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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第167話 九条家の言い分と、私が決めた本当の距離


 火曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。冬の朝らしい冷え込みが部屋の隅に残っていて、布団から出るまでに少し時間がかかったけれど、昨夜より気持ちは落ち着いていた。枕元のスマートフォンには、九条悠真から新しいメッセージが一件届いていた。


『おはよう。昨日は話せてよかった。今日も何かあったら教えてね。ただし、授業と自分のことを優先して』


 彩花は画面を見つめ、思わず小さく笑った。最後の一文がいかにも悠真らしく、心配しているのに自分のことを後回しにしないよう念を押してくれるところが、少しおかしくも嬉しかった。


(悠真君だって、今日は家の人と話さないといけないのに。私のことばっかり心配してるんだから)


 昨夜、九条家にも写真についての話が届いていると聞いたとき、彩花は少し怖くなった。悠真が家族からどんなことを言われるのか分からず、自分の存在が彼の立場を難しくしているのではないかと考えたからだ。


 それでも、悠真は写真の件について分かったことを伝えると約束してくれたし、彩花も一人で悩まないと決めた。心配がなくなったわけではないけれど、相手の気持ちを知らないまま悪い方へ考え続けるのは、もうやめたいと思っていた。


『おはようございます。私も昨日は話せてよかったです。悠真君も、無理しないでくださいね』


 返信を送ってから、彩花は布団を畳んで制服に着替えた。階下から朝食の準備をする音が聞こえてきたころには、今日も学校へ行き、授業を受け、文芸部の活動をするという当たり前の予定に、少しずつ意識が戻っていた。


 居間に下りると、姉の凛花が先に朝食を取っていた。桜華学園の制服に身を包んだ姉は、彩花の顔を見ると軽く手を上げ、隣の椅子を引いてくれた。


「おはよう、彩花。昨日は眠れた?」


「うん。ちょっと考えちゃったけど、ちゃんと眠れたよ」


 凛花はそれを聞いて安心したように微笑んだが、すぐに写真の話を持ち出すことはしなかった。代わりに、今日は午後から気温が下がるらしいと教え、帰りが遅くなるならマフラーを忘れないようにと声をかけてくれた。


 彩花はその何気ない気遣いに救われた気がした。昨日の出来事を忘れたわけではなく、むしろ姉も心配しているのだろうけれど、家の中でまで自分を特別扱いしないでいてくれることが、ありがたかった。


「お姉ちゃん、昨日の写真のことなんだけど」


 彩花から切り出すと、凛花は箸を置いて顔を上げた。


「うん。何かあった?」


「悠真君の家にも、写真の話が届いてるんだって。今日、家族と話すことになるみたい」


 凛花はすぐには答えず、彩花の言葉をゆっくり受け止めるように頷いた。


「そうなんだ。悠真君も大変だね」


「……私のせいで、面倒なことになってるのかな」


 口にしてから、彩花は昨日も似たようなことを考えたと気づいた。誰かに迷惑をかけたくないという気持ちは本当だけれど、それがいつの間にか、自分が悪いことをしたような考えにつながってしまう。


 凛花は少し考えてから、静かな声で答えた。


「彩花が何かをしたわけじゃないでしょう。図書館に行って、一緒に本を選んだだけなんだから」


「うん」


「それに、悠真君は自分で彩花と会うって決めたんだよね。だったら、家の人に説明することも、悠真君自身が考えることなんじゃないかな」


 彩花は姉の顔を見た。凛花の言葉は、無責任に気にしなくていいと言っているのではなく、相手が自分で選んだことまで背負う必要はないと教えてくれているようだった。


(悠真君が私を大切にしてくれるのと同じように、私も悠真君の考えを大切にしないと)


 そのことに気づくと、胸の奥にあった小さな重さが少し和らいだ。彩花は朝食を食べ終え、凛花と一緒に玄関へ向かった。


 家を出る前、凛花は靴を履きながら振り返った。


「もし学校でまた変なことを言われたら、昨日みたいに先生に相談してね。私も何か聞いたら、勝手に動かずに彩花に話すから」


「ありがとう、お姉ちゃん」


 彩花が答えると、凛花はいつもの笑顔を見せた。二人はそれぞれの学校へ向かうため、家の前で別れた。


     ◇


 青葉高校に着いた彩花は、教室へ入る前に一度だけ足を止めた。昨日、周囲の視線を感じたときのことが頭をよぎり、扉の向こうでまた何か言われているのではないかと考えてしまったからだ。


 けれど、廊下には授業の準備をする生徒たちが行き交い、いつもと変わらない朝の声が響いていた。彩花は鞄の持ち手を握り直し、教室の扉を開けた。


 昨日より露骨な視線は少なかったものの、完全に普段どおりというわけではなかった。何人かが小声で話しているのは分かったし、彩花が通ると急に会話をやめる生徒もいた。


 それでも、自分の席へ向かう途中、クラスの女子生徒がいつもの調子で挨拶してくれた。彩花が返事をすると、その子は少し迷ったような顔をしてから、声を落として尋ねてきた。


「水瀬さん、昨日の写真のことなんだけど、ちょっといい?」


「うん。どうしたの?」


「また別の文章がついたのが回ってきたみたいで……」


 彩花の胸が、小さく跳ねた。


 女子生徒が見せてくれた画面には、昨日と同じ写真が表示されていた。図書館の近くの歩道を悠真と並んで歩く自分の姿が写っているけれど、写真の下に添えられた文章は、昨日見たものと違っていた。


『九条家に近づけば、誰でも同じように扱ってもらえると思っているのかしら』


 彩花はその一文を読んだまま、しばらく動けなかった。昨日の文章では文芸部への支援という具体的な話が書かれていたのに、今度は彩花自身が何を考えて悠真に近づいたのかを、勝手に決めつけるような言葉になっている。


「……これ、いつから回ってるの?」


「昨日の夜に見た子がいるみたい。私のところに来たのは、今朝なんだけど」


「最初に送った人は分かる?」


「ううん。私も転送されたのを見ただけで、誰が書いたのかまでは分からない」


 彩花は頷き、画像を記録として保存させてもらった。昨日と同じ写真が使われていても、文章が違う以上、別のものとして残しておいた方がよいと思ったからだ。


「教えてくれてありがとう。これも先生に相談するね」


「うん。……水瀬さん、あの、変なこと聞いてもいい?」


 女子生徒がためらいがちに尋ねた。


「何?」


「九条君とは、本当に普通に仲良くしてるだけなんだよね?」


 彩花は少し驚いた。質問した相手に悪意があるようには見えなかったけれど、普通に仲良くしているという言葉が、何を確かめようとしているのか分からなかった。


「普通って、どういう意味?」


「ごめん。変な聞き方だった。九条君って、すごい家の人なんでしょう? だから、何か特別な事情があるのかなって思って」


 彩花はゆっくり息を吸った。怒りたいわけではなかったけれど、その問いには、きちんと答えておきたいと思った。


「悠真君とは、図書館で知り合ったの。最初から九条家のことを詳しく知っていたわけじゃないし、今も家のことで何かをお願いしたことはないよ」


「そっか」


「一緒に本を読んだり、気になったことを調べたりするのが楽しいから会ってる。それだけじゃ、変なのかな」


 最後の言葉は、思っていたより素直に出てきた。女子生徒は慌てて首を横に振り、変だと思ったわけではないと答えた。


「ただ、写真の文章があんな感じだったから、ちょっと気になっただけ。ごめんね」


「ううん。聞いてくれてよかった。何も聞かれないまま、違う話が広がる方が困るから」


 彩花がそう言うと、女子生徒は少し安心したように笑った。二人はそこで話を切り上げ、それぞれ授業の準備を始めた。


 席に座った彩花は、机の中から教科書を取り出しながら、先ほどの会話を思い返した。相手は自分を責めようとしていたわけではなく、ただ分からないことを確かめたかったのだろう。


(ちゃんと聞いてもらえたら、答えられることもある。でも、写真だけを見て決めつけられたら、何も伝えられないんだよね)


 知らないことを知りたいと思う気持ちは、誰にでもある。けれど、その答えを本人ではなく噂の中に求めてしまえば、いつの間にか事実とは違うものが出来上がってしまうのかもしれない。


 彩花は教科書を開き、授業が始まるのを待った。


     ◇


 同じころ、私立桜華学園では、悠真も新しい画像の存在を知っていた。


 朝の登校後、顔見知りの生徒から声をかけられ、昨日とは文章が違う写真が出回っていると教えられたのだ。実際に画面を確認した悠真は、昨日の画像と同じ写真が使われていることに気づいた。


「……写真自体は同じだね」


「うん。でも、文章が変わってる。昨日のは文芸部の話だったけど、今度は水瀬さん個人への悪口みたいになってる」


 悠真はしばらく画面を見つめた。写真が一枚あれば、そこにどんな言葉でもつけられてしまうのだという事実が、今さらながら不快だった。


「この文章を最初に見た人は分かる?」


「それが、はっきりしないんだよ。別の学校から回ってきたって言ってる人もいるけど、どこが最初なのかは分からない」


「分かった。ありがとう」


 悠真は相手に礼を言い、画像を必要以上に広めないよう頼んだ。すでに見た人がいる以上、すべてをなかったことにはできないけれど、騒ぎを大きくするために転送を続けるのは避けたかった。


 自分の席へ戻った悠真は、保存しておいた二つの画像を見比べた。写真の構図や背景は同じで、文字が置かれている部分だけが違っている。


 ただし、同じ写真を使っているからといって、同じ人物が文章を書いたと決まったわけではない。元の画像を見た誰かが別の文章をつけた可能性もあるし、最初から複数の種類が用意されていた可能性もある。


(今分かっているのは、彩花さんが写った写真が、違う意味をつけられて広がっていることだけだ)


 悠真は端末を閉じ、目を伏せた。


 写真を撮った人物を知りたいという気持ちは強い。けれど、何の根拠もないまま誰かを疑えば、今度は自分が別の人を傷つける側になってしまう。


「九条、今日の執行部の資料、確認できた?」


 近くから声をかけられ、悠真は顔を上げた。生徒会執行部の仕事で共有する書類についての確認だったので、悠真はすぐに意識を切り替え、必要な箇所を説明した。


 話している間も、心のどこかでは彩花のことが気になっていた。青葉高校ではどうなっているのか、新しい画像を本人が見ているのか、誰かに直接何かを言われていないかと、考え始めればきりがなかった。


 しかし、悠真はすぐに連絡を取ることを思いとどまった。昨日、彩花は自分の学校でできることを確認すると話していたし、授業中に何度も連絡して心配させるのは違う。


(彩花さんは、僕がいなくても考えて動ける人なんだ。そこを忘れたら、昨日の約束をした意味がなくなる)


 自分にそう言い聞かせながら、悠真は机の上の資料に目を戻した。


 ところが、次の瞬間、隣にいた生徒から何気なく尋ねられた。


「九条、その写真の子って、前から仲良かったんだっけ?」


「うん。図書館で知り合った人だよ」


「へえ。何か特別な関係なの?」


 悠真の手が止まった。


 相手は深い意味もなく聞いたのだろう。けれど悠真にとって、その質問には簡単に答えられない部分があった。


 彩花とは、まだ正式に交際しているわけではない。親しくなってから一緒に過ごす時間は増えたけれど、その関係を勝手に名前づけてしまうことはしたくなかった。


「大切な友人だよ」


 悠真は少し考えてから、そう答えた。


 相手は意外そうな顔をした。


「九条がそこまではっきり言うの、珍しいな」


「そう?」


「うん。普段は誰とでも同じくらい丁寧だから」


 その言葉に、悠真は曖昧に笑った。自分では普段どおりに接しているつもりでも、彩花に関することになると少し違うのかもしれない。


(……少し、で済んでいるかな)


 悠真は内心で考え、すぐに答えを出すのをやめた。


 彩花に知られたら、きっと困ったように笑われるだろう。そんな想像をしただけで、先ほどまで張り詰めていた気持ちが少し和らいだ。


     ◇


 昼休み、彩花は昨日に続いて文芸部の顧問を訪ねた。


 新しい画像が回ってきたことを伝えると、顧問は保存した内容を確認し、昨日のものと文章が違うことに気づいた。彩花が今朝聞いた範囲では発信者が分からないことも説明すると、顧問は慎重に頷いた。


「水瀬さん、これは昨日のものとは分けて記録しておきましょう。写真が同じでも、書かれている内容が変わっているので」


「はい。私も、そうした方がいいと思いました」


「それと、学校でも必要な範囲で状況を共有します。今の段階で誰が作ったのかは分かりませんから、特定の生徒を疑うような対応はしません」


 彩花は安心した。誰かが自分のことを悪く言っているからといって、無関係な人まで疑われるようなことにはしたくなかったからだ。


「先生、部誌の方は大丈夫でしょうか」


「昨日確認した範囲では、費用についての記録に問題はありません。今後、活動に支障が出るようなことがあれば、その都度相談しましょう」


「分かりました」


「水瀬さん自身は、どうですか。授業や部活動に出るのが難しいほど、何か言われていますか」


 その問いに、彩花は少し迷ってから答えた。


「直接ひどいことを言われたわけではありません。でも、見られている気がして、落ち着かないことはあります」


 顧問は頷き、無理をして平気なふりをする必要はないと伝えた。また、画像を見た生徒から質問された場合も、すべてに答える義務はないと説明してくれた。


「聞かれたことに答えるのも一つの方法ですが、答えたくないことまで話さなくていいんですよ。事実を説明することと、私生活を全部明かすことは別ですから」


 彩花はその言葉を心の中で繰り返した。今朝の女子生徒には自分の意思で答えたけれど、これからも同じような質問が続くかもしれない。


(聞いてくれた人に答えたい気持ちはある。でも、何でも説明しないといけないわけじゃないんだ)


 考えてみれば、図書館で誰と会ったのか、何を話したのか、どんな本を選んだのかまで、学校の人全員に知らせる必要などない。自分と悠真にとって大切な時間を、噂を否定するためだけに細かく説明するのは、どこか違うように思えた。


「先生、ありがとうございます。私も、どこまで話すかは自分で考えます」


 そう答えると、顧問は穏やかに頷いた。


 相談を終えて教室へ戻る途中、彩花は廊下の窓から中庭を見下ろした。冬の陽射しが校舎の影を長く伸ばし、風に揺れる木々の枝が地面に細かな模様を描いている。


 昨日から続いている出来事のせいで、いつもの学校が少し違う場所に見えていた。けれど、景色そのものが変わったわけではないし、自分がここで過ごしてきた時間も消えてはいない。


 彩花は小さく息を吐き、午後の授業へ向かった。


     ◇


 その日の放課後、文芸部では冬の部誌に掲載する作品の最終確認が進められていた。


 机には原稿の束が並び、部員たちは文章の誤字や改行位置を確かめている。彩花も自分の担当するページを広げ、前回の確認で残っていた修正箇所を一つずつ見直した。


 部誌についての噂が出回っていることを知っている部員もいたけれど、誰もその話ばかりをしているわけではなかった。むしろ、普段どおり原稿に向き合っている姿を見ていると、彩花は自分も今やるべきことに集中しようと思えた。


「水瀬さん、ここの文章なんだけど、前より読みやすくなったと思わない?」


 隣の席の部員が原稿を指さした。


 彩花は示された部分を読み、少し前に改行位置を調整した箇所だと気づいた。以前は一つの段落に情報が詰まっていたけれど、今は場面の変化が分かりやすくなっている。


「うん。こっちの方が、登場人物の気持ちが伝わりやすいと思う」


「よかった。何回も直してたから、逆に分からなくなってきちゃって」


 部員は安心したように笑い、確認済みの印をつけた。彩花も自分の原稿へ戻り、文章の流れをもう一度読み直した。


 しばらくして、別の部員が控えめな声で話しかけてきた。


「水瀬さん、ちょっといいかな」


「うん。何?」


「昨日の写真のことで、変なこと言ってる子がいたんだけど……私、何て答えたらいいか分からなくて」


 彩花は手を止めた。部員は申し訳なさそうにしていて、直接聞いていいのか迷っていたのだろうと分かった。


「どんなことを聞かれたの?」


「部誌のお金って、九条家から出してもらってるのかって。そんな話、聞いたことなかったから違うと思うって答えたんだけど」


「それで大丈夫だよ。先生にも確認してもらったけど、そういう事実はないから」


「そっか。よかった」


 部員は安心したように頷いたものの、まだ何か言いたそうにしていた。彩花が続きを促すと、少しだけ眉を下げて話した。


「私、今回の部誌、すごく楽しみにしてるんだ。みんなで何回も原稿を直してきたし、完成したら家族にも見せたいと思ってる。だから、関係ない噂で変なことになるのが嫌で」


 その言葉を聞いた彩花は、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 自分が噂の中心にいることばかり考えていたけれど、部誌は部員全員の作品を集めたものだった。一人ひとりが時間をかけて書いた文章があり、何度も相談して決めた構成があり、完成を楽しみにしている人がいる。


「私も、ちゃんと完成させたい」


 彩花がそう答えると、部員は嬉しそうに笑った。


「うん。じゃあ、あと少し頑張ろうね」


 二人は原稿を机に戻し、作業を再開した。


 その日の部活動では、予定していた確認作業を一通り終えることができた。修正が必要な箇所はまだ残っていたけれど、次に誰がどの部分を確認するのかまで決まり、部誌の完成へ向けて確かな進展があった。


 彩花は帰り支度をしながら、机の上に積まれた原稿を眺めた。


(私たちが作っているものは、ここにある。誰かの噂じゃなくて、ちゃんと自分たちの手で)


 そう思うと、昨日から胸の中にあった不安が、少し違う形に変わった気がした。


     ◇


 同じ日の夕方、九条家では、悠真が家族との話し合いのために席についていた。


 静かな部屋には落ち着いた色の家具が並び、テーブルの上には必要な資料だけが置かれている。普段なら慣れた空間であるはずなのに、今日ばかりは、椅子に腰を下ろした瞬間から空気が少し重く感じられた。


 向かいに座る父は、悠真が入室してからすぐに話を始めることはしなかった。手元の資料に目を通し、内容を確かめてから、ようやく口を開いた。


「悠真、今回の写真については、もう見ているな」


「はい。学校でも確認しました」


「写真に写っている相手とは、以前から交流があるのか」


「あります。青葉高校の水瀬彩花さんです」


 悠真は迷わず答えた。名前を曖昧にしたり、ただの知人だと説明したりする理由はなかった。


 父はその答えを聞き、少しだけ視線を下げた。


「図書館で知り合ったと聞いているが」


「はい。最初は中央図書館で会いました。それから本の話をするようになって、今も一緒に調べ物をしたりしています」


「今回の写真も、その関係で撮られたものか」


「僕たちは写真を撮られたことを知りませんでした。土曜日に図書館へ行って、帰る途中を撮られたものだと思います」


 悠真はできるだけ正確に説明した。自分たちが何をしていたのかと、写真を撮った人が何を考えていたのかは、分けて話す必要がある。


 父は頷き、資料を机の上へ置いた。


「写真そのものより、添えられている文章の方が問題だな」


「僕もそう思います」


「九条家が学校の活動を支援しているという話があるようだが、少なくともこちらで確認した範囲では、そのような支援をした記録はない」


 悠真は顔を上げた。彩花の学校ではすでに確認が進んでいたけれど、九条家の側でも同じ内容を確かめていたらしい。


「僕も、そういう話をしたことはありません。彩花さんから頼まれたこともないです」


「それなら、その点は事実ではないと整理できる」


 父の声は落ち着いていた。感情的に怒っている様子はなく、問題になっている情報を一つずつ確かめようとしている。


 悠真は少しだけ安心したものの、まだ話の中心が終わっていないことは分かっていた。


「ただし、悠真」


「はい」


「今回の件で、九条家の名前が外部に出ていることは事実だ。今後も同じようなことが起きる可能性は考えておかなければならない」


 父の言葉に、悠真は頷いた。


「それは理解しています」


「ならば、しばらくは相手との外出を控えるという選択もある。少なくとも、状況が落ち着くまで人目につく場所で会うことは避けた方がよいのではないか」


 悠真はすぐには答えなかった。


 父が言っていることにも、理解できる部分はある。実際に写真を撮られている以上、同じような場所で会えば、また別の写真が広まる可能性もある。


 けれど、だからといって彩花と会うこと自体をやめるという考えには、どうしても納得できなかった。


「……それを決める前に、考えていただきたいことがあります」


 悠真がそう言うと、父は視線を上げた。


「何だ」


「僕たちは、中央図書館で本を読んでいました。誰かに迷惑をかけたわけでも、家の名前を利用したわけでもありません」


「それは聞いている」


「それなのに、勝手に写真を撮られて、違う意味の文章をつけられたから会うのをやめるというのは、僕には納得できません」


 父は黙って悠真の言葉を聞いていた。


「もちろん、危険なことがあれば考えます。彩花さんにも無理をさせたくありません。でも、今回のことだけで、僕たちが普通に図書館へ行くことまで間違いだったようにはしたくないんです」


 言い終えたあと、悠真は一度息を整えた。自分の考えを伝えることに慣れていないわけではないけれど、家の判断に対してここまではっきり意見を述べるのは、簡単なことではなかった。


 父はしばらく考えてから、静かに尋ねた。


「その相手は、今回のことをどう考えている」


「彩花さんも、写真を撮られたことは嫌だと言っていました。でも、図書館へ行ったことを後悔したくないとも話してくれました」


「そうか」


「それと、僕が勝手に全部解決しようとするのではなく、分かったことをお互いに伝えて、一緒に考えたいと言ってくれました」


 その言葉を聞いた父は、少しだけ表情を変えた。


「相手の方から、そう言ったのか」


「はい」


「……なるほど」


 父は椅子の背に軽く体を預け、しばらく考え込んだ。


 悠真はその様子を見ながら、彩花の言葉を思い返していた。彼女は自分の家の名前を頼ろうとしたわけではなく、同じ問題に向き合う一人として扱ってほしいと伝えてくれた。


 それがどれほど大切なことなのか、今なら少し分かる気がする。


「悠真。こちらから相手の学校へ直接確認を取ることは、今のところ考えていない」


 父が口を開いた。


「ただし、家の名前を利用した虚偽の情報が広がっている以上、必要な確認は続ける。相手の方へ直接連絡する必要が生じた場合には、事前にお前に伝える」


 悠真は静かに頷いた。


「ありがとうございます」


「その代わり、お前も状況を軽く見ないことだ。今は写真と文章だけだが、相手の方に直接何か起きる可能性まで、完全には否定できない」


「分かっています。彩花さんの学校でも先生に相談していますし、僕も新しい情報があれば伝えるつもりです」


「それならよい」


 父はそこで一度話を区切った。悠真は、最初に考えていたほど一方的な話し合いにはならなかったことに、少しだけ安堵した。


 けれど、次に父が口にした言葉は、悠真を少し驚かせた。


「それにしても、お前がここまで自分の交友関係について説明するとはな」


「……そうでしょうか」


「以前なら、必要なことだけ答えて終わらせていただろう」


 悠真は返事に迷った。


 確かに、これまでの自分は、家族に何かを聞かれても、必要以上に話すことは少なかった。学校での役割や交友関係についても、特別に問題がなければ報告する程度で済ませていた。


 けれど彩花のことになると、ただ事実を並べるだけでは足りないと思ってしまう。


「……大切な人なので」


 気づいたときには、そう答えていた。


 父の視線が、わずかに動いた。


「大切な人、か」


「はい」


「交際しているのか」


 悠真は一瞬だけ言葉に詰まった。


 その質問が来る可能性は考えていたはずなのに、実際に聞かれると、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。


「……まだ、そういう関係ではありません」


「まだ?」


 父が静かに聞き返した。


 悠真は自分の言葉を思い返し、少しだけ顔を熱くした。


「今は、大切な友人です」


「そうか」


 父はそれ以上追及しなかった。


 けれど、悠真には、その短い返事の中に何か含まれているような気がしてならなかった。


(……今の言い方、余計なことを言ったかな)


 そう思っても、もう取り消すことはできない。そもそも彩花を大切に思っていること自体は事実なのだから、隠す必要もないはずだった。


 悠真は軽く咳払いをして、話を戻した。


「それと、もう一つお願いがあります」


「何だ」


「彩花さんのことを、家の名前や立場だけで判断しないでほしいんです。実際に何を考えている人なのか、知らないまま決めつけてほしくありません」


 父は悠真を見つめた。


「お前は、随分とその相手を信頼しているんだな」


「はい」


 悠真は迷わず答えた。


「僕が何かを言う前に、ちゃんと考えてくれる人です。僕の家のことより、僕自身が何をしたいのかを聞いてくれます」


 その言葉を口にした瞬間、土曜日の図書館での出来事が思い浮かんだ。


 自分の好きな本を選んでほしいと言ってくれた彩花。いつも相手に合わせるのではなく、二人で時間を作りたいと話してくれた彩花。


 悠真にとって、その何気ない言葉こそが、何より大切だった。


 父はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「分かった。少なくとも、本人を知らないまま評価するようなことはしない」


「ありがとうございます」


「ただし、今後何かが起きた場合には、その都度考える必要がある。今日の話ですべてが終わったわけではないからな」


「はい。それは理解しています」


 悠真は深く頭を下げた。


 話し合いの結果、九条家が彩花へ直接連絡することは当面行わず、事実関係の確認を続ける方針となった。また、悠真自身の交友関係については、今回の写真だけを理由に一律に制限することはしないと確認された。


 すべてが解決したわけではない。けれど、彩花の知らないところで一方的に何かが決まることは、少なくとも避けられた。


 悠真は部屋を出ると、廊下の窓から夜の庭を眺めた。


(……ちゃんと話せた)


 父が何もかも理解してくれたとは思わない。それでも、最初から反対されると決めつけるのではなく、自分の考えを伝えたことで、少しだけ違う結果になった。


 悠真はスマートフォンを取り出し、彩花へ連絡するための文章を考え始めた。


     ◇


 同じころ、彩花は自室の机で、文芸部の原稿を見直していた。


 学校で確認した修正箇所をノートにまとめ、次の活動で忘れずに伝えられるようにしている。机の端には古い駅前写真についての調査ノートも置いてあったけれど、今日はそちらを開く時間はなかった。


 部誌の準備と写真の件で一日が過ぎたことを思うと、少し疲れを感じる。けれど、やるべきことを一つずつ終えられたことには、確かな満足感もあった。


 スマートフォンが震えたのは、最後の修正箇所を書き終えたときだった。


 画面には悠真からのメッセージが表示されていた。


『家族との話が終わったよ。少し長くなったけど、ちゃんと話せた。彩花さんに直接連絡するようなことは、今のところないから安心して』


 彩花は息を吐いた。


 家の人から突然何かを言われるのではないかと心配していたわけではないけれど、悠真が自分の意思を伝えられたらしいことに安心した。


『お疲れさまでした。話せてよかったです。悠真君、大丈夫でしたか?』


 返信すると、少ししてから返事が届いた。


『大丈夫。むしろ、僕が思っていたよりちゃんと聞いてもらえたよ』


 彩花は小さく笑った。


 悠真にも、家族と話す前には不安があったのだろう。いつも落ち着いている彼が、そうした気持ちを少しずつ見せてくれるようになったことが、彩花には嬉しかった。


『それならよかったです。私も今日は、学校で新しい画像のことを先生に相談しました』


『新しい画像?』


 悠真からの返信は早かった。


 彩花は今朝見せてもらった文章について説明した。昨日の画像と同じ写真が使われていて、今度は自分が九条家に近づこうとしているような書き方になっていることも伝えた。


 悠真はすでにその画像を確認していると答えた。けれど、誰が文章を変えたのかは分かっておらず、学校でもむやみに広めないようにしているという。


『彩花さん、嫌な思いをしたよね』


 その言葉に、彩花は少し考えてから返信した。


『はい。でも、今日は昨日より落ち着いて話せました。聞いてくれた子にも、自分の言葉で説明できたので』


『そうなんだ。よかった』


『それと、先生に言われたんです。聞かれたこと全部に答えなくてもいいって』


 彩花は文章を打ちながら、昼休みに顧問と話したことを思い返した。


『私、最初は誤解されたくなくて、何でも説明しないといけないと思ってました。でも、悠真君と何を話したかとか、どんな本を読んだかまで、みんなに説明する必要はないんですよね』


 送信してから、少しだけ不安になった。


 悠真との時間を隠したいと思っているように伝わったらどうしようと考えたからだ。


 けれど、返ってきたメッセージは、彩花が予想していたものとは違っていた。


『うん。僕もそう思う。彩花さんと過ごした時間は、誰かに説明するためのものじゃないから』


 彩花は画面を見つめた。


 昨日の電話でも似たようなことを話したけれど、改めて文字にしてもらうと、その意味がよりはっきり伝わってくる。


(そうだよね。私たちが楽しかったことまで、誰かに証明しなくてもいいんだ)


 彩花は頷き、短い返事を送った。


 すると、悠真からもう一つメッセージが届いた。


『それと、次に図書館へ行くときの本、少し選んでみたんだけど』


 彩花は思わず笑顔になった。


『もう選んだんですか?』


『うん。候補を二十七冊まで絞った』


 彩花は一瞬、画面を見つめた。


 そして、もう一度読み返した。


(二十七冊……?)


 何かの間違いかと思ったけれど、悠真の文章はいたって真面目だった。


『悠真君、それは絞ったって言わないと思います』


『そうかな。最初はもっとあったから、かなり減らしたつもりなんだけど』


 彩花は声を出して笑ってしまった。


 昼間の学校で感じていた緊張も、写真についての不安も、その瞬間だけはどこかへ消えてしまったようだった。


『一度に二十七冊は読めませんよ』


『分かってる。だから、今は六冊まで減らした』


『六冊でも多いです』


『……三冊ならどう?』


 彩花は少し考えた。


『三冊なら、そこから一緒に選べますね』


 すぐに返事が届いた。


『分かった。じゃあ、彩花さんに紹介したい本を三冊選ぶ』


 彩花は微笑みながら、次の約束が楽しみだと伝えた。


 まだ日程は決まっていないし、写真の問題も解決していない。けれど、こうして本の話ができるだけで、気持ちが随分軽くなる。


 悠真がいつもより少し真剣に本を選んでいる姿を想像すると、自然と頬が緩んだ。


(……悠真君、こういうところがちょっとおかしいんだよね)


 けれど、そのおかしさを嫌だと思ったことはない。


 むしろ、自分のために何かを考えてくれていることが、嬉しくて仕方なかった。


     ◇


 その夜、凛花は居間で植物の本を読みながら、彩花が階段を下りてくるのを見かけた。


 彩花は温かい飲み物を取りに来ただけのようだったが、どこか機嫌がよさそうで、朝の硬い表情はほとんど消えていた。


「彩花、何かいいことあった?」


 凛花が尋ねると、彩花は少しだけ頬を赤くした。


「……悠真君と、本の話をしてたの」


「本の話?」


「次に図書館へ行くときに紹介してくれる本を、選んでくれてるんだって」


 凛花は微笑んだ。


「それは楽しみだね。どんな本?」


「まだ分からない。でも、最初は二十七冊候補があったらしいの」


「……二十七冊?」


 凛花の手が止まった。


 彩花はその反応がおかしくて、思わず笑った。


「私も同じこと思った。今は三冊まで減らしてくれるって」


「そっか。……悠真君、彩花のことになると、本当に一生懸命だね」


 凛花の言葉に、彩花は少しだけ目を伏せた。


 一生懸命。


 その表現は、確かに悠真によく似合うと思った。


 誰かに何かを頼まれたときも、図書館で調べ物をするときも、彼はいつも丁寧に向き合っている。けれど、自分のことになると、少しだけその熱心さが行き過ぎることがある。


 それを見ていると、困るより先に嬉しくなってしまう自分がいる。


「……うん。そうかもしれない」


 彩花が答えると、凛花は何かを察したように微笑んだ。


「よかったね、彩花」


「……うん」


 短い返事だったけれど、彩花の胸の中には温かいものが広がっていた。


 昨日から続いている噂の問題は、まだ解決していない。誰が写真を撮ったのか、誰が文章をつけて広めたのかも分からない。


 それでも、今日一日を振り返ってみると、嫌なことばかりではなかった。


 学校では自分の言葉で説明できたし、顧問にも相談できた。文芸部では原稿の確認が進み、悠真とも次に読む本の話ができた。


 そして何より、悠真が家族と向き合い、自分の考えを伝えてくれた。


 彩花は温かい飲み物を手に、窓の外を眺めた。


(私も、ちゃんと自分で決めていこう)


 誰かの噂に振り回されるのではなく、自分が何を大切にしたいのかを考える。悠真との距離も、周囲の言葉ではなく、二人で話しながら決めていきたい。


 その気持ちは、昨日よりも少しだけはっきりしていた。


     ◇


 翌日の朝、青葉高校の文芸部には、顧問から一つの連絡が入ることになっていた。


 昨日までに確認された二種類の画像について、学校側でも情報を整理した結果、同じ写真が使われていることは確かだが、文章が作られた場所や最初の発信者はまだ分かっていないという。


 また、部誌の発行費用に関する噂については、学校の記録と一致しないことが確認されていた。そのため、今後同じような質問が寄せられた場合には、部員それぞれが対応するのではなく、顧問へ相談する方針が伝えられる予定だった。


 彩花はまだ、その連絡の詳しい内容を知らなかった。


 そして、桜華学園でも、同じ写真をめぐって別の確認が進められていた。


 ただし、それぞれの学校で把握している情報が完全に一致しているわけではない。誰が最初に写真を受け取ったのか、どの経路で二つの学校へ広まったのかは、依然として不明だった。


 噂の中心にいる二人が、同じ問題に向き合っていることは確かだった。


 けれど、その問題を解決するには、まだ確かめなければならないことが残っている。


 そして彩花自身も、翌日の学校で、これまでとは少し違う質問を受けることになる。


 それは、写真を撮った人物についてでも、九条家の名前についてでもなかった。


 同じ文芸部の生徒から、何気ない会話の中で尋ねられることになる言葉だった。


「水瀬さんは、九条君のこと、どう思ってるの?」


 その問いに、自分がどんな答えを返したいのか。


 彩花はまだ、はっきりとした言葉を見つけていなかった。

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