第166話 切り取られた写真と、誰にも譲らない私の気持ち
土曜日の午後、青凪市立中央図書館を出たとき、空はまだ明るかった。冬の陽射しは建物のガラスに柔らかく反射していたけれど、街路樹の影は思っていたより長く伸びていて、水瀬彩花はマフラーの端を少しだけ引き寄せた。つい先ほどまで九条悠真と並んで本を選んでいたことが、外の冷たい空気に触れると、かえって鮮明に思い出された。
互いに普段はあまり手に取らない分野の本を選び、その理由を話し合うという今日の過ごし方は、彩花にとって想像以上に楽しかった。建物や庭のことを扱った本に悠真が興味を示したときも、植物の観察記録を一緒に眺めたときも、相手の知らない一面を見つけたような気持ちになった。何か特別な出来事が起きたわけではないのに、帰り道で思い出す会話がいくつもある。
(悠真君は、私が選んだ本のことをちゃんと聞いてくれる。でも、今日は悠真君が気になっているものも、前より少し知れた気がする)
図書館の入口から続く歩道を並んで歩きながら、二人は駅前の古い写真についても少しだけ話した。撮影地点の候補はまだ二つ残っていて、写っている建物が建て替えられる前にどこにあったのかも、確かな資料では確認できていない。別の図書館で館内閲覧できる写真集についても、実際に見に行く日程は決まっていなかった。
「今日、写真集のことまで調べられませんでしたね」
彩花がそう言うと、悠真は歩く速さを少し緩めた。
「うん。でも、今日は本を選ぶ約束だったからね。僕は、あの時間を別の調べ物で埋めなくてよかったと思ってる」
「私もです。写真のことは気になるけど、悠真君が選んだ本の話も、もっと聞いていたかったので」
素直に答えた途端、悠真がこちらを見た。驚いたような表情はほんの一瞬で、すぐに穏やかな笑みに変わったけれど、彩花にはその変化が妙にはっきり分かった。
「それなら、また探そう。写真のことも、本のことも」
「はい。今度は、悠真君が最初に選んでくださいね」
「僕が?」
「いつも私の方から選ぶことが多いでしょう? 悠真君が何を読みたいのか、私も知りたいんです」
悠真はしばらく返事をしなかった。断る理由を探しているというより、何かを考え込んでいるようだったので、彩花は急かさずに隣を歩いた。
「……そう言われると、思ったより嬉しいね」
やがて返ってきた声は、普段より少しだけ低かった。
「僕が何をしたいかまで、彩花さんが気にしてくれるのは」
「もちろん気にしますよ。一緒に過ごす時間なんですから」
彩花にとっては、ごく自然な答えだった。けれど悠真は、その言葉を確かめるように一度頷いてから、次に図書館へ行くときは自分が気になっている棚を案内すると約束した。
大きな交差点の手前で別れるころには、午後三時を少し過ぎていた。悠真は彩花が帰る方向を確認したものの、いつものように無理に送ろうとはせず、次の連絡について簡単に話してから足を止めた。彩花も、彼が反対方向へ歩き始めるのを見届けてから、自分の帰り道へ向かった。
そのとき、道路を挟んだ向こう側に立っていた人物が、スマートフォンを下ろしたことには気づかなかった。冬の午後の街には買い物帰りの人も、待ち合わせをする人もいて、その一人ひとりを気に留める理由など、彩花にはなかったからだ。
◇
帰宅すると、姉の凛花が居間のテーブルで園芸の本を開いていた。窓際の鉢植えについて調べているらしく、手元のメモ帳には日当たりや室温についての短い文章が並んでいる。彩花が声をかけると、凛花は本から顔を上げ、まず外の寒さを気遣ってくれた。
「お帰り、彩花。図書館、楽しかった?」
「うん。今日はね、お互いに普段読まない本を選んでみたの」
彩花はコートを脱いでから、建物の本と植物の観察記録について姉に話した。凛花は興味深そうに聞きながら、途中で何度か質問を挟み、特に植物の本については自分でも探してみたいと言った。
「悠真君、建物や庭の本も読むんだね。前に昔の街並みを調べてるって聞いたけど、やっぱりそういうものが好きなのかな」
「うん。でも、私が思っていたより、いろんなところに目が向くみたい。私が気づかなかったことも話してくれたよ」
説明しているうちに、彩花は自分が随分楽しそうに話していることに気づいた。凛花はそれを指摘せず、最後まで聞いてから本を閉じ、妹の前に温かいお茶を置いた。
「それで、次も会う約束はしたの?」
「また図書館で本を紹介し合おうって。いつにするかは、まだ決めてないけど」
「そっか。よかったね」
凛花の何気ない一言に、彩花は小さく頷いた。自分が喜んでいる理由を長々と説明しなくても、姉にはある程度伝わっているような気がした。
「そういえば、お姉ちゃん。前に話してた鉢植えの場所は決まった?」
「まだ。朝と午後の日差しは確かめたんだけど、寒い日の窓際が少し気になってるの」
「そっか。急いで決めなくてもいいもんね」
凛花は笑って頷き、もう少し調べてから決めるつもりだと答えた。彩花はテーブルの本を眺め、姉が植物を大切に育てようとしていることと、自分が古い写真の撮影地点を慎重に確かめたいと思っていることが、どこか似ているように感じた。
その夜、自室の机に向かった彩花は、古い駅前写真について書いていたノートを開いた。これまで調べたことを整理してみると、撮影地点の候補は二つまで絞られているものの、どちらも決め手になる資料が足りない。写真に写った建物の位置と、当時の道路の形をもう一度照らし合わせる必要があった。
候補の一つには古い商店街の角という推測があり、もう一つには駅前広場に近い位置という可能性が残っていた。ただし、どちらも周囲の建物の配置から考えた仮説にすぎず、写真の撮影年代そのものにも確認の余地がある。彩花は二つの候補の横に小さく「未確定」と書き足し、調べたい資料を別の欄にまとめた。
(分からないことは、まだ分からないままでいい。悠真君とも、そうやって確かめてきたんだから)
その考え方は、以前の自分より少し落ち着いているように思えた。すぐに答えが見つからなくても、確かめる方法を一つずつ考えればいいし、途中で別の本に出会う時間だって無駄にはならない。
机の上に置いたスマートフォンが短く震えたのは、ノートを閉じようとしたときだった。画面には悠真からのメッセージが表示されていて、無事に帰れたかという確認のあとに、今日の本選びが楽しかったと書かれていた。
彩花は自然と頬が緩むのを感じながら、同じ気持ちだったことを返した。少し考えてから、次は悠真が最初に本を選ぶ約束も楽しみにしていると付け加える。
返信は、思ったより早かった。
『それなら、少し真剣に選ばないといけないね。彩花さんが知らない僕の好みを、一つくらい紹介できるようにする』
彩花は声を出さずに笑い、その言葉に短い返事を送った。画面を伏せてからも胸の奥に残る温かさは、図書館で本を手渡されたときの気持ちによく似ていた。
けれど、同じ土曜日の夕方、二人の知らない場所では、まったく違う意味を持つ一枚の写真が扱われ始めていた。
◇
月曜日の朝、県立青葉高校の教室は、いつもより少しだけ落ち着かない空気に包まれていた。彩花が教室に入ると、窓際で話していた女子生徒たちが一瞬だけ声を小さくし、こちらを見てから視線を外した。最初は何かの話題が途切れただけだと思ったものの、自分の席へ向かう間にも似たような反応が続き、彩花は不思議に思った。
机の横に鞄を置いていると、同じクラスの女子生徒が近づいてきた。普段からよく話す相手ではあるけれど、今日は何かを言いにくそうにしていて、手にしたスマートフォンを何度も見下ろしている。
「水瀬さん、ちょっと聞いてもいい?」
「うん。どうしたの?」
「これ、見たことある?」
差し出された画面には、見覚えのある建物が写っていた。青凪市立中央図書館の近くにある歩道で、写真の中央には、土曜日に悠真と並んで歩いていた自分の姿があった。
彩花は思わず息を止めた。隣を歩く悠真の横顔もはっきり写っていて、二人が何かを話している様子が、少し離れた場所から撮影されている。
「……これ、どうしたの?」
「昨日の夜から、何人かの間で回ってるみたいなの。最初に誰が送ったのかは、私も知らないんだけど」
女子生徒は画面を少し動かし、写真の下に添えられた文章を見せた。そこには、彩花が九条家との関係を利用して文芸部の活動に特別な支援を受けているという、身に覚えのない内容が書かれていた。
さらに、その下には冬の部誌の発行費用にまで触れた文章が続いていた。あたかも九条家が資金を出し、その見返りとして彩花が悠真と親しくしているかのような書き方だった。
(……何、これ)
彩花は画面に並んだ文字を読み返した。写真に写っているのは確かに自分と悠真だったけれど、添えられた説明には事実ではないことがいくつも含まれている。
冬の部誌は文芸部で準備しているもので、九条家から費用を受け取ったことなどない。そもそも彩花自身、誰かの家柄を利用して作品を発表しようと考えたことは一度もなかった。
「私、こんなことしてないよ」
声に出すと、思っていたより落ち着いた声が返ってきた。胸の奥では嫌なものが広がっていたけれど、少なくとも何が間違っているのかは、はっきり分かっていた。
「そうだよね。私も変だと思ったの。文芸部のこと、そんなふうに聞いたことなかったから」
「教えてくれてありがとう。これ、どこから来たのか分かる?」
「最初に見せてもらったのは、クラスの子から。でも、その子も別の人から送られたって言ってた」
彩花は少し考え、写真と文章を自分の端末に記録として残せるか尋ねた。女子生徒はすぐに頷いたが、彩花はその場で大勢に見せたり、別の友人に転送したりするつもりはなかった。
写真が広がっているなら、むやみに複製を増やすことも避けたい。それでも、何が書かれていたのかを正確に残しておかなければ、あとから事実を確かめることが難しくなる。
「水瀬さん、大丈夫?」
女子生徒が心配そうに尋ねた。
「……びっくりはした。でも、書いてあることは違うから、ちゃんと確認する」
そう答えながら、彩花はもう一度画面を見た。写真の下に使われている言葉は、単に二人が仲良く歩いていたという話ではなく、彩花の人格や文芸部の活動まで疑わせるものだった。
朝のホームルームが始まる前に、教室の後方から小さな笑い声が聞こえた。誰の話をしているのかまでは分からなかったけれど、自分の方を見た生徒が急に顔を背ける様子に、彩花は胸のあたりが冷たくなるのを感じた。
(見られているのは、私なんだよね。でも、あの写真だけで、どうしてそんなことまで決められるんだろう)
怖くないと言えば嘘になる。けれど、何もしていないのに自分から居場所を失うような振る舞いをするのは、もっと違う気がした。
彩花は椅子に座り、授業の準備を始めた。机の上に教科書を置くまでの短い時間に、何度か周囲の視線を感じたものの、顔を伏せてやり過ごすことだけはしなかった。
◇
一時間目の授業が終わると、彩花は文芸部の顧問に相談することを決めた。問題になっている文章には部誌の発行費用まで書かれている以上、自分一人の話では済まない。事実と違う情報が広がれば、部員たちが積み重ねてきた作業にも影響が出るかもしれなかった。
次の授業までの時間は長くないため、彩花はまず顧問に放課後の相談を申し出た。顧問は事情を簡単に聞くと、部誌の費用に関することなら学校側でも確認できると答え、画像は削除せずに保存しておくよう伝えた。
「水瀬さん、今の段階で、誰が流したのか決めつけないようにね。ただし、事実ではないことを我慢して受け入れる必要もありません」
「はい。私も、誰かを疑う前に確かめたいです」
彩花は礼を言って教室へ戻った。大人に相談したことで状況がすぐ解決するわけではないけれど、何を確認すればいいのかが少し明確になっただけでも、胸の中の混乱は和らいだ。
昼休みには、文芸部の同級生からも声をかけられた。昨日から例の画像を見た生徒がいるらしく、部誌に関する話を本気で信じている人までいるという。
「水瀬さん、部誌のこと、どうする? あの文章、先生にも見てもらった方がいいと思う」
「うん。もう相談したよ。発行費用のことは、ちゃんと記録で確認してもらうつもり」
「よかった。私たち、普通に準備してただけなのにね」
同級生の声には、戸惑いだけでなく怒りも混じっていた。彩花はその表情を見て、自分の問題として考えていたことが、すでに周囲の部員にも負担をかけ始めていると気づいた。
「ごめんね。私のことで、こんな話になって」
「そこは謝らなくていいよ。変なことを書いた人が悪いんだから」
返ってきた言葉は、思っていたより強かった。彩花が驚いて顔を上げると、同級生は少し困ったように笑い、部誌を一緒に作ってきたのだから、その過程まで勝手に書き換えられたくないと続けた。
その言葉に、彩花は胸の奥が熱くなるのを感じた。誰かに守ってもらうためではなく、一緒に取り組んできたものを守るためにできることがあるのだと、改めて思えたからだ。
「ありがとう。私も、ちゃんと説明できるようにする」
彩花がそう答えると、同級生は頷き、午後の授業が始まる前に自分の席へ戻っていった。
残された彩花は、机に置いたノートの端を指で押さえた。写真を撮られたことも、知らないところで自分の行動を説明されていることも嫌だったけれど、それ以上に苦しかったのは、悠真と過ごした楽しい時間が、誰かの都合のよい話に利用されていることだった。
(あの日、私たちは本を選んでいただけなのに)
建物の本を見て、植物の話をして、次も一緒に図書館へ行こうと約束した。どれも彩花にとって大切な出来事で、それを誰かが勝手に取引のように扱っていることが、どうしても許せなかった。
◇
同じ月曜日の昼休み、私立桜華学園では、悠真のもとにも似た内容の画像が届いていた。生徒会執行部の仕事を一区切りさせたところで、顔見知りの生徒から声をかけられ、何か問題になっているらしいと知らされたのだ。
送られてきた画像を見た悠真は、しばらく無言だった。写真に写っている彩花の姿も、図書館から帰る途中の景色も覚えているだけに、どこか別の場所で勝手に意味を変えられていることが、ひどく不愉快だった。
「九条君、これ、どうする?」
画像を見せた生徒が慎重に尋ねた。
「まず、誰から届いたのか確認したい。それから、同じ内容がほかにも広がっているかも」
「もう何人か見てると思う。内容は少しずつ違うみたいだけど」
悠真は頷き、確認できる範囲の情報を残しておいてほしいと頼んだ。ただし、さらに拡散させて反応を見るようなことはしないでほしいとも伝えた。
目の前の生徒が去ってから、悠真は改めて画像を開いた。自分の家の名前を持ち出して彩花の行動を説明する文章には、読み進めるほど腹立たしさが募った。
(僕が誰と図書館へ行こうと、家の事情とは関係ない。まして、彩花さんが何かを得るために僕と会っているなんて)
悠真は深く息を吐き、端末を伏せた。ここで感情のままに動けば、彩花が何を望んでいるのかも確かめないまま、自分のやり方だけを押しつけることになりかねない。
以前の自分なら、家の名前を利用してでも話を止めようとしたかもしれなかった。けれど今は、その方法が相手のためになるとは限らないことを、少しずつ理解し始めていた。
悠真は彩花に連絡しようとして、一度指を止めた。授業中かもしれないし、すでに本人が事情を知っている可能性もある。
考えた末、悠真は短いメッセージを送った。
『彩花さん、今日、僕たちの写真について変な話が出回っているのを知った。そっちにも届いている? 授業が終わってからでいいから、少し話せるかな』
送信してから、悠真は画面を閉じた。返事を急がせないと決めたものの、彩花が教室でどんな思いをしているのかを想像すると、落ち着いて仕事を再開するのは難しかった。
窓の外では、冬の日差しが校舎の中庭に落ちている。いつもなら目に入る景色にも気持ちが向かず、悠真は手元の資料を一度読み返してから、無理に考えを切り替えようとするのをやめた。
(彩花さんが傷つけられているなら、黙っていたくない。でも、僕が勝手に全部決めたら、それは違う)
悠真は自分にそう言い聞かせ、まずは事実を確かめることに集中した。
◇
放課後、彩花は文芸部の顧問と部誌の発行費用について確認した。これまでの準備に関する記録と、学校で予定されている費用の扱いを照らし合わせても、九条家から支援を受けた事実はなかった。顧問は必要な範囲で学校側にも情報を共有し、部誌に関する誤った説明が広がった場合には対応できるようにすると話した。
「水瀬さん、部の活動については記録があります。少なくとも、あの文章が事実だという根拠はありません」
「ありがとうございます。部誌のことで、みんなに迷惑をかけたくなかったので」
「あなたが迷惑をかけたわけではありません。ただ、今後も同じようなものが届いたら、一人で対応しないで知らせてください」
彩花は深く頭を下げた。相談する前は、自分で何とかしなければならないという気持ちが強かったけれど、学校の活動を守るためには、学校が持っている記録や手続きを利用することも必要なのだと分かった。
部室に戻ると、数人の部員が机を囲んで原稿の確認をしていた。彩花が入ると、一瞬だけ視線が集まったものの、誰も写真のことを大声で尋ねたりはしなかった。
「水瀬さん、この前の原稿なんだけど、最後の段落の改行、もう一回見てもらえる?」
声をかけてきた部員が、いつもと変わらない調子で紙を差し出した。彩花はそれを受け取り、指定された場所を確認してから、文章の流れについて自分の考えを伝えた。
原稿を挟んだやり取りは、特別なものではなかった。けれど、朝から周囲の視線を気にしていた彩花には、その普通の会話がありがたかった。
(ここは、ちゃんと私たちが作ってきた場所なんだ)
誰かが流した文章だけで、部員たちと積み重ねてきた時間が消えるわけではない。そう思えると、少しずつ肩の力が抜けていった。
部誌の確認を終えたあと、彩花はスマートフォンを開いた。悠真からのメッセージにはすでに気づいていたけれど、落ち着いて返事をするため、放課後まで待っていたのだ。
『私の学校にも届いています。部誌のことで事実と違う話があったので、先生に相談して確認してもらいました。悠真君とも話したいです』
送信すると、数分もしないうちに返事が届いた。悠真は自分の学校でも画像を確認したこと、今のところ発信者は分かっていないことを伝え、帰宅してから電話で話せるか尋ねてきた。
彩花は少し考え、家に着いてからなら大丈夫だと答えた。今日は直接会う約束をしていないし、二人が不用意に外で会えば、また別の写真を撮られる可能性もある。
そうしたことを考えなければならない現状は悲しかったけれど、今はまず落ち着いて話し合うことが大切だと思った。
◇
夕方、自宅に戻った彩花は、凛花に今日あったことを話した。姉には余計な心配をかけたくないという気持ちもあったけれど、同じ桜華学園に通っている以上、どこかで噂を耳にするかもしれない。何も知らないまま突然話を聞かされるより、自分の言葉で伝えておきたかった。
凛花は最後まで黙って聞いていた。彩花が保存した画像を見せると、表情が少し険しくなったものの、すぐに誰かを責めるようなことは言わなかった。
「……勝手に写真を撮って、こんな文章をつけたんだ」
「うん。誰がやったのかは、まだ分からないけど」
「彩花、学校では大丈夫だった?」
その問いに、彩花はすぐには答えられなかった。授業を受け、顧問にも相談し、部誌の確認もできたけれど、一日中平気だったわけではない。
「正直、嫌だったよ。教室で何か言われてるのかなって思うと、落ち着かなかったし」
「……そうだよね」
「でも、文芸部の子が話を聞いてくれたし、先生にも相談できたから。ちゃんと間違ってることは確認できたよ」
凛花は頷き、彩花の隣に腰を下ろした。しばらく黙ってから、学校で同じ画像を見かけたとしても、勝手に広めたり、誰かを問い詰めたりはしないと約束してくれた。
「私ができることはする。でも、彩花の知らないところで動いて、余計に話を大きくしたくないから」
「ありがとう、お姉ちゃん」
「ただ、何か直接言われたり、変なものが届いたりしたら、必ず教えてね。学校の先生にも相談してほしいし、一人で抱えないで」
姉の言葉に、彩花はもう一度頷いた。悠真のいる学校に通う凛花なら、知らないうちに何かを聞く可能性もあるけれど、それを理由に姉まで巻き込むことは避けたかった。
夕食のあと、自室へ戻った彩花は、机の上に置いたノートを開いた。古い駅前写真の調査記録が並ぶページの次に、新しい見出しを書こうとして、指が止まる。
いつもなら、分かったことと分からないことを分けて記録する。けれど今回の問題には、自分の気持ちも関わっていて、単に事実を整理するだけでは済まない部分があった。
(写真は本物。でも、書かれていることは嘘。それに、悠真君と一緒にいたこと自体は、隠したいことじゃない)
彩花はその考えを何度か心の中で確かめた。写真を撮られたことは嫌だったし、勝手に広められるのも許せないけれど、悠真と図書館に行ったことまで間違いだったと思いたくはなかった。
ノートには、確認できた事実だけを書いた。写真が撮影された場所、画像を見せてもらった時間、部誌の費用について顧問に確認した内容、そして発信者は未確認であること。
最後に、彩花は少しだけ迷ってから、別の一文を書き加えた。
『誰かに誤解されたからといって、自分が大切にしたい時間まで否定しない』
書き終えると、不思議なほど気持ちが落ち着いた。誰かに見せるための文章ではなく、自分自身が忘れないための言葉だった。
◇
午後八時を少し過ぎたころ、悠真から電話がかかってきた。彩花は机の上を軽く片づけ、椅子に座ってから通話をつないだ。
「こんばんは、悠真君」
『こんばんは、彩花さん。遅くなってごめんね』
「大丈夫です。私も今、少し整理していたところなので」
電話の向こうから聞こえる悠真の声は、いつもと同じように穏やかだった。けれど、最初の挨拶が終わったあとに訪れた短い沈黙から、彼も今日のことを軽く考えているわけではないのだと伝わってきた。
『……彩花さん、今日、嫌な思いをしたよね』
その言葉に、彩花は胸の奥が少し締めつけられるのを感じた。
「はい。びっくりしましたし、正直、怖かったです」
『ごめん』
「悠真君が謝ることじゃないですよ」
『それは分かってる。でも、僕の家の名前が使われている以上、何も感じないわけにはいかなくて』
悠真はそこで一度言葉を切った。彩花は急いで否定する代わりに、彼が次に何を言うのかを待った。
『僕、最初に画像を見たとき、すぐにでも全部止めたいと思った。誰が流したのか調べて、二度と同じことをしないようにしたかった』
「……悠真君」
『でも、それを僕が勝手に始めたら、彩花さんがどうしたいかも聞いていないことになる。だから、まず話したかった』
彩花はスマートフォンを持つ手に少し力を込めた。悠真が自分のために怒ってくれていることは嬉しかったし、その一方で、彼が行動を急がずに気持ちを確かめようとしてくれていることが、何よりありがたかった。
「私も、ちゃんと話したいと思っていました」
『うん』
「今日、学校で写真を見せてもらったとき、最初は何を言えばいいのか分からなかったんです。でも、部誌のことまで書かれていたので、そこは確認しないといけないと思って」
彩花は顧問に相談した経緯を説明した。学校に記録があり、九条家から支援を受けた事実は確認されなかったこと、文芸部の仲間も事情を理解してくれたことを、できるだけ順序立てて伝えた。
悠真は途中で口を挟まずに聞いていた。話し終えたあと、電話の向こうから深く息を吐く音が聞こえた。
『ちゃんと確認できたんだね。よかった』
「はい。まだ写真のことは解決してませんけど、少なくとも部誌については、間違っているって言えます」
『彩花さんが、自分でそこまで動いたことを聞けてよかった。僕が知らないところで、何か困らせていないか心配だったから』
その言葉を聞いた彩花は、少しだけ考えてから口を開いた。
「悠真君、一つお願いしてもいいですか?」
『もちろん。何でも言って』
「何でも、は困ります。ちゃんと聞いてから決めてください」
思わずそう返すと、電話の向こうで悠真が小さく笑った。彩花も少し緊張が解け、言おうとしていたことを落ち着いて続ける。
「今回のこと、私も自分で向き合いたいです。もちろん、一人で全部解決したいって意味じゃありません。でも、悠真君が全部何とかしてくれたことにして、私はただ待っているだけにはなりたくないんです」
『……うん』
「もし何か分かったら、私にも教えてください。私の方でも、学校で確認できたことはちゃんと伝えます。二人のことなのに、片方だけが何も知らないままになるのは嫌だから」
言い終えてから、彩花は少し緊張した。自分の気持ちを伝えたつもりだったけれど、悠真には彼の力を拒んでいるように聞こえたかもしれない。
しかし、返ってきた声は意外なほど柔らかかった。
『分かった。約束する』
「……ありがとうございます」
『彩花さんがそう言ってくれて、よかったと思ってる。僕、心配になると、どうしても先に動きたくなるから』
「それは、少し分かります」
『少し?』
「……たぶん、結構」
彩花が答えると、悠真は今度こそはっきり笑った。その声を聞いているうちに、朝から胸の中に残っていた重さが、ほんの少し軽くなった気がした。
『じゃあ、僕からも一つお願いしていい?』
「はい」
『もし、誰かに直接何か言われたり、怖いことが起きたりしたら、僕にも教えてほしい。学校の先生や家族にも相談して、彩花さんが一人で我慢するようなことにはしないで』
彩花は頷きかけて、電話では見えないことに気づいた。
「はい。約束します」
『ありがとう』
短い返事だったけれど、悠真の声には確かな安堵が混じっていた。彩花はその変化を感じながら、今朝の教室で抱いていた不安を思い出した。
誰かに見られていることが怖くて、自分の行動を全部変えてしまいたくなる瞬間もあった。それでも、悠真と過ごした時間まで否定しないという気持ちは、電話で話すうちにいっそう強くなっていた。
「……あの、悠真君」
『うん?』
「土曜日のこと、私、すごく楽しかったです」
『……うん』
「写真を撮られたのは嫌でした。でも、悠真君と図書館に行ったことを、後悔したくないんです」
電話の向こうが静かになった。彩花は急に恥ずかしくなったものの、ここで言葉を取り消す気にはなれなかった。
『彩花さん』
「はい」
『僕も、後悔してない』
悠真の声は、先ほどまでより静かだった。
『あの日、彩花さんと本を選んで、話して、次の約束をした。それを誰かに勝手に違うものにされても、僕たちが過ごした時間そのものは変わらないから』
彩花は目を閉じ、ゆっくり息を吸った。自分がノートに書いた言葉と、悠真が今伝えてくれた気持ちは、よく似ていた。
「……はい」
『だから、次も図書館に行こう。もちろん、彩花さんが行きたいと思ってくれるなら』
「行きたいです。私、まだ悠真君に紹介したい本があるので」
『それなら、僕も探しておかないとね』
そのやり取りが、いつもより大切なものに感じられた。誰かの悪意によって約束を取り消すのではなく、自分たちの意思でもう一度確かめ合えたことが、彩花には嬉しかった。
◇
電話を終える少し前、悠真は家の方でも写真について話が出ている可能性があると伝えた。まだ正式に確認したわけではないため、誰が何を知っているのかまでは分からないという。
彩花はその説明を聞いて、初めて別の種類の不安を覚えた。学校で流れている噂だけなら、間違っている部分を一つずつ確かめることができるけれど、九条家の事情まで関わってくると、自分には分からないことが多い。
「悠真君の家でも、こういうことが問題になるんでしょうか」
『可能性はあると思う。僕の交友関係を気にする人はいるから』
「……そう、ですよね」
『でも、彩花さんが何かを説明しに来る必要はないよ。少なくとも今は、僕が家の方に確認する』
悠真は慎重に言葉を選んでいるようだった。自分がすべてを解決すると断言することも、問題はないと軽く扱うこともしなかった。
『もし家から何か言われたら、その内容はちゃんと伝える。さっき約束したとおり、勝手に話を進めないから』
「分かりました。私も、何かあったら伝えます」
彩花はそう答えたものの、胸の中に小さな緊張が残った。九条家のことを考えると、以前に訪れたときの印象や、これまで聞いた話が思い浮かぶ一方で、自分が知らない事情もまだ多いのだと感じる。
家柄というものは、彩花にとって普段あまり意識しないものだった。けれど悠真にとっては、生まれたときから続いている現実であり、周囲の人々の期待や思惑と無関係ではいられないのだろう。
(私が悠真君と一緒にいることを、よく思わない人もいるのかな)
そう考えると、少し怖かった。それでも、悠真自身がどう思っているのかを聞かないまま、周囲の反応だけで自分の気持ちを決めたくはなかった。
「悠真君」
『うん』
「私、知らないことが多いと思います。悠真君の家のことも、学校のことも」
『そうだね。僕も、彩花さんの学校のことを全部知っているわけじゃない』
「だから、ちゃんと話してほしいです。分からないことがあったら、聞くので」
悠真はすぐには答えなかった。けれど、その沈黙は困っているというより、言葉を大切に受け止めているように感じられた。
『……ありがとう、彩花さん』
返ってきた声が少しだけ震えていたように聞こえ、彩花は胸の奥が温かくなった。彼が普段どれほど周囲に気を配っているのか、自分にはまだ分からない部分もあるけれど、少なくとも今は、無理に強がらなくてもいいと思ってほしかった。
「こちらこそ、ありがとうございます」
電話を切ったあと、彩花はしばらくスマートフォンを手にしたまま座っていた。画面が暗くなっても、悠真の声は耳の奥に残っていて、朝から続いていた不安とは違う感情が胸の中に広がっていた。
怖いことがなくなったわけではない。噂を流した人物も分からず、写真がどこまで広がったのかも確認できていない。
それでも、今日は自分の意思で動き、必要な人に相談し、悠真とも気持ちを確かめ合うことができた。何も解決していないように見える状況の中で、確かに変わったことがある。
彩花は机のノートを開き、先ほど書いた一文の下に、もう一つだけ言葉を添えた。
『大切なことは、相手と話して決める』
書き終えてからペンを置いたとき、隣の部屋で凛花が何かを片づけている音が聞こえた。いつもと変わらない家の気配に安心しながら、彩花は明日の授業の準備を始めた。
◇
一方、九条家では、悠真が自室に戻った直後、家の連絡を取り次ぐ担当者から声をかけられていた。すでに夜も深まり始めていたため、悠真は明日の予定についての確認だろうと思ったが、相手の表情はいつもより硬かった。
「悠真様、少しお時間をいただけますでしょうか」
「何かあった?」
「本日、学校外で撮影されたお写真について、ご家族の方でも確認が必要とのお話がございました」
その言葉を聞いた瞬間、悠真の表情が変わった。
「……写真?」
「はい。青凪市立中央図書館の近くで撮影されたものと伺っております」
悠真は相手の顔を見つめた。学校で出回っていた画像と同じものなのか、それとも別の経路で届けられたものなのか、今の説明だけでは判断できない。
「誰から届いたの?」
「申し訳ございません。私の方では、そこまでは確認できておりません」
「分かった。では、確認できる人に聞いておいてほしい。それと、写真に写っている相手の方へ、こちらから勝手に連絡を取らないようにして」
担当者は一瞬だけ驚いた様子を見せたものの、すぐに頭を下げた。悠真はそれを見届けてから、落ち着いた声で言葉を続けた。
「必要な話なら、僕が聞く。相手の学校や家に連絡する前に、まず僕に確認してほしい」
「承知いたしました。ただ、ご家族からお話がある場合には、お時間をいただくことになるかと存じます」
「それは構わないよ」
悠真は頷いた。家の人間が何を考えているのか、現時点で決めつけるつもりはなかったけれど、彩花の知らないところで話が進むことだけは避けたかった。
担当者が部屋を出ると、悠真は窓辺に立った。外には庭の灯りが落ち着いた色で広がっていて、昼間の騒ぎなど存在しなかったかのように静かだった。
(……学校だけの話じゃなくなったんだね)
悠真はスマートフォンを取り出し、彩花との通話履歴を見た。つい先ほど、何か分かったら必ず伝えると約束したばかりだった。
まだ家からの正式な説明はない。今ここで憶測を送れば、彩花を余計に不安にさせるかもしれないけれど、家に写真の話が届いているという事実は、隠しておくべきことでもない。
悠真は少し考えてから、短いメッセージを打った。
『彩花さん、家にも写真の話が届いているみたい。まだ詳しいことは確認できていないけど、分かったことはちゃんと伝えるからね』
送信したあと、悠真は画面を閉じずに待った。数分して返ってきた返信には、心配していることと、無理をしないでほしいという言葉が書かれていた。
悠真はその文章を読み、ほんの少しだけ目を細めた。
(僕の方を心配してくれるんだ)
自分が何かをしてあげたいと思っている相手が、同じように自分のことを気にかけてくれている。そんな当たり前のことが、今の悠真には、何より大切なものに思えた。
けれど、その穏やかな気持ちは長く続かなかった。
再び部屋の扉がノックされ、先ほどの担当者が戻ってきたからだ。
「悠真様。明日の夕方、ご家族から直接お話を伺いたいとのことです」
「分かった。予定を確認しておく」
「それと、もう一点だけ、お伝えするよう申しつかっております」
担当者はそこで言葉を区切った。悠真が続きを促すと、相手は慎重な口調で告げた。
「今回のお写真につきましては、お相手の方のことも含め、交友関係の確認が必要であるとのことです」
悠真はしばらく黙っていた。言葉そのものは丁寧だったけれど、その奥にある意味を考えれば、軽く受け流すことはできない。
「……それは、誰が言ったの?」
「ご家族からのご伝言として承っております。詳しいご意向は、明日のお話でお確かめいただくことになるかと存じます」
「そう」
悠真は短く答え、相手を下がらせた。扉が閉まったあと、もう一度窓の外を見たものの、先ほどまで穏やかに見えていた庭の景色は、今は妙に遠く感じられた。
交友関係の確認。
その言葉が、単に心配から出たものなのか、それとも別の意図を持っているのかは、まだ分からない。けれど、彩花という一人の人間を、家柄や評判だけで判断しようとする話になったとしたら、悠真には黙って受け入れるつもりがなかった。
(彩花さんは、僕の家の名前じゃなくて、僕自身と話してくれる人なんだ)
図書館で本を選んでいた彩花の横顔が浮かんだ。自分の知らない本を楽しそうに紹介し、次は悠真の選んだ本を読みたいと言ってくれた彼女は、家柄のことなど少しも気にしていなかった。
だからこそ、その時間を誰かの都合で汚されたくなかった。
悠真は机に戻り、明日の予定を確認した。家族との話し合いは避けられないだろうし、避けるつもりもなかった。
ただし、自分が何を大切にしているのかだけは、曖昧にするつもりはない。
「……今度は、ちゃんと言わないとね」
誰もいない部屋で呟いた声は、静かだった。
そのころ、青凪市内では、最初の写真とは少し違う文章を添えた画像が、新たに広まり始めていた。最初の投稿では文芸部への支援が話題にされていたのに対し、今度の文章では、彩花が九条家の人間に取り入ろうとしているという、さらに露骨な内容が書かれている。
どちらの画像も、同じ土曜日の写真を使っていた。文章だけを変えて流されていることが偶然なのか、それとも誰かが意図的に話を広げているのかは、まだ明らかになっていない。
そして、その画像の一つには、ほかにはない短い一文が添えられていた。
『九条家に近づけば、誰でも同じように扱ってもらえると思っているのかしら』
それは単なる噂話というより、写真に写る少女へ向けられた、あからさまな敵意を含む言葉だった。
けれど、彩花も悠真も、その新しい文章が広まり始めていることを、まだ知らなかった。




