのが楽しいし、これからも会いたいと思ってるって」
「うん」
「でも、それ以上のことは、まだうまく答えられないって言った」
凛花は少し考えてから頷いた。
「いいんじゃないかな。それが今の彩花の気持ちなんでしょう?」
「……うん。たぶん」
「だったら、無理に別の答えを出さなくてもいいと思うよ」
彩花は姉の顔を見た。
「お姉ちゃんは、変だと思わない?」
「何が?」
「こんなに仲良くしてるのに、自分がどう思ってるのか、まだはっきり分からないこと」
凛花は少し驚いたような顔をしてから、優しく笑った。
「全然変じゃないよ。人の気持ちって、そんなに簡単に名前をつけられるものじゃないと思うし」
「……そっか」
「それに、彩花が悠真君と一緒にいるとき、楽しそうなのは分かるよ。相手のことを大切に思ってるのも伝わってくる。それだけでも、今は十分じゃないかな」
彩花はカップを両手で包み、温かさを確かめるように指を動かした。
凛花の言葉は、昼休みに文芸部の友人が言ってくれたこととよく似ていた。
答えを急がなくていい。
それは、何も考えずに過ごしていいという意味ではないのだろう。
自分の気持ちをちゃんと見つめながら、無理に結論を出さずにいてもいいということなのだと思った。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして」
凛花はそう答えてから、少しだけいたずらっぽく笑った。
「でも、悠真君の本選びは、ちょっと気になるね」
「……ああ、二十七冊のこと?」
「うん。そこから三冊まで減らしたんでしょう?」
「そうなの。最初はもっとあったらしいんだけど」
凛花は思わず笑った。
「悠真君、彩花に紹介する本を選ぶだけで、そんなに真剣なんだね」
「……うん。私も、ちょっとびっくりした」
彩花はそう答えながら、自分の頬が熱くなっていることに気づいた。
姉に言われると、悠真がどれほど自分のために考えてくれているのかを、改めて意識してしまう。
嬉しい。
けれど、少し恥ずかしい。
そんな気持ちが入り混じり、彩花はカップへ視線を落とした。
凛花はそれ以上からかわず、飲み物が冷めないうちに飲むよう声をかけてから、自分の部屋へ戻っていった。
◇
同じ夜、九条家の自室では、悠真が机の上に三冊の本を並べていた。
一冊は、街の建物と人々の暮らしを扱った本。
もう一冊は、植物の変化を季節ごとに記録した本。
そして最後の一冊は、普段の彩花なら自分から手に取らないかもしれない、短い随筆を集めた本だった。
どれも、土曜日に彩花と一緒に見たいと思ったものだった。
悠真は最初の一冊を開き、写真の多いページを確かめた。彩花が古い駅前の景色を調べていることを考えると、建物の見方について話せる部分があるかもしれない。
次に植物の本を開くと、季節ごとの記録が細かくまとめられていた。彩花の姉が植物の置き場所について調べているという話も以前に聞いていたため、その話題にもつながりそうだった。
最後の随筆集は、少し迷った。
ほかの二冊とは違い、写真や図が多いわけではなく、文章そのものを味わう本だったからだ。
けれど、彩花は文芸部で作品を書いている。
自分とは違う視点から文章を読む彼女なら、悠真が気づかなかった部分を教えてくれるかもしれない。
(……これなら、三冊とも違う話ができそうだね)
悠真は本を閉じ、机の上にそろえた。
そこでふと、土曜日に彩花から誘われたときのことを思い出した。
写真の件があっても、普通に一緒に本を選びたいと言ってくれた。
その言葉が、今も胸の中に残っている。
悠真は椅子に座り直し、しばらく考えた。
彩花は、自分が何かをしてあげる相手ではなく、一緒に何かを考える相手なのだ。
それは、以前から分かっていたつもりだった。
けれど、今回の出来事を通して、その意味が少しずつ変わってきた気がする。
彼女が困っていたら、助けたい。
不安そうにしていたら、安心させたい。
けれど、そのために彩花の考えを聞かずに動いてしまえば、彼女が大切にしているものまで奪ってしまうかもしれない。
(彩花さんが自分で決めたことを、僕も大切にしたい)
悠真は机の上の三冊を見つめた。
土曜日には、彩花がどの本を気に入ってくれるのかを聞いてみたい。
もしどれも興味を持てなかったとしても、それはそれで構わなかった。
別の棚へ行って、一緒に探せばいい。
その時間を楽しみにできることが、今の悠真には何より嬉しかった。
スマートフォンが短く震えた。
画面には彩花からのメッセージが表示されていた。
『悠真君、土曜日の本選び、楽しみにしています。でも、あまり無理して選ばなくても大丈夫ですからね』
悠真は思わず笑った。
まるで、自分が今何を考えていたのか見透かされたようだった。
『ありがとう。三冊は選べたよ。あとは当日、彩花さんと一緒に決めたい』
送信すると、少ししてから返事が届いた。
『はい。私も一緒に選びたいです』
悠真はその文章を読み、机の上の本へ視線を戻した。
何を選ぶかより、誰と選ぶか。
そのことが、こんなにも大切になるとは思っていなかった。
◇
木曜日の朝、彩花はいつもより少し早く学校へ着いた。
教室にはまだ生徒が少なく、窓際の席では朝の光が机の表面を淡く照らしていた。彩花は鞄を置き、昨日の部誌の確認で書いたメモを取り出した。
顧問へ原稿を渡すところまでは終わっている。
次に修正の連絡が来た場合には、どの部分を確認すればよいかも整理できていた。
彩花はメモを見直し、今のところ追加で準備することがないと確かめてから、ノートを閉じた。
そこへ、昨日の昼休みに図書室で話した女子生徒が入ってきた。
「水瀬さん、おはよう」
「おはよう」
彼女は自分の席へ鞄を置いてから、彩花のところへ来た。
「昨日の原稿、先生に渡せてよかったね」
「うん。まだ確認は残ってるけど、とりあえず一段落したね」
「そうだね。……あのさ、昨日の話、ちょっとだけ続き聞いてもいい?」
彩花は少し驚いたものの、彼女の表情を見て頷いた。
「うん。何?」
「九条君と、また会う予定ってあるの?」
彩花は一瞬だけ迷った。
昨日の顧問の言葉を思い出したからだ。
答えたくないことまで話す必要はない。
けれど、目の前の友人は彩花の気持ちを面白がっているわけではないし、昨日も無理に答えを求めなかった。
彩花は少し考えてから、自分の意思で答えることにした。
「うん。今週の土曜日、また図書館に行く約束をしたよ」
彼女は目を丸くした。
「水瀬さんから誘ったの?」
「……うん」
「そっか」
彼女は一度頷いてから、嬉しそうに微笑んだ。
「よかったね」
彩花は少しだけ頬を赤くした。
「……ありがとう」
「でも、写真のことはまだ大丈夫なのかな」
その問いに、彩花は少し考えてから答えた。
「心配がないわけじゃないよ。でも、図書館に行くこと自体をやめたくないと思ったの」
「うん」
「もし何かあったら先生にも相談するし、悠真君とも話して決めるつもり。だから、今は普通に本を選ぶ時間を大切にしたいなって」
彼女はしばらく彩花を見つめ、それから小さく笑った。
「……水瀬さん、昨日より少しすっきりした顔してるね」
「そうかな?」
「うん。自分で決めたことがあると、そんな感じになるのかも」
彩花はその言葉を聞き、少し驚いた。
昨日までは、写真の問題について誰かに相談したり、確認できたことを整理したりすることで精いっぱいだった。
けれど今日は、自分が何をしたいのかを考え、そのために行動したという実感がある。
それが表情に出ているのだとしたら、少し嬉しかった。
「……そうかもしれない」
彩花が答えると、彼女は頷いて自分の席へ戻っていった。
彩花は窓の外を眺めた。
冬の空はまだ冷たそうだったけれど、昨日までとは少し違う景色に見えた。
自分が悠真をどう思っているのか。
その問いに、今すぐ明確な名前をつけることはできない。
けれど、会いたいと思っていることは確かだった。
話したいことがある。
一緒に読みたい本がある。
そして、相手がどんな気持ちでいるのかを、これからも少しずつ知っていきたい。
それだけは、誰かに聞かれなくても、自分の言葉で言えるようになっていた。
◇
その日の昼休み、彩花は学校の図書室で、古い青凪市の街並みを扱った資料を探していた。
中央図書館で調べている駅前写真について、すぐに新しい資料が見つかるとは思っていなかったけれど、学校の図書室にも地域に関する本が置かれている。目録を確認してみると、古い街並みそのものを詳しく扱ったものは少なかったが、地域の変化を紹介する資料が何冊か見つかった。
彩花はそのうちの一冊を手に取り、目次を開いた。
駅前の開発について触れた章があり、道路や建物の配置が時期によって変わってきたことが簡単に説明されている。ただし、今調べている写真の撮影地点を直接示すような情報はなく、彩花は気になった資料名だけをノートに書き留めた。
(ここに載ってないからって、分からないままで終わりじゃないよね。ほかの資料を探す手がかりにはなるかも)
彩花は本を閉じ、元の棚へ戻した。
そのとき、昨日の写真のことがふと頭をよぎった。
古い街並みの写真を調べるときも、今広まっている自分たちの写真について考えるときも、一枚の写真だけで何もかも判断しないことが大切なのだと思った。
そして、それは人の気持ちについても同じなのかもしれない。
誰かが笑っている写真を見ても、その人が何を考えていたのかまでは分からない。
隣にいる人との関係だって、写真だけで決められるものではない。
彩花はノートを鞄へしまい、図書室を出た。
廊下の窓から見える中庭には、冬の陽射しが柔らかく落ちていた。
土曜日には、また悠真と中央図書館へ行く。
写真の問題が完全に解決するまでには、まだ時間がかかるかもしれない。
けれど、少なくとも自分は、そのことで大切な時間を手放したくない。
彩花はそう思いながら、午後の授業へ向かった。
そして同じころ、桜華学園の悠真も、土曜日に持っていく三冊の本について考えていた。
彩花がどの本を選んでも、一緒に話せることがあるように。
今度こそ、自分の好きなものをちゃんと伝えられるように。
二人がそれぞれの学校で過ごす時間は、まだ別々だった。
けれど、次に会う約束を自分たちの意思で決められたことは、確かな変化だった。
その約束がどんな時間になるのかは、まだ分からない。
ただ、彩花は一つだけ、以前よりはっきりと思っていた。
(悠真君と一緒にいると、知らなかった自分の気持ちまで見つかることがあるんだ)
それがどんな名前を持つ感情なのかは、もう少し先まで分からなくてもいい。
今は、土曜日が楽しみだった。
そして、その楽しみを誰かに決められるのではなく、自分自身で選べたことが、何より嬉しかった。




