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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第161話 火曜日の届いた知らせと、君に話したい新しい発見



 火曜日の朝、水瀬彩花は目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。窓の外では細かな雨が降っており、隣家の屋根から落ちる雫が、静かな朝に規則正しい音を響かせている。


 昨夜は悠真と、次の土曜日に会う約束をした。午後一時に青凪市中央図書館の入口付近で待ち合わせることになり、その予定は机の上の小さなカレンダーにも書き込んである。


 彩花は布団から起き上がり、カレンダーへ目を向けた。


(あと四日。まだ少し先だけど、今から楽しみだな)


 そう思ったところで、彩花は自分の頬が緩んでいることに気づいた。特別な出来事があったわけでもない朝なのに、土曜日の約束を思い出すだけで、いつもより気持ちが軽くなる。


 机の上には、青葉高校の図書室から借りた古い町の写真集が置かれていた。悠真は同じ本を探しているが、青凪市中央図書館では所蔵が確認できず、現在は職員にほかの所蔵先を調べてもらっている。


 彩花が選んだ一枚は、庭先で植木鉢を見つめる女性の写真だった。


 まだ悠真には教えていない。


 同じ本をそれぞれ読んでから、好きな写真を一枚ずつ選ぶ。その約束を大切にしたいと思っているからだ。


 彩花は写真集の表紙をそっと撫でたあと、制服へ着替え始めた。


 階下へ降りると、母の紗月が朝食の準備をしていた。父の耕助は食卓で新聞を読み、妹の凛花は窓の外を眺めながら、少し困ったような顔をしている。


「おはよう、凛花。どうしたの?」


「おはよう、お姉ちゃん。今日、雨でしょう? 部屋の明るさを調べようと思ってたんだけど、昨日と全然違うんだよね」


 凛花は土曜日に園芸店で見た植物を、自分の部屋で育てたいと考えている。ただし、まだ種類も購入するかどうかも決めておらず、置き場所の日当たりや風通しを確認している途中だった。


 彩花は妹の隣へ座り、窓の外へ目を向けた。


「晴れの日と雨の日じゃ、かなり違うね。でも、それも調べておいた方がいいんじゃない?」


「うん。昨日は曇りだったし、今日は雨だから、比べるにはちょうどいいのかも」


 凛花は少し考えたあと、ノートを開いた。


 そこには、土曜日から続けている部屋の明るさの記録が書かれていた。窓際の棚は午前中に明るくなりやすいが、机の隅は思ったより暗いことも、すでに確認できている。


「今日も帰ってきたら、同じ場所を見てみる。写真も撮っておこうかな」


「いいと思う。でも、学校から帰ってきた時間だけだと、朝の様子とは違うかもしれないよ」


 彩花がそう言うと、凛花は少し驚いた顔をした。


「そっか。じゃあ、今のうちに一枚撮っておく!」


 凛花は急いでスマートフォンを取りに行こうとしたが、紗月に朝食ができたと呼ばれ、慌てて足を止めた。


「写真は逃げないわよ。まず朝ご飯を食べましょう」


 紗月の言葉に、凛花は照れくさそうに笑った。


 彩花も思わず笑みをこぼしながら、席へ着いた。


 妹が植物を育てたいと思ったことから始まった小さな調べ物は、少しずつ家族の日常へ入り込んでいた。まだ鉢植えは一つも増えていないが、窓から入る光を気にするようになっただけでも、以前とは違う景色が見えているようだった。


     ◇


 登校する頃には、雨は朝より少し弱くなっていた。


 彩花は傘を差し、通学路を歩きながら、いつもの蕾がある場所へ目を向けた。昨日は曇り空の下で写真を撮り、先端の輪郭が少し変わって見えることを記録している。


 ただし、それが実際の成長によるものかどうかは、まだ確かめられていない。


 今日の蕾には、小さな雨粒がついていた。


 彩花は歩道の端で足を止め、通行人の邪魔にならないことを確認してから、少し離れた位置で眺めた。


(雨の日は、また違って見えるんだね。昨日と比べたいけど、今日は水滴がついてるから、輪郭も分かりにくいかな)


 彩花は写真を一枚撮り、スマートフォンを鞄へ戻した。


 蕾はまだ開いていない。


 けれど、毎日同じ場所を通っていても、天気や光によって見え方が変わることは分かってきた。


 彩花はその違いを、あとで観察メモへ書き留めるつもりだった。


 学校へ着くと、教室の窓には雨粒が残っていた。廊下には濡れた傘を持つ生徒たちが行き交い、教室の中では、天気の話をする声が聞こえている。


 彩花が席へ着くと、近くの友人が声をかけてきた。


「水瀬さん、おはよう。今日、思ったより寒いね」


「おはよう。うん、雨が降ってるからかな。昨日より少し冷える気がする」


「土曜日は晴れるといいね。せっかくのお休みだし」


 その言葉に、彩花は思わず顔を上げた。


 土曜日。


 悠真と会う約束をした日だ。


「……そうだね。晴れるといいな」


 彩花が答えると、友人は少し不思議そうに首を傾げた。


「水瀬さん、何か予定あるの?」


「うん。友達と図書館へ行く約束をしてるんだ」


「へえ、いいね。水瀬さんらしい休日って感じ」


 友人はそう言って笑い、授業の準備へ戻った。


 彩花も教科書を取り出したが、胸の奥には小さな照れくささが残っていた。


 友達と図書館へ行く。


 それは間違っていない。


 けれど、悠真と会うことを思い浮かべると、ただ本を読みに行く予定とは少し違う気持ちになる。


(悠真君は、今日も学校かな。雨、そっちも降ってるのかな)


 彩花はそんなことを考えたあと、気持ちを切り替えて授業へ向かった。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真が昼休みに森川航平と資料を広げていた。


 昨日、二人は古い駅前写真の調査について、役割を分担した。


 航平は年代別の駅前案内図を探し、悠真は同じ場所が写っている別の写真を探すことになっている。どちらも、撮影地点の候補を絞るために必要な資料だった。


「九条、昨日の続きなんだけどさ」


 航平は机の上へ一枚のメモを置いた。


「昔の駅前案内図を探してたら、年代が違うものが二つ見つかったんだ。ただ、片方は駅前の建物の名前が一部しか載ってなくて、もう片方は道路の形が簡略化されてる」


 悠真はメモへ目を落とした。


 航平が見つけた資料には、発行年と掲載されている情報が整理されていた。


 ただし、どちらも古い写真の撮影時期と完全に一致しているわけではない。


「ありがとう。二つ見つかったんだね」


「うん。でも、これで場所が分かるかって言われると、まだ微妙なんだよな」


 航平は少し困ったように笑った。


「案内図って、分かりやすくするために道の形を変えて描くこともあるだろ? だから、写真と重ねて比べるのは難しそうなんだ」


 悠真は頷いた。


「そうだね。地図と案内図では目的が違うから、形が似ているだけで判断するのは危ないと思う」


 悠真は比較表を開き、航平が見つけた資料を確認した。


 道路の曲がり方が似ている候補。


 建物の並び方が似ている候補。


 そして、写真の端に写っている正体不明の物体。


 これまで、どちらの候補にも決定的な根拠はなかった。


 しかし、航平が見つけた案内図の一つには、これまで確認していなかった施設名が記載されていた。


「航平、この建物の名前って、前に見た資料にはなかったよね」


「ん? ああ、それ。俺も気になったんだ」


 航平はメモの一角を指した。


「案内図には名前があるんだけど、いつからそこにあったのか分からない。だから、古い写真の時代にも同じ場所にあったかどうかは不明なんだ」


 悠真はしばらく考えた。


 もし、その施設が写真の撮影時期にも存在していたなら、周囲の建物との位置関係を比べる手がかりになるかもしれない。


 ただし、現時点では施設名が分かっただけだ。


 それを撮影地点の証拠として扱うことはできない。


「じゃあ、この施設がいつ頃からあったのか調べてみようか。建物の位置が変わっていないかも確認したいね」


「そうだな。俺、案内図を探したときに、同じ施設名が載ってる別の資料も見かけた気がする」


 航平はそう言って、手元のメモを見直した。


 悠真は比較表へ、新しい確認事項を書き加えた。


 施設名が一つ判明した。


 けれど、撮影地点はまだ確定していない。


 その違いを、二人とも理解していた。


「九条、これで少し進んだって言っていいのかな」


 航平が尋ねると、悠真は少し考えてから微笑んだ。


「うん。少なくとも、次に何を確認すればいいかは具体的になったと思う」


 航平はその言葉を聞き、満足そうに頷いた。


「よし。じゃあ、俺は施設の年代を調べてみる。九条は写真の方、頼んだぞ」


「分かった。見つかったことがあったら共有するね」


 二人は資料を片づけ、午後の授業へ向かった。


     ◇


 放課後、彩花は文芸部の部室へ向かっていた。


 昨日、冬部誌『いつか、ここに』に掲載する作品の修整案を、作者本人と一緒に考え直した。


 最初の問題は、誰が部屋を出るのか分かりにくいことだった。


 金曜日には人物の動きを加える案を考えたが、その結果、今度は時間の流れが少し曖昧になっていた。


 昨日はその点を見直し、会話が始まる前の描写で人物の立ち位置を分かるようにする案を作った。


 ただし、先生の最終確認はまだ終わっていない。


 彩花が部室へ入ると、佐々木先輩が資料を整理していた。


「こんにちは、佐々木先輩」


「こんにちは、水瀬さん。ちょうどよかったわ。昨日の修整案について、先生から返事があったの」


 彩花は鞄を置き、先輩の方へ向き直った。


「どうでしたか?」


 佐々木先輩は資料を一枚取り出した。


「昨日の案で、人物の動きと時間の流れは分かりやすくなったそうよ。ただ、最後の一文について、作者本人にもう一度確認してほしいことがあるみたい」


 彩花は少し驚いた。


 最後の一文は、作者が大切にしている部分だった。


 だからこそ、できるだけ変更せずに残す方向で考えてきた。


「最後の一文ですか?」


「ええ。文章そのものが悪いというわけじゃないの。ただ、前の段落が明確になったことで、最後の一文の受け取り方が少し変わる可能性があるって」


 佐々木先輩は資料を彩花へ渡した。


 そこには、先生からの確認事項が短く記されていた。


 最後の一文を、誰の感情として読んでほしいのか。


 それとも、特定の人物の感情ではなく、場面全体の余韻として残したいのか。


 彩花はその文章を読み、少し考えた。


 これまで、最後の一文を守ることばかり考えていた。


 けれど、何を守りたいのかについては、まだ十分に確かめられていなかったのかもしれない。


(作者の人が大切にしてるのは、言葉そのものなのかな。それとも、その言葉で残したい雰囲気なのかな)


 彩花は資料を机へ置き、佐々木先輩へ目を向けた。


「これ、作者の人に聞いてみたいです」


「そうね。私も、その方がいいと思うわ」


 佐々木先輩は頷いた。


 しばらくして、作品を書いた部員が部室へ入ってきた。


 先輩は先生からの確認事項を説明し、作者本人の考えを尋ねた。


 部員は原稿を読み返し、しばらく黙っていた。


「……私、最後の一文は、誰か一人の気持ちとして書いたつもりじゃなかったんです」


 彩花は顔を上げた。


 部員は少し考えながら続けた。


「部屋を出ていく人も、残された人も、どちらも何かを言いたかったのに言えなかった、みたいな感じにしたくて。でも、それを説明しすぎると、最後の静かな感じがなくなっちゃう気がしたんです」


 彩花はその言葉を聞き、原稿へ目を落とした。


 なるほど、と感じた。


 作者が残したかったのは、特定の人物の感情ではなかった。


 二人の間に残った、言葉にならなかったもの。


 その余韻を大切にしたかったのだ。


「じゃあ、最後の一文は、どちらか一人の気持ちに決めない方がいいんですね」


 彩花が尋ねると、部員は頷いた。


「はい。そうしたいです」


 佐々木先輩は少し考え、資料へ目を向けた。


「それなら、昨日の修整案をもう一度読んでみましょう。今の文章で、その意図が伝わるかどうか確認したいわ」


 三人は原稿を最初から読み返した。


 会話が始まる前に人物の立ち位置が分かる。


 会話が終わり、一人が部屋を出る。


 そして、最後の一文が残る。


 彩花は読み終えたあと、少し考えた。


 昨日は、人物の動きが分かりやすくなったことに安心していた。


 けれど、今改めて読むと、最後の一文が残された人物だけの感情として読める可能性もある。


 それは、作者が望んでいたこととは少し違う。


「私、昨日はここまで気づけませんでした」


 彩花がそう言うと、佐々木先輩は穏やかに首を振った。


「昨日は、人物の動きと時間の流れを確認していたもの。今日、作者の意図が分かったから気づけたこともあると思うわ」


 部員も頷いた。


「私も、最初からちゃんと説明できてなかったので……」


 彩花は少し考えたあと、原稿の最後の二段落を見比べた。


 問題は、最後の一文そのものではなく、その直前の描写にあるのかもしれない。


 残された人物の表情や動作を詳しく書きすぎると、最後の一文がその人物の感情として読まれやすくなる。


 けれど、そこを完全に削ってしまうと、場面が急に途切れる可能性もある。


「最後の一文の前にある、この動作を少し変えてみるのはどうでしょうか」


 彩花は該当する箇所を指した。


「今のままだと、残された人の気持ちに読めるかもしれません。でも、部屋の様子を少しだけ描く形にしたら、二人の間に残ったものとして読める気がします」


 部員はその提案を聞き、しばらく考えた。


「……それ、いいかもしれません」


 佐々木先輩も頷いた。


「ただ、部屋の描写を増やしすぎると、今度は最後の一文が弱くなるかもしれないわね」


「はい。そこは気をつけたいです」


 部員はそう答え、原稿へ新しい案を書き始めた。


 彩花はその様子を見守りながら、作者が何を大切にしたいのか、以前よりもはっきり理解できた気がした。


 しばらくして、部員が新しい文章を読み上げた。


 最後の一文は、そのまま残されている。


 けれど、直前の描写が変わったことで、特定の人物の感情だけに寄りすぎず、場面全体の余韻として受け取れるようになっていた。


 彩花は一度読み終え、もう一度最初から目を通した。


「私は、今の方が作者の人の意図に近い気がします」


 佐々木先輩も頷いた。


「そうね。少なくとも、何を伝えたいのかは前より明確になったと思うわ」


 部員は少し照れくさそうに笑った。


「私も、この形が好きです」


 その言葉を聞き、彩花は嬉しくなった。


 文章を直す作業は、思っていたよりも時間がかかる。


 けれど、ただ正しい形へ整えるだけではない。


 作者本人が伝えたいものを、できるだけ損なわずに届けるための作業なのだ。


 佐々木先輩は変更履歴へ、新しい案と修整理由を書き加えた。


 先生からの確認事項に対し、作者本人が意図を説明し、それに沿って文章を見直したことも記録する。


 最終承認は、まだ下りていない。


 ただし、これまで曖昧だった作者の意図については、今日一つ明確になった。


 彩花はそのことを、確かな進展として受け止めていた。


     ◇


 活動が終わる頃、佐々木先輩は資料をまとめながら彩花へ声をかけた。


「水瀬さん、今日もありがとう。作者の人が自分の考えを言葉にできてよかったわ」


 彩花は少し照れくさそうに笑った。


「私も勉強になりました。文章を直す前に、何を大切にしたいのか聞くことが本当に大事なんですね」


「そうね。読み手が気づいたことを伝えるのも大切だけど、作者が何を目指しているのか分からないまま直すと、別の作品になってしまうこともあるから」


 彩花はその言葉を聞き、昨日の創作ノートを思い出した。


 祖母へ手紙を書く少女の物語。


 祖母が昔、何を言ったのかは思い出せない。


 けれど、一緒に庭へ出ていた時間や、少し困ったように笑っていた顔は覚えている。


 自分が大切にしたいのも、きっとそこなのだろう。


 忘れてしまった言葉を無理に取り戻すことではない。


 覚えている時間を、今の少女がどう受け止めるのか。


 彩花はそのことを、改めて考えてみたいと思った。


「先輩、私も自分の文章で、何を一番伝えたいのか考えてみます」


 彩花がそう言うと、佐々木先輩は優しく微笑んだ。


「ええ。自分の言葉で見つけられるといいわね」


 彩花は頷き、部室をあとにした。


 廊下へ出ると、窓の向こうでは雨がほとんど止んでいた。


 濡れた校庭には薄い夕方の光が差し込み、遠くの木々が静かに揺れている。


 彩花は鞄を持ち直し、帰り道へ向かった。


     ◇


 その頃、悠真は桜華学園の図書室で古い駅前写真の資料を探していた。


 航平と分担した調査のうち、自分は同じ場所が写っている別の写真を探す役割になっている。


 ただし、学校の図書室にある資料だけで十分な情報が得られるとは限らない。


 悠真は郷土資料の棚を確認し、関連する本の目次を一冊ずつ見ていた。


 古い駅前の写真が掲載された本はいくつかあったが、撮影年代が異なるものや、写真の場所がはっきりしないものも多い。


 悠真はその中から、一冊の資料に目を留めた。


 駅前の商店街を紹介するページに、古い道路の写真が載っていた。


 ただし、調べている写真と同じ場所かどうかは分からない。


 悠真はページを開き、道路の幅や建物の並び方を確認した。


(似ているところはあるけど、これだけでは判断できないね。撮影された年代も、まだ確認が必要だ)


 悠真は資料の題名と発行年、掲載ページをメモした。


 写真の説明文には、撮影されたおおよその時期が記されていた。


 しかし、駅前のどの位置から撮影されたものなのかまでは明確ではなかった。


 それでも、これまで調べていた二つの候補と比べるための、新しい資料にはなる。


 悠真はメモ帳へ書き込んだ。


『駅前商店街の写真。道路と建物の並び方に類似点あり。ただし撮影位置は未確認。候補との一致は未判定。』


 書き終えたあと、悠真はもう一度写真を眺めた。


 古い町の写真には、写っているものだけでなく、写っていないものもある。


 父の正樹から借りた本で学んだことを思い出しながら、悠真は慎重に比較を続けた。


 やがて、図書室の閉室時間が近づいたため、資料を元の場所へ戻した。


 今日、撮影地点が分かったわけではない。


 けれど、比較に使えそうな別の写真を一枚見つけることができた。


 悠真はその成果を航平へ伝えるため、メモを整理した。


     ◇


 帰宅した悠真が自室へ入ると、机の上には昨日までの調査資料が置かれていた。


 鞄を下ろし、今日見つけた写真の情報を比較表へ追加する。


 航平が見つけた案内図。


 新しく確認した施設名。


 そして、自分が見つけた別の駅前写真。


 まだ結論は出ていない。


 けれど、二人がそれぞれ別の方向から調べたことで、確認すべき情報は少しずつ増えていた。


 悠真は表を見直し、明日、航平と話す内容を整理した。


 そのとき、机の上のスマートフォンが小さく震えた。


 画面には、青凪市中央図書館からの連絡を知らせる通知が表示されていた。


 悠真は少し驚き、画面を開いた。


 土曜日に相談した、彩花が借りている古い町の写真集についての連絡だった。


 職員が確認した範囲では、青凪市中央図書館に同じ本の所蔵は見つからなかった。


 ただし、ほかの図書館の所蔵情報を調べたところ、書誌情報が一致する資料が一件確認できたという。


 悠真はその文章を読み、思わず姿勢を正した。


(同じ本が、別の図書館にあるかもしれないんだ)


 連絡には、所蔵先の図書館名と、確認された書誌情報が記されていた。


 著者名、出版社、出版年、書名。


 彩花から教えてもらった情報と一致している。


 ただし、現時点で確認できたのは所蔵情報までだった。


 その本を青凪市中央図書館へ取り寄せられるかどうかは、まだ分からない。


 資料の状態や貸出条件、所蔵先の規定によっては、館外への貸出ができない可能性もある。


 職員からの連絡にも、その点が明記されていた。


 悠真は画面を読み返し、少し考えた。


 同じ本が見つかったことは嬉しい。


 けれど、すぐに借りられると決まったわけではない。


 悠真は落ち着いて、連絡内容を整理することにした。


 まず、確認できた事実。


 書誌情報が一致する資料の所蔵先が一件見つかった。


 次に、まだ分からないこと。


 その資料を実際に閲覧できるかどうか。


 青凪市中央図書館へ取り寄せられるかどうか。


 取り寄せが可能な場合、どのような手続きが必要なのか。


 悠真はメモ帳へ書き込み、しばらく考えたあと、図書館へ返信した。


 所蔵情報を調べてくれたことへの礼を伝え、取り寄せや閲覧の条件について、次に確認できることがあるか尋ねる内容だった。


 送信を終えると、悠真は小さく息を吐いた。


 まだ本を手に取れるわけではない。


 けれど、土曜日には何も分からなかった所蔵先が、今日一つ見つかった。


 それは、確かな進展だった。


 悠真は机の上の淡い青色の花模様のカードへ目を向けた。


 彩花から贈られた、大切なカード。


 そこには、彼女が自分の好きなものを大切にしてくれたことへの感謝と、悠真と話す時間が好きだという言葉が書かれている。


 悠真はそのカードを見ながら、少し微笑んだ。


 同じ本を読んで、それぞれ好きな一枚を選ぶ。


 その約束へ、少し近づけた気がした。


     ◇


 水瀬家では、夕食後、彩花が自室で創作ノートを開いていた。


 今日の文芸部で学んだことを思い出しながら、祖母へ手紙を書く少女の物語を読み返している。


 少女は、庭の花がもうすぐ咲きそうだと祖母へ伝えようとしている。


 毎朝、蕾を眺めている。


 そして、祖母と一緒に庭へ出ていた頃のことを思い出している。


 彩花は以前書いた文章へ目を向けた。


『おばあちゃんが庭で使っていた道具は、いつも物置の同じ場所に置かれていました。柄には小さな傷がいくつもあって、私はその一つ一つが、いつできたものなのか気になっていました。』


 昨日、実際の園芸道具を見せてもらったことで、柄に残る傷について少し具体的に考えられるようになった。


 ただし、物語に登場する道具の種類は、まだ最終決定していない。


 彩花はその部分を読み返し、今日の文芸部での話を思い出した。


 作者が大切にしたいもの。


 文章の中で、何を残したいのか。


 彩花は少し考え、ノートの余白へ書き込んだ。


『この場面で大切なのは、道具の種類そのものではなく、祖母が長く使っていたものを少女が覚えていること。傷の描写は、その時間を感じられるように使いたい。』


 書き終えたあと、彩花は少しだけ肩の力を抜いた。


 これまで、道具について正確に書こうとするあまり、何を伝えたいのか見失いかけていたのかもしれない。


 もちろん、実際の道具と矛盾する描写は避けたい。


 けれど、道具の説明が物語の中心になるわけではない。


 少女が覚えている、祖母との時間。


 それを大切にしたいのだ。


 彩花は新しい文章を書き始めた。


『おばあちゃんが使っていた道具には、小さな傷がいくつもありました。私は幼い頃、その傷がいつできたのか知りたくて、何度も柄を眺めていました。おばあちゃんに尋ねたこともありますが、どんな返事をしてくれたのかは、今では思い出せません。ただ、私の質問を聞いて、少し困ったように笑っていた顔だけは、今も覚えています。』


 彩花は書き終えた文章を、ゆっくりと読み返した。


 以前よりも、伝えたいことがはっきりしている気がした。


 祖母の言葉を思い出せないこと。


 それでも、祖母の笑顔は覚えていること。


 そして、長く使われてきた道具が、その記憶と結びついていること。


 彩花はその文章の横へ、小さく「採用候補」と書き込んだ。


 まだ完成ではない。


 けれど、今日の文芸部で学んだことを、自分の物語へ生かせた気がした。


 彩花はノートを閉じ、少し休もうと思ってスマートフォンを手に取った。


 ちょうどそのとき、悠真からメッセージが届いた。


『彩花さん、こんばんは。今日、ちょっと嬉しい知らせがあったんだ』


 彩花は画面を見つめ、自然と微笑んだ。


『こんばんは、悠真君。嬉しい知らせ? 何があったの?』


 少しして、返事が届いた。


『土曜日に中央図書館で相談した写真集のことなんだけど、書誌情報が一致する本を持っている図書館が一つ見つかったみたいなんだ』


 彩花は思わず目を見開いた。


(えっ……同じ本が、見つかったの?)


 彩花はスマートフォンを持ち直し、もう一度文章を読んだ。


 悠真が探していた本。


 自分が青葉高校の図書室から借りている、古い町の写真集。


 その所蔵先が、一つ見つかったという。


 彩花は嬉しくなり、すぐに返信した。


『本当? すごいね、悠真君!』


 悠真から、少しして返事が届いた。


『ありがとう。ただ、まだ取り寄せられるかどうかは分からないんだ。所蔵情報が見つかったところまでだから、次は閲覧や貸出の条件を確認してもらう必要があるみたい』


 彩花はその文章を読み、静かに頷いた。


 まだ本を借りられると決まったわけではない。


 けれど、どこにあるのか分からなかった本の所蔵先が見つかった。


 それだけでも、大きな進展だと思った。


『それでも、すごく嬉しいよ。探してくれてありがとう』


 彩花が送ると、悠真から返事が届いた。


『俺も嬉しいよ。彩花さんと同じ本を読める可能性が、少し高くなったから』


 彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 悠真は、自分との約束を大切にしてくれている。


 それが、何より嬉しかった。


     ◇


 九条家の自室で、悠真は彩花からの返事を読み、静かに微笑んだ。


 所蔵先が見つかったことを伝えると、彩花は自分のことのように喜んでくれた。


 その反応が、悠真には嬉しかった。


 ただし、まだ本を読めると決まったわけではない。


 悠真はその点を忘れないようにしながら、続きを打った。


『取り寄せられるかどうか分かったら、また連絡するね。もし難しかったら、別の方法も考えてみるよ』


 彩花から、少しして返事が届いた。


『うん。でも、無理はしないでね。私も同じ本を読んでもらえたら嬉しいけど、悠真君が大変になっちゃうのは嫌だから』


 悠真はその文章を読み、少しだけ頬を緩めた。


 彩花らしい言葉だと思った。


 自分の好きなものを一緒に楽しんでほしいと思ってくれる。


 けれど、そのために相手が無理をすることは望んでいない。


 悠真は少し考え、返信した。


『ありがとう。俺も自分が読みたいと思って探してるから、大丈夫だよ。それに、こうやって調べるのも楽しいんだ』


 彩花から、すぐに返事が届いた。


『そっか。それならよかった。悠真君がどんな写真を選ぶのか、今から楽しみにしてるね』


 悠真はその文章を読み、静かに微笑んだ。


 彩花がどの写真を選んだのかは、まだ知らない。


 自分も、同じ本を読んでから選ぶつもりだった。


 その約束は、今も変わっていない。


『俺も楽しみだよ。彩花さんが選んだ一枚も、まだ秘密のままでいてね』


 彩花から、少しして返事が届いた。


『もちろん。悠真君が選ぶまで、内緒にしておくよ』


 悠真はその文章を読み、満足そうに頷いた。


 同じ本を読んで、互いの好きな一枚を伝え合う。


 その日が来るのを、悠真は楽しみにしていた。


     ◇


 しばらくして、彩花は今日の文芸部での出来事について話した。


 先生からの確認事項をもとに、作者本人が最後の一文で何を大切にしたいのか考え直したこと。


 そして、文章を修整する前に、作者の意図を確かめることが大切だと感じたこと。


 ただし、ほかの部員の原稿の詳しい内容までは伝えなかった。


 悠真はその話を読み、少し考えた。


 自分も今日、古い写真を調べる中で似たことを感じていた。


 写真の中に何が写っているのかを確認すること。


 そして、その写真から何を知りたいのかを考えること。


 その二つは、少し違う。


 悠真はそのことを、彩花へ伝えてみることにした。


『今日、俺も古い写真を調べてたんだけど、何を確かめたいのか分かってる方が、資料を探しやすいって思ったんだ』


 彩花はその文章を読み、興味を持った。


『そうなんだ。悠真君は、今日は何を調べてたの?』


『前から見てる駅前の写真について、別の角度から写った資料がないか探してたんだ。まだ同じ場所だとは決められないけど、比べられそうな写真を一枚見つけたよ』


 彩花はその返事を読み、静かに頷いた。


 悠真も、少しずつ調査を進めている。


 すぐに答えが出なくても、次に何を調べるのか考えながら進んでいるのだ。


『それも進展だね。比べられる写真が増えたら、前より分かることも増えそう』


 悠真から、少しして返事が届いた。


『うん。ただ、似ているだけで同じ場所だと決めないようにしたいんだ。今はまだ、候補を比べてるところだから』


 彩花はその文章を読み、少し微笑んだ。


 悠真は、分からないことを無理に決めつけない。


 その丁寧さが、彩花には好ましかった。


『悠真君らしいね。私も、分からないことはちゃんと確かめてから書くようにしたいな』


 悠真はその言葉を読み、少し照れくさそうに笑った。


 彩花が自分の考え方を理解してくれている。


 それが嬉しかった。


     ◇


 やり取りが一段落した頃、悠真は土曜日のことを思い出した。


 次の土曜日、午後一時に青凪市中央図書館の入口付近で待ち合わせる約束をしている。


 写真集の所蔵先が見つかったことは嬉しい。


 けれど、土曜日までに取り寄せられるかどうかは分からない。


 悠真はその点を、彩花へ改めて伝えておこうと思った。


『彩花さん、土曜日のことなんだけど、写真集が間に合うかどうかはまだ分からないんだ。でも、予定はそのままで大丈夫かな?』


 彩花はその文章を読み、少し驚いた。


 写真集が見つからなくても、一緒に図書館へ行く。


 そのことは、昨日すでに話していた。


 けれど、悠真は改めて確認してくれたのだ。


 彩花は少し考え、素直に返信した。


『もちろん大丈夫だよ。写真集がなくても、悠真君と一緒に本を選んだり、話したりしたいから』


 送信したあと、彩花は少しだけ頬を赤くした。


 自分の気持ちを、以前よりも自然に伝えられるようになっている。


 けれど、送信したあとに照れくさくなるところは、まだ変わらない。


 悠真から、少しして返事が届いた。


『ありがとう。俺も同じ気持ちだよ。土曜日、楽しみにしてるね』


 彩花はその文章を読み、静かに微笑んだ。


 写真集の約束は、少し前へ進んだ。


 そして、土曜日に会う約束も変わらず続いている。


 その二つが、彩花には嬉しかった。


     ◇


 メッセージのやり取りを終えたあと、彩花は葉模様の日記帳を開いた。


 今日の出来事を書き留めようとして、まず文芸部でのことを思い出した。


 作者本人が、最後の一文で何を大切にしたいのか言葉にできたこと。


 その意図をもとに、新しい修整案を考えられたこと。


 そして、文章を直すときには、正しさだけでなく、何を伝えたいのか考える必要があると感じたこと。


 彩花はペンを持ち、ゆっくりと書き始めた。


『火曜日。文芸部で、先生からの確認事項をもとに修整案を考え直した。作者の人が最後の一文で何を大切にしたいのか分かって、文章の直し方も変わった。まだ最終承認は終わっていないけれど、前よりも作者の意図に近づいたと思う』


 彩花は少し考え、続きを書いた。


『夜、悠真君から嬉しい知らせがあった。私が借りている写真集と書誌情報が一致する本を持っている図書館が、一つ見つかったらしい。まだ取り寄せられるかどうかは分からないけれど、同じ本を読んでもらえる可能性が少し高くなった』


 書き終えたあと、彩花は少しだけ微笑んだ。


 自分が選んだ一枚を、悠真はまだ知らない。


 けれど、いつか同じ本を読んで、互いの好きな写真を伝え合うことができたら。


 そのとき、悠真はどんなことを話してくれるのだろう。


 彩花はそんなことを考えながら、日記帳を閉じた。


 机の上には、星模様の創作ノートと、古い町の写真集が並んでいる。


 どちらも、まだ途中のものだった。


 創作ノートの物語は、完成していない。


 写真集の約束も、まだ果たされていない。


 けれど、今日それぞれに小さな進展があった。


 彩花はそのことを嬉しく思いながら、部屋の明かりを落とした。


     ◇


 九条家の自室で、悠真も今日の出来事を整理していた。


 駅前写真の調査では、航平が新しい案内図を見つけ、自分も比較に使えそうな写真を一枚確認できた。


 撮影地点は、まだ二つの候補のままだ。


 写真の端に写る物体も、正体は分かっていない。


 けれど、調べるための資料は少しずつ増えている。


 そして、青凪市中央図書館からは、彩花が借りている写真集と書誌情報が一致する資料の所蔵先が見つかったという連絡が届いた。


 まだ取り寄せられるかどうかは分からない。


 けれど、次に確認すべきことは明確になった。


 悠真はメモ帳へ、今日の進展を書き加えた。


『写真集の所蔵先一件確認。閲覧・取り寄せ条件は未確認。図書館へ問い合わせ済み。返答待ち。』


 書き終えたあと、悠真は机の上の淡い青色の花模様のカードへ目を向けた。


 彩花から贈られた、大切なカード。


 そこには、彼女が自分の好きなものを大切にしてくれたことへの感謝と、悠真と話す時間が好きだという言葉が書かれている。


 悠真はそのカードを見ながら、少し微笑んだ。


 土曜日には、彩花と会う約束をしている。


 午後一時、青凪市中央図書館の入口付近。


 写真集が間に合わなくても、二人で本を選び、話す時間を楽しみにしている。


 悠真はそのことを思いながら、窓の外へ目を向けた。


 雨はすっかり止み、夜の庭は静かだった。


 明日も学校があり、調べたいことがある。


 けれど、今週の終わりには、彩花と会う時間が待っている。


 悠真はその約束を胸に、部屋の明かりを落とした。


 火曜日の夜は、静かに更けていった。


 彩花は、写真集の所蔵先が見つかったことを嬉しく思いながら、ゆっくりと目を閉じた。


 悠真もまた、彩花と同じ本を読める日が少し近づいたことを感じながら、穏やかな眠りへ落ちていった。

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