第151話 土曜日の書きかけの手紙と、君にまだ話していない好きなもの
土曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたのは、いつもより少し遅い時間だった。カーテンの隙間から差し込む冬の日差しが、ベッドの脇に置いた小さな棚を照らしており、窓の向こうでは鳥の鳴き声が聞こえている。学校へ行く日のように急いで支度をする必要がないことを思い出すと、彩花は布団の中でゆっくりと身体を伸ばし、枕元の時計へ目を向けた。
机の上には、昨夜閉じた星模様の創作ノートが置かれていた。その隣には葉模様の日記帳があり、二冊の間には、昨日の帰り道で使った小さなメモ帳が挟まっている。どれも彩花にとって大切なものだったが、書き込む内容も、開くときの気持ちも少しずつ違っていた。
日記帳には、自分が経験したことや、その日に感じたことを残している。メモ帳には通学路で見つけた植物の変化や、忘れたくない小さな発見を書き留めていた。そして星模様の創作ノートには、自分ではない誰かの気持ちを想像しながら、まだ見たことのない物語を少しずつ形にしている。
(今日は時間があるから、あの子の手紙をもう少し考えてみようかな。書きたいことは増えてきたけど、最後までちゃんとつながっているかは、まだ自信がないんだよね)
彩花はベッドから出ると、窓際へ歩いてカーテンを開けた。庭には朝日が差し込み、植木の葉の上に残っていた小さな水滴が光を反射している。学校へ向かう途中で見ている蕾とは別の植物だったが、以前なら何気なく通り過ぎていた景色にも、最近は自然と目が向くようになっていた。
その変化には、九条悠真と出会ったことも関係しているのだと思う。図書館で一緒に本を選び、植物や昔の街並みについて話すうちに、自分が好きだったものを、以前よりも丁寧に見つめるようになった。
彩花は机へ向かい、創作ノートの表紙へ指先を置いた。すぐに開こうとして、けれど階下から食器の触れ合う音が聞こえてきたため、先に朝食を済ませることにした。
ノートを閉じたままにしても、書きたい気持ちが消えるわけではない。むしろ、少し離れてから戻ってきた方が、見えてくるものもあるかもしれなかった。
階段を下りると、台所から焼いたパンと温かいスープの香りが漂ってきた。母の紗月が食卓へ皿を運んでおり、父の耕助は窓際の椅子に座って新聞を読んでいる。妹の凛花はテーブルの端で小さなノートを開き、何かを書き込んでいた。
「おはよう。みんな、もう起きてたんだね」
「おはよう、お姉ちゃん。今日はゆっくりだったね」
凛花が顔を上げて笑うと、彩花も笑顔で頷いた。平日の朝なら先に出かける準備をしている時間だが、今日は家族全員が落ち着いて食卓を囲めそうだった。
「昨日、少し遅くまで本を読んでたからかな。凛花は朝から何を書いてるの?」
「この前から考えてる植物のこと。種類によって育て方が違うから、気になったものを分けて書いてみたんだ」
凛花はノートを少し持ち上げたものの、まだ整理の途中だからと照れくさそうに笑った。彩花は妹の向かいに座り、紗月から受け取ったスープへ息を吹きかけながら、その様子を眺めた。
「前よりずいぶん調べたんだね。置く場所はもう決めたの?」
「ううん。そこはまだ。日当たりがいい場所でも、冬の窓際は冷えることがあるみたいだし、植物を決めてから考えようと思ってる」
凛花はノートの端を指で押さえ、少しだけ眉を寄せた。迷っていることを困っているようには見せなかったが、できれば失敗したくないという気持ちは、その丁寧な書き込みから伝わってくる。
「私、最初は葉っぱの形が可愛いものがいいなって思ってたんだけど、調べてるうちに、ちゃんと育てられるかも大切だなって思ったんだよね」
「うん。見た目が好きっていう気持ちも大事だし、育てられるか考えるのも大事だと思う。どっちかだけで決めなくてもいいんじゃないかな」
彩花が答えると、凛花は少し考えてから頷いた。耕助も新聞を畳み、二人の会話へ耳を傾けていた。
「実際に置く場所を測ってみるのもいいかもしれないな。大きさが分かれば、候補も少し絞れるだろう」
「それ、いいかも。お父さん、あとでメジャー借りてもいい?」
「もちろん。使うときは声をかけてくれ」
凛花は嬉しそうに返事をして、ノートへ短く書き加えた。その姿を見ながら、彩花は自分が物語を書くときにも、似たようなことをしていると気づいた。
書きたい場面を思いついても、それが物語全体の中で自然につながるとは限らない。好きな言葉だから残したいと思うこともあれば、そこへ至るまでの出来事が足りず、いったん書き直した方がいいと感じることもある。
(凛花は植物を育てるために、ちゃんと置く場所まで考えてるんだね。私も、あの子がどうして手紙を書こうと思ったのか、もう少し丁寧に考えたいな)
紗月が温かい飲み物を注ぎ足してくれたため、彩花は礼を言ってカップを受け取った。窓の外では風がほとんどなく、庭の枝が朝日に照らされている。家族の話し声と食器の音に包まれながら、彩花は久しぶりに時間を気にせず朝食を楽しんだ。
食事が終わると、凛花は耕助からメジャーを借り、植物を置く候補の場所を確かめ始めた。彩花も少しだけ手伝うことになり、二人で窓際の棚や部屋の隅を見ながら、鉢を置いたときに邪魔にならないかを考えた。
ただ、今は植物の種類も鉢の大きさも決まっていない。彩花は凛花と相談し、測った数字を参考として残すだけにして、置き場所を確定するのは後日にすることにした。
「お姉ちゃん、ありがとう。私、一人で考えてると、いつの間にか全部決めなきゃって思っちゃうんだよね」
「私もそういうことあるよ。だから、今決めなくていいところは、あとで考えてもいいんじゃないかな」
彩花が笑うと、凛花も安心したように笑い返した。妹がノートを抱えて自室へ戻っていくのを見送ってから、彩花は二階へ向かった。
部屋へ戻ると、朝よりも日差しが高くなっていた。机の上の創作ノートを開き、最初のページに書いた二行を読み返す。
『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』
『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』
何度も読み返してきた文章だったが、今日は少し違う気持ちで目を通した。最初に書いたときには、少女が庭の変化を祖母へ伝えようとする姿を思い浮かべていたが、今は、その少女がなぜ小さな違いを見つけるようになったのかが気になっている。
祖母と一緒に庭仕事をしていた頃、少女は何を見ていたのだろう。花が咲いたときだけ喜んでいたのか、それとも祖母が土に触れる手つきや、道具を片づける順番まで覚えていたのか。
彩花はページをめくり、以前書いた場面を読み返した。そこには、少女が古い園芸道具を手に取る場面がある。使い込まれた柄には細かな傷が残り、隙間には洗っても落ちきらなかった土が入り込んでいる。
その道具を見つめる少女の気持ちは、まだ十分に書けていなかった。
(おばあちゃんが大切にしていたものだから、少女も大切に思ってる。それだけでも間違いじゃないけど、もう少し、その子自身の記憶が必要なのかな)
彩花はペンを持ち、ノートの余白へ思いついたことを書き出した。祖母が庭仕事を終えたあと、道具をきれいにしていたこと。少女が手伝おうとしても、うまく土を落とせなかったこと。そんな小さな失敗を、祖母が笑って受け止めてくれたかもしれないこと。
ただし、それらをすべて物語へ入れる必要があるとは限らない。彩花は一つずつ眺め、少女の記憶として自然に残りそうなものを探した。
しばらく考えた末、彩花は新しい段落を書き始めた。
『道具の柄には、小さな傷がいくつも残っていました。おばあちゃんは使い終わるたびに丁寧に土を落としていたのに、持ち手の隙間だけは、いつも少し茶色いままでした。私はそれを不思議に思って、どうして全部きれいにしないのかと尋ねたことがあります。』
そこまで書いて、彩花はペンを止めた。
少女が祖母に尋ねたとき、どんな返事があったのだろう。すぐに思いついた言葉を書き込もうとしたが、それが祖母らしい返事なのか、まだ自信が持てなかった。
彩花は椅子の背もたれへ身体を預け、窓の外へ目を向けた。庭には冬の穏やかな光が差し込み、遠くで車が通り過ぎる音が聞こえている。
(ここは、もう少し考えたいな。おばあちゃんの言葉を急いで決めると、少女が何を覚えていたのかまで変わっちゃいそうだから)
彩花は新しい文章の横へ小さく印をつけ、続きを保留にした。物語は完成に近づいているようで、まだ大切な部分が残っている。
それでも、今日は少女の記憶を一つ具体的に考えることができた。そのことが嬉しく、彩花は書いたばかりの段落をもう一度読み返した。
悠真に見せるのは、完成してからと約束している。
その約束を思い出すと少し緊張したが、以前のように、早く完成させなければという気持ちばかりが先に立つことはなかった。
自分が納得できる形にしてから読んでもらいたい。そう思えることも、悠真が自分の好きなものを大切にしてくれているからなのかもしれなかった。
彩花は創作ノートを閉じ、午前中の作業を終えることにした。
同じ頃、九条家では、悠真が庭に面した廊下でハクと過ごしていた。
白いサモエドのハクは、朝の散歩を終えて満足したのか、陽の当たる場所に身体を横たえている。ふさふさとした尻尾が床の上へ広がり、悠真が近づくと、顔を上げてゆっくりと尻尾を振った。
「今日はここが気に入ったんだね。朝は少し寒かったけど、日が当たると気持ちいいのかな」
悠真がしゃがんで首元を撫でると、ハクは目を細めて身体を寄せてきた。大きな身体を遠慮なく預けられ、悠真は少し笑いながら姿勢を直した。
廊下の向こうから、妹の琴葉が顔を覗かせた。
「お兄ちゃん、ハク、またそこにいるの?」
「うん。散歩から帰ってきてから、ずっとここが気になるみたいだよ」
琴葉は近づいてハクの隣へしゃがみ、白い毛並みへそっと手を伸ばした。ハクは二人に囲まれても落ち着いたままで、時折、撫でている手の方へ鼻先を向けている。
「いいなあ、ハクは。暖かいところを見つけるのが上手だよね」
「確かに。俺たちより、家の中の暖かい場所をよく知ってるかもしれないね」
悠真が答えると、琴葉は楽しそうに笑った。そのあと、何かを思い出したように顔を上げた。
「そうだ、お兄ちゃん。押し葉の台紙のことなんだけど、まだ迷ってるんだよね。薄い緑も可愛いし、生成りも葉っぱがきれいに見える気がして」
琴葉は以前から、集めた葉を使った作品を作ろうとしていた。台紙の色を決めきれずにいることは悠真も知っていたが、本人が納得するまで考えたいようだったため、急かすことはしていない。
「実際に葉を重ねてみたら、見え方が分かるかもしれないね。まだ貼らずに、色だけ比べてみるのはどうかな」
「それ、やってみようかな。でも、葉っぱを何度も触って傷めないようにしないとね」
琴葉はそう言いながら、ハクの背中を優しく撫でた。悠真は妹の慎重な様子を見て、自然と微笑んだ。
「完成したら、彩花さんにも見てもらいたいんだよね」
「うん。前に話したとき、植物のことも好きそうだったし。きっと、葉っぱの形とかもちゃんと見てくれると思うんだ」
琴葉の言葉に、悠真は土曜日に中央図書館で過ごした時間を思い出した。彩花は植物の本を開くと、写真だけでなく、その横に書かれた説明まで丁寧に読んでいた。知らないことを見つけると少し目を輝かせ、その発見を嬉しそうに話してくれた姿が印象に残っている。
「そうだね。彩花さんなら、琴葉がどんなところを気に入って作ったのかも、きっと聞いてくれると思うよ」
「じゃあ、やっぱりちゃんと完成させたいな。でも、まだ色は決めないでおく」
琴葉は笑顔で立ち上がり、自室へ戻っていった。悠真はその背中を見送り、再びハクへ視線を戻した。
ハクはいつの間にか目を閉じており、穏やかな寝息を立て始めている。悠真は起こさないように手を離し、少し離れた椅子へ腰を下ろした。
窓の外には、以前から観察している木が見える。
枝の先には小さな芽がついているものの、まだ開いてはいない。植物の種類についても、今のところ確かなことは分かっていなかった。
悠真は窓越しに枝を眺め、彩花と交わしたメッセージを思い出した。彩花も通学路で蕾を観察しており、開花していない日にも、光の当たり方や風の様子を確かめているという。
(彩花さんは、同じ場所を毎日見ていても、ちゃんと違うところを探しているんだよね。俺も、分からないからってすぐに答えを決めるんじゃなくて、もう少し丁寧に見てみたいな)
悠真はそう考えながら、スマートフォンで時刻を確認した。まだ午前中で、午後には自分の部屋で本を読む時間も取れそうだった。
そのとき、廊下の向こうから母の麗華が声をかけてきた。
「悠真、ハクは寝ちゃったの?」
「うん。散歩のあと、ずっとここでくつろいでるよ。琴葉もさっきまで一緒だったんだけど、押し葉の台紙を考えに戻ったみたい」
麗華はハクの姿を見て、柔らかく微笑んだ。
「本当に気持ちよさそうね。琴葉も最近、あの作品のことを楽しそうに話しているわ。自分で考えて作るのが嬉しいのかもしれないわね」
「そうだね。まだ迷ってるところもあるみたいだけど、その時間も楽しんでるように見えるよ」
悠真が答えると、麗華は息子の表情をしばらく眺めた。
「悠真も最近、何かを楽しそうに考えていることが増えたわね。学校のことだけじゃなくて、家で本を読んでいるときも」
その言葉に、悠真は少し驚いた。
「そうかな?」
「ええ。もちろん前から本は好きだったけれど、最近は読んだことを誰かに話したくて仕方がない、という顔をしていることがあるわ」
麗華はからかうような言い方をせず、穏やかに微笑んだ。悠真は少し考えたあと、自分でも思い当たることがあると気づき、照れくさそうに笑った。
「……そうかもしれない。最近、話したいことが増えたんだ」
「それなら、素敵なことね。好きなものを一緒に楽しめる相手がいるのは、嬉しいものだから」
麗華はそれ以上詳しく尋ねず、ハクを起こさないように静かに廊下を離れていった。悠真は母の背中を見送り、窓の外へ視線を戻した。
彩花と話すようになってから、日常の出来事を誰かへ伝えたいと思うことが増えている。自分だけで楽しんでいた本や街並みの話も、彩花ならどんなふうに受け取るだろうと考えることがある。
それは、以前の自分にはあまりなかった変化だった。
悠真は椅子から立ち上がり、ハクの寝息を確かめてから自室へ向かった。
昼食を終えた彩花は、午後になってから青凪市中央図書館へ出かけるかどうか、少し迷っていた。借りている小説はまだ読み終えておらず、返却を急ぐ必要もない。今日は家で創作を進めるつもりだったため、外へ出るなら何を確かめたいのか、先に考えておきたかった。
机の上には、午前中に書いた文章が残っている。
祖母の使っていた園芸道具について、少女が尋ねたこと。そのとき祖母が何と答えたのかを考えるうちに、彩花は庭仕事の道具そのものについて、もう少し知りたいと思うようになっていた。
ただ、今すぐ図書館へ行かなければならないわけではない。以前借りた植物の本にも、道具の扱い方について書かれていた部分があったはずだった。
彩花は本棚からその本を取り出し、目次を開いた。
庭仕事に使う道具の手入れについて書かれたページには、使用後に土や水分を落とすこと、材質によって手入れの方法が異なることなどが説明されていた。彩花はその内容を読みながら、物語に登場する道具の描写を、もう一度見直した。
(道具の隙間に土が残ってること自体はありそうだけど、ずっとそのままにしていたら傷んじゃうかもしれないよね。おばあちゃんが丁寧に使っていたなら、そこも考えた方が自然かな)
彩花は創作ノートへ戻り、先ほど書いた文章を読み返した。道具の柄に残る傷は、長く使ってきたことを示すものとして残しておきたい。一方、土が残っている理由については、少女の記憶と結びつけながら、もう少し慎重に考える必要がありそうだった。
彩花は文章を消さず、余白へ「手入れの仕方を確認」と書き加えた。今の段階では、何が正しいか決めきれないからだ。
そのとき、廊下から控えめな足音が聞こえ、凛花が開いた扉の向こうから顔を覗かせた。
「お姉ちゃん、ちょっといい? さっきの植物のことで、もう一つ聞きたいことがあるんだけど」
「うん。どうしたの?」
凛花は部屋へ入り、机の上に広げられた本を見て目を丸くした。
「あ、植物の本だ。お姉ちゃんも調べてたの?」
「うん。ちょっと書いてるものに関係があって。凛花は何が気になったの?」
彩花が椅子を少し引くと、凛花は机の横へ立ち、手に持っていたノートを開いた。
「植物を選ぶとき、育てやすさを調べるのは大事だと思うんだけど、説明を読んでも、自分の部屋に合ってるか分からないことがあって。そういうときって、どうしたらいいのかな」
彩花は妹のノートへ目を向けた。候補ごとに気になる点が書かれていたが、どれもまだ決定したわけではなく、凛花が自分なりに調べた内容を整理している段階だった。
「実際に育ててる人の話を聞いてみるのもいいかもしれないね。でも、同じ植物でも部屋の環境が違うだろうし、まずは分かることと分からないことを分けてみたらどうかな」
「分かることと、分からないこと?」
「うん。例えば、置きたい場所の広さは測れるよね。でも、その場所で本当に元気に育つかは、まだ分からない。そういうふうに書いておけば、次に何を調べればいいか見えてくるかもしれないよ」
凛花はしばらくノートを眺め、納得したように頷いた。
「そっか。全部まとめて考えてたから、余計に迷ってたのかもしれない。ありがとう、お姉ちゃん」
彩花は微笑み、妹がノートを閉じるのを見守った。
「私も今、似たようなことで迷ってるんだ。書きたいことはあるんだけど、ちゃんと自然につながるか分からなくて」
「お姉ちゃんの小説?」
「うん。まだ途中だから、もう少し考えたいところがあるの」
凛花は星模様のノートへ目を向けたが、勝手に開こうとはしなかった。
「そっか。じゃあ、完成するの楽しみにしてるね。でも、無理しないでね」
「ありがとう。私も、ちゃんと完成させたいな」
彩花が答えると、凛花は嬉しそうに笑って部屋を出ていった。扉が静かに閉まると、彩花は机へ向き直り、妹と話した内容を思い返した。
自分が分かっていることと、まだ考える必要があることを分ける。
それは文芸部の部誌作業でも大切にしていることだったが、自分の創作にも役立つ考え方なのかもしれない。
彩花は創作ノートの余白へ、今の段階で確かめたいことを三つ書き出した。
少女が祖母の道具を覚えている理由。
祖母が道具を大切にしていた様子。
手紙の中で、その記憶をどのように伝えるか。
書き終えると、彩花は少しだけ肩の力を抜いた。すべてを今すぐ決める必要はないが、何を考えればいいのかは、以前よりはっきりしてきた気がする。
そのあと、彩花は借りている小説を手に取った。
幼なじみだった二人が、別々の事情で故郷へ戻ってくる物語だ。まだ二人は再会しておらず、一方が持っている手紙を誰が書いたのかも分からない。
彩花は窓際の椅子へ移動し、膝の上で本を開いた。午後の日差しは少し傾き始めており、ページの白い部分へ柔らかな光が落ちている。
読み進めるうちに、彩花は登場人物の一人が、昔よく通った道を歩く場面へたどり着いた。道そのものは以前と大きく変わっていないのに、そこを歩く本人の気持ちが変わったことで、見える景色も違って感じられる。
彩花はその描写を読み、少しだけページをめくる手を止めた。
(同じ場所でも、誰と歩いたかとか、そのとき何を考えてたかで、見え方が変わることってあるよね。私も、中央図書館へ行く道を、前とは少し違う気持ちで歩くようになった気がする)
悠真と出会う前から、図書館は彩花にとって大切な場所だった。静かな館内で本を選び、知らない物語に触れる時間が好きだったし、一人で過ごすことにも寂しさは感じていなかった。
けれど今は、同じ本棚を眺めていても、悠真ならどんな本を選ぶだろうと考えることがある。以前なら自分の中だけに残していた感想を、誰かに話したいと思うようになったことも、大きな変化だった。
彩花は小説へ視線を戻し、続きを読み進めた。
手紙の差出人はまだ明かされず、幼なじみ同士が再会する場面にも至らなかった。それでも、登場人物が少しずつ過去の記憶と向き合っていく様子には引き込まれるものがあり、彩花は時間を忘れてページをめくった。
気づけば、窓の外の光が少し橙色を帯びていた。
彩花は栞を挟み、本を閉じた。
まだ先が気になるところだったが、夕食までに少し休憩を取ろうと思った。読み終えた部分について、何が印象に残ったのかを葉模様の日記帳とは別の読書メモへ短く書き留めてから、階下へ向かった。
一方、九条家の自室では、悠真が古い街並みについての本を読んでいた。
机の上には、森川航平と調べている青凪市駅前の古写真に関するメモも置かれている。ただし、今日は調査の結論を出そうとしているわけではなく、以前から気になっていた街の変化について、落ち着いて本を読みたいと思っていた。
写真の撮影地点には二つの候補が残っている。
写真と地図の年代が違うこともあり、今のところ、どちらが正しいかを決めるだけの材料はない。写真の端に写っている小さなものについても、看板なのか設備なのか、まだ判断できなかった。
悠真は本の中に掲載された昔の街路の写真を眺めながら、建物だけでなく、人々がどのように道を使っていたのかにも目を向けた。店の前に置かれた荷物や、道の端に停められた自転車など、街の写真には建物以外にも、その時代の暮らしを感じさせるものが写っている。
(写真って、何かを調べるための資料でもあるけど、そこにいた人たちの生活も残してるんだよね。彩花さんと一緒に街並みの本を見たときも、そういうところが面白かったな)
悠真は本を閉じ、少し休憩することにした。
机の端には、彩花から受け取った淡い青色の花模様のカードが置かれている。そこには、彩花が自分の好きなものを大切にしてくれることへの感謝と、悠真と話す時間が好きだという言葉が書かれていた。
悠真はカードを手に取り、丁寧に書かれた文字へ目を向けた。
彩花は、まだ完成していない物語を書いている。
以前、本人から、大切な人へ手紙を書く少女の話だと聞いたことがあった。完成したら最初に見せてくれるという約束も覚えているが、物語の詳しい内容については、まだ知らない。
どんな少女なのか、誰へ手紙を書いているのか、どんな結末になるのか。
気になることはあるものの、悠真はそれを急いで聞き出したいとは思わなかった。彩花が大切に考えながら書いているものだからこそ、本人が納得して見せてくれる日を待ちたい。
(彩花さん、今日も書いてるのかな。それとも、本を読んでるのかもしれないね。どっちにしても、好きなことを楽しめる時間があるといいな)
悠真はカードを元の場所へ戻し、窓の外へ目を向けた。夕方の光が庭へ差し込み、木々の枝が長い影を落としている。
そのとき、廊下から軽い足音が聞こえた。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
琴葉が扉の向こうから顔を覗かせ、悠真が頷くと、両手で持っていた二枚の紙を見せた。
「台紙、まだ決めてないんだけど、色だけ比べてみたの。どっちがいいと思う?」
薄い緑色と生成り色の紙が、並べて差し出されている。悠真は椅子から立ち上がり、琴葉の手元へ視線を落とした。
「どっちもいい色だね。葉っぱを置いたときの見え方は、試してみた?」
「うん。でも、葉っぱによって似合う色が違う気がして、余計に迷っちゃった」
琴葉は少し困ったように笑った。悠真は紙を見比べ、すぐに一方を選ぶのではなく、妹へ尋ねた。
「琴葉は、完成したときにどんな感じにしたいの?」
「えっと……葉っぱの形がちゃんと分かるようにしたいかな。色も好きだけど、細いところとか、葉脈も見えたら嬉しい」
「それなら、葉っぱを置いて少し離れたところから見てみるのもいいかもしれないね。近くで見るのと、少し離れて見るのでは印象が違うこともあるから」
琴葉はその言葉を聞き、目を輝かせた。
「そっか。まだ近くでしか見てなかった。ありがとう、お兄ちゃん」
悠真は微笑み、妹が紙を大切そうに持ち直すのを見守った。
「でも、俺が決めるより、琴葉が気に入った方がいいと思うよ。琴葉の作品なんだから」
「うん。もう少し考えてみる。彩花さんにも、いつか見てもらいたいしね」
琴葉は嬉しそうに笑い、自室へ戻っていった。
悠真はその背中を見送りながら、彩花のことを思い浮かべた。
彩花も、きっと自分の物語について、同じように考えているのだろう。誰かに見せるためだけではなく、自分が大切にしたいものを形にするために、時間をかけている。
そう思うと、まだ読んだことのない物語への楽しみが、少しだけ大きくなった。
夕食後、水瀬家では凛花が今日調べた植物の話を家族へ聞かせていた。まだ種類を決めたわけではないが、置く場所の広さを測ったことで、以前より考えやすくなったという。
彩花は妹の話を聞きながら、自分も午後に少し創作を進めたことを思い出した。けれど、祖母の言葉をどう書くかはまだ決まっておらず、今夜は無理に続きを書くよりも、今日考えたことを整理するだけにしようと思った。
食後の片づけを手伝って自室へ戻ると、机の上には星模様のノートが置かれていた。彩花はその表紙を撫で、午前中に書いた段落を読み返した。
少女が祖母の使っていた道具を見つめ、昔のことを思い出す場面。
その中で少女が何を感じるのか、まだ十分には分かっていない。けれど、今まで曖昧だった記憶の一部が、少しだけ具体的になったことは確かだった。
彩花は余白に書いた三つの確認事項を見直し、今日はここまでにすると決めた。ペンを置いてノートを閉じると、肩に入っていた力が少し抜けた。
そのあと、葉模様の日記帳を開いた。
『土曜日。今日は家でゆっくり過ごした。凛花が植物の置き場所を考えていて、一緒に少し相談した。私も創作ノートを進めたけれど、まだ決められないところがある。急いで完成させるより、書きたいことをちゃんと考えたいと思った。午後は借りている小説を読んだ。登場人物が昔の道を歩く場面が印象に残った』
彩花はそこまで書くと、ペンを止めた。
今日の出来事を振り返るうちに、悠真へ話したいことがいくつも浮かんできた。けれど、創作ノートの詳しい内容は、まだ完成していないため伝えないつもりだった。
何を話して、何をまだ自分の中に残しておくか。
その境界を考えることも、誰かと親しくなるうえで大切なのかもしれない。
スマートフォンを手に取ると、ちょうど悠真からメッセージが届いた。
『彩花さん、こんばんは。今日はゆっくり過ごせた? 俺は家で本を読んだり、ハクと遊んだりしていたよ』
彩花は画面を見て、自然と笑顔になった。
『こんばんは、悠真君。うん、今日は家で過ごしてたよ。少し小説を書いたり、借りてる本を読んだりしてたの。悠真君はどんな本を読んでた?』
送信してから、彩花は机の上の創作ノートへ目を向けた。
まだ完成していないことを伝えるのは、少しだけ照れくさい。けれど、悠真は以前から、無理に急がなくてもいいと言ってくれていた。
ほどなくして返事が届いた。
『昔の街並みについての本を読んでたよ。建物だけじゃなくて、写真に写っている人たちの暮らしを想像するのも面白かった。彩花さんは創作、少し進んだんだね』
彩花はその文章を読み、嬉しくなった。
『うん。まだ完成してないけど、登場人物のことを少し考えられた気がするの。書きたいことが増えると、どうつなげたらいいか迷うこともあるんだけどね』
返信を送ると、悠真から少し長めの文章が届いた。
『そうなんだね。彩花さんが大切に考えて書いていることが伝わってくるよ。俺も写真を調べていると、分かることが増えた分だけ、新しく気になることが出てくることがあるから、少し似ているのかもしれないね』
彩花はその言葉を読み、思わず微笑んだ。
悠真は自分の創作を、ただ完成を待つものとして見ているわけではない。途中で迷ったり、考え直したりする時間も含めて、大切に受け止めてくれているように感じられた。
(悠真君は、私がまだ上手に説明できないことも、急がず聞いてくれるんだよね。だから、途中のことでも話してみようって思えるのかな)
彩花は少し考えてから、返信を打った。
『ありがとう。悠真君にそう言ってもらえると、もう少し頑張ってみようって思えるよ。完成したら最初に読んでもらう約束、ちゃんと覚えてるからね』
送信したあと、彩花は頬が温かくなるのを感じた。
約束を改めて言葉にするのは、少し緊張する。けれど、忘れていないことを伝えたかった。
悠真からの返事は、ほどなく届いた。
『もちろん、俺も覚えてるよ。楽しみにしてる。でも、急がなくていいからね。彩花さんが納得できる形になったときに読ませてもらえたら嬉しい』
彩花はその文章を何度も読み返した。
急がなくていい。
納得できる形になったときでいい。
その言葉が、今の自分にはとても嬉しかった。
『うん。ありがとう。私も、ちゃんと大切に書きたいな』
返信を送ると、彩花はスマートフォンを机へ置き、少しだけ深く息を吐いた。
窓の外には夜の住宅街が広がり、遠くの家の明かりが静かに灯っている。暖房の穏やかな音が聞こえる部屋で、彩花は星模様のノートへ目を向けた。
まだ渡せない物語がある。
けれど、それを待ってくれている人がいる。
そのことが、彩花には嬉しかった。
九条家の自室では、悠真が彩花からのメッセージを読み返していた。
完成したら最初に読んでもらう約束を覚えている。
その言葉を見たとき、悠真は思わず頬を緩めた。
彩花がどんな物語を書いているのか、詳しいことはまだ知らない。大切な人へ手紙を書く少女の話だということだけを聞いているが、それ以上の内容を想像だけで決めつけるつもりもなかった。
ただ、彩花がその物語を大切にしていることは、これまでの会話から十分に伝わってきた。
(完成したら、どんなふうに読もうかな。きっと、彩花さんが考えたことがたくさん詰まってるんだろうね。まずは最後まで丁寧に読んで、それから感じたことをちゃんと伝えたいな)
悠真はそう考えながら、机の上に置いた本へ視線を移した。
今日読んだ街並みの本には、昔の写真が何枚も掲載されていた。建物の形や道の広さだけでなく、そこに暮らしていた人々の気配が感じられるところが面白かった。
彩花が物語を書くときにも、きっと同じように、登場人物の暮らしや気持ちを想像しているのだろう。
悠真はそのことを思い、もう一度スマートフォンを手に取った。
『そういえば彩花さん、今日は借りている小説も読んだって言ってたよね。どんなところが面白かった? 内容を話せる範囲で聞いてみたいな』
送信してから、悠真は少しだけ画面を眺めた。
以前なら、読んだ本の感想を誰かへ尋ねることはあっても、相手がどんなところに心を動かされたのかまで、これほど気になることは少なかった。
彩花が何を面白いと感じるのか。
どんな文章に立ち止まり、どんな登場人物を好きになるのか。
そうしたことを知るたびに、彩花という人のことを、少しずつ理解できる気がしていた。
彩花から返事が届いた。
『今日はね、登場人物が昔よく通った道を歩く場面が印象に残ったの。同じ場所でも、昔と今では見え方が違うっていうところが好きだったな。まだ読み終わってないから、これからどうなるのか楽しみ』
悠真はその文章を読み、少し考えた。
同じ場所でも、時間や気持ちによって見え方が変わる。
それは、今日自分が読んでいた街並みの本にも通じるものがあった。
『それ、面白そうだね。俺も昔の街の写真を見ていて、同じ道でも時代によって印象が違うんだなって考えてたところなんだ。彩花さんが読んでいる小説とは少し違うかもしれないけど、似たことを考えてたんだね』
返信を送ると、彩花からすぐに返事が届いた。
『本当だね。別々の本を読んでたのに、少し似たことを考えてたなんて、なんだか嬉しいな』
悠真はその言葉を読み、静かに微笑んだ。
同じ場所にいなくても、同じ時間に過ごしていなくても、互いの一日を話すことで見つかる共通点がある。
そのことが、今夜はいつも以上に嬉しかった。
悠真は少し考えてから、もう一つメッセージを送った。
『俺も嬉しいよ。今度また本の話をするとき、彩花さんが好きだった場面を聞かせてほしいな。俺も、今日読んだ本で気になったところを話したい』
彩花からは、少し間を置いて返事が届いた。
『うん、ぜひ。私も悠真君がどんなところを面白いと思ったのか、もっと聞いてみたいな』
その文章を読んだ悠真は、自然と笑顔になった。
次に会う日時を決めたわけではない。けれど、また話したいことが一つ増えた。
それだけで、これからの時間が少し楽しみになる。
悠真はスマートフォンを置き、机の上の淡い青色の花模様のカードへ目を向けた。彩花から受け取った大切な言葉は、今も変わらずそこにある。
以前は、カードを眺めるたびに、彩花が自分へ向けてくれた気持ちを思い出していた。
今はそれに加えて、自分も彩花へ伝えたいことが増えている。
今日読んだ本のこと。
ハクが日なたで眠っていたこと。
琴葉が押し葉の台紙を選ぶために、何度も色を見比べていたこと。
そして、彩花が大切にしているものを、これからも一緒に大切にしたいと思っていること。
悠真はカードを元の場所へ戻し、明日の予定を確かめた。
日曜日には、特別な外出の約束は入っていない。家で過ごす時間を取りながら、読みかけの本を進めたり、ハクと散歩したりすることもできそうだった。
彩花も、明日は自分の時間を過ごすのだろう。
そう思うと、何をしているのか気になりはしたが、すべてを知ろうとは思わなかった。
それぞれに大切な時間があり、その中で見つけたものを、あとから話し合える。
今の二人には、その距離が心地よかった。
彩花は悠真とのやり取りを終えたあと、葉模様の日記帳へ戻っていた。
今日の最後に書き加えたいことがあったからだ。
『夜、悠真君と本の話をした。私は借りている小説の中で、昔と今では同じ道の見え方が違うという場面が好きだった。悠真君も、昔の街並みの本を読んで似たことを考えていたらしい。別々の場所で違う本を読んでいたのに、少し似たことを感じていたのが嬉しかった』
彩花はそこまで書き、少しだけペンを止めた。
それから、もう一行を書き加えた。
『創作ノートはまだ完成していないけれど、悠真君は急がなくていいと言ってくれた。ちゃんと自分が納得できるものを書いて、最初に読んでもらいたい』
書き終えると、彩花は日記帳を閉じた。
机の上には、星模様の創作ノートが静かに置かれている。
その中には、祖母へ手紙を書こうとしている少女の物語が、まだ途中のまま残っていた。少女が何を思い出し、どんな言葉を選ぶのか、彩花自身にも決めきれていない部分がある。
けれど、今日一日で、少しだけ分かったことがあった。
誰かへ何かを伝えようとするとき、言葉を急いで選ぶ必要はない。
自分が何を大切に思っているのか、どんな記憶を残したいのかを、丁寧に考えてもいい。
そして、完成を待ってくれる人がいることは、書くことへの焦りではなく、楽しみになるのだと。
彩花は椅子から立ち上がり、窓のカーテンを閉めた。夜の住宅街には静かな明かりが点在し、遠くから車の走る音がかすかに聞こえている。
明日は日曜日だ。
学校へ行く必要はなく、文芸部の確認作業もない。冬の部誌『いつか、ここに』は、先生の最終承認を待ったままで、印刷へ進む日程もまだ決まっていなかった。
通学路の蕾も、まだ開いていない。
借りている小説の幼なじみたちも、まだ再会していない。
けれど、彩花はそのどれも、急いで結末を知りたいとは思わなかった。
続きを楽しみにできること。
まだ知らないことがあること。
そして、いつか誰かとその先を話せること。
それらが今の自分にとって、以前よりずっと大切になっていると感じていた。
(悠真君に、まだ話してないことがたくさんあるんだよね。私の好きな本のことも、書いてる物語のことも、きっと少しずつ知ってもらえたらいいな)
彩花はそう考えながら、部屋の明かりを落とした。
九条家でも、悠真が読書灯を消し、静かな夜の中で眠りにつこうとしていた。
二人は今日も、同じ場所で過ごしたわけではない。
それぞれの家で家族と話し、好きなことに時間を使い、自分の知らなかったものを少しずつ見つけていた。
けれど夜になれば、その一日の中で見つけたものを、互いへ伝えたいと思う。
彩花の書きかけの物語は、まだ悠真の手元には届いていない。
それでも、いつか読んでもらいたいという気持ちは、今日も静かに育っていた。
土曜日の夜は、穏やかに更けていく。
それぞれの大切な時間を過ごしながら、二人はまた少しだけ、相手の好きなものを知ることができた。
そして、その小さな積み重ねが、次に言葉を交わす時間を、今までよりも楽しみなものにしていた。




