第165話 土曜日、同じ棚の前で見つけたもの
土曜日の午後零時四十分、水瀬彩花は青凪市中央図書館へ続く歩道を歩いていた。朝のうちは厚い雲が空を覆っていたものの、家を出る頃にはところどころに青空が見え始め、心配していた雨も降っていない。肩に掛けた鞄には財布とスマートフォン、折りたたみ傘が入っており、歩くたびに金具が小さく揺れる音がした。
待ち合わせは午後一時。九条悠真と最後に顔を合わせたのも、この図書館だった。あれから二週間が経ち、学校や家で起きたことを何度もメッセージで伝え合ってきたが、直接会うのは久しぶりだった。
(まだ二十分もあるのに、早く着いちゃいそう)
彩花は信号待ちの間にスマートフォンを取り出し、待ち合わせの内容を確認した。昨日の夜、悠真とは天気が大きく変わらなければ予定どおり会うこと、午後三時頃には図書館を出ることを確かめている。さらに、お互いに普段あまり見ない棚から気になる本を一冊ずつ選び、紹介し合うという新しい約束もできていた。
どんな本を選ぶか、彩花はまだ決めていない。家を出る前に候補を考えてみたものの、実際に棚の前へ立ってから選んだ方が面白そうだと思い、あえて決めずに来た。
青凪市中央図書館の建物が見えてくると、彩花は少しだけ歩調を緩めた。入口前の広場には落ち葉が散っており、風が吹くたびに数枚が石畳の上を滑っていく。休日らしく、親子連れや年配の利用者が行き交い、返却する本を抱えた人が自動扉の向こうへ消えていった。
彩花は入口から少し離れた、通行の邪魔にならない場所で立ち止まった。スマートフォンの時刻は午後零時四十八分を示している。
そのとき、広場の向こうから見覚えのある姿が近づいてくるのが見えた。
濃い色の上着を着た悠真だった。片手には小さな鞄を持ち、もう一方の手でスマートフォンを確認している。彼が顔を上げた瞬間、彩花と目が合った。
「彩花さん」
悠真が笑顔になり、こちらへ歩いてくる。
「悠真君。こんにちは」
「こんにちは。早かったんだね」
「悠真君も。まだ待ち合わせまで時間があるよ?」
「うん。少し余裕を持って出たら、思ったより早く着いちゃった」
悠真はそう言って笑った。彩花も同じ理由で早く着いていたため、思わず笑顔になる。
「私も同じ。道が混んでなかったから」
「そっか。じゃあ、二人とも早く来ちゃったんだね」
何気ない会話だったが、彩花はその声を聞くだけで胸の奥が温かくなるのを感じた。メッセージでは毎日のように話している。それでも、目の前で悠真が笑っていることには、画面越しとは違う嬉しさがあった。
悠真もまた、彩花の表情を見ながら、自然と肩の力が抜けていくのを感じていた。会う前には何を話そうかと考えていたが、こうして顔を合わせると、特別な話題を用意しなくても言葉が出てくる。
「雨、降らなくてよかったね」
悠真が空を見上げると、彩花もつられて顔を上げた。
「うん。朝はちょっと心配だったけど、今は大丈夫そう」
「一応、傘は持ってきたよ」
「私も。使わずに帰れたらいいね」
二人は笑い合い、入口へ目を向けた。
「まだ一時前だけど、入ろうか」
「うん。行こう」
悠真が扉の方へ歩き出すと、彩花も隣に並んだ。二人の間には、以前よりも自然な距離が生まれていた。
◇
図書館の中へ入ると、外の風の音が遠ざかり、静かな空気が二人を包んだ。受付の近くには新着図書の案内が置かれ、奥には季節に合わせた展示棚が設けられている。彩花は館内を見回しながら、以前ここで悠真と過ごした時間を思い出した。
あのときも、二人で本を選び、気になったことを話した。けれど今日は、少し違う目的がある。
「最初はどうしようか」
悠真が小さな声で尋ねると、彩花は展示棚へ目を向けた。
「昨日話してた、一冊ずつ選ぶのをやってみたいな」
「うん。じゃあ、普段あまり見ない棚から探してみようか」
「そうしよう。でも、どこから見る?」
悠真は館内の案内板を確認し、少し考えた。
「郷土資料の棚は俺がよく見るから、今日は別のところがいいかな。彩花さんは、普段どんな棚を見てる?」
「小説とか、文章を書くための本が多いかな。あと、植物の本を少し見ることもあるよ」
「じゃあ、俺は植物や暮らしの本を見てみようかな」
彩花は少し驚いた。
「悠真君、植物の本?」
「うん。彩花さんが蕾を観察してる話を聞いてるし、琴葉も押し葉を作ってるから。自分ではあまり詳しく調べたことがないんだ」
彩花はその言葉を聞き、嬉しくなった。自分が話したことを、悠真は覚えてくれている。
「じゃあ、私は……そうだな。昔の町のことも気になるけど、それだと悠真君がよく見る棚に近いよね」
「別に、完全に違う分野じゃなくてもいいと思うよ。普段なら手に取らない本を選べれば」
悠真の言葉を聞き、彩花は少し考えた。
「それなら、建物の本を見てみたいな。古い町の写真集を読んでから、家の形とか、道の作り方もちょっと気になってるんだ」
「いいね。じゃあ、俺は植物の棚、彩花さんは建物の棚を見てみようか」
二人は案内板で場所を確認した。どちらも同じ階にあり、離れすぎていないため、それぞれ本を探してから近くの閲覧席で合流することにした。
「十分くらい探してみる?」
悠真が尋ねると、彩花は頷いた。
「うん。気になる本が見つからなかったら、無理に選ばなくてもいいよね」
「もちろん。選ぶこと自体を楽しめればいいと思う」
二人は小さく笑い合い、それぞれの棚へ向かった。
◇
彩花が建物に関する棚へ行くと、そこには住宅の歴史や町並み、建築の入門書などが並んでいた。専門的な図面が掲載された本もあれば、写真を中心に昔の家の暮らしを紹介する本もある。
彩花は背表紙を一つずつ眺め、気になった本を手に取った。
それは、古い日本の家屋と庭の関係を紹介する本だった。表紙には木造の家と小さな庭が写っており、縁側の近くに植木鉢が置かれている。
(あ、この雰囲気……)
彩花は青葉高校の図書室から借りている古い町の写真集を思い出した。自分が好きな一枚には、庭先にいる女性と植木鉢が写っている。写真の中の女性が何を考えていたのかは分からないが、暮らしの中に自然にある庭の風景が好きだった。
彩花は本を開き、目次を確認した。
そこには、家と庭のつながりや、昔の暮らしの中で植物がどのように扱われてきたかについて書かれている。専門的な説明もあるが、写真が多く、初めて読む人にも分かりやすそうだった。
彩花はページをめくりながら、縁側に置かれた鉢植えの写真へ目を留めた。
庭は、ただ眺めるためだけの場所ではない。
洗濯物を干したり、道具を置いたり、家族が少し休んだりする場所でもある。
そうした暮らしの様子が、写真と短い説明から伝わってきた。
(私が好きだった写真も、こういうところが気になったのかもしれない)
彩花はそう考え、少しだけ微笑んだ。
写真集に写っていた女性の気持ちは分からない。けれど、植木鉢や道具、家の周りの様子から、その場所で日々の生活が続いていたことは想像できる。
彩花は本を閉じ、表紙をもう一度眺めた。
悠真に紹介するなら、この本がいいかもしれない。
ただし、青葉高校の写真集で自分が選んだ一枚については、まだ話さないつもりだった。悠真が同じ本を読み、自分で好きな写真を選ぶという約束を大切にしたいからだ。
彩花は本を抱え、閲覧席の方へ向かった。
◇
一方、悠真は植物に関する棚で、何冊かの本を見比べていた。
園芸の入門書には、室内で育てる植物の種類や、水やりの方法、置き場所の選び方などが書かれている。悠真は琴葉が押し葉を作っていることや、彩花の妹が植物を育てたいと考えている話を思い出しながら、ページをめくった。
その中で、悠真の目を引いたのは、植物の成長を写真で記録する方法を紹介する本だった。
表紙には、同じ植物を異なる日に撮影した写真が並べられている。蕾が少しずつふくらみ、花が開いていく様子が、日付と一緒に記録されていた。
悠真はその本を手に取り、目次を確認した。
写真を撮るときの位置や光の条件、観察したことを記録する方法などが、分かりやすく説明されている。
(彩花さんがやってることに、少し似てるな)
悠真はそう思い、ページをめくった。
同じ植物でも、撮影する角度や距離が変わると、大きさや形の印象が違って見えることがある。だからこそ、できるだけ条件を揃えて記録することが大切だと書かれていた。
悠真はその説明を読み、彩花が以前、蕾の変化をすぐに断定しないようにしていると話していたことを思い出した。
彼女は毎日同じ場所を通り、少しずつ写真を撮っている。
その中で、見えたことと、まだ分からないことを分けて考えているのだろう。
悠真はその姿を思い浮かべ、自然と微笑んだ。
さらにページを進めると、観察記録を続けるための工夫が紹介されていた。
日付だけでなく、天候や撮影した時間を残すこと。
変化が分からなかった日も、そのまま記録すること。
そして、後から写真を見返したときに、同じ部分を比べられるようにしておくこと。
悠真はその内容に興味を持った。
自分が古い駅前写真を調べているときにも、似たようなことを考えている。
写真が撮られた年代や位置が分からなければ、見た目が似ているだけで同じ場所だと判断することはできない。
植物の観察と歴史資料の調査は違うものだが、確かめられることと、まだ分からないことを分けるという点では共通しているのかもしれなかった。
悠真は本を閉じ、表紙を見つめた。
彩花に紹介するなら、この本がいい。
そう決めた悠真は、閲覧席へ向かった。
◇
閲覧席の近くで二人が合流したのは、午後一時二十分を少し過ぎた頃だった。彩花は古い家と庭について書かれた本を抱え、悠真は植物の観察記録に関する本を持っている。
互いの本を見た瞬間、二人は少し驚いた顔になった。
「悠真君、植物の本を選んだんだね」
「うん。彩花さんは建物の本?」
「そうなの。なんだか、ちょっと似たところがあるね」
彩花が笑うと、悠真も頷いた。
「本当だね。どっちも暮らしの中にあるものを扱ってる」
二人は空いている閲覧席へ座り、まず彩花が選んだ本から紹介することにした。
「この本ね、昔の家と庭の関係について書かれてるんだ。写真が多くて、家の周りがどう使われていたのか分かるのが面白そうだと思って」
彩花は表紙を見せ、気になったページを開いた。
そこには、縁側の近くに植木鉢が並び、庭の端に道具が置かれている写真が掲載されていた。
「こういう写真を見ると、そこに住んでた人が普段どんなふうに過ごしてたのかなって、考えたくなるんだよね」
悠真は写真を眺め、少し考えた。
「確かに。建物だけじゃなくて、置いてあるものからも暮らしが見えてくるね」
「うん。きれいな建物の写真も好きなんだけど、私はこういう、誰かが普段使ってた場所の方が気になるのかもしれない」
彩花はそう言ってから、少しだけ照れくさくなった。
自分の好みを、こんなふうに言葉にするのは少し難しい。
けれど、悠真は真剣に聞いてくれていた。
「彩花さんらしいと思う」
悠真がそう言うと、彩花は顔を上げた。
「私らしい?」
「うん。彩花さんって、何かを見るときに、そこにいる人の時間も考えることが多い気がするんだ。前に話してくれた物語のことも、そうだったから」
彩花はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分では、ただ気になったことを考えているだけだと思っていた。
けれど、悠真はそこに自分らしさを見つけてくれている。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、なんだか嬉しい」
彩花が小さく笑うと、悠真も微笑んだ。
「俺も、彩花さんが選んだ本の話を聞けて嬉しいよ」
二人はしばらくその本を眺め、気になった写真について小さな声で話した。
彩花は青葉高校で借りている写真集の具体的な一枚については触れなかったが、昔の暮らしが写った写真に惹かれる理由を、少しだけ言葉にできた気がした。
◇
次に、悠真が選んだ本を紹介することになった。
「俺が選んだのは、植物の成長を写真で記録する方法について書かれた本なんだ」
悠真が表紙を見せると、彩花は目を輝かせた。
「あ、これ、面白そう!」
「彩花さんが蕾を観察してる話を聞いてたから、気になって手に取ってみたんだ」
彩花は少し驚いたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「私の話を覚えててくれたんだね」
「もちろん。毎日少しずつ写真を撮ってるって聞いてたから」
悠真は本を開き、撮影条件について説明されているページを見せた。
「同じ植物でも、撮る角度や距離が違うと、形が変わったように見えることがあるんだって。だから、できるだけ同じ位置から撮るのがいいらしいよ」
彩花はその文章を読み、思わず頷いた。
「それ、私も最近すごく気になってたの。蕾の先が少し丸くなったように見えるんだけど、本当に変わったのか、写真の撮り方の違いなのか分からなくて」
悠真はその話を聞き、少し考えた。
「じゃあ、この本に書いてある方法が参考になるかもしれないね」
「うん。天気とか時間も記録してるんだけど、撮る位置までは毎回ぴったり同じにできてないんだ」
彩花は少し困ったように笑った。
悠真は本のページをめくり、観察記録の例を見せた。
「ここには、変化が分からなかった日も、そのまま記録するといいって書いてあるよ」
彩花はその文章を読み、少しだけ目を見開いた。
「……それ、なんだか安心するね」
「安心?」
「うん。毎日見てるのに、何も変わってないように見える日もあるから。でも、変化が分からなかったことも記録していいんだって思うと、続けやすい気がする」
悠真はその言葉を聞き、静かに頷いた。
「俺も、古い写真を調べてるときに似たことを考えるよ。何か見つけても、それが答えにつながるかは分からないことが多いから」
「そうなんだ」
「うん。でも、分からないことをちゃんと残しておけば、あとで別の資料が見つかったときに比べられるでしょう?」
彩花はその説明を聞き、少し考えた。
植物の観察と古い写真の調査。
まったく違うことをしているようで、似ている部分もある。
彩花はその共通点が、なんだか嬉しかった。
「悠真君と話してると、自分がやってることも、少し違う角度から見られる気がする」
彩花がそう言うと、悠真は少し照れくさそうに笑った。
「俺も同じだよ。彩花さんの話を聞くと、写真の中に写ってる人の暮らしにも目が向くようになるから」
二人は顔を見合わせ、自然と微笑んだ。
◇
午後一時五十分を過ぎた頃、二人は選んだ本をそれぞれ元の棚へ戻すことにした。借りて帰るかどうかも少し考えたが、今日は紹介し合うことが目的だったため、まずは館内で読んだところまでにしておく。
彩花は建物の本を戻しながら、もう一度表紙を眺めた。
「この本、今度また読みに来たいな」
悠真は隣で頷いた。
「うん。俺も植物の本、もう少し詳しく読んでみたい」
二人は棚の前で少し立ち止まり、周囲の本を眺めた。
すると、彩花が一冊の小さな本へ目を留めた。
それは、昔の町で使われていた生活道具について紹介する本だった。表紙には、古い木製の道具や金属製の器具が並べられている。
「悠真君、これもちょっと気になる」
彩花が小さな声で言うと、悠真は表紙へ目を向けた。
「昔の道具の本?」
「うん。自分の物語にも、昔から使われてる道具が出てくるんだけど、どんなふうに使われてたのか、ちゃんと分かってないところがあって」
悠真はその言葉を聞き、少し考えた。
「じゃあ、参考になるかもしれないね」
「そうだといいな。でも、今日は全部読む時間はないから、また今度かな」
彩花はそう言って、本を棚へ戻そうとした。
そのとき、悠真が少しだけ首を傾げた。
「気になるなら、目次だけ見てみる?」
彩花は少し考え、頷いた。
「うん。そうしようかな」
二人は本を開き、目次を確認した。
そこには、暮らしの中で使われていた道具の種類や、手入れの方法について書かれている。園芸道具に関する詳しい説明があるかどうかは分からなかったが、彩花は資料名を覚えておくことにした。
「ありがとう、悠真君。今度、自分で探してみるね」
「うん。物語を書くときの参考になるといいね」
彩花はその言葉を聞き、少しだけ微笑んだ。
悠真は、物語の詳しい内容を聞こうとはしなかった。
完成したら最初に読ませてもらうという約束を、大切にしてくれているのだと思った。
◇
午後二時を過ぎると、館内の利用者は少しずつ増えてきた。二人は通路の邪魔にならないように移動し、窓際の閲覧席へ向かった。
そこからは図書館の外にある木々が見え、風に揺れる枝の間から、時折明るい光が差し込んでいる。
彩花は席へ座り、窓の外を眺めた。
「今日は、思ってたよりいろんな本が見られたね」
悠真も隣の席へ座り、頷いた。
「うん。普段あまり見ない棚って、面白いね」
「私、建物の本をあんなにじっくり見たの、初めてかもしれない」
「俺も植物の観察記録の本は、あまり読んだことがなかったよ」
二人は小さく笑い合った。
しばらくして、悠真が少し考えるように口を開いた。
「彩花さん、今日選んだ本のことなんだけど」
「うん?」
「彩花さんが昔の家の写真を選んだ理由、聞けてよかったなって思って」
彩花は少し驚き、悠真へ顔を向けた。
「そう?」
「うん。俺は古い写真を見ると、まず建物の位置とか、道路の形とか、年代の手がかりを探すことが多いんだ。でも彩花さんは、そこに暮らしてた人の時間を考えるでしょう?」
悠真は窓の外へ目を向け、少しだけ微笑んだ。
「同じ写真でも、見てるところが違うんだなって思った。それが面白かった」
彩花はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分の見方が、悠真にとって新しい発見になっている。
それが嬉しかった。
「私も、悠真君の話を聞くと、今まで気づかなかったところを見るようになるよ。道路の形とか、建物の並び方とか、前はあんまり気にしてなかったから」
悠真はその言葉を聞き、少し照れくさそうに笑った。
「じゃあ、お互いに少しずつ影響されてるのかもしれないね」
「……うん。そうかもしれない」
彩花は静かに頷いた。
誰かと同じ本を読むこと。
同じ景色を見ること。
その中で、自分とは違う見方を知ること。
それは、思っていた以上に楽しいことだった。
◇
しばらくして、彩花はふと、悠真が調べている古い駅前写真のことを思い出した。
「悠真君、そういえば駅前の写真の調査、最近どうなってるの?」
悠真は少し考え、これまでの進展を説明した。
撮影地点の候補は、まだ二つ残っていること。
案内図に載っていた施設について、建て替えに関する記述が見つかったこと。
ただし、建て替え前の建物がどこにあったのか、写真が撮られた頃に同じ場所に存在していたのかは、まだ分からないこと。
そして、施設の記念誌らしい資料が公共図書館の目録で見つかったものの、中身は確認できていないこと。
彩花はその話を聞き、少し考えた。
「じゃあ、今は建物の場所が変わってないかどうかを確かめたいんだね」
「うん。そこが分からないと、写真と案内図を比べても、正しい判断ができないかもしれないから」
彩花は頷き、窓の外へ目を向けた。
図書館の外には、今の町の景色が広がっている。
けれど、何十年も前には、違う建物が並んでいたのかもしれない。
「昔の写真って、今と同じ場所を写してても、全然違って見えることがあるんだね」
悠真はその言葉を聞き、静かに頷いた。
「そうだね。だから、同じ場所だと思っても、ちゃんと確かめたいんだ」
彩花は少しだけ微笑んだ。
「悠真君らしいね」
今度は悠真が少し驚いた顔になった。
「俺らしい?」
「うん。分からないことを、そのままにしないで確かめようとするところ。私、そういうところ、いいなって思う」
彩花は言い終えてから、自分が少し大胆なことを言った気がして、頬が熱くなった。
悠真も一瞬言葉を止め、彩花の顔を見つめた。
そのあと、少し照れくさそうに微笑んだ。
「……ありがとう。彩花さんにそう言ってもらえると、嬉しい」
彩花は小さく頷き、視線を窓の外へ戻した。
胸の奥が、少しだけ落ち着かない。
けれど、その気持ちは嫌なものではなかった。
◇
午後二時三十分を過ぎた頃、二人は図書館の展示コーナーへ向かった。そこには、地域の昔の暮らしを紹介する小さな展示があり、古い道具の写真や町の変化についての説明が並べられている。
彩花は展示の前で立ち止まり、一枚の写真へ目を向けた。
そこには、昔の商店街の一角が写っていた。店先には商品が並び、道を歩く人々の姿も見える。
「こういう写真、凛花が好きそう」
彩花が小さく笑うと、悠真は顔を向けた。
「妹さん?」
「うん。前に古い町の写真集を見てたとき、にぎやかな市場の写真が好きって言ってたの」
悠真はその話を聞き、少し微笑んだ。
「そうなんだ。人がたくさん写ってる写真が好きなのかな」
「たぶん。何を売ってるのかとか、どんな人が来てるのかとか、気になるみたい」
彩花はそう言って、展示の説明文を読んだ。
写真が撮られた年代と場所が記されているが、写っている人々の名前や、その日の出来事までは分からない。
それでも、店先に並んだ品物や、人々の服装から、当時の暮らしの一部が感じられる。
「悠真君、こういう写真を見ると、まず何が気になる?」
彩花が尋ねると、悠真は少し考えた。
「そうだな。撮影された場所と年代が分かってるなら、今の地図と比べてみたくなるかな。あと、建物の並び方も気になる」
「やっぱり、そこなんだね」
彩花は楽しそうに笑った。
「彩花さんは?」
「私は、店先にいる人たちが何を話してたのかなって考えちゃうかも。買い物に来た人とか、お店の人とか」
悠真はその言葉を聞き、写真へ目を向けた。
確かに、写真には人々の姿が写っている。
けれど、何を話していたのかは分からない。
その想像をすることも、写真を見る楽しみ方の一つなのだろう。
「彩花さんの見方、やっぱり面白いね」
悠真がそう言うと、彩花は少し照れくさそうに笑った。
「悠真君の見方も、私には新鮮だよ」
二人は展示を一つずつ眺め、気になったことを小さな声で話し合った。
同じ写真を見ていても、注目する場所は違う。
けれど、その違いが、二人の会話を自然に広げていた。
◇
午後二時五十分頃、悠真は腕時計を確認した。
「彩花さん、そろそろ三時になるね」
彩花も時計へ目を向け、頷いた。
「本当だ。なんだか、あっという間だったね」
「うん。思ってたより、いろんな本が見られたからかな」
二人は展示コーナーを離れ、入口の方へ向かった。
途中、彩花は今日選んだ本のことを思い出した。
古い家と庭について書かれた本。
植物の成長を写真で記録する本。
そして、昔の生活道具を紹介する本。
どれも、普段なら手に取らなかったかもしれない。
けれど、悠真と一緒に選んだからこそ、興味を持てたものもあった。
「悠真君、今日はありがとう」
彩花がそう言うと、悠真は少し驚いた顔になった。
「どうしたの?」
「ううん。なんだか、すごく楽しかったなって思って」
彩花は少し照れくさそうに笑った。
「本を選ぶのも、話すのも。悠真君と一緒だと、いつもよりいろんなことに気づける気がする」
悠真はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……俺も、楽しかったよ」
少しだけ間を置いてから、悠真は続けた。
「彩花さんと話してると、自分が気づかなかったところを見られるから。今日も、来てよかったって思ってる」
彩花はその返事を聞き、自然と笑顔になった。
「うん。私も」
二人は顔を見合わせ、静かに微笑んだ。
◇
図書館の外へ出ると、空には薄い雲が広がっていた。雨は降っておらず、午後の光が広場の石畳を柔らかく照らしている。
彩花は入口から少し離れた場所で立ち止まり、鞄の中のスマートフォンを取り出した。
「お母さんに、今から帰るって連絡するね」
「うん。俺も母さんに連絡する」
二人はそれぞれ家族へメッセージを送り、帰宅することを伝えた。
彩花が送信を終えると、悠真もスマートフォンを鞄へ戻した。
「今日はありがとう、彩花さん」
「こちらこそ。悠真君、ありがとう」
彩花は少しだけ名残惜しさを感じながら、悠真へ顔を向けた。
まだ話したいことはある。
けれど、今日は約束した時間を守って帰ることにしている。
そのことを、二人とも大切にしたかった。
「また、図書館で一緒に本を選べたらいいね」
彩花がそう言うと、悠真は嬉しそうに頷いた。
「うん。ぜひ。また気になる本が見つかったら、話そう」
彩花は微笑み、少し考えてから続けた。
「それと、写真集のことも。悠真君が同じ本を読める日、楽しみにしてるね」
「うん。所蔵先へ行ける日を、また考えてみるよ」
悠真はそう答えた。
まだ、同じ写真集を読む約束は果たされていない。
けれど、今日二人で選んだ本のことも、新しい約束として心に残っている。
彩花はそのことが嬉しかった。
「じゃあ、またね。悠真君」
「うん。またね、彩花さん。気をつけて帰ってね」
二人は小さく手を振り、それぞれの帰り道へ歩き出した。
彩花は少し進んだところで、ふと振り返った。
悠真も、ちょうど同じように振り返っていた。
目が合うと、二人は少し驚いたあと、自然と笑顔になった。
もう一度、小さく手を振る。
それだけで、彩花の胸の奥は温かくなった。
◇
水瀬家へ帰宅した彩花を、凛花が玄関で迎えた。
「お姉ちゃん、おかえり! 図書館どうだった?」
彩花は靴を脱ぎながら、微笑んだ。
「ただいま。すごく楽しかったよ」
「どんな本を見たの?」
「昔の家と庭の本とか、植物の観察記録の本とか。悠真君と、お互いに気になった本を一冊ずつ選んで紹介したんだ」
凛花は目を輝かせた。
「植物の本も見たの?」
「うん。悠真君が選んだんだけど、写真を撮って成長を記録する方法が書かれてたよ」
彩花はそう言って、今日聞いたことを妹へ説明した。
同じ植物でも、撮影する角度や距離が違うと、形が変わったように見えることがあること。
だから、できるだけ条件を揃えて写真を撮ると、後から比べやすくなること。
そして、変化が分からなかった日も、そのまま記録していいこと。
凛花は真剣な顔で話を聞き、少し考えた。
「それ、私の部屋の明るさを調べるときにも、ちょっと似てるかも」
彩花は頷いた。
「うん。毎日同じ時間に見てみると、違いが分かりやすいかもしれないね」
「じゃあ、明日からも続けてみる!」
凛花は嬉しそうに笑い、観察ノートを取りに自室へ向かった。
彩花はその後ろ姿を見送りながら、今日の図書館での時間を思い出した。
悠真が選んだ本の話を、今度は自分が凛花へ伝えている。
そうして、誰かから教えてもらったことが、また別の誰かへつながっていく。
彩花はそのことが、なんだか嬉しかった。
◇
夕食後、彩花は自室で星模様の創作ノートを開いた。
今日の図書館では、昔の家と庭について書かれた本を読み、暮らしの中にある道具や植物の写真を見た。
その中で、祖母へ手紙を書く少女の物語について、少し考えが変わったことがあった。
少女が祖母へ伝えたいのは、特別な出来事だけではない。
毎朝見ている蕾のこと。
庭の光のこと。
道具の柄に残る傷のこと。
そうした何気ないものが、少女にとっては大切な記憶につながっている。
彩花はノートを開き、昨日書いた設定案を読み返した。
祖母は現在、離れた町で暮らしている。
少女は最近、直接会えていない。
手紙を書くのは久しぶり。
その設定を採用するかどうか、まだ迷っていた。
けれど、今日の図書館で見た古い家と庭の写真を思い出すと、少女が今の暮らしを祖母へ伝えたいと思う理由が、少し自然に感じられた。
(遠くにいても、同じように庭のことを話せるなら……それって、いいな)
彩花はペンを取り、設定案の横へ小さく書き加えた。
『祖母は離れた町で暮らしている設定を採用する方向で検討。少女が今の庭の様子を伝えることで、離れていてもつながっていることを描く。手紙を出す場面まで進めるかは、前後の流れを確認して決める。』
書き終えたあと、彩花は少しだけ微笑んだ。
物語はまだ完成していない。
けれど、今日見た本や、悠真と話したことが、新しい考えにつながっている。
彩花はそのことを嬉しく思いながら、ノートを閉じた。
◇
九条家へ帰宅した悠真は、夕食後に自室で今日の出来事を振り返っていた。
机の上には、古い駅前写真の比較表と、青凪市中央図書館で確認した本のメモが置かれている。
今日、彩花と一緒に選んだのは、植物の成長を写真で記録する方法について書かれた本だった。
そこには、撮影する角度や距離を揃えること、天候や時間を記録すること、変化が分からなかった日もそのまま残すことが大切だと書かれていた。
悠真はその内容を思い出しながら、駅前写真の調査メモへ目を向けた。
古い写真の撮影地点を調べることと、植物の成長を記録することは違う。
けれど、分からないことを無理に決めつけず、確かめられる情報を残すという点では、似ている部分がある。
悠真は比較表の余白へ、新しいメモを書き加えた。
『写真の見た目が似ているだけで、同じ場所と判断しない。撮影位置、年代、建物の変化を確認する。』
書き終えたあと、悠真は少しだけ微笑んだ。
今日、彩花と話したことが、自分の調査にもつながっている。
そして、彩花が選んだ昔の家と庭の本も、印象に残っていた。
彼女は建物の形だけではなく、そこに暮らしていた人々の時間を考えていた。
自分とは違う見方だったが、その話を聞くことで、古い写真を見る楽しみ方が少し広がった気がした。
悠真は机の上の淡い青色の花模様のカードへ目を向けた。
彩花から贈られた、大切なカード。
そこには、悠真と話す時間が好きだという言葉が書かれている。
今日、二人で過ごした時間を思い出すと、その言葉が以前よりも身近に感じられた。
悠真は静かに微笑み、スマートフォンを手に取った。
◇
夜、彩花が葉模様の日記帳を開こうとしていると、悠真からメッセージが届いた。
『彩花さん、今日はありがとう。すごく楽しかったよ』
彩花はその文章を読み、自然と笑顔になった。
『こちらこそ、ありがとう。私もすごく楽しかった!』
少しして、悠真から返事が届いた。
『今日選んだ本、また今度ゆっくり読んでみたいな』
彩花は頷きながら返信した。
『うん。私も、昔の家と庭の本をもう少し読んでみたいと思ったよ』
悠真はその返事を読み、少し考えた。
『また一緒に図書館へ行けたら、そのときも気になる本を紹介し合おうか』
彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
『うん。ぜひ! また一緒に行きたいな』
悠真から、すぐに返事が届いた。
『ありがとう。俺も楽しみにしてる』
彩花はその言葉を読み、少しだけ頬を赤くした。
今日会ったばかりなのに、もう次の約束が楽しみになっている。
それが少し不思議で、けれど嬉しかった。
彩花はスマートフォンを机へ置き、日記帳を開いた。
今日の出来事を書き留めようとして、まず図書館での時間を思い出した。
午後一時より少し早く会えたこと。
お互いに普段あまり見ない棚から本を選んだこと。
悠真が植物の観察記録の本を選んでくれたこと。
そして、同じ写真を見ても、二人が注目する場所は違うのだと気づいたこと。
彩花はペンを持ち、ゆっくりと書き始めた。
『土曜日。悠真君と青凪市中央図書館で会った。お互いに気になった本を一冊ずつ選んで紹介し合った。私は昔の家と庭の本、悠真君は植物の観察記録の本を選んだ。自分ではあまり見ない棚にも、面白い本があることを知った』
彩花は少し考え、続きを書いた。
『悠真君は、私が写真を見るときに、そこに暮らしていた人の時間を考えるところが私らしいと言ってくれた。自分ではあまり意識していなかったから、少し驚いた。でも、嬉しかった』
書き終えたあと、彩花は少しだけ微笑んだ。
そして、最後に一文を書き加えた。
『また一緒に図書館へ行きたい。今日みたいに、同じ本を見ながら、違うところに気づいたことを話せたら嬉しい』
彩花はその文章を読み返し、静かに日記帳を閉じた。
今日、悠真と会えた。
それだけでも嬉しかったが、二人で新しい本を選び、互いの見方を知ることができた。
その時間は、彩花にとって大切な思い出になっていた。
窓の外では、夜の風が庭木の葉を揺らしている。
彩花は机の明かりを落とし、ベッドへ向かった。
今日の図書館での時間を思い出しながら、静かに目を閉じた。
土曜日の夜は、穏やかに更けていった。




