第153話 月曜日の返却棚と、君に伝えたくなった小さな発見
月曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、部屋の窓には薄い雲を通した冬の日差しが差し込んでいた。昨日のような明るい青空ではなかったものの、空は穏やかで、窓の外に見える住宅街も静かだった。目覚まし時計の音を止めた彩花は、布団の中で少しだけ身体を伸ばし、今日からまた学校が始まることを思い出した。
机の上には、昨夜閉じた星模様の創作ノートと、葉模様の日記帳が並んでいる。昨日は家族と古い写真を整理したあと、書きかけの物語に新しい文章を加えることができた。祖母の言葉を思い出せない少女が、それでも祖母の笑顔だけは覚えているという場面は、今も彩花の心に残っていた。
(あの続き、どうしようかな。手紙の中で何を伝えたいのか、もう少し考えてみたいけど、今日は学校もあるし、帰ってからゆっくり読もう)
彩花はそう考えながら起き上がり、制服へ着替えた。鏡の前で髪を整え、鞄の中身を確認すると、読みかけの文庫本が入っていることに気づいた。
借りている小説では、故郷へ戻った二人の幼なじみが、それぞれ別の場所で昔のことを思い出している。まだ再会はしておらず、片方が見つけた手紙についても、誰が書いたものなのかは分かっていない。
彩花は本の背表紙を指先でなぞり、今日は昼休みに少し読めたらいいと思った。
階段を下りると、台所から朝食の香りが漂ってきた。母の紗月は食卓へ皿を並べており、父の耕助は温かいお茶を飲みながら新聞に目を通している。
「おはよう、お母さん。お父さんも、おはよう」
「おはよう、彩花。今日は少し冷えるみたいだから、暖かくしていきなさいね」
紗月がそう言うと、彩花は頷いた。
「うん。マフラーも持っていくよ」
彩花が席についたところで、妹の凛花が食卓へやってきた。昨日、植物の記録用に作っていたノートを思い出したのか、凛花は朝から少し楽しそうな表情をしている。
「お姉ちゃん、おはよう。昨日の写真のこと、まだちょっと考えてたんだ」
「おはよう、凛花。どの写真?」
「庭の写真。植物を育て始めたら、同じ場所から何回か撮ってみようかなって思ったの。そうしたら、葉っぱの大きさだけじゃなくて、周りの様子も比べられるでしょ?」
彩花は妹の言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。
「それ、面白そうだね。光の当たり方とか、季節によっても違って見えるかもしれないよ」
「そうなんだよね。でも、まだ何を育てるか決めてないから、まずはそこからなんだけど」
凛花は少し照れたように笑い、朝食へ手を伸ばした。
耕助は二人のやり取りを聞きながら、新聞を畳んだ。
「何かを始める前に考える時間も、案外楽しいものだからな。慌てて決めなくてもいいだろう」
「うん。ちゃんと育てられるものを選びたいから、もう少し調べてみる」
凛花が答えると、紗月も穏やかに頷いた。
彩花は家族の会話を聞きながら、昨日の写真整理を思い出していた。古い写真を見返すことで、今まで気づかなかった家族の姿を知ることができた。
それと同じように、これから始まる何気ない日常も、いつか振り返ったときには大切な記憶になるのかもしれない。
朝食を終えた彩花は、鞄を持って玄関へ向かった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
紗月の声に見送られ、彩花は冬の朝の空気の中へ足を踏み出した。
◇
通学路には、いつもの月曜日らしい景色が広がっていた。
駅へ向かう人々が歩道を行き交い、近くの交差点では信号が変わるたびに車の列がゆっくりと進んでいる。彩花はマフラーへ少し顎を埋めながら、学校へ向かって歩いた。
途中、以前から観察している蕾のある場所へ差しかかると、自然と歩幅が緩やかになった。
小さな蕾は、まだ開いていなかった。
ただ、金曜日に見たときよりも、外側の形が少しふっくらしているように感じられた。もっとも、数日ぶりに見たからそう感じるだけかもしれない。
彩花は近づきすぎない距離で立ち止まり、蕾をしばらく眺めた。
(少し大きくなったのかな。でも、はっきりとは分からないね。こういうとき、写真を撮っておけば比べられるのかもしれない)
昨日、凛花が植物の記録について話していたことを思い出した。
彩花は鞄からスマートフォンを取り出したものの、すぐに撮影することはしなかった。道を歩く人の邪魔にならない場所かどうかを確かめ、周囲に人が写り込まない角度を選んでから、一枚だけ写真を撮った。
画面には、枝先についた小さな蕾が写っている。
彩花は写真を確認し、少しだけ微笑んだ。
これで次に見たとき、どこが変わったのかを比べられるかもしれない。
ただし、蕾の種類も、いつ開くのかも、まだ分からないままだった。
彩花はスマートフォンを鞄へ戻し、学校へ向かって歩き始めた。
青葉高校へ到着すると、昇降口には登校してきた生徒たちの声が響いていた。靴を履き替え、教室へ向かう廊下を歩いていると、窓の外には冬の薄い雲が広がっている。
教室へ入った彩花は、自分の席へ鞄を置いた。
「水瀬さん、おはよう」
近くの席の女子生徒が声をかけてきた。
「おはよう。今日は少し寒いね」
「うん。朝、布団から出るのが大変だったよ。水瀬さんは休みの日、何してた?」
彩花は昨日のことを思い出し、微笑んだ。
「家族で古い写真を整理したんだ。小さい頃の写真がたくさん出てきて、思ってたより面白かったよ」
「へえ、いいね。私も昔の写真、たまに見ると時間を忘れちゃうんだよね」
女子生徒は楽しそうに笑った。
「そういえば、家族の写真って、撮ったときは普通の一日でも、あとで見るとすごく懐かしくなるよね」
「うん。昨日も、誰も写ってない庭の写真があったんだけど、それを見てるだけで、昔の家の様子を想像できたんだ」
彩花が話すと、相手は少し驚いたように目を丸くした。
「庭だけの写真? そういうのも残してあるんだね」
「うん。お母さんが、昔の庭の配置を記録するために撮ったんじゃないかって言ってた」
彩花はその写真を思い出しながら、静かに微笑んだ。
誰も写っていない写真でも、そこには確かに家族の暮らしが残っている。
そのことを誰かへ話すと、昨日感じた面白さがまた少し鮮やかになるようだった。
やがて朝のホームルームが始まり、教室の空気は少しずつ授業へ向かうものへ変わっていった。
◇
午前中の授業は、落ち着いた雰囲気の中で進んだ。
彩花はノートを取りながら、先生の説明へ耳を傾けた。窓際の席には淡い日差しが届き、ときどき雲の影が教室の床をゆっくりと移動している。
国語の授業では、文章の読み取り方について話し合う時間があった。
先生は教科書の一節を示し、登場人物が直接言葉にしていない気持ちを、どのように読み取れるか考えるように促した。
彩花は本文を読み返し、登場人物の行動や、その前後に書かれている情景へ目を向けた。
そこには、気持ちをはっきり説明する言葉は少なかった。
けれど、相手へ渡そうとしていたものを一度引っ込める仕草や、返事をするまでの沈黙から、迷いが伝わってくるように感じられた。
(言葉にしてない気持ちでも、行動から伝わることがあるんだね。でも、読む人によって感じ方が違うこともあるのかな)
彩花はそう考えながら、ノートへ自分の意見を書き留めた。
先生が生徒たちへ意見を求めると、教室のあちこちから異なる考えが出てきた。
ある生徒は、登場人物が相手へ気を遣っているのだと話した。別の生徒は、気を遣っているというより、自分の気持ちを整理できていないのではないかと考えていた。
彩花は二つの意見を聞き、どちらにも納得できるところがあると思った。
先生は黒板へ意見を整理しながら、文章に書かれている事実と、そこから読み取った気持ちを分けて考えることが大切だと説明した。
彩花はその言葉を聞き、昨日の悠真との会話を思い出した。
写真に写っていることと、そこから想像できることは違う。
文章を読むときにも、似たことがあるのかもしれない。
授業が終わったあと、彩花はノートを閉じながら、少し考えていた。
自分が書いている物語でも、少女の気持ちをすべて説明する必要はないのかもしれない。
けれど、何も書かなければ、読者には伝わらない。
どこまで言葉にして、どこを行動や情景へ任せるのか。
その違いを考えることが、今の彩花には新鮮だった。
昼休みになると、彩花は友人たちと昼食を取り、少しだけ読みかけの文庫本を開いた。
物語の中では、故郷へ戻った人物が昔の道を歩きながら、子どもの頃の記憶をたどっていた。
その道は、以前とまったく同じではない。
店が変わり、建物が建て替えられ、昔の景色とは違うところもある。
それでも、曲がり角の形や遠くに見える山並みから、懐かしい感覚がよみがえってくる。
彩花はその場面を読み、昨日見た古い写真を思い出した。
今の自分が知らない昔の風景も、そこに暮らしていた人にとっては、毎日のように目にしていた景色だったのだろう。
ページをめくる手を止めた彩花は、窓の外へ目を向けた。
青葉高校の校庭では、昼休みを過ごす生徒たちの姿が見える。
いつかこの景色を思い出すとき、自分は何を覚えているのだろう。
そんなことを考えているうちに、昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。
彩花は栞を挟み、文庫本を鞄へ戻した。
◇
桜華学園高等部でも、月曜日の授業が進んでいた。
九条悠真は午前中の授業を終え、昼休みに森川航平と話していた。
航平は机の上へノートを広げ、以前から調べている青凪市駅前の古い写真について、整理した内容を見せている。
「九条、昨日言ってた本の話、少し気になってたんだよ。写真に写ってないものについても考えるって、具体的にはどういうこと?」
悠真は父から借りた本の内容を思い出しながら、丁寧に説明した。
「例えば、写真に写っていない建物があっても、撮影した角度によって見えなかっただけかもしれないだろう? それに、写真と地図の年代が違えば、同じ場所でも配置が変わっている可能性があるんだ」
航平は頷きながら、ノートへ目を向けた。
「なるほどな。俺たち、写真の端にある小さいものが何なのか気にしてたけど、それだけじゃなくて、見えないところにも注意しないといけないわけか」
「うん。ただ、今の資料だけで何か新しいことが分かったわけじゃないんだ。調べ方を少し変えてみようっていう話だよ」
悠真が答えると、航平は納得したように頷いた。
「それなら、今の表はそのまま残しておいて、確認するときの注意点を追加するのがよさそうだな」
航平はノートの余白へ短いメモを書き加えた。
そこには、写真に写っていないものが当時存在しなかったとは限らないこと、地図と写真の年代差を考慮することが記されている。
悠真はその様子を見ながら、少し微笑んだ。
「ありがとう、航平。こうして整理してくれると助かるよ」
「いや、俺も面白いからやってるだけだって。こういうの、すぐ答えが出ないところが逆に気になるんだよな」
航平は笑いながら、写真の候補地点を示した表へ目を向けた。
「それにしても、まだ二つの候補が残ってるんだよな。どっちも完全には否定できないし」
「そうだね。今のところは、どちらかに決める理由が足りないと思う」
悠真はそう答え、資料を見つめた。
写真の撮影地点については、まだ分からないことが多い。
けれど、航平と一緒に調べることで、何が分かっていないのかは少しずつ整理できていた。
それは、調査を進めるうえで大切なことだった。
航平はノートを閉じると、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、九条。最近、図書館には行ってるのか?」
「うん。先週の土曜日にも行ったよ」
「へえ。相変わらず本が好きだな」
航平は楽しそうに笑った。
「俺もたまには行こうかな。調べ物だけじゃなくて、普通に本を探すのも面白そうだし」
悠真は頷いた。
「いいと思うよ。青凪市中央図書館は、街の歴史についての本もあるし、いろいろ見ているだけでも楽しいから」
航平は少し考えたあと、笑顔を見せた。
「じゃあ、今度時間があるときに行ってみるよ。何か面白い本があったら教えてくれ」
「うん。航平が好きそうな本を見つけたら、伝えるよ」
二人はそう話しながら、午後の授業の準備を始めた。
◇
放課後、彩花は文芸部の活動場所へ向かった。
廊下には下校する生徒たちの声が響き、窓の外では冬の夕方らしい淡い光が校舎を照らしている。彩花が部室へ入ると、すでに数人の部員が集まっており、机の上には冬の部誌『いつか、ここに』に関する資料が並べられていた。
佐々木先輩は資料を確認しながら、集まった部員たちへ声をかけた。
「みんな、お疲れさま。今日は先生から確認してもらった部分について、少し話したいことがあるの」
彩花は席につき、先輩の言葉へ耳を傾けた。
部誌の最終承認は、まだ下りていない。
ただし、先生からは、いくつかの箇所について確認しておきたいという連絡があったらしい。
「大きな修整が必要という話ではないんだけど、変更履歴の一部について、理由が少し分かりにくいところがあるみたいなの。だから、今日はそこを確認しておきたいと思ってる」
佐々木先輩はそう説明し、資料を一枚ずつ配った。
彩花が受け取った紙には、修整前後の文章と、変更理由が記されている。
そのうち一つには、表現を分かりやすくするためという理由が書かれていた。
けれど、具体的に何が分かりにくかったのかは、確かに読み取れない。
彩花は資料を見つめながら、以前、同じ部員と修整理由について話したことを思い出した。
そのときも、理由を詳しく書くことで、後から確認する人が判断しやすくなるのではないかと考えていた。
佐々木先輩は部員たちへ目を向けた。
「ここは、修整した人にもう一度確認した方がいいと思うの。どうしてこの表現へ変えたのか、具体的に書けるなら、その方が先生も判断しやすいはずだから」
近くに座っていた部員が、少し申し訳なさそうに手を挙げた。
「すみません。その部分、私が確認したところです。文章の意味が伝わりにくいと思って直したんですけど、理由を書くときに、そこまで詳しく書いていませんでした」
佐々木先輩は穏やかに頷いた。
「大丈夫よ。今から確認すればいいから。ただ、どうして変えたのかは、もう一度整理してみよう」
部員は頷き、資料へ目を落とした。
彩花はその様子を見ながら、少し考えた。
文章を直すときには、読んだ人がどう感じるかを考えることが大切だ。
けれど、修整理由を残すときには、何をどう判断したのかを、別の人にも分かる形で書かなければならない。
その二つは似ているようで、少し違う。
彩花は部員が考えを整理するのを待ち、必要なら一緒に確認できるように資料を手元へ置いた。
しばらくして、部員が顔を上げた。
「水瀬さん、少し相談してもいい?」
「うん。どうしたの?」
彩花が答えると、部員は資料を指さした。
「この文章、最初は誰のことを説明しているのか分かりにくいと思ったんです。それで主語を補ったんですけど、理由をどう書けばいいのか迷ってて」
彩花は修整前後の文章を読み比べた。
確かに、修整前の文章では、直前の文とのつながりによって、誰の行動なのか少し判断しにくいところがあった。
「それなら、主語が省略されていて、行動した人物が分かりにくかったから、というふうに書くと、理由が伝わりやすいかもしれないね」
彩花が答えると、部員は頷いた。
「なるほど。何を分かりやすくしたかったのか、ちゃんと書けばいいんですね」
「うん。ただ、私もこれで十分かどうかは先生に確認してもらった方がいいと思う。最終的にどうするかは、先輩たちとも相談したいな」
彩花はそう付け加えた。
部員は安心したように微笑み、佐々木先輩へ相談するために資料を持って立ち上がった。
彩花はその背中を見送りながら、少しだけ息を吐いた。
以前は、相談されたときに正しい答えを出さなければならないと思うことがあった。
けれど今は、自分が分かることと、まだ確認が必要なことを分けて伝える方が、相手にとっても役立つのではないかと感じている。
佐々木先輩は部員から説明を受けると、資料を確認して頷いた。
「うん。これなら、修整の理由が前より分かりやすいと思う。ただ、先生へ再確認してもらう必要はあるから、今日の段階では確定にしないでおこう」
部員は頷き、変更履歴へ確認内容を書き加えた。
彩花はその様子を見ながら、冬の部誌が少しずつ形になっていくことを感じていた。
まだ最終承認は下りておらず、印刷へ進む段階でもない。
それでも、一つずつ確認を重ねることで、作品を届ける準備が進んでいる。
そのことが、彩花には嬉しかった。
活動の終わり頃、佐々木先輩は部員たちへ声をかけた。
「今日はここまでにしましょう。確認した内容は記録に残しておいて、先生からの返事を待ちます。みんな、お疲れさま」
部員たちは頷き、資料を整理し始めた。
彩花も自分の机の上を片づけながら、今日の活動を振り返った。
文章を直すことは、ただ言葉を変えることではない。
誰が読むのか、どんなふうに受け取るのか、そして、なぜその言葉を選んだのかを考えることでもある。
そのことは、自分の創作にもつながっているように感じられた。
◇
帰宅した彩花は、夕食までの時間を使って少しだけ読書をしていた。
窓の外はすでに薄暗くなり、部屋の明かりが机の上を照らしている。彩花は読みかけの文庫本を開き、昼休みに読んだ場面の続きを読み始めた。
物語の中では、故郷へ戻った人物が、昔よく通った場所を訪れていた。
そこには、かつて親しかった相手との思い出が残っている。
けれど、相手が今どこで何をしているのかは、まだ分からない。
彩花はその場面を読みながら、少し胸が締めつけられるような気持ちになった。
会いたいと思っているのに、会えるかどうか分からない。
その気持ちは、今の自分とは違うものだった。
彩花には、悠真と連絡を取り合える時間がある。
互いに忙しい日でも、夜になれば一日の出来事を話せることが多い。
そのことが、どれほどありがたいことなのかを、彩花は改めて感じていた。
(悠真君と話せるのって、当たり前じゃないんだよね。お互いに時間を作ってるから、こうして話せるんだ)
彩花は本を閉じ、少しだけ窓の外へ目を向けた。
今日も、悠真へ話したいことがいくつかあった。
朝に見た蕾のこと。
国語の授業で考えたこと。
文芸部で、修整理由を分かりやすくするために話し合ったこと。
どれも大きな出来事ではないが、彩花にとっては印象に残る一日だった。
夕食の時間になると、紗月が階下から声をかけてきた。
「彩花、ご飯できたわよ」
「はーい、今行くね」
彩花は本へ栞を挟み、机の上へ置いた。
階段を下りながら、今日は家族へも学校の話をしてみようと思った。
夕食の食卓では、凛花が学校であったことを楽しそうに話していた。耕助はその話へ耳を傾け、紗月は時折笑いながら相槌を打っている。
彩花も、文芸部で先生から確認事項が届いたことを話した。
「部誌の最終承認はまだなんだけど、今日は修整した理由をもう一度確認したんだ」
彩花が説明すると、耕助は頷いた。
「なるほど。文章そのものだけじゃなくて、どうして直したのかも大切なんだな」
「うん。あとから確認する人が分かるようにしておかないと、何を考えて直したのか伝わらないから」
紗月は少し感心したように微笑んだ。
「そういうところまで考えて作っているのね。完成するのが楽しみね」
「ありがとう。でも、まだ先生の確認が残ってるから、もう少しかかると思う」
彩花はそう答え、温かい料理へ箸を伸ばした。
凛花は姉の話を聞きながら、少し考えたあとに口を開いた。
「お姉ちゃんの部誌って、完成したら私も読めるの?」
「うん。どういう形で渡せるかはまだ分からないけど、完成したら見せたいな」
彩花が答えると、凛花は嬉しそうに笑った。
「楽しみにしてるね」
彩花は妹の笑顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分たちが作っているものを、誰かが楽しみにしてくれている。
そのことが、今は何より嬉しかった。
◇
同じ頃、九条家では悠真が夕食を終え、自室で学校の資料を整理していた。
今日の生徒会活動では、確認が必要な書類について話し合いが行われた。すぐに結論を出せるものもあれば、担当の先生へ確認しなければならないものも残っている。
悠真は机の上へ資料を並べ、今日確認できたことを整理していた。
書類の中には、説明が少し分かりにくい部分もあった。
悠真はその箇所へ目を向け、読み手がどこで迷うのかを考えた。
ただ、勝手に文章を書き換えることはできない。
まずは担当者へ確認し、必要なら先生へ相談することが大切だった。
(分かりやすくすることと、勝手に変えることは違うんだよね。相手が何を伝えたいのか、ちゃんと確かめないと)
悠真はそう考えながら、確認事項をメモへまとめた。
そのとき、扉を軽く叩く音がした。
「お兄ちゃん、今ちょっといい?」
琴葉の声だった。
「うん、大丈夫だよ」
悠真が答えると、琴葉は小さな箱を持って部屋へ入ってきた。
「葉っぱの作品、少し並べてみたんだ。まだ台紙は決めてないんだけど、どっちが見やすいか、お兄ちゃんにも見てほしくて」
琴葉は箱の中から、押し葉と二種類の台紙を取り出した。
淡い緑色と、少し温かみのある白色。
どちらも葉の形を引き立てる色だったが、印象は少し違っていた。
悠真は机の上を片づけ、琴葉が並べやすいように場所を空けた。
「いいよ。実際に置いてみようか」
琴葉は頷き、押し葉を慎重に台紙の上へ並べた。
淡い緑色の台紙では、葉の色が自然になじんで見える。一方、白色の台紙では、葉の輪郭が少しはっきりして見えた。
「どっちもいい感じだね」
悠真が答えると、琴葉は少し困ったように笑った。
「そうなんだよね。だから迷っちゃって」
悠真はしばらく二つを見比べた。
「琴葉は、どんなふうに見せたいの?」
「うーん。葉っぱの形がちゃんと分かるようにしたいんだけど、優しい感じにもしたいんだ」
琴葉は台紙を見つめながら、少し考えた。
「白い方は形が分かりやすいけど、緑の方も落ち着いてて好きなんだよね」
「それなら、もう少し並べ方を変えてみてもいいかもしれないね。台紙の色だけじゃなくて、葉の位置でも印象が変わりそうだから」
悠真がそう言うと、琴葉は目を輝かせた。
「そっか。じゃあ、今日は並べ方をいくつか試してみる」
琴葉は嬉しそうに頷き、台紙と押し葉を箱へ戻した。
「ありがとう、お兄ちゃん。もう少し考えてみるね」
「うん。完成するのを楽しみにしてるよ」
琴葉が部屋を出ていくと、悠真は再び机へ向き直った。
押し葉の作品も、学校の資料も、古い写真の調査も、すぐに答えが出るものばかりではない。
けれど、それぞれに考える楽しさがある。
悠真はそのことを感じながら、今日の資料を整理し終えた。
◇
夜、彩花は葉模様の日記帳を開き、今日の出来事を書き留めていた。
月曜日は学校が始まる日であり、週末とは違う忙しさがある。
それでも、今日もいくつかの小さな発見があった。
朝に見た蕾は、まだ開いていなかった。
国語の授業では、登場人物が直接言葉にしていない気持ちについて考えた。
文芸部では、修整した理由をどう伝えるか話し合った。
彩花はその一つずつを、丁寧に日記へ書いていった。
『月曜日。朝、いつもの蕾を見た。まだ咲いていなかったけれど、少し形が変わったように見えたので写真を撮った。次に見たとき、比べてみたいと思う』
彩花はペンを動かし、続きを書いた。
『国語の授業では、登場人物が言葉にしていない気持ちを考えた。文章に書かれていることと、そこから読み取ることは違う。自分の物語を書くときにも、どこまで言葉にするか考えてみたい』
書き終えた彩花は、少しだけ息を吐いた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には悠真からのメッセージが表示されていた。
『彩花さん、こんばんは。今日も一日お疲れさま。学校はどうだった?』
彩花は自然と笑顔になった。
『こんばんは、悠真君。今日もお疲れさま。私は文芸部で、部誌の修整理由について確認したよ。まだ先生の最終承認は下りてないけど、少しずつ進んでる感じがするんだ』
送信すると、ほどなくして返事が届いた。
『そうなんだね。少しずつ確認が進んでるんだ。彩花さんたちが大切に作ってるものだから、完成するのが楽しみだね』
彩花はその言葉を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
『ありがとう。悠真君は今日はどうだった?』
『俺は生徒会の資料を整理してたよ。説明が分かりにくいところがあって、担当の人に確認するためのメモを作ったんだ』
彩花は少し驚いた。
『そうなんだ。私たちも今日は、どうして文章を直したのか、理由が伝わるように考えてたの。なんだか少し似てるね』
悠真からの返事が届いた。
『本当だね。読む人に分かりやすく伝えることって、いろんな場面で大切なんだなって思うよ』
彩花はその文章を読み、静かに頷いた。
学校も違い、取り組んでいることも違う。
それでも、似たことを考える日がある。
その偶然が、彩花には嬉しかった。
『うん。今日は国語の授業でも、文章から気持ちを読み取ることについて考えたんだ。言葉って、思ってたより難しいけど、面白いね』
彩花が送ると、悠真は少し考えてから返信した。
『彩花さんは、言葉を大切にしてるんだね。前からそう思ってたけど、今日の話を聞いて、またそう感じたよ』
彩花はその言葉を読み、少しだけ頬を赤くした。
自分では、言葉を大切にしているつもりでも、いつも上手に伝えられるわけではない。
迷うこともあるし、後から別の言い方を思いつくこともある。
それでも、悠真がそう感じてくれていることは、素直に嬉しかった。
『ありがとう。でも、私もまだ迷うことが多いよ。だから、いろんな本を読んだり、考えたりしたいなって思ってる』
送信すると、悠真から穏やかな返事が届いた。
『うん。俺も同じだよ。分からないことがあるからこそ、調べたり、誰かと話したりするのが楽しいんだと思う』
彩花はその文章を読み、昨日の会話を思い出した。
写真に写っていることと、そこから想像できること。
文章に書かれていることと、そこから読み取る気持ち。
違うものを見ているようで、どこかつながっている。
彩花は少し考え、もう一つメッセージを送った。
『そうだね。私、今日の朝に蕾の写真を撮ったんだ。まだ咲いてなかったけど、次に見たとき比べられるかなって思って』
悠真からの返事は、すぐに届いた。
『写真を撮ったんだね。いいと思う。少しずつ変わっていく様子を見られるのは楽しそうだね』
彩花は微笑みながら、続けて返信した。
『うん。凛花が植物の記録を考えてたから、私もやってみたくなったの。まだ何の蕾か分からないけど、しばらく見てみようと思う』
悠真はその文章を読み、静かに微笑んだ。
彩花が小さな変化を大切にしていることは、以前から知っている。
けれど、今日のように新しいことを試してみたと聞くと、彩花の楽しそうな表情が自然と浮かんできた。
『彩花さんらしいね。次に何か変化があったら、また教えてほしいな』
彩花はその言葉を読み、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
『うん。悠真君も、街並みの写真で何か分かったら教えてね』
『もちろん。まだ調べてる途中だけど、今日も航平と少し話したんだ。分からないところを整理しながら、ゆっくり進めてるよ』
彩花はその文章を読み、静かに頷いた。
悠真も、自分の好きなことを大切にしている。
そして、そのことを自分へ話してくれる。
それが、彩花には嬉しかった。
しばらくして、二人は明日の学校のことを話し、互いにおやすみの挨拶を交わした。
彩花はスマートフォンを置き、葉模様の日記帳へ戻った。
今日の最後に、もう一つ書き加えたいことがあった。
『夜、悠真君と学校の話をした。違う学校で違うことをしているのに、似たことを考えていたのが面白かった。明日も何か小さな発見があったら、話してみたい』
彩花はその文章を読み返し、静かに微笑んだ。
明日も、特別な出来事が起こるとは限らない。
けれど、今日のように何気ない時間の中で見つけたことを、誰かと分かち合えるかもしれない。
そのことが、今の彩花には楽しみだった。
彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。
星模様の創作ノートには、まだ完成していない物語が残っている。
祖母へ手紙を書く少女の気持ちも、まだすべてが言葉になっているわけではない。
けれど、今日の国語の授業を通して、どこまで説明し、どこを読者へ委ねるのか、少し考えられるようになった気がした。
(明日は、あの文章をもう一度読み返してみようかな。少女の気持ちがちゃんと伝わるように、少しずつ考えていきたい)
彩花はそう思いながら、部屋の明かりを落とした。
九条家でも、悠真が机の上の資料を片づけ、眠る準備をしていた。
今日も、二人は別々の学校で過ごしていた。
彩花は文章を読むことと書くことについて考え、悠真は資料を整理し、古い写真の調査を少し進めていた。
それぞれの一日には、違う出来事があった。
けれど夜になれば、その中で見つけたことを、互いへ伝えたいと思う。
月曜日の夜は、静かに更けていく。
彩花の見つめる蕾は、まだ開いていない。
悠真が調べている古い写真の撮影地点も、まだ分からない。
冬の部誌『いつか、ここに』も、先生の最終承認を待っている。
そして、彩花が書いている物語も、まだ完成していない。
それでも、少しずつ進んでいることは確かだった。
何かを大切に思い、時間をかけて向き合うこと。
分からないことを、そのままにせず考えてみること。
そして、その途中で見つけた小さな発見を、誰かと分かち合うこと。
二人はまだ、その積み重ねがどこへつながっていくのかを知らない。
けれど、互いの言葉を楽しみにしながら過ごす日々は、確かに少しずつ続いていた。




