第160話 月曜日の確かめたい答えと、土曜日に君と会うための約束
月曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ますと、窓の向こうには薄い雲が広がっていた。雨が降りそうなほど暗くはないものの、昨日のような明るい日差しはなく、庭の木々も静かな灰色の空を背景に揺れている。
彩花は布団から起き上がり、机の上に置かれた葉模様の日記帳へ目を向けた。昨夜、眠る前に書いた最後の文章を思い出しただけで、胸の奥が少し温かくなる。
次の土曜日、悠真と青凪市中央図書館へ行く方向で話が進んでいる。
まだ待ち合わせの時間や場所は決まっていないが、互いの家の予定は確認できていた。何より、悠真が自分に会いたいと思ってくれていたことが、彩花には嬉しかった。
(今日か明日、時間を相談するんだったよね。悠真君は何時頃がいいのかな。私も、ちゃんと考えておこう)
彩花は机の上の小さな予定表を開き、今週の学校生活について確認した。文芸部の活動はあるものの、土曜日に予定されている行事は今のところなく、家族からも外出してよいと言われている。
ただ、会う時間を決めるときには、自分の都合だけでなく、悠真の予定も考えたい。
彩花は予定表を閉じ、制服へ着替え始めた。
机の端には、星模様の創作ノートと、青葉高校の図書室から借りている古い町の写真集が置かれている。写真集の貸出期限もそろそろ確認しておきたいと思い、彩花は図書室で手続きをしたときの記録を探した。
貸出期限は、まだ少し先だった。
ただし、悠真が同じ本を見つけるまで借り続けられるとは限らない。
彩花は写真集を手に取り、表紙をそっと撫でた。
自分が選んだ一枚を、悠真はまだ知らない。
彼が同じ本を読んでから、互いの好きな写真を伝え合うという約束は、そのまま大切にしておきたかった。
彩花は写真集を机へ戻し、今日は学校へ持っていかないことにした。借りた本を傷めないよう、必要なときだけ持ち歩く方が安心だと思ったからだ。
代わりに観察メモと文芸部の資料を鞄へ入れ、階下へ向かった。
◇
食卓では、妹の凛花が窓の外を眺めながら、少し考え込んでいた。
「おはよう、凛花。どうしたの?」
彩花が声をかけると、凛花は振り返った。
「おはよう、お姉ちゃん。昨日、部屋の明るさを見たでしょう? 今日みたいに曇ってる日だと、また違うのかなって思って」
凛花は土曜日に園芸店で聞いた話を、まだ丁寧に考え続けているようだった。机の端と窓際の棚では光の入り方が違うことを昨日確かめたが、天気によっても変化するのではないかと気づいたらしい。
「確かに、晴れの日だけ見ても分からないかもしれないね」
「うん。だから、今日も帰ってきたら見てみるつもり」
凛花はそう言い、食卓の端に置いた小さなノートを開いた。
そこには、植物を置く場所について調べたいことが整理されている。
彩花はその様子を見ながら、妹が以前よりも慎重に考えるようになったことを感じていた。
植物を買うことが目的なのではない。
買ったあとも元気に育てられるように、今できることを確かめている。
「凛花、すごく丁寧に考えてるね」
彩花がそう言うと、凛花は少し照れくさそうに笑った。
「だって、せっかく育てるなら長く一緒にいたいもん」
その言葉を聞き、彩花は静かに頷いた。
長く一緒にいたい。
植物についての言葉なのに、どこか自分の気持ちにも重なるような気がした。
そのとき、母の紗月が朝食を運んできた。
「彩花、今日は文芸部があるんでしょう?」
「うん。先生に確認してもらう資料のことで、少し作業があると思う」
「そう。帰りが遅くなるようなら連絡してね」
「分かった」
彩花は頷き、席へ着いた。
父の耕助も新聞を畳み、家族と一緒に朝食を始める。
いつもと変わらない月曜日の朝だった。
けれど、彩花の心の中には、週末へ向けた小さな楽しみが増えていた。
◇
登校途中、彩花はいつもの蕾がある場所で足を緩めた。
金曜日に撮影したときは、雨上がりの光の影響もあり、先端が少し明るく見えていた。しかし、それが実際の変化なのかどうかは分からなかった。
彩花は周囲の通行人を確かめ、邪魔にならない位置へ移動してからスマートフォンを取り出した。
今日は曇っているため、光の条件は金曜日と違う。
それでも、以前と近い角度から撮影しておけば、あとから比較するための記録にはなるだろう。
彩花は月曜日、水曜日、金曜日に撮った写真を順番に表示した。
最初の写真では、蕾の輪郭が少し細く見える。
水曜日の写真では、先端がわずかに丸くなっているようにも見える。
そして金曜日の写真では、明るさの影響もあって、先端の色が違って見えていた。
彩花は目の前の蕾を眺め、少し考えた。
(今日は、先の部分が少しふくらんで見えるかな。でも、写真だけで決めるのは難しいね)
彩花は新しく一枚撮影し、観察メモへ書き込んだ。
『月曜日。曇り。蕾は未開花。先端の輪郭にわずかな違いがあるように見えるが、撮影条件が異なるため、成長による変化かは未確認。』
書き終えたあと、彩花は少し微笑んだ。
以前なら、変化が見つからなかったことを残念に感じていたかもしれない。
けれど今は、確かめられなかったことも大切な記録だと思える。
分からないことを、分からないまま残しておく。
それは、古い写真を読むときにも、文章を書くときにも必要なことだった。
彩花はスマートフォンを鞄へ戻し、学校へ向かって歩き始めた。
◇
青葉高校の教室では、朝のホームルームが始まる前から、週末の出来事について話す声が聞こえていた。
彩花が席へ着くと、近くの席の友人が振り返った。
「水瀬さん、土日はゆっくりできた?」
「うん。土曜日は妹と植物を見に行って、昨日は家で本を読んだりしてたよ」
「植物? 育てるの?」
「妹が自分の部屋で育てたいって言ってるんだけど、まだ種類は決めてないんだ」
彩花が説明すると、友人は興味深そうに頷いた。
「いいね。私も部屋に置きたいって思ったことあるけど、世話が難しそうで迷っちゃう」
「凛花も同じことを言ってたよ。だから、お店で育て方を聞いてから決めることにしたんだ」
友人は少し感心したように笑った。
「ちゃんと考えてるんだね。私はかわいいって思ったら、そのまま買っちゃいそう」
彩花も微笑んだ。
「私も、実際に見たら迷うと思う。でも、凛花がちゃんと考えてて、すごいなって思った」
二人はしばらく植物の話をしたあと、授業の準備を始めた。
彩花は教科書を机へ出しながら、昨日の創作ノートを思い出した。
祖母が使っていた園芸道具。
その柄に残る小さな傷。
幼い少女が祖母へ尋ねたこと。
そして、言葉は思い出せないのに、笑顔だけは覚えていること。
実際の道具を見たことで、文章の中の景色が少し具体的になった。
ただし、道具の種類はまだ最終決定していない。
彩花はその点を忘れないようにしながら、授業へ意識を向けた。
◇
桜華学園高等部では、悠真が森川航平と昼休みに資料を確認していた。
金曜日に整理した古い駅前写真の比較表へ、日曜日に考えた確認事項を追加するためだった。
航平は悠真のメモを読み、少し考えたあと顔を上げた。
「なるほどな。今ある写真を何回も見直すんじゃなくて、別の資料を探した方がいいってことか」
「うん。もちろん、今の資料にもまだ見落としがあるかもしれないけど、二つの候補を比べるための情報が足りないと思うんだ」
悠真は比較表の一角を指した。
「こっちの候補は道路の曲がり方が似てる。でも、地図の年代と写真の撮影時期が完全には一致していないから、そこが問題なんだよね」
航平は頷き、もう一つの候補へ目を向けた。
「こっちは建物の並び方が似てるけど、写真の端のあれが何なのか分からない」
「そう。だから、設備の配置が分かる別の資料があれば、少し判断しやすくなるかもしれない」
航平はしばらく考え、ペンを手に取った。
「じゃあ、調べるものを分担しない?」
「分担?」
「俺は年代別の駅前案内図を探してみる。九条は、同じ場所が写ってる別の写真を探すとか」
悠真はその提案を聞き、少し考えた。
確かに、同じ資料を二人で調べ続けるより、確認する方向を分けた方が効率的かもしれない。
ただし、どちらが何を見つけたのか、あとから分かるようにしておく必要がある。
「いいね。じゃあ、見つけた資料の題名と年代、それから何が確認できたかを表へ残そう」
「了解。見つからなかった場合も、そのまま書いとく?」
「うん。その方が、同じところを何度も探さずに済むと思う」
航平は笑いながら頷いた。
「九条らしいな。見つからなかったことまで記録するなんて」
「でも、航平も前に、候補を残した理由が分からないって言ってくれたでしょう?」
「まあ、そうだけど」
航平は少し照れくさそうに笑った。
「確かに、あとから見返したときに分かる方がいいよな」
二人は比較表へ担当する調査内容を書き加えた。
駅前の撮影地点は、まだ決まっていない。
写真の端に写る物体も、正体不明のままだ。
けれど、次に何を調べるのかについては、具体的な役割分担ができた。
悠真はそのことを、今日の小さな成果として受け止めていた。
◇
放課後、彩花が文芸部の部室へ入ると、佐々木先輩が資料を整理していた。
冬部誌『いつか、ここに』の原稿について、金曜日に作者本人が新しい修整案を考え、変更履歴へ記録したところだった。
ただし、先生の最終確認はまだ終わっていない。
彩花は鞄を置き、先輩へ挨拶した。
「こんにちは、佐々木先輩。今日もよろしくお願いします」
「こんにちは、水瀬さん。ちょうどよかったわ。金曜日の修整案について、先生から確認したいことがあるって連絡があったの」
彩花は少し驚いた。
「修整案に問題があったんでしょうか?」
「問題があると決まったわけじゃないの。ただ、変更した部分について、作者がどう考えているのか、もう一度確かめたいそうよ」
佐々木先輩は資料を広げ、該当する箇所を示した。
会話が終わったあと、一人の人物が部屋を出る場面。
以前は主語が省略されていたため、誰が出ていくのか少し迷う可能性があった。
金曜日には、最後の一文を大きく変えず、その前の段落へ人物の動きを加える案が考えられた。
作者本人も、その方向なら大切にしていた間合いを残せると話していた。
「先生はね、今の案だと、人物の動きは分かりやすくなっているけれど、会話の直後にその動きを入れることで、少し時間が進んだようにも読めるって」
彩花は資料へ目を落とし、ゆっくりと読み返した。
確かに、前の段落へ加えられた動作によって、人物が扉の近くへ移動する様子は分かりやすくなっている。
けれど、その移動が会話の途中だったのか、会話が終わってからだったのかは、少し曖昧だった。
(なるほど……。誰が出ていくのかは分かりやすくなったけど、今度は動いた時間が気になるんだね)
彩花はもう一度読み返した。
最初の文章では、誰が部屋を出るのか分かりにくかった。
修整案では、その点が改善された。
けれど、新しく加えた描写によって、別の読み方が生まれている。
文章を直すことは、ただ問題を一つ消せば終わるわけではないのだと感じた。
「先輩、作者の人には、もう先生の確認事項を伝えてあるんですか?」
「ええ。今日、来たら一緒に考える予定よ」
彩花は頷いた。
「それなら、まず作者の人がどう考えているのか聞いてみたいです」
佐々木先輩は穏やかに微笑んだ。
「私もそう思っていたところよ」
◇
しばらくして、該当する作品を書いた部員が部室へ入ってきた。
佐々木先輩は先生からの確認事項を説明し、金曜日の修整案について、作者本人の考えを尋ねた。
部員は資料を読み返し、少し考えてから口を開いた。
「私は、会話が終わる前から、その人が扉の近くにいたつもりで書いてました。でも、今の文章だと、会話が終わってから移動したようにも見えますね」
彩花はその言葉を聞き、頷いた。
「私も、先生の確認事項を読んでから、そういう読み方があるって気づきました」
部員は少し困ったように笑った。
「難しいですね。最初は主語を入れればいいと思ったけど、それだと最後の雰囲気が変わるし、前に動きを入れたら、今度は時間が分かりにくくなっちゃって」
佐々木先輩は穏やかに答えた。
「でも、どこを大切にしたいかは、前よりはっきりしているでしょう?」
「はい。最後の一文の静かな感じは、できれば残したいです」
彩花はその言葉を聞き、少し考えた。
最後の一文を守りたい。
その気持ちは、金曜日から変わっていない。
ならば、前の段落で何を伝えるかを、もう少し整理できるかもしれない。
「もし、扉の近くにいることだけ先に分かっていれば、最後の一文はそのままでも読みやすくなるでしょうか」
彩花が尋ねると、部員は資料へ目を落とした。
「……そうかもしれません。移動するところまで書かなくても、最初からそこにいたって分かればいいのかな」
佐々木先輩も頷いた。
「それなら、動作の時間を新しく作らずに済むわね。ただ、文章の流れが自然になるかどうかは、実際に書いてみないと分からないけれど」
部員は少し考え、手元の原稿へ新しい案を書き始めた。
彩花は隣で見守りながら、すぐに答えを出そうとはしなかった。
自分が文章を直すのではない。
作者本人が大切にしたいことを守れるよう、読み手として感じたことを伝える。
それが、今の自分にできる役割だと思った。
しばらくして、部員が顔を上げた。
「これなら、どうでしょうか」
彩花と佐々木先輩は、新しい案を受け取って読み返した。
今度は、会話が始まる前の描写に、人物の立ち位置が自然に含まれていた。
そのため、会話が終わったあとに誰が部屋を出るのか、以前よりも分かりやすい。
しかも、最後の一文へ至るまでの時間の流れも、金曜日の案より自然に感じられた。
彩花は一度読み終え、もう一度最初から目を通した。
「私は、今までの案の中で一番自然に読める気がします」
佐々木先輩も頷いた。
「そうね。ただ、先生にも確認していただきましょう。作者本人はどう?」
部員は少し考えたあと、静かに笑った。
「私は、この形が好きです。最後の一文を残せたし、前よりも自分が書きたかった場面に近づいた気がします」
その言葉を聞き、彩花は嬉しくなった。
作者本人が、納得できる案を見つけられた。
それが何より大切なことだった。
佐々木先輩は変更履歴へ、新しい案と修整理由を書き加えた。
金曜日の案は消さずに残し、先生からの確認事項と、今回の再検討内容を記録する。
最終承認は、まだ下りていない。
けれど、先生が指摘した時間関係の曖昧さに対して、作者本人が新しい答えを用意できた。
彩花はその過程を見ながら、文章を作ることの奥深さを改めて感じていた。
◇
活動が終わる頃、佐々木先輩は資料をまとめながら、彩花へ声をかけた。
「水瀬さん、今日もありがとう。作者の人が納得できる形に近づけてよかったわ」
彩花は少し照れくさそうに笑った。
「私も勉強になりました。最初は、誰が動くのか分かればいいと思ってたんですけど、それだけじゃなかったんですね」
「そうね。文章の一か所を変えると、前後の意味も変わることがあるから」
佐々木先輩は資料を揃え、続けた。
「でも、だからこそ面白いのよ。何を大切にしたいか考えながら、少しずつ形を整えていくんだから」
彩花はその言葉を聞き、昨日の創作ノートを思い出した。
祖母の言葉を思い出せない少女。
その設定を守るために、具体的な返事を書いた案を採用しなかったこと。
そして、園芸道具の描写を見直すため、実際の道具を確かめたこと。
自分も、同じようなことをしているのかもしれない。
「先輩、私も今、自分の文章を少しずつ直してるんですけど、今日のことを思い出しながら考えてみます」
彩花がそう言うと、佐々木先輩は優しく微笑んだ。
「ええ。焦らず、自分が書きたいものを大切にしてね」
彩花は頷き、部室をあとにした。
廊下へ出ると、窓の向こうには夕方の光が差し込んでいた。
今日は、部誌の原稿が一つ前へ進んだ。
正式な承認はまだだが、作者本人が納得できる新しい案を用意できたことは、確かな成果だった。
彩花はそのことを嬉しく思いながら、帰り支度を整えた。
◇
帰宅途中、彩花は青葉高校の図書室へ立ち寄った。
今日は借りている写真集の貸出期限について、念のため確認しておきたかった。
図書室の先生へ声をかけると、先生は貸出記録を確認し、期限を教えてくれた。
まだ返却まで少し時間がある。
ただし、延長できるかどうかは、ほかの利用者の予約状況などによって変わるため、必要になったら改めて相談するよう説明された。
「分かりました。ありがとうございます」
彩花は礼を言い、図書室を出た。
写真集を借り続けられるかどうかは、まだ確定していない。
けれど、返却期限を確認できたことで、今後の予定を考えやすくなった。
悠真が同じ本を探していることも、彩花は気にかけていた。
ただし、学校の本を外部の人へ貸すことはできない。
その点は、以前先生から説明を受けている。
だからこそ、悠真が公共図書館で探していることを、彩花は大切に思っていた。
同じ本を読む約束は、まだ途中だ。
けれど、今週の土曜日には、写真集が見つかっていなくても会う方向で話が進んでいる。
彩花はそのことを思い出し、少しだけ頬を赤くした。
(今日、時間を相談してみようかな。悠真君も、昨日は楽しみにしてるって言ってくれたし)
彩花は歩きながら、土曜日のことを考えた。
以前のように午後から図書館へ行くのもいい。
少し早めに会って、ゆっくり本を選ぶのも楽しそうだ。
ただし、悠真の都合もある。
彩花は帰宅してから、落ち着いて相談することにした。
◇
九条家では、悠真が帰宅すると、ハクが嬉しそうに玄関へ近づいてきた。
白い毛並みを揺らしながら尻尾を振るハクへ、悠真は鞄を置いてから手を伸ばした。
「ただいま、ハク。今日も元気だった?」
ハクは小さく鳴き、悠真の手へ鼻先を寄せた。
その様子を見ていると、妹の琴葉が廊下から顔を出した。
「お兄ちゃん、おかえり。今日ね、押し葉の台紙をもう一回見比べてたんだ」
「ただいま、琴葉。少し決まってきた?」
「うん。生成り色の方にしようかなって思ってる」
琴葉は嬉しそうに答えた。
昨日までは、薄い緑色と生成り色のどちらにするか迷っていた。
けれど、葉そのものの色をきれいに見せたいという気持ちが強くなり、生成り色の台紙へ少し傾いているらしい。
「いいね。琴葉が見せたいものに合ってるなら、それが一番だと思うよ」
悠真がそう言うと、琴葉は頷いた。
「うん。でも、まだ貼りつけてないんだ。配置をもう少し確かめてからにする」
「そうなんだね。完成するの、楽しみにしてるよ」
琴葉は嬉しそうに笑い、自室へ戻っていった。
悠真はその後ろ姿を見送りながら、彩花のことを思い出した。
彩花も今、自分の物語を少しずつ書き進めている。
完成したら最初に読ませてもらえるという約束を、悠真は楽しみにしていた。
けれど、急いで完成させてほしいとは思っていない。
彩花が大切にしたいものを、納得できる形で書いてほしかった。
悠真は自室へ戻り、鞄から駅前写真の資料を取り出した。
今日、航平と決めた役割分担について、もう一度確認する。
自分は、同じ場所が写っている別の写真を探す。
航平は、年代別の駅前案内図を探す。
見つけた資料だけでなく、確認できなかったことも記録する。
悠真はその内容をメモ帳へ書き留め、資料を整理した。
そのあと、机の上のスマートフォンへ目を向けた。
今夜は彩花と、土曜日の時間について相談する予定だった。
まだ夕食まで少し時間がある。
悠真は急いで連絡するのではなく、まず家の用事を済ませることにした。
◇
水瀬家では、夕食後、彩花が自室で葉模様の日記帳を開いていた。
今日の文芸部での出来事を書き留めようとして、まず先生からの確認事項を思い出した。
金曜日に考えた修整案は、作者が大切にしていた間合いを残しながら、誰が部屋を出るのか分かりやすくするものだった。
けれど、動作を加えたことで、今度は時間の流れが少し曖昧になっていた。
今日、その点を作者本人と話し合い、新しい案を考えることができた。
彩花はペンを持ち、ゆっくりと書き始めた。
『月曜日。文芸部で、金曜日の修整案について先生から確認事項があった。誰が動くのか分かりやすくなっても、動いた時間が曖昧になることがあると分かった。作者の人が大切にしていた最後の一文を残しながら、新しい案を考えることができた』
彩花は少し考え、続きを書いた。
『文章を直すときは、一つの問題だけを見ればいいわけじゃない。前後のつながりや、作者が何を大切にしたいのかも考える必要がある。自分の物語を書くときにも、忘れないようにしたい』
書き終えたあと、彩花はペンを置いた。
今日の経験は、きっと自分の創作にも役立つだろう。
けれど、今夜はもう一つ、考えていることがあった。
次の土曜日、悠真と会うための時間を決めること。
彩花はスマートフォンを手に取り、画面を開いた。
ちょうどそのとき、悠真からメッセージが届いた。
『彩花さん、こんばんは。今日もお疲れさま。学校はどうだった?』
彩花は自然と微笑み、返信を打った。
『こんばんは、悠真君。今日もお疲れさま。文芸部で少し進展があったよ。まだ先生の最終確認は終わってないけど、作者の人が納得できる案を考えられたんだ』
少しして、悠真から返事が届いた。
『それはよかったね。金曜日に話してた文章のこと?』
『うん。前の案で新しく気になるところが見つかったんだけど、今日また考え直したの』
悠真はその文章を読み、静かに頷いた。
彩花が文芸部で文章の確認をしていることは、以前から聞いている。
ただし、ほかの部員の原稿の詳しい内容までは知らない。
悠真はその点を意識しながら、返信した。
『一度直したところでも、また考え直すことがあるんだね。彩花さんたちが丁寧に確認してるのが伝わってくるよ』
彩花はその言葉を読み、嬉しくなった。
自分たちの活動を、悠真はいつも大切に受け止めてくれる。
『ありがとう。私も、今日のことはすごく勉強になったよ』
彩花はそう返信したあと、少し考えた。
今夜は土曜日のことも相談したい。
けれど、急に話題を変えてもいいのだろうか。
少し迷ったあと、彩花は素直に聞いてみることにした。
『そういえば悠真君、土曜日の時間なんだけど、今日相談してもいい?』
送信すると、ほどなくして返事が届いた。
『もちろん。俺もちょうど考えてたところだよ』
彩花はその文章を読み、自然と頬が緩んだ。
悠真も、同じことを考えてくれていた。
◇
九条家の自室で、悠真はスマートフォンを見つめながら少し考えた。
次の土曜日、彩花と青凪市中央図書館へ行く方向で話が進んでいる。
互いの家の予定は、今のところ問題ない。
けれど、具体的な時間と待ち合わせ場所はまだ決まっていなかった。
悠真は以前、彩花と図書館で会ったときのことを思い出した。
午後一時半に待ち合わせ、館内で本を選び、帰り道も一緒に歩いた。
あの日は、夕方になる前に別れた。
とても楽しい時間だった。
けれど、今回は同じ時間にしなければならない理由はない。
彩花の都合を聞きながら、無理のない予定を決めたいと思った。
『彩花さんは、何時頃が都合いいかな? 午後なら俺は大丈夫そうだけど』
悠真が送ると、少しして返事が届いた。
『私も午後なら大丈夫だよ。前と同じくらいの時間でもいいし、少し早めでもいいかなって思ってる』
悠真はその文章を読み、少し考えた。
午後一時半なら、以前と同じように落ち着いて図書館へ入れる。
ただし、今回は本を選ぶだけでなく、彩花とゆっくり話したい気持ちもあった。
少し早めに会えば、その分だけ余裕ができるかもしれない。
『じゃあ、午後一時頃はどうかな? 図書館で本を見て、そのあと少し話す時間も取れそうだから』
彩花はそのメッセージを読み、少しだけ頬を赤くした。
図書館で本を見る。
そのあと、少し話す時間も取る。
悠真がそう考えてくれていることが、嬉しかった。
『うん。午後一時なら大丈夫だよ』
送信すると、悠真から返事が届いた。
『ありがとう。待ち合わせは、前と同じ中央図書館の入口付近でどうかな?』
彩花は以前の土曜日を思い出した。
青凪市中央図書館の入口付近で悠真を待ち、一緒に館内へ入った。
あの日のことは、今もよく覚えている。
『うん。分かりやすいし、そこがいいと思う』
悠真はその返事を読み、微笑んだ。
『じゃあ、次の土曜日の午後一時に、青凪市中央図書館の入口付近で待ち合わせにしよう』
彩花はその文章を読み、しばらく画面を見つめた。
次の土曜日。
午後一時。
青凪市中央図書館の入口付近。
今まで曖昧だった予定が、具体的な約束になった。
彩花は胸の奥が温かくなるのを感じながら、返信した。
『うん。楽しみにしてるね、悠真君』
悠真から、すぐに返事が届いた。
『俺も楽しみにしてるよ、彩花さん』
彩花はその文章を読み、思わず微笑んだ。
昨日、互いに会いたいと思っていることを伝えられた。
そして今日、実際に会う約束が決まった。
その小さな進展が、彩花にはとても大切に感じられた。
◇
約束を決めたあと、二人は少しだけ土曜日に何をしたいか話した。
彩花は、図書館で新しい本を探したいと思っている。
悠真も、以前から気になっていた本を見てみたいと考えていた。
ただし、古い町の写真集については、まだ同じ本が見つかっていない。
そのため、土曜日に必ず一緒に読めるとは限らなかった。
『写真集のことは、まだ結果が分からないから、土曜日までに見つからなくても気にしないでね』
彩花が送ると、悠真から返事が届いた。
『うん。ありがとう。写真集が見つからなくても、彩花さんと一緒に本を選べるだけで楽しみだよ』
彩花はその文章を読み、少しだけ頬を赤くした。
自分も、同じ気持ちだった。
写真集の約束は大切だ。
けれど、それだけが悠真と会いたい理由ではない。
同じ場所で本を見て、気になったことを話して、互いの考えを聞く。
その時間そのものが、彩花には嬉しかった。
『私もそうだよ。悠真君と一緒に本を選ぶの、楽しみにしてる』
送信したあと、彩花は少しだけ息を吐いた。
今夜も、自分の気持ちを素直に伝えられた。
それが、以前よりも自然にできるようになっている気がした。
悠真から、もう一つメッセージが届いた。
『土曜日、もし天気が悪かったら無理しないでね。前日にも確認しよう』
彩花はその言葉を読み、頷いた。
秋から冬へ向かう季節は、天気や気温が変わりやすい。
無理をせず、前日に確認するのは大切なことだった。
『うん。金曜日にもう一回確認しようね』
『そうしよう。ありがとう、彩花さん』
二人はそこで、土曜日の予定についての話を終えた。
待ち合わせの日時と場所は決まった。
けれど、図書館で何を読むのか、どのくらい滞在するのかは、まだ決めていない。
その日の気分や、見つけた本によって変わることもあるだろう。
彩花はそれでいいと思った。
悠真と一緒に過ごせる時間がある。
今は、それだけで十分に楽しみだった。
◇
メッセージのやり取りを終えたあと、彩花は机の上の予定表を開いた。
次の土曜日の欄へ、丁寧に書き込む。
『午後一時 青凪市中央図書館入口付近 悠真君と待ち合わせ』
書き終えたあと、彩花はしばらくその文字を見つめた。
以前にも、悠真と会う約束を書いたことはある。
けれど、今日は少し違う気持ちがあった。
悠真が、自分に会いたいと言ってくれた。
そして、自分も同じ気持ちだと伝えられた。
そのうえで決まった約束だった。
(今度は、どんな話ができるかな。悠真君が最近読んだ本のことも聞きたいし、私も話したいことがたくさんある)
彩花は少し考え、星模様の創作ノートへ目を向けた。
自分の物語については、まだ完成していない。
今日も文芸部で学んだことを、今後の文章へ生かしたいと思っている。
けれど、土曜日までに完成させなければならないわけではない。
悠真は、彩花が納得できるものになるまで、ゆっくり書いてほしいと言ってくれていた。
彩花はその言葉を思い出し、静かに微笑んだ。
自分の好きなものを、大切にしてくれる人。
その人と、また会える。
彩花はそのことを胸に、葉模様の日記帳を開いた。
『月曜日。文芸部で、先生からの確認事項をもとに新しい修整案を考えた。作者の人が大切にしていた雰囲気を残しながら、前より自然な文章に近づけたと思う。まだ最終承認は終わっていないけれど、少し前へ進んだ』
彩花は少し考え、続きを書いた。
『夜、悠真君と土曜日の予定を相談した。次の土曜日、午後一時に青凪市中央図書館の入口付近で待ち合わせることになった。写真集が見つかっていなくても、一緒に本を選ぶ時間を楽しみにしてくれていることが嬉しかった』
書き終えたあと、彩花はペンを置いた。
日記帳の文字を見つめていると、自然と頬が緩む。
土曜日まで、まだ数日ある。
その間にも学校があり、文芸部の活動があり、自分の物語を書き進める時間がある。
けれど、週末に楽しみが一つあるだけで、いつもの一週間が少し違って見える気がした。
彩花は日記帳を閉じ、机の上へ丁寧に置いた。
◇
九条家の自室で、悠真も土曜日の予定をメモ帳へ書き込んでいた。
次の土曜日。
午後一時。
青凪市中央図書館の入口付近。
彩花と待ち合わせ。
悠真は書き終えた文字を見つめ、静かに微笑んだ。
昨日、彩花へ会いたいという気持ちを伝えた。
そのときは、少し緊張した。
けれど、彩花も同じように思ってくれていた。
そして今日、具体的な約束が決まった。
悠真は机の上の淡い青色の花模様のカードへ目を向けた。
彩花から贈られた、大切なカード。
そこには、彼女が自分の好きなものを大切にしてくれたことへの感謝と、悠真と話す時間が好きだという言葉が書かれている。
悠真はそのカードを見ながら、最近の自分の気持ちを思い返した。
彩花と本の話をする時間が好きだ。
彼女が何を考えているのか知りたい。
そして、できることなら、もっと一緒に過ごしたい。
その気持ちは、以前よりもはっきりしてきている。
(彩花さんと会えるの、楽しみだな。今度は、前よりもゆっくり話せるといいな)
悠真はカードを丁寧に戻し、窓の外へ目を向けた。
庭の木々は夜の暗さに包まれ、枝先の芽も静かに揺れている。
その芽がいつ開くのかは、まだ分からない。
けれど、毎日少しずつ変化していくものがあることを、悠真は最近よく考えるようになっていた。
彩花との関係も、きっとそうなのだろう。
急に何かが変わるわけではない。
けれど、一緒に過ごした時間や、交わした言葉が少しずつ積み重なっている。
悠真はそのことを思いながら、部屋の明かりを落とした。
月曜日の夜は、静かに更けていった。
彩花は、土曜日に悠真と会う約束が決まったことを楽しみにしながら、ゆっくりと目を閉じた。
悠真もまた、彩花と過ごす次の時間を思い描きながら、穏やかな眠りへ落ちていった。




