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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第158話 土曜日の小さな鉢と、まだ知らない君の好きな一枚



 土曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の外には穏やかな日差しが広がっていた。昨日の雨上がりの空気はすっかり乾き、庭の木々は朝の風に揺れながら、淡い光を受けている。


 今日は、妹の凛花と一緒に植物を見に行く約束をしていた。


 凛花は以前から自分の部屋で植物を育てたいと考えていたものの、置き場所の明るさや世話の仕方が分からず、まだ種類を決められずにいた。昨日は実際に植物を見てみたいと言い出し、母の紗月からも、店員に相談しながら選ぶならよいと言われている。


 彩花はカーテンを開けたまま、机の上に置かれた古い町の写真集へ目を向けた。


 青葉高校の図書室で借りたその本には、昔の街並みや人々の暮らしが収められている。彩花が好きな一枚として選んだのは、庭先に並んだ植木鉢のそばで、一人の女性がしゃがんでいる写真だった。


 写真の中の女性が何をしていたのかは分からない。


 けれど、植木鉢の置き方や、近くに立てかけられた道具からは、そこで暮らす人が植物の世話を続けてきた時間が感じられた。


(今日は、写真で見たような植物もあるのかな。凛花がどんなものを選ぶのか、楽しみだな)


 彩花は写真集を開きかけたが、階下から聞こえてきた声に手を止めた。


「お姉ちゃん、起きてる? 今日、何時頃に出かける?」


 凛花の声だった。


「起きてるよ。今、着替えてるところ!」


 彩花が返事をすると、廊下の向こうで軽い足音が遠ざかっていった。


 その弾んだ様子に、彩花は思わず微笑んだ。


 凛花は昨日から、今日の外出を楽しみにしていたらしい。


 彩花は写真集を閉じ、普段着へ着替えてから階下へ向かった。


 食卓では、母の紗月が朝食の準備をしており、父の耕助は新聞を読みながら温かいお茶を飲んでいた。凛花はテーブルの端に小さなノートを置き、何かを確認している。


「おはよう、凛花。ずいぶん早いね」


 彩花が声をかけると、凛花は顔を上げた。


「おはよう、お姉ちゃん。昨日、調べたいことを書いておいたんだけど、忘れないようにもう一回見てたの」


 凛花はノートを少し持ち上げ、彩花へ見せた。


 そこには、植物を置く場所の明るさ、鉢の大きさ、水やりの頻度、初めてでも育てやすいかどうかなどが書かれている。


「ちゃんとまとめたんだね」


「うん。お店に行ったら、どれがかわいいかだけで決めちゃいそうだから」


 凛花は少し照れくさそうに笑った。


 彩花はその言葉を聞き、妹が自分なりに考えていることを嬉しく思った。


 以前の凛花なら、写真で気に入った植物を見つけるたびに、これもいい、あれもいいと候補を増やしていた。けれど、今は育て始めたあとのことまで考えようとしている。


「今日は見るだけでもいいんだから、焦らず選ぼうね」


「うん。でも、もしすごく気に入ったのがあったら、買ってもいいかな?」


 凛花が母へ目を向けると、紗月は味噌汁を運びながら微笑んだ。


「育て方を聞いて、家に置けるか確認できたら考えましょう。鉢や受け皿も必要になるかもしれないし、植物だけ買えば終わりというわけじゃないからね」


「分かった。ちゃんと聞く!」


 凛花は元気よく頷き、ノートを閉じた。


 耕助は新聞を畳み、二人へ目を向けた。


「帰りに荷物が増えるなら、迎えが必要か?」


「今日は近くのお店だから大丈夫だと思うよ。大きな鉢を買うつもりもないし」


 彩花が答えると、耕助は頷いた。


「そうか。無理して重いものを持って帰るなよ」


「ありがとう、お父さん」


 彩花は笑顔で答え、朝食の席へ着いた。


 食卓では、凛花がどんな植物を見たいのか話し、紗月が以前育てた鉢植えのことを少し教えてくれた。水やりを忘れないことも大切だが、必要以上に水を与えないことも大切なのだと聞き、凛花は意外そうに目を丸くした。


「毎日たくさんあげた方が元気になるんじゃないんだね」


「植物によるのよ。だから、種類が決まってから育て方を確認しましょうね」


 紗月の説明に、凛花は真剣な表情で頷いた。


 彩花はそのやり取りを聞きながら、植物を育てることは、ただ眺めるだけでは分からないことがたくさんあるのだと感じていた。


     ◇


 午前十時を少し過ぎた頃、彩花と凛花は家を出た。


 近所の園芸用品も扱う店までは、歩いて行ける距離だった。二人は住宅街の歩道を並んで進み、途中の交差点では信号が変わるのを待ちながら、今日見たい植物について話した。


「お姉ちゃんは、どんな植物が好き?」


 凛花が尋ねると、彩花は少し考えた。


「うーん。葉っぱの形がきれいなものも好きだし、小さな花が咲くものも好きかな。でも、育てるなら置く場所に合ってることが大事だと思う」


「やっぱり、そこなんだね」


「だって、せっかく育てるなら元気でいてほしいでしょう?」


 彩花がそう答えると、凛花は頷いた。


「うん。私もそう思う。だから、今日はちゃんと聞いてみる」


 二人は信号を渡り、店のある通りへ向かった。


 通り沿いには小さな飲食店や生活用品店が並んでおり、土曜日の午前中らしく、買い物袋を持った人たちが行き交っている。園芸用品を扱う店の前には、季節の鉢花がいくつも並べられていた。


 凛花は入口へ近づくなり、目を輝かせた。


「わあ、思ってたよりたくさんある!」


 店先には、色とりどりの花が咲く鉢植えや、葉の形が特徴的な観葉植物が並んでいた。小さな鉢から両手で抱えるほどの大きさのものまであり、彩花も思わず足を止めて見入ってしまう。


「本当だね。写真で見るのと、やっぱり違うね」


「うん。大きさも全然違う!」


 凛花は一つの鉢へ顔を近づけたが、葉へ触れようとして手を止めた。


「勝手に触らない方がいいよね?」


「うん。見るだけにして、気になることがあったら店員さんに聞こう」


 二人は店内へ入り、観葉植物の並ぶ一角へ向かった。


 店内には土と木材の匂いが混ざり、天井から差し込む明るい光が植物の葉へ落ちていた。棚の上には小さな鉢が整然と並べられ、床には少し大きめの植物が置かれている。


 凛花は一つずつ眺めながら、ノートに書いた条件と見比べていた。


「お姉ちゃん、これ、かわいいと思わない?」


 凛花が指したのは、丸みのある葉が特徴的な小さな植物だった。


 彩花は隣へ近づき、鉢の札を確認した。


「かわいいね。でも、育て方はどうなんだろう」


「そこが分からないんだよね」


 凛花は少し困ったように笑い、店員を探して周囲へ目を向けた。


 ちょうど近くで鉢を整理していた店員が、二人の様子に気づいて声をかけてくれた。


「何かお探しですか?」


 彩花は軽く頭を下げ、凛花へ目を向けた。


「妹が初めて部屋で植物を育てたいと思っていて、どんなものが合うか相談したいんです」


 店員は穏やかに頷いた。


「そうなんですね。置く場所は、どんなところを考えていますか?」


 凛花は少し緊張したようにノートを開いた。


「部屋の窓の近くか、机の端を考えてます。でも、夕方になるとあまり明るくない場所もあるので、そこが心配で……」


 店員は凛花の説明を聞き、窓の向きや日中の明るさについていくつか質問した。


 凛花は分かる範囲で答えたものの、日中の光の入り方については、まだ十分に確認できていないことに気づいた。


「そういう場合は、まず置き場所の明るさをもう少し確かめてから選ぶと安心ですよ。室内向けと書かれていても、まったく光がなくていいわけではありませんから」


 店員の言葉に、凛花は真剣な表情で頷いた。


「やっぱり、そこをちゃんと調べた方がいいんですね」


「ええ。それから、植物によって水やりの間隔も違います。土が乾いているか確認することが大切な種類もありますし、毎日同じ量を与えればいいというものではないんです」


 凛花はノートへ急いで書き込もうとしたが、彩花がそっと声をかけた。


「凛花、慌てなくて大丈夫だよ。分からなかったら、もう一度聞いてみよう」


 凛花は少し照れくさそうに笑った。


「うん。ありがとう」


 店員は二人の様子を見守りながら、いくつかの小さな観葉植物を紹介してくれた。


 葉の形や育て方にはそれぞれ違いがあり、日当たりのよい場所を好むものもあれば、強い直射日光を避けた方がよいものもある。凛花は説明を聞くたびに、かわいいという印象だけでは決められないことを実感しているようだった。


 彩花は隣で話を聞きながら、妹が少しずつ自分の考えを整理していく姿を見つめていた。


 今日、植物を買うかどうかはまだ分からない。


 けれど、凛花にとっては、育て始める前に知っておくべきことを学ぶ大切な時間になっているのだろう。


     ◇


 店員から説明を聞いたあと、凛花は小さな鉢の並ぶ棚へ戻った。


 最初に気に入った丸い葉の植物をもう一度眺め、それから別の棚にある細長い葉の植物へ目を向ける。どちらも魅力的に見えるらしく、しばらく迷ったあと、彩花へ振り返った。


「お姉ちゃん、私、今日は買わないことにする」


 彩花は少し驚いたが、すぐに頷いた。


「そうなんだ。どうして?」


「まだ部屋の明るさがちゃんと分かってないから。せっかく気に入って買っても、育てられなかったら嫌だなって思って」


 凛花は少し残念そうに鉢へ目を向けた。


 けれど、その表情には、自分で考えて決めたことへの納得も感じられた。


「いいと思うよ。今日は実際に見られたし、店員さんにもいろいろ聞けたもんね」


「うん。候補も少し絞れたし」


 凛花はノートを開き、今日気になった植物について書き込んだ。


 候補はまだ確定していないが、以前のように次々と増えるだけではなく、育てる条件に合うかどうかを考えながら整理できるようになっていた。


 彩花はその様子を見て、自然と微笑んだ。


「凛花、今日来てよかったね」


「うん。買えなかったのはちょっと残念だけど、前より選びやすくなった気がする」


 二人は店員へ礼を伝え、店をあとにした。


 外へ出ると、午前中より少し暖かくなった空気が頬へ触れた。店先の花々は日差しを受けて明るく見え、凛花はその前で一度だけ足を止めた。


「お姉ちゃん、今度来るときは、ちゃんと決められるかな」


「きっと、今日よりは選びやすくなってると思うよ。家に帰ったら、置く場所をもう一回見てみよう」


「うん。そうする!」


 凛花は嬉しそうに頷き、彩花の隣へ並んだ。


 帰り道、二人は途中の小さな公園の前を通った。


 公園の花壇には季節の花が植えられており、数人の親子がベンチの近くで遊んでいる。彩花は花壇へ目を向け、今朝見た写真集の庭先の風景を思い出した。


 古い写真の中の女性も、こうして植物を選んだり、育て方を考えたりしていたのだろうか。


 写真だけでは分からない。


 けれど、今日の凛花の姿を見ていると、植物を育てるという日常の中にも、たくさんの小さな選択があることを感じられた。


 彩花はその思いを胸に、妹と並んで家へ向かった。


     ◇


 同じ頃、九条家では、悠真が自室の机で青凪市中央図書館の案内を確認していた。


 昨日、彩花と話した古い町の写真集について、今日はもう少し調べてみるつもりだった。


 彩花から教えてもらった書誌情報を使って検索しても、同じ本はまだ見つかっていない。学校の図書室の先生からは、公共図書館へ直接問い合わせる方法があると教えてもらっていた。


 悠真は案内を読み、問い合わせ先と利用時間を確認した。


 電話で尋ねることもできそうだったが、今日は図書館へ直接行って相談してみようと考えた。


 以前、彩花と会った青凪市中央図書館。


 あの場所には、二人で本を探した思い出がある。


 けれど、今日そこへ向かうのは、彩花と会うためではない。


 同じ写真集を読む方法を調べるためだった。


 悠真は机の上のメモ帳へ必要な情報を書き写し、鞄へ入れた。


 そのとき、廊下から軽い足音が聞こえてきた。


「お兄ちゃん、今から出かけるの?」


 妹の琴葉が扉の近くから顔を覗かせた。


「うん。中央図書館へ行って、少し調べ物をしてこようと思ってるんだ」


「また昔の写真?」


「今日は、古い町の写真集を探してるんだよ」


 琴葉は興味深そうに目を輝かせた。


「写真集? どんなの?」


「昔の街並みや暮らしが写っている本みたいなんだ。まだ俺は読めてないから、詳しいことは分からないけどね」


 悠真が答えると、琴葉は少し考えたあと、にこりと笑った。


「見つかるといいね。お兄ちゃん、そういう本好きだもんね」


「ありがとう」


 悠真は微笑み、鞄を持ち直した。


 琴葉はそのまま廊下へ戻りかけたが、ふと思い出したように振り返った。


「そうだ、お兄ちゃん。押し葉の台紙、昨日より少し考えがまとまったんだ」


「そうなんだ。どっちにするか決まった?」


「まだ完全には決めてないけど、葉っぱの色がちゃんと見える方を大事にしようかなって」


 琴葉は少し照れくさそうに笑った。


「だから、今日は置き方をもう一回試してみるつもり」


「いいね。完成したら見せてね」


「うん!」


 琴葉は嬉しそうに頷き、自分の部屋へ戻っていった。


 悠真はその後ろ姿を見送りながら、昨日の彩花との会話を思い出した。


 相手が何を大切にしているのか。


 そのことを知ると、同じものでも見え方が変わる。


 琴葉の押し葉作品も、彩花が選んだ写真も、きっとそうなのだろう。


     ◇


 青凪市中央図書館へ到着した悠真は、入口で利用案内を確認してから館内へ入った。


 土曜日の昼前ということもあり、館内には平日より多くの利用者がいた。児童書の一角では親子が本を選び、閲覧席では学生や大人たちが静かにページをめくっている。


 悠真は受付の近くへ進み、順番を待ってから職員へ声をかけた。


「すみません。探している本があるんですが、蔵書検索で見つからなくて。少し相談してもいいでしょうか」


 職員は穏やかに頷いた。


「もちろんです。題名や著者名は分かりますか?」


「はい。こちらに書いてあります」


 悠真はメモ帳を開き、彩花から教えてもらった情報を示した。


 職員は題名、著者名、出版社、出版年を確認し、端末で検索を始めた。


 悠真は少し離れた位置で待ちながら、館内の静かな空気に耳を傾けていた。


 ページをめくる音。


 遠くで本を棚へ戻す音。


 受付で交わされる小さな声。


 その一つ一つが、以前彩花と一緒に過ごした時間を思い出させた。


 しばらくして、職員が顔を上げた。


「お待たせしました。こちらの図書館の所蔵では、同じ書誌情報の本を確認できませんでした」


 悠真は静かに頷いた。


「そうですか。ありがとうございます」


「ただ、ほかの図書館に所蔵があるかどうかは、別の方法で確認できる場合があります。少しお時間をいただければ、調べてみますね」


「お願いします」


 悠真は礼を言い、職員が作業を続けるのを待った。


 しばらくして、職員は別の検索結果を示した。


「こちらの資料は、題名の一部と出版年が似ていますが、著者と出版社が違いますね。お探しの本とは別のものだと思います」


「はい。教えてもらった情報とは違います」


 悠真はメモ帳を見比べ、答えた。


 職員は頷き、さらに確認を続けた。


 その結果、現時点で利用できる検索からは、同じ本を所蔵する図書館を特定できなかった。


 ただし、古い資料や地域資料の場合、検索だけでは確認しきれないこともあるため、必要なら所蔵調査について相談できると説明してくれた。


「すぐに見つけられなくて申し訳ありません。もし急ぎでなければ、こちらで確認できる範囲をもう少し調べることもできますよ」


 悠真は少し考えた。


 彩花との約束に期限はない。


 けれど、同じ本を読みたいという気持ちは確かにある。


「ありがとうございます。急ぎではないので、可能な範囲で調べていただけると嬉しいです」


 職員は頷き、必要な手続きについて説明した。


 悠真は案内に従って情報を記入し、確認結果について後日問い合わせる方法を教えてもらった。


 今日、写真集そのものを借りることはできなかった。


 けれど、これまで自分だけで探していた段階から、図書館の職員へ正式に相談するところまで進めることができた。


 悠真は受付で礼を伝え、館内の閲覧席へ向かった。


     ◇


 図書館を出る前に、悠真は郷土資料の棚を少し見ていくことにした。


 目的の写真集は見つからなかったが、古い街並みや地域の暮らしを紹介する本はいくつも並んでいた。悠真はその中から一冊を手に取り、近くの閲覧席へ座った。


 本には、昔の商店街や住宅地、川沿いの風景などが掲載されていた。


 写真の下には撮影された年代や場所についての説明があり、現在の街並みとの違いを紹介するページもある。


 悠真はページをめくりながら、彩花が好きな写真を選ぶとき、どんなところへ目を向けたのだろうと考えた。


 大きな建物だろうか。


 人々が集まる市場だろうか。


 それとも、何気ない住宅街の一角だろうか。


 彩花は小さな変化や、日常の中にあるものを丁寧に見つめることが多い。


 けれど、だからといって、必ずそういう写真を選ぶとは限らない。


 悠真はそのことを思い出し、少し微笑んだ。


(彩花さんが何を選んだのか、今から想像しても分からないよね。だからこそ、同じ本を読んでから聞くのが楽しみなんだ)


 悠真は本を読み進め、あるページで手を止めた。


 そこには、昔の住宅街を写した写真が掲載されていた。


 特別な出来事が起きているわけではない。


 道端には自転車が置かれ、家の前には小さな鉢植えが並び、遠くには買い物袋を持った人の姿が見える。


 悠真はその写真をしばらく眺めた。


 写真の中に写っている人たちは、撮影された瞬間、自分たちの日常が何十年もあとに誰かの目へ触れるとは思っていなかったかもしれない。


 けれど、こうして残された一枚からは、その場所で人々が暮らしていたことが伝わってくる。


 悠真はページの端に書かれた説明を読み、写真が撮られた年代と場所を確かめた。


 そのあと、もう一度写真へ目を向けた。


 昔の写真を読むということは、建物や道路の位置を確かめるだけではない。


 そこに暮らしていた人たちの時間へ、少しだけ目を向けることでもあるのだろう。


 悠真はその考えをメモ帳へ書き留めた。


 ただし、これは彩花が借りている写真集ではない。


 だから、今ここで好きな写真を選んだとしても、二人の約束の答えにはならない。


 悠真はその違いを意識しながら、本を棚へ戻した。


     ◇


 水瀬家へ帰宅した彩花と凛花は、居間で母の紗月へ今日の出来事を報告していた。


 凛花は店員から聞いたことを一つずつ説明し、まだ植物を買わなかった理由も自分の言葉で伝えた。


「部屋の明るさをちゃんと確認してからの方がいいって言われたの。だから、今日は候補を見てきただけにしたんだ」


 紗月は頷き、凛花のノートを覗き込んだ。


「よく考えたわね。気に入ったものを見つけても、育てられるかどうか確認するのは大切なことよ」


「うん。最初は買いたかったけど、ちゃんと育てたいから」


 凛花は少し照れくさそうに笑った。


 彩花はその様子を見ながら、妹が自分で決めたことを誇らしく感じていた。


 紗月は二人の話を聞き終えると、午後の明るい時間に凛花の部屋を一緒に見てみようと提案した。


「窓の近くでも、時間によって光の入り方が違うでしょう。今日は天気がいいから、少し確かめてみましょうか」


「うん! お願い!」


 凛花は嬉しそうに頷いた。


 彩花も一緒に部屋へ向かい、窓際の棚と机の端を見比べた。


 午前中は比較的明るかった窓際も、午後になると光の入り方が変わっている。机の端は思っていたよりも暗く、そこへ植物を置くなら、種類を慎重に選ぶ必要がありそうだった。


「やっぱり、ここは少し暗いね」


 彩花が言うと、凛花は頷いた。


「うん。昨日まで、どっちでも大丈夫かなって思ってたけど、ちゃんと見てみると違うね」


 紗月は窓の外を確かめながら、日差しの強さだけでなく、風通しや安全に置ける場所かどうかも考える必要があると説明した。


 凛花はその話を聞き、ノートへ新しい項目を書き加えた。


 今日の外出で植物は増えなかった。


 けれど、凛花の中では、育て始めるための準備が確かに進んでいた。


     ◇


 午後の時間が少し落ち着いた頃、彩花は自室へ戻り、星模様の創作ノートを開いた。


 昨日、園芸道具の描写について確認したいことを書き留めていた。


 今日は実際に植物を見て、店員から育て方について説明を聞くことができたが、物語に登場する古い園芸道具については、まだ十分に分かっていない。


 彩花は机へ座り、以前書いた文章を読み返した。


 祖母が使っていた道具。


 柄に残る小さな傷。


 持ち手の隙間に残っていた土。


 そして、幼い少女が祖母へ尋ねたこと。


 その場面で大切にしたいのは、道具そのものの珍しさではなかった。


 少女が祖母と一緒に庭で過ごした時間を、今も覚えていること。


 そのことを伝えたいのだ。


 彩花はペンを持ち、少し考えてから新しい文章を書き始めた。


『おばあちゃんが庭で使っていた道具は、いつも物置の同じ場所に置かれていました。柄には小さな傷がいくつもあって、私はその一つ一つが、いつできたものなのか気になっていました。おばあちゃんに尋ねると、いつも少し困ったように笑って、そんなことまで覚えていないよ、と言っていた気がします。』


 書き終えたあと、彩花は手を止めた。


 今の文章は、以前のものとは少し違う。


 祖母が何と答えたのか思い出せないという設定に対して、具体的な返事を書いてしまっている。


 彩花はそのことに気づき、すぐに文章へ線を引いた。


(これだと、前に書いたことと合わなくなっちゃうね。私が大切にしたかったのは、返事を思い出せないことだったのに)


 彩花は消しゴムを手に取りかけたが、少し考えて止めた。


 今の案も、考えた過程として残しておけば、あとから比較できる。


 文芸部で学んだことを思い出し、彩花はその文章を削除せず、横へ小さく「別案・未採用」と書き添えた。


 そして、もう一度考え直した。


 祖母の言葉を思い出せない。


 けれど、祖母が笑っていたことは覚えている。


 その二つを守るなら、具体的な返事を新しく作る必要はない。


 彩花は新しいページを開き、ゆっくりと文章を書き始めた。


『おばあちゃんが庭で使っていた道具は、いつも物置の同じ場所に置かれていました。柄には小さな傷がいくつもあって、私はその一つ一つが、いつできたものなのか気になっていました。幼い頃、どうしてこんなに傷があるのか尋ねたことがありますが、そのときのおばあちゃんの返事は、今では思い出せません。ただ、私の質問を聞いて、少し困ったように笑っていた顔だけは、今もはっきり覚えています。』


 彩花は書き終えた文章を読み返した。


 以前よりも、道具の傷と祖母の記憶が自然につながっているように感じられた。


 ただし、まだ園芸道具の種類を決めていないため、細かな描写については確認が必要だった。


 彩花は余白へ「道具の種類・手入れ方法は未確認」と書き加えた。


 完成までは、まだ時間がかかる。


 けれど、今日は一つ、物語の中で大切にしたいことを守りながら、文章を見直すことができた。


 彩花はノートを閉じ、少しだけ肩の力を抜いた。


     ◇


 夕方、九条家へ帰宅した悠真は、自室で今日の調査結果を整理していた。


 青凪市中央図書館では、彩花が借りている写真集と同じ本を確認できなかった。


 けれど、職員へ相談し、所蔵調査について案内を受けることができた。


 悠真はメモ帳へ、今日分かったことと、まだ分からないことを書き分けた。


 同じ本の所蔵は未確認。


 取り寄せが可能かどうかも未定。


 図書館で確認できる範囲を調べてもらうため、必要な手続きを行った。


 結果が分かるまでは、無理に別の方法を増やさず待つことにした。


 悠真はメモ帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。


 庭ではハクが家族と一緒に過ごしており、白い毛並みが夕方の光を受けて柔らかく見える。


 枝先の芽は、まだ開いていない。


 けれど、今日のような穏やかな日差しを受けて、少しずつ変化しているのかもしれなかった。


 悠真はその景色を眺めながら、彩花が今日をどんなふうに過ごしたのだろうと考えた。


 昨日の夜、二人は本の感想を話すことについて語り合った。


 彩花は、自分と話すようになってから、相手が何を感じたのかもっと知りたいと思うようになったと言ってくれた。


 悠真も、同じ気持ちだった。


 ただ本を読むだけではなく、その本を通して相手の考えを知ることが楽しい。


 その気持ちを大切にしながら、今は同じ写真集を探している。


 悠真はスマートフォンを手に取り、彩花へメッセージを送ろうとして、少し考えた。


 今日、図書館へ行ったことは伝えたい。


 けれど、まだ本は見つかっていない。


 何度も同じような報告をしてしまうのは、少し気が引けた。


 それでも、彩花は自分が何を調べているのか気にかけてくれている。


 悠真はそのことを思い出し、短い文章を打った。


『彩花さん、こんばんは。今日は中央図書館へ行って、写真集のことを相談してきたよ』


 送信したあと、悠真はスマートフォンを机へ置いた。


     ◇


 水瀬家では、彩花が夕食の片づけを手伝い終え、自室へ戻ったところだった。


 スマートフォンの通知に気づき、画面を開くと、悠真からのメッセージが表示されている。


『彩花さん、こんばんは。今日は中央図書館へ行って、写真集のことを相談してきたよ』


 彩花は少し驚き、すぐに返信した。


『こんばんは、悠真君。今日もお疲れさま。中央図書館まで行ってくれたんだね。どうだった?』


 少しして、悠真から返事が届いた。


『同じ本はまだ見つからなかったんだけど、職員の方に相談して、所蔵を調べる方法を教えてもらったよ。確認できる範囲を調べてもらうことになったんだ』


 彩花はその文章を読み、静かに頷いた。


 まだ本は見つかっていない。


 けれど、悠真は自分から図書館へ足を運び、相談してくれた。


 そのことが嬉しかった。


『そうだったんだ。ありがとう、悠真君。わざわざ図書館まで行ってくれて、嬉しい』


 送信したあと、彩花は少し考えた。


 悠真は、ただ自分のために動いてくれているわけではない。


 彼自身も写真集を読みたいと思っている。


 それでも、二人の約束を大切にしてくれていることは確かだった。


 悠真から返事が届いた。


『俺も読みたいと思ってるから、気にしなくて大丈夫だよ。それに、今日は別の古い写真の本も読めて、楽しかったんだ』


 彩花はその文章を読み、興味を持った。


『そうなんだ。どんな写真が載ってたの?』


『昔の住宅街や商店街の写真だよ。特別な出来事じゃなくて、普段の暮らしが写っているものもあって、見ていて面白かった』


 彩花は思わず微笑んだ。


 普段の暮らしが写っている写真。


 その言葉を聞くと、自分が選んだ一枚を思い出す。


 けれど、まだ悠真には教えないと決めていた。


 彩花は少し迷ったあと、返信した。


『いいね。昔の暮らしが写ってる写真って、見てるといろいろ想像できるよね』


 悠真から返事が届いた。


『うん。写真の中の人たちは、そのとき何を考えていたんだろうって思うことがあるよ』


 彩花はその言葉を読み、胸の奥が温かくなった。


 自分も、同じようなことを考えていた。


 写真の中の女性が何をしていたのか。


 どんな気持ちで植物を見つめていたのか。


 その答えは分からない。


 けれど、分からないからこそ、想像する楽しさがある。


『私もそう思う。写真って、写ってるものだけじゃなくて、その前後の時間まで想像したくなることがあるよね』


 彩花が送信すると、悠真から少し間を置いて返事が届いた。


『うん。彩花さんと同じ写真を見たら、きっと俺が気づかなかったことも教えてもらえそうだね』


 彩花はその文章を読み、頬が少し熱くなるのを感じた。


 悠真は、自分の見方を大切にしてくれている。


 けれど、それだけではない。


 自分が何を感じるのか、知りたいと思ってくれている。


 そのことが、彩花には嬉しかった。


『私も、悠真君が何を見つけるのか楽しみだよ』


 彩花は素直に返信した。


 少しして、悠真から新しいメッセージが届いた。


『そういえば、彩花さんは今日は何をしてたの?』


 彩花は画面を見つめ、今日の出来事を思い返した。


 凛花と一緒に植物を見に行ったこと。


 店員から育て方について説明を聞いたこと。


 そして、まだ植物を買わないと決めたこと。


 彩花はその内容を簡潔に伝えた。


『今日は凛花と植物を見に行ってきたよ。まだ買わなかったんだけど、育て方をいろいろ教えてもらえて、すごく勉強になったんだ』


 悠真はそのメッセージを読み、微笑んだ。


 彩花の妹が植物を育てたいと考えていることは、以前から聞いていた。


 まだ種類が決まっていないことも知っている。


『そうだったんだね。凛花ちゃん、楽しみにしてたんじゃない?』


『うん。すごく楽しそうだったよ。でも、部屋の明るさをちゃんと確認してから選ぶって、自分で決めたんだ』


 悠真はその文章を読み、少し感心した。


 好きなものを見つけても、すぐに手に入れるのではなく、育てられるかどうか考える。


 その姿勢は、彩花がいつも大切にしていることとも似ているように感じられた。


『凛花ちゃん、ちゃんと考えてるんだね。大切に育てたいって気持ちが伝わってくるよ』


 彩花はその返事を読み、嬉しくなった。


 悠真は凛花のことも、丁寧に受け止めてくれている。


 その優しさが、彩花には心地よかった。


『うん。私もそう思った。今日、一緒に行けてよかったよ』


 送信したあと、彩花は少し考えた。


 今日、凛花と植物を見に行ったことで、自分の創作についても考えるきっかけができた。


 けれど、その詳しい内容はまだ悠真へ話していない。


 完成したら最初に読んでもらう。


 その約束を守りたいからだ。


 彩花はスマートフォンを見つめながら、少しだけ微笑んだ。


 悠真に話したいことは、まだたくさんある。


 けれど、今はすべてを話さなくてもいい。


 完成した物語を読んでもらう日まで、自分の中で大切に育てていきたいこともある。


     ◇


 九条家の自室で、悠真は彩花からのメッセージを読み返していた。


 今日は中央図書館へ行き、写真集について相談した。


 まだ同じ本は見つからなかったが、次に確認できることが分かった。


 そして、彩花は妹と一緒に植物を見に行っていた。


 それぞれ別の場所で過ごした土曜日。


 けれど、夜になれば、こうして互いの一日を話すことができる。


 悠真はそのことを、自然に嬉しく感じていた。


(彩花さんと会えない日でも、こうして何をしてたのか聞けるのが嬉しいな。でも、やっぱり直接会って話したい気持ちもあるんだよね)


 悠真は少し考えた。


 彩花と最後に会ったのは、以前の土曜日に青凪市中央図書館で一緒に過ごしたときだった。


 それから、それぞれ学校や家庭での時間を過ごしながら、メッセージを交わしている。


 次に会う予定は、まだ決まっていない。


 悠真はスマートフォンを手に取り、何かを打とうとして止めた。


 写真集が見つかったら、一緒に感想を話したい。


 けれど、それまで会わないと決めているわけではない。


 自分が会いたいと思っていることを、彩花へ伝えてもいいのだろうか。


 悠真は少し迷ったあと、画面を閉じた。


 今夜、急いで予定を決める必要はない。


 ただ、自分の中にそんな気持ちがあることは、もうはっきりしていた。


     ◇


 水瀬家では、彩花が葉模様の日記帳を開いていた。


 今日の出来事を書き留めようとして、まず凛花と植物を見に行ったことを思い出した。


 店員から育て方について説明を聞いたこと。


 凛花が自分で考え、今日は買わないと決めたこと。


 そして、家へ帰ってから、置き場所の明るさを確かめたこと。


 彩花はペンを持ち、ゆっくりと書き始めた。


『土曜日。凛花と一緒に植物を見に行った。気に入った植物はいくつかあったけれど、部屋の明るさを確認してから選ぶことにした。凛花が、自分で育てることをちゃんと考えていて、少し頼もしく感じた』


 彩花は少し考え、続きを書いた。


『午後は創作ノートを読み返した。祖母が使っていた道具の描写を見直して、何を残したいのか考えた。まだ調べたいことはあるけれど、少女が覚えている時間を大切にしたいと思った』


 書き終えたあと、彩花はペンを止めた。


 今日、悠真が中央図書館へ行ってくれたことも残しておきたかった。


『夜、悠真君から、写真集について図書館で相談してきたと聞いた。まだ同じ本は見つからなかったけれど、探すために動いてくれたことが嬉しかった。私も、悠真君と同じ写真を見て、何を感じたのか話してみたい』


 彩花はその文章を読み返し、静かに微笑んだ。


 同じ本を読む約束は、まだ途中だった。


 けれど、その約束を大切にしているのは、自分だけではない。


 悠真も、同じように楽しみにしてくれている。


 そのことが、彩花には何より嬉しかった。


 彩花は日記帳を閉じ、机の上の写真集へ目を向けた。


 庭先で植物を見つめる女性の写真。


 今日、凛花と植物を見に行ったことで、その一枚が少し違って見えるようになった気がした。


 植物を育てることには、たくさんの小さな選択がある。


 置く場所を考えること。


 水やりの方法を知ること。


 日々の変化を確かめること。


 写真の中の女性も、そんな時間を過ごしていたのかもしれない。


 彩花は写真集を閉じ、布団へ入った。


 今日は、凛花が植物を買う日にはならなかった。


 悠真も、探している写真集を見つけられなかった。


 けれど、二人とも、それぞれの場所で少しずつ前へ進んでいる。


 彩花はそのことを思いながら、ゆっくりと目を閉じた。


 九条家でも、悠真が眠る準備を終えていた。


 明日は日曜日。


 写真集の所蔵調査の結果は、まだ分からない。


 彩花と次に会う予定も、まだ決まっていない。


 それでも、悠真の胸には、今日一日を通してはっきりした気持ちが残っていた。


 同じ本を読みたい。


 同じ写真を見てみたい。


 そして、できることなら、彩花と直接会って話したい。


 その気持ちをいつ、どんなふうに伝えるのかは、まだ決めていない。


 けれど、悠真はもう、自分が彩花と過ごす時間をどれほど大切に思っているのか、以前よりもはっきりと感じていた。


 土曜日の夜は、穏やかに更けていった。

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