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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第152話 日曜日の古い写真と、まだ知らなかった君の好きな時間



 日曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の向こうには雲一つない青空が広がっていた。昨夜は少し遅くまで読書をしていたため、いつもよりゆっくり眠るつもりだったのだが、カーテンの隙間から差し込む明るい光に気づくと、自然と目が覚めてしまった。冬の朝らしく部屋の空気は冷たかったものの、窓際の机には柔らかな日差しが届き、星模様の創作ノートの表紙を淡く照らしていた。


 彩花は布団の中で少しだけ身体を伸ばし、昨日の出来事を思い返した。午前中には書きかけの物語を進め、午後には借りている小説を読み、夜には九条悠真と互いの好きな本について話した。特別な外出をしたわけではなかったが、一日を振り返ると、思い出したいことがいくつも浮かんでくる。


 なかでも印象に残っているのは、悠真が自分の創作について、急がなくていいと言ってくれたことだった。


 彩花は完成した物語を最初に読んでもらう約束を大切にしている。けれど、相手が楽しみにしてくれていると知るほど、早く完成させたいという気持ちが強くなることもあった。昨日の悠真の言葉は、そんな焦りを静かに和らげてくれたように感じられた。


(今日は、あの子の手紙を少し見直してみようかな。昨日はおばあちゃんの道具について考えたけど、まだ書き方を決められないところがあるんだよね)


 彩花は机の上へ目を向けたが、すぐにノートを開くことはしなかった。朝食の前に続きを書き始めると、考えているうちに時間を忘れてしまいそうだったからだ。


 制服の代わりに柔らかな色合いのセーターへ着替え、髪を整えてから階段を下りると、台所から食器を並べる音が聞こえてきた。


「おはよう、お母さん」


「あら、彩花。おはよう。今日はよく晴れたわね」


 母の紗月は食卓へ皿を運びながら微笑んだ。父の耕助はすでに席についており、新聞を読み終えたところらしく、眼鏡を外して脇へ置いている。


「お父さんも、おはよう」


「おはよう。今日は何か予定があるのか?」


「特に外出の約束はないよ。家で本を読んだり、少し書き物をしたりしようかなって思ってる」


 彩花が答えると、耕助は穏やかに頷いた。


「それなら、ゆっくりできそうだな。休みの日くらい、自分の好きなことに時間を使うのもいいだろう」


 そのとき、廊下から軽い足音が近づいてきた。妹の凛花が髪を整えながら食卓へ現れ、彩花の隣の椅子を引いた。


「おはよう、お姉ちゃん。今日も小説を書くの?」


「おはよう、凛花。うん、少しは書きたいな。でも、まだ考えてるところもあるから、今日は読み返すだけになるかもしれない」


「そっか。私も植物のこと、もう少し調べるつもりなんだ。昨日、置く場所を測ったら、考えやすくなった気がするから」


 凛花は嬉しそうに話しながら、紗月が用意した朝食へ手を伸ばした。まだ迎える植物の種類は決まっていないものの、調べること自体を楽しんでいる様子だった。


 食卓には、焼きたてのパンと温かいスープが並んでいた。彩花はスープを一口飲み、身体の内側から温まるのを感じながら、窓の外へ目を向けた。


 庭の木々はほとんど揺れておらず、朝日を受けた葉が静かに光っている。いつも学校へ向かう途中で観察している蕾は、今日は見に行く予定がない。それでも、毎日同じ場所を通らなければならないわけではないのだと思うと、少し気持ちが軽くなった。


 観察を続けることと、毎日必ず確かめることは同じではない。


 彩花はそんなことを考えながら、家族との朝食を楽しんだ。


 食事が終わる頃、紗月がふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、今日は午前中に少し棚を整理しようと思っているの。古い写真を入れた箱があるんだけど、しばらく中を確認していなくて」


 彩花は顔を上げた。


「写真の箱?」


「ええ。家族で出かけたときの写真とか、昔のアルバムから外して保管していたものとかね。捨てるつもりはないんだけど、どこに何があるのか分からなくなってきたから、一度整理しておこうと思って」


 紗月は少し困ったように笑った。


「もし時間があったら、彩花も手伝ってくれる?」


「うん、もちろん。私も見てみたいな」


 彩花が答えると、凛花も興味を示した。


「私も手伝う! 昔の写真って、見てると面白いよね。お姉ちゃんが小さい頃の写真もあるかな?」


「凛花だって、赤ちゃんの頃の写真があるかもしれないよ」


 彩花が笑うと、凛花は少し照れたように頬を膨らませた。


「それはいいけど、変な顔してる写真だったら見せないでね」


 耕助は二人のやり取りを聞きながら笑った。


「昔の写真は、今見ると意外なものが写っていることもあるからな。整理するつもりが、眺めているだけで午前中が終わるかもしれないぞ」


 その言葉に家族全員が笑い、日曜日の朝は穏やかに過ぎていった。


     ◇


 朝食の片づけを終えたあと、彩花は紗月と一緒に居間の棚を整理し始めた。


 窓際の床には柔らかな日差しが広がっており、低いテーブルの上には、紗月が取り出した箱が二つ置かれている。片方には古いアルバムが重ねられ、もう片方には封筒や写真を入れた小さな袋が収められていた。


「思ったよりたくさんあるね」


 彩花が箱を覗き込むと、紗月は少し懐かしそうに微笑んだ。


「そうなの。昔は今みたいにスマートフォンで簡単に写真を見返せなかったから、現像したものをこうして取っておいたのよ」


 彩花は母から渡されたアルバムを開いた。


 最初のページには、幼い頃の自分が写っていた。まだ背も低く、今よりずっと短い髪をしている彩花が、庭らしい場所で両手を広げて笑っている。


 写真の端には、見覚えのある父の靴が少しだけ写り込んでいた。


「これ、私?」


「そうよ。まだ小さかった頃ね。その日は庭で遊んでいて、何かを見つけたのが嬉しかったみたい」


 紗月は写真へ顔を近づけ、当時のことを思い出そうとするように目を細めた。


「何を見つけたのかまでは、もう覚えていないんだけどね」


 彩花は写真をじっと見つめた。


 幼い自分が何を見つけたのか、今となっては分からない。けれど、写真の中の自分が本当に嬉しそうに笑っていることは、はっきりと伝わってきた。


(何があったのか全部覚えてなくても、そのとき嬉しかったことは写真に残るんだね)


 彩花はページをめくり、別の写真へ目を向けた。


 そこには、まだ幼い凛花が小さな帽子をかぶり、彩花の隣に座っている姿が写っていた。二人ともカメラの方を見ているものの、凛花は少し眠そうな顔をしており、彩花はそんな妹の肩へ手を添えている。


「これ、凛花が小さい頃だね」


「ええ。彩花が隣に座りたいって言って、一緒に撮ったのよ」


 紗月が答えたところで、凛花が飲み物を持って居間へ入ってきた。


「何の写真見てるの?」


「凛花が小さい頃の写真。ほら、これ」


 彩花がアルバムを向けると、凛花は目を丸くした。


「えっ、私、こんな顔してたの? すごく眠そうなんだけど」


「この日は出かけた帰りだったから、疲れていたのかもしれないわね」


 紗月が笑うと、凛花は少し恥ずかしそうにしながらも、写真から目を離さなかった。


「でも、お姉ちゃんが隣にいるのは嬉しいな。私、こんなに小さかったんだね」


 彩花は妹の横顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 写真の中の出来事を、今の自分はほとんど覚えていない。けれど、母が話してくれる当時の様子や、妹が写真を見て笑う姿によって、その時間が少し身近に感じられた。


 凛花は彩花の隣へ座り、二人でアルバムの続きを見始めた。


 家族で出かけた公園の写真、家の中で誕生日を祝っている写真、何気ない休日の食卓を写した写真。どれも大きな出来事ではないものの、ページをめくるたびに、今とは違う家族の姿が現れた。


 彩花が一枚の写真へ目を止めたのは、少し古い庭の風景が写っていたからだった。


 そこには、今より背の低い木と、まだ新しそうな植木鉢が並んでいる。写真の中心には誰も写っておらず、庭の一角だけが切り取られていた。


「お母さん、これって、どうして撮った写真なの?」


 彩花が尋ねると、紗月は少し考えた。


「たしか、庭の配置を変えた頃だったと思うわ。あとで見返せるように撮ったんじゃなかったかしら」


「そうなんだ。誰も写ってないけど、こういう写真もいいね」


 彩花は写真を見つめながら、植木鉢の並び方や地面に落ちた影へ目を向けた。


 人物が写っていなくても、そこに誰かが暮らしていたことは伝わってくる。鉢の置き方や道具の位置には、その場所を使っていた人の考えが残っているように感じられた。


「お姉ちゃん、こういう写真が好きなの?」


 凛花が不思議そうに尋ねた。


「うん。人が写ってる写真も好きだけど、何気ない場所だけの写真も面白いなって思うの。そこにいた人が、どんなふうに過ごしてたのかなって考えられるから」


 彩花が答えると、凛花はもう一度写真へ目を向けた。


「そっか。私は最初、何で庭だけ撮ったんだろうって思ったけど、そういう見方もあるんだね」


 凛花は少し考えたあと、自分のノートを思い出したように笑った。


「じゃあ、私も植物を育て始めたら、置いた場所の写真を撮っておこうかな。あとで見返したら、最初の頃のことを思い出せるかもしれないし」


「それ、いいと思う。植物が育ったときにも、どこが変わったか分かりそうだね」


 二人は顔を見合わせて微笑んだ。


 紗月はその様子を見ながら、写真を入れた封筒を整理していた。彩花は母の手元へ視線を向け、何枚かの写真に日付が書かれていることに気づいた。


「お母さん、これって後から日付を書いたの?」


「そうね。全部じゃないけど、分かるものは書いておいたの。何年か経つと、いつ撮ったのか分からなくなることもあるから」


 紗月は封筒を一つ取り上げ、裏面に書かれた文字を見せた。


「ただ、昔のことだから、記憶だけで決めたものもあるかもしれないわね。はっきり分からない写真は、無理に日付をつけないようにしているの」


 彩花はその言葉を聞き、静かに頷いた。


 分からないことを、分からないままにしておく。


 それは、悠真が古い街並みの写真を調べるときにも大切にしていたことだった。


 彩花は母の手元の写真を見ながら、ふと悠真のことを思い出した。


(悠真君も、昔の写真を見るとき、こんなふうに細かいところまで見てるのかな。今度、写真を見ていて面白かったことを話してみたいな)


 彩花はそう考えたものの、すぐにスマートフォンを取り出すことはしなかった。今は家族と写真を整理している時間であり、その時間も大切にしたかったからだ。


 昼近くになると、テーブルの上には整理したアルバムと封筒が並んでいた。すべてを確認できたわけではないが、どの箱に何が入っているかは、以前より分かりやすくなった。


 紗月は写真を元の場所へ戻しながら、満足そうに微笑んだ。


「ありがとう、二人とも。思ったより進んだわ」


「私も楽しかったよ。小さい頃の写真って、見てると不思議な気持ちになるね」


 彩花が答えると、凛花も頷いた。


「うん。お姉ちゃんの昔の写真、もっと見たくなっちゃった」


「凛花の写真も、まだたくさんあったよ」


 彩花が笑うと、凛花は少し照れながらも、楽しそうに笑い返した。


 写真の整理は、ただ物を片づけるだけの時間ではなかった。


 忘れていた家族の姿を見つけ、知らなかった出来事を聞き、今の自分たちがどこから続いているのかを少しだけ感じられる時間だった。


 彩花は箱を棚へ戻しながら、そのことを心の中へ大切にしまった。


     ◇


 同じ頃、九条家では悠真が父の正樹と話していた。


 午前中、悠真は自室で本を読んだあと、庭へ出てハクと少し遊んでいた。白いサモエドは寒さを気にする様子もなく、庭をゆっくり歩き回っていたが、しばらくすると悠真の足元へ戻り、撫でてほしそうに顔を上げた。


 悠真がハクの首元を撫でていると、家の中から正樹が声をかけてきた。


「悠真、少し時間はあるか?」


「うん。どうしたの、お父さん」


「昔の街並みの写真について、前に話していただろう。少し気になったことがあってな」


 悠真はハクの背中を軽く撫でてから立ち上がった。正樹は書斎から一冊の本を持ってきており、表紙には古い街路の写真が使われていた。


「仕事の資料を整理していたら、以前読んだ本が出てきたんだ。青凪市の写真そのものが載っているわけではないが、昔の街並みを調べるときの考え方が書かれている」


 悠真は本を受け取り、表紙へ目を向けた。


「ありがとう。少し見てもいい?」


「もちろん。ただ、今調べている写真の答えが載っているわけじゃないから、そのつもりで読んでくれ」


 正樹は穏やかに笑った。


 悠真は父と一緒に居間へ移動し、窓際のテーブルで本を開いた。ハクも二人の後をついてきたが、やがて暖かな場所を見つけると、そこへ身体を横たえた。


 本には、古い街並みを調べる際、建物の位置だけでなく、道路の幅や周囲の地形、撮影された時期などを合わせて考えることが大切だと書かれていた。悠真はページをめくりながら、航平と進めている調査を思い出した。


「俺たちが見ている写真も、撮影された時期と地図の年代が違うんだ。だから、建物の位置だけで判断できなくて」


 悠真が説明すると、正樹は頷いた。


「それなら、なおさら慎重に見た方がいいだろうな。古い写真は、写っているものだけでなく、写っていないものにも注意が必要だ」


「写っていないもの?」


「例えば、地図には載っていても、写真では建物の陰になって見えないものがあるかもしれない。逆に、写真に写っているものが、地図を作った時点では存在していなかった可能性もある。資料ごとに分かる範囲が違うんだ」


 悠真はその言葉を聞き、しばらく考えた。


 航平と調べている写真には、端の方に小さなものが写っている。看板なのか、何かの設備なのかは分からないが、これまでは、その正体を確かめることが撮影地点を判断する手がかりになるかもしれないと考えていた。


 けれど、そのものが写真の撮影時点にしか存在しなかった可能性もある。


(そうか。今ある資料に見つからないからって、当時もなかったとは限らないんだね。写真と地図を比べるとき、そこも気をつけないといけないな)


 悠真は本の該当するページを読み返した。


「お父さん、ありがとう。すぐに答えが分かるわけじゃないけど、今までと少し違うところも見られそうだよ」


「それならよかった。調べ物は、結論を出すことだけが目的じゃないからな。何が分からないのかを正しく知ることも、大切なことだと思う」


 正樹はそう言いながら、息子の表情を見た。


 悠真は昔から本を読むことが好きだったが、最近は読んだ内容を誰かと話し合うことにも楽しさを感じているようだった。正樹はその変化を嬉しく思いながらも、無理に理由を尋ねることはしなかった。


「ところで、その写真の調査は森川君と一緒に進めているんだったな」


「うん。航平が資料を整理してくれてるんだ。撮影地点の候補を二つに分けて、分かっていることと分からないことを表にしてくれたよ」


「いい友人だな。お互いに違うところへ目を向けられるなら、一人で調べるより見つかるものも多いだろう」


 悠真は嬉しそうに頷いた。


「そうだね。航平は俺が見落としていたところに気づくこともあるし、話していると考えが整理できるんだ」


 正樹はその答えを聞き、満足そうに微笑んだ。


 悠真は本を閉じると、父へ礼を言い、もう少し自分の部屋で読んでみたいと伝えた。正樹は快く頷き、必要ならしばらく借りていてもいいと言ってくれた。


 自室へ戻る途中、悠真は窓の外へ目を向けた。


 庭の木々には小さな芽がついているが、まだ開いていない。冬の空気は冷たいものの、日差しの当たる場所には穏やかな明るさがあった。


 悠真は父から借りた本を机へ置き、航平と共有するためのメモを開いた。


 ただし、今すぐ結論を書き換えるつもりはなかった。


 今日読んだ内容は、あくまで調査するときの考え方であり、青凪市駅前の写真について新しい事実が判明したわけではないからだ。


 悠真はメモの余白へ、資料の年代差と、写真に写っていないものについても注意することを書き加えた。


 そのあと、少しだけ椅子の背もたれへ身体を預けた。


(彩花さんも、こういう話を面白いって思ってくれるかな。前に一緒に街並みの本を見たとき、写真に写ってる人の暮らしにも興味を持ってくれてたんだよね)


 悠真は彩花と中央図書館で過ごした時間を思い出し、自然と微笑んだ。


 同じ写真を見ても、気になるところは人によって違う。


 自分は建物の配置や年代へ目が向きやすいが、彩花はその場所で暮らしていた人の気持ちや、何気ない日常にも目を向けていた。


 その違いが、悠真には面白かった。


 自分だけでは思いつかなかった見方を知ることで、同じものが少し違って見えるようになる。


 それは、彩花と話す時間の中で何度も感じてきたことだった。


     ◇


 午後、水瀬家では写真の整理を終えた彩花が、自室で創作ノートを開いていた。


 机の上には、午前中に見た古い写真のことを思い出して書いたメモが置かれている。家族のアルバムを見ているうちに、写真には写っているものだけでなく、撮影した人の気持ちや、その場にいた人の記憶も関わっているのだと感じた。


 彩花はそのことを、書きかけの物語へどう生かせるか考えていた。


 祖母へ手紙を書こうとしている少女は、庭の花を見ながら、以前一緒に過ごした時間を思い出している。けれど、その記憶はすべてが鮮明なわけではないだろう。


 何を話したのか、どんな順番で庭仕事をしたのか、細かなことは忘れているかもしれない。


 それでも、祖母が道具を持つ手つきや、庭で過ごしたときの空気は覚えている。


(全部を正確に覚えている必要はないのかもしれないね。覚えていることと、もう思い出せないことが一緒にある方が、その子らしい気がする)


 彩花は午前中に見た写真を思い出した。


 幼い自分が庭で笑っている写真。


 何が嬉しかったのかは分からないが、そのとき確かに笑っていたことは残っている。


 その感覚を、少女の記憶にも少し取り入れられるかもしれなかった。


 彩花は以前書いた文章を読み返し、園芸道具についての段落へ目を向けた。


『道具の柄には、小さな傷がいくつも残っていました。おばあちゃんは使い終わるたびに丁寧に土を落としていたのに、持ち手の隙間だけは、いつも少し茶色いままでした。私はそれを不思議に思って、どうして全部きれいにしないのかと尋ねたことがあります。』


 その続きに、祖母が何と答えたのかを書くつもりだった。


 けれど、今日の彩花は少し違うことを考えていた。


 少女は、そのときの返事を本当に覚えているのだろうか。


 もしかすると、祖母が笑ったことだけは覚えていて、何と答えたのかは思い出せないのかもしれない。


 彩花はペンを持ち、新しい文章を書き始めた。


『けれど、そのときおばあちゃんが何と答えたのか、今の私には思い出せません。ただ、私の質問を聞いたおばあちゃんが、少し困ったように笑っていたことだけは覚えています。あの笑顔を思い出すたびに、私はもう一度、同じことを尋ねてみたくなるのです。』


 書き終えた彩花は、しばらくその文章を見つめた。


 以前は、祖母の言葉をきちんと決めなければ、物語が進まないように感じていた。


 けれど、少女が答えを覚えていないことにも意味があるのかもしれない。


 思い出せないからこそ、もう一度尋ねたい。


 その気持ちが、手紙を書こうとする理由の一つになることもある。


(これなら、少女がどうして手紙を書きたいのか、少し分かる気がする。まだ全部は決まってないけど、前よりもこの子の気持ちに近づけたのかな)


 彩花は胸の奥に小さな手応えを感じた。


 ただし、すぐに完成だと思うことはできなかった。物語の前半と後半が自然につながっているか、少女の気持ちが急に変わっていないか、まだ読み返したいところが残っている。


 それでも、今日は新しい文章を一つ書くことができた。


 しかも、そのきっかけは、午前中に家族と古い写真を見たことだった。


 彩花はペンを置き、窓の外へ目を向けた。


 日曜日の午後は穏やかに過ぎており、住宅街には遠くから子どもたちの声が聞こえてくる。学校のある日とは違い、時間に追われず考えられることが、今はありがたかった。


 そのとき、扉を軽く叩く音がした。


「お姉ちゃん、今ちょっといい?」


 凛花の声だった。


「うん、大丈夫だよ」


 彩花が答えると、凛花はノートを抱えて部屋へ入ってきた。


「さっきの写真、面白かったね。私、植物を育て始めたら、最初の写真をちゃんと撮っておこうと思ったんだ」


「うん。あとで見返したときに、変化が分かると楽しそうだよね」


 彩花が答えると、凛花は嬉しそうに頷いた。


「それでね、写真だけじゃなくて、その日に何をしたかも書いておこうかなって。水をあげた日とか、葉っぱが増えた日とか」


 凛花はノートを開き、考えている記録の形を見せた。


 そこには日付を書く欄と、植物の様子を記録する欄が用意されていた。まだ実際に植物を迎えたわけではないため、記録は空白のままだったが、凛花が楽しみにしていることは十分に伝わってきた。


「すごいね。ちゃんと考えてるんだ」


「えへへ。でも、まだ植物を決めてないのに、先にノートだけ作っちゃった」


 凛花は少し照れくさそうに笑った。


 彩花はその表情を見て、自然と微笑んだ。


「いいと思うよ。準備してる時間も楽しいもんね」


「うん。お姉ちゃんも、小説を書いてるときってそうなの?」


 思いがけない質問に、彩花は少し考えた。


 書いている時間がいつも楽しいわけではない。思うように言葉が出てこなかったり、登場人物の気持ちが分からなくなったりすることもある。


 けれど、考えていたことが少しずつ文章になったときには、確かな嬉しさがある。


「そうだね。迷うこともあるけど、書きたいことが形になったときは嬉しいよ。今日も、少しだけ新しいところを書けたんだ」


 彩花が答えると、凛花は目を輝かせた。


「本当? じゃあ、完成に近づいたんだね」


「うん。でも、まだ読み返したいところもあるから、もう少しかかると思う」


 凛花は頷き、星模様のノートへちらりと目を向けた。


「そっか。じゃあ、完成したら教えてね。私も楽しみにしてるから」


「ありがとう、凛花」


 彩花はそう答えながら、妹が自分の作品を楽しみにしてくれていることを嬉しく思った。


 凛花はノートを抱えて部屋を出ていき、彩花は再び机へ向き直った。


 創作ノートには、まだ途中の物語が残っている。


 けれど、今日は少女の気持ちについて、一つ新しいことを考えられた。


 彩花はそのことを大切にしながら、ノートを閉じた。


     ◇


 夕方、九条家では悠真がハクの散歩へ出かけていた。


 冬の空は少しずつ橙色を帯び、住宅街の道には長い影が伸びている。ハクは慣れた道を落ち着いて歩き、ときどき道端の匂いを確かめながら、悠真の隣へ戻ってきた。


 悠真はリードを持ち直し、周囲の様子を確かめながら歩いた。


 今日は父から借りた本を読み、昔の街並みの調査について新しい見方を知ることができた。写真そのものの謎が解けたわけではないが、資料を比べるときに注意することが増えたのは、意味のある進展だったと思う。


 ハクが道の端で立ち止まったため、悠真も足を止めた。


 近くの家の庭には、小さな鉢植えが並んでいる。何の植物なのかは分からなかったが、夕方の光を受けた葉が柔らかく輝いていた。


(彩花さんなら、こういうところにも気づくのかな。前に一緒に歩いたときも、何気ない場所を楽しそうに見てたんだよね)


 悠真は彩花と過ごした時間を思い出し、静かに微笑んだ。


 今夜も、互いの一日を話せたら嬉しい。


 ただし、今日は彩花がどんなふうに過ごしていたのか、まだ知らない。


 家で本を読んでいたのかもしれないし、創作を進めていたのかもしれない。家族と出かけていた可能性もある。


 そのどれであっても、彩花が自分の時間を楽しめていたらいいと思った。


 ハクが再び歩き始めたため、悠真もゆっくりと足を進めた。


 帰宅すると、玄関では琴葉が出迎えてくれた。


「お兄ちゃん、おかえり。ハクもお疲れさま」


「ただいま。今日は落ち着いて歩いてくれたよ」


 悠真が答えると、琴葉はハクの頭を優しく撫でた。


「そうだ、お兄ちゃん。台紙の色、少し考えたんだけど、まだ決めきれなくて」


 琴葉は少し困ったように笑った。


「でも、前よりどんな感じにしたいかは分かってきた気がするんだ。葉っぱの形がちゃんと見えるようにしたいから、実際に並べて比べてみようと思って」


「うん。それがいいと思う。琴葉が気に入る形にできるといいね」


 悠真が答えると、琴葉は嬉しそうに頷いた。


「完成したら、彩花さんにも見てもらいたいな」


「そうだね。きっと喜んでくれると思うよ」


 悠真はそう言いながら、妹の表情を見つめた。


 琴葉も、自分の好きなものを大切にしながら、少しずつ形にしようとしている。


 彩花が物語を書いていることと、どこか似ているように感じられた。


 ただし、二人が作っているものは違う。


 琴葉は葉を使った作品を、彩花は言葉で描く物語を、それぞれ自分の考えで完成させようとしている。


 悠真はその違いも含めて、どちらも楽しみに思っていた。


     ◇


 夜、水瀬家では夕食を終えた彩花が、自室で葉模様の日記帳を開いていた。


 今日の出来事を振り返ると、朝から家族と過ごした時間が思い出された。


 古いアルバムを見たこと。


 幼い頃の自分や凛花の写真を見つけたこと。


 庭だけを写した写真が、思いがけず印象に残ったこと。


 そして、その経験が、書きかけの物語を考えるきっかけになったこと。


 彩花は一つずつ丁寧に書き留めた。


『日曜日。今日は家族で古い写真を整理した。小さい頃の自分や凛花の写真がたくさんあって、見ているだけで楽しかった。何をしていたのか覚えていない写真もあったけれど、そこに写っている表情を見ていると、そのときの気持ちを想像したくなった』


 彩花は少し考えてから、続きを書いた。


『午後は創作ノートを進めた。少女が昔のことを全部覚えているわけではない、という書き方を考えたら、少し自然になった気がする。まだ完成ではないけれど、今日の経験が物語につながったことが嬉しかった』


 書き終えると、彩花はペンを置いた。


 そのとき、スマートフォンが小さく震えた。


 画面には悠真からのメッセージが表示されていた。


『彩花さん、こんばんは。今日はどんな一日だった? 俺は家で本を読んだり、ハクと散歩したりしていたよ』


 彩花は自然と笑顔になった。


『こんばんは、悠真君。今日はね、家族で古い写真を整理したの。小さい頃の写真がたくさん出てきて、すごく面白かったよ』


 送信すると、ほどなくして返事が届いた。


『古い写真を整理したんだね。どんな写真があったの?』


 彩花は少し考え、今日印象に残ったことを伝えることにした。


『私や凛花が小さい頃の写真とか、家族で出かけたときの写真があったよ。それから、誰も写っていない庭の写真もあったの。何気ない場所だけの写真なのに、そこにいた人のことを想像できるのが面白かったな』


 悠真からの返事は、少し間を置いて届いた。


『それ、すごく分かる気がする。俺も今日は昔の街並みについての本を読んでいて、写真に写っているものから当時の暮らしを考えていたんだ』


 彩花はその文章を読み、思わず微笑んだ。


 昨日も、二人は別々の本を読みながら、少し似たことを考えていた。


 そして今日も、別々の場所で過ごしていたのに、写真を通して人々の暮らしを想像していた。


『本当だね。悠真君も写真のことを考えてたんだ。なんだか、また少し似たことをしてたみたいで嬉しいな』


『俺も嬉しいよ。今日は父から古い街並みの本を借りたんだけど、写真を見るときの考え方が少し増えた気がするんだ』


 彩花はその言葉を読み、興味を持った。


『どんなことが書いてあったの? よかったら聞いてみたいな』


 悠真は少し考えてから、丁寧に返信した。


『昔の写真を調べるときは、写っている建物だけじゃなくて、撮影された時期や周囲の地形も合わせて考えることが大切なんだって。それから、写真に写っていないものが、当時存在しなかったとは限らないっていう話も面白かったよ』


 彩花はその文章を読み、今日見た家族の写真を思い出した。


 庭だけを写した写真には、誰も写っていなかった。


 けれど、そこに家族が暮らしていたことは確かだった。


『そうなんだね。今日見た庭の写真も、人は写ってなかったけど、そこに家族がいたんだよね。写真に写ってないことまで考えるのって、面白いな』


 送信すると、悠真からすぐに返事が届いた。


『うん。彩花さんの話を聞いて、俺もそう思ったよ。写真に残っているものと、そこから想像できることは、少し違うんだろうね』


 彩花はその言葉を読み、静かに頷いた。


 写真に写っていることは確かでも、そこから想像することがすべて正しいとは限らない。


 けれど、想像すること自体には楽しさがある。


 それは、物語を書くときにも似ているのかもしれなかった。


(悠真君は、こういう話をちゃんと一緒に考えてくれるんだよね。私が面白いと思ったことを伝えると、また違う見方を教えてくれるから、話していて楽しいな)


 彩花は少し考え、もう一つメッセージを送った。


『悠真君と話してると、同じものでも違う見方ができるんだなって思うよ。今日の写真のことも、また少し面白く感じられた気がする』


 悠真からの返事が届くまで、彩花は机の上の創作ノートへ目を向けた。


 今日書いた少女の物語には、まだ完成していない部分がある。


 けれど、今夜の会話を通して、記憶や写真について考えることが、また少し楽しくなった。


 スマートフォンが震え、悠真からの文章が表示された。


『ありがとう。俺も彩花さんと話していると、自分だけでは気づかなかったところを見つけられるよ。だから、こうして一日のことを話せる時間が好きなんだと思う』


 彩花はその言葉を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 悠真は以前から、彩花と話す時間を大切に思っていると伝えてくれていた。


 けれど、こうして具体的に、どんなところが好きなのかを聞けると、また違う嬉しさがあった。


 彩花は少しだけ頬を赤くしながら、返信を打った。


『私もだよ。悠真君がどんなことを面白いって思うのか、聞くのが好き。これからも、いろんな話ができたら嬉しいな』


 送信したあと、彩花はスマートフォンを胸元へ寄せ、ゆっくりと息を吐いた。


 自分の気持ちを言葉にすることは、今でも少し照れくさい。


 けれど、悠真と話していると、その照れくささも嫌ではなかった。


 むしろ、伝えたあとに返ってくる言葉が楽しみになっている。


 それは、以前の自分にはなかった感覚だった。


 九条家の自室で、悠真は彩花から届いたメッセージを読み、静かに微笑んでいた。


 彩花は、自分が何を面白いと思うのかを聞くのが好きだと言ってくれた。


 その言葉が、悠真には嬉しかった。


 これまで、好きな本や昔の街並みについて話すことはあっても、相手がそこまで興味を持って聞いてくれるとは限らなかった。航平とは調査の話をすることが多く、互いに意見を出し合う時間が楽しい。一方、彩花とは、調査の結論だけでなく、そこから感じたことまで話せる。


 どちらも悠真にとって大切な時間だったが、彩花との会話には、少し違う温かさがあった。


(彩花さんは、俺が何を好きなのかまで知ろうとしてくれるんだね。俺も、彩花さんの好きなものをもっと知りたいな)


 悠真は机の上の淡い青色の花模様のカードへ目を向けた。


 そこには、彩花から贈られた大切な言葉が残っている。


『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』


『悠真君と話す時間が、私は好きです。』


 悠真はその文字を見つめながら、今日の会話を思い返した。


 彩花は家族と古い写真を整理し、そこに写っている人々の記憶や暮らしについて考えていた。


 自分は父から借りた本を読み、昔の街並みを調べるときの見方を少し増やすことができた。


 別々の場所で過ごしていたにもかかわらず、夜になって話してみると、思いがけない共通点が見つかった。


 そのことが、悠真には嬉しかった。


 悠真はスマートフォンを手に取り、返信を打った。


『うん。俺も、これからいろんな話をしたいな。彩花さんが好きな本のことも、日常で見つけたことも、また聞かせてほしい』


 送信すると、ほどなくして彩花から返事が届いた。


『もちろん。悠真君も、今日みたいに面白いことを見つけたら教えてね』


 悠真はその文章を読み、自然と笑顔になった。


 次に会う日時を決めたわけではない。


 けれど、また話したいことが一つ増えた。


 それだけで、明日からの一週間が少し楽しみになる。


 悠真はスマートフォンを置き、父から借りた本へ目を向けた。


 明日からはまた学校が始まり、生徒会の仕事もある。航平と進めている駅前写真の調査についても、今後少しずつ確認を続けるつもりだった。


 ただし、写真の撮影地点はまだ二つの候補が残っており、結論は出ていない。


 そのことを焦る必要はないと、悠真は思っていた。


 分からないことを一つずつ確かめる時間も、調査の大切な一部だからだ。


 彩花も、きっと自分の物語を同じように大切にしているのだろう。


 悠真はそのことを思いながら、部屋の明かりを少し落とした。


     ◇


 彩花は悠真とのやり取りを終えたあと、葉模様の日記帳へ戻っていた。


 今日の最後に、もう一つ書き加えたいことがあった。


『夜、悠真君と写真の話をした。悠真君も今日は昔の街並みについての本を読んでいたらしい。写真に写っていることと、そこから想像できることは違うという話が面白かった。悠真君が何を好きなのか、どんなことを考えているのかを聞く時間が、私は好きなんだと思った』


 彩花はその文章を読み返し、少しだけ頬を赤くした。


 日記帳には、誰かに見せるためではない、自分だけの言葉が残っている。


 それでも、今日書いた気持ちは、いつか悠真へ直接伝えられたらいいと思った。


 ただ、今すぐすべてを言葉にする必要はない。


 互いの好きなものを知り、少しずつ気持ちを伝え合う時間を、今は大切にしたかった。


 彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。


 星模様の創作ノートには、今日書いた新しい文章が残っている。


 少女が祖母の言葉を思い出せないこと。


 それでも、祖母の笑顔だけは覚えていること。


 そして、もう一度同じことを尋ねてみたいと思っていること。


 その気持ちが、手紙を書く少女の中でどのようにつながっていくのか、彩花自身にもまだ分からない部分がある。


 けれど、今日の経験を通して、少しだけ物語の輪郭がはっきりしたように感じられた。


(明日からまた学校だけど、少しずつ書いていけたらいいな。完成したら悠真君に読んでもらう約束もあるし、ちゃんと大切にしたい)


 彩花はそう考えながら、窓のカーテンを閉めた。


 夜の住宅街には静かな明かりが点在し、遠くから車の走る音がかすかに聞こえている。


 明日は月曜日だ。


 青葉高校ではいつもの授業があり、文芸部の冬の部誌『いつか、ここに』についても、先生からの最終承認を待つ状況が続いている。


 通学路の蕾は、金曜日に見たときにはまだ開いていなかった。明日の朝、どのような様子になっているのかは、実際に見てみなければ分からない。


 借りている小説の幼なじみたちも、まだ再会していない。


 けれど、彩花はそのどれも、急いで結末を知りたいとは思わなかった。


 続きを楽しみにできること。


 まだ知らないことがあること。


 そして、いつか誰かとその先を話せること。


 それらが今の自分にとって、以前よりずっと大切になっていると感じていた。


 彩花は部屋の明かりを落とし、布団へ入った。


 九条家でも、悠真が読書灯を消し、静かな夜の中で眠りにつこうとしていた。


 二人は今日も、同じ場所で過ごしたわけではない。


 彩花は家族と古い写真を整理し、悠真は父から借りた本を読んでいた。


 それぞれの時間の中で、違うものを見つけ、違うことを考えていた。


 けれど夜になれば、その一日の中で見つけたものを、互いへ伝えたいと思う。


 彩花の書きかけの物語は、まだ悠真の手元には届いていない。


 悠真が調べている古い写真の謎も、まだ解けていない。


 それでも、二人が互いの好きなものを大切に思う気持ちは、少しずつ深まっていた。


 日曜日の夜は、穏やかに更けていく。


 それぞれの大切な時間を過ごしながら、二人はまた少しだけ、相手の好きなものを知ることができた。


 そして、その小さな積み重ねが、次に言葉を交わす時間を、今までよりも楽しみなものにしていた。

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