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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第156話 木曜日の消された一文と、君にだけ聞いてみたいこと



 木曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の外には細かな雨が降っていた。


 昨夜の天気予報では午前中に雲が広がると言っていたものの、雨が降り始めるのはもう少し遅い時間だと思っていた。カーテンを開けると、隣家の屋根がしっとりと濡れ、庭の植木の葉先から小さな雫が落ちている。彩花は窓ガラスに近づき、灰色の空を見上げながら、今日は通学路の蕾をゆっくり観察するのが難しそうだと考えた。


(雨の日の蕾も見てみたいけど、傘を差したまま立ち止まると邪魔になるかもしれないね。今日は無理に写真を撮らなくてもいいかな)


 月曜日と水曜日に撮影した写真は、すでにスマートフォンへ保存してある。昨日は撮影位置をそろえることの大切さに気づいたばかりで、まだ十分な比較ができているわけではなかったが、だからといって毎日必ず撮影する必要もない。彩花は窓から離れ、制服へ着替えると、机の上に置いた写真集が濡れないよう鞄の内側へしまった。


 青葉高校の図書室で借りた古い町の写真集は、昨夜、凛花と一緒に読んだあと自室へ持ち帰っていた。庭先で植木鉢を見つめる女性の写真には、小さな紙のしおりを挟んである。悠真と好きな写真を一枚ずつ選ぶ約束をしているが、彼はまだ同じ本を読めておらず、彩花が選んだ一枚も知らない。


 鞄の口を閉じかけたところで、彩花は少し迷った。


 今日は文芸部の活動がある。写真集を学校へ持っていけば、必要になったときに図書室へ返却できるし、空いた時間に読み直すこともできる。ただ、雨の日に大きな本を持ち歩くのは少し心配だった。


 彩花は透明な書類袋を取り出し、写真集を入れてから鞄の奥へ収めた。表紙の角がほかの教科書に押されないよう位置を整えると、ようやく安心して机を離れた。


 階下からは、食器を並べる音と凛花の声が聞こえていた。


「お姉ちゃん、今日は傘を忘れないでね!」


「うん、今持っていくところ!」


 彩花が返事をして階段を下りると、凛花は食卓の椅子に座り、小さな紙へ何かを書き込んでいた。母の紗月が温かい味噌汁を運び、父の耕助は窓の外を見ながら、帰りまで雨が続くだろうかと話している。


「凛花、また植物の候補を調べてるの?」


 彩花が隣へ座って尋ねると、凛花は紙を少し持ち上げた。


「うん。でも、今日は種類じゃなくて、どんなふうに育てたいかを書いてるの。最初にそこを考えた方が選びやすいかなって思って」


 紙には、毎日様子を見たいこと、置き場所に合うこと、初めてでも無理なく世話ができることなどが書かれていた。凛花はまだ植物を購入していないが、候補を増やすばかりだった数日前とは違い、少しずつ選ぶための基準を考え始めているらしい。


「いいと思うよ。どんな植物が好きかだけじゃなくて、ちゃんと育てられるかも大切だもんね」


「そうなの。だから、お店へ行く前にもう少し調べてみるつもり」


 凛花はそう言って紙を畳み、朝食のためにノートの間へしまった。紗月は二人の前へ味噌汁を置きながら、植物を買うときには置き場所の明るさや水やりの頻度を店員へ相談してもいいのだと教えた。


 彩花は家族の会話に耳を傾けながら、昨夜選んだ写真のことを思い出した。


 庭先で植物を見つめる女性。


 写真の中の女性が何を考えていたのかは分からないが、植木鉢の並ぶ庭には、日々の世話を続けてきた時間が感じられた。凛花がこれから育てる一鉢にも、少しずつそんな時間が積み重なっていくのだろう。


 食事を終える頃には、雨脚が少し強くなっていた。


 彩花は玄関で靴を履き、傘の留め具を外してから鞄を肩へ掛けた。紗月が足元に気をつけるよう声をかけると、彩花は笑顔で頷き、家族に見送られて外へ出た。


     ◇


 青葉高校へ向かう歩道には、雨に濡れた落ち葉がところどころ張りついていた。


 彩花は傘を少し傾け、向かいから歩いてくる人とぶつからないよう道の端を進んだ。いつもの蕾がある場所へ近づくと、雨粒を受けた細い枝が風に揺れているのが見えたが、今日は足を止めず、通り過ぎながら一度だけ目を向けた。


 蕾はまだ開いていないようだった。


 それ以上のことは、傘越しの短い観察では分からない。彩花は無理に確かめようとせず、学校へ向かって歩き続けた。


 昇降口には、濡れた傘を畳む生徒たちが集まっていた。彩花は傘の水滴を十分に落としてから傘立てへ収め、靴を履き替えて教室へ向かった。


 教室の窓には細かな雨粒がついており、外の景色が少しぼやけて見える。いつもより早く照明がついているせいか、室内には朝なのに夕方のような落ち着いた明るさがあった。


「水瀬さん、おはよう。今日、傘持ってきてよかったね」


 近くの席の女子生徒が声をかけてきた。


「おはよう。うん、思ってたより降ってるね。帰りまで続くのかな」


「どうだろう。私、折り畳み傘にしたんだけど、帰りにもっと強くなったら困るなあ」


 相手は窓を見ながら苦笑したあと、机の上のプリントを彩花へ示した。


「そういえば、今日の国語の課題、最後の問題がちょっと難しくなかった?」


 彩花は鞄からノートを取り出し、昨日の課題を開いた。


 最後の問題は、短い文章を読んで、登場人物の行動から読み取れることと、読み手の想像を分けて書くものだった。彩花も答えを一つに絞るまで時間がかかったため、相手がどこで迷ったのか気になった。


「私も少し迷ったよ。どの部分が難しかった?」


「主人公が返事をしない場面。怒ってるのかなって思ったけど、悲しくて言葉が出なかったのかもしれないし、どっちなのか決められなくて」


 女子生徒はプリントの一文を指で示した。


 彩花はそこを読み返し、昨日まで文芸部で考えていたことと似ていると感じた。文章の中で明確に示されているのは、主人公が返事をしなかったという行動だけであり、その理由は前後の描写から慎重に考える必要がある。


「私は、どちらか一つに決めるより、そう考えた理由を書く方が大切なのかなって思ったんだ。先生がどういう答えを求めてるかは、まだ分からないけど」


「なるほど。じゃあ、怒ってるって書いたことより、どうしてそう思ったか説明できない方が問題かもしれないね」


 相手は納得したように頷き、プリントへ何かを書き加えた。


 彩花はその様子を見ながら、自分が文芸部で文章を直すときにも、似たことをしているのだと気づいた。


 分かりにくいから直す。


 その判断だけでは、何が分かりにくいのか説明できない。読んだ人が迷う箇所を見つけ、その理由を考えたうえで、作者が伝えたいことを変えないようにする必要がある。


 昨日までの作業を思い返していると、始業を知らせる予鈴が鳴った。


 彩花はプリントをしまい、教科書を机へ並べた。


 雨音が窓の向こうで続いていた。


     ◇


 同じ頃、桜華学園高等部では、九条悠真が朝のホームルーム前に生徒会の連絡事項を確認していた。


 前日に整理した書類の中に、提出期限の表記が分かりにくいものがあり、担当の生徒から確認を頼まれていた。悠真は印刷された予定表と元の連絡文を見比べ、日付そのものは一致しているものの、提出先の説明が省略されていることに気づいた。


 期限を変更する必要はない。


 ただ、誰へ提出するのかが分からなければ、受け取る側も困ってしまう。悠真は元の担当者へ確認するためのメモを作り、授業が始まる前に書類を鞄へしまった。


「九条、朝から仕事してるのか?」


 森川航平が教室へ入ってきて、悠真の机を覗き込んだ。


「少し確認してただけだよ。提出先が分かりにくい書類があってね」


「へえ。俺なら、たぶんそのまま出しちゃうな」


 航平は笑いながら隣の席へ鞄を置いたが、悠真が書類を揃えているのを見て、ふと思い出したように声を落とした。


「そういえば、駅前の写真の調査表、昨日の夜にもう一回見直したんだ」


「何か気づいた?」


「うん。新しい事実ってわけじゃないんだけど、俺たちが最初に候補を二つにした理由を、ちゃんと書いてなかった」


 悠真は手を止めた。


 撮影地点の候補は二つある。


 それぞれの場所を候補として残している理由は話し合ってきたが、表には資料の出典や未確認事項ばかりを記入していた。どの特徴がどちらの候補と一致しているのか、改めて説明しようとすると、記録が十分ではない可能性があった。


「確かに、それは書いておいた方がいいね」


「だろ? あとで新しい資料が出てきたとき、何となく似てるからって理由で候補を残してたら、比較できないもんな」


 航平は少し得意そうに笑った。


 悠真も微笑み返したが、心の中では、友人の気づきに感心していた。


 父の正樹から借りた写真の読み方に関する本を読んで以来、悠真は資料の年代や出典へ注意するようになった。けれど、候補を選んだ自分たちの判断そのものにも、説明できる根拠が必要だった。


「今日の昼休みに、そこだけ整理してみない?」


「いいね。授業が終わったら声かけるよ」


 航平は頷き、自分の席へ戻っていった。


 悠真は窓の外へ目を向けた。


 雨に濡れた校庭は普段より色が濃く、遠くの木々も薄い霧に包まれたように見える。こんな天気の日に昔の写真を撮った人がいたら、晴れた日の景色とは違うものを残したのだろう。


 そう考えたところで、悠真は彩花から教えてもらった写真集のことを思い出した。


 昨日の夜、著者名と出版社、出版年を教えてもらった。


 今日はその情報を使って、青凪市中央図書館の蔵書をもう一度調べてみるつもりだった。


     ◇


 昼休み、青葉高校の文芸部の連絡用の掲示に、佐々木先輩から短い知らせが届いた。


『今日の活動で、先生から戻ってきた確認事項を共有します。変更履歴と本文を照合するので、参加できる人は資料を持ってきてください。』


 彩花はその文章を読み、少し緊張した。


 冬の部誌『いつか、ここに』は、まだ先生の最終承認を受けていない。昨日まで、修整理由を具体的に書くことや、元の文章の意味を変えずに直す方法を考えてきたが、今日の連絡がどの部分についてなのかは分からなかった。


 彩花はスマートフォンをしまい、昼食の続きを食べた。


 部誌の完成が近づいているのかもしれない。


 けれど、確認事項が戻ってきたからといって、必ずしも悪い知らせとは限らない。今は内容を確かめてから考えようと、自分に言い聞かせた。


 午後の授業が終わる頃には、雨脚が少し弱くなっていた。


 窓ガラスを伝う雫はまだ残っているものの、朝のように細かな雨粒が次々と当たる音は聞こえない。彩花は教科書を片づけ、文芸部の資料を持って活動場所へ向かった。


 部室へ入ると、佐々木先輩が机の上へ数枚の紙を並べていた。


 ほかの部員たちも少しずつ集まっており、いつもより静かな雰囲気があった。彩花が挨拶すると、佐々木先輩は柔らかく微笑み、空いている席を示した。


「水瀬さん、お疲れさま。今日は先生から確認が戻ってきたの」


「お疲れさまです。部誌のことでしょうか?」


「ええ。全体をもう一度見てもらったんだけど、一か所だけ、作者本人へ確認してほしいところがあるって」


 彩花は机の上の資料へ目を向けた。


 そこには、以前から修整を検討していた短い文章が印刷されていた。


 二人の登場人物が会話を終え、一方が部屋を出る場面。


 元の文章では主語が省略されており、誰が部屋を出たのか少し迷う可能性があったため、主語を補う案が出されていた。しかし、別の場所へ名前を移す試案では動作の間合いが変わって読めることが分かり、正式には採用せず保留していた箇所だった。


「先生からは、どの文章が正しいかを私たちだけで決める前に、作者がどんな場面として書いたのか聞いてみてほしいって」


 佐々木先輩は資料を揃えながら説明した。


「読みやすくするための修整でも、作者が意図したことまで変えてしまうなら、別の方法を考えた方がいいでしょうって」


 彩花は静かに頷いた。


 その考えは、昨日まで自分たちが話し合っていたことと同じだった。


 けれど、実際に作者へ尋ねるとなると、少し緊張する。


 自分たちが分かりにくいと感じた文章について、本人へ理由を聞くことになるからだ。


 彩花は資料を読み返し、言葉を選びながら口を開いた。


「先輩、作者の人には、どういうふうに聞くのがいいでしょうか。分かりにくかったから直してほしいって伝えると、元の文章がよくなかったみたいに聞こえそうで……」


 佐々木先輩は彩花へ目を向け、少し考えた。


「そうね。まずは、私たちがどこで迷ったのかを伝えて、その場面で何を表現したかったのか聞いてみるのがいいと思う」


「修整案を先に見せるより、元の意図を聞く方がいいんですね」


「うん。私たちの案を見せると、作者がそれに合わせて答えようとするかもしれないから」


 彩花はその説明を聞き、胸の中で何かが落ち着くのを感じた。


 文章を直すための話し合いなのだから、最初から答えを決める必要はない。


 大切なのは、作者が何を書こうとしたのかを知ることだった。


     ◇


 しばらくして、該当する作品を書いた部員が席へ着いた。


 以前、彩花へ修整理由の書き方を相談してきた、同じ文芸部の部員だった。今日は少し緊張しているようで、資料を受け取ると、印刷された文章へ慎重に目を落とした。


 佐々木先輩は、最初に現在の確認状況を説明した。


 先生の最終承認はまだ下りていないこと。


 変更履歴の理由は以前より具体的になったこと。


 ただし、本文を修整する必要があるかどうかについて、作者本人の意図を確認したいこと。


 その説明を聞いた部員は、少し驚いたように顔を上げた。


「私の文章、そんなに分かりにくかったですか?」


 声は小さかったが、彩花には、その言葉に不安が含まれているように感じられた。


 彩花はすぐに答えようとして、少しだけ言葉を止めた。


 ここで「大丈夫」と言ってしまえば、相手は安心するかもしれない。


 けれど、実際に読み手が迷った箇所があったことまで否定してしまうのは違う。


 彩花は資料へ目を向け、落ち着いて説明した。


「最初に読んだとき、私は部屋を出たのがどちらの人物なのか少し迷ったんです。でも、前の段落から読むと分かるようにも感じました。だから、直した方がいいのか、元のままの方がいいのか、まだ決められなくて」


 部員は彩花の言葉を聞き、もう一度文章を読み返した。


 佐々木先輩も急かさず、相手が考える時間を待っている。


 窓の外では雨が弱まり、校庭から部活動を始める生徒たちの声がかすかに聞こえてきた。部室の中では紙をめくる音だけが続き、彩花は相手が顔を上げるまで黙っていた。


「……ここ、わざと名前を書かなかったんです」


 やがて、部員が口を開いた。


「部屋を出る人が誰なのかを隠したかったわけじゃないんですけど、最後の会話が終わったあと、少し間がある感じにしたくて。名前を入れると、急に動きがはっきりしすぎる気がしたんです」


 彩花は思わず資料へ目を向けた。


 名前を省略した理由は、単なる書き忘れではなかった。


 会話が終わったあとに残る間を、大切にしたかったのだ。


 その説明を聞くと、彩花には元の文章が少し違って見えた。


 直前の段落には、片方の人物が立ち上がる描写がある。


 そのあと、短い会話が終わり、主語のない一文が続く。


 誰が動いたのかを明確にすることだけを考えていたときには気づかなかったが、作者はそこで、会話が終わったあとの空気を残そうとしていたらしい。


「そうだったんですね。私は、読みやすくすることばかり考えていました」


 彩花が答えると、部員は少し困ったように笑った。


「でも、読んだ人が迷うなら、やっぱり直した方がいいのかなって思います」


 その言葉には、作者としての迷いが感じられた。


 彩花は自分の創作ノートを思い出した。


 祖母が何と答えたのか思い出せない少女の場面。


 もし誰かに、祖母の返事を書いた方が分かりやすいと言われたら、自分はどう感じるだろう。


 読者に伝わるようにしたい気持ちはある。


 けれど、思い出せないことそのものを大切にしたいという気持ちもある。


 彩花は少し考えてから、部員へ尋ねた。


「名前を入れないことが大切なんじゃなくて、会話が終わったあとの間を残したい、ということでしょうか?」


 部員は顔を上げ、少し驚いたように彩花を見た。


「……はい。たぶん、そうです」


「それなら、主語を補うかどうかだけじゃなくて、前の段落の書き方も考えられるかもしれません。誰が立ち上がったのかを読者が覚えていられるなら、最後の一文には名前を入れなくても伝わるかもしれないので」


 彩花は自分の考えを伝えながら、相手の表情を確かめた。


 部員は資料へ視線を落とし、少しずつ頷いている。


「そうか……。最後の文だけを直そうとしてたから、難しくなってたのかもしれないですね」


 佐々木先輩が静かに口を開いた。


「今の話なら、前の段落も含めて読み直してみましょう。ただし、今日ここで無理に決める必要はないわ。作者本人が納得できる形を考えて、それから先生へ確認してもらいましょう」


 部員はほっとしたように息を吐いた。


「ありがとうございます。もう一度、自分でも考えてみます」


 彩花はその姿を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 自分の提案が採用されたわけではない。


 文章の問題が解決したわけでもない。


 それでも、作者が大切にしていることを知ることができた。


 その事実が、今日の話し合いを確かに前へ進めていた。


     ◇


 活動の後半では、部員たちが修整前後の文章と変更履歴を照合した。


 佐々木先輩は、今日の話し合いで判明した作者の意図を記録し、まだ正式な修整案が決まっていないことを明記した。彩花は隣で資料を確認しながら、以前の変更理由がそのまま残っていると、すでに修整が決定したように読める可能性があることに気づいた。


「先輩、この欄は一度、保留に戻した方がいいでしょうか?」


 彩花が指した箇所を見て、佐々木先輩は頷いた。


「そうね。昨日までの検討内容は消さずに残して、現在の状態を『作者確認後、再検討中』にしましょう」


「分かりました。理由の欄も、まだ確定ではないことが分かるようにします」


 彩花は記録を修整し、日付と確認した内容を書き加えた。


 以前の案を消してしまえば、何を考えて今の状態になったのか分からなくなる。


 けれど、採用されていない案を正式な修整として残しておくのも違う。


 彩花はその二つを意識しながら、変更履歴を整理した。


 作業が一段落すると、佐々木先輩が資料を確認して微笑んだ。


「ありがとう、水瀬さん。今日は作者の意図を聞けてよかったわね」


「はい。私、読みやすくすることばかり考えていたので、少し反省しました」


 彩花が答えると、先輩は首を横に振った。


「反省する必要はないと思うわ。読者として迷ったことも事実だし、作者が間を大切にしたかったことも事実でしょう。どちらか一方だけが正しいわけじゃないもの」


 彩花はその言葉を聞き、資料へ目を落とした。


 読者のために分かりやすくすること。


 作者が大切にしている表現を守ること。


 その両方を考えるのが、編集の仕事なのかもしれない。


「……そうですね。今日、少し分かった気がします」


 佐々木先輩は穏やかに微笑んだ。


「それならよかった。先生への再確認は、作者が新しい案を考えてからにしましょう。ほかの部分も含めて、最終承認はまだ待ってもらうことになるけれど、急いで決めるよりいいと思う」


 彩花は頷き、資料を揃えた。


 窓の外では、いつの間にか雨がやんでいた。


 雲の切れ間から薄い光が差し込み、濡れた校庭が静かに明るくなっている。彩花はその景色を眺めながら、今日の話し合いをもう一度思い返した。


 文章の中に書かれていないことにも、理由がある。


 けれど、書かれていない理由が読者へ必ず伝わるとは限らない。


 その難しさを知ったことが、彩花には大きな収穫だった。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真が放課後の生徒会業務を終えたところだった。


 朝に気づいた提出先の分かりにくい書類について、担当者へ確認を取り、必要な説明を加えた修正版を作成していた。期限や提出先そのものを変更したわけではなく、元の連絡内容が正確に伝わるよう整えただけだったが、確認を終えた担当者からは助かったと礼を言われた。


 悠真は書類を所定の場所へ戻し、校内の図書室へ向かった。


 今日は、彩花から教えてもらった写真集の書誌情報を使い、青凪市中央図書館の蔵書を改めて調べるつもりだった。


 図書室の端末が空いていることを確かめると、悠真はメモ帳を開いた。


 題名、著者名、出版社、出版年。


 昨夜、彩花が本の奥付を確認して送ってくれた情報を、一つずつ入力していく。


 検索結果には、昨日と同じように似た題名の本がいくつか表示された。


 けれど、今回は著者名と出版社を照合できる。


 悠真は候補を順番に確認し、同じ題名に見えるものでも、出版年や著者が異なることに気づいた。


 しばらく調べた結果、少なくとも現在確認できる検索結果の中には、彩花が借りている写真集と完全に一致する書誌情報を見つけられなかった。


(やっぱり、同じ本は見つからないのかな。でも、検索に出なかったからといって、絶対にないと決まったわけじゃないよね)


 悠真は画面を見つめ、少し考えた。


 蔵書検索には、入力方法によって結果が変わることもある。


 また、別の図書館が所蔵している可能性もあるだろう。


 ただ、今の自分には、そこまで確認する方法が分からない。


 悠真は図書室の先生へ相談することにした。


「すみません。少し教えていただきたいことがあるんですが」


 声をかけると、先生は手元の作業を止め、悠真へ向き直った。


「どうしたの、九条君?」


「青凪市中央図書館で本を探しているんですが、書誌情報を入力しても同じ本が見つからなくて。こういう場合、ほかに確認する方法はありますか?」


 悠真はメモ帳を示しながら、状況を簡潔に説明した。


 先生は画面とメモを見比べ、少し考えてから答えた。


「まずは、中央図書館へ直接問い合わせてみる方法があるわね。検索で見つからない場合でも、資料の扱いによって確認できることがあるかもしれないから」


「問い合わせるんですね」


「ええ。それから、ほかの図書館が所蔵しているかどうかを調べる方法もあるけれど、実際に取り寄せられるかは本の種類や図書館の制度によるわ。必ず借りられるとは限らないから、そこは確認が必要ね」


 悠真は頷いた。


 今すぐ本を手に入れられるわけではない。


 けれど、次に何をすればいいのかは分かった。


「ありがとうございます。まずは中央図書館へ確認してみます」


「そうね。急ぎでなければ、分かる範囲から順番に調べていくといいと思うわ」


 先生は穏やかに微笑み、悠真へメモ帳を返した。


 悠真は礼を言い、端末の利用を終えた。


 図書室を出る頃には、雨がやんでいた。


 廊下の窓から見える空には、薄い雲の間から夕方の光が差し込んでいる。悠真はその景色を眺めながら、彩花が選んだ写真のことを思い出した。


 彼女は、もう一枚を選んでいる。


 けれど、どの写真なのかはまだ知らない。


 その秘密を知りたい気持ちはあるものの、先に答えを聞いてしまえば、互いに独立して選ぶ楽しさがなくなってしまう。


 悠真は小さく微笑み、メモ帳を鞄へしまった。


 急ぐ必要はない。


 同じ本を読むまでの時間も、今は楽しみにしていたかった。


     ◇


 帰宅した彩花は、玄関で靴を脱ぎながら、家の中から聞こえてくる声に耳を傾けた。


 居間では凛花が母の紗月と話しているらしく、植物を育てる場所について、昨日とは少し違う案を考えているようだった。彩花は鞄を自室へ置いてから居間へ向かい、二人へ帰宅の挨拶をした。


「おかえり、彩花。雨、大丈夫だった?」


 紗月が尋ねると、彩花は傘を畳んだときのことを思い出して頷いた。


「うん。帰る頃にはほとんどやんでたよ。朝は結構降ってたけどね」


「よかった。風邪をひかないように、手を洗ってきてね」


「はーい」


 彩花は洗面所で手を洗い、居間へ戻った。


 凛花はテーブルの上へ小さな紙を広げ、植物を置く場所の候補を描いていた。


「お姉ちゃん、見て。窓際の棚だけじゃなくて、こっちの机の端も考えてみたの」


 凛花が示したのは、居間の窓から少し離れた場所だった。


 彩花は紙を覗き込み、妹が昨日より具体的に考えていることに気づいた。


「そこなら、ぶつかって落としちゃう心配は少なそうだね。でも、日当たりはどうなんだろう」


「そうなの。だから、明るさが足りる植物かどうかも調べたいんだ」


 凛花は少し得意そうに笑った。


 彩花はその様子を見ながら、今日の文芸部で考えたことを思い出した。


 何かを決めるときには、最初に思いついた答えだけでなく、何を大切にしたいのか考える必要がある。


 凛花は植物を選ぶために、自分がどんなふうに育てたいのかを整理し始めている。


 その姿が、彩花には少し頼もしく見えた。


「凛花、だんだん考えがまとまってきたね」


「そうかな?」


「うん。前は育てたい植物がたくさんあって迷ってたけど、今は選ぶ理由も考えてるでしょう?」


 彩花が答えると、凛花は嬉しそうに笑った。


「そう言われると、ちょっと進んだ気がする」


 紗月も微笑みながら頷いた。


「焦らなくていいから、自分で納得できるものを選びなさいね」


 凛花は元気よく返事をし、紙を丁寧に畳んだ。


 彩花はその様子を見て、昨日の写真集のことを思い出した。


 自分が庭先の写真を選んだ理由。


 それは、凛花に「お姉ちゃんらしい」と言われたことで、少し分かった気がしていた。


 けれど、今日の文芸部で作者の意図を聞いたあとでは、もう一つ考えたいことが増えていた。


 自分がその写真を好きだと思った理由と、写真を撮った人が何を残したかったのかは、同じとは限らない。


 その違いを意識することも、写真を楽しむうえで大切なのかもしれなかった。


     ◇


 夕食後、彩花は自室で星模様の創作ノートを開いた。


 今日は文芸部で、文章を書いた本人が大切にしていたことを聞く機会があった。


 その経験を通して、自分の物語についても、少し考え方が変わったように感じていた。


 祖母へ手紙を書く少女。


 庭の花。


 古い園芸道具。


 そして、祖母が何と答えたのか思い出せないこと。


 彩花はこれまで、少女の気持ちを読者へどう伝えるか考えてきた。


 けれど、今日は少し違う問いが浮かんでいた。


(私は、この子に何を覚えていてほしいんだろう。おばあちゃんの言葉を思い出せないことを書きたいのか、それとも、言葉を思い出せなくても残っているものがあることを書きたいのかな)


 彩花はペンを持ち、ノートの余白へ二つの考えを書き出した。


 一つは、忘れてしまった言葉を探す物語。


 もう一つは、忘れたことを受け入れながら、今も残っている記憶を大切にする物語。


 どちらも、今まで書いた文章から自然につながる可能性がある。


 けれど、物語の最後に少女がどんな気持ちで手紙を閉じるのかは、大きく変わってくるだろう。


 彩花はしばらく考えたあと、最初の二行を読み返した。


『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』


『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』


 少女は、祖母へ何かを尋ねるためだけに手紙を書き始めたわけではない。


 今、自分の目の前にある花のことを伝えたいと思っている。


 その気持ちを大切にするなら、物語の中心に置きたいのは、失った記憶を取り戻すことだけではないのかもしれない。


 彩花は少し考え、余白へ新しい一文を書いた。


『少女は、思い出せない答えを探すよりも、今見つけたものを祖母へ伝えたいのかもしれない。』


 書き終えると、彩花は静かに息を吐いた。


 まだ決定ではない。


 けれど、これまで曖昧だった物語の方向が、少しだけ見えてきた気がした。


 彩花は続きの文章を書こうとして、園芸道具の描写があるページで手を止めた。


 古い道具の柄に残る傷と、隙間に入り込んだ土。


 その描写については、以前から現実的かどうか気になっていた。


 祖母が丁寧に道具を手入れしていたなら、持ち手の隙間にいつも土が残っているという説明は不自然かもしれない。


 彩花はその部分へ小さな印をつけ、別の紙へ確認事項を書いた。


『園芸道具の種類と手入れの方法を調べる。実際に使う人の話を聞けるなら確認する。』


 書き終えたあと、彩花はペンを置いた。


 物語のために必要なことを調べる。


 その作業は、悠真が古い写真について資料を確認していることと少し似ている。


 けれど、自分の創作の内容を、悠真へ詳しく話すつもりはまだなかった。


 完成したら、最初に読んでもらう。


 その約束を大切にしたいからだ。


     ◇


 夜になり、彩花が葉模様の日記帳を開こうとしたとき、スマートフォンが小さく震えた。


 画面には悠真からのメッセージが表示されていた。


『彩花さん、こんばんは。今日もお疲れさま。雨は大丈夫だった?』


 彩花は自然と微笑み、返信を打った。


『こんばんは、悠真君。今日もお疲れさま。朝は結構降ってたけど、帰る頃にはほとんどやんでたよ。悠真君の方は?』


 少しして、悠真から返事が届いた。


『こっちも帰りにはやんでたよ。今日は学校で少し調べ物をしてたんだ』


 彩花はその文章を読み、何について調べていたのだろうと考えた。


 古い駅前写真のことかもしれない。


 それとも、生徒会の仕事に関係することだろうか。


 彩花はすぐに決めつけず、尋ねることにした。


『そうなんだ。何を調べてたの?』


『昨日教えてもらった写真集のことだよ。著者名と出版社を使ってもう一度探してみたんだけど、まだ同じ本は確認できなかったんだ』


 彩花は少し驚いた。


 悠真は今日も、写真集を探してくれていた。


 自分が何気なく見つけた一冊の本を、そんなふうに大切にしてくれていることが嬉しかった。


 けれど、同時に少し申し訳なくも感じた。


 青葉高校の図書室で借りた本が、ほかの図書館にあるとは限らない。


 悠真が何度も探すことになってしまうのは、気がかりだった。


『何度も調べてくれてありがとう。でも、見つからなかったら無理しないでね。私が学校で借りた本だから、同じものがない可能性もあるし』


 送信すると、悠真から返事が届いた。


『ありがとう。でも、俺が読みたいと思って調べてるから、気にしなくて大丈夫だよ。今日は図書室の先生に、ほかの探し方も教えてもらったんだ』


 彩花はその言葉を読み、少し安心した。


 悠真は、義務感で探しているわけではないらしい。


 自分が興味を持ったから調べている。


 そのことが伝わってきた。


『そうだったんだ。どんな方法があるの?』


『中央図書館へ直接問い合わせたり、ほかの図書館に所蔵があるか調べたりする方法だよ。ただ、取り寄せられるかどうかは本によるみたいだから、まだ分からないんだけどね』


 彩花はその説明を読み、静かに頷いた。


 すぐに答えが出るわけではない。


 けれど、確認できることは残っている。


 その姿勢が、悠真らしいと思った。


『そっか。見つかるといいね。私も、学校の図書室の先生に何か分かることがないか聞いてみようかな』


 送信したあと、彩花は少し考えた。


 自分が借りた本なのだから、悠真だけに探してもらう必要はない。


 ただし、青葉高校の図書室で借りた本を、外部の人へそのまま貸せるわけではないだろう。


 何ができるか分からないからこそ、まずは先生へ相談してみるのがよさそうだった。


 悠真から返事が届いた。


『ありがとう。でも、彩花さんも無理しないでね。急いで読む必要はないし、見つかるまでの間も楽しみにしてるから』


 彩花はその文章を見つめ、少しだけ頬を赤くした。


 悠真はいつも、相手へ負担をかけないように言葉を選んでくれる。


 その優しさが嬉しい一方で、彩花はふと、今日の文芸部で考えたことを思い出した。


 相手の気持ちを考えること。


 けれど、考えるだけでは、本当の気持ちは分からないこと。


 彩花は少し迷ったあと、メッセージを打った。


『悠真君、一つ聞いてもいい?』


 送信すると、すぐに返事が届いた。


『もちろん。どうしたの?』


 彩花は画面を見つめ、指を止めた。


 今日の文芸部で、作者本人へ意図を尋ねた。


 それまでは、文章から読み取れることだけを考えていたが、実際に話を聞いたことで、見えていなかった理由を知ることができた。


 その経験を、悠真にも話してみたかった。


 ただし、部誌に掲載されるほかの部員の作品を、許可なく詳しく説明することは避けたい。


 彩花は少し考え、具体的な文章には触れずに尋ねることにした。


『今日、文芸部で文章の直し方について話し合ったんだ。そのとき、書いた人が何を大切にしてたのか聞いてみたら、私が考えてたことと少し違ってて。悠真君は、本を読んでて作者の意図が分からないとき、どうする?』


 送信したあと、彩花は少し緊張した。


 急に難しいことを聞いてしまったかもしれない。


 悠真は読書が好きだから、きっと自分なりの考えを持っているだろう。


 けれど、今夜はゆっくり話す時間がないかもしれない。


 彩花がそう考えていると、悠真から返事が届いた。


『面白い質問だね。俺は、まず本文に書かれていることをもう一度確かめると思う。でも、それでも分からないことは、分からないまま残しておくこともあるかな』


 彩花はその文章を読み、少し考えた。


 分からないまま残しておく。


 それは、今日の自分が文芸部で学んだことともつながっている。


 悠真から続けてメッセージが届いた。


『作者がどう考えていたのか知りたいと思うことはあるけど、読んだ人が何を感じたかも大切だと思うんだ。同じ文章を読んでも、違うところに気づくことがあるから』


 彩花は思わず微笑んだ。


 同じ写真集を読んで、それぞれ好きな一枚を選ぶ。


 その約束と、どこか似ている考え方だった。


『そっか。作者の考えと、読んだ人の感じ方は、必ずしも同じじゃないんだね』


『うん。だから、作者の意図を知ったあとでも、自分が最初にどう感じたかは大切にしたいかな』


 彩花はその返事を読み、しばらく画面を見つめた。


 今日、部員が大切にしていた間合いを知ったとき、自分が最初に迷ったことまで間違いだったように感じていた。


 けれど、悠真の言葉を聞いて、少し考えが変わった。


 自分が迷ったことも、読者としての正直な反応だった。


 作者が大切にしていたことも、確かな事実だった。


 どちらかを消してしまう必要はない。


 彩花は指先で画面を触れ、ゆっくりと返信を打った。


『ありがとう、悠真君。今日、私が迷ってたことに、少し答えが見つかった気がする』


 送信すると、悠真から短い返事が届いた。


『それならよかった。彩花さんがどんなことを考えたのか、また聞かせてね』


 彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分の考えを聞いてほしい。


 そして、悠真がどう考えるのかも知りたい。


 その気持ちは、以前よりも自然に言葉になっていた。


     ◇


 九条家の自室で、悠真はスマートフォンを机へ置き、少しの間考え込んでいた。


 彩花からの質問は、読書についてのものだった。


 けれど、ただ本の感想を聞きたいというだけではなく、今日の文芸部で何か考えることがあったのだろう。


 具体的な文章については話していなかったため、悠真には詳しい事情までは分からない。


 それでも、彩花が自分の考えを尋ねてくれたことが嬉しかった。


(彩花さんは、何かを考えたときに、俺の意見も聞いてみたいと思ってくれたんだね。それって、すごく嬉しいことだな)


 悠真は椅子の背にもたれ、窓の外へ目を向けた。


 雨はすっかりやみ、庭の木々には街灯の光が淡く当たっている。


 枝先の芽は、まだ開いていない。


 けれど、雨に濡れた枝は昼間よりも色が濃く見え、同じ庭でも時間によって印象が変わることに気づいた。


 悠真はその景色を眺めながら、彩花と一緒に写真を選ぶ約束を思い出した。


 同じ写真を見たとき、自分は何を感じるのだろう。


 彩花は何を感じたのだろう。


 その答えを聞く日が、少しずつ楽しみになっている。


 ただし、まだ次に会う日時は決まっていない。


 写真集が見つかるかどうかも分からない。


 悠真は急いで予定を決めようとは思わなかった。


 今は、それぞれの場所で見つけたことを話し合う時間を大切にしたかった。


 机の上には、彩花から贈られた淡い青色の花模様のカードが置かれている。


 悠真はそのカードへ目を向け、以前もらった言葉を思い出した。


『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』


『悠真君と話す時間が、私は好きです。』


 その言葉は、今も大切にしている。


 けれど、今日はもう一つ、嬉しいことが増えた。


 彩花が自分の考えを聞いてくれたこと。


 それは、ただ優しくしてもらうこととは違う。


 相手が何かを考えるとき、その時間の中へ少しだけ自分を入れてくれたように感じられた。


 悠真はカードを丁寧に戻し、机の上の資料を片づけ始めた。


     ◇


 水瀬家では、彩花が葉模様の日記帳を開いていた。


 今日の出来事を書き留めようとして、最初に思い出したのは、朝の雨でも、放課後の部誌の作業でもなかった。


 文芸部で、文章を書いた本人の意図を聞いたこと。


 そして夜、悠真へ自分の疑問を尋ねたことだった。


 彩花はペンを持ち、ゆっくりと書き始めた。


『木曜日。文芸部で、文章を直す前に作者の考えを聞いた。私は分かりにくいと思っていたところに、その人なりの大切な理由があると知った。自分が読んで迷ったことも、作者が大切にしたかったことも、どちらも消さずに考えたいと思った』


 彩花は少し考え、続きを書いた。


『夜、悠真君に、作者の意図が分からないときどうするか聞いてみた。悠真君は、本文を読み直して、それでも分からないことは分からないまま残すこともあると言っていた。読んだ人が最初にどう感じたかも大切にしたいという言葉が、印象に残った』


 書き終えたあと、彩花はしばらくペンを持ったまま動かなかった。


 今日、悠真へ質問する前は、少し緊張した。


 難しいことを聞いてしまうかもしれないと思ったからだ。


 けれど、悠真は自分の考えを丁寧に伝えてくれた。


 そして、彩花が何を考えたのかも、また聞かせてほしいと言ってくれた。


 そのことが、彩花には嬉しかった。


(私、悠真君と話してると、答えが一つに決まらないことも、少し楽しくなるんだね)


 彩花はその思いを胸に、日記帳を閉じた。


 机の上には、まだ完成していない創作ノートが置かれている。


 祖母へ手紙を書く少女の物語は、少しずつ方向が見えてきたものの、園芸道具の描写について確認したいことが残っている。


 冬の部誌『いつか、ここに』も、作者の意図を踏まえて修整案を考え直す必要があり、先生の最終承認はまだ下りていない。


 借りている小説では、幼なじみたちの再会も、手紙の差出人の正体も、まだ明らかになっていない。


 悠真が調べている青凪市駅前の古い写真も、撮影地点の候補が二つ残っている。


 そして、二人で同じ写真集を読むという小さな約束も、まだ途中だった。


 彩花は部屋の明かりを落とし、布団へ入った。


 今日は、何かが完全に解決した日ではない。


 けれど、分からないことをそのままにしておくのと、分からない理由を考え続けるのとでは、きっと違う。


 そのことを、彩花は少しずつ知り始めていた。


 九条家でも、悠真が眠る準備を終えていた。


 明日は金曜日。


 週末が近づいているが、二人が次に会う予定はまだ決まっていない。


 それでも、互いの好きなものを知りたいという気持ちは、今日も少しだけ深まっていた。


 同じ本を読むこと。


 同じ写真を見てみること。


 そして、相手が何を感じたのかを聞くこと。


 その一つ一つが、今の二人にとって大切な時間になっている。


 木曜日の夜は、静かに更けていった。


 彩花は、悠真に聞いてみたいことがまた一つ増えたことを思い出しながら、ゆっくりと目を閉じた。


 そして悠真も、彩花が自分の考えを尋ねてくれたことを胸に、穏やかな眠りへ落ちていった。

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