第155話 水曜日の一枚を選ぶ理由と、君が気づいてくれた私の本音
水曜日の朝、水瀬彩花は、いつもより少し早く目を覚ました。
目覚まし時計が鳴るまでには、まだ十分ほどある。布団の中から窓へ目を向けると、カーテンの隙間には薄い青色の光が差し込んでいた。冬の朝らしい冷たさが部屋に残っているものの、空の色を見る限り、今日は穏やかな天気になりそうだった。
彩花は枕元の時計を確かめ、もう一度眠ろうかと考えた。
けれど、昨夜の出来事を思い出すと、不思議と眠気が薄れていった。
放課後、学校の図書室で見つけた古い町の写真集。
そして、夜に悠真から提案された、小さなお願い。
同じ写真集を読んで、それぞれが気に入った写真を一枚選んでみる。
どちらが正しい写真を選ぶという話ではない。ただ、同じ本を見たときに、互いがどんなところへ目を向けるのか知りたいという、悠真らしい提案だった。
(昨日は、何枚も気になる写真があったんだよね。でも、一枚だけ選ぶってなると、どれにしようかな)
彩花は布団から起き上がり、机の上に置いた小さなメモ帳へ目を向けた。
写真集の題名は、昨日のうちに書き留めてある。
青葉高校の図書室で見つけた本なので、悠真が通う桜華学園高等部に同じものがあるとは限らない。青凪市中央図書館にも所蔵されているかどうかは、まだ確認できていなかった。
それでも、悠真が自分の見つけた本へ興味を持ってくれたことが嬉しかった。
彩花は制服へ着替え、鏡の前で髪を整えた。
今日は放課後に図書室へ立ち寄り、昨日の写真集をもう一度見てみよう。
そう決めると、学校へ向かう時間が少し楽しみになった。
◇
朝食の食卓では、妹の凛花が小さなノートを開いていた。
まだ迎える植物の種類は決まっていないものの、置き場所の条件や、育てるときに確かめたいことを少しずつ書き留めているらしい。
「おはよう、凛花。朝から調べ物?」
「おはよう、お姉ちゃん。ううん、昨日書いたところを見直してただけ。窓際って明るいと思ってたけど、朝と夕方で全然違うんだなって」
凛花はノートを閉じ、少し考えるように窓へ目を向けた。
「昨日の夕方に見たら、最初に考えてた場所は思ったより暗かったの。だから、もう一回置く場所を考えようかなって」
「そうなんだ。実際に見てみないと分からないことってあるよね」
彩花が答えると、凛花は頷いた。
「うん。お姉ちゃんが昨日言ってた写真も、同じ場所から撮らないと比べにくいんでしょ? それと似てるのかなって思った」
彩花は少し驚き、それから微笑んだ。
「そうかもしれないね。何となく分かったつもりでも、確かめると違うことがあるんだと思う」
母の紗月は二人の会話を聞きながら、温かいスープを食卓へ運んだ。
「凛花、植物を置く場所は、決めてからでも変えられるんだから、あまり難しく考えすぎなくていいのよ」
「うん。でも、最初にちゃんと考えておきたいんだ」
「それなら、まずは何を育てたいか、候補を少し絞ってみたらどう?」
紗月が提案すると、凛花は考え込んだ。
「そうだね。今は種類を調べるたびに、これもいいなって増えちゃうから」
父の耕助が新聞を畳み、笑いながら口を開いた。
「候補が増えるのは、興味がある証拠だな。ただ、全部を一度に育てるわけにはいかないから、最初の一鉢をどう選ぶかだろう」
凛花は真剣な表情で頷いた。
「うん。今週中に、候補を三つくらいまで減らしてみようかな」
彩花は妹の言葉を聞き、少しだけ考えた。
一つを選ぶこと。
それは、今の自分が写真集について考えていることとも似ていた。
気になる写真が何枚もあるからこそ、その中から一枚を選ぶのは難しい。
けれど、選ぶ理由を考えることで、自分が何を好きなのか分かることもあるのかもしれない。
朝食を終えた彩花は、鞄を持って玄関へ向かった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。今日は帰りが遅くなるの?」
紗月に尋ねられ、彩花は少し考えた。
「放課後に図書室へ寄りたいから、いつもより少し遅くなるかも。でも、長くはならないと思う」
「分かったわ。暗くなる前に帰れるようにしてね」
「うん。気をつける」
彩花はそう答え、家を出た。
外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。
空には薄い雲が浮かんでいたが、東の方からは柔らかな日差しが届いている。
彩花はマフラーを整え、学校へ向かって歩き始めた。
◇
通学路の途中、彩花はいつもの蕾の前で足を緩めた。
昨日は写真を撮らず、立つ位置や距離をそろえる必要があると考えただけだった。
今日は、歩道の端にある舗装の継ぎ目を目印にして、同じ場所から観察してみることにした。
ただし、通行人の邪魔にならないように、立ち止まる時間は短くする。
彩花は周囲を確認してからスマートフォンを取り出し、月曜日に撮った写真を表示した。
画面の中の蕾と、目の前の蕾。
同じような角度へ合わせてみると、昨日よりは比較しやすくなった。
けれど、まだはっきりとした違いは分からない。
(少し膨らんでるようにも見えるけど、光の当たり方も違うし……。やっぱり、簡単には分からないね)
彩花は今日の写真を一枚撮り、日付を確かめた。
そのあと、メモ帳へ短く書き留める。
『水曜日。月曜日と近い角度で撮影。大きな変化は確認できず。』
書き終えた彩花は、少しだけ満足した。
変化が見つからなかったことも、記録としては意味がある。
昨日までの自分なら、何か違いを見つけなければと思っていたかもしれない。
けれど、今は見たままのことを残す方が大切だと感じていた。
彩花はスマートフォンを鞄へ戻し、再び歩き始めた。
学校へ近づくにつれて、同じ制服を着た生徒たちの姿が増えていく。
彩花はその流れに加わり、青葉高校の校門をくぐった。
◇
午前中の授業が終わる頃、彩花は放課後の予定について考えていた。
昨日見つけた写真集をもう一度読む。
その中から、特に好きだと思う写真を一枚選ぶ。
ただし、昨日の記憶だけでは、どの写真が一番気になったのか、まだ決められなかった。
昼休み、彩花は友人たちと食事を終えたあと、小さなメモ帳を開いた。
昨日の写真集について、覚えていることを書き出してみる。
商店街の入口を写した写真。
古い住宅街の道。
店先に並んだ木箱。
自転車を押して歩く人の後ろ姿。
そして、同じ通りを異なる時期に撮影した二枚の写真。
彩花はその中でも、最後の二枚が特に印象に残っていることに気づいた。
建物が変わっているだけではない。
写真の中を歩く人たちの服装や、店先に置かれたもの、道路の使われ方まで少しずつ違っていた。
同じ場所なのに、同じ景色ではない。
そのことが、彩花には面白かった。
「水瀬さん、何を書いてるの?」
近くに座っていた女子生徒が声をかけてきた。
「昨日、図書室で見つけた本のこと。昔の町の写真集なんだけど、気になった写真を思い出してたんだ」
「写真集? 小説じゃなくて?」
「うん。昔の商店街とか住宅街の写真が載ってたの」
彩花が答えると、女子生徒は興味深そうに頷いた。
「へえ。昔の写真って、今と違うところを探すのが面白そうだね」
「そうなの。でも、違うところだけじゃなくて、変わってないところを見つけるのも面白かったよ」
「変わってないところ?」
「うん。建物が変わってても、道の形が同じだったり、遠くに見える景色が似てたりするの」
彩花は昨日見た写真を思い出しながら説明した。
女子生徒は少し考え、笑顔になった。
「それなら、昔の写真を持って同じ場所へ行ってみるのも楽しそう」
「そうだね。実際に比べられたら、もっといろいろ気づくかもしれない」
彩花は頷いた。
ただし、写真に写っている場所へ自由に行けるとは限らない。
今は私有地になっている場所もあるだろうし、建物が残っていない可能性もある。
それでも、同じ場所の変化を考えること自体には、確かな楽しさがあった。
昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴ると、彩花はメモ帳を閉じた。
午後の授業が始まる。
放課後まで、もう少しだった。
◇
桜華学園高等部では、九条悠真が森川航平と昼食を取っていた。
昨日確認した青凪市駅前の古い資料について、航平は新しい記録用の表を作ってきたらしい。
「九条、昨日の冊子の件なんだけど、ちょっと整理してみた」
航平は鞄から一枚の紙を取り出した。
そこには、資料名、発行年、記載されている出来事の時期、確認できた内容、未確認事項を分けて記入する欄があった。
悠真は紙を受け取り、目を通した。
「すごいね。前より分かりやすくなってる」
「昨日、発行年と出来事の時期を分けた方がいいって言ってただろ? それで、最初から欄を分けておいた方が楽かなと思って」
航平は少し照れくさそうに笑った。
「ただ、まだ空欄ばっかりなんだけどな」
「空欄がある方が、何を調べてないのか分かるからいいと思うよ」
悠真が答えると、航平は頷いた。
「そう言ってもらえると助かる。俺、空欄を見ると埋めたくなるんだけど、無理に書いたら間違えるしな」
悠真はその言葉を聞き、少し笑った。
「俺も気持ちは分かるよ。でも、分からないところはそのまま残しておこう」
二人は表を見ながら、昨日確認した内容を整理した。
施設配置の変更について記載した冊子があること。
ただし、その文章だけでは変更された施設の具体的な位置までは分からないこと。
写真の端に写っている小さなものが、看板なのか設備なのかも、まだ不明であること。
撮影地点の候補は、依然として二つ残っていること。
航平はそれぞれの欄へ記入し、最後にペンを置いた。
「これで、次に資料を見つけたときも比べやすくなりそうだな」
「うん。ありがとう、航平」
悠真が答えると、航平は笑顔を見せた。
「それにしても、九条って最近、調べ物以外の本もよく読んでるよな」
「そうかな?」
「そうだよ。前から本は好きだったけど、最近は読んだ本の話をするのも楽しそうだし」
悠真は少し考えた。
以前から読書は好きだった。
けれど、彩花と出会ってからは、読んだ内容を誰かへ伝えたいと思うことが増えた。
それは確かな変化だった。
「そうかもしれないね。最近、同じ本を読んでも、人によって気になるところが違うのが面白いなって思うんだ」
悠真が答えると、航平は興味深そうに頷いた。
「なるほどな。確かに、俺たちも同じ写真を見てるのに、気づくところが違うもんな」
「うん。それが調査の役に立つこともあるしね」
航平は少し笑った。
「じゃあ、俺も今度、九条が読んでる本を一冊借りてみようかな」
「いいよ。どんな本が好き?」
「そうだな。あんまり難しすぎないやつがいい」
悠真は笑顔になった。
「それなら、いくつか考えてみるよ」
航平は満足そうに頷き、昼食の続きを食べ始めた。
悠真はその様子を見ながら、昨夜の彩花との約束を思い出した。
同じ写真集を読んで、気に入った写真を一枚選ぶ。
その本が見つかるかどうかは、まだ分からない。
けれど、もし見つかったなら、自分はどんな写真を選ぶのだろう。
悠真は少し楽しみになった。
◇
放課後、彩花は青葉高校の図書室へ向かった。
今日は文芸部の活動がないため、昨日より少し長く本を読む時間がある。
廊下の窓から差し込む午後の日差しは、朝よりも柔らかくなっていた。図書室の入口へ近づくと、扉の向こうから静かなページをめくる音が聞こえてくる。
彩花は中へ入り、図書室の先生へ挨拶した。
「こんにちは」
「こんにちは、水瀬さん。今日は何か探している本があるの?」
「はい。昨日、返却棚にあった写真集を、もう一度見たいと思って」
彩花が題名を伝えると、先生は少し考えてから頷いた。
「ああ、あの本ね。返却棚から元の書架へ戻したと思うわ。郷土資料の近くにあるはずよ」
「ありがとうございます。探してみます」
彩花は礼を言い、教えてもらった棚へ向かった。
郷土資料の近くには、地域の歴史や暮らしを紹介する本が並んでいた。
彩花は背表紙を一冊ずつ確かめ、昨日見つけた写真集を探した。
ほどなくして、見覚えのある表紙が目に入った。
古い商店街の風景を写した写真。
彩花は本を取り出し、そっと表紙を撫でた。
(あった。よかった)
窓際の席へ移動し、写真集を開く。
昨日は返却棚で立ったまま眺めていたため、細かな説明文までは十分に読めていなかった。
今日は時間をかけて、最初のページから順番に見ていくことにした。
写真集には、青凪市とは別の町で撮影された古い風景が収められていた。
商店街の入口。
市場の裏通り。
住宅街の細い道。
川沿いに並ぶ家々。
どれも、その町で暮らしていた人々にとっては、特別ではない日常の景色だったのだろう。
彩花は一枚ずつ眺めながら、説明文にも目を通した。
写真の撮影年が明記されているものもあれば、おおよその時期しか分からないものもある。
撮影者の記録が残っている写真もあれば、詳しい事情が分からないまま保存されていた写真もあった。
彩花はその違いを見て、昨日の悠真との会話を思い出した。
写真に写っていることと、そこから想像できることは違う。
撮影年が分からない写真を見て、建物の様子から時期を推測することはできるかもしれない。
けれど、それを確かな事実として扱うことはできない。
彩花は説明文を読みながら、写真集を作った人たちも、分かることと分からないことを丁寧に分けているのだと感じた。
ページをめくっていくと、昨日印象に残った二枚の写真が現れた。
同じ通りを、異なる時期に撮影したものだった。
一枚目には、古い木造の店が並んでいる。
店先には商品を入れた箱が置かれ、道の端には自転車が数台止められていた。
二枚目では、建物の外観が変わり、店の看板も新しくなっている。
道路の舗装も整えられ、歩いている人たちの服装も違っていた。
彩花は二枚を見比べ、しばらく考えた。
変わったものは多い。
けれど、道の向こうに見える山の形は、ほとんど同じだった。
そのことに気づいた瞬間、彩花は小さく息を呑んだ。
(建物は変わってるのに、遠くの景色は同じなんだ)
彩花は写真へ顔を近づけた。
もちろん、撮影位置が完全に同じかどうかは分からない。
それでも、二枚の写真には共通する景色が残っている。
その景色を見ながら、何年も前の人たちが同じ道を歩いていたのだと思うと、不思議な気持ちになった。
彩花はメモ帳を取り出し、写真の掲載ページを書き留めた。
けれど、すぐにその写真を選ぶことはしなかった。
まだほかにも気になる写真があるかもしれない。
悠真との約束は、一枚を選ぶことだった。
だからこそ、最後まで見てから決めたいと思った。
彩花は再びページをめくった。
◇
写真集の後半には、ある家の庭先を写した写真が掲載されていた。
大きな家ではない。
木製の低い柵があり、その内側に小さな植木鉢が並んでいる。
庭の奥には洗濯物が干され、玄関の近くには使い込まれた箒が立てかけられていた。
写真の中心には、一人の女性が写っていた。
女性は庭の端にしゃがみ込み、何かを確かめるように植木鉢へ手を伸ばしている。
顔は横を向いているため、表情まではよく分からない。
けれど、その姿勢は、彩花にはどこか親しみやすく感じられた。
説明文には、撮影者が近所の暮らしを記録するために撮った写真だと記されていた。
女性の名前や、その日に何をしていたのかまでは書かれていない。
彩花は写真をじっと見つめた。
(この人、何を見てたんだろう。植物の葉っぱかな。それとも、土の様子を確かめてたのかな)
分からない。
写真だけでは、何をしていたのか断定できなかった。
それでも、彩花はその一枚から目を離せなかった。
女性の手元には、古い園芸道具らしいものが置かれている。
ただし、写真が小さいため、何の道具なのかははっきりしない。
使い込まれているようにも見えるが、実際にどれほど長く使われていたのかは分からない。
彩花はそこまで考えたところで、星模様の創作ノートを思い出した。
祖母へ手紙を書く少女。
庭の花。
古い園芸道具。
そして、祖母と一緒に過ごした時間。
写真の中の女性と、物語に登場する祖母は別の存在だ。
けれど、何気ない庭仕事の姿が、誰かの記憶に残ることはあるのかもしれない。
彩花は写真の説明文をもう一度読んだ。
そこには、女性が何を考えていたのかは書かれていない。
けれど、庭先の様子から、日々の暮らしが感じられた。
彩花は静かに息を吐いた。
(私、この写真が好きかもしれない)
最初に気になったのは、同じ通りを撮り続けた二枚の写真だった。
変化を比べる面白さがあり、悠真も興味を持ちそうだと思った。
けれど、この庭先の写真には、少し違う魅力があった。
大きな出来事が写っているわけではない。
誰かが何かを成し遂げた瞬間でもない。
ただ、庭で過ごす一人の女性と、その周囲にある暮らしの道具が写っている。
それなのに、彩花はその一枚を見ていると、写真の前後にあった時間まで想像したくなった。
朝だったのだろうか。
女性は庭仕事を終えたところだったのだろうか。
誰かが家の中から声をかけたら、振り返って笑ったのだろうか。
どれも、写真からは分からないことだった。
けれど、想像したくなる。
彩花はメモ帳を開き、写真の掲載ページと、印象に残ったことを書き留めた。
『庭先の写真。植木鉢、箒、女性の手元。特別な出来事ではないけれど、暮らしが見える気がする。』
書き終えたあと、彩花は少し考えた。
悠真と一枚ずつ選ぶなら、自分はこの写真にしたい。
ただし、理由をうまく説明できるかは分からなかった。
同じ通りを撮り続けた写真の方が、変化が分かりやすく、話題も広がりそうだった。
それでも、自分が一番長く見つめていたのは、この庭先の写真だった。
(悠真君が面白いと思いそうな写真じゃなくて、私が好きだと思った写真を選べばいいんだよね)
彩花はメモ帳を閉じた。
選ぶ理由は、まだきれいな言葉になっていない。
けれど、一枚は決まった。
そのことが、彩花には嬉しかった。
◇
写真集を読み終えた彩花は、貸出カウンターへ向かった。
もう一度ゆっくり読みたいと思ったため、借りられるかどうか確かめることにした。
「すみません。この本、借りることはできますか?」
図書室の先生は本を受け取り、貸出区分を確認した。
「ええ、これは貸し出せるわよ。ただ、地域資料の中には館内閲覧だけのものもあるから、次からも確認してね」
「はい。ありがとうございます」
彩花は手続きを終え、写真集を鞄へ入れた。
そのとき、先生がふと声をかけた。
「水瀬さん、昔の写真に興味があるの?」
「はい。最近、古い街並みの写真を見るのが面白いなと思っていて」
「そうなのね。写真集は、見ているだけでも楽しいけれど、説明文を読むと、また違う発見があるわよ」
先生は少し考え、近くの棚を指した。
「それから、写真に写っている場所を調べたいなら、当時の地図や地域の記録も参考になることがあるわ。ただし、写真と地図の年代が違うこともあるから、そこは気をつけてね」
彩花は驚いた。
それは、悠真が父から借りた本を読んで話していたことと似ていた。
「ありがとうございます。写真だけじゃなくて、ほかの資料も一緒に見るといいんですね」
「そうね。でも、写真を楽しむだけなら、難しく考えすぎなくてもいいと思うわ。まずは気になるものを見つけることが大切だから」
先生は穏やかに微笑んだ。
彩花は礼を言い、図書室をあとにした。
廊下へ出ると、窓の外は夕方の色へ変わり始めていた。
彩花は時計を確かめ、帰宅するにはちょうどいい時間だと思った。
鞄の中には、借りたばかりの写真集がある。
悠真と選んだ写真について話せる日が、少し近づいたように感じられた。
◇
その頃、九条悠真は桜華学園高等部の図書室で、青凪市中央図書館の蔵書を確認する方法について調べていた。
昨日、彩花から教えてもらった写真集の題名は、正確にメモしてある。
ただし、同じ本が中央図書館にあるかどうかは、まだ分からない。
悠真は図書室の先生へ相談し、一般に公開されている蔵書検索の使い方を教えてもらった。
検索画面に題名を入力すると、いくつかの候補が表示された。
悠真は一つずつ確認したが、著者名や出版年が違うものもあり、彩花が見つけた本と同じものかどうか、すぐには判断できなかった。
(題名だけだと、似た本も出てくるんだね。彩花さんが見つけた本と同じかどうか、もう少し確認した方がよさそうだ)
悠真は検索結果を見ながら、少し考えた。
彩花が教えてくれた題名は正しいはずだった。
けれど、同じ題名の本がある可能性もある。
著者名や出版社、出版年が分かれば、もっと正確に確認できるだろう。
悠真は検索画面を閉じ、メモ帳へ書き加えた。
『写真集の著者名・出版社・出版年を確認する。』
そのとき、図書室の先生が近くを通りかかった。
「九条君、探している本は見つかった?」
「まだ同じ本かどうか確認できていません。題名は分かるんですが、ほかの情報が足りなくて」
悠真が答えると、先生は頷いた。
「それなら、書誌情報をもう少し確認した方がいいわね。題名だけでは、同じ本か判断しにくいこともあるから」
「はい。教えてくれた人に、もう一度確認してみようと思います」
「そうね。正確な情報が分かれば、探しやすくなるはずよ」
先生はそう言い、ほかの生徒の対応へ戻っていった。
悠真は礼を言い、メモ帳を閉じた。
今日は本を見つけることができなかった。
けれど、次に何を確かめればいいのかは分かった。
悠真は少し満足し、帰宅の準備を始めた。
◇
夕食後、水瀬家の居間では、凛花が彩花の借りてきた写真集を興味深そうに見つめていた。
「お姉ちゃん、それが昨日話してた本?」
「うん。今日、学校の図書室で借りてきたんだ」
彩花が答えると、凛花は目を輝かせた。
「ちょっと見てもいい?」
「もちろん。でも、古い本だから、丁寧に扱ってね」
「うん、分かってる」
凛花は手をきれいにしてから、彩花の隣へ座った。
二人はテーブルの上で写真集を開き、ゆっくりとページをめくった。
凛花が最初に興味を示したのは、昔の商店街を写した写真だった。
「すごい。今と全然違うね。看板も、お店の前に置いてあるものも」
「そうだね。でも、道の形はあまり変わってないところもあるんだよ」
彩花が説明すると、凛花は写真へ顔を近づけた。
「本当だ。遠くに見える山も同じみたい」
「うん。私もそこが面白いと思ったの」
凛花はしばらく二枚の写真を見比べていた。
それから、ページをめくる手を止めた。
「あ、この写真、好きかも」
凛花が指さしたのは、古い市場の一角を写した写真だった。
店先には籠が並び、その奥で数人の人が話している。
彩花は少し意外に思った。
「どうしてこの写真が好きなの?」
「何か、楽しそうだから。みんな何を話してるのかなって思うし、お店の中にどんなものがあるのか見てみたくなる」
凛花はそう答え、写真をじっと見つめた。
彩花は妹の言葉を聞き、微笑んだ。
自分は庭先の写真が気になった。
凛花は市場の写真を選んだ。
同じ本を見ているのに、目を向ける場所が違う。
そのことが、彩花には面白かった。
「凛花は、人が集まってる写真が好きなんだね」
「そうなのかな。でも、こういうところって、どんな声が聞こえてたんだろうって想像できるから好き」
凛花は少し考えてから、彩花へ尋ねた。
「お姉ちゃんは、どの写真が一番好きなの?」
彩花は少し迷ったあと、庭先の写真が載っているページを開いた。
「私は、これかな」
凛花は写真を覗き込み、少し首を傾げた。
「庭の写真?」
「うん。女の人が植物を見てるみたいなんだけど、何をしてるのかは分からないの。でも、何となく、この家で暮らしてる人の時間が見える気がして」
彩花が答えると、凛花はしばらく写真を見つめた。
「……あ、本当だ。箒とか植木鉢とか、いろんなものが置いてあるね」
「うん。特別なことをしてる写真じゃないけど、私はそこが好きなんだと思う」
凛花は少し考え、笑顔になった。
「お姉ちゃんらしいね」
彩花は思わず顔を上げた。
「私らしい?」
「うん。お姉ちゃんって、いつも小さいところをよく見てるでしょ。蕾とか、道端の植物とか。だから、こういう写真が好きなのかなって」
彩花はその言葉を聞き、少しだけ頬を赤くした。
自分では、そんなふうに考えたことがなかった。
ただ、気になるものを見ているだけだった。
けれど、凛花にはそれが、自分らしいことに見えているらしい。
「……そうなのかな」
「うん。私はそう思うよ」
凛花は嬉しそうに笑った。
彩花は写真集へ目を戻し、庭先の写真をもう一度見つめた。
自分がこの写真を好きだと思った理由。
それは、誰かの暮らしが感じられるからだけではないのかもしれない。
何気ない時間を大切にしているように見えるから。
そして、そういう時間を、自分も好きだから。
彩花は少しずつ、自分の気持ちが分かってきたように感じた。
◇
夜、九条家では悠真が自室でスマートフォンを手に取っていた。
彩花へ写真集の書誌情報を尋ねようと思っていたが、まずは今日一日のことを聞きたい気持ちもあった。
悠真は少し考え、メッセージを送った。
『彩花さん、こんばんは。今日もお疲れさま。写真集のことなんだけど、少し聞いてもいいかな?』
ほどなくして、彩花から返事が届いた。
『こんばんは、悠真君。今日もお疲れさま。うん、もちろん。どうしたの?』
悠真はメモ帳を確認しながら、丁寧に文章を打った。
『今日、中央図書館の蔵書を探してみたんだけど、同じ本かどうか確認できなかったんだ。もし分かれば、著者名や出版社も教えてもらえるかな?』
彩花はそのメッセージを読み、少し驚いた。
悠真は本当に、昨日教えた写真集を探してくれていたのだ。
ただ興味があると言っただけではなく、自分で調べようとしてくれた。
そのことが、彩花には嬉しかった。
『もちろん。実は今日、学校の図書室で借りてきたんだ。今、奥付を確認するね』
彩花は居間から持ってきた写真集を机へ置き、最後のページを開いた。
そこには、著者名、出版社、出版年が記されている。
彩花は間違えないように一つずつ確認し、悠真へ送信した。
『ありがとう。これなら、もう少し正確に探せそうだよ』
悠真からの返事が届くと、彩花は微笑んだ。
『見つかるといいね。でも、無理しなくて大丈夫だからね』
『うん。まずは調べてみるよ。ところで、彩花さんはもう好きな写真を選んだ?』
彩花はその質問を読み、少しだけ緊張した。
今日、写真集を最後まで見て、一枚を選んだ。
けれど、悠真へ伝えるとなると、何となく照れくさい。
自分が何を好きなのかを話すことは、思っていたよりも、自分の内側を見せることに近いのかもしれなかった。
彩花は少し考え、返信した。
『うん。一枚選んだよ。でも、悠真君が本を見つけるまでは、どれか秘密にしておこうかなって思ってる』
悠真はその文章を読み、思わず笑顔になった。
『そうなんだね。それなら、俺も本を見つけるまで楽しみにしておくよ』
彩花は少し安心した。
悠真は、すぐに答えを聞こうとはしなかった。
自分が秘密にしておきたいと思ったことを、そのまま受け入れてくれた。
それが、彩花には嬉しかった。
『ありがとう。今日、凛花にも写真集を見せたんだけど、私とは違う写真を選んだんだ。それが面白かったよ』
『へえ。凛花さんはどんな写真を選んだの?』
『昔の市場の写真だよ。人が集まってて、どんな声が聞こえてたのか想像できるのが好きなんだって』
悠真はその言葉を読み、静かに頷いた。
人が集まる場所。
そこにあった声や、日常のやり取り。
凛花の見方も、確かに面白いと思った。
『なるほど。凛花さんは、写真の中の賑やかさを想像したんだね。同じ本でも、見る人によって好きなところが違うのは面白いな』
彩花はその返事を読み、嬉しくなった。
『うん。私もそう思った。だから、悠真君がどんな写真を選ぶのか、ますます楽しみになっちゃった』
送信したあと、彩花は少しだけ頬を赤くした。
楽しみになった。
それは本当の気持ちだった。
けれど、こうして言葉にすると、自分が悠真との時間をどれほど楽しみにしているのか、改めて意識してしまう。
悠真から返事が届いた。
『俺も楽しみだよ。彩花さんが選んだ理由も、いつか聞いてみたいな』
彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
選んだ写真だけではなく、その理由まで知りたいと言ってくれる。
悠真はいつも、自分が何を見つけたのかだけでなく、どうしてそれを大切に思ったのかまで聞いてくれる。
そのことが、彩花には嬉しかった。
◇
しばらく写真集の話をしたあと、悠真は別のことを尋ねた。
『そういえば、彩花さん。今日は学校の方はどうだった?』
彩花は少し考え、今日の出来事を思い返した。
朝、蕾の写真を撮ったこと。
昼休みに友人と昔の写真について話したこと。
放課後、図書室で写真集を最後まで読んだこと。
そして、凛花と一緒に写真を見比べたこと。
どれも穏やかな出来事だった。
『今日は文芸部の活動がなかったから、放課後は図書室でゆっくり本を読めたよ。写真集も最後まで見られたし、好きな写真を選べて嬉しかった』
悠真はその文章を読み、微笑んだ。
『いい一日だったんだね』
『うん。悠真君は?』
『俺は航平と、古い駅前写真の資料を整理してたよ。まだ分からないところは多いけど、確認したことと未確認のことを分けた表を作ってくれたんだ』
彩花はその言葉を読み、航平が悠真の調査を支えていることを嬉しく思った。
『森川君、すごいね。そうやって一緒に考えてくれる人がいると、心強いね』
『うん。航平は俺が見落としてたところに気づいてくれるし、調べ方を考えるのも上手なんだ』
悠真はそう返信し、少し考えた。
彩花も、今日の写真集について凛花と話したと言っていた。
自分は航平と調査を進めている。
互いに違うことをしているけれど、誰かと考えを分かち合う楽しさは似ているのかもしれない。
『彩花さんも、凛花さんと写真を見比べて、新しい発見があったんだよね』
彩花はその文章を読み、少し驚いた。
『うん。凛花が私とは違う写真を選んだから、面白かったんだ』
『それって、彩花さんが写真を選ぶ理由を考えるきっかけにもなったのかな?』
彩花はスマートフォンを見つめた。
悠真の質問は、今日の自分の気持ちに近いところへ触れていた。
凛花が「お姉ちゃんらしい」と言ってくれたこと。
その言葉を聞いて、自分が庭先の写真を好きだと思った理由が、少し分かったこと。
彩花はしばらく考えたあと、ゆっくりと返信を打った。
『……うん。そうかもしれない。凛花に、私が選んだ写真は私らしいって言われたんだ。それで、どうして好きなのか、少し分かった気がしたの』
送信すると、悠真から返事が届くまで少し時間があった。
彩花はその間、机の上の写真集へ目を向けた。
自分らしい。
その言葉は、嬉しかった。
けれど、どこか照れくさくもあった。
自分では何気なく選んだつもりのものに、誰かが自分らしさを見つけてくれる。
それは、自分が知らなかった自分を教えてもらうような感覚だった。
スマートフォンが震えた。
『それ、素敵だね。自分では気づかなかった好きなところを、誰かが見つけてくれることもあるんだと思う』
彩花はその文章を読み、静かに微笑んだ。
『うん。私もそう思ったよ』
少しして、悠真からもう一つメッセージが届いた。
『彩花さんが選んだ写真、ますます楽しみになった。でも、どの写真かは、俺が本を読めるまで秘密にしておいてね』
彩花は思わず笑ってしまった。
『うん。約束だよ』
『約束する』
短いやり取りだった。
けれど、彩花の胸には、確かな温かさが残った。
自分が選んだ写真を、悠真が楽しみにしてくれている。
そして、悠真がどんな写真を選ぶのか、自分も楽しみにしている。
同じ本を読むという小さな約束が、二人の間に新しい時間を作っていた。
◇
その夜、彩花は葉模様の日記帳を開いた。
今日の出来事を書き留めようとして、まず写真集のことを思い出した。
放課後、図書室で一冊の本を最後まで読んだ。
同じ通りを異なる時期に撮影した写真も面白かった。
けれど、最終的に選んだのは、庭先で植物を見つめる女性が写った一枚だった。
彩花はペンを持ち、ゆっくりと書き始めた。
『水曜日。今日は写真集を最後まで読んで、好きな写真を一枚選んだ。最初は昔の通りを比べる写真が一番面白いと思っていたけれど、最後には庭先の写真が気になった。そこには特別な出来事が写っているわけではないのに、誰かの暮らしが感じられる気がした』
彩花は少し考え、続きを書いた。
『凛花に見せたら、私らしい写真だと言われた。私は、何気ない時間が残っている写真が好きなのかもしれない。悠真君にも、いつかその理由を話してみたい』
書き終えた彩花は、少しだけ頬を赤くした。
自分の好きなものについて、悠真へ話したい。
それは以前から感じていたことだった。
けれど、今日はその気持ちが、少しはっきりしたように思えた。
ただ、まだすべてを言葉にできるわけではない。
好きな理由を説明しようとすると、うまくまとまらないこともある。
それでも、悠真なら、途中で言葉に詰まっても待ってくれるだろう。
彩花はそう思いながら、日記帳を閉じた。
机の上には、星模様の創作ノートが置かれている。
祖母へ手紙を書く少女の物語は、まだ完成していない。
けれど、今日見た庭先の写真は、その物語を考えるうえでも印象に残っていた。
使い込まれた道具。
庭で過ごす時間。
何気ない日常の中に残る記憶。
彩花は写真集のページを思い出しながら、少し考えた。
(あの写真の女の人が何を考えてたのかは分からない。でも、私の物語の中では、少女が何を覚えているのか、ちゃんと考えてあげたいな)
彩花は創作ノートを開き、以前書いた文章を読み返した。
祖母の言葉を思い出せない少女。
それでも、祖母が笑ったことだけは覚えている。
その場面のあとに、少女が毎朝庭へ出る理由を描こうとしていた。
彩花はしばらく考え、余白へ一文を書き加えた。
『少女が覚えているのは、祖母が何を教えたかではなく、一緒に庭を見ていた時間そのものかもしれない。』
書き終えると、彩花は静かに息を吐いた。
昨日も似たことを考えていた。
けれど、今日写真集を見たことで、その考えが少し具体的になったように感じられた。
誰かと過ごした時間は、必ずしも大きな出来事として残るわけではない。
同じ場所に立っていたこと。
同じものを見ていたこと。
何気ない会話を交わしたこと。
そうした小さな記憶が、あとになって大切なものになることもある。
彩花はそのことを、物語の中で描いてみたいと思った。
◇
九条家では、悠真が机の上のメモ帳を整理していた。
今日、青凪市中央図書館の蔵書を探したが、同じ本かどうか確認できなかった。
けれど、彩花から著者名や出版社、出版年を教えてもらうことができた。
明日以降、もう一度調べてみようと思っている。
悠真はメモ帳を閉じ、スマートフォンへ目を向けた。
彩花は、好きな写真を一枚選んだと言っていた。
けれど、どの写真なのかは、まだ教えてもらっていない。
悠真はそのことを思い出し、自然と微笑んだ。
(彩花さんがどんな写真を選んだのか、気になるな。でも、今は知らないままの方が楽しそうだね)
自分も同じ本を読んで、一枚選ぶ。
そのあとで、互いの選んだ写真を伝え合う。
そうすれば、先に相手の答えを知って、無意識に影響されることも少ないだろう。
悠真はその楽しみを大切にしたかった。
窓の外には、冬の夜空が広がっている。
庭の木々は静かで、枝先の芽もまだ開いていない。
悠真は窓際へ近づき、少しの間その景色を眺めた。
彩花が観察している蕾も、まだ開いていないのだろうか。
今日の夜は、その話を詳しく聞かなかった。
けれど、彩花がまた何か変化を見つけたら、きっと話してくれるだろう。
悠真はそのことを楽しみに思いながら、部屋の明かりを落とした。
◇
彩花は眠る前に、もう一度だけスマートフォンを手に取った。
悠真とのやり取りは、すでにおやすみの挨拶で終わっている。
今から新しい話題を送るつもりはなかった。
ただ、今日交わした言葉を少しだけ読み返したかった。
『自分では気づかなかった好きなところを、誰かが見つけてくれることもあるんだと思う』
悠真の言葉が、画面に残っている。
彩花はその文章を見つめ、静かに微笑んだ。
凛花は、自分が選んだ写真を「お姉ちゃんらしい」と言ってくれた。
悠真は、その話を聞いて、自分では気づかなかった好きなところを誰かが見つけてくれることもあると言ってくれた。
二人の言葉は違う。
けれど、どちらも彩花にとって大切なものだった。
(私、自分が何を好きなのか、まだ知らないところもあるんだね)
彩花はそう考え、スマートフォンを置いた。
好きな本。
好きな風景。
好きな時間。
そして、誰かと一緒に過ごすときの、自分の気持ち。
それらを少しずつ知っていくことが、今は楽しかった。
明日は木曜日。
青葉高校では、またいつもの授業が始まる。
文芸部の冬の部誌『いつか、ここに』は、先生の最終承認を待っている。
彩花の創作ノートにある物語も、まだ完成していない。
借りている小説の幼なじみたちも、まだ再会していない。
悠真が調べている古い駅前写真の撮影地点も、二つの候補が残ったままだ。
そして、二人が同じ写真集を読んで、それぞれの好きな一枚を伝え合う日も、まだ決まっていない。
それでも、今日一日を振り返ると、確かに進んだことがあった。
彩花は一冊の写真集を最後まで読み、自分の好きな写真を一枚選んだ。
悠真は、その本を探すために必要な情報を集めた。
互いに違う場所で過ごしながら、同じ一冊へ少しずつ近づいている。
彩花は布団へ入り、目を閉じた。
九条家でも、悠真が静かな夜の中で眠りにつこうとしていた。
二人はまだ、互いの気持ちを恋という言葉では伝えていない。
けれど、相手が何を好きなのか知りたいと思う気持ちは、以前よりも確かになっていた。
同じ本を読んでみたい。
同じ写真を見てみたい。
そして、同じものを見たときに、相手が何を感じたのか聞いてみたい。
その願いは、今の二人にとって、特別なものだった。
水曜日の夜は、静かに更けていく。
まだ知らない一枚を楽しみにしながら、二人はそれぞれの家で眠りについた。
そして、その小さな約束は、まだ名前のついていない二人の関係に、確かな温かさを残していた。




