第159話 日曜日の約束は、会いたいという言葉から
日曜日の朝、水瀬彩花は、階下から聞こえてきた小さな物音で目を覚ました。
まだ目覚まし時計が鳴る前だったが、窓の向こうはすでに明るく、カーテンの隙間から差し込む光が机の端を照らしている。昨日は凛花と植物を見に行き、帰宅してからも妹の部屋の明るさを確かめたり、自分の創作ノートを読み直したりしていたため、眠る頃には少し疲れていたはずだった。
それでも、目を覚ました今は不思議と気分がよかった。
彩花は布団の中で軽く伸びをしてから、枕元のスマートフォンへ目を向けた。昨夜、悠真と交わしたメッセージが残っている。
青凪市中央図書館へ行き、古い町の写真集について相談してきたこと。
同じ本はまだ見つからなかったものの、図書館の職員へ所蔵調査をお願いできたこと。
そして、悠真も昔の暮らしが写った写真を見て、そこにいた人たちが何を考えていたのか想像したということ。
彩花はそのやり取りを思い出し、自然と微笑んだ。
(悠真君、昨日も図書館へ行ってたんだよね。私が借りた写真集のために、そこまでしてくれるなんて……)
自分が同じ本を読んでほしいと思ったから、悠真も探してくれている。
けれど、彼は自分自身も興味があるからだと、何度も伝えてくれていた。彩花はその言葉を疑っていないが、だからこそ、二人で同じものを楽しみにできることが嬉しかった。
彩花はスマートフォンを置き、起き上がった。
机の上には、青葉高校の図書室から借りている写真集と、星模様の創作ノートが並んでいる。写真集には、彩花が選んだ一枚のページへ紙のしおりが挟まれていた。
庭先で植木鉢を見つめる女性。
木の柵や洗濯物、片づけられた箒、使い込まれた道具。
その写真を最初に見たとき、彩花は特別な理由を説明できなかった。ただ、なぜか何度も目を向けたくなり、ほかの写真を読み終えたあとも、そのページへ戻ってしまったのだ。
昨日、凛花と植物を見に行ってからは、少しだけ理由が分かってきた気がする。
植物を育てることは、何かを買って飾るだけではない。
どこへ置くかを考え、日々の様子を確かめ、必要な世話を続けていくことだった。
写真の中の女性も、そんな時間を過ごしていたのかもしれない。
もちろん、それは彩花の想像にすぎない。
それでも、何気ない暮らしの一場面に惹かれたことは確かだった。
彩花は写真集を開かず、まず顔を洗いに階下へ向かった。
◇
居間へ入ると、父の耕助が窓際で新聞を畳んでいた。
母の紗月は台所で朝食の準備をしており、凛花は食卓に小さなノートを広げている。昨日、園芸店へ持っていったノートだった。
「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよう、凛花。今日も植物のことを調べてるの?」
「うん。でも、昨日とちょっと違うんだ」
凛花は顔を上げ、ノートの新しいページを彩花へ見せた。
そこには、昨日店員から教えてもらったことが整理されていた。
置き場所の明るさを確認すること。
水やりの頻度は植物によって異なること。
鉢の大きさや受け皿も考えること。
そして、気に入った植物でも、自分の部屋に合うとは限らないこと。
「昨日の夜、もう一回まとめたの。お店ではいろいろ聞いたけど、全部覚えてる自信がなかったから」
凛花は少し照れくさそうに笑った。
彩花は椅子へ座り、妹のノートを覗き込んだ。
「ちゃんと整理できてるね。これなら、次にお店へ行くときも相談しやすそう」
「そうなの。あとね、候補を三つくらいに絞りたいんだけど、まだ名前をちゃんと覚えられてなくて」
「昨日、札を見たものもあったけど、全部は覚えてないもんね」
「うん。だから、次は名前も書いてくる」
凛花はそう言って、ノートの余白へ小さく丸を三つ描いた。
まだ植物を購入していないし、候補も確定していない。
けれど、昨日よりも何を確認すればいいのか分かっているようだった。
紗月が朝食を運びながら、二人の会話へ加わった。
「凛花、今日は昨日より日差しが強いから、置こうと思っている場所をもう一度見ておくといいわね。昨日だけの明るさで決めない方がいいでしょう」
「うん。午前中と午後で、どのくらい違うか見てみる」
凛花が頷くと、耕助も新聞を脇へ置いて口を開いた。
「棚の上に置くなら、鉢が落ちないかも確認しないとな。窓を開けたときに風が当たる場所なら、そのことも考えた方がいい」
「分かった。お父さんにも、あとで見てもらっていい?」
「もちろん」
凛花は嬉しそうに笑い、ノートを閉じた。
彩花は家族のやり取りを聞きながら、昨日の店で妹が植物を買わなかったことを思い出した。
気に入ったものがあったのに、急いで決めなかった。
それは凛花にとって、少し勇気のいる選択だったのかもしれない。
「凛花、昨日は買わなくてよかったって思ってる?」
彩花が尋ねると、凛花は少し考えた。
「うん。最初は残念だったけど、今はよかったと思ってる。だって、何も知らないまま買ってたら、置く場所でまた迷ってたかもしれないし」
凛花はノートを指先で軽く押さえた。
「ちゃんと育てたいから、もう少し考える」
その言葉に、彩花は静かに頷いた。
好きなものを大切にするために、急がないこともある。
昨日から続いている妹の小さな決意が、彩花には頼もしく感じられた。
◇
朝食を終えたあと、彩花は自室へ戻り、星模様の創作ノートを開いた。
今日は学校も文芸部も休みだった。
部誌『いつか、ここに』については、金曜日に作者本人が新しい修整案を考え、変更履歴へ記録するところまで進んでいる。先生の再確認はまだ終わっていないため、彩花が自宅で勝手に内容を変更することはできなかった。
その代わり、今日は自分の物語へ時間を使おうと思っていた。
祖母へ手紙を書く少女の物語。
冒頭には、庭の花がもうすぐ咲きそうだという言葉がある。
少女は毎朝、蕾の様子を確かめている。
そして、祖母と過ごした庭の記憶を思い出しながら、今の自分が見つけた小さな変化を伝えようとしている。
彩花は以前の文章を読み返し、昨日書いた別案にも目を通した。
古い園芸道具の柄に残る傷。
幼い少女が、その傷について祖母へ尋ねたこと。
祖母の返事は思い出せないのに、少し困ったように笑っていた顔だけは覚えていること。
その部分について、昨日は新しい文章を書いてみた。
ただし、道具の種類や実際の手入れ方法については、まだ確認が必要だった。
(今日は、そこをもう少し調べてみようかな。何となく想像だけで書くより、実際にどう使うのか知っておきたいし)
彩花はノートの余白へ書いた確認事項を読み直した。
園芸道具の種類。
柄の傷ができる理由。
使い終わったあとの手入れ。
そして、長く使っていた道具にどんな変化が残るのか。
彩花はスマートフォンで調べ始めたが、しばらくして手を止めた。
園芸道具といっても、種類が多すぎる。
土を掘るための道具もあれば、枝を切るためのものもある。柄の素材や形も違い、手入れの方法も同じではなかった。
彩花は画面を見つめながら、少し困ってしまった。
(先に、どんな道具なのか決めた方がいいのかな。でも、道具を決めるためにも、使い方を知らないと……)
しばらく考えたあと、彩花は昨日の凛花の姿を思い出した。
分からないことがあれば、実際に知っている人へ尋ねる。
凛花は園芸店でそうしていた。
彩花はノートを閉じ、階下へ向かった。
◇
台所では、紗月が昼食の下準備をしていた。
彩花が声をかけると、紗月は手を止めて振り返った。
「どうしたの、彩花?」
「お母さん、ちょっと聞いてもいい?」
「ええ、いいわよ」
彩花は少し考えてから尋ねた。
「庭で使う道具って、長く使ってると柄に傷がついたりするでしょう? ああいう傷って、どんなときにつくものなのかな」
紗月は少し意外そうな顔をした。
「園芸道具のこと?」
「うん。今、ちょっと文章を書いてて、古い道具が出てくるんだけど、実際のことをあまり知らないなって思って」
彩花は自分の物語の細かな内容には触れず、調べたいことだけを説明した。
紗月は頷き、少し考えた。
「道具によるけれど、長く使えば細かな傷はつくと思うわ。ただ、どんな傷ができるかは、使い方や素材にもよるでしょうね」
「そっか。やっぱり、種類によって違うんだね」
「そうね。何か具体的な道具を考えているの?」
「まだ決めきれてないの。庭で使う小さな道具にしようかなって思ってるんだけど」
紗月はしばらく考えたあと、台所の窓から庭へ目を向けた。
「それなら、物置にある道具を見てみる? 古いものもあるけれど、実際にどんな形をしているかは分かると思うわ」
彩花は顔を上げた。
「いいの?」
「もちろん。ただ、使うわけじゃないなら、汚れや刃のある部分には気をつけてね」
「うん。見るだけにする」
紗月は手を洗い、彩花と一緒に庭へ出た。
物置には、掃除用品や園芸用品が整理して置かれていた。紗月はその中から、使い込まれた小さな移植ごてを取り出した。
「これなら、形を見やすいと思うわ」
彩花は道具を受け取り、慎重に眺めた。
金属の部分には細かな擦れ跡があり、柄にも使用による小さな傷が見える。ただし、どの傷がいつできたものなのかは分からず、すべてが土を掘る作業によるものとも限らなかった。
「本当だ。思ってたより、いろんなところに跡があるんだね」
「そうね。道具を置くときに何かへ当たることもあるし、使い方によっても違うでしょう」
紗月は道具の柄を指しながら、使い終わったあとは汚れを落とし、必要に応じて乾かしてからしまうことを説明した。
彩花はその話を聞き、以前書いた文章を思い出した。
祖母が丁寧に手入れしていたのに、持ち手の隙間だけはいつも土が残っていた。
その描写は、道具の形や使い方を十分に考えずに書いたものだった。
けれど、目の前の道具を見ると、長く使われてきたことを表す方法は、土が残っていることだけではないと分かる。
柄に刻まれた細かな傷。
金属部分の擦れ跡。
手入れをしながら使い続けてきた時間。
彩花はそれらを一つずつ確かめ、静かに頷いた。
「ありがとう、お母さん。すごく参考になった」
「よかった。文章を書くために調べてたのね」
「うん。ちゃんと書けるか、まだ分からないけど」
彩花が少し照れくさそうに答えると、紗月は優しく微笑んだ。
「分からないことを調べながら書くのも、楽しいんじゃない?」
「……うん。今日、ちょっとそう思った」
彩花はもう一度道具を眺め、紗月へ返した。
物置へ戻す前に、柄の形や傷の位置を自分の目で確かめておく。
実際の道具を見たことで、これまで曖昧だった場面が、少し具体的になった気がした。
◇
自室へ戻った彩花は、すぐに創作ノートを開いた。
先ほど見た移植ごての形を思い出しながら、以前の文章と新しい案を比べる。
祖母が使っていた道具の種類を、今の段階で必ず移植ごてに決める必要はない。
けれど、少なくとも、柄に残る傷という描写は、実物を見たことで以前より具体的に考えられるようになった。
彩花はノートの余白へ書き込んだ。
『道具の傷は、長く使ってきた時間を表すものとして残す。土がいつも隙間に残っている描写は、現時点では採用しない。道具の種類を決めたあと、必要なら細部を調整する。』
書き終えると、彩花は少しだけ肩の力を抜いた。
文章を削ることが、必ずしも大切なものを失うことではない。
自分が伝えたかったことを守るために、別の描写へ変えることもできる。
それは、金曜日の文芸部で学んだことと同じだった。
彩花は改めて物語の続きを考えた。
祖母へ手紙を書く少女は、庭の蕾が開くのを待っている。
毎朝、昨日との違いを探している。
けれど、祖母が昔教えてくれた言葉については、まだ確かな記憶がない。
以前書いた「おばあちゃんが昔、私に教えてくれたように」という一文は、その点で少し曖昧だった。
彩花はその部分を読み返し、新しい案を書いた。
『それでも、明日の朝も見てみようと思います。おばあちゃんと一緒に庭へ出ていた頃のように、時間をかけて花を眺めてみたいからです。』
彩花はペンを止めた。
この文章なら、祖母が何を教えたのかを新しく決める必要はない。
少女が覚えているのは、一緒に庭へ出ていた時間そのものだからだ。
彩花はもう一度読み返し、少し考えたあと、余白へ「採用候補」と書き添えた。
まだ物語は完成していない。
けれど、今日は実際に道具を見たことで、書きたい場面の輪郭が以前よりもはっきりした。
彩花はそのことを嬉しく思いながら、ノートを閉じた。
◇
同じ頃、九条家では、悠真が自室で古い駅前写真の資料を整理していた。
昨日は青凪市中央図書館へ行き、彩花が借りている写真集について相談してきた。
同じ本の所蔵はまだ確認できず、取り寄せられるかどうかも分からない。職員へお願いした確認の結果が出るまでは、焦らず待つつもりだった。
そのため、今日は森川航平と調べている駅前写真の方へ時間を使っていた。
机の上には、二つの撮影地点候補について整理した表がある。
道路の曲がり方。
周囲の建物の配置。
地図が作られた年代。
写真の撮影時期について確認できていること。
そして、写真の端に写っている正体不明の物体。
悠真は一つずつ見直しながら、航平が金曜日に書き加えた「候補として残す理由」の欄へ目を向けた。
以前よりも分かりやすくなっている。
けれど、まだ二つの候補を決定的に区別できる資料は見つかっていなかった。
(どちらかを選ぶために、今ある資料だけを見直し続けても限界があるかもしれないね)
悠真はそう考え、以前見つけた施設案内の情報を確認した。
駅前の施設配置が、ある時期に変わっていたことは分かっている。
ただし、具体的にいつ、どの施設がどこへ移ったのかは、まだ明らかになっていない。
そのため、写真の端に写る物体を特定する根拠として使うには不十分だった。
悠真はメモ帳へ、次に確認したい資料の種類を書き出した。
施設配置の変化が分かる年代別の案内図。
駅前の建物や設備が写った別の写真。
撮影時期を絞る手がかりになる記録。
書き終えると、悠真は少し考えた。
これまでの調査では、写真に似ている場所を探すことが中心になっていた。
けれど、今は候補を比べるための条件が見えてきている。
次は、その条件を確かめられる資料を探す段階なのだろう。
悠真は表を見直し、航平へ共有するための短いメモを作った。
ただし、日曜日にすぐ返事を求める必要はない。
明日、学校で会ったときに話せば十分だった。
◇
昼食のあと、悠真が居間へ下りると、妹の琴葉がテーブルの上で押し葉作品の配置を試していた。
薄い緑色と生成り色の台紙が並び、その上には形を崩さないように扱われた葉が置かれている。
「お兄ちゃん、ちょうどよかった。ちょっと見てくれる?」
琴葉が顔を上げた。
「もちろん。昨日の続き?」
「うん。今日は、葉っぱの向きを変えてみたの」
悠真は隣へ座り、二つの台紙を見比べた。
昨日までの配置では、葉が中央に集まっていた。
けれど、今日は少し斜めに並べられており、葉の形が以前よりも自然に見えるような気がした。
「いいね。前より、葉っぱの形が分かりやすい気がする」
「本当?」
「うん。ただ、どっちの台紙がいいかは、琴葉がどんな雰囲気にしたいかによると思うよ」
琴葉は少し考え、生成り色の台紙へ目を向けた。
「私ね、最初は優しい感じにしたいから薄い緑がいいかなって思ってたんだけど、今は葉っぱそのものの色を見せたい気持ちの方が強いかもしれない」
悠真はその言葉を聞き、頷いた。
「じゃあ、生成り色の方が合ってると思う?」
「うん。でも、まだ貼る前だから、もう少し見比べたい」
琴葉はそう言って、葉を慎重に動かした。
悠真はその様子を見ながら、妹が少しずつ自分の考えを整理していることを感じていた。
最初は台紙の色だけで迷っていた。
けれど、今は何を見せたいのかを考え、そのために配置も工夫している。
「琴葉、前より決めやすくなってきたみたいだね」
「うん。お兄ちゃんが、何を大切にしたいのか聞いてくれたからかも」
琴葉は少し照れくさそうに笑った。
悠真も微笑み返した。
自分は、答えを決めてあげたわけではない。
ただ、琴葉が何を考えているのか尋ねただけだった。
それでも、その質問が少し役に立ったのなら嬉しかった。
悠真はふと、彩花が文芸部で経験したことを思い出した。
作者が何を大切にしていたのか尋ねたことで、文章の直し方が変わったという話。
人が何かを作るときには、外から見ただけでは分からない理由がある。
そのことを、今日も身近なところで感じていた。
◇
午後三時を少し過ぎた頃、彩花は自室で写真集を読んでいた。
今日は自分が選んだ写真だけではなく、その前後のページもゆっくり見直している。
同じ通りを異なる年代に撮影した写真。
店先に商品を並べる人々。
川沿いの道を歩く子どもたち。
そして、家々の庭先に置かれた生活用品。
彩花はページをめくりながら、以前とは少し違うところへ目が向くようになったことに気づいた。
最初に読んだときは、写真の中に何が写っているのかを探していた。
けれど、今日は、そのものがどうしてそこに置かれているのかを考えることが増えている。
店先の籠は、商品を運ぶためのものだろうか。
道端の椅子は、誰かが休むために置いたものだろうか。
庭の箒は、掃除の途中だったのだろうか。
もちろん、写真だけで答えを決めることはできない。
彩花はその違いを意識しながら、気になった箇所をメモへ書き留めた。
やがて、しおりを挟んだページへ戻る。
庭先で植物を見つめる女性の写真だった。
彩花はしばらく眺め、昨日とは少し違うことを考えた。
(この人は、何をしていたんだろう。植物の様子を見ていたのかもしれないし、鉢を動かそうとしていたのかもしれない。でも、そこまでは分からないんだよね)
彩花は写真の説明文を読み返した。
撮影された町や年代については書かれているが、女性の名前や、そのときの詳しい状況までは分からない。
それでも、この写真を好きだという気持ちは変わらなかった。
彩花は観察メモを開き、自分がこの一枚を選んだ理由を書き直した。
『庭先の女性と植木鉢の写真。特別な出来事ではなく、日常の途中が残されているように感じるところが好き。女性の行動や気持ちは分からないが、そこに暮らしがあったことを想像できる。』
書き終えたあと、彩花は少し考え、もう一行加えた。
『昨日、凛花と植物を見に行ってから、鉢を選び、置き場所を考え、世話を続ける時間も、この写真の向こうにあったのかもしれないと思うようになった。』
彩花はペンを置いた。
この文章を、いつか悠真へ伝えたい。
彼が同じ本を読んで、自分の好きな一枚を選んだあとで。
そのとき、悠真はどんなことを話してくれるのだろう。
彩花は写真集を閉じ、少しだけ窓の外へ目を向けた。
日曜日の午後は穏やかで、遠くから子どもたちの遊ぶ声が聞こえていた。
◇
夕方、悠真はハクと庭で過ごしていた。
白い毛並みのサモエドは、悠真が庭へ出ると嬉しそうに近づき、足元で尻尾を振っている。悠真はしゃがんでハクの背を撫で、庭の木々へ目を向けた。
枝先の芽は、まだ開いていない。
けれど、数日前より少しふくらんで見える気もする。
悠真は近づいて確かめたが、以前の写真と同じ角度で比較しているわけではないため、はっきりした変化とは言えなかった。
「ハク、まだ咲かないみたいだね」
悠真が声をかけると、ハクは意味が分かったのかどうか分からないまま、嬉しそうに尻尾を振った。
悠真は思わず笑った。
ハクにとっては、芽が開くかどうかよりも、一緒に庭へ出ている時間の方が大切なのかもしれない。
その姿を見ながら、悠真は彩花のことを考えた。
彩花は、通学路の蕾を観察している。
月曜日と水曜日に撮影した写真を比べ、金曜日には雨上がりの様子も記録したと、以前のやり取りで少し聞いていた。
彼女は、小さな変化を見つけることを楽しんでいる。
けれど、変わっていないものを無理に変わったことにはしない。
その丁寧さが、悠真には好ましかった。
そして、もう一つ考えていることがあった。
彩花と、次にいつ会えるだろう。
最後に直接会ったのは、以前の土曜日だった。
青凪市中央図書館で本を読み、そのあと一緒に歩いて、夕方になる前に別れた。
それからは、それぞれの学校や家庭で過ごしながら、メッセージを交わしている。
離れていても、話したいことはたくさんある。
けれど、最近はその話を直接聞いてみたいと思うことが増えていた。
(写真集が見つかるまで待たなくても、彩花さんと会いたいって伝えていいんだよね)
悠真はハクの背を撫でながら、静かに考えた。
同じ本を読む約束と、次に会うことは別の話だ。
写真集が見つからなければ会えないわけではない。
彩花が忙しいなら、無理に予定を合わせる必要もない。
けれど、自分が会いたいと思っていることを、伝えずにいる理由もなかった。
悠真は庭の木々を見上げ、少しだけ微笑んだ。
今日は、彩花へその気持ちを伝えてみよう。
ただし、返事を急がせるつもりはなかった。
◇
夕食後、彩花は机の上の資料を整理していた。
星模様の創作ノートには、今日見直した文章と、園芸道具について確かめたことが残っている。
写真集には、好きな一枚のページへしおりが挟まれている。
そして、葉模様の日記帳はまだ開いていなかった。
彩花は創作ノートを閉じ、少し休もうと思ってスマートフォンを手に取った。
ちょうどそのとき、画面に通知が表示された。
悠真からだった。
『彩花さん、こんばんは。日曜日、ゆっくり過ごせた?』
彩花は自然と微笑み、返信を打った。
『こんばんは、悠真君。うん、今日は家で創作のことを考えたり、写真集を読んだりしてたよ。悠真君は?』
少しして、返事が届いた。
『俺も家で調べ物をしてたよ。駅前の古い写真について、次に確認したい資料を整理してたんだ』
彩花はその文章を読み、興味を持った。
悠真が古い駅前写真を調べていることは知っている。
けれど、具体的にどこまで進んでいるのかは、すべて聞いているわけではなかった。
『そうなんだ。何か新しいことが分かったの?』
『今日は新しい事実が見つかったわけじゃないんだけど、今ある資料だけでは判断できないところを整理できたよ。次に何を探せばいいか、少しはっきりしたんだ』
彩花はその返事を読み、静かに頷いた。
自分も今日、似たことを考えていた。
園芸道具について分からないまま文章を書き直すのではなく、実際の道具を見て確かめた。
すべての問題が解決したわけではないが、どこを直したいのかは以前より分かってきた。
『分からないことを整理するのも、大事なんだね。私も今日、文章を書くためにちょっと調べ物をしたんだ』
送信すると、悠真から返事が届いた。
『そうだったんだね。彩花さんの書いてる物語のこと?』
彩花は少しだけ頬を赤くした。
悠真は、自分が物語を書いていることを覚えてくれている。
けれど、祖母へ手紙を書く少女の話だということや、庭の道具について調べていることは、まだ伝えていない。
『うん。まだ完成してないけど、今日は少しだけ進んだ気がする』
彩花はそう返信した。
悠真から、すぐに返事が届いた。
『それはよかった。完成したら最初に読ませてもらえるの、楽しみにしてるね』
彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
完成したら最初に読んでもらう。
以前交わした約束を、悠真は今も大切にしてくれている。
『ありがとう。まだ時間はかかりそうだけど、ちゃんと完成させたいな』
彩花が送ると、悠真は少し間を置いて返信した。
『うん。彩花さんが納得できるものになるまで、ゆっくり書いてね』
彩花はその言葉を読み、静かに微笑んだ。
急がなくていい。
そう言ってもらえるだけで、少し安心できる。
けれど、今日はそれだけでは終わらなかった。
◇
九条家の自室で、悠真はスマートフォンを見つめていた。
彩花が今日も物語を書いていたことを知り、嬉しく思っている。
彼女がどんな文章を書いているのかは、まだ知らない。
それでも、完成したら最初に読ませてもらえるという約束を、今から楽しみにしていた。
悠真は一度画面を閉じかけ、少し考えてから再び開いた。
今日、庭で考えたことがある。
彩花へ、会いたいと伝えること。
特別な理由を用意する必要はない。
写真集が見つかったからでも、何かを渡すものがあるからでもなく、ただ直接話したいと思っている。
悠真はその気持ちを、できるだけ自然な言葉にしようと考えた。
最初に打った文章は、少し回りくどかった。
次に打った文章は、予定を決めることばかり先に出てしまっていた。
悠真は二つとも消し、しばらく画面を見つめた。
(彩花さんに伝えたいのは、予定を空けてほしいってことだけじゃないんだよね)
悠真はゆっくりと文章を打った。
『彩花さん、もう一つ話してもいいかな?』
送信すると、ほどなくして返事が届いた。
『うん。もちろん。どうしたの?』
悠真は小さく息を吐き、続きを打った。
『最近、彩花さんと話していて、また直接会って話したいなって思うことが増えたんだ。写真集が見つかるまで待たなくても、よかったら今度一緒に図書館へ行かない?』
送信したあと、悠真はしばらく画面を見つめていた。
言葉にしてみると、思っていたよりも緊張する。
これまでにも、彩花と一緒に図書館へ行ったことはある。
けれど、今回は何かの用事が先にあったわけではない。
自分が会いたいと思ったから、誘った。
その違いを、悠真自身がはっきり感じていた。
◇
彩花は、届いたメッセージを読んで動きを止めた。
『最近、彩花さんと話していて、また直接会って話したいなって思うことが増えたんだ。写真集が見つかるまで待たなくても、よかったら今度一緒に図書館へ行かない?』
彩花は一度読み終え、もう一度最初から読んだ。
そして、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
(悠真君が……私に会いたいって、言ってくれた)
以前も一緒に図書館へ行ったことはある。
そこで本を選び、感想を話し、帰り道を並んで歩いた。
その時間は、彩花にとって大切な思い出になっている。
けれど、今夜の誘いは、少し違って感じられた。
悠真は、同じ写真集が見つかるまで待つ必要はないと言ってくれている。
何かの用事があるから会うのではなく、直接話したいと思ってくれたのだ。
彩花はスマートフォンを持ったまま、しばらく考えた。
嬉しい。
その気持ちは、すぐにはっきりした。
けれど、どう返事をすればいいのか分からない。
ただ「いいよ」と答えるだけでは、自分の気持ちが十分に伝わらない気がした。
彩花は一度文章を打ちかけ、少し考えてから消した。
そして、ゆっくりと返信を打った。
『私も、悠真君とまた直接会って話したいって思ってたよ。誘ってくれて、すごく嬉しい』
送信した瞬間、彩花はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。
自分でも、少し大胆なことを書いた気がした。
けれど、嘘ではない。
悠真と会いたい。
それは、最近ずっと心の中にあった気持ちだった。
少しして、返事が届いた。
『ありがとう、彩花さん。そう言ってもらえて、俺もすごく嬉しい』
彩花はその文章を読み、思わず微笑んだ。
悠真も嬉しいと思ってくれている。
そのことが、胸の奥へゆっくりと広がっていった。
◇
しばらくして、悠真から次のメッセージが届いた。
『もし都合がよければ、次の土曜日はどうかな? 難しければ別の日でも大丈夫だよ』
彩花は予定を思い返した。
次の土曜日について、今のところ確定している予定はなかった。
ただし、家族の用事が入る可能性もあるし、文芸部の活動予定も念のため確認しておきたかった。
彩花はそのことを、正直に伝えることにした。
『次の土曜日なら、今のところ大丈夫そうだよ。でも、家の予定も一応確認してから返事してもいい?』
悠真から、すぐに返事が届いた。
『もちろん。急がなくて大丈夫だよ。俺も家の予定を確認しておくね』
彩花はその文章を読み、少し安心した。
まだ正式に決まったわけではない。
けれど、二人とも次の土曜日に会いたいと思っている。
そのことだけで、十分に嬉しかった。
『ありがとう。確認できたら連絡するね』
『うん。楽しみにしてる』
彩花はその短い返事を読み、自然と微笑んだ。
写真集は、まだ見つかっていない。
自分が選んだ一枚も、まだ悠真には秘密のままだ。
けれど、同じ本を読む約束とは別に、二人で会う時間を考え始めた。
そのことが、彩花には少し特別に感じられた。
◇
メッセージのやり取りを終えたあと、彩花は階下へ向かった。
居間では、紗月が明日の準備をしており、凛花は父の耕助と植物を置く棚について話していた。
「お母さん、ちょっといい?」
彩花が声をかけると、紗月は顔を上げた。
「どうしたの?」
「来週の土曜日って、何か家の予定あるかな?」
紗月は少し考え、手元の予定表を確認した。
「今のところ、家族全員で出かける予定は入っていないと思うわ。何かあるの?」
彩花は少しだけ頬を赤くした。
「うん。友達と図書館へ行くかもしれなくて」
紗月は穏やかに頷いた。
「そうなのね。何時頃になる予定?」
「まだ決まってないの。先に予定があるか確認してから、時間を決めようと思って」
「それなら大丈夫そうね。ただ、帰る時間が遅くならないように、決まったら教えてね」
「うん。ありがとう」
彩花はほっとしたように微笑んだ。
その様子を見ていた凛花が、少し興味深そうに顔を上げた。
「お姉ちゃん、図書館って、前に行ったところ?」
「うん。青凪市中央図書館だよ」
「そうなんだ。いいなあ」
凛花は少し笑ったあと、すぐに父との話へ戻った。
彩花はその様子を見て、少し安心した。
家の予定は、今のところ問題なさそうだった。
ただし、具体的な時間や待ち合わせ場所は、まだ決まっていない。
彩花は自室へ戻り、悠真へ確認できたことを伝えることにした。
◇
九条家でも、悠真が母の麗華へ来週の土曜日の予定を尋ねていた。
麗華は手元の予定を確認し、今のところ家族の用事は入っていないと答えた。
「図書館へ行く予定なの?」
「うん。友達と一緒に行こうと思ってるんだ」
悠真が答えると、麗華は微笑んだ。
「そう。予定が決まったら、帰る時間も教えてね」
「分かった。ありがとう」
悠真は礼を言い、自室へ戻った。
机へ座ると、スマートフォンに彩花からのメッセージが届いていた。
『悠真君、家の予定を確認したよ。次の土曜日、今のところ大丈夫だって』
悠真はその文章を読み、自然と笑顔になった。
自分も確認できたことを伝える。
『俺も確認できたよ。次の土曜日は大丈夫そうだね』
彩花から、少しして返事が届いた。
『うん。楽しみだね』
悠真はその短い文章を見つめた。
楽しみだね。
その言葉が、今夜はいつも以上に嬉しく感じられた。
悠真は少し考え、続きを打った。
『時間は、また相談して決めようか。彩花さんが無理なく来られる時間にしたいから』
彩花はその文章を読み、静かに頷いた。
『ありがとう。じゃあ、明日か明後日くらいに相談してもいい?』
『もちろん。学校が終わってからでも大丈夫だよ』
二人はそこで、具体的な時間を決めることを急がなかった。
来週の土曜日に会う方向で考えること。
互いの家の予定は、今のところ問題ないこと。
そして、待ち合わせの時間や場所は、改めて相談すること。
そこまで確認できれば、今夜は十分だった。
◇
彩花はスマートフォンを置き、しばらく机の前で動けずにいた。
来週の土曜日。
悠真と、また会えるかもしれない。
そのことを考えるだけで、胸の奥が温かくなる。
以前、一緒に図書館へ行ったときも楽しかった。
けれど、今回は少し違う。
悠真が、自分に会いたいと思ってくれた。
そして、自分も同じ気持ちだと伝えられた。
彩花は机の上の写真集へ目を向けた。
まだ同じ本は見つかっていない。
けれど、次に会ったときには、写真集以外にも話したいことがたくさんある。
文芸部で考えたこと。
凛花と植物を見に行ったこと。
最近、通学路の蕾を観察していること。
そして、悠真がどんな本を読んでいるのか、もっと聞いてみたい。
彩花は少し考え、星模様の創作ノートへ目を向けた。
自分の物語については、まだ詳しく話さないつもりだった。
完成したら最初に読んでもらうという約束を、今も大切にしているからだ。
けれど、完成までの時間を急ぐ必要はない。
悠真は、彩花が納得できるものになるまで、ゆっくり書いてほしいと言ってくれた。
その言葉を思い出すと、少し安心できた。
彩花は葉模様の日記帳を開き、今日の出来事を書き始めた。
『日曜日。お母さんに園芸道具のことを聞いて、実際に物置にある道具を見せてもらった。長く使ってきた道具には、いろいろな跡が残ることが分かった。物語の中で何を大切にしたいのか、少し考え直すことができた』
彩花は少し考え、続きを書いた。
『午後は写真集を読み返した。私が選んだ写真は、やっぱり好きだと思った。昨日、凛花と植物を見に行ったことで、写真の中にある暮らしについて、前よりも想像することが増えた』
そして、最後に今日一番嬉しかったことを書いた。
『夜、悠真君が、また直接会って話したいと言ってくれた。私も同じ気持ちだったから、すごく嬉しかった。来週の土曜日に図書館へ行く方向で考えることになった。時間はまだ決まっていないけれど、今から楽しみ』
彩花はその文章を読み返し、静かに微笑んだ。
今日は、特別な場所へ出かけたわけではない。
大きな出来事があったわけでもない。
けれど、自分の中では、忘れたくない一日になった。
彩花は日記帳を閉じ、机の上へ丁寧に置いた。
◇
九条家の自室で、悠真も今日のことを思い返していた。
駅前写真の調査では、次に確認したい資料が少しはっきりした。
琴葉の押し葉作品については、妹が何を大切にしたいのか考える手伝いができた。
そして夜、彩花へ会いたいという気持ちを伝えることができた。
悠真は机の上の淡い青色の花模様のカードへ目を向けた。
彩花から贈られた、大切なカード。
そこには、彼女が自分の好きなものを大切にしてくれたことへの感謝と、悠真と話す時間が好きだという言葉が書かれている。
今夜、彩花はまた、自分と会いたいと思っていたと言ってくれた。
その言葉は、悠真にとって特別だった。
(彩花さんも、俺と会いたいって思ってくれてたんだね)
悠真は静かに息を吐いた。
まだ、二人は恋人同士ではない。
互いの気持ちを、恋という言葉では伝えていない。
けれど、相手と一緒に過ごしたいと思う気持ちは、以前よりもはっきりしてきている。
悠真はそのことを、急いで何かの形へ変えようとは思わなかった。
今は、彩花と会う時間を大切にしたい。
そして、直接会ったときには、メッセージだけでは伝えきれないことも、ゆっくり話してみたい。
悠真はカードを丁寧に戻し、机の上のメモ帳を開いた。
来週の土曜日。
青凪市中央図書館へ行く方向で相談中。
待ち合わせの時間と場所は未定。
悠真はそのことだけを書き留め、メモ帳を閉じた。
予定を決めるための確認は、まだ残っている。
けれど、今日一番大切だったのは、日時が決まったことではなかった。
自分が会いたいと思っていることを、彩花へ伝えられたこと。
そして、彩花も同じように思ってくれていたことだった。
悠真は窓の外へ目を向けた。
夜の庭は静かで、木々の枝先にはまだ小さな芽が残っている。
その芽がいつ開くのかは分からない。
けれど、毎日少しずつ変わっていくものがあることを、悠真は最近よく考えるようになっていた。
彩花との関係も、きっとそうなのだろう。
急に何かが変わるわけではない。
けれど、一緒に過ごした時間や、交わした言葉が少しずつ積み重なっている。
悠真はそのことを思いながら、部屋の明かりを落とした。
日曜日の夜は、静かに更けていった。
彩花は、来週の土曜日に悠真と会えるかもしれないことを楽しみにしながら、ゆっくりと目を閉じた。
悠真もまた、彩花へ会いたいと伝えられたことを胸に、穏やかな眠りへ落ちていった。




