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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第154話 火曜日の見落とした一行と、初めて交わした小さなお願い



 火曜日の朝、水瀬彩花が青葉高校へ向かう途中で足を止めたのは、いつもの蕾がある場所ではなかった。


 駅へ続く歩道の角で、鞄の外ポケットから小さなメモ帳を取り出そうとしたとき、昨日挟んだはずの紙が見当たらないことに気づいたからだった。通学中に思いついたことを書き留めるためのメモ帳には、植物の観察だけでなく、読んだ本の感想や、創作で使えそうな言葉も残してある。


 彩花は人の流れを避けて建物の壁際へ寄り、鞄の中を確かめた。教科書の間にも、筆箱の下にも、探している紙は入っていない。昨日の国語の授業で気になった一文を写し、帰宅してから創作ノートと一緒に考えようと思っていたのだが、どこへしまったのか思い出せなかった。


(昨日、教室でメモ帳を開いたところまでは覚えてるんだけど……。そのあと、紙を外したんだっけ。それとも、別のページに書いたのかな)


 急いで探せば見つかるというものでもない。彩花は時計を確認し、登校時刻にはまだ余裕があることを確かめてから、メモ帳のページを一枚ずつめくった。


 すると、後ろの方に折り込まれた小さな紙が見つかった。昨日探していた文章ではなく、日曜日に家族の写真を整理したときの覚え書きだったが、その裏面に鉛筆で書いた文字が残っていた。


『覚えていないことを、覚えていないまま書く。』


 彩花はその一行を見つめた。


 日曜日、祖母へ手紙を書く少女の物語を考えたときに書いた言葉だった。少女は祖母が何と答えたのか思い出せない。それでも、困ったように笑った顔だけは覚えている。


 その場面を書き終えたあと、彩花は忘れないように一行だけ残していたらしい。


 探していたメモとは違う。それでも、今朝の自分には必要な言葉のように感じられた。


 彩花は紙を丁寧に戻し、メモ帳を閉じた。


 昨日の国語の授業で書いたものは、学校へ着いてからノートを確認すればいい。今ここで思い出せないからといって、なくなったと決める必要はなかった。


 歩き始めると、冷たい風が頬をかすめた。


 通学路の蕾は、昨日と同じ場所にあった。彩花は少し離れたところから眺め、昨日撮影した写真をスマートフォンに表示して見比べた。


 画面の中の蕾と、目の前の蕾。


 大きさが変わったようにも見えるが、写真を撮った角度が違うため、はっきりとは判断できなかった。


(写真を撮れば分かると思ってたけど、撮り方も大切なんだね。昨日の私、そこまでは考えてなかったな)


 彩花は少し考え、今日は撮影しないことにした。


 今度から比べるなら、立つ位置や距離をなるべくそろえた方がいい。そう気づけただけでも、昨日の写真には意味があった。


 青葉高校の校門が見えてくる頃には、朝の冷たさにも身体が慣れていた。


 彩花はマフラーを少し緩め、昇降口へ向かった。


     ◇


 教室に入ると、すでに何人かの生徒が登校していた。


 窓際では女子生徒二人が昨日の授業について話しており、黒板の前では日直が連絡事項を書き込んでいる。彩花は自分の席へ鞄を置き、まず国語のノートを取り出した。


 昨日の授業で考えたのは、登場人物が直接言葉にしていない気持ちを、行動や情景からどう読み取るかということだった。


 ノートを開くと、探していた文章はすぐに見つかった。


『書かれていない気持ちは、必ずしも一つの答えに決められない。』


 先生の説明を聞きながら、自分なりに書き留めた一文だった。


 彩花はそこへ目を向け、日曜日に書いた少女の物語を思い出した。


 祖母の笑顔を覚えている少女は、その表情をどう受け取っていたのだろう。優しく笑ってくれたと思ったのか、困らせてしまったと感じたのか。それとも、当時は何も考えていなかったのに、時間が経ってから意味を探すようになったのか。


 同じ出来事でも、少女の年齢や、その後の経験によって受け止め方は変わるはずだった。


「水瀬さん、おはよう。朝から国語の復習?」


 隣の席の女子生徒に声をかけられ、彩花は顔を上げた。


「おはよう。昨日書いたメモを探してたんだ。どこに書いたか分からなくなっちゃって」


「あるある。私も昨日、数学の途中式を別のページに書いて、あとで見つからなくなったよ」


 相手は苦笑しながら、自分のノートを軽く持ち上げた。


「でも、見つかったならよかったね」


「うん。見つけてみたら、書いたときとは少し違うことを考えちゃった」


「へえ。どういうこと?」


 彩花は少し迷った。


 創作ノートの詳しい内容を話すつもりはなかったが、授業で考えたことなら説明できる。


「文章に書かれていない気持ちって、読む人が想像するでしょう。でも、書いてあることと想像したことを混ぜない方がいいんだなって、改めて思ったの」


 女子生徒は少し考え、頷いた。


「確かに。私、昨日の問題で登場人物が怒ってるって書いたけど、先生に、怒ってると決めた理由はどこにあるのって聞かれたんだよね」


「そうだったんだ」


「うん。読み直したら、怒ってるとも、悲しんでるとも取れそうだった。答えを書くなら、どこからそう思ったか説明できないといけないんだね」


 彩花はその言葉を聞き、胸の奥で何かがつながるのを感じた。


 自分の物語でも、少女が祖母の笑顔をどう受け取ったのかを、最初から一つに決める必要はないのかもしれない。


 ただし、少女自身が何を感じたのかは、物語の中で丁寧に考えなければならない。


 授業の準備が始まり、二人はそれぞれの席へ向き直った。


 彩花はノートの余白へ、小さく書き加えた。


『読み手に任せることと、書き手が考えないことは違う。』


 書き終えたとき、始業を知らせるチャイムが鳴った。


     ◇


 桜華学園高等部では、九条悠真が午前の授業を終えたところだった。


 昼休みの教室は、弁当を広げる生徒たちの声で賑わっている。悠真が鞄から昼食を取り出していると、森川航平が一冊の薄い冊子を持って近づいてきた。


「九条、昨日の駅前写真の話なんだけど、ちょっと見てほしいものがある」


 悠真は顔を上げた。


「新しい資料?」


「いや、資料そのものは前に見たやつ。市の古い施設案内を印刷したものなんだけど、裏面の説明をちゃんと読んでなかったんだよ」


 航平は冊子を机の上へ置いた。


 そこには、かつての青凪市駅前周辺を紹介する文章が掲載されていた。写真は小さく、現在調べているものと同じ場所を写したと断定できる内容ではない。


「この文章、読んでみて」


 航平が指した箇所には、駅前の施設配置が数年の間に変更されたことが記されていた。


 悠真はゆっくりと読み進めた。


「……配置が変わった時期について書いてあるね」


「そう。俺たち、地図と写真の年代が違うって分かってたけど、具体的にどの辺りで変更があったかまでは調べてなかっただろ?」


 悠真は頷いた。


 今までの調査では、撮影地点の候補が二つ残っていた。どちらにも説明できる部分があり、決め手となる資料は見つかっていない。


 今回の文章は、配置変更があったことを示している。


 ただし、それが写真の撮影地点を特定する証拠になるとは限らなかった。


「これは確認する価値がありそうだね。でも、変更された施設がどこにあったのか、文章だけでは分からない」


「そうなんだよ。だから、すぐに候補を減らせるわけじゃないと思う」


 航平は少し悔しそうに笑った。


「最初に見つけたときは、これで決まるかもって思ったんだけどな」


 悠真は冊子をもう一度読み返した。


 施設配置が変わったという事実と、現在調べている写真に写っているものが何なのかという問題は、別々に考える必要がある。


 けれど、調査の方向を少し絞る手がかりにはなるかもしれなかった。


「航平、これ、どこから印刷したか分かる?」


「市の資料をまとめたページ。元の冊子の発行年も書いてあったはずだから、あとで確認できると思う」


「それなら、発行年と、文章が説明している時期を分けて記録しておこう。発行された年に変更があったとは限らないから」


 航平は一瞬きょとんとしたあと、笑顔になった。


「なるほど。そういうところ、九条は細かいな」


「昨日、父から借りた本を読んで、気をつけようと思ったんだ」


 悠真が答えると、航平は頷きながらノートを開いた。


 二人は昼食を取りながら、確認できたことと、これから調べることを分けて記録した。


 冊子には施設配置の変更が記されている。


 ただし、写真の端に写る小さなものが、その施設に関係するかどうかは不明。


 候補地点は、今のところ二つのまま。


 そして、変更時期をより詳しく示す資料が存在するかどうかも、まだ分からない。


 航平は最後の項目を書き終え、ペンを置いた。


「こうして見ると、分かったことより、確認したいことの方が増えてる気がするな」


「そうかもしれないね。でも、前は何を調べればいいかも分からなかったから、少しは進んでると思うよ」


 悠真が答えると、航平は笑った。


「それもそうだな。じゃあ、今日はここまでにしとくか。昼休み全部使ったら、午後眠くなりそうだし」


 二人は資料を片づけ、残りの時間を別の話題で過ごした。


 悠真は冊子の内容を頭の中で整理しながら、ふと彩花のことを思い出した。


 彩花なら、この資料のどこへ目を向けるだろう。


 施設配置の変化より、当時そこを利用していた人たちの暮らしに興味を持つかもしれない。


 けれど、まだ話していないのだから、実際にどう感じるかは分からない。


(今度、街の写真の話になったら聞いてみたいな。俺が面白いと思ったところだけじゃなくて、彩花さんが何を見つけるのかも知りたい)


 悠真はそう考えながら、午後の授業の準備を始めた。


     ◇


 放課後、彩花は文芸部の活動場所へ向かった。


 今日は部誌の確認作業が予定されていたが、先生から最終承認が下りたという連絡はまだなかった。彩花は急いで結果を求めるよりも、今できる作業を丁寧に進めようと考えていた。


 部室へ入ると、佐々木先輩が机の上に資料を並べていた。


「水瀬さん、お疲れさま。今日は少し確認したいことがあるの」


「お疲れさまです。何でしょうか?」


 彩花が鞄を置いて近づくと、先輩は変更履歴の一覧を示した。


 昨日、修整理由を具体的に書き直した箇所がある。


 そこには、主語が省略されていて行動した人物が分かりにくかったため、主語を補ったという説明が記されていた。


「理由は分かりやすくなったと思うんだけど、今度は修整前の文章を読んだとき、本当に人物が分かりにくいかどうか、確認したいの」


 佐々木先輩は落ち着いた声で続けた。


「修整した理由がきれいに書けていても、元の文章に問題がなかったら、変更そのものを考え直した方がいいでしょう?」


 彩花はその言葉を聞き、資料へ目を向けた。


 昨日は、変更理由をどう説明するかに意識が向いていた。


 けれど、修整の必要性そのものを確認することも大切だった。


「そうですね。昨日は理由を分かりやすくすることを考えていたので、そこまでは確認できていませんでした」


「私もそうなの。だから、もう一度、元の文章から読んでみましょう」


 二人は修整前の文章を読み返した。


 問題になっていたのは、登場人物が会話を終えて部屋を出る場面だった。


 直前には二人の人物が登場しており、そのあとに続く文では主語が省略されている。


 最初に読んだとき、彩花はどちらの人物が部屋を出たのか少し迷った。


 けれど、その前の段落から続けて読むと、片方の人物が立ち上がる動作が書かれているため、ある程度は判断できる。


「前の段落から読むと、分かる気もしますね」


 彩花が言うと、佐々木先輩は頷いた。


「そうなの。だから、主語を補うことが絶対に必要だったかは、少し迷ってるの」


 彩花は修整後の文章を読み返した。


 主語を補ったことで、誰が部屋を出たのかは明確になっている。


 ただ、その分だけ、直前の文章と同じ名前が続いていた。


「修整後は分かりやすいですけど、少し名前が続く感じもありますね」


「うん。私もそこが気になったの」


 佐々木先輩は二つの文章を見比べた。


「このまま先生へ確認してもらってもいいけれど、私たちの中で、何を優先したいのか整理しておきたいわね」


 彩花は少し考えた。


 読みやすさを優先するなら、主語を補うことには意味がある。


 けれど、文章の流れを大切にするなら、別の表現も考えられるかもしれない。


 彩花は資料の余白へ、二つの観点を書き留めた。


 誰の行動なのかが伝わること。


 名前が不自然に繰り返されないこと。


 その二つを見比べているうちに、彩花は別の方法を思いついた。


「先輩、名前を入れる場所を変えるのはどうでしょうか。部屋を出る文じゃなくて、その前の動作のところで人物が分かるようにすれば、同じ名前が続かないかもしれません」


 佐々木先輩は顔を上げた。


「なるほど。少し試してみましょうか」


 二人は元の文章を残したまま、別紙に試案を書いた。


 ただし、それを正式な修整として採用するわけではない。


 作者の意図や、前後の文章とのつながりを確認する必要があるからだった。


 試案を読み返すと、確かに人物の行動は追いやすくなっていた。


 けれど、彩花は一つ気になることに気づいた。


「……あの、先輩。この書き方だと、立ち上がった人物がすぐ部屋を出るように読めますけど、元の文章では、少し間があるようにも感じられます」


 佐々木先輩は文章を読み返し、静かに頷いた。


「そうね。動作の順番まで変わって見えるなら、簡単には採用できないわ」


 彩花は少し申し訳なくなった。


 自分が提案したことで、余計に確認事項を増やしてしまったように感じたからだ。


 けれど、佐々木先輩は柔らかく微笑んだ。


「水瀬さん、今の気づきは大切よ。分かりやすくするつもりで、元の意味を変えてしまったら困るもの」


「……はい。そうですね」


「だから、今日の試案も記録しておきましょう。採用しない場合でも、どうしてそう判断したか残しておけば、あとで確認しやすいから」


 彩花は頷いた。


 試案を出したことが失敗だったわけではない。


 考えてみたからこそ、元の文章で大切にされていた間合いに気づくことができた。


 そのことが、彩花には新鮮だった。


 部員たちが集まると、佐々木先輩は今日の確認内容を共有した。


 修整理由が具体的になったこと。


 ただし、修整そのものの必要性は引き続き確認すること。


 別の試案も考えたが、動作の順番が変わって読める可能性があるため、正式には採用していないこと。


 そして、最終的には先生の確認を受ける必要があること。


 説明を聞いた部員たちは、それぞれ資料へ目を向けた。


 昨日相談してきた部員も、少し真剣な表情で頷いている。


「私、分かりやすくすることばかり考えてました。でも、元の文章の意味を変えないことも大事なんですね」


 その言葉に、佐々木先輩は微笑んだ。


「そうね。文章を直すのは、間違いを探すことだけじゃないから」


 彩花はそのやり取りを聞きながら、自分の創作ノートを思い出した。


 少女の気持ちを分かりやすく書こうとして、すべて説明してしまえば、かえって伝わらなくなるものもあるかもしれない。


 けれど、何も書かなければ、読み手には届かない。


 どこまで書くのかを考えること。


 そのために、いくつもの書き方を試してみること。


 今日の活動は、彩花にとって、ただ部誌の作業を進める以上の意味を持つ時間になっていた。


     ◇


 活動が終わったあと、彩花はすぐに帰宅せず、校内の図書室へ立ち寄った。


 借りている小説を返却するためではない。


 昨日の国語の授業と、今日の文芸部で考えたことを、もう少し整理したかったからだ。


 図書室は放課後らしい静けさに包まれていた。


 窓際の席には数人の生徒が座り、それぞれ本を読んだり、課題に取り組んだりしている。入口近くの返却棚には、返された本が何冊か並べられていた。


 彩花は図書室の先生へ挨拶し、空いている席へ向かった。


 鞄から国語のノートと小さなメモ帳を取り出し、今日書き加えた一文を読み返す。


『読み手に任せることと、書き手が考えないことは違う。』


 彩花はその言葉を見つめ、星模様の創作ノートを開いた。


 祖母へ手紙を書く少女の物語は、まだ途中だった。


 少女は庭の花を見ながら、祖母と過ごした時間を思い出している。


 使い込まれた園芸道具の柄に残る小さな傷。


 祖母が困ったように笑ったこと。


 そして、そのとき何と答えてくれたのかを、今は思い出せないこと。


 彩花は日曜日に書いた文章を読み返した。


『けれど、そのときおばあちゃんが何と答えたのか、今の私には思い出せません。ただ、私の質問を聞いたおばあちゃんが、少し困ったように笑っていたことだけは覚えています。あの笑顔を思い出すたびに、私はもう一度、同じことを尋ねてみたくなるのです。』


 彩花はペンを持ち、最後の一文へ目を向けた。


 もう一度、同じことを尋ねてみたくなる。


 その気持ちは自然だと思う。


 けれど、少女が祖母へ手紙を書こうとしていることと、まだ十分につながっていない気がした。


(この子は、何を伝えたくて手紙を書いてるんだろう。おばあちゃんに聞きたいことがあるだけなら、質問を書けばいい。でも、最初の二行では庭の花のことを伝えようとしてるんだよね)


 彩花は最初のページへ戻った。


『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』


『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』


 少女は、毎朝庭を見ている。


 そして、花が咲きそうなことを祖母へ伝えたいと思っている。


 その気持ちの中には、昔の記憶だけでなく、今の自分の暮らしも含まれているはずだった。


 彩花はしばらく考えたあと、日曜日に書いた段落の下へ、新しい文章を書き始めた。


『今朝、庭へ出たとき、私はいつもより少し長く花の前に立っていました。昨日まで固く閉じていた蕾の先に、ほんの少しだけ色が見えた気がしたからです。見間違いかもしれないと思って、何度も確かめましたが、結局、はっきりとは分かりませんでした。』


 彩花はそこでペンを止めた。


 この文章は、今朝の自分の経験と少し似ている。


 ただし、少女が見ている花は、彩花が通学路で観察している蕾と同じものではない。


 物語の中の庭には、少女と祖母が過ごしてきた時間がある。


 その違いを大切にしながら、続きを考えたいと思った。


 彩花は次の一文を書いた。


『それでも、明日の朝も見てみようと思います。おばあちゃんが昔、私に教えてくれたように、小さな変化を見つけられるかもしれないからです。』


 書き終えた瞬間、彩花は少しだけ息を止めた。


 今まで、少女が毎朝庭を見ている理由を、はっきりとは考えていなかった。


 花が好きだから。


 祖母との思い出があるから。


 その二つだけでも説明できると思っていた。


 けれど、祖母が少女へ何かを教えていたと考えると、物語の中で二人が過ごした時間に、少し違う意味が生まれる。


 彩花は新しい文章を読み返し、眉を寄せた。


(……でも、これだと、おばあちゃんが何を教えてくれたのか、もう決まってるみたいに読めるかな)


 祖母が具体的にどんな言葉をかけたのかは、まだ決めていない。


 少女が覚えていることと、覚えていないことも、整理しきれていない。


 ここで説明を増やしすぎると、物語の前半と矛盾する可能性があった。


 彩花は書いたばかりの一文を消さず、横へ小さな印をつけた。


『祖母が教えたことの具体性を確認。』


 それから、別の紙へ二つの案を書き出した。


 一つは、祖母が少女へ植物の変化を観察する楽しさを教えていたという案。


 もう一つは、祖母が特別なことを教えたわけではなく、一緒に庭へ出るうちに少女が自然と覚えたという案。


 彩花は二つを見比べた。


 どちらにも魅力がある。


 けれど、今まで書いてきた祖母の姿に合うのは、どちらなのだろう。


 彩花はすぐに答えを決めず、ノートを閉じた。


 今日は、物語を一気に進めることよりも、大切な分かれ道に気づけたことが嬉しかった。


 顔を上げると、窓の外は少しずつ夕方の色へ変わっていた。


 帰宅する前に本棚を眺めようと思い、彩花は席を立った。


 入口近くの返却棚には、昼間よりも本が増えていた。


 そこに並んでいた一冊の本へ、彩花は目を止めた。


 表紙には、古い町の商店街を写した写真が使われている。


 何気なく手に取ると、地域の暮らしを記録した写真集だった。


 彩花はページを開き、昔の店先や住宅街の写真を眺めた。


 写っているのは、華やかな観光地ではない。


 洗濯物が干された家の前。


 店の軒先に並んだ木箱。


 自転車を押して歩く人の後ろ姿。


 どれも、当時の人にとっては特別ではなかったかもしれない景色だった。


 彩花はある写真の説明文へ目を向けた。


 そこには、撮影者が同じ通りを何年にもわたって撮り続けていたことが記されていた。


 建物が変わり、店の看板が変わり、人の流れが変わっても、同じ場所へ立ち、街の姿を残していたらしい。


(同じ場所を撮り続けるって、凛花が考えてた植物の記録と少し似てるね。でも、街だと変わるものがもっとたくさんあるんだ)


 彩花はページをめくり、同じ通りを異なる時期に撮影した二枚の写真を見比べた。


 最初は、建物の違いばかりが目に入った。


 けれど、しばらく眺めていると、道の端に置かれたものや、人が歩いている位置まで違うことに気づいた。


 彩花は思わず微笑んだ。


 悠真が好きな古い街並みの写真。


 自分が好きな、何気ない暮らしの記録。


 その二つは、思っていたより近いところにあるのかもしれなかった。


 彩花は写真集の貸出状況を確かめたが、今日は借りずに棚へ戻すことにした。


 まだ読みかけの小説があり、創作ノートにも考えたいことが残っている。


 それでも、写真集の存在は覚えておきたかった。


 彩花は題名をメモ帳へ書き留め、図書室をあとにした。


     ◇


 夕方の青凪市では、九条悠真が帰宅後、自室の机へ向かっていた。


 学校から持ち帰った資料を整理し終えると、悠真は航平と確認した冊子の内容をもう一度読み返した。


 駅前の施設配置が変更されたこと。


 ただし、どの施設が、いつ、どのように移動したのかは、まだ確認できていないこと。


 そして、現在調べている古い写真と、その変更が関係しているかどうかも不明であること。


 悠真は一つずつ確認し、メモへ書き加えた。


 そのとき、扉を軽く叩く音がした。


「お兄ちゃん、今ちょっといい?」


 琴葉の声だった。


「うん。どうしたの?」


 扉が開き、琴葉が二枚の台紙を持って入ってきた。


 淡い緑色と生成り色。


 押し葉の作品に使うため、以前から迷っているものだった。


「今日ね、葉っぱを置く場所を少し変えてみたんだ。そしたら、同じ台紙でも見え方が違って」


 琴葉は机の上へ台紙を置き、持ってきた押し葉を慎重に並べた。


 淡い緑色の台紙では、葉が柔らかな印象になる。


 生成り色の台紙では、葉脈や輪郭が少しはっきりして見えた。


 悠真は二つを見比べ、妹へ尋ねた。


「琴葉は、どっちを見たときに、最初に思ってた作品に近いって感じる?」


 琴葉は少し考えた。


「……最初は緑がいいと思ってたんだけど、今は生成りも好きなんだよね。でも、葉っぱを全部並べると、また違うかもしれないし」


「それなら、全部の配置が決まってから台紙を選んでもいいんじゃないかな」


 悠真が答えると、琴葉は目を丸くした。


「えっ、先に色を決めなくてもいいの?」


「うん。貼りつける前なら、順番を変えても大丈夫だろう? 今は試している途中なんだから」


 琴葉はしばらく考えたあと、嬉しそうに頷いた。


「そっか。私、台紙を決めないと次に進めないと思ってた」


 悠真は微笑んだ。


「作り方は琴葉が決めていいんだよ。大切なのは、完成したときに琴葉が気に入っていることだと思う」


 琴葉は台紙を大切そうに持ち直した。


「ありがとう、お兄ちゃん。もう少し並べ方を考えてみるね」


 部屋を出る前、琴葉はふと振り返った。


「そうだ。彩花さんにも、いつか見てもらいたいんだよね。完成したら、どんなところを工夫したか話せるようにしておこうかな」


「いいと思うよ。彩花さんは、そういう話を聞くのも好きだと思う」


 悠真が答えると、琴葉は嬉しそうに笑った。


 妹が部屋を出ていくと、悠真は机の上へ目を戻した。


 台紙の色を決めること。


 写真の撮影地点を調べること。


 どちらも、今すぐ答えを出さなくても進められることがある。


 悠真はそのことを考えながら、航平と共有するメモを閉じた。


 窓の外では、庭の木々が夕方の光を受けている。


 枝先の芽は、まだ開いていなかった。


 悠真は窓際へ近づき、少しの間その様子を眺めた。


 彩花が通学路で観察している蕾も、今頃はどうなっているのだろう。


 昨日の夜、写真を撮ったと話していた。


 その後に変化があったかどうかは、まだ知らない。


 悠真はスマートフォンを手に取ったが、すぐにメッセージを送ることはしなかった。


 彩花も学校から帰ってきたばかりかもしれない。


 夕食や家族との時間もあるだろう。


 今夜、落ち着いた頃に話せればいいと思い、悠真はスマートフォンを机へ戻した。


     ◇


 水瀬家では、夕食のあと、彩花が母の紗月と台所を片づけていた。


 食器を拭きながら、彩花は今日の文芸部で考えたことを思い出した。


 文章を分かりやすくしようとして、元の意味を変えてしまう可能性があること。


 そして、別の案を考えたからこそ、元の文章で大切にされていた間合いに気づけたこと。


 紗月は彩花が少し考え込んでいる様子に気づき、穏やかに声をかけた。


「今日は何か難しいことがあったの?」


「ううん。困ったことじゃないんだけど、部誌の文章を確認していて、少し考えることがあったんだ」


 彩花は食器を棚へ戻しながら、今日の出来事を簡単に説明した。


 修整理由を分かりやすくすることと、元の文章の意味を守ること。


 その二つを両立させるのが、思っていたより難しかったという話だった。


 紗月は最後まで聞き、静かに頷いた。


「そうね。何かを直すときって、よくするつもりで、別の大切なところを変えてしまうこともあるものね」


「うん。今日、少しだけ分かった気がする」


「でも、気づけたならよかったんじゃない? 試してみなければ分からないこともあるでしょう」


 彩花は母の言葉を聞き、微笑んだ。


「そうだね。私も、そう思う」


 片づけを終えると、彩花は自室へ戻った。


 机の上には、今日持ち帰った国語のノートと、星模様の創作ノートが並んでいる。


 彩花は椅子へ座り、放課後の図書室で書いた文章を読み返した。


 少女が蕾を見つめる場面。


 祖母が教えてくれたことを思い出そうとする場面。


 その二つのつながりには、まだ考える余地があった。


 彩花は少し迷ったあと、今日書いた文章を消さずに残し、別のページへ短いメモを書いた。


『少女が覚えているのは、祖母の言葉そのものではなく、一緒に庭を見ていた時間かもしれない。』


 書き終えると、彩花はペンを置いた。


 その考え方なら、祖母が何を教えたのかを無理に決めなくても、少女が毎朝庭を見ている理由を描けるかもしれない。


 ただし、それが物語に合うかどうかは、まだ分からない。


 彩花は明日以降、もう一度最初から読み返してみようと思った。


 そのとき、スマートフォンが小さく震えた。


 画面には悠真からのメッセージが表示されていた。


『彩花さん、こんばんは。今日も一日お疲れさま。今日は学校で何か面白いことがあった?』


 彩花は自然と笑顔になった。


『こんばんは、悠真君。今日もお疲れさま。今日は文芸部で、文章を直すときに何を大切にするか考えたよ。それから、放課後に学校の図書室へ寄ったんだ』


 送信すると、ほどなくして返事が届いた。


『図書室に寄ったんだね。何か面白い本があった?』


 彩花は今日見つけた写真集を思い出した。


『うん。昔の町の写真を集めた本があったの。同じ通りを何年も撮り続けていた人の写真が載っていて、建物だけじゃなくて、そこに暮らしている人の様子も少しずつ変わっていたんだ』


 悠真はその文章を読み、目を輝かせた。


 同じ通りを何年も撮り続けた写真。


 それは、今自分が調べている古い街並みの写真とも、どこかつながる話だった。


『それ、すごく面白そうだね。写真の撮り方が同じなら、時代による変化も比べやすそうだし、当時の暮らしも見えてきそうだ』


 彩花は返信を読み、微笑んだ。


『うん。私もそう思ったよ。今日は借りなかったんだけど、また読んでみたいなって思ったの』


 悠真は少し考えてから、メッセージを打った。


『彩花さん、もしよかったら、その本の題名を教えてもらってもいい? 俺も気になってきたんだ』


 彩花は画面を見つめ、少し驚いた。


 悠真が自分の見つけた本へ興味を持ってくれたことが、嬉しかった。


 けれど、それ以上に、今日の発見を一緒に楽しもうとしてくれていることが嬉しかった。


『もちろん。メモしてあるから、今確認するね』


 彩花は机の上のメモ帳を開き、写真集の題名を確かめた。


 そして、その文字を丁寧に打ち込んで送信した。


 悠真からは、すぐに返事が届いた。


『ありがとう。今度、図書館で探してみるよ。彩花さんがどんなところを面白いと思ったのか、俺も見てみたいな』


 彩花はその文章を読み、少しだけ頬を赤くした。


 自分が見つけた本を、悠真も読んでみたいと思ってくれる。


 それは、今までにも何度か経験してきたことだったが、今日のように具体的な一冊を教えるのは、また少し違う嬉しさがあった。


 彩花は少し考え、返信を打った。


『私も、悠真君が読んだらどんなところに気づくのか聞いてみたいな。同じ写真でも、きっと違うところが気になると思うから』


 送信したあと、彩花は少し迷った。


 今日の写真集は、青葉高校の図書室で見つけたものだ。


 悠真が通う桜華学園高等部とは違う学校にあるため、同じ本がほかの図書館にもあるとは限らない。


 そのことを伝えておいた方がいいかもしれなかった。


『あ、でも、その本は青葉高校の図書室で見つけたものだから、中央図書館にもあるかは分からないんだ。もし見つからなかったらごめんね』


 彩花が続けて送ると、悠真から穏やかな返事が届いた。


『大丈夫だよ。まずは蔵書を調べてみるね。見つからなくても、彩花さんが教えてくれたことだけで十分面白かったから』


 彩花はその言葉を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 悠真は、結果がどうなるか分からないことにも、自然と興味を持ってくれる。


 そして、見つからなかった場合まで含めて、楽しみ方を考えてくれる。


 その姿勢が、彩花には嬉しかった。


     ◇


 九条家の自室で、悠真は彩花から教えてもらった写真集の題名をメモしていた。


 今すぐ蔵書を確認することもできそうだったが、まずは正確に記録しておこうと思った。


 青葉高校の図書室にある本が、青凪市中央図書館にも所蔵されているとは限らない。


 ただ、同じ本が見つからなかったとしても、似たテーマの本を探すことはできるかもしれなかった。


 悠真はメモ帳を閉じ、彩花とのやり取りを読み返した。


 彩花は今日、学校の図書室で昔の町の写真集を見つけた。


 そこには、同じ通りを何年も撮り続けた写真が載っていた。


 自分は、航平と古い駅前写真の調査を進めている。


 同じ写真という題材でも、彩花が興味を持ったのは、そこに暮らす人々の変化だった。


 悠真はその違いを面白く感じていた。


(彩花さんは、写真に写っている人たちの暮らしまで考えるんだよね。俺も、撮影地点を探すことばかりじゃなくて、写真そのものを楽しむ時間を作ってみようかな)


 そう考えたとき、悠真は一つ思いついた。


 写真集を見つけたら、ただ読むだけでなく、彩花が面白いと思ったところと、自分が気になったところを比べてみたい。


 そのためには、彩花にも少し協力してもらう必要がある。


 悠真はスマートフォンを手に取り、少し考えてからメッセージを打った。


『彩花さん、一つお願いしてもいいかな?』


 送信したあと、悠真は少し緊張した。


 大きなお願いではない。


 けれど、彩花が自分の好きなものについてどう感じたのか、もう少し詳しく知りたいと思ったのは確かだった。


 彩花から返事が届いた。


『うん。どうしたの?』


 悠真は文章を確かめながら、続きを送った。


『もしその写真集をまた読む機会があったら、彩花さんが特に好きだった写真を一枚だけ覚えておいてもらえないかな。俺も本を見つけられたら、自分が気になった写真を選んでみたいんだ』


 送信すると、悠真は少しだけ息を吐いた。


 彩花がどう受け取るかは、まだ分からない。


 けれど、同じ本を読んだあと、互いに違う写真を選ぶかもしれない。


 その違いを話し合う時間は、きっと楽しいだろうと思った。


 少しして、彩花から返事が届いた。


『それ、楽しそう! 私もやってみたいな。今日は何枚も気になる写真があったから、今度もう一度読んで、一枚選んでみるね』


 悠真はその文章を読み、自然と笑顔になった。


『ありがとう。俺も、まずは本を探してみるよ。もし同じ本が見つからなかったら、そのときは別の方法を考えよう』


 彩花からは、すぐに返事が届いた。


『うん。見つからなくても、写真の話はできるもんね。悠真君がどんな写真を選ぶのか、楽しみにしてる』


 悠真はスマートフォンを置き、机の上の淡い青色の花模様のカードへ目を向けた。


 彩花から贈られた言葉は、今も大切にしている。


 けれど今日は、そのカードを受け取ったときとは少し違う嬉しさがあった。


 自分が何かをしてもらうだけではなく、彩花と一緒に新しい楽しみ方を考えられたこと。


 それが、悠真には嬉しかった。


 次に会う日時は、まだ決まっていない。


 写真集が見つかるかどうかも分からない。


 それでも、二人の間には、新しい約束に似た小さな楽しみが生まれていた。


     ◇


 彩花は悠真とのやり取りを終えたあと、葉模様の日記帳を開いた。


 今日の出来事を書き留めようとして、まず朝の蕾を思い出した。


 写真を撮って比べれば、変化が分かると思っていた。


 けれど、撮る角度が違えば、正確には比べられない。


 そのことに気づいたのは、小さな失敗だったのかもしれない。


 ただ、彩花はそれを嫌な出来事だとは思わなかった。


 次にどうすればいいか考えるきっかけになったからだ。


『火曜日。朝、蕾を昨日の写真と比べてみたけれど、撮った角度が違うので、変化があるかどうかは分からなかった。次からは、できるだけ同じ位置から見てみようと思う』


 彩花は続きを書いた。


『文芸部では、文章を分かりやすく直すことと、元の意味を守ることについて考えた。試してみた案がそのまま使えるとは限らないけれど、考えたからこそ気づけることもあると思った』


 そして、少し間を置いてから、最後の出来事を書き加えた。


『放課後、学校の図書室で昔の町の写真集を見つけた。夜、悠真君に話したら、同じ本を読んで、それぞれ好きな写真を一枚選んでみようと提案してくれた。まだ本が見つかるか分からないけれど、考えるだけで楽しみになった』


 彩花はペンを置き、書いた文章を読み返した。


 今日は、何か大きな出来事があったわけではない。


 けれど、朝に見落としていた一行を見つけ、授業で考えたことを整理し、文芸部で文章の意味について話し合った。


 そして、放課後に見つけた一冊の本が、悠真との新しい楽しみにつながった。


 彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。


 星模様の創作ノートには、まだ完成していない物語が残っている。


 祖母へ手紙を書く少女の気持ちも、まだすべてが言葉になっているわけではない。


 けれど、今日の活動を通して、書き直すことは、ただ文章を分かりやすくするだけではないと気づいた。


 何を残し、何を変えるのか。


 その判断を大切にしながら、物語を完成させたいと思った。


 彩花は窓のカーテンを閉め、部屋の明かりを少し落とした。


 明日は水曜日だ。


 青葉高校ではいつもの授業があり、文芸部の冬の部誌『いつか、ここに』についても、先生の最終承認を待つ状況が続いている。


 通学路の蕾は、まだ開いていない。


 借りている小説の幼なじみたちも、まだ再会していない。


 そして、悠真と一緒に選んでみたい写真集も、まだ同じ本を読めるかどうか分からない。


 それでも、彩花は明日が少し楽しみだった。


 新しいことを知る楽しさ。


 分からないことを考える楽しさ。


 そして、誰かと同じものを見ながら、違うところへ目を向ける楽しさ。


 その一つずつが、今の自分にとって大切なものになっていると感じていた。


 九条家でも、悠真がスマートフォンを置き、眠る準備をしていた。


 今日、航平と確認した古い駅前写真の調査には、まだ答えが出ていない。


 けれど、資料の読み方について、新しい確認事項が見つかった。


 そして夜には、彩花と一冊の写真集を通して、互いの好きな写真を選ぶという小さな楽しみが生まれた。


 悠真は机の上のメモ帳へ目を向け、静かに微笑んだ。


 次に彩花と会う日が、いつになるのかは分からない。


 けれど、そのときに話したいことは、今日また一つ増えた。


 火曜日の夜は、穏やかに更けていく。


 別々の学校で過ごす二人の一日は、同じではない。


 それぞれに違う出来事があり、違うものを見つけ、違うことを考えている。


 けれど、その違いを話し合うことが、今の二人には楽しかった。


 彩花の書きかけの物語は、まだ悠真の手元には届いていない。


 悠真が調べている古い写真の謎も、まだ解けていない。


 それでも、互いの好きなものを知りたいという気持ちは、少しずつ形になっていた。


 そして、その小さなお願いは、まだ名前のついていない二人の関係に、新しい楽しみを一つ残していた。

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