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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第150話 金曜日の図書室と、まだ渡せない物語の続き



 金曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、部屋の窓には薄い冬の日差しが差し込んでいた。カーテンの隙間から伸びる光は机の端まで届き、そこに置かれた星模様の創作ノートの表紙を淡く照らしている。昨夜、書きかけの物語を読み返したまま閉じたそのノートには、まだ誰にも見せていない少女の気持ちが、少しずつ言葉になって残されていた。


 彩花は布団の中で身体を伸ばし、枕元の時計を確かめた。起きるまでにはまだ数分の余裕があったが、もう一度眠る気にはならず、静かに上半身を起こした。


 今日は金曜日だった。


 月曜日から続いていた学校生活も、今日を終えれば週末になる。文芸部の冬の部誌『いつか、ここに』は先生の最終確認を待っているところで、印刷へ進めるかどうかはまだ分からない。一方、自分の創作ノートに書いている少女の物語も、少しずつ形になってきたものの、完成にはもう少し時間が必要だった。


(どっちも、あと少しで何かが見えてきそうな気がするんだけど……焦って進めても、きっと違うんだよね)


 彩花は机の上のノートへ目を向けながら、昨日の帰り道で見た蕾を思い出した。毎日同じ場所で観察している小さな蕾は、まだ一度も花を開いていない。それでも、朝と夕方の光の違いや、風に揺れる枝の様子を見ているうちに、花が咲く瞬間だけを待つのではなく、その途中にある時間も楽しめるようになっていた。


 その変化には、悠真と一緒に中央図書館で植物の本を読んだことも関係している。


 土曜日、二人で同じページを覗き込み、知らなかったことを一つずつ見つけた時間。あのとき悠真が、分からないことを無理に決めず、確かめながら考えていた姿が、今でも彩花の心に残っている。


(悠真君、今日はどんな一日になるのかな。昨日も生徒会のお仕事があったみたいだし、金曜日だから忙しいかもしれないね)


 そう考えたところで、彩花は自分が自然に微笑んでいることに気づいた。


 悠真の一日を想像することが、いつの間にか当たり前になっている。


 以前なら、同じ学校に通っていない相手の日常を、ここまで気にかけることはなかっただろう。けれど今は、悠真がどんな本を読んだのか、ハクとどんな時間を過ごしたのか、学校で何を考えていたのかを知ることが、純粋に楽しみだった。


 彩花は布団から出て、制服へ着替え始めた。


     ◇


 一階へ下りると、台所から温かい味噌汁の香りが漂ってきた。母の紗月が朝食を用意しており、父の耕助は食卓で新聞を読んでいる。姉の凛花は窓際に立ち、外の空を確かめていた。


「おはよう、お父さん、お母さん、お姉ちゃん」


「おはよう、彩花。今日は少し早いのね」


 紗月が振り返ると、彩花は微笑みながら頷いた。


「うん。目が覚めちゃったから、そのまま起きてきたの」


「そう。朝は冷えるから、温かいうちに食べてね」


 彩花は席へ着き、湯気の立つ味噌汁を口に運んだ。身体の内側へゆっくりと温かさが広がり、窓の外の冷たそうな景色が少し遠く感じられる。


 凛花は席へ着くと、昨日から考えていた植物の話を始めた。


「彩花、昨日話した植物のことなんだけど、やっぱりもう少し種類を調べてから決めようと思うんだ。置く場所も、育て方が分かってから考えた方がよさそうだし」


「うん。それがいいと思う。お姉ちゃん、ちゃんと育てたいって考えてるんだもんね」


 彩花がそう答えると、凛花は少し照れたように笑った。


「せっかく迎えるなら、大切にしたいからね。でも、調べれば調べるほど迷っちゃうんだよ」


「分かる気がする。私も本を選ぶとき、気になるものが増えて、なかなか決められなくなることがあるから」


 二人が笑い合うと、耕助も穏やかに微笑んだ。


「迷っている時間も、悪いものじゃないと思うよ。何を大切にしたいのか、考える機会になるからな」


 彩花は父の言葉を聞き、静かに頷いた。


 自分の創作ノートも、まさにそうなのかもしれない。


 物語を早く完成させたい気持ちはある。悠真に最初に読んでもらうと約束しているから、なおさらだった。


 けれど、完成を急ぐあまり、少女の気持ちを雑に書いてしまいたくはない。


「お父さん、何かを作るときも、迷ってる時間って大切なのかな」


 彩花が尋ねると、耕助は少し考えてから答えた。


「そうだな。何を作るかにもよるけど、迷うのは、それだけ大切に考えているからかもしれない。ただ、迷うだけで終わらないように、少しずつ形にしていくことも必要なんだろうね」


 彩花はその言葉を胸の中で繰り返した。


 迷うことと、立ち止まることは同じではない。


 考えながら少しずつ進めていけばいい。


「うん。ありがとう。私も、もう少し考えながら書いてみる」


 紗月は娘の表情を見て、優しく微笑んだ。


「彩花が大切に書いているものなら、きっとその気持ちは文章にも表れると思うわ」


 彩花は少し照れながら頷き、朝食を食べ進めた。


     ◇


 通学路へ出ると、冬の空気は冷たかったものの、昨日より風は穏やかだった。住宅街の屋根には朝日が差し込み、道沿いの植え込みには小さな影が落ちている。彩花はコートの襟元を整え、鞄を持ち直しながら歩いた。


 いつもの蕾が見える場所へ近づくと、自然に足が緩んだ。


 蕾は、今日もまだ開いていなかった。


 彩花は歩道の端へ寄り、通行の邪魔にならない位置から枝を見上げた。昨日より少し明るい光が当たっているものの、形そのものに大きな変化は見られない。


 それでも、彩花は以前ほど残念には思わなかった。


(今日もまだ咲いてないね。でも、こうして見に来るのが楽しみになってるんだな)


 鞄からメモ帳を取り出し、今日の日付を書き込む。


 金曜日。


 蕾は未開花。


 朝日が当たり、表面が明るく見える。


 大きな形の変化は確認できない。


 書き終えると、彩花はメモ帳を閉じた。


 そのとき、ふと昨日の夜に悠真と交わした言葉を思い出した。


 互いの一日を話し、安心できる時間を大切にしたいと伝え合ったこと。


 それは特別な約束ではないけれど、彩花にとっては心に残る出来事だった。


(悠真君にも、今日の蕾のことを話そうかな。毎日同じように見えても、ちゃんと見てると違うところがあるって、また一緒に話せたら嬉しいな)


 彩花は小さく微笑み、学校へ向かって歩き出した。


     ◇


 青葉高校の教室では、朝のホームルームが始まる前から生徒たちの話し声が広がっていた。金曜日ということもあり、週末の予定について話している生徒もいる。


 彩花が席へ着くと、近くの女子生徒が声をかけてきた。


「水瀬さん、おはよう。今日って放課後、文芸部あるんだよね?」


「おはよう。うん。今日は確認作業がある予定だよ」


「そっか。部誌の準備、まだ続いてるんだね」


 彩花は頷いた。


「うん。先生の最終確認がまだだから、印刷には進めないんだけど、今できることを整理してるところなの」


 女子生徒は少し考え、穏やかに笑った。


「大変そうだけど、ちゃんと完成したら嬉しいだろうね」


「うん。私も楽しみにしてる。みんなで作ってるものだから、最後まで丁寧に進めたいな」


 彩花がそう答えると、女子生徒は頷いた。


「水瀬さんらしいね。そういうところ、すごく真面目だと思う」


 彩花は少し照れながら笑った。


「そんなことないよ。でも、大切なものだから、ちゃんとしたいなって思うんだ」


 女子生徒はその言葉を聞き、微笑んだ。


「うん。そういう気持ち、いいと思うよ」


 彩花は小さく頷き、教科書を取り出した。


 誰かと一緒に作るものを大切にしたい。


 その気持ちは、文芸部の活動を通して少しずつ強くなっている。


 そして、自分一人で書いている物語についても、同じように大切にしたいと思っていた。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真が午前中の授業を終え、昼休みに入っていた。窓の外には冬の青空が広がり、校庭の木々が穏やかな風に揺れている。


 悠真が昼食の準備をしていると、森川航平が近くの席へやってきた。


「悠真、今日の放課後って生徒会あるのか?」


「うん。少し確認作業がある予定だよ。どうしたの?」


「いや、駅前写真の資料、昨日の続きで少し見直してみたんだけど、まだ決め手がないんだよな」


 航平はそう言いながら、鞄からノートを取り出した。


「撮影地点の候補は二つのまま。写真の端に写ってるものも、まだ何なのか分からないし」


 悠真は頷き、ノートへ目を向けた。


「そうだね。写真と地図の年代が違うこともあるから、今の情報だけで決めるのは難しいと思う」


 航平は少し困ったように笑った。


「分かってるんだけどさ、こういうのって、つい答えを出したくなるんだよな」


「うん。俺もそう思うことはあるよ。でも、今は分からないところを整理できているだけでも、前より進んでいるんじゃないかな」


 悠真がそう答えると、航平は少し考え、頷いた。


「そっか。確かに、最初より何を調べればいいかは分かってきたもんな」


「うん。次に資料を見るときも、確認できることから進めていこう」


 航平は笑い、ノートを閉じた。


「了解。じゃあ、また時間があるときに頼むわ」


 悠真は微笑んだ。


 調査はまだ途中だ。


 けれど、急いで結論を出す必要はない。


 そのことを、航平と一緒に確認できたのが嬉しかった。


     ◇


 午後の授業が終わると、彩花は文芸部の部室へ向かった。廊下には放課後の生徒たちの声が広がり、窓の外では運動部の生徒たちが練習を始めている。


 部室へ入ると、佐々木先輩が机の上に資料を広げていた。


「水瀬さん、お疲れさま。今日もよろしくね」


「お疲れさまです。よろしくお願いします」


 彩花は挨拶をして席へ着いた。


 冬の部誌『いつか、ここに』については、先生からの最終承認がまだ届いていない。そのため、今日も印刷へ進むことはできず、部員たちは確認表の整理や記録の見直しを進めることになっていた。


 佐々木先輩は部員たちが集まると、今日の作業について説明した。


「今日は、これまでの確認表をもう一度見直して、記録の抜けがないかを確かめます。先生からの最終承認が出るまでは、原稿の内容を勝手に変更しないようにしてください」


 部員たちは頷き、それぞれ資料を手に取った。


 彩花も担当している確認表を開き、変更箇所と確認日が正しく記録されているかを見直し始めた。


 しばらく作業を続けていると、近くに座っていた後輩が声をかけてきた。


「水瀬先輩、少し相談してもいいですか?」


「うん。どうしたの?」


 後輩は手元の資料を示しながら、少し困ったように眉を寄せた。


「この確認表なんですけど、昨日までに整理したところは大丈夫だと思うんです。でも、別の人が見たときに、ちゃんと分かるかどうか自信がなくて……」


 彩花は資料へ目を向けた。


 記録は丁寧に整理されており、変更箇所や理由も分かりやすく書かれている。


 けれど、後輩が不安に思っていることも理解できた。


「そうだね。自分では分かってるつもりでも、ほかの人が見たときにどう感じるかは、少し違うこともあるよね」


 彩花はそう言いながら、資料をゆっくり読み返した。


「でも、今の書き方なら、どこを確認したのかは伝わると思うよ。もし心配なら、佐々木先輩にも見てもらって、分かりにくいところがないか聞いてみようか」


 後輩は少し安心したように頷いた。


「ありがとうございます。自分だけで考えてると、どこが分かりにくいのか分からなくなっちゃって」


「うん。私もそういうことあるよ。だから、誰かに見てもらうのって大切なんだと思う」


 彩花がそう答えると、後輩は小さく笑った。


「水瀬先輩でも、そういうことあるんですね」


 その言葉に、彩花は少し驚いた。


「もちろんあるよ。私も、まだ分からないことはたくさんあるから」


 後輩は少し考え、穏やかに微笑んだ。


「なんだか、安心しました」


 彩花はその表情を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分が完璧ではないことを伝えることで、相手が安心することもある。


 それは、今まであまり意識していなかったことだった。


     ◇


 同じ頃、桜華学園高等部では、悠真が生徒会の確認作業を終え、資料を片づけていた。


 今日は特別に大きな議題があるわけではなく、各担当から提出された連絡事項を整理し、必要な確認を進める時間が中心だった。


 悠真が資料をまとめていると、近くで作業していた生徒が声をかけてきた。


「九条君、ちょっといいかな。さっきの連絡事項なんだけど、担当の先生への確認がまだ終わってないところがあるんだ」


 悠真は資料へ目を向け、該当する欄を確かめた。


「うん。そこは確認待ちとして残しておこう。まだ返事が来ていないなら、決定事項として扱わない方がいいと思う」


「分かった。じゃあ、確認が終わるまではそのままにしておくね」


 生徒は頷き、資料を受け取った。


 悠真はその様子を見ながら、少し考えた。


 何かを進めるときには、分かっていることと、まだ確認が必要なことを分けておく。


 それは、駅前写真の調査でも、生徒会の仕事でも同じだった。


 そして、彩花が文芸部で取り組んでいる部誌の確認作業にも、似たところがあるのかもしれない。


 悠真はそのことを思いながら、残りの資料を整理していった。


     ◇


 文芸部の活動が終わる頃、佐々木先輩は部員たちへ声をかけた。


「今日はここまでにしましょう。確認表の整理は進んだけど、先生からの最終承認はまだです。印刷についても、承認が出てから改めて確認します」


 部員たちは頷き、資料を片づけ始めた。


 彩花も自分の担当分を所定の場所へ戻し、鞄を手に取った。


 そのとき、佐々木先輩が近づいてきた。


「水瀬さん、今日も後輩の相談に乗ってくれてありがとう。あの子、少し安心したみたいだったね」


 彩花は少し照れながら頷いた。


「はい。私も、分からないことがあるって話したら、安心してくれたみたいで……。ちょっと意外でした」


 佐々木先輩は穏やかに微笑んだ。


「そういうこともあるよ。先輩だからって、何でも完璧にできる必要はないからね。分からないことを一緒に考えられるのも、大切な力だと思う」


 彩花はその言葉を聞き、静かに頷いた。


 自分が思っている自分と、周囲から見た自分は、少し違うのかもしれない。


 朝、クラスメイトから落ち着いていると言われたことも、今の佐々木先輩の言葉も、彩花にとっては新しい発見だった。


「ありがとうございます。私も、そういう先輩になれたら嬉しいです」


 佐々木先輩は微笑んだ。


「もう少しずつ、そうなってると思うよ」


 彩花はその言葉に少し驚き、頬を赤くしながら頭を下げた。


 部室を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。窓の外では風が強くなっており、校庭の木々が大きく揺れている。


 彩花はコートの襟元を整え、校舎の出口へ向かった。


     ◇


 帰り道、彩花は朝に見た蕾のことを思い出していた。


 風は朝より少し強くなっており、住宅街の角を曲がるたびに冷たい空気が頬へ触れる。


 彩花はマフラーを整えながら歩き、いつもの蕾が見える場所へ近づいた。


 蕾は、今日もまだ開いていなかった。


 けれど、風に揺れる枝の先で、小さな蕾がしっかりとついているのが見える。


 彩花は歩道の端から静かに眺め、少しだけ微笑んだ。


(今日もまだ咲いてないけど、こうして毎日見てると、少しずつ親しみが湧いてくるんだね)


 彩花はメモ帳を取り出し、今日の記録へ短い言葉を書き加えた。


 夕方は風が少し強い。


 蕾は未開花。


 形の大きな変化は確認できない。


 書き終えると、彩花はメモ帳を閉じた。


 そのとき、ふと悠真へ今日のことを話したくなった。


 学校でクラスメイトから言われたこと。


 文芸部で後輩が安心してくれたこと。


 そして、自分が思っている自分と、周囲から見た自分が少し違うのかもしれないと感じたこと。


 彩花はその気持ちを胸に、家へ向かって歩き出した。


     ◇


 夕方、水瀬家へ帰宅した彩花は、母の紗月へ挨拶をしてから自室へ向かった。


 制服を着替え、机の上へ鞄を置くと、まず今日の出来事を手帳へ書き留めた。


 朝、クラスメイトから言われた言葉。


 文芸部で後輩が安心してくれたこと。


 佐々木先輩から、完璧でなくても一緒に考えられることが大切だと言われたこと。


 彩花は一つずつ丁寧に記録した。


 そのあと、星模様の創作ノートを開いた。


 祖母へ手紙を書こうとしている少女の物語は、まだ完成していない。


 けれど、今日の出来事を通して、少女の気持ちについて新しく考えられることがあるように感じた。


(少女も、自分では気づいてないことがあるのかな。おばあちゃんと過ごしていた頃には当たり前だったことが、今になって大切だったって分かることもあるのかもしれない)


 彩花はペンを取り、ノートの余白へ短い文章を書き加えた。


 祖母と庭で過ごしていた時間。


 祖母が何気なく教えてくれたこと。


 そのときには特別だと思わなかった言葉が、今になって少女の中で意味を持ち始める。


 彩花はその流れを考えながら、文章を少し整えていった。


 まだ完成ではない。


 けれど、今日も物語の中に小さな変化が生まれた。


     ◇


 夜、彩花は夕食と入浴を終え、自室で葉模様の日記帳を開いていた。


 今日の出来事を書こうとすると、思い出したいことがいくつも浮かんでくる。


 クラスメイトから言われた言葉。


 後輩が安心してくれた表情。


 佐々木先輩の穏やかな声。


 そして、帰り道で見た風に揺れる蕾。


 彩花は一つずつ丁寧に書き留めた。


『金曜日。今日は、周りの人から見た自分について考えることがあった。クラスメイトから落ち着いていると言われて少し驚いたし、文芸部では後輩が安心してくれた。自分ではまだ分からないことが多いと思っているけど、それでも誰かの役に立てることがあるのかもしれない』


 そこまで書くと、彩花は少しだけペンを止めた。


 今日のことを、悠真にも話したい。


 そう思ったところで、スマートフォンが小さく震えた。


 画面には、悠真からのメッセージが表示されていた。


『彩花さん、こんばんは。今日は学校、どうだった? 俺は生徒会の確認作業をしてから帰ってきたよ』


 彩花は自然と笑顔になった。


『こんばんは、悠真君。今日はね、ちょっと不思議なことがあったの。クラスメイトから落ち着いてるって言われたり、文芸部の後輩が私と話して安心したって言ってくれたりしたんだ』


 送信すると、ほどなくして返事が届いた。


『それは素敵なことだね。彩花さんが丁寧に話を聞いていることが、周りの人にも伝わっているんだと思うよ』


 彩花はその言葉を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 悠真はいつも、自分が気づいていないところを見つけてくれる。


 そのことが嬉しかった。


『ありがとう。でも、自分ではそんなに落ち着いてるつもりがなかったから、ちょっと驚いちゃった』


『そうなんだね。でも、彩花さんは相手の話をちゃんと聞いてから考えることが多いから、周りの人には落ち着いて見えるのかもしれないね』


 彩花はその文章を読み、少し考えた。


 確かに、自分はすぐに答えを出すよりも、一度考えてから話すことが多い。


 それは、緊張しているからでもあるし、間違えたことを伝えたくないからでもある。


 けれど、周りの人には、それが落ち着いているように見えることもあるのかもしれない。


『そういう見方もあるんだね。悠真君に言われると、少し分かる気がする』


『うん。俺も、彩花さんと話していると安心することが多いよ』


 その言葉を読んだ瞬間、彩花は思わずスマートフォンを見つめた。


 悠真も、自分と話していると安心する。


 そのことを、今まで直接聞いたことがあっただろうか。


 彩花は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、ゆっくりと返信を打った。


『……ありがとう、悠真君。私も、悠真君と話してると安心するよ』


 送信したあと、彩花は少しだけ頬を赤くした。


 自分の気持ちを言葉にするのは、今でも少し照れくさい。


 けれど、伝えなければ分からないこともある。


 今日、周囲の人から自分について教えてもらったように、悠真にも自分の気持ちを少しずつ伝えていきたいと思った。


     ◇


 九条家の自室で、悠真は彩花から届いたメッセージを読み、静かに微笑んでいた。


 彩花も、自分と話していると安心すると言ってくれた。


 その言葉が、胸の奥へ温かく広がっていく。


 悠真は以前から、彩花と話していると自然に肩の力が抜けることがあった。学校では生徒会の仕事を任されることも多く、周囲から落ち着いていると言われることもある。けれど、彩花と話す時間には、何かを完璧にこなそうと意識する必要がないように感じられた。


 自分が好きな本のことを話しても、ハクと過ごした時間を話しても、彩花は丁寧に聞いてくれる。


 そして、分からないことがあれば、無理に知っているふりをせず、一緒に考えてくれる。


 その姿勢が、悠真には心地よかった。


(彩花さんと話していると、俺も自然に自分のことを話せるんだよね。きっと、それが安心するってことなのかな)


 悠真はそう考えながら、スマートフォンを手に取った。


『彩花さん、ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ。俺も、彩花さんと話す時間を大切に思っているからね』


 送信すると、少し間を置いて返事が届いた。


『うん。私も大切にしたいな』


 悠真はその文章を読み、穏やかに微笑んだ。


 大きな約束を交わしたわけではない。


 けれど、互いの気持ちを少しずつ言葉にできることが、今の二人には大切だった。


     ◇


 彩花は悠真とのやり取りを終えたあと、葉模様の日記帳へ視線を戻した。


 今日の最後に、もう一つ書きたいことがあった。


『夜、悠真君と話して、私も悠真君に安心してもらえていることを知った。嬉しかった。自分では気づかないところを、周りの人が見つけてくれることもあるんだと思った』


 彩花はその文章を読み返し、静かに微笑んだ。


 今日も、特別に大きな出来事があったわけではない。


 けれど、自分について新しく知ることができた。


 そして、悠真が自分と話す時間をどう感じているのかも、少し知ることができた。


 彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。


 星模様の創作ノートは、まだ完成していない。


 文芸部の冬の部誌も、先生からの最終承認を待っている。


 借りている小説の幼なじみたちも、まだ再会していない。


 通学路の蕾も、まだ開いていない。


 けれど、どれも少しずつ進んでいる。


 彩花はそのことを思いながら、部屋の明かりを落とした。


     ◇


 同じ頃、悠真も自室で明日の予定を確認していた。


 土曜日には学校の授業がなく、家で過ごす時間も取れそうだった。


 航平と進めている駅前写真の調査についても、今後少しずつ資料を確認していくつもりだった。


 ただし、撮影地点の候補はまだ二つのままで、確かな結論は出ていない。


 悠真は手帳を閉じ、机の上に置いた淡い青色の花模様のカードへ目を向けた。


 彩花から贈られたそのカードには、今も大切な言葉が残っている。


『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』


『悠真君と話す時間が、私は好きです。』


 悠真はその言葉を思い出し、静かに微笑んだ。


 今日も、彩花と話す時間があった。


 学校での出来事を伝え合い、互いが相手と話す時間をどう感じているのかを、少しだけ知ることができた。


 その時間が、悠真には嬉しかった。


(彩花さんも、俺と話してると安心するって言ってくれたんだね。これからも、そう思ってもらえるように、自然に話していけたらいいな)


 悠真はカードを元の場所へ戻し、部屋の明かりを消した。


 金曜日の夜は、穏やかに更けていく。


 彩花と悠真は、それぞれの家で今日の出来事を振り返りながら、静かに眠りについた。


 別々の学校で過ごす毎日にも、二人をつなぐ小さな出来事が増えている。


 そして今日もまた、言葉にして初めて届く気持ちが、一つ増えていた。


 その積み重ねが、二人にとって大切な時間になっていた。

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