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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第163話 木曜日の小さな決断と、待ち合わせのその先へ


 木曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ますと、窓の向こうには薄い雲が広がっていた。昨日のような明るい青空ではなかったが、雨が降る気配はなく、庭の木々は穏やかな風に揺れている。彩花はカーテンを開けてから机の上のカレンダーへ目を向け、土曜日の欄に書き込んだ予定を確かめた。


 午後一時、青凪市中央図書館の入口付近で悠真と待ち合わせる。約束したときにはまだ少し先のことに感じられたが、気づけば明日が金曜日で、その翌日には会えることになっていた。彩花はカレンダーの文字を眺めながら、昨夜のメッセージを思い出した。


(悠真君、写真集のこともちゃんと調べてくれてるんだよね。でも、土曜日はそれとは別に、一緒に本を選べるんだ)


 古い町の写真集については、書誌情報の一致する本を所蔵している図書館が見つかり、館内で閲覧できることまで確認された。ただし、青凪市中央図書館へ取り寄せることはできず、悠真が実際に読みに行く日も決まっていない。それでも、二人で同じ本を読み、それぞれ好きな一枚を選ぶという約束は、少しずつ実現へ近づいていた。


 彩花は制服に着替え、机の上に並んだ二冊のノートを見つめた。星模様の創作ノートには、祖母へ手紙を書く少女の物語が途中まで書かれている。一方、葉模様の日記帳には、悠真との約束や学校で感じたことが、自分だけの言葉で残されていた。


 どちらも大切なものだが、書く目的は違う。彩花は創作ノートだけを鞄へ入れ、日記帳は引き出しへ戻した。今日は文芸部の活動があり、昨日考えた物語の続きを、時間があれば書き進めたいと思っていた。


     ◇


 朝食の席では、妹の凛花が父の耕助へ窓際の棚について相談していた。凛花は土曜日に園芸店を訪れてから、自分の部屋で植物を育てるための置き場所を調べ続けているが、まだ植物の種類も購入するかどうかも決めていない。昨日は窓を開けたときの風の当たり方を確認し、棚の端に鉢を置くのは避けた方がよさそうだと考えたらしい。


「お父さん、棚の真ん中なら大丈夫だと思うんだけど、ちょっと揺れる気がするんだよね」


 凛花は食卓の上で両手を使い、棚の幅を説明した。耕助は話を聞き終えると、すぐに結論を出すのではなく、実際に棚を見てから判断しようと答えた。


「鉢の重さにもよるからな。今の段階でそこに置くと決めなくてもいいだろう。帰ってから棚を確認して、必要なら別の場所も考えよう」


「うん。じゃあ、今日は帰ってきたら一緒に見てくれる?」


「仕事から戻ってからでよければな」


 凛花は嬉しそうに頷き、ノートへ小さく予定を書き加えた。彩花はその様子を見ながら、妹が以前よりも物事を順序立てて考えるようになったことに気づいた。かわいい植物を見つけたからすぐに買うのではなく、育て続けられる環境を先に整えようとしている。


 朝食が終わりかけた頃、彩花は土曜日の予定について母の紗月へ改めて話すことにした。待ち合わせの時間と場所はすでに決まっているが、帰宅する時間については、まだ具体的に相談していなかったからだ。


「お母さん、土曜日の図書館のことなんだけど、午後一時に待ち合わせすることになったの」


 紗月は食器を片づける手を止め、彩花へ目を向けた。


「青凪市中央図書館だったわね。帰りは何時頃になりそう?」


「まだ、そこまでは決めてないんだ。本を見たり、少し話したりするつもりなんだけど……」


 彩花は答えながら、自分が待ち合わせのことばかり考えていたと気づいた。図書館へ行く時間だけではなく、帰宅までの予定を考えておくことも大切だった。


 紗月は少し考え、穏やかな声で言った。


「遅くならないように考えてくれればいいわ。帰る時間の目安が決まったら教えてね。それから、予定が変わるときは連絡すること」


「うん。今日、悠真君にも聞いてみる」


 彩花がそう答えると、紗月は微笑んだ。


「楽しみにしているのね」


「……うん」


 彩花は少し照れくさくなったが、否定する気にはならなかった。悠真と会うことを楽しみにしているのは本当で、その気持ちを隠す必要もないと思ったからだ。


     ◇


 登校途中、彩花はいつもの蕾がある場所へ目を向けた。昨日は晴れた空の下で写真を撮り、先端が少し丸く見えることを記録しているが、それが成長による変化なのかはまだ確かめられていない。今日は薄曇りのため、昨日とは光の当たり方が違っていた。


 彩花は歩道の端へ寄り、周囲の通行を妨げないことを確かめてから、蕾を観察した。表面には雨粒がなく、茎もしっかりしているように見える。花はまだ開いていなかったが、昨日よりも先端の形が分かりやすく感じられた。


(昨日と今日だけじゃ、まだはっきりしないかな。でも、写真を並べて見れば、少しずつ分かることがあるかもしれない)


 彩花は以前の写真に近い角度から撮影し、記録へ日付と天候を書き加えた。蕾の形については断定せず、同じ位置から撮った写真を後日比較することにする。


 観察を終えて歩き出すと、少し先の道で小学生くらいの子どもが落ち葉を拾っていた。付き添っている大人へ何かを見せ、楽しそうに笑っている。その光景を見た彩花は、祖母と庭にいた少女の物語を思い出した。


 幼い頃には何でもないと思っていた時間が、あとになって大切な記憶になることがある。彩花はそのことを考えながら、学校へ向かう足を少しだけ速めた。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真が朝のホームルーム前に森川航平と顔を合わせていた。昨日、二人は古い駅前写真の撮影地点を調べるため、施設の沿革と写真資料を別々に探すことにしている。悠真は図書室の先生から、地域広報誌や施設の記念誌にも昔の建物の写真が掲載されている場合があると教わっていた。


「九条、昨日言ってた広報誌の件なんだけど、ちょっと調べ方を考えてみた」


 航平は鞄からメモ帳を取り出し、施設の名称が確認できた二つの案内資料について説明した。そこには異なる年代の発行年が記されているが、建物が同じ位置にあったことまでは証明できない。


「施設の名前で探すだけだと、同じ名前の別の建物まで出てくるかもしれないだろ。だから、住所とか、当時の周辺施設も一緒に確認した方がいいと思うんだ」


 悠真はその提案を聞き、頷いた。


「そうだね。施設名だけで同じ場所だと判断するのは危ないと思う。周囲の道路や建物も一緒に確認できれば、写真と比べやすくなるかもしれない」


 航平は少し得意そうに笑い、メモ帳の一角を指した。


「それでさ、古い案内図の説明に、施設が移転したっていう記述がないか探してみようと思ってる。移転してたら、同じ名前でも位置が違う可能性があるから」


 悠真はその言葉を聞き、思わず顔を上げた。これまで二人は、同じ施設名が複数の資料に出てくることを進展として受け止めていたが、その施設が移転していた場合、位置関係を比べる前提が変わってしまう。


「それは大事だね。移転の有無を確かめないと、候補を絞る材料として使えないかもしれない」


「だろ? まあ、調べても分からない可能性はあるけどな」


 航平はそう言って笑ったが、悠真はその慎重さを好ましく思った。何かを見つけたからといって、すぐに結論へ結びつけるのではなく、別の可能性も考えている。


 二人は授業が始まる前に、今日の調査で確認する内容を整理した。航平は施設の移転や建て替えの記録を探し、悠真は広報誌や記念誌の中から、建物の外観が分かる資料を探すことにする。


     ◇


 昼休み、悠真は航平と一緒に校内の資料検索を進めていた。授業の合間に調べられる範囲は限られているため、まずは図書室にどのような資料があるか確認し、必要なら職員へ相談するつもりだった。


 悠真が目録を見ていると、航平が小さく声を上げた。


「九条、これ、ちょっと気になる」


 航平が見つけたのは、昔の地域施設についてまとめられた資料の書誌情報だった。内容の詳細は分からないものの、調べている施設と同じ名称が目次に掲載されている。


「まだ中身は見てないんだけど、沿革が載ってる可能性はあると思う」


 悠真は画面を確認し、資料名と発行年をメモした。


「うん。実際に読んでみたいね。図書室にあるか確認しよう」


 二人は所蔵状況を調べたが、その資料は校内には置かれていなかった。ただし、地域の公共図書館で閲覧できる可能性があることが分かった。


 航平は少し残念そうな顔をした。


「学校にないのか。今日すぐ確認できると思ったんだけどな」


「でも、探す資料は具体的になったよ。今度、図書館へ行くときに確認できるかもしれない」


 悠真がそう答えると、航平は頷いた。


「そうだな。とりあえず、資料名は残しておこう」


 二人は比較表へ新しい項目を加え、確認できた事実と未確認の部分を分けて記録した。施設が移転したかどうかは、まだ分からない。古い駅前写真の撮影地点も、二つの候補から変わっていなかった。


 それでも、次に調べるべき資料が一つ具体的になったことは、無駄ではない。


     ◇


 放課後、彩花が文芸部の部室へ入ると、佐々木先輩が机の上に原稿を並べていた。冬部誌『いつか、ここに』に掲載する作品について、昨日は内容面の確認が一段落し、誤字や表記の統一を進めている。修整内容は作者本人に確認済みで、先生の最終承認を待っている状態だった。


「こんにちは、佐々木先輩」


「こんにちは、水瀬さん。ちょうど今、先生へ提出する原稿をまとめていたところよ」


 彩花は鞄を置き、机の上へ目を向けた。


「昨日確認した修整も、全部反映されていますか?」


「ええ。変更履歴と照らし合わせて、反映漏れがないことも確かめたわ。ただ、提出前にもう一度、作者本人にも見てもらうつもりなの」


 佐々木先輩はそう言って、原稿の束を丁寧に揃えた。彩花はその様子を見ながら、最終確認の意味を改めて考えていた。


 これまで何度も読み返してきた文章だからこそ、慣れてしまって見落とす部分もあるかもしれない。内容を理解していることと、掲載する原稿に間違いがないことは、同じではないのだ。


 しばらくして作者の部員が到着し、三人で最終原稿を確認した。昨日までに見つかった表記の違いは修整されており、会話文の句読点も統一されている。作者は一つずつ確認し、最後の一文まで読み終えたところで、小さく息を吐いた。


「……これで、先生に見ていただきたいです」


 その言葉を聞き、佐々木先輩は頷いた。


「分かったわ。じゃあ、この版を提出用として記録しておくわね」


 彩花は変更履歴へ日付と確認結果を書き加えた。最終承認はまだ下りていないが、作者本人が納得した原稿を提出する準備が整ったことは、確かな区切りだった。


 その後、佐々木先輩が先生のところへ原稿を持っていく間、彩花は部室に残って資料を整理していた。作者の部員は少し落ち着かない様子で椅子へ座り、机の上の筆記用具を並べ直している。


「緊張しますね」


 部員が小さく笑うと、彩花も頷いた。


「そうですね。でも、ここまで何度も確認してきましたし、きっと大丈夫だと思います」


「ありがとうございます。水瀬さんたちに読んでもらって、最初よりずっと書きたかったことがはっきりした気がします」


 彩花はその言葉を聞き、嬉しくなった。


「私も、読ませてもらって勉強になりました。作者の人が何を大切にしたいのか聞くことって、本当に大事なんですね」


 部員は少し照れくさそうに笑い、原稿のあった場所へ目を向けた。


「最初は、自分でもうまく説明できなかったんです。でも、質問してもらったから、何を残したかったのか考えられました」


 彩花はその言葉を胸に留めた。文章を読むことは、間違いを見つけるだけではない。書いた人が何を伝えたいのか、一緒に考えることでもあるのだ。


     ◇


 しばらくして、佐々木先輩が部室へ戻ってきた。


「先生に提出してきたわ。最終確認は明日以降になるそうよ」


 作者の部員は頷き、少し安心したように笑った。


「ありがとうございます。あとは返事を待ちます」


 佐々木先輩は原稿の管理記録を確認し、提出した版を間違えないように整理した。彩花もその作業を手伝いながら、今日の成果を振り返る。


 昨日までは、内容面の確認が終わり、表記を整えている段階だった。今日は作者本人が最終原稿を確認し、先生へ提出するところまで進んだ。承認の有無はまだ分からないが、少なくとも次の判断を待てる状態になっている。


 活動が終わりかけた頃、佐々木先輩が彩花へ声をかけた。


「水瀬さん、自分の作品の方はどう? 昨日、少し進んだって言っていたでしょう」


 彩花は星模様の創作ノートへ目を向けた。


「はい。祖母へ手紙を書く少女の話なんですけど、昨日、少女が何を伝えたいのか少しはっきりしたんです」


「そう。それは大きな進展ね」


「でも、まだ最後まで書けてなくて……」


 彩花が少し困ったように笑うと、佐々木先輩は穏やかに首を振った。


「急いで終わらせなくてもいいと思うわ。ただ、何を伝えたいのか分かったなら、その気持ちを持った少女が次に何をするのか、考えてみるといいかもしれないわね」


 彩花はその言葉を聞き、少し考えた。


 少女は、祖母の言葉を思い出せない。


 けれど、覚えている時間がある。


 そして、今見つけたことを手紙に書こうと決めた。


 ならば、次に必要なのは、実際に手紙を書くことなのかもしれない。


「……そうですね。少女が決めたことを、ちゃんと行動に移すところまで書いてみたいです」


 彩花が答えると、佐々木先輩は微笑んだ。


「ええ。きっと、物語が動き始めると思うわ」


 彩花はその言葉を胸に、部室をあとにした。


     ◇


 帰宅した彩花は、夕食までの時間を使って創作ノートを開いた。昨日書いた文章には、祖母の言葉を思い出せない少女が、今見つけたことを手紙に書こうと決める場面がある。彩花はその続きを考えながら、しばらくペンを止めていた。


 少女が何を書くのか。


 それを考えると、どうしても庭の花のことが思い浮かぶ。


 毎朝、蕾を眺めている少女。


 まだ咲いていない花を、祖母へ伝えようとしている。


 彩花は自分が観察している蕾の写真を思い出した。昨日と今日で形が少し違って見えても、それが本当に成長したのかは分からない。だからこそ、今の姿をそのまま伝えることに意味があるのかもしれない。


(咲いたことを書くんじゃなくて、まだ咲いていない花を見ていることを書くんだ。それなら、今の少女にしか書けない手紙になる気がする)


 彩花はペンを取り、続きを書き始めた。


『私は机に向かい、便箋の一番上に、おばあちゃんへ、と書きました。何から伝えればいいのか迷いましたが、今朝見た庭の花のことを思い出して、少しずつ言葉を並べていきました。まだ花は咲いていません。けれど、昨日よりも蕾が少し丸く見えたことや、朝の光が葉に当たっていたことを、私はおばあちゃんに伝えたくなったのです。』


 彩花は書き終えた文章を読み返し、少し考えた。


 ここまでなら、少女が実際に見たことを手紙に書いている。


 祖母が何を言ってくれたのか、無理に思い出す必要もない。


 ただし、物語の中で少女が手紙を書き始めた理由を、もう少し自然に伝えたいと思った。


 彩花は前の段落へ戻り、祖母との記憶から今の行動へつながる部分を読み直した。少女が過去の答えを探すのをやめたからこそ、今の景色を伝えようとしている。その変化が読み手にも分かるように、文章の順序を少し整える。


 しばらく作業を続けたあと、彩花は新しい段落を加えた。


『思い出せない言葉を探している間、私は何度も同じところで手を止めていました。でも、今朝の庭のことなら、私にも書けます。おばあちゃんが見ていた庭とは少し違っているかもしれませんが、今の私が見つけたものを、一つずつ伝えてみようと思いました。』


 彩花はペンを置き、ゆっくりと息を吐いた。


 少女は、ただ思い出を振り返るだけではなくなった。


 自分の意思で手紙を書き始めている。


 まだ物語は完成していないが、以前よりも明確に前へ進んだと感じられた。


 彩花は文章の横へ「本文候補・流れを再確認」と書き込み、創作ノートを閉じた。


     ◇


 夕食後、凛花が彩花の部屋へやってきた。手には例の観察ノートがあり、少し嬉しそうな顔をしている。


「お姉ちゃん、棚のこと、お父さんと見てきたよ」


 彩花は机から顔を上げ、妹を迎えた。


「どうだった?」


「やっぱり、棚の端に置くのはやめた方がいいって。少し揺れるし、窓を開けたときに手が当たるかもしれないから」


 凛花はノートを開き、父と確認した内容を見せた。窓際の棚は明るさの面では魅力的だが、鉢の置き場所としては注意が必要だという結論になったらしい。


「じゃあ、別の場所を探すの?」


「うん。机の近くの低い台なら、倒れにくいかもしれないって。でも、そこは窓際より暗いから、植物の種類によっては合わないかもしれないんだ」


 彩花は頷いた。


「それなら、次にお店へ行くとき、部屋の明るさを説明して相談してみるといいね」


「そうする。今日はね、買う前に決めておいた方がいいことが、ちょっと分かった気がする」


 凛花はそう言って笑った。


 彩花も微笑み、妹のノートへ目を向けた。そこには、窓際の棚を第一候補から外し、低い台を新しい候補として調べることが書かれている。


 植物はまだ買っていない。


 けれど、置き場所の候補が一つ整理されたことで、次に何を相談すればいいのかが明確になっていた。


「凛花、ちゃんと考えてて偉いね」


 彩花がそう言うと、凛花は少し照れくさそうに笑った。


「だって、買ったあとに困るのは嫌だもん。ちゃんと育てたいし」


 その言葉を聞き、彩花は妹の成長を感じた。


 凛花はノートを閉じ、明日も部屋の明るさを確認すると言って自室へ戻っていった。


     ◇


 九条家では、悠真が夕食後に母の麗華と土曜日の予定について話していた。青凪市中央図書館で彩花と午後一時に待ち合わせることは伝えているが、帰宅時間の目安までは決めていなかった。


「母さん、土曜日のことなんだけど、図書館には午後一時に行く予定なんだ。帰りは遅くならないようにしたいと思ってる」


 麗華は頷き、悠真へ目を向けた。


「そうね。帰る時間の目安は、彩花さんとも相談して決めるといいわ」


「うん。今日、聞いてみるつもり」


「それから、天気が悪いときは無理をしないことね。金曜日に確認するって言っていたでしょう?」


 悠真は少し驚き、母の顔を見た。


「覚えてたんだ」


「もちろん。楽しみにしている予定なんでしょう?」


 麗華が微笑むと、悠真は少しだけ頬を赤くした。


「……うん。楽しみにしてる」


 その返事を聞いた麗華は、穏やかな表情で頷いた。


 悠真はそのあと、自室へ戻ってスマートフォンを手に取った。


     ◇


 夜、彩花が机の上を片づけていると、悠真からメッセージが届いた。


『彩花さん、こんばんは。今日は文芸部だったよね。お疲れさま』


 彩花は画面を見つめ、自然と微笑んだ。


『こんばんは、悠真君。ありがとう。悠真君も今日一日お疲れさま』


 少しして、悠真から返事が届いた。


『今日はどうだった?』


 彩花は少し考え、今日の文芸部での出来事を伝えた。冬部誌の原稿について、作者本人が最終確認を終え、先生へ提出するところまで進んだこと。ただし、先生の正式な承認はまだ下りていないことも、忘れずに書き添えた。


 悠真はその返事を読み、嬉しくなった。


『それはよかったね。ずっと確認してきた原稿が、ちゃんと提出できるところまで進んだんだ』


 彩花は頷きながら返信した。


『うん。作者の人も少し安心してたよ。あとは先生の確認を待つことになったんだ』


 悠真はその文章を読み、少し考えた。


 彩花が文芸部で何度も原稿を読み返し、作者の意図を大切にしながら修整を進めてきたことを、これまでのやり取りで知っている。今日の報告は、その積み重ねが一つの形になったことを示していた。


『彩花さんも、ずっと丁寧に読んでたもんね。お疲れさま』


 その言葉を見た彩花は、少し照れくさくなった。


『ありがとう。悠真君にそう言ってもらえると嬉しいな』


 送信したあと、彩花はスマートフォンを机へ置き、少しだけ頬を押さえた。自分の頑張りを覚えてくれていることが、思っていた以上に嬉しかった。


     ◇


 しばらくして、悠真は土曜日の帰宅時間について相談することにした。


『彩花さん、土曜日のことなんだけど、帰る時間の目安も決めておこうと思ってるんだ。彩花さんは、何時頃までなら大丈夫そう?』


 彩花はその文章を読み、朝に母と話したことを思い出した。


『お母さんには、遅くならないようにして、帰る時間の目安が決まったら教えてねって言われたよ』


 悠真は少し考え、返信した。


『俺も母さんに同じようなことを言われたんだ。図書館で二時間くらい過ごして、午後三時頃に出るのはどうかな?』


 彩花はその提案を読み、少し考えた。


 午後一時に待ち合わせて、午後三時頃に図書館を出る。


 二時間あれば、本を選んだり、少し話したりする時間は十分にありそうだった。帰宅する時間も、普段の休日の外出として無理のない範囲に収まりそうだ。


『うん、いいと思う。午後三時頃に図書館を出るなら、帰りも遅くならなさそう』


 悠真から、すぐに返事が届いた。


『じゃあ、いったんその予定にしよう。金曜日に天気と一緒に最終確認しようね』


 彩花はその文章を読み、微笑んだ。


『うん。お母さんにも伝えておくね』


 こうして、土曜日の予定は少し具体的になった。


 午後一時に青凪市中央図書館の入口付近で待ち合わせ、午後三時頃を目安に図書館を出る。天気や互いの都合については、金曜日に改めて確認する。


 まだ当日の細かな過ごし方までは決めていないが、無理のない範囲で会える予定になったことが、彩花には嬉しかった。


     ◇


 そのあと、彩花は今日の創作ノートについても少しだけ話した。


『そういえば、今日は自分の物語も少し進んだんだ』


 悠真はその文章を読み、思わず姿勢を正した。


『本当? よかったね。どんなところが進んだの?』


 彩花は少し考えた。


 物語の詳しい内容を全部話すつもりはない。


 完成したら最初に読んでもらうという約束があるからこそ、今は少しだけ伝えたいと思った。


『主人公の女の子が、ずっと迷ってたことについて、自分で一つ決めたんだ。それで、実際に行動するところまで書けたよ』


 悠真はその返事を読み、静かに微笑んだ。


 彩花の物語には、大切な人へ手紙を書く少女が登場することを知っている。けれど、具体的な場面や文章までは、まだ読んでいない。


『それは大きな進展だね。彩花さんが大切にしてる物語が、少しずつ形になってるんだ』


 彩花はその言葉を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


『うん。まだ完成には遠いけど、前よりも書きたいことがはっきりしてきた気がする』


 悠真は少し考え、返信した。


『完成するのを楽しみにしてる。でも、急がなくていいからね。彩花さんが納得できる形になるのを待ってるよ』


 彩花はその文章を読み、しばらく画面を見つめていた。


 悠真は、完成を楽しみにしてくれている。


 けれど、急いでほしいとは言わない。


 自分が大切にしたいものを、ちゃんと大切にしてくれる。


 そのことが、彩花には嬉しかった。


『ありがとう、悠真君。完成したら、約束どおり最初に読んでね』


 悠真から、すぐに返事が届いた。


『もちろん。楽しみにしてるよ』


     ◇


 メッセージのやり取りを終えたあと、彩花は葉模様の日記帳を開いた。今日の出来事を書き留めようとして、まず文芸部でのことを思い出した。


 冬部誌の原稿は、作者本人の最終確認を終え、先生へ提出するところまで進んだ。まだ承認は下りていないが、これまで積み重ねてきた修整が、一つの区切りを迎えたことは確かだった。


 彩花はペンを持ち、ゆっくりと書き始めた。


『木曜日。文芸部で、冬部誌の原稿を先生へ提出した。作者の人が納得できる形になってよかった。まだ最終承認はこれからだけれど、ここまで進められたことが嬉しい』


 彩花は少し考え、続きを書いた。


『自分の物語も少し進んだ。少女が迷っていたことについて、自分で決めて、実際に手紙を書き始めるところまで書けた。まだ完成ではないけれど、前よりも物語が動いた気がする』


 そして、最後に土曜日のことを書き加えた。


『悠真君と、土曜日の帰る時間の目安も決めた。午後一時に中央図書館で待ち合わせて、午後三時頃に図書館を出る予定。明日、天気と予定をもう一度確認する。会える日が近づいてきて、楽しみ』


 彩花は書き終えた文章を読み返し、静かに微笑んだ。


 今日も、特別に大きな事件があったわけではない。


 けれど、文芸部の原稿は提出まで進み、自分の物語では少女が新しい行動を始めた。凛花も植物を置く場所について一つ判断し、悠真との土曜日の予定も具体的になった。


 彩花はその一つ一つを思い返しながら、日記帳を閉じた。


     ◇


 九条家の自室で、悠真も今日の出来事を整理していた。


 古い駅前写真の調査では、航平が施設の移転や建て替えの記録を調べる方針を立て、自分も広報誌や記念誌を探すことにしている。撮影地点はまだ確定していないが、何を確認すればいいのかは以前より明確になっていた。


 机の上には、淡い青色の花模様のカードが置かれている。


 悠真はそのカードへ目を向け、彩花とのやり取りを思い出した。


 土曜日の待ち合わせは、午後一時。


 場所は青凪市中央図書館の入口付近。


 そして、午後三時頃に図書館を出る予定になった。


 明日、天気と互いの予定を最終確認することになっている。


 悠真はカレンダーへその内容を書き加え、少しだけ微笑んだ。


 写真集の所蔵先へ行く日は、まだ決まっていない。


 同じ本を読んで好きな一枚を選ぶ約束も、まだ果たされていない。


 けれど、土曜日には彩花と会える。


 それだけで、悠真には十分に楽しみな予定だった。


 窓の外では、夜風が庭木の葉を静かに揺らしている。廊下の向こうからは、ハクが寝返りを打つような小さな物音が聞こえた。


 悠真は机の明かりを落とし、ベッドへ向かった。


 明日は金曜日。


 彩花と約束した、土曜日の最終確認をする日だ。


 悠真はそのことを思いながら、穏やかに目を閉じた。


 木曜日の夜は、静かに更けていった。

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