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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第157話 金曜日の返却されなかった言葉と、君が選んでくれた時間


 金曜日の朝、水瀬彩花がカーテンを開けると、昨日の雨が嘘のように澄んだ青空が広がっていた。隣家の屋根にはまだわずかに水滴が残っていたが、東から差し込む朝日を受けて、庭の植木の葉が柔らかく輝いている。


 彩花は窓を少しだけ開け、冷たい空気を部屋へ入れた。雨上がり特有の湿った土の匂いがかすかに漂い、遠くからは登校する子どもたちの声が聞こえてくる。


(今日は蕾の様子も、昨日よりちゃんと見られそう。雨が降ったあとだから、何か違っているかもしれないね)


 そう考えたところで、彩花は机の上に置いた観察メモへ目を向けた。月曜日と水曜日には写真を撮影しているが、木曜日は雨のため、通り過ぎながら様子を確かめただけだった。


 変化を見つけることばかり意識すると、実際には変わっていないものまで違って見えてしまう。以前の自分なら気にしなかったかもしれないそのことを、彩花は最近、少しずつ意識するようになっていた。


 制服へ着替え、机の上の教科書を鞄へ入れると、星模様の創作ノートが目に入った。昨夜は文芸部での出来事をきっかけに、祖母へ手紙を書く少女が何を伝えたいのか考え直したところだった。


 物語の方向は、以前よりもはっきりしてきた気がする。


 ただし、まだ文章そのものを書き進められたわけではない。園芸道具の描写について調べたいことも残っており、完成したら悠真に最初に読んでもらうという約束を果たすには、もう少し時間が必要だった。


 彩花は創作ノートを鞄へ入れかけ、今日は学校へ持っていかずに家で続きを考えようと思い直した。代わりに文芸部の資料を確認し、昨日借りた写真集が鞄の内側に入っていることを確かめてから、階下へ向かった。


 食卓では、妹の凛花が母の紗月と週末の予定について話していた。


「お姉ちゃん、おはよう。明日、もし時間があったら、一緒に植物を見に行かない?」


 凛花は彩花が椅子へ座るのを待ってから、少し期待したように尋ねた。


「植物って、育てる種類を決めるために?」


「うん。まだ買うって決めたわけじゃないけど、写真だけじゃ大きさとか分からないから、実際に見てみたいなって思って」


 凛花は昨夜までに考えた条件を書いた紙を、彩花へ見せた。そこには、部屋の明るさ、鉢を置ける広さ、世話のしやすさなどが整理されている。


 彩花は紙へ目を通し、妹が単に欲しいものを探しているのではなく、育て始めたあとの生活まで考えていることに気づいた。


「いいと思うよ。明日の予定はまだ決めてないから、一緒に行けると思う」


「本当? じゃあ、お母さんにも相談してみる!」


 凛花が嬉しそうに顔を上げると、紗月は二人の会話を聞きながら微笑んだ。


「近くのお店へ見に行くくらいならいいわよ。ただ、実際に買うかどうかは、店員さんにも育て方を聞いてから決めましょうね」


「うん! ちゃんと聞く!」


 凛花は元気よく頷き、紙を丁寧に畳んだ。


 彩花はその様子を見ながら、明日の予定が一つ決まったことを嬉しく思った。悠真と次に会う日時はまだ決まっていないが、週末を家族と過ごす時間も大切にしたかった。


 朝食を終えたあと、彩花は玄関で靴を履き、傘立てに残された昨日の傘へ目を向けた。今日は必要なさそうだと思いながらも、天気予報を確認してから鞄を持ち直す。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい。今日は文芸部があるんでしょう?」


 紗月に尋ねられ、彩花は頷いた。


「うん。昨日の続きで、部誌の文章を確認する予定だよ」


「そう。帰りが遅くなるようなら連絡してね」


「分かった。気をつけて帰るね」


 彩花は家族に見送られ、朝日の差し込む道へ歩き出した。


     ◇


 通学路の途中、彩花はいつもの蕾がある場所で足を緩めた。


 昨日の雨で地面はまだ湿っており、植え込みの土には小さな水滴が残っている。彩花は周囲の通行人を確かめ、歩道の邪魔にならない位置へ移動してから、スマートフォンを取り出した。


 月曜日と水曜日に撮った写真を表示し、同じ角度になるよう少しだけ立ち位置を調整する。以前よりも比較しやすくなっていたが、光の向きが違うため、蕾の輪郭まで完全に一致するわけではなかった。


(少しだけ先の形が変わったようにも見えるけど、まだはっきりしないね。今日の写真も残しておけば、あとから比べられるかな)


 彩花は一枚撮影し、画面の中の蕾と目の前の蕾を見比べた。先端の色がわずかに明るく見えるものの、それが成長による変化なのか、雨上がりの日差しによるものなのかは判断できない。


 観察メモには、見たままのことだけを書いた。


『金曜日。雨上がり。蕾は未開花。先端が明るく見えるが、光の影響も考えられるため変化は未確認。』


 彩花は書き終えたメモを確認し、スマートフォンを鞄へ戻した。


 以前なら、何か変わったところを見つけられなければ、少し残念に感じていたかもしれない。けれど、今は確かなことだけを残しておくのも、観察の楽しさの一つだと思えるようになっていた。


 学校へ向かって歩き出すと、青葉高校の校舎が朝日の向こうに見えてきた。彩花は少しだけ歩幅を速め、いつもの校門をくぐった。


     ◇


 桜華学園高等部では、九条悠真が森川航平と昼休みに古い駅前写真の資料を確認していた。


 昨日、航平が気づいたのは、撮影地点の候補を二つに絞った理由が十分に記録されていないことだった。二人はその点を整理するため、以前の地図と写真の複写を机の上へ広げていた。


「九条、まずこっちの候補なんだけど、道路の曲がり方は似てるんだよな」


 航平は地図の一角を指し、写真に写っている道路の輪郭と見比べた。


「うん。ただ、写真の撮影年が確定していないから、地図と同じ状態だったとは限らないね」


「そうなんだよ。だから、一致してるって書くより、似てるって書いた方がいいのかな」


 悠真は少し考えてから頷いた。


「そうだね。確認できた特徴と、まだ推測の部分を分けよう」


 航平は記録表へ書き込み、もう一つの候補へ視線を移した。


 こちらは道路の幅や周囲の建物の配置が似ているものの、写真の端に写っている不明瞭な物体については、どちらの場所とも結びつけられていなかった。


「結局、こっちも決め手がないな」


 航平は苦笑しながらペンを置いた。


「でも、最初よりは分かりやすくなったと思うよ。何を確かめれば候補を比べられるのか、少し見えてきたから」


 悠真が答えると、航平は表を見直した。


「確かに。今までは写真を見て、こっちっぽいとか、あっちっぽいとか言ってたもんな」


 二人は顔を見合わせ、少し笑った。


 調査が大きく進んだわけではない。


 それでも、以前の判断を整理したことで、どこに根拠があり、どこから先が推測なのかを確認できた。悠真は航平が作ってくれた表を見ながら、一人で調べていたら気づかなかったことがいくつもあると感じていた。


「航平、ありがとう。こういう記録を作ってくれて、本当に助かってるよ」


 悠真がそう伝えると、航平は少し照れくさそうに笑った。


「いや、俺も面白いからやってるだけだって。それに、九条が資料を丁寧に見てくれるから、俺も適当に書けないしな」


 航平はそう言い、資料を揃え始めた。


 悠真も片づけを手伝いながら、友人と一緒に考える時間の心地よさを感じていた。


 そのとき、航平がふと思い出したように口を開いた。


「そういえば九条、最近、何か別の本も探してるんだろ?」


「うん。古い町の写真集なんだけど、まだ見つかってないんだ」


「写真集? 駅前の調査とは別?」


「そうだよ。昔の暮らしや街並みが写っている本なんだ」


 悠真は、彩花との私的な約束には触れず、写真集について分かっていることだけを話した。


 航平は興味深そうに頷いた。


「へえ。見つかったら、俺にも教えてよ。昔の町の写真って、今の調査にも参考になりそうだし」


「もちろん。同じ本が見つかるかどうか、もう少し調べてみるつもりだよ」


 悠真が答えると、航平は満足そうに笑った。


 昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴り、二人は資料を鞄へしまった。


 悠真は席へ戻りながら、昨夜の彩花との会話を思い出した。


 作者が何を大切にしていたのか。


 読んだ人が何を感じたのか。


 その二つは、必ずしも同じではない。


 古い写真を調べるときにも、似たことが言えるのかもしれなかった。


     ◇


 放課後の青葉高校では、文芸部の部室に柔らかな西日が差し込んでいた。


 彩花が入室すると、佐々木先輩は机の上へ資料を並べながら、昨日確認した文章について、作者から新しい案が届いたことを教えてくれた。


「水瀬さん、昨日の続きなんだけど、作者本人が少し書き直してみたそうなの」


「そうなんですね。どんなふうに変わったんでしょうか?」


「まずは読んでみて。昨日話していた、会話が終わったあとの間を残すことを意識したみたい」


 彩花は資料を受け取り、元の文章と新しい案を見比べた。


 昨日まで問題になっていたのは、会話のあとに部屋を出る人物が誰なのか、少し迷う可能性があることだった。


 最初の修整案では主語を補う方法が考えられたが、それでは作者が大切にしていた間合いが変わってしまう。別の位置へ名前を移す試案も出たものの、動作の時間関係が変わって読めるため、採用されずに保留されていた。


 今回の案では、最後の一文そのものはほとんど変わっていなかった。


 代わりに、その前の段落へ、片方の人物が扉の近くへ移動する様子が自然に加えられている。


 彩花は一度読み終え、最初からもう一度目を通した。


 以前よりも、誰が部屋を出るのか分かりやすくなっている。


 けれど、会話が終わったあとの静かな間は、確かに残っているように感じられた。


(すごい……。最後の一文を変えなくても、前の描写でこんなに印象が変わるんだ)


 彩花は資料へ視線を落としたまま、少し考え込んだ。


 昨日、自分は作者へ意図を尋ねることができた。


 その結果、文章の中で何を守りたいのかが分かった。


 けれど、実際にその意図を形にしたのは、作者本人だった。


 彩花はそのことを、素直に嬉しく思った。


「先輩、私は前より読みやすくなったと思います。誰が部屋を出るのか分かるし、最後の一文の雰囲気も残っている気がします」


 佐々木先輩は頷き、彩花の手元の資料を見た。


「私もそう感じたわ。ただ、作者が本当にこの形で納得しているかは、もう一度確認したいの」


「そうですね。昨日は、無理に直さなくてもいいって話もしましたし」


「ええ。読み手としてよくなったと思っても、作者が大切にしたかったものを失っていたら意味がないから」


 彩花は頷き、資料を机へ置いた。


 ほどなくして、該当する作品を書いた部員が部室へ入ってきた。


 昨日は少し緊張した様子だったが、今日は自分から佐々木先輩のところへ歩み寄り、修整案について話し始めた。


「昨日のあと、家でもう一回読み直してみたんです。最後の文に名前を入れるのは、やっぱり違う気がして……」


 部員は資料を指しながら、少し照れくさそうに続けた。


「でも、前の段落で動きを書いておけば、最後はそのままでも伝わるかなって思いました」


 佐々木先輩は相手の言葉を聞き、穏やかに頷いた。


「そうね。私たちも読んでみたけれど、以前より分かりやすくなったと思うわ」


 彩花も顔を上げ、部員へ微笑んだ。


「私もそう思いました。最後の一文の雰囲気が残っていて、すごくいいと思います」


 部員は少し驚いたように彩花を見たあと、ほっとしたように笑った。


「ありがとうございます。昨日、どうしてその書き方にしたのか聞いてもらえてよかったです。自分でも、何を大切にしてたのか、ちゃんと考えられたので」


 その言葉を聞いた彩花は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分がしたことは、ほんの小さな質問だった。


 けれど、その質問が、作者自身の考えを整理するきっかけになったのかもしれない。


「私も、聞けてよかったです。最初は、分かりやすくすることばかり考えていたので」


 彩花が答えると、部員は少し笑った。


「でも、読んだ人が迷うって分かったのも、大事でした。自分では伝わってるつもりだったので」


 佐々木先輩は二人のやり取りを見守りながら、変更履歴の用紙を手に取った。


「それなら、今回の案を作者確認済みとして記録しましょう。ただし、先生の最終確認はまだだから、正式な採用はそのあとね」


 彩花たちは頷き、資料の整理を始めた。


 修整前の文章。


 最初の修整案。


 保留になった試案。


 そして、作者本人が考えた新しい案。


 それぞれを混同しないように記録し、変更理由には、主語の分かりやすさだけでなく、作者が意図した間合いを維持するための調整であることを書き加えた。


 彩花は作業を進めながら、以前よりも変更履歴の意味が分かってきたように感じていた。


 ただ文章を直した記録ではない。


 何を考え、何を確かめ、どうしてその形を選んだのかを残すためのものなのだ。


     ◇


 活動が終わる頃、佐々木先輩は今日の資料をまとめ、先生へ再確認をお願いする準備を整えた。


 まだ最終承認が下りたわけではないため、印刷や配布の予定を決める段階ではない。それでも、作者本人が納得できる案を一つ用意できたことは、部誌の完成へ向けた確かな進展だった。


「水瀬さん、今日はありがとう。昨日の質問がなかったら、最後の一文を直すことばかり考えていたかもしれないわ」


 佐々木先輩がそう言うと、彩花は少し驚いて顔を上げた。


「いえ、私も先輩に相談しながら考えただけですから」


「それでも、作者の意図を聞こうと思ったことが大切だったのよ。文章を読む側として迷ったことを伝えるのも、書いた人の気持ちを聞くのも、どちらも必要なことだから」


 彩花はその言葉を聞き、少しだけ頬を赤くした。


 自分のしたことを褒められるのは、まだ少し照れくさい。


 けれど、今日の作業が役に立ったのだと思うと、素直に嬉しかった。


「ありがとうございます。私も、今日のことは忘れないようにしたいです」


 彩花が答えると、佐々木先輩は微笑んだ。


「そうね。自分の作品を書くときにも、きっと役に立つと思うわ」


 その言葉に、彩花は星模様の創作ノートを思い出した。


 祖母へ手紙を書く少女の物語。


 自分が何を大切にしたいのか、まだ考えている途中の作品だった。


 けれど、今日の経験を通して、少しだけ分かったことがある。


 文章を直すときには、ただ分かりやすくするだけではなく、自分が何を残したいのか考える必要がある。


 彩花はそのことを胸に、部室をあとにした。


     ◇


 帰宅する途中、彩花は青葉高校の図書室へ立ち寄った。


 借りている写真集について、悠真が同じ本を探していることを思い出したからだった。


 ただし、学校の図書室で借りた本を、そのまま外部の人へ貸すことはできないだろう。彩花はその点を理解したうえで、ほかの図書館で同じ本を探す方法について相談してみようと思った。


「こんにちは。少しお聞きしたいことがあるんですが」


 彩花が声をかけると、図書室の先生は顔を上げた。


「こんにちは、水瀬さん。どうしたの?」


「この前借りた写真集なんですけど、ほかの図書館にもあるかどうか調べる方法ってありますか?」


 彩花は鞄から写真集を取り出し、表紙を見せた。


 先生は題名を確かめ、少し考えてから答えた。


「そうね。公共図書館の蔵書検索で探す方法があるけれど、古い本だと見つけにくいこともあるわ。著者名や出版社を使っても見つからないなら、図書館へ直接問い合わせてみるのがいいと思う」


「やっぱり、そうなんですね」


「何か調べたいことがあるの?」


 先生に尋ねられ、彩花は少し迷った。


 悠真との約束について、どこまで説明すればいいのだろう。


 けれど、難しく考える必要はなかった。


「知り合いも同じ本を読んでみたいって言ってくれていて。でも、中央図書館ではまだ見つからないみたいなんです」


 彩花が答えると、先生は穏やかに頷いた。


「そうなのね。それなら、所蔵している図書館があるか確認してみるといいわ。ただし、学校の図書室の本は、原則として在校生向けの貸出だから、外部の人へそのまま貸すことはできないの」


「はい。それは分かっています」


「それなら大丈夫ね。もし公共図書館で見つからなければ、図書館同士の取り寄せが可能かどうか、利用する図書館へ相談してみる方法もあるわよ」


 彩花はその説明を聞き、少し安心した。


 すぐに本を渡せるわけではない。


 けれど、探す方法は残っている。


「ありがとうございます。教えてもらったこと、伝えてみます」


「ええ。古い本は探すのに時間がかかることもあるけれど、見つかるといいわね」


 先生はそう言って微笑んだ。


 彩花は礼を言い、写真集を鞄へ戻した。


 図書室を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。


 今日は文芸部で、文章を直すために作者の意図を聞くことができた。


 そして今、悠真と同じ本を読むために、何ができるか少し分かった。


 どちらも、すぐに答えが出ることではない。


 けれど、確かめるために動いたことで、昨日とは違うところまで進めたように感じられた。


     ◇


 九条家では、悠真が帰宅すると、サモエドのハクが嬉しそうに玄関へ近づいてきた。


 白い毛並みを揺らしながら尻尾を振るハクへ、悠真は鞄を置いてから手を伸ばした。


「ただいま、ハク。今日はいい子にしてた?」


 ハクは返事をするように小さく鳴き、悠真の手へ鼻先を寄せた。


 その様子を見ていると、階段の方から妹の琴葉が顔を出した。


「お兄ちゃん、おかえり。ちょっと見てほしいものがあるんだけど」


「ただいま、琴葉。どうしたの?」


 琴葉は手に持っていた二枚の台紙を見せた。


 薄い緑色と、生成り色。


 以前から迷っていた押し葉作品の背景に使う候補だった。


「昨日まで、どっちにしようか決められなかったんだけど、今日は葉っぱを置く位置を少し変えてみたの」


 琴葉は居間のテーブルへ台紙を並べ、押し葉を傷つけないよう慎重に置いた。


 悠真は椅子へ座り、二つを見比べた。


 薄い緑色の台紙では、葉の輪郭が柔らかく見える。


 生成り色の台紙では、葉の色の違いが少し分かりやすいように感じられた。


「どっちもいいね。琴葉は、どんなふうに見せたいの?」


 悠真が尋ねると、琴葉は少し考えた。


「うーん。葉っぱの色をきれいに見せたい気持ちもあるけど、全体を優しい感じにしたい気持ちもあるんだよね」


「なるほど。じゃあ、どっちを大切にしたいかで変わりそうだね」


 琴葉は頷き、二枚の台紙を交互に見つめた。


「そうなんだよね。でも、今日は少しだけ分かった気がする。葉っぱの置き方で印象が変わるから、台紙の色だけで決めなくてもいいのかなって」


 悠真はその言葉を聞き、微笑んだ。


「いいと思うよ。完成したときに、琴葉が気に入る形になるのが一番だから」


 琴葉は嬉しそうに笑った。


「ありがとう、お兄ちゃん。もう少し考えてみる!」


 まだ台紙は決まっていない。


 けれど、琴葉は以前よりも楽しそうに二つの案を比べていた。


 悠真はその姿を見ながら、彩花が写真集から好きな一枚を選んだことを思い出した。


 何かを選ぶときには、見た目だけではなく、自分が何を大切にしたいのか考える必要があるのかもしれない。


 琴葉が押し葉作品を完成させたら、いつか彩花にも見てもらいたいと言っていたことを、悠真は覚えている。


 ただし、そのための予定はまだ決まっていない。


 今は琴葉が納得できる作品を作ることを、静かに見守っていたかった。


     ◇


 夕食後、彩花は自室で星模様の創作ノートを開いた。


 今日の文芸部で、作者本人が大切にしていた表現を残しながら、読みやすさを改善する方法を見つけた。


 その経験を通して、自分の物語についても考えたいことが増えていた。


 彩花は以前書いた文章を読み返した。


『道具の柄には、小さな傷がいくつも残っていました。おばあちゃんは使い終わるたびに丁寧に土を落としていたのに、持ち手の隙間だけは、いつも少し茶色いままでした。私はそれを不思議に思って、どうして全部きれいにしないのかと尋ねたことがあります。』


 この部分について、彩花は以前から気になっていた。


 祖母が丁寧に道具を手入れしていたなら、隙間に土が残り続けることは自然なのだろうか。


 そもそも、どんな園芸道具を想定しているのか、まだ十分に決めていない。


 彩花はペンを持ち、文章の横へ小さく書き込んだ。


『道具の種類を決める前に、柄の形や手入れの方法を確認する。』


 それから、少し考えた。


 もし現実的ではない描写だったとしても、ただ削除すればいいわけではない。


 自分がその場面で大切にしたかったものを、まず確かめる必要がある。


 祖母が使っていた道具。


 その道具に残る小さな傷。


 少女が幼い頃、祖母へ何気なく尋ねたこと。


 そして、返事の言葉は思い出せないのに、祖母の笑顔だけは覚えていること。


 彩花はそれらを読み返しながら、道具そのものよりも、少女と祖母が一緒に過ごした時間を描きたいのだと感じた。


(道具の傷は、その時間が残っていることを表したかったんだと思う。でも、現実に合わない描写なら、別の形で伝えた方がいいよね)


 彩花はその考えを余白へ書き留め、園芸道具について調べるためのメモを作った。


 今日はまだ、本文を大きく書き直さない。


 調べる前に修整してしまえば、また別の不自然さが生まれるかもしれないからだ。


 彩花は創作ノートを閉じ、机の上の写真集へ目を向けた。


 庭先で植物を見つめる女性の写真。


 その一枚を選んだ理由について、昨日より少し言葉にできるようになった気がしていた。


 写真の中の女性が何を考えていたのかは分からない。


 けれど、そこには誰かが暮らし、植物を育て、日々を過ごしていた時間が感じられる。


 自分は、そういう何気ない時間が好きなのだろう。


 彩花は写真集を開き、しおりを挟んだページをもう一度眺めた。


 悠真はまだ、この写真を知らない。


 同じ本を読んだあと、どんな一枚を選ぶのだろう。


 そのことを考えると、自然と頬が緩んだ。


     ◇


 夜になり、彩花が葉模様の日記帳を開こうとしたとき、スマートフォンが震えた。


 画面には悠真からのメッセージが表示されている。


『彩花さん、こんばんは。今日もお疲れさま。金曜日、無事に終わった?』


 彩花は微笑みながら返信した。


『こんばんは、悠真君。今日もお疲れさま。うん、文芸部の活動も終わったよ。今日はちょっと嬉しいことがあったんだ』


 送信したあと、彩花は少しだけ緊張した。


 嬉しいことがあったと伝えたものの、部誌の内容を詳しく話すことはできない。


 けれど、今日の出来事から感じたことなら、悠真にも話せるだろう。


 ほどなくして、返事が届いた。


『そうなんだね。よかった。どんなことがあったの?』


 彩花は少し考え、文章を打った。


『昨日、文芸部で文章を書いた人の意図を聞いたんだけど、今日はその人が新しい案を考えてきてくれたの。大切にしてた雰囲気を残しながら、前より分かりやすくなってて、すごいなって思ったんだ』


 悠真はそのメッセージを読み、静かに微笑んだ。


 昨夜、彩花は作者の意図が分からないときにどうするか尋ねてきた。


 その理由が、少し分かった気がした。


『それは嬉しいね。彩花さんたちが話し合ったことが、いい形につながったんだね』


 彩花はその言葉を読み、少し考えた。


 確かに、昨日の話し合いがきっかけになったのかもしれない。


 けれど、実際に新しい文章を考えたのは作者本人だった。


『うん。でも、私たちが直したっていうより、作者の人が自分で考えてくれたんだと思う。私は、どうしてその書き方にしたのか聞いただけだから』


 悠真はその返事を読み、少しの間画面を見つめた。


 彩花らしい言葉だと思った。


 自分が役に立ったことを喜びながらも、相手が考えたことを大切にしている。


 その姿勢が、悠真にはとても魅力的に感じられた。


『でも、その質問があったから、作者の人も自分の考えを整理できたのかもしれないよ。彩花さんが聞いてくれて、よかったんじゃないかな』


 彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 佐々木先輩にも、似たことを言ってもらった。


 けれど、悠真からそう言われると、少し違う嬉しさがあった。


 自分のしたことを、ちゃんと見てくれているような気がしたからだ。


『ありがとう、悠真君。そう言ってもらえると嬉しい』


 彩花は素直に返信した。


 少しして、悠真から新しいメッセージが届いた。


『そういえば、写真集のことなんだけど、今日は何か分かった?』


 彩花は思わず顔を上げた。


 ちょうど、自分もその話をしようと思っていたところだった。


『うん。今日、学校の図書室の先生に聞いてみたよ。やっぱり公共図書館へ直接問い合わせる方法があるみたい。それから、ほかの図書館に所蔵があるか調べる方法もあるって』


 悠真はその文章を読み、少し驚いた。


 自分が本を探していることを知って、彩花も動いてくれていたのだ。


 昨日、無理しなくていいと伝えたばかりだった。


 それでも、彩花は自分から先生へ相談してくれた。


 そのことが、悠真には嬉しかった。


『ありがとう、彩花さん。俺のために調べてくれたんだね』


 彩花はその言葉を読み、少しだけ頬を赤くした。


 確かに、悠真が同じ本を読みたいと言ってくれたから調べた。


 けれど、それだけではない。


 自分も、悠真がどんな写真を選ぶのか知りたかった。


 そのために、できることをしたかったのだ。


 彩花は少し考え、返信した。


『うん。でも、私も悠真君に読んでもらいたいから。どんな写真を選ぶのか、すごく楽しみなんだ』


 送信したあと、彩花はスマートフォンを胸元へ近づけた。


 言葉にしてみると、少し照れくさい。


 けれど、嘘のない気持ちだった。


 悠真から返事が届いた。


『俺も楽しみだよ。だから、急いで探すんじゃなくて、ちゃんと同じ本を読める方法を見つけたいな』


 彩花はその文章を読み、静かに微笑んだ。


 同じ本を読む。


 同じ写真を見て、それぞれ好きな一枚を選ぶ。


 その約束は、まだ途中だった。


 けれど、二人とも、その時間を楽しみにしている。


 それが分かるだけで、彩花は嬉しかった。


     ◇


 しばらく写真集について話したあと、悠真は少し迷いながらメッセージを打った。


『彩花さん、もう一つ聞いてもいいかな?』


 彩花は画面を見つめ、すぐに返信した。


『うん。もちろん。どうしたの?』


 悠真は少し考えた。


 今日、航平と古い写真の調査をしていたとき、友人から別の本を探しているのかと尋ねられた。


 そのとき、彩花との約束については話さなかった。


 秘密にしようと決めていたわけではない。


 ただ、自分にとって大切なことだから、誰にでも気軽に話したいとは思わなかった。


 悠真はその気持ちを、どう伝えればいいのか少し迷っていた。


 けれど、今夜は彩花へ一つだけ聞いてみたいことがあった。


『彩花さんは、誰かと同じ本を読んで、好きなところを話すのって、前から好きだった?』


 彩花はその質問を読み、少し考えた。


 本の感想を話すことは、以前から好きだった。


 文芸部でも、友人たちとも、読んだ本について話すことはある。


 けれど、悠真との約束には、少し違う楽しさがあった。


 同じ本を読むだけではない。


 互いがどこに目を向けるのか知りたい。


 その気持ちが、以前よりも強くなっている。


 彩花はしばらく考え、ゆっくりと返信した。


『うん、本の感想を話すのは前から好きだよ。でも、悠真君と話すようになってからは、同じ本でも相手が何を感じたのか、もっと知りたいって思うようになったかもしれない』


 送信したあと、彩花は少しだけ緊張した。


 自分の気持ちを、思ったよりも素直に書いてしまった気がしたからだ。


 悠真はその文章を読み、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。


 彩花は、以前から本が好きだった。


 けれど、自分と話すようになってから、相手の感じ方をもっと知りたいと思うようになったと言ってくれた。


 その言葉は、悠真にとって特別だった。


『俺も同じだよ。彩花さんと話すようになってから、本を読んで気づいたことを、誰かに伝えるのが前より楽しみになったんだ』


 彩花はその返事を読み、しばらく画面から目を離せなかった。


 悠真も同じように感じてくれていた。


 そのことが、胸の奥へゆっくりと広がっていく。


 彩花は小さく息を吐き、少しだけ頬を赤くした。


『……嬉しい。私も、悠真君と話す時間が好きだよ』


 送信した瞬間、彩花は以前贈ったカードのことを思い出した。


 あのときも、似た言葉を伝えた。


 けれど、今夜は少し違う。


 あの頃よりも、悠真と話したいことが増えている。


 同じ本を読みたい。


 同じ写真を見てみたい。


 そして、互いの考えを聞いてみたい。


 その気持ちが、以前よりもはっきりしていた。


 悠真から返事が届いた。


『ありがとう、彩花さん。俺も、彩花さんと話す時間が好きだよ』


 彩花はその文章を読み、自然と微笑んだ。


 特別な言葉を交わしたわけではない。


 けれど、今夜のやり取りは、彩花にとって大切なものになった。


     ◇


 九条家の自室で、悠真はスマートフォンを机へ置いた。


 窓の外には、冬の夜空が広がっている。


 庭の木々は静かで、枝先の芽もまだ開いていない。


 悠真は窓際へ近づき、少しの間その景色を眺めた。


 彩花と出会ってから、同じものを見ても、以前とは違うところへ目が向くようになった。


 古い写真の中に残る暮らし。


 何気ない植物の変化。


 誰かが大切にしている言葉。


 そうしたものを、彩花はいつも丁寧に見つめている。


 悠真はその姿勢が好きだった。


 そして、彩花が自分の考えを聞いてくれることも、嬉しかった。


(彩花さんは、俺が何を考えているのか知りたいって思ってくれてるんだね。それって、すごく幸せなことだな)


 悠真は静かに息を吐き、机の上の淡い青色の花模様のカードへ目を向けた。


 以前、彩花から贈られた大切なカード。


 そこには、彼女が自分の好きなものを大切にしてくれたことへの感謝と、悠真と話す時間が好きだという言葉が書かれている。


 今日、彩花はまた同じような気持ちを伝えてくれた。


 けれど、その言葉は以前の繰り返しではなかった。


 互いに話してきた時間が積み重なったからこそ、今夜は少し違う重みを持っていた。


 悠真はカードを丁寧に戻し、机の上のメモ帳を開いた。


 写真集について、次に確認したいことが書かれている。


 中央図書館への問い合わせ。


 ほかの図書館の所蔵確認。


 取り寄せが可能かどうかの相談。


 まだ、どれも実施できていない。


 けれど、明日は土曜日だった。


 学校の予定に追われず、少し時間を取って調べることができるかもしれない。


 悠真は明日の予定を確認し、無理のない範囲で進めようと考えた。


 彩花との約束を、急いで終わらせる必要はない。


 同じ本を読むまでの時間も、今は大切にしたかった。


     ◇


 水瀬家では、彩花が葉模様の日記帳を開いていた。


 今日の出来事を書き留めようとして、まず文芸部でのことを思い出した。


 作者本人が考えた新しい文章。


 大切にしていた雰囲気を残しながら、読みやすくなったこと。


 そして、佐々木先輩から、自分の質問が役に立ったと言ってもらえたこと。


 彩花はペンを持ち、ゆっくりと書き始めた。


『金曜日。文芸部で、昨日確認した文章の新しい案を読んだ。作者の人が自分で考えてくれた文章は、前より分かりやすくなっていたけれど、大切にしていた雰囲気も残っていた。文章を直すときには、何を残したいのか考えることが大切なんだと思った』


 彩花は少し考え、続きを書いた。


『放課後、写真集をほかの図書館で探す方法について先生に聞いた。まだ同じ本が見つかったわけではないけれど、悠真君と一緒に読むために、できることが少し分かった』


 書き終えたあと、彩花はペンを止めた。


 今日の夜、悠真と交わした言葉も残しておきたかった。


 彩花は少しだけ頬を赤くしながら、日記帳へ書き加えた。


『悠真君と、本の感想を話すことについて話した。私は、悠真君と話すようになってから、相手が何を感じたのか、もっと知りたいと思うようになった気がする。悠真君も同じだと言ってくれて、とても嬉しかった』


 彩花はその文章を読み返し、静かに微笑んだ。


 以前から本は好きだった。


 けれど、今は本を読む楽しさに、もう一つ別の楽しさが加わっている。


 自分が好きだと思ったものを、誰かに伝えたい。


 そして、その人が何を好きだと思うのか知りたい。


 その相手が悠真であることを、彩花は自然に嬉しく感じていた。


 明日は土曜日。


 凛花と一緒に植物を見に行く予定がある。


 まだ買うかどうかは決まっていないが、妹がどんな植物を選ぶのか、彩花も楽しみにしていた。


 悠真と次に会う予定は、まだ決まっていない。


 けれど、今夜のやり取りを思い出すと、急いで何かを決めなくてもいいように感じられた。


 彩花は日記帳を閉じ、机の上の写真集へ目を向けた。


 庭先で植物を見つめる女性の写真。


 自分が選んだ一枚は、まだ悠真には秘密のままだ。


 いつか同じ本を読んだあとで、互いの選んだ写真を伝え合う。


 その時間を想像すると、自然と胸が温かくなった。


 彩花は部屋の明かりを落とし、布団へ入った。


 今日、文芸部では一つの修整案が作者確認済みとなり、先生の再確認へ進む準備が整った。


 自分の創作についても、何を残したいのか考えるきっかけができた。


 そして悠真との間には、互いの考えを知りたいという気持ちが、以前よりもはっきりとした言葉になって残っている。


 金曜日の夜は、穏やかに更けていった。


 彩花は明日の家族との時間を楽しみにしながら、ゆっくりと目を閉じた。


 九条家でも、悠真が写真集を探すためのメモを閉じ、眠る準備を終えていた。


 二人はまだ、互いの気持ちを恋という言葉では伝えていない。


 それでも、相手の好きなものを知りたいと思う気持ちは、少しずつ深まっている。


 同じ本を読む約束も、まだ途中だった。


 けれど、その約束へ向かう時間そのものが、二人にとって大切なものになり始めていた。

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